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晏嬰

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晏嬰
プロフィール
出生しゅっしょう ぜん578ねん
死去しきょ ぜん500ねん
出身しゅっしん ひとしこくえびす
職業しょくぎょう 政治せいじ
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ 晏嬰、晏平なか
拼音 Yan PingZhong
英語えいごめい Yan PingZhong
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晏 嬰(あん えい、? - 紀元前きげんぜん500ねん)は、中国ちゅうごく春秋しゅんじゅう時代じだいひとし政治せいじいみななかおくりなひらたえびす維(現在げんざい山東さんとうしょう濰坊高密こうみつ)のひと[1]ちち晏弱(晏桓)。は晏圉(あんぎょ)。つまめいおよまれは史書ししょ記載きさいなし。れいこうそう公光きんみつけいこうの3だいつかえ、うえはばかることなく諫言をおこなった。めい宰相さいしょうとして評価ひょうかたかく、晏平なか、もしくは晏子尊称そんしょうされる。

略歴りゃくれき

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史記しき』「かん晏列でん」によると、晏嬰は身長しんちょうが「6しゃくしゅうだいの1しゃくは22.5cm。135cm)にたず」であった。しかしちいさなからだおおきな勇気ゆうきそなえ、つね社稷しゃしょく国家こっか)をだいいちかんがえてうえおそれず諫言をおこない、人民じんみん絶大ぜつだい人気にんきほこり、君主くんしゅかれはばかった。また質素しっそこころがけ、にく食卓しょくたくることがまれだった。またきつね毛皮けがわから仕立したてたいちまいきりのふくを、30ねんていたという[2]。その生活せいかつぶりは、倹約けんやくさをしめ故事こじ成語せいごさんじゅうねんいちきつね裘」「ぶたかたまめを掩わず」[3]として、後世こうせいのこった。

伝記でんき

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最初さいしょつかえたれいこう時期じきまち女性じょせいあいだ男装だんそうをすることが流行はやり、れいこうはこれをめさせたいとおもって禁令きんれいした。しかし、もともとこの流行りゅうこうれいこうからはじまったのであり、れいこう相変あいかわらずには男装だんそうをさせていたので、流行りゅうこうおさまらなかった。そこで晏嬰は「きみのやっていることうしあたま看板かんばん使つかってうまにくっているようなものです。宮廷きゅうてい禁止きんしすればすぐに流行りゅうこうわります」と諫言し、そのとおりにすると流行りゅうこうおさまった。このことが「牛頭ごず馬肉ばにく」の言葉ことばみ、のち変化へんかして故事こじ成語せいごの「羊頭ようとういぬにく」になる。

またすすむとのたたかいで敗北はいぼくしたときに、まだたたかえるにもかかわらずれいこう逃亡とうぼうしようとしたので、これを必死ひっしめ、「あなたも勇気ゆうきがないのですね。まだたたかえるのにどうしてげるのですか」といさめた。そのさいれいこうそでを晏嬰がきちぎってしまい、れいこうがその無礼ぶれいおこってけんをかけたが、晏嬰は「わたしてる勇気ゆうきっててきたたかってください」とう。がれいこうはこれをかずに「おまえてる勇気ゆうきがないからげるのだ」とくに臨淄かえった。

次代じだいそうこう時期じき紀元前きげんぜん551ねんすすむきょう大臣だいじんかく貴族きぞく)の欒盈(欒懐)が(范宣)との権力けんりょくあらそいにやぶれて、ひとし亡命ぼうめいしてきた。そうこうはこれを歓迎かんげいして復讐ふくしゅうそうとし、晏嬰は反対はんたいしたがれられなかった。そうこう度々どどの晏嬰の諫言をうとましくおもうようになり、それをかんじとった晏嬰はしょくして田舎いなかにひきこもり、はたけたがやしておくる。

しかしそうこうは、そうちぇつま密通みっつうしていた。おこったちぇ紀元前きげんぜん548ねん5月、自邸じていそうこうをおびきせ、私兵しへいをもってころした。これをいた晏嬰はいそいでけつけた。もしそうこういた様子ようすせればちぇによってころされ、ちぇにおもねれば不忠ふちゅうしんとしての悪名あくめいけることになるが、晏嬰は

君主くんしゅ社稷しゃしょくのためにんだのならばわたしのう。君主くんしゅ社稷しゃしょくのために亡命ぼうめいするのならわたしもおきょうしよう。しかし君主くんしゅ私事しじのためならば近臣きんしんちょくしん以外いがいはおともする理由りゆうはない。」

