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漫才まんざい

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漫才まんざいから転送てんそう
リーガルせんふとし万吉まんきち

漫才まんざい(まんざい)とは、こっけいないや、いいできゃくわらわせる寄席よせ演芸えんげい一種いっしゅ

平安へいあん時代じだい成立せいりつした伝統でんとう芸能げいのう萬歳ばんざい」が、江戸えど時代じだいから昭和しょうわ時代じだいにかけて、大阪おおさか京都きょうと中心ちゅうしんとする上方かみがた畿内きない)の寄席よせにおいて、独自どくじ発展はってんしたもの。現在げんざい寄席よせだけでなくテレビやラジオなどおおくの媒体ばいたい人気にんきはく[1]バラエティ番組ばんぐみのいわゆる「ネタ番組ばんぐみ」において、コントならんでポピュラーな演芸えんげい一種いっしゅである。

上方かみがた漫才まんざいとく上方かみがた漫才まんざい(かみがたまんざい)という。

漫才まんざいおこなもの一般いっぱんてきに「漫才まんざい」とばれるが、所得しょとく税法ぜいほう施行しこうれいだい320じょうだい5こう[ちゅう 1]では「漫才まんざい」の表記ひょうき使つかわれている[2]

基本きほん形式けいしき構成こうせい

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漫才まんざい基本きほんてきに、演者えんじゃが「演者えんじゃ自身じしん」として発話はつわし、その会話かいわながれによって観客かんきゃくわらわせる演芸えんげいである。二人ふたりいちくみえんじられることがおおいが、3人組にんぐみや4人組にんぐみれいもある。人数にんずう上限じょうげんについて、漫才まんざい作家さっか相羽あいば秋夫あきおは「ろくにんぐらいが妥当だとうではないでしょうか[3]」としている。

シンプルな会話かいわたい基本きほんとすることから、演者えんじゃ個性こせいわせ、音曲おんぎょくおどり、物真似ものまねなど、ネタちゅうに「なにをやってもゆるされる[3]自由じゆう演芸えんげい形式けいしきとなっている。日常にちじょう生活せいかつ流行りゅうこう文化ぶんか政治せいじ経済けいざいなど幅広はばひろ題材だいざいあつかうことが可能かのうで、時流じりゅうわせてネタをこまかく、またおおきく変化へんかさせることができる。

漫才まんざい明確めいかく定義ていぎさだめることができない。よって、「こうでなければ漫才まんざいとして成立せいりつしない」という制約せいやくい。漫才まんざい研究けんきゅうしゃかみ保喜ほき利彦としひこは、「漫才まんざいはなんでもあり」だったからこそ、ここまでの地位ちいのぼめることができたとべている[4]

ボケとツッコミ

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漫才まんざい基本きほんてきに「ボケ」と「ツッコミ」という2つの役割やくわりっている。それぞれ古典こてんまんさいの「才蔵さいぞう」と「太夫たゆう」に由来ゆらいする[5]

「ボケ」は、冗談じょうだんう、話題わだいなかあきらかな間違まちがいや勘違かんちがいなどをむ、わらいをさそ所作しょさおこなう、などの言動げんどうによって、観客かんきゃくわらいをさそうことが期待きたいされる役割やくわりである。ボケは、もともととぼけやく呼称こしょうされていた。げいせきにおいて紹介しょうかいのつど「つっこみ(やく)・とぼけ(やく)」としょうされていたことが、のちに「つっこみ・とぼけ」→「つっこみと、ぼけ」のようにてんじた。[よう出典しゅってん]

「ツッコミ」は、ボケの間違まちがいを要所ようしょ指摘してきし、観客かんきゃくわらいどころを提示ていじする役割やくわりである。明治めいじ大正たいしょう一時期いちじきには「シン」と呼称こしょうした[6]。ツッコミは、口頭こうとう指摘してきするほかに、ボケのからだのどこかを、平手ひらてこう小道具こどうぐなどでたたく(ドツキ)、またはあしることでそれにえる場合ばあいがある。秋田あきたみのる論文ろんぶん[よう出典しゅってん]によれば、玉子たまごえんたつが『曽我そが物語ものがたり』をうたったさいの、代役だいやく太鼓たいこたたきとのやりりがツッコミのはじまりという。

