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だい12かん

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だい12かん(だいじゅうにしかん)は、1873ねんから1888ねんと、1896ねんから1940ねんまであった日本にっぽん陸軍りくぐん管区かんくで、当時とうじ12から18かれたかんひとつである。1873ねんから1888ねんまでは四国しこく、それから1888ねんまでは九州きゅうしゅう北部ほくぶのいずれも鎮台ちんだいせいかん。1896ねんからは九州きゅうしゅう北部ほくぶにあった師団しだんせいかんで、制度せいどことなる。師団しだんせいだい12かんは1925ねんまで福岡ふくおかけん小倉おぐら以降いこう久留くるよね司令しれいいただい12師団しだん管轄かんかつした。1940ねん久留くるべいかん改称かいしょうした。

鎮台ちんだいせいだい12かん

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四国しこく地方ちほう歩兵ほへいだい12連隊れんたい (1873 - 1885)

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全国ぜんこくかん配置はいちされたのは、各地かくち鎮台ちんだいかれてから2ねんの1873ねん明治めいじ6ねん)1がつ鎮台ちんだい条例じょうれい改定かいていによる[1]だい11かんは、広島ひろしま鎮台ちんだい管轄かんかつするだい5ぐんかんしたかれた2つのかんひとつとしてもうけられた。丸亀まるがめ現在げんざい香川かがわけん)を営所として、その地名ちめいから広島ひろしまかんともばれた。管内かんないにはほかに、徳島とくしま松山まつやま現在げんざい愛媛えひめけん)、須崎すさきうら現在げんざい高知こうちけん須崎すさき)にぶん営をもうけた。管区かんく境界きょうかい条例じょうれいしめされなかった。

九州きゅうしゅう地方ちほう北部ほくぶ歩兵ほへいだい12旅団りょだん (1885 - 1888)

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1885ねん明治めいじ18ねん)5がつ鎮台ちんだい条例じょうれい改定かいていで、ぐんかんかん全国ぜんこくてき変更へんこうされた[2]かん番号ばんごうなおされ、四国しこくにはだい10かんかれることになった。あたらしいだい12かんはそれまでのだい14かん相当そうとうする九州きゅうしゅう地方ちほう北部ほくぶめた。管区かんく豊前ぶぜん豊後ぶんご筑前ちくぜん筑後ちくご肥前ひぜん壱岐いき対馬つしまで、現在げんざい都道府県とどうふけんでは大分おおいたけん福岡ふくおかけん長崎ながさきけん佐賀さがけんにあたる。

だい12かん本営ほんえい小倉おぐらで、ぶん営を福岡ふくおかいた。小倉おぐらには歩兵ほへいだい12旅団りょだん本部ほんぶ歩兵ほへいだい14連隊れんたい福岡ふくおかには歩兵ほへいだい24連隊れんたい屯営とんえいいた。ぞくするぐんかんは、熊本くまもと鎮台ちんだい管轄かんかつするだい6ぐんかんである[3]

だい12かん廃止はいし

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1888ねん鎮台ちんだい廃止はいしされて師団しだんせい施行しこうされることになり、明治めいじ21ねんみことのりれいだい32ごう(5がつ12にち制定せいてい、14にち公布こうふ)によって、陸軍りくぐん管区かんくひょうさだめられた[4]。これにより、陸軍りくぐん管区かんくぐんかん - かんの2階層かいそうからかん - たびかん -大隊だいたいの3階層かいそうわった。地域ちいき区分くぶんでは、従来じゅうらいぐんかんおな番号ばんごうかんがれ、従来じゅうらいかんおな番号ばんごうたびかんがれた。このとききゅうだい12かんあたらしいだい12たびかんがれたが、ぐんかんだい7までしかなかったので、だい12かんはなくなった。

師団しだんせいだい12かん

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師団しだんかん

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かんおな番号ばんごう師団しだんのための徴兵ちょうへい密接みっせつむすびついており、だい12師団しだん兵士へいしだい12かん戸籍こせき男子だんしから徴集ちょうしゅうされた。また、だい12かんから徴兵ちょうへいされた兵士へいしだい12師団しだんはいるのが原則げんそくであったが、これにはいくつか例外れいがいがある。まず、独自どくじかんたない近衛このえ師団しだんには、全国ぜんこくかんから兵士へいしおくられた。また、朝鮮ちょうせん台湾たいわん植民しょくみん常駐じょうちゅうする部隊ぶたいにも内地ないちかん兵卒へいそつおくられた。ときには、人口じんこうすくないかんにある師団しだんにも融通ゆうずうされた。いちれいとして1921ねん大正たいしょう10ねん)にだい12かん徴集ちょうしゅうする兵卒へいそつ配分はいぶん計画けいかくると、だい12師団しだんに6044にん朝鮮ちょうせんだい20師団しだんに1094にん近衛このえ師団しだんに62にん現役げんえきへいとして配分はいぶんされることになっていた[5]

