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(でん きつ、? - 紀元前きげんぜん485ねん[1])は、中国ちゅうごく春秋しゅんじゅう時代じだいひとし政治せいじせいひねのちいみなおくりなちち田無たなし宇(ちん)。けいこう孺子じゅし悼公の3だいつかえる。釐子あるいはちん釐子ともばれる。

生涯しょうがい

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人心じんしん掌握しょうあく

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乞は元々もともと嫡系とは無縁むえん立場たちばにあったが、嫡兄のひらく武子たけこ)が嗣子ししぼっしたことから、その[2]当主とうしゅとなった乞は、領民りょうみんほどこさいには大型おおがたますもちい、課税かぜいするとき小型こがたますてて領民りょうみん負担ふたん軽減けいげんすることで、領民りょうみんばかりかひとし国民こくみん全体ぜんたい信頼しんらいあつめていった。この様子ようすたい晏嬰は、ひとしはいずれちると警戒けいかいした。

司馬しばみのる失脚しっきゃく

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ちん須無ちん宇のだいから急激きゅうげき勢力せいりょく拡大かくだいし、傍系ぼうけいみのる司馬しばとしておくむまでになったが、勢力せいりょく拡大かくだい危機ききかんいた高張たかはりくになつらがけいこう讒訴ざんそしたことで司馬しばみのる苴(みのる苴)は失脚しっきゃくまれてしまう。そのため、乞はこうくにとしを目論もくろむようになる。

宰相さいしょう

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紀元前きげんぜん490ねんけいこう死後しご年少ねんしょう公子こうし荼(晏孺子じゅし)がひとしおおやけとなり、高張たかはりくになつ権勢けんせいいたのにともない、乞は彼等かれら親交しんこうかさねたが、その一方いっぽう大夫たいふたちにたいしては両氏りょうしへの反感はんかんあおっていた。そして紀元前きげんぜん489ねん6がつ乞は大夫たいふたちをひきいて高張たかはりくになつ攻撃こうげきして両氏りょうしひとしからし、10月には晏孺子じゅし退位たいいさせたのち暗殺あんさつする。そして、異母いぼけい公子こうしせい(悼公)を擁立ようりつしてひとし宰相さいしょうき、勢力せいりょくさらかためていった。

乞の死後しご家督かとく嫡子ちゃくしつね史記しきでは避諱によりつね表記ひょうき)がいだ。これ以降いこう勢力せいりょくひとしおおやけしつさら上回うわまわっていく。のちに「」をおくりなされ、釐子ばれる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 史記しき』の「けいなかかん」には「悼公よんねん紀元前きげんぜん485ねん)、乞卒す」の記事きじがあり、このとし乞の没年ぼつねんとされる。
  2. ^ ただし、田無たなし宇はけいこうあねはじめきょうめとっているため、乞がはじめきょう嫡子ちゃくしとされ、ひらく側室そくしつとして分家ぶんけてた可能かのうせいもあるが、憶測おくそくいきない。

乞を題材だいざいにした小説しょうせつ

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関連かんれん項目こうもく

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