ボケ・ツッコミの役割やくわり分担ぶんたんかならずしも固定こていてきではなく、ながれによってボケとツッコミが自然しぜんわる展開てんかいもちいるコンビもある[5]たとえば、ボケやく冗談じょうだんたいし、ツッコミやくがツッコまずに「ノる」、つまりボケに一時いちじてき同調どうちょうし、ある程度ていどノッたのちにツッコミをれてオチをけるげいノリツッコミ)などである。このため、ボケとツッコミは「役柄やくがら」というよりは、やりりのさまを概念がいねんしたものとかんがえるのが妥当だとうである。

トリオ漫才まんざい役割やくわり固定こていされた場合ばあい)においては、ボケ2にん・ツッコミ1にん比率ひりつ主流しゅりゅうである。ネタの役割やくわり分担ぶんたんによって、フリ(後述こうじゅつ)にあたるちいさいボケを「しょうボケ」、オチにいたおおきいボケをするものを「だいボケ」、と区別くべつすることもある。

上記じょうき役割やくわりねて、「すじフリ[7]」または「フリ」という、ネタの構成こうせい進行しんこう展開てんかい転換てんかんする役割やくわりを、メンバーのいずれかがになわなければならない。『大辞泉だいじせん』の「ツッコミ」のこうは「漫才まんざいで、ぼけにたいして、おもはなしすじすすめるやく」としており、ツッコミがフリをになう、と定義ていぎしているが、ボケがフリを担当たんとうするコンビもすくなくない。

ボケ・ツッコミが固定こていしたコンビを仮定かていした場合ばあい、ツッコミが進行しんこうするコンビ、ボケが進行しんこうするコンビ、ボケ・ツッコミ双方そうほう進行しんこうするコンビの3しゅかんがえうる。

漫才まんざいのスタイル

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前田まえだいさむ自著じちょにおいて、漫才まんざいを、以下いかの4るい10しゅ分類ぶんるいした[8]漫才まんざいげいおよびネタは、これら10しゅ要素ようそを、どれかひとつとくさせているか、またはわせている。

しゃべくり漫才まんざい・コント漫才まんざい

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現代げんだい漫才まんざいおおきくふたつにけた場合ばあい、「しゃべくり漫才まんざい」と「コント漫才まんざい」にかれる。

しゃべくり漫才まんざいとは、日常にちじょう雑談ざつだん時事じじ題材だいざいいのみでわらわせる漫才まんざいす。創始そうししゃは、横山よこやまエンタツ花菱はなびしアチャコ。1980年代ねんだい漫才まんざいブーム以降いこう上述じょうじゅつ音曲おんぎょく漫才まんざい歌謡かよう漫才まんざい急速きゅうそくすたれ、しゃべくり漫才まんざい漫才まんざい王道おうどう正統せいとうとされるようになった。しゃべくり漫才まんざい定義ていぎについて、ナイツはなわ宣之のぶゆきは「キッチリ定義ていぎすることはむずかしいが、あえてうならば、しゃべくり漫才まんざいとは日常にちじょう会話かいわだとおもいます」とかたっている[19]

コント漫才まんざいとは、「おまえコンビニの店員てんいんやって、おれきゃくやるから」とコントはいっていくパターンの漫才まんざいす。衣装いしょう小道具こどうぐ効果こうかおん使つかわずに、たて位置いちもそのままで設定せっていしたやくになりきるというてんでコントとはことなる。設定せっていってコントにえることを、符牒ふちょうでコントインとぶ。センターマイクからはなれることもおおいため、しゃべくり漫才まんざいくらべて邪道じゃどうとされることもある[ちゅう 2]

近年きんねんでは「おれコンビニ店員てんいんするから、おまえはそこでてて」というように、ボケが独自どくじ世界せかいかん没入ぼつにゅうし、ツッコミはその邪魔じゃまにならないようにそとから指摘してきするコント漫才まんざいえている。

歴史れきし

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萬歳ばんざいからまんさい

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正月しょうがつ祝賀しゅくがかい萬歳ばんざい披露ひろうする2人組にんぐみえがいた19世紀せいき日本にっぽん作者さくしゃ不明ふめい)。