かんはまた国内こくない治安ちあん維持いじ外国がいこく侵攻しんこうたいして出動しゅつどうする師団しだん担任たんにん地域ちいきでもある。だい12かん海上かいじょう交通こうつう要地ようちである関門海峡かんもんかいきょう管区かんくかかえ、1903ねんからは対馬つしま防衛ぼうえい任務にんむとした。

福岡ふくおかけん大分おおいたけん佐賀さがけん熊本くまもとけん一部いちぶ山口やまぐちけん一部いちぶ (1896 - 1903)

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1896ねんの6師団しだん増設ぞうせつにともない、明治めいじ29ねんみことのりれいだい24ごう(3がつ14にち制定せいてい、16にち公布こうふ、4がつ1にち施行しこう)で、陸軍りくぐん管区かんくひょう改定かいていされた。このとき従来じゅうらいだい6かんきた半分はんぶんいてもうけられたのがだい12かんである。範囲はんい福岡ふくおかけん大分おおいたけん佐賀さがけん熊本くまもとけん北部ほくぶ3ぐん鹿本かもとぐん菊池きくちぐん阿蘇あそぐん)、山口やまぐちけん南西なんせいあかあいだせきのち下関しものせき改称かいしょう)と豊浦とようらぐんである。かんしたには4つの連隊れんたいかれた[6]

福岡ふくおかけんだい部分ぶぶん大分おおいたけん佐賀さがけん長崎ながさきけん宮崎みやざきけん一部いちぶ山口やまぐちけん一部いちぶ (1903 - 1907)

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1903ねんに、かん連隊れんたいあいだたびかんをおくことになり、明治めいじ36ねんみことのりれいだい13ごう(2がつ13にち制定せいてい、14にち公布こうふ)で、だい12かんにも2つのたびかんもうけられた。また、だい6かんとの境界きょうかい変更へんこうし、長崎ながさきけん全域ぜんいき宮崎みやざきけん東臼杵ひがしうすきぐん西臼杵にしうすきぐんだい12かんうつした。かわりに福岡ふくおかけん南部なんぶ筑後ちくごこくだい部分ぶぶん北東ほくとう浮羽うきわぐんだけがだい12かんにとどまる)と、熊本くまもとけん北部ほくぶ3ぐんだい6かんうつった。これにともないだい6かんから大村おおむら連隊れんたいはいり、佐賀さが連隊れんたい廃止はいしされた。この変更へんこうで、長崎ながさきけんにあった2つの警備隊けいびたいだい12かんうつった。対馬つしま対馬つしま警備隊けいびたいと、五島列島ごとうれっとう五島ごしま警備けいびたいである。ただし、五島ごしま警備けいびたいいま編成へんせいされておらず、当分とうぶんあいだ大村おおむら連隊れんたい司令しれい管轄かんかつかれた[7]

福岡ふくおかけんだい部分ぶぶん大分おおいたけん佐賀さがけん一部いちぶ長崎ながさきけん対馬つしま宮崎みやざきけん一部いちぶ山口やまぐちけん一部いちぶ (1907 - 1913)

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1907ねんにさらに6師団しだんえることになると、その9月、明治めいじ40ねん軍令ぐんれいりくだい3ごう(9がつ17にち制定せいてい、18にち公布こうふ施行しこう後日ごじつ)による陸軍りくぐん管区かんくひょう改定かいていで、かん区割くわりが変更へんこうされた。九州きゅうしゅうでは久留くるよねだい18師団しだんかれ、福岡ふくおかけんに2つの師団しだんならつことになった。福岡ふくおかけん分割ぶんかつでは、浮羽うきわぐんだい18かんうつり、筑後ちくごこくだい18かんのこだい部分ぶぶんだい12かんぞくした。長崎ながさきけんでは対馬つしまにあたる上県かみあがたぐん下県しもあがたぐんだけがだい12かんにとどまり、のこりはだい18かんうつった。佐賀さがけんは、きた海沿うみぞいにある東松浦ひがしまつうらぐん西松浦にしまつうらぐんだい12かんにとどまり、のこりはだい18かんうつった。そのかん境界きょうかい変更へんこうはない。所属しょぞく連隊れんたいは、長崎ながさきけん大村おおむら連隊れんたいだい18かんうつり、かわりに大分おおいたけん福岡ふくおかけんにまたがる中津なかつ連隊れんたい新設しんせつされた[8]五島ごしま警備けいびたい発足ほっそくしないまま、警備隊けいびたいのぞかれた。

