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この項目では、古代中国の人物について説明しています。徳川家の支系については「田安徳川家」をご覧ください。 |
田 安(でん あん、? - 紀元前206年)は、 項羽の分封によって3つに分けられた斉の国王の1人である済北王。項羽によって封じられた。戦国時代の斉最後の王である田建の孫。田栄と戦闘になり、敗死した[1][2]。
戦国時代の斉最後の王である田建の孫にあたる[3]。
二世元年(紀元前207年)11月、斉の武将として、斉王の田巿に仕えていたが、項羽が楚軍を率いて黄河を渡り、趙の鉅鹿を救援しようとした時、済水の北にある数城を降して、自らの兵を率いて項羽に降伏した。
同年12月、田安は項羽とともに秦軍と戦う。項羽は秦軍を大いに破り、鉅鹿を救う。
高祖元年(紀元前206年)12月、項羽は秦を滅ぼし、田安はその軍功により、3つに分けられた斉国のうち、済北王に封じられ、博陽を都とすることとなる[4]。
同年5月、田栄は自身が王に封じられず、自分が擁立していた田巿が膠東王となり、斉王に田都が封じられたと聞く、田栄は項羽を恨み、兵を出して、田都を迎え撃った。田都は楚に逃亡した。
同年6月、田栄に逆らい、膠東に赴こうとした田巿が即墨で田栄に殺される。田栄は斉王を名乗った。
同年7月、田安は即墨から西に向かってきた田栄に攻められ、殺された[3]。また、田栄に将軍の印を与えられ(将軍に任じられ)、梁の地で項羽に対して反乱を起こした彭越によって攻撃され、殺されたともされる[5]。
田安の子孫は斉地方でその一門が「王家」と通称されていたことにちなみ、田から王に氏を改めたという。漢代に王氏は栄え、魏郡元城県に移り住んだ一族のなかから、のちに漢を簒奪し新国を建てることになる王莽があらわれる[6]。
- ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦楚之際月表第四・田儋列伝による。
- ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
- ^ a b 『史記』項羽本紀
- ^ 『史記索隠』によると田巿が王に封じられた膠東、田都が王に封じられた斉、田安が王に封じられた済北をあわせて三斉と呼ぶ。
- ^ 『漢書』陳勝項羽伝第一
- ^ 『漢書』巻98 元后伝(王政君)