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かん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

かん(しかん)は、1873ねんから1945ねんまで、日本にっぽん陸軍りくぐんが、軍政ぐんせいぐん警備けいびのためにもうけた地域ちいき区分くぶんである。日本にっぽん内地ないち分割ぶんかつしてもうけられた。ぐんかんぐん管区かんくしたたびかん連隊れんたい大隊だいたいうえにあたる。連隊れんたい旅団りょだん管轄かんかつだった初期しょきのぞき、師団しだん対応たいおうする管轄かんかつ区域くいきである。徴兵ちょうへいせい適用てきようされない植民しょくみん台湾たいわん朝鮮ちょうせんにはながかれなかったが、朝鮮ちょうせんにだけは、1941ねん内地ないち性格せいかくことなるかんかれた。朝鮮ちょうせんかんは、ぐん管区かんくした兵事へいじうえにあたる。1945ねん4がつ管区かんくへの改編かいへんによりかん廃止はいしされた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

かん鎮台ちんだいせい時代じだい1873ねんに、ぐんかんしたもうけられた。この時期じき師団しだん存在そんざいせず、かん連隊れんたい(1885ねんから旅団りょだん)の管轄かんかつであった。この時代じだい陸軍りくぐん国内こくない反乱はんらんへの対応たいおう重視じゅうししたので、ぐんかんかん反乱はんらん勃発ぼっぱつ部隊ぶたい出動しゅつどうすべき警備けいび分担ぶんたんという性格せいかくつよかった。

1888ねん師団しだんせいにかわると、従来じゅうらいぐんかんあたらしいかんがれ、かん師団しだん管轄かんかつになった。従来じゅうらいかん大隊だいたい(1896ねん以降いこう連隊れんたい)にがれた。この時代じだいかん作戦さくせんじょう意義いぎうすれ、行政ぎょうせいとく徴兵ちょうへいのための区分くぶんという性格せいかくつよくなった。師団しだん戦争せんそうかんそとたときには、臨時りんじ留守るす師団しだんかれて徴兵ちょうへい補充ほじゅうなど管内かんない業務ぎょうむいだ。

徴兵ちょうへいせい施行しこう陸軍りくぐん兵卒へいそつは、自分じぶん徴兵ちょうへいされた所在しょざいする部隊ぶたいぞくすのが原則げんそくであった。部隊ぶたい将校しょうこう全国ぜんこくから転任てんにんしてくるが、兵卒へいそつ地元じもと出身しゅっしんしゃからなる。区分くぶん単位たんい兵科へいかによってことなり、歩兵ほへい連隊れんたい単位たんいひとつの連隊れんたい所属しょぞくさせ、その兵科へいかかん単位たんいひとつの師団しだん所属しょぞくさせた[1]。しかし、徴兵ちょうへいりつ地域ちいきあいだ均衡きんこうつくらないというもうひとつの原則げんそくもあったので、人口じんこうおおかん徴兵ちょうへいされた兵士へいしすくないかん部隊ぶたいまわして調整ちょうせいすることもあった[2]植民しょくみん朝鮮ちょうせんかれた師団しだんには、内地ないちかん徴兵ちょうへいされた兵士へいしおくられた。また、戦時せんじ臨時りんじ編成へんせいされた師団しだんがもとの編成へんせいことなるかんてられたり、かん境界きょうかい変更へんこうがあったりしたときには、年度ねんどにより兵卒へいそつ出身しゅっしんことなる期間きかんしょうじた。

個々ここかんには、1941ねんまで、だい1かんだい1師団しだんだい2かんだい2師団しだんというように、所在地しょざいち部隊ぶたい番号ばんごうおな番号ばんごうけられたが、最初さいしょには地名ちめいによって東京とうきょうかん仙台せんだいかんといういいかたもあった[3]。1941ねん4がつ1にち番号ばんごうをやめ、地名ちめい方法ほうほうあらためた[4]

にちちゅう戦争せんそうがはじまった1937ねん以降いこう師団しだんかずえ、1かん複数ふくすう師団しだんささえることがたりまえになった。また、国外こくがい師団しだんおおくなり、留守るす師団しだん存在そんざい常態じょうたいした。1945ねんだい2大戦たいせん敗色はいしょくふかまり、連合れんごうぐん本土ほんど侵攻しんこうする可能かのうせいたかまると、国内こくない区分くぶん作戦さくせんじょう意味いみたせる必要ひつようつよまった。4月にかんえてもうけたのが管区かんくで、特定とくてい師団しだんとのむすびつきをたず、作戦さくせん部隊ぶたいでないしょ部隊ぶたい指揮しきれた。このとしのうちに日本にっぽん降伏ごうぶくし、陸軍りくぐん解体かいたいされたため、管区かんくもまた廃止はいしになった。

鎮台ちんだいせいかん(1873 - 1888)[編集へんしゅう]

1875ねんの14かん府県ふけんかい当時とうじのもの。北海道ほっかいどう沖縄おきなわにはかんがない。

1871ねん6月(明治めいじ4ねん4がつ)に設置せっちされた鎮台ちんだいは、2、4、6としだいにかずやした。管区かんく明確めいかくになったのは4鎮台ちんだいになった同年どうねん10がつ明治めいじ4ねん8がつ)だが、このとき兵力へいりょく区域くいきともに鎮台ちんだいあいだ格差かくさおおきく、全国ぜんこく斉一せいいつ制度せいどとはえなかった。

かんもうけられたのは、鎮台ちんだい条例じょうれい改定かいていにより6鎮台ちんだい設置せっちされた1873ねん明治めいじ6ねん)1がつである[5]。このとき鎮台ちんだい管轄かんかつぐんかん連隊れんたい管轄かんかつかんさだめられた。その条文じょうぶんによれば、戦時せんじいちおこすにるをもってかん名付なづけたものである(だい2じょう)。6つのぐんかんのうち東京とうきょうだい1ぐんかん大阪おおさかだい4ぐんかんかく3かんだい2、だい3、だい5、だい6はかく2かんつ(だい1じょう)。北海道ほっかいどうには鎮台ちんだいかれず、かんもなかったが(だい5じょう)、屯田とんでんへい設置せっち計画けいかくがあった。天皇てんのう護衛ごえい位置いちづけられた近衛このえかんたなかった。かんには番号ばんごうけられたが、連隊れんたい所在地しょざいち地名ちめい東京とうきょうかん佐倉さくらかんなどともばれた(だい1じょうだい3じょう)。かんごとに歩兵ほへい1個いっこ連隊れんたいかれ、管内かんない反乱はんらん鎮圧ちんあつそなえた(だい7じょう)。かん管内かんないには40かしょの営所がかれ、14の本営ほんえいとあわせて全国ぜんこく54かしょ駐屯ちゅうとんした(だい4じょう)。

鎮台ちんだいせいのもとで、おおくの権限けんげんぐんかん鎮台ちんだい)にかれ、かん連隊れんたい)の権限けんげんおおくなかった。とくに、鎮台ちんだい所在地しょざいちかれたかんでは、管内かんない行使こうしするすべての権限けんげん鎮台ちんだい司令しれい行使こうししたので、所在地しょざいち連隊れんたい作戦さくせん部隊ぶたいとして行動こうどうするのみであった。鎮台ちんだい所在しょざいしないかんでは、連隊れんたいちょう司令しれいかんとしてかんたいする権