って、型通かたどおりの哭礼だけをおこなってかえっていった。ちぇ配下はいかは晏嬰もとらころそうとしたが、ちぇ人民じんみん人気にんきがある晏嬰をころすのはまずいとかんがえ、これをめさせた。

そのちぇけいふうともけいこう擁立ようりつし、反対はんたい圧迫あっぱくするためにみなあつめて「ちぇけいふうくみしないものころす」と宣言せんげんした。しかし晏嬰はこれにしたがわず「君主くんしゅ忠誠ちゅうせいくし、社稷しゃしょくのためになるものしたがう」といいかえした。これら一連いちれんの晏嬰の姿勢しせいが、かれ不朽ふきゅうのものとしたのである。

ちぇけいふう政権せいけんにぎるが、ちぇ紀元前きげんぜん546ねんけいふうによりころされ、そのけいふうよく紀元前きげんぜん545ねんちんあわびあわび子孫しそん)・こう・欒氏にめられてほろびた。このときにどちらの陣営じんえいけいこうれて正当せいとう主張しゅちょうしようとしたが、晏嬰はかれらのたたかいを私闘しとうとしてけいこうまもとおした。

めい宰相さいしょう

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そのけいこう信任しんにんされて宰相さいしょう地位ちいのぼり、一門いちもん司馬しばみのる推薦すいせんした。

紀元前きげんぜん540ねんすすむ使節しせつったとき[よう出典しゅってん]すすむめいしんひつじした肸(叔向)い、「ちん宇・父子ふし)はみんたいしてめぐみをあたえて人気にんきっているので、いずれひとしってわられるかもしれない」とった。この言葉ことばやく150ねん実現じつげんすることになる。

また使節しせつとしてすわえったさいに、すわえれいおうひとしあなどり、晏嬰をはずかしめんとした。すわえ城門じょうもんた晏嬰がひどい小男こおとこなのをて、すわえもの大門おおもんよこせまくぐに晏嬰を案内あんないした。晏嬰は「いぬはいもん他国たこく使節しせつむかえるのは、いぬくにのすることであろう。自分じぶん今日きょう使節しせつとしてた。すわえこくわたしを、このからはいらせてよいのか」とった。そこですわえものは、大門おおもんひらいて晏嬰をはいらせた。

れいおう会見かいけんすると、れいおう貧相ひんそうな晏嬰をて「いったい、ひとしにはじんがいないのか」とった。晏嬰はこたえ「じんがいないことがありましょうか。ひとしの臨淄は街路がいろ300あまり、人々ひとびとそでひろげればさえぎられ、人々ひとびとあせをふるうとあめとなり、かたかたかかとかかとがぶつかるほどにひとがいます」。れいおう「では何故なぜ貴殿きでんのようなもの使節しせつによこしたのか」。晏嬰「ひとし使節しせつにんずるには適性てきせい考慮こうりょし、けんおうのもとには賢者けんじゃを、不肖ふしょう王侯おうこうには不肖ふしょうもの使節しせつつかわします。自分じぶんもっと不肖ふしょうなるものゆえ、すわえこく使節しせつとして使つかわされました」とこたえた。

また会見かいけんうたげのさなか、役人やくにんしばられたものれてきた。れいおうは「それは何者なにものか」といた。役人やくにんは「ひとしじんです」とこたえた。れいおうはまた「なにをしたのか」といた。役人やくにんは「泥棒どろぼうです」とこたえた。れいおうは晏嬰にかい「ひとしものぬすみが性分しょうぶんなのかね」といた。晏嬰は、「江南こうなんたちばなというがあります。これを江北こうほくえるとたちばならずして、とげのあるからたちります。これはみずのためです。ひとしじんひとしりてはぬすまず、その良民りょうみんすわえたればぬすみをいたします。何故なぜでしょうか?すわえ風土ふうどのせいでございましょう」。れいおう聖人せいじんじゃれんとして、かえってみずかはじをかいたか」と苦笑にがわらいした(故事こじ成語せいご南橘なんきつきたからたち」の語源ごげん[4]横道よこみち天下てんか悪名あくめいたかれいおうをへこませたことで、かれさらがった。

