滋野しげのこう寿ことぶき

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滋野しげの こう寿ことぶき
滋野しげのこう寿ことぶき
時代じだい 江戸えど時代じだい末期まっき - 明治めいじ時代じだい
生誕せいたん 1843ねん7がつ1にち天保てんぽう14ねん6月4にち
死没しぼつ 1906ねん明治めいじ39ねん9月21にち[1]
官位かんい したがえさん侍従じじゅう伯爵はくしゃく
主君しゅくん 孝明天皇こうめいてんのう明治天皇めいじてんのう
氏族しぞく 滋野しげの
父母ちちはは ちち滋野しげの実在じつざい
はは鷲尾わしお理子さとこ鷲尾わしおたかしじゅんむすめ
兄弟きょうだい おおやけ寿ことぶきざい文子ふみこゆうつなじつまき
岩子いわこ武子たけし養子ようしじつうらら
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滋野しげの こう寿ことぶき(しげのい きんひさ)は、日本にっぽん公家くげ内政ないせい官僚かんりょう華族かぞく甲府こうふけん知事ちじ伯爵はくしゃく

経歴けいれき[編集へんしゅう]

近衛このえけん中将ちゅうじょう滋野しげの実在じつざい長男ちょうなんとしてまれた。安政あんせい3ねん2がつ1856ねん)に元服げんぷく侍従じじゅうとなる[2]

文久ぶんきゅう3ねん6がつ1863ねん西にし四辻よつつじおおやけぎょう後醍醐ごだいご天皇陵てんのうりょう攘夷じょうい祈願きがんおこなひかえとなる。慶応けいおう3ねん4がつ1867ねん英国えいこく公使こうしいちぎょう伏見ふしみ通過つうかについて、ちち実在じつざい鷲尾わしおたかしら20すうめい朝廷ちょうてい警護けいご対策たいさくるようつよ進言しんげんひかえとなる[2][3]慶応けいおう4ねん1がつ1868ねん綾小路あやのこうじしゅんともあかほうたい盟主めいしゅ擁立ようりつされたが、活動かつどうちゅうきむこく強要きょうようなどをとがめられ召喚しょうかんれいされ帰京ききょうした[3]

王政おうせい復古ふっこ明治めいじ元年がんねん4がつ1868ねん)、佐渡さど裁判所さいばんしょ総督そうとく就任しゅうにん[2]佐渡さど鎮撫ちんぶ使て、同年どうねん10月甲斐かい知事ちじとなる。明治めいじ2ねん7がつ1869ねん)、甲斐かい甲府こうふけん改称かいしょうされ甲府こうふけん知事ちじけん甲府こうふじょうまもりとなる。明治めいじ3ねん1870ねん9月水害すいがいによる凶作きょうさく独断どくだんによる救恤きゅうじゅつ処置しょち問題もんだいとされて謹慎きんしんとなり、翌月よくげつ知事ちじ辞職じしょく[2][3]

そのかつらみや祗候しこうなどをつとめた[2]ちち死去しきょにより1878ねん4がつ30にち滋野しげの当主とうしゅ継承けいしょう[1]1884ねん7がつ7にち伯爵はくしゃく叙爵じょしゃく[4]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

親族しんぞく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい上巻じょうかん、705ぺーじ
  2. ^ a b c d e 明治維新めいじいしん人名じんめい辞典じてん』476ぺーじ
  3. ^ a b c 幕末ばくまつ維新いしん大人おとなめい事典じてん上巻じょうかん、623-624ぺーじ
  4. ^ a b 官報かんぽうだい307ごう明治めいじ17ねん7がつ8にち
  5. ^ 官報かんぽうだい1351ごう叙任じょにん及辞れい」1887ねん12月28にち

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
伯爵はくしゃく
滋野しげの初代しょだい
1884ねん - 1906ねん
次代じだい
滋野しげのじつうらら