平安へいあん時代じだい以来いらい祭礼さいれいにおける派遣はけんしゅく芸能げいのう)や家々いえいえまわ門付かどづけ芸能げいのうであった萬歳ばんざいは、18世紀せいき前半ぜんはん上方かみがた小屋掛こやがけのげいとしてえんじられるようになり[20]、18世紀せいきまつ天明てんめい)には生國しょうごくたましい神社じんじゃ八坂神社やさかじんじゃ常設じょうせつ小屋こや開設かいせつされるにいたった。この小屋こやげいとしての萬歳ばんざい宮中きゅうちゅうにおける奉納ほうのうなどのための形式けいしき御殿ごてんまんさい宮中きゅうちゅうまんさい)とはことなり、2人組にんぐみによる滑稽こっけい会話かいわによる笑芸しょうげいで、大阪おおさかにわか前座ぜんざにおける軽口かるくち(かるくち。い、はなしとも)とかさなりがあった[21]

この萬歳ばんざい小屋こやは、その軽口かるくちや、落語らくご台頭たいとうのためにすたれた[20]が、幕末ばくまつになり、萬歳ばんざいあらたな寄席よせげいとしていきかえす。これは尾張おわり萬歳ばんざい三河みかわ萬歳ばんざい影響えいきょう直接的ちょくせつてきけた「さんきょくまんさい(さんぎょくまんざい)」とばれる形式けいしきで、胡弓こきゅう三味線しゃみせんという3しゅ楽器がっきった多数たすう萬歳ばんざいが、小咄こばなしい、言葉ことばあそかぞうたなどの合間あいまに、音曲おんぎょくでにぎやかにはやしてるものである。ひとつのながれをった会話かいわげきというよりは、現代げんだいにおける大喜だいぎたものであった[22]。このさんきょくまんさいはほとんどかならず「アイナラエ」といういのれる『奥田おくだたかし』の演奏えんそう歌唱かしょうめくくられる[22]ため、この時期じき形式けいしき自体じたいを「アイナラエ」と呼称こしょうする場合ばあいがある。また、御殿ごてんまんさいなどがかたひざおこなわれたのにたいし、さんきょくまんさいった状態じょうたいえんじられたので「まんさい」ともばれた。この形式けいしき人気にんきった人物じんぶつ初代しょだいおよび2代目だいめあらしろくがいる[23]

なお明治めいじ初期しょき成立せいりつした、浪曲ろうきょく曲師きょくし2人ふたり1くみによる演芸えんげい形式けいしきである浪曲ろうきょくも、萬歳ばんざい軽口かるくち相互そうご影響えいきょうった。このように「2人組にんぐみ以上いじょう基本きほんとした滑稽こっけい音曲おんぎょくとしゃべくり」による演芸えんげい形式けいしき上方かみがた定着ていちゃくしていく。

明治めいじ末期まっき河内かわうち音頭おんどしゅう音頭おんどなどの音頭取おんどと芸人げいにんであった玉子たまごえんたつが、これまでの興行こうぎょうまんさいよりも音楽おんがくせいつよい、歌舞かぶ音曲おんぎょく合間あいま滑稽こっけいなしゃべくりをはさむ、という形式けいしき人気にんきをとり、萬歳ばんざいとの差別さべつ強調きょうちょうするため看板かんばんなどに「まんさい(まんざい)」の表記ひょうきもちいた[24]えんたつ人気にんきけ、音頭取おんどとりやにわか芸人げいにんおおまんさいてんじたほか、「おんな道楽どうらく」などの音曲おんぎょくがこれまでのげいえずに「万才ばんざい」を標榜ひょうぼうした[25]ことで、万才ばんざいつスタイルに多様たようせいまれた。この時期じき形式けいしき昭和しょうわ中期ちゅうきまでつたえたコンビに砂川すなかわ捨丸・中村なかむら春代はるよがいる。なお、この時期じきふくめ、ながらく上方かみがた寄席よせ演芸えんげい落語らくご中心ちゅうしんであり、万才ばんざいおおくははしせきばれる廉価れんか寄席よせにしか出演しゅつえん機会きかいがなく、またそのような寄席よせでも、音頭おんど浪曲ろうきょく義太夫ぎだゆうなどの主要しゅようプログラムにたいし、ものてき立場たちばかれていた。

東京とうきょうでは、上方かみがた出身しゅっしん日本にっぽんチャップリン・うめ廼家ウグイスが1917ねん大正たいしょう6ねん)にはじめて万才ばんざいえんじた同年どうねんに、東京とうきょう出身しゅっしん玉子たまごまどか太郎たろうたまやつ(のちの荒川あらかわ清丸きよまるたまやつ)がデビューしている。なお、こうばんひょうやプログラムでは「万才ばんざい」ではなく「い」と表記ひょうきされていたという[26]