そのおりれ、けいこうたいして諫言をおこなった。紀元前きげんぜん500ねんに晏嬰はつまたいして家法かほうえぬようにと遺言ゆいごんして死去しきょした。晏嬰が危篤きとくおちいったときけいこう海辺うみべあそびにっていた。そこに早馬はやうまて晏嬰が危篤きとくくと、馬車ばしゃって臨淄にかった。けいこう馬車ばしゃ速度そくどおそいと、御者ぎょしゃから手綱たづなうばみずかった。それでもおそいので、ついには自分じぶんあしはしった。晏嬰のやしきくと、いえはいり、遺体いたいにすがっていた。近臣きんしんが、「非礼ひれいでございます」とったが、けいこうは「むかし夫子ふうし(晏嬰のこと)にしたがっておおやけ阜にあそんだときいちにちさんわしをめた。いまだれが寡人(わたし)をめようか」とつづけた[5]

死後しご、「ひらた」をおくりなされ、晏平なかばれるが、後世こうせい人々ひとびと晏子尊称そんしょうした。

評価ひょうか

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晏嬰はひとし宰相さいしょうとしてかんなかならしょうされ、春秋しゅんじゅう時代じだい見渡みわたしてもいちあらそめい宰相さいしょうとされている。司馬しばは『史記しき列伝れつでんにおいて最初さいしょの「はくえびす・叔斉列伝れつでん」のつぎに「かん晏列でん」(かんなかと晏嬰)をってきている。さらには「(晏嬰の)御者ぎょしゃになりたい」とまでかたっており、尊敬そんけいおおきさがれる。また、その言行げんこうろくとして『晏子春秋しゅんじゅう』があり、そのなかには様々さまざま逸話いつわっている。

孔子こうしも「たいらなか(晏嬰)はひとまじわる。ひさしくしてこれけいす」とめているが、孔子こうしには晏嬰にたいして否定ひていてきひょうおおい。ただ孔子こうしひとし仕官しかんしようとして晏嬰にめられたということがあり、これが影響えいきょうしているとかんがえられる。おなじく儒家じゅかである孟子もうしも晏嬰をみとめず、かんなか・晏嬰をひょうして「(覇道はどうによって天下てんかおさめるのは)自分じぶん目指めざすところではない」とべている[6]

晏嬰の逸話いつわとしてほかに、3勇士ゆうしを2つのももころしたはなしがある。おごたかぶって他人たにんことみみさなくなった公孫こうそんせっひらき冶子の3にん勇将ゆうしょうを晏嬰は退しりぞけたいとおもい、2つのもも用意よういして「功績こうせきたかものからべよ」とった。公孫こうそんせっひらき疆がさきももると、冶子が「わたし功績こうせきいとうのか」となじった。公孫こうそんせっひらき疆は自分じぶんむさぼりをじて自殺じさつし、冶子も2人ふたりんで自分じぶんだけのこるわけにはいかないと自刎じふんし、晏嬰の策略さくりゃく成功せいこうした。かれらのひととなりをよくり、あえて3にんつみわず刑罰けいばつふくさせしむるごとしに(つまり自分じぶんよごさずに)自決じけつさせたこの逸話いつわは「りょうちちぎん」といううたわれ、そのしょかずらあきらくちずさんでいたことで有名ゆうめいである。

晏嬰を題材だいざいにした小説しょうせつ

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関連かんれん項目こうもく

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出典しゅってん脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 史記しき』「かん晏列でん
  2. ^ きつねきつねわきしたしろ毛皮けがわだけを使つかった高級こうきゅう上着うわぎで、その着用ちゃくようゆるされたしょうしょうでんしょう三公みつきみ直下ちょっか)を『さんきつね』(さんすくな参照さんしょう)と総称そうしょうする由来ゆらいとなった[よう出典しゅってん]。『れい』「だんゆみ」。つまり粗衣そいではなく、上質じょうしつふくを、なが大事だいじ使つかっていたのである。
  3. ^ まめ」とは木製もくせいこうはいのこと。先祖せんぞ供養くよう使つか豚肉ぶたにくすらうつわおおわないほどのすくなさだったという意味いみ
  4. ^ かん外伝がいでんまき10、『晏子春秋しゅんじゅう』、『せつえんたてまつ使つかいなどにえる。同様どうようはなしは『淮南ワイナン原道はらみちくんにもえる
  5. ^ 晏子春秋しゅんじゅう』「外篇がいへんだいはち
  6. ^ 孟子もうし公孫こうそんうしじょう