福岡ふくおかけんだい部分ぶぶん大分おおいたけん佐賀さがけん一部いちぶ長崎ながさきけん対馬つしま壱岐いき宮崎みやざきけん一部いちぶ山口やまぐちけん一部いちぶ (1913 - 1915)

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1913ねんに、大正たいしょう2ねん軍令ぐんれいだい6ごう(7がつ4にち制定せいてい、5にち公布こうふ、12月1にち施行しこう)による陸軍りくぐん管区かんくひょう改定かいていで、だい12かんすこひろがった。具体ぐたいてきには、山口やまぐちけん厚狭あさぐんだい5かんから、長崎ながさきけん壱岐いきぐんだい18かんから、だい12かんうつされた。連隊れんたい警備隊けいびたい構成こうせい変更へんこうはない[9]

福岡ふくおかけんだい部分ぶぶん大分おおいたけん佐賀さがけん一部いちぶ長崎ながさきけん対馬つしま壱岐いき宮崎みやざきけん一部いちぶ熊本くまもとけん一部いちぶ山口やまぐちけん一部いちぶ (1915 - 1920)

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1915ねんに、大正たいしょう4ねん軍令ぐんれいだい10ごう(9がつ13にち制定せいてい、14にち公布こうふ)による陸軍りくぐん管区かんくひょう改正かいせいで、熊本くまもとけん阿蘇あそぐんだい6かんからだい12かんうつされた[10]

福岡ふくおかけんだい部分ぶぶん大分おおいたけん佐賀さがけん一部いちぶ長崎ながさきけん対馬つしま壱岐いき宮崎みやざきけん一部いちぶ熊本くまもとけん一部いちぶ山口やまぐちけん一部いちぶ (1920 - 1925)

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1920ねん大正たいしょう9ねん軍令ぐんれいだい10ごう(8がつ7にち制定せいてい、9にち公布こうふ10日とおか施行しこう)による陸軍りくぐん管区かんくひょう改定かいていで、宮崎みやざきけん児湯こゆぐんだい6かんからだい12かんうつされた。かわりに、福岡ふくおかけん朝倉あさくらぐんだい18かんうつした。このとき対馬つしま警備隊けいびたい廃止はいしされた[11]

1924ねんに、大正たいしょう13ねん軍令ぐんれいりくだい5ごう(5がつ5にち制定せいてい、7にち公布こうふ)の陸軍りくぐん管区かんくひょう改定かいていにより、たびかん廃止はいしされた[12]たびかんのぞかれただけで、連隊れんたいとその境界きょうかい変更へんこうはなかった。

  • だい12かん(1924ねん5がつ7にち - 1925ねん4がつ30にち
    • 中津なかつ連隊れんたい
    • 大分おおいた連隊れんたい
    • 小倉おぐら連隊れんたい
    • 福岡ふくおか連隊れんたい

福岡ふくおかけん佐賀さがけん長崎ながさきけん大分おおいたけん一部いちぶ山口やまぐちけん一部いちぶ (1925 - 1940)

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1925ねん宇垣うがき軍縮ぐんしゅく陸軍りくぐんは4師団しだん削減さくげんめた。これにあわせて大正たいしょう14ねん軍令ぐんれいりくだい2ごう(4がつ6にち制定せいてい、8にち公布こうふ、5月1にち施行しこう)の陸軍りくぐん管区かんくひょう改定かいていされた。この改革かいかくでは、九州きゅうしゅうだい6・だい12・だい18師団しだんかんのうちだい18を廃止はいしした。しかし、だい12師団しだん司令しれいもとあった小倉おぐらから、だい18師団しだん司令しれいがあった久留くるべいうつった。だい18かん区域くいきだい部分ぶぶんそのままで、きゅうだい12かんだい6とだい12のあいだ分割ぶんかつされた。名目めいもくだい12かん継承けいしょうしたが実質じっしつだい18かん拡張かくちょう、とえなくもない。

あたらしいだい12かん範囲はんいは、福岡ふくおかけん佐賀さがけん長崎ながさきけんの3けん全域ぜんいきくわえて、大分おおいたけん日田にったぐんと、山口やまぐちけん下関しものせき豊浦とようらぐんである。宮崎みやざきけん一部いちぶ大分おおいたけんだい部分ぶぶんだい6かんうつされた。山口やまぐちけんのうち、厚狭あさぐんとそこから市制しせい施行しこうした宇部うべだい5かんうつされた。中津なかつ連隊れんたい廃止はいしになり、だい18かんにあった久留くるべい連隊れんたい大村おおむら連隊れんたいだい12かんしたはいることになった[13]