「しゃべくり漫才まんざい」の誕生たんじょう

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ひだり花菱はなびしアチャコみぎ横山よこやまエンタツ
本来ほんらい位置いちとはぎゃくである。

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、吉本よしもと興行こうぎょう吉本興業よしもとこうぎょう前身ぜんしん所属しょぞくのコンビ「横山よこやまエンタツ花菱はなびしアチャコ」が、従来じゅうらい和装わそうであった萬歳ばんざい万才ばんざいことなり、背広せびろけ、ながらく萬歳ばんざい万才ばんざい音曲おんぎょくの「つなぎ」あつかいであったしゃべくりだけで高座こうざをつとめる、画期的かっきてきな「しゃべくり漫才まんざい」スタイルを創始そうしし、絶大ぜつだい人気にんきはくした[27]。しゃべくり漫才まんざいはこれまでの萬歳ばんざい万才ばんざいよりもおおわらいを企図きとしたことが特徴とくちょうで、エンタツ・アチャコ以降いこうかれらに追随ついずいするおおくのコンビが結成けっせいされたほか、ラジオ放送ほうそうのコンテンツとして全国ぜんこくてき認知にんちて、おおくのスター漫才まんざいまれた。発表はっぴょう増加ぞうかひろがりにわせ、秋田あきたみのるなど、専業せんぎょう漫才まんざい作家さっか活動かつどう開始かいしするようになった。やがて漫才まんざいおもに「しゃべくり漫才まんざい」をかたりとなり、これまでの漫才まんざい少数しょうすうとなり、「音曲おんぎょく漫才まんざい」というレトロニムした。

どう時期じき東京とうきょうでは、柳家やなぎやかねろうがエンタツ・アチャコに触発しょくはつされて、弟子でし柳家やなぎや梧楼ごろう柳家やなぎやみどりろう高座こうざいをえんじさせた。両者りょうしゃはのちにリーガルせんふとし万吉まんきち名乗なのり、1935ねん昭和しょうわ10ねん)にはやく80くみのコンビとともに「帝都ていと漫才まんざい組合くみあい」を設立せつりつした。その並木なみき一路かずみち内海うつみ突破とっぱ夢路ゆめじいとし・あじこいし台頭たいとうがあった。

だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ漫才まんざい何人なんにんかが戦死せんし病死びょうし消息しょうそく不明ふめい見舞みまわれたり、劇場げきじょうやプロダクションの運営うんえい停止ていししたりする(れいとして、吉本よしもと映画えいがかん運営うんえい会社かいしゃ一時いちじ転身てんしんした)など、演芸えんげいのための人的じんてき物的ぶってきリソースが不足ふそくするなかまつづるだんすけによる自主じしゅマネージメント会社かいしゃだんじょ芸能げいのうしゃ」のげや、秋田あきたみのるによる若手わかて研究けんきゅうかい「MZけんすすむかい発足ほっそくなど、漫才まんざい復興ふっこうけたうごきがなされた。やがて演芸えんげいプロダクションや劇場げきじょう運営うんえい会社かいしゃ次々つぎつぎ再興さいこうし、おおくの芸人げいにんがいずれかに所属しょぞくするようになる。

漫才まんざいブーム

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民間みんかん放送ほうそう開始かいしテレビ放送ほうそう隆盛りゅうせいにともない、上方かみがた東京とうきょう双方そうほうおおくの漫才まんざいテレビ番組ばんぐみつうじてげい披露ひろうし、人気にんきスターとなった[28]。また、1966ねん昭和しょうわ41ねん)の「上方かみがた漫才まんざい大賞たいしょう」を皮切かわきりに、放送ほうそうきょく主催しゅさいによる漫才まんざいコンクールの創設そうせつ相次あいついだ。1980ねん昭和しょうわ55ねん)に相次あいついで開始かいしされた、東西とうざい若手わかて漫才まんざい紹介しょうかいする全国ぜんこくネットのテレビ番組ばんぐみ激突げきとつ!漫才まんざい新幹線しんかんせん』(関西かんさいテレビ製作せいさくフジテレビ系列けいれつ)および『THE MANZAI』(フジテレビ系列けいれつ)が当時とうじ若者わかもの中心ちゅうしん話題わだいび、「漫才まんざいブーム」とばれる社会しゃかい現象げんしょうとなった。それぞれの番組ばんぐみ出演しゅつえんした漫才まんざいたちは人気にんきタレントとなり、司会しかいしゃ歌手かしゅ俳優はいゆうなどとしてもだい一線いっせん活動かつどうした。

