だい

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だい(だいご き、712ねん - 782ねん9月19にち)は、中国ちゅうごくとうだい後期こうき政治せいじ財政ざいせいは禹珪。きょうちょうぐん咸陽けん出身しゅっしん

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

おさなころ両親りょうしんくし、あにだいはなした学問がくもんおさめ、富国強兵ふこくきょうへいじゅつをもって自任じにんする。げんむね時代じだい天宝てんぽう年間ねんかん742ねん - 756ねん)のはじ韋堅つかえたが、韋堅が失脚しっきゃくするとしばらくくだる。のち須江すえけんすすむとなり、しんやすぐん太守たいしゅらんしんあきらみとめられた。755ねんやすろくやまみだれ安史やすしらん)をこすと、らんしんあかり北海ほっかいぐん太守たいしゅてんずるのにしたがい、ろくごとさんぐん任命にんめいされた。戦功せんこうとぼしいらんしんあかりげんむね叱責しっせきけるにおよび、だい琦はしみなくかね使つかって勇士ゆうしあつめるようらんしんあかり献策けんさくし、その兵力へいりょくをもってやすろくやまうばわれたしょぐん奪回だっかいした。

戦勝せんしょう報告ほうこくのため、しょくなんけていたげんむねしたへにおもむいたが、そこで皇帝こうていみずから「へい強弱きょうじゃくは、軍費ぐんぴ多寡たかによります。わたしにおまかせいただければこう淮の軍費ぐんぴ調達ちょうたつしてみせます」と志願しがん税収ぜいしゅう激減げきげんして財政ざいせい困窮こんきゅうしていたおりでもあり、げんむねおおいによろこんでだい琦をかん察御勾当こうとうこう淮租いさお使にんじ、ついで殿中でんちゅうさむらい山南さんなんとうみちささえ使にんじた。これがささえ使はじまりとされる。さらに粛宗即位そくいげんむねふとし上皇じょうこうとなる)におよび、かねろうちゅうけんさむらい諸道しょどうしおてつぜに使となり、しお専売せんばいをもって朝廷ちょうてい財政ざいせい再建さいけんはかることになった。いぬいはじめ元年がんねん758ねんしおほう制定せいてい山海さんかいかまどでのしお専売せんばい宣言せんげん製塩せいえん業者ぎょうしゃざつ免除めんじょおこない、しおてつ使管轄かんかつき、おおいに国庫こっこうるおした。これがしおてつ使端緒たんしょである。しおてつ使ささえ使は、宰相さいしょう兼務けんむする財政ざいせいしょくとなり、だいからきたそうにかけて独立どくりつした官庁かんちょうとなっていくことになる。

さらに、当時とうじ通用つうようしていたひらけもと通宝つうほうぜにえて、いぬいもと重宝ちょうほうぜに鋳造ちゅうぞうし、従来じゅうらいの10ばい価値かち流通りゅうつうさせ、大幅おおはば通貨つうか膨張ぼうちょうさく採用さいよう国家こっか財政ざいせいうるおうこととなったが、一方いっぽう過度かどインフレーション物価ぶっか騰貴とうき)をまねくことになる。いぬいもと2ねん759ねんどう中書ちゅうしょもん下平しもだいらあきらごと(ほぼ宰相さいしょう相当そうとう)にくと、さらにじゅうぜに発行はっこうし、いぬいもとぜにの50ばいとして通用つうようさせたため、インフレはさらに加速かそく国内こくない経済けいざい混乱こんらんいたったため、世論せろん非難ひなんび、地方ちほうかんであるただしゅう刺史しし左遷させんされた。

しかし、衰運すいうんかたむいたからあさ財政ざいせいになえる人材じんざいとぼしく、たからおう元年がんねん762ねん)にだい琦はふたただいむね朝廷ちょうていされて、太子たいし賓客ひんきゃくとなる。広徳ひろのり元年がんねん763ねん)、吐蕃によって長安ながやすとされてだいむね脱出だっしゅつしたさい長安ながやす奪還だっかんめいじられた関内かんないふく元帥げんすいかく要請ようせいで粮料使けん大夫たいふ関内かんない元帥げんすい副使ふくし就任しゅうにんしてその食糧しょくりょう軍費ぐんぴ確保かくほにあたり、さらにきょうちょういんねた。なお、この時期じききょうちょう長安ながやす)を中心ちゅうしん導入どうにゅうされた青苗あおなえぜに発案はつあんしゃだい琦とする古賀こがのぼるせつがある[1]長安ながやす奪還だっかん功績こうせきによってはんささえけん諸道しょどうぜにしおてつてんうんつね平等びょうどう使・扶風ぐんこううつり、つづきょうちょういんねた。えいやすし元年がんねん765ねん)にはきょうちょうむぎたいするなつぜい徴収ちょうしゅう。のちのりょう税法ぜいほう起源きげんとなる。よくえいやすし2ねん766ねん戸部とべさむらいろうばんささえとなり、しおてつ使りゅうとともに財政ざいせいつかさどった。だいこよみ5ねん770ねんきんぐんちから背景はいけい国政こくせい壟断ろうだんした宦官かんがんさかな朝恩ちょうおんだいむねいのち誅殺ちゅうさつされたさいに、連座れんざして左遷させんされにょうしゅう刺史ししみずうみしゅう刺史ししとなる。けんちゅう元年がんねん779ねんとくむね即位そくいすると、だい琦の才能さいのうしみ、太子たいし賓客ひんきゃく東都とうと留守るすとして中央ちゅうおうそうとしたが、だい琦はやまいにかかり急死きゅうししたという。享年きょうねんは『きゅうとうしょ』によれば70、『しんとうしょ』では71。死後しご太子たいししょう追贈ついぞうされた。

もとりゅう晏・楊炎ら、安史やすしらん以降いこう財政ざいせい責任せきにんしゃいずれも失脚しっきゃく処刑しょけいという運命うんめい辿たどったが、だい琦だけは左遷させんされたとは長寿ちょうじゅまっとうし、子孫しそんつづいたことから、大夫たいふぶのに相応ふさわしい人格じんかくぬしであったと評価ひょうかがある[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 古賀こがのぼるりょう税法ぜいほう成立せいりつ研究けんきゅう雄山閣ゆうざんかく、2012ねん、P135-136・308-309

伝記でんき史料しりょう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]