久留くるべいかん管区かんくへの改称かいしょう廃止はいし

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太平洋戦争たいへいようせんそうがはじまったつぎとしの1940ねん昭和しょうわ15ねん軍令ぐんれいりくだい20ごう(7がつ24にち制定せいてい、26にち公布こうふ、8がつ1にち施行しこう)で、陸軍りくぐん管区かんくひょう改定かいていされた。全国ぜんこくかんぐん管区かんくしたはいって地名ちめい名前なまえかんすることになり、だい12かん久留くるべいかん改称かいしょうした[14]

久留くるべいかんはこののち、1942ねん4がつ福岡ふくおか長崎ながさき佐賀さがの3けんにまとめなおされ[15]、1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ1にち久留くるべい管区かんく改称かいしょうした[16]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ふとしせいるいてんだい2へんだい205かん兵制へいせい4・武官ぶかん職制しょくせい4)「鎮台ちんだい条例じょうれい改定かいてい」。
  2. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい9へんだい6かん兵制へいせいもん兵制へいせいそう陸海りくかいぐん管制かんせいちょう衙及兵営へいえいじょう堡附・兵器へいき馬匹ばひつ及艦舩・徴兵ちょうへい)、「鎮台ちんだい条例じょうれい改正かいせい」のななぐんかん疆域ひょう、リンクさきの7コマめ。『官報かんぽうだい561ごう明治めいじ18ねん5がつ18にち発行はっこう
  3. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい9へんだい6かん兵制へいせいもん兵制へいせいそう陸海りくかいぐん管制かんせいちょう衙及兵営へいえいじょう堡附・兵器へいき馬匹ばひつ及艦舩・徴兵ちょうへい)、「鎮台ちんだい条例じょうれい改正かいせい」のななぐんかん兵備へいびひょうしょへい配備はいびひょう、リンクさきの9コマめと11コマめ。『官報かんぽうだい561ごう明治めいじ18ねん5がつ18にち発行はっこう、リンクさきの3コマめと4コマめ。
  4. ^ 官報かんぽうだい1459ごう明治めいじ21ねん5がつ14にち
  5. ^ 陸軍りくぐんしょう永存えいぞん書類しょるい大正たいしょう10ねんかぶと輯第2るい、「現役げんえきへい補充ほじゅうへいはいけん」、リンクさき42コマめの「大正たいしょう十年徴集陸軍現役兵補充兵配賦員数区分表」。
  6. ^ 官報かんぽうだい3811ごう明治めいじ29ねん3がつ16にち発行はっこう陸軍りくぐん管区かんくひょう」、明治めいじ29ねんみことのりれいだい24ごう、241 - 242ぺーじ(ファイルの1 - 2コマ)
  7. ^ 官報かんぽうだい5882ごう明治めいじ36ねん2がつ14にち
  8. ^ 官報かんぽうだい7268ごう明治めいじ40ねん9がつ18にち
  9. ^ 官報かんぽうだい280ごう大正たいしょう2ねん7がつ5にち。『公文こうぶん類聚るいじゅうだい37へんだい15かん陸軍りくぐん管区かんくひょうちゅう改正かいせい」。
  10. ^ 官報かんぽう936ごう大正たいしょう4ねん9がつ14にち。『公文こうぶん類聚るいじゅうだい39へんだい14かん、「陸軍りくぐん管区かんくひょうちゅう改正かいせい」。
  11. ^ 官報かんぽうだい2406ごう大正たいしょう9ねん8がつ9にち発行はっこう。リンクさきの8コマめ。
  12. ^ 官報かんぽうだい3509ごう大正たいしょう13ねん5がつ7にち。『公文こうぶん大正たいしょう13ねん陸軍りくぐんしょう 陸軍りくぐん管区かんくひょう改正かいせい報告ほうこくけん」。
  13. ^ 官報かんぽうだい3785ごう大正たいしょう14ねん4がつ8にち
  14. ^ 官報かんぽうだい4066ごう昭和しょうわ15ねん7がつ26にち
  15. ^ 官報かんぽうだい4375ごう昭和しょうわ16ねん8がつ7にち
  16. ^ 官報かんぽうだい5420ごう昭和しょうわ20ねん4がつ10日とおか、リンクさきのコマ番号ばんごう3。

参考さんこう文献ぶんけん

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