(Translated by https://www.hiragana.jp/)
楊顒 - Wikipedia コンテンツにスキップ

楊顒

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

楊 顒(よう ぎょう、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごくこうかん末期まっきからさんこく時代じだい人物じんぶつあきら荊州じょうぐんひと宗族そうぞくには楊慮・楊儀がいる。しょかずらあきらきたとき、その幕僚ばくりょうとして従軍じゅうぐんし、しょかずらあきらたか評価ひょうかされた。『三国志さんごくし』に注釈ちゅうしゃくとしてけられた習鑿の『じょう』に事跡じせき記録きろくされている。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

楊顒はかんすいはた、蔡洲の西にしにある洄湖の南岸なんがん居住きょじゅうしていた[1]

りゅうが荊州南部なんぶせいあつするとこれにつかえ、にゅうしょくしたがってともえぐん太守たいしゅ任命にんめいされた。しょかずらあきら丞相じょうしょうとなるとそのおも簿となった。

このさいしょかずらあきらみずか帳簿ちょうぼ確認かくにんおこなっているのて、そのはたらきすぎを治国ちこくのあるべき姿すがたであるれいせい一家いっかのありかたたとえ、前漢ぜんかん宰相さいしょうであるへいきち陳平ちんぺい故事こじいていさめた。

行政ぎょうせいには役割やくわりというものがあり、上下じょうげたがいに侵犯しんぱんしあってはならないのです。どうかあかりこう(との)のために、一家いっか仕組しくみをたとえに説明せつめいさせてください。いまあるひと奴隷どれい耕作こうさくおこなわせ、婢に炊事すいじをまかなわせ、にわとりときげさせるやくを、いぬ盗人ぬすっとかってえるやくを、うしおも荷物にもつ背負せおやくを、うま遠方えんぽうようつとめさせますならば、各人かくじん仕事しごとには空白くうはくがなく、必要ひつようなことはすべて充足じゅうそくし、悠然ゆうぜんまくらたかくしていしていればむのです。ところが、ある突然とつぜん自分じぶん自身じしんでそれらの仕事しごとなにもかもやってのけ、二度にど人任ひとまかせにしないで、自分じぶん体力たいりょくいたわし、この煩雑はんざつつとめをおこなおうとするならば、肉体にくたい疲労ひろう精神せいしん困憊こんぱいして、結局けっきょくなにひとつ仕上しあげられないでしょう。いったいその智恵ちえ奴婢ぬひにわとりけんおとっているからでしょうか。一家いっか主人しゅじんとしてのみちはんしているからです。そのためにむかしひとは、『すわったまま政治せいじ方針ほうしんかんがえるもの、それをさんおおやけといい、ってこれを実行じっこううつもの、それを大夫たいふという』とべているのです。だから、邴吉は、みち死人しにんよこたわっているのをても無視むしし、うししたしてあえいでいるのをると、心配しんぱいしたのですし、陳平ちんぺい金銭きんせん穀物こくもつ数量すうりょうをあえてろうとせず、それぞれの担当たんとうしゃがいるとべたのです。かれらはまことに職務しょくむ分担ぶんたんをわきまえておりました。いまあかりこう(との)には政治せいじおこなうにあなり、おのずから出納すいとう簿をお調しらべになって、いちにちちゅうあせながしておいでになられます。あまりにも労働ろうどう過重かじゅうではないでしょうか。」

しょかずらあきらかれ忠告ちゅうこく陳謝ちんしゃした。

のちひがし曹属となって官吏かんり推挙すいきょ担当たんとうした。楊顒がくなると、しょかずらあきらはそのいたさん日間にちかんにわたってなみだながした。しょかずらあきらとめちょうちょう蔣琬手紙てがみおくったさいに、どう時期じきくなった西にし曹令頼広よりひろとともに、その朝廷ちょうてい重大じゅうだい損失そんしつであるときしている[2]

三国志さんごくし演義えんぎ』における楊顒

[編集へんしゅう]

三国志さんごくし演義えんぎ』にいちだけ登場とうじょうし、史実しじつ同様どうようしょかずらあきらはたらきすぎをいさめている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ みずけいちゅうまきじゅうはち・沔水ちゅうしゅう大岸おおきし西にしゆう洄湖、とまみずすうじゅううねちょうすうこうげんひゃく水色みずいろ常緑じょうりょく。楊儀きょじょう洄、楊顒きょ洄、あずか蔡洲相対そうたいざい峴山みなみこうあきらさと
  2. ^ 三国志さんごくししょくしょ楊戯でん