M-1グランプリ

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2001ねん平成へいせい13ねん)、島田しまだ紳助しんすけもと島田しまだ紳助しんすけ松本まつもと竜介りゅうすけ)の発案はつあんにより、漫才まんざいコンテスト『M-1グランプリ』が創設そうせつされ、初代しょだいチャンピオンには中川なかがわ選出せんしゅつされた。賞金しょうきん1000まんえん決勝けっしょう全国ぜんこくネットのゴールデンタイムで放送ほうそうされるなど、前例ぜんれいのないだい規模きぼなコンテストであり、2021ねん大会たいかい優勝ゆうしょうした錦鯉にしきごい翌年よくねん1000まんえん以上いじょう月収げっしゅうるまでになる[29]ひとし影響えいきょうりょくおおきい。寄席よせでやる漫才まんざい時間じかんが10ふんから15ふん程度ていどであるが、M-1グランプリ決勝けっしょうせんのネタ時間じかんは4ふん程度ていどさだめられている。この「4ふん」というのは、漫才まんざいをする時間じかんとして特殊とくしゅであり[30]ナイツはなわ宣之のぶゆきは、M-1の漫才まんざい寄席よせ漫才まんざいは、100mはし10000mはしくらいのがあるとして[31]、「M-1グランプリは漫才まんざい日本一にっぽんいちめるとうたいつつ、でも実際じっさい漫才まんざいという競技きょうぎなかの100mはし日本一にっぽんいちめる大会たいかいなのです」とかたっている[32]

2020ねんれい2ねん)、西川にしかわきよしもと横山よこやまやすし・西川にしかわきよし)が漫才まんざいはつ文化ぶんか功労こうろうしゃ選出せんしゅつされた[33]

呼称こしょう表記ひょうき変化へんかについて

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前述ぜんじゅつのとおり、現代げんだい呼称こしょうである「漫才まんざい」にいたるまでは、「萬歳ばんざい」「万才ばんざい」の表記ひょうき基本きほんてき昭和しょうわ初期しょきまでもちいられた。1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ吉本興業よしもとこうぎょう新設しんせつされた宣伝せんでん発行はっこうした『吉本よしもと演藝えんげい通信つうしん』のなかで、萬歳ばんざい万才ばんざい宣伝せんでん媒体ばいたい劇場げきじょう看板かんばんとうにおける表記ひょうきを「漫才まんざい」と改称かいしょうすることが宣言せんげんされ、これまでの萬歳ばんざい万才ばんざいとのちがいを強調きょうちょうした。なお、1932ねん昭和しょうわ7ねん)3がつ時点じてんですでに、吉本よしもと興行こうぎょうが「吉本興業よしもとこうぎょう合名ごうめい会社かいしゃ」に改組かいそされたさい社内しゃない資料しりょうに、「漫才まんざい」の表記ひょうき営業えいぎょう品目ひんもくとして使つかわれている[34]

この表記ひょうき変更へんこういた経緯けいいや、考案こうあんしゃについては諸説しょせつがある。

  • 吉本興業よしもとこうぎょうは、エンタツ・アチャコによる「あたらしいまんさい」のかた一般いっぱん公募こうぼした(エンタツ・アチャコ自身じしん結成けっせい当初とうしょ二人ふたり漫談まんだん」としょうしていた[35])。「滑稽こっけいコント」「ユーモアまんさい」「モダンまんさい」「ニコニコ問答もんどう」などのあんあつまったが、文芸ぶんげい部長ぶちょう(のちの社長しゃちょう)で、宣伝せんでん部門ぶもん統括とうかつしゃ橋本はしもと鐵彦てつひこがどれにも納得なっとくできず、みずから、漢字かんじ表記ひょうきだけをえた「漫才まんざい」という呼称こしょう考案こうあんしたという[36]。なお、橋本はしもと吉本よしもと入社にゅうしゃ吉本興業よしもとこうぎょうへの改組かいそであり、上記じょうき資料しりょう矛盾むじゅんしょうじる。
  • 漫才まんざい」の名付なづおや橋本はしもとではなく、当時とうじ同社どうしゃそう支配人しはいにんだったはやし正之助しょうのすけであるとするせつもある。正之助しょうのすけ橋本はしもと吉本よしもとったのち、「わしが考案こうあんした」「わしが橋本はしもと提案ていあんした」と発言はつげんしている[34]
    • なお、はやし没後ぼつご澤田さわだ隆治りゅうじ橋本はしもとに「漫才まんざい」の名付なづおやはやしであるかどうかたずねたところ、橋本はしもとは「あのほうがそういわれるのだったら、そうでしょう」と回答かいとうしたことから、澤田さわだは「歴史れきし権力けんりょくしゃのものなのだということをらされたおもいがした」「はやし正之助しょうのすけさんぐらいおもいっきり長生ながいきすると、まわりに反論はんろんするひとだれもいないから、なんでも自分じぶんがやったことになる」とべ、疑義ぎぎしめしている[37]ながらく吉本よしもとしん喜劇きげき文芸ぶんげいでエンタツ・アチャコとせっしてきた竹本たけもと浩三こうぞう正之助しょうのすけせつ否定ひていしている[34]
  • 小島こじま貞二ていじ橋本はしもとせつをとりつつ、「漫才まんざい」の表記ひょうきひろまり、定着ていちゃくしたきっかけを、1934ねん昭和しょうわ9ねん4がつ25にちから3日間にちかん東京とうきょう新橋しんばし演舞えんぶじょう開催かいさいされた「特選とくせん漫才まんざい大会たいかい」の宣伝せんでんぶつ紹介しょうかい記事きじとしている。当時とうじ東京とうきょう吉本よしもと責任せきにんしゃだったはやしひろしだか小島こじまかたったところによると、ひろだか演芸えんげい愛好あいこうである作家さっか長谷川はせがわしん相談そうだんをあおぎ、どう興行こうぎょう開催かいさいをきっかけに表記ひょうき本格ほんかくてき統一とういつめたとしている[35]

当初とうしょ、「漫才まんざい」の表記ひょうきには花月かげつていきゅうさとまるなど芸人げいにんあいだ批判ひはんがあった[36]

類似るいじげい

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漫才まんざいブーム」の当事とうじしゃであった「ツービート」のビートたけしは、しゃべくり漫才まんざい直接的ちょくせつてきなルーツはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく話芸わげいダブルアクト英語えいごばんにあるとしている。

アメリカのほか、ドイツ韓国かんこく中国ちゅうごくなどの国々くにぐににもたような2人組にんぐみ話芸わげいがあって、日本にっぽん漫才まんざいのようにボケ、ツッコミがられる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ これは、所得しょとく税法ぜいほうだい204じょうだい1こうだい5ごう規定きていする報酬ほうしゅうについて源泉げんせん徴収ちょうしゅう必要ひつようとする芸能人げいのうじんさだめる規定きていである。「映画えいがしくは演劇えんげき俳優はいゆう映画えいが監督かんとくしくは舞台ぶたい監督かんとく(プロジューサーをふくむ。)、演出えんしゅつ放送ほうそう演技えんぎしゃ音楽おんがく指揮しきしゃ楽士がくし舞踊ぶよう講談こうだん落語らくご浪曲ろうきょく漫談まんだん漫才まんざい腹話術ふくわじゅつ歌手かしゅ奇術きじゅつ曲芸きょくげいまたものまね」というようになっている。
  2. ^ 漫才まんざいコンテスト番組ばんぐみ「M-1グランプリ2020」で優勝ゆうしょうしたマヂカルラブリーのネタにたいして、SNSなどで「あれは漫才まんざいなのか」と論争ろんそうとなり、松本まつもと人志ひとしなどのおわら芸人げいにんもこれに言及げんきゅうした(詳細しょうさいM-1グランプリ2020#マヂカルラブリーのネタにたいする議論ぎろん参照さんしょう)。

出典しゅってん

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  1. ^ 漫才まんざいとは”. コトバンク. 2020ねん12月21にち閲覧えつらん
  2. ^ 法令ほうれいしゅう散策さんさく - 参議院さんぎいん法制ほうせいきょく
  3. ^ a b 相羽あいば秋夫あきお上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』(弘文こうぶん出版しゅっぱん、1995ねん)p.10「漫才まんざいとはどんなげいでしょう」
  4. ^ M-1をて「これは漫才まんざいじゃない」というひとたちがらない漫才まんざい100ねん歴史れきし本格ほんかく漫才まんざい」とは一体いったいなにか”. 週刊文春しゅうかんぶんしゅん 電子でんしばん (2020ねん12月30にち). 2022ねん5がつ11にち閲覧えつらん
  5. ^ a b 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.12「ボケとツッコミのやくっています」
  6. ^ 前田まえだいさむ上方かみがたまんざいはちひゃくねん』(杉本すぎもと書店しょてん、1975ねん)p.162
  7. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.13「すじふりとはどんなやくでしょう」
  8. ^ 上方かみがたまんざいはちひゃくねん』pp.198-203「漫才まんざい種類しゅるいとその本質ほんしつ
  9. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.38「俗曲ぞっきょく漫才まんざい
  10. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.39「かたりもの漫才まんざい
  11. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.40「歌謡かよう漫才まんざい
  12. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.41「曲弾きょくび漫才まんざい
  13. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.42「おど漫才まんざい
  14. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.43「寸劇すんげき漫才まんざい
  15. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.44「身振みぶ漫才まんざい
  16. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.45「仮装かそう漫才まんざい
  17. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.46「漫才まんざい
  18. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』p.47「ぼやき漫才まんざい
  19. ^ はなわ宣之のぶゆき『いいわけ 関東かんとう芸人げいにんはなぜM-1でてないのか』 p,22
  20. ^ a b 上方かみがたまんざいはちひゃくねん』pp.111-117「常打じょううまんさい興行こうぎょうさる」
  21. ^ 小島こじま貞二ていじ漫才まんざい世相せそう 改訂かいてい新版しんぱん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1978ねん pp.50-53「ここらで編笠あみがさまわそうか」
  22. ^ a b 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』pp.20-21「御殿ごてん漫才まんざいさんきょくまんさい
  23. ^ 漫才まんざい歴史れきし演芸えんげいへと移行いこうする万歳ばんざい 文化ぶんかデジタルライブラリー
  24. ^ 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』pp.22-23「万才ばんざい時代じだい
  25. ^ 上方かみがたまんざいはちひゃくねん』p.167
  26. ^ 漫才まんざい世相せそう 改訂かいてい新版しんぱん』pp.130-133「震災しんさい以前いぜん万才ばんざい
  27. ^ a b 上方かみがた漫才まんざい入門にゅうもん』pp.24-25「漫才まんざい時代じだい
  28. ^ 漫才まんざい歴史れきし:テレビとともに時流じりゅう 文化ぶんかデジタルライブラリー
  29. ^ M1王者おうじゃ錦鯉にしきごい月収げっしゅう告白こくはく 長谷川はせがわ「1200まん渡辺わたなべ「1000まん」マヂカル野田のだ年収ねんしゅう8000まん”. デイリースポーツonline (2022ねん10がつ8にち). 2023ねん3がつ1にち閲覧えつらん
  30. ^ ノンスタ石田いしだかた漫才まんざい競技きょうぎ(1)「M-1の影響えいきょうでネタづくりがわった」
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  32. ^ 『いいわけ 関東かんとう芸人げいにんはなぜM-1でてないのか』p.113
  33. ^ れい2年度ねんど 文化ぶんか功労こうろうしゃ 文部もんぶ科学かがくしょう
  34. ^ a b c 澤田さわだ隆治りゅうじ上方かみがた芸能げいのうわらいの放送ほうそう』(日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい1994ねん平成へいせい6ねん))pp.30-33
  35. ^ a b c 漫才まんざい世相せそう 改訂かいてい新版しんぱん』pp.112-114「『漫才まんざい』に統一とういつ
  36. ^ a b 『わらわしたい記録きろく』(早坂はやさかたかししる中公ちゅうこう文庫ぶんこ2010ねん平成へいせい22ねん))pp.90 - 91
  37. ^ 澤田さわだ隆治りゅうじ決定けっていばん上方かみがた芸能げいのう列伝れつでん』(筑摩書房ちくましょぼう、2007ねん)p.235

関連かんれん項目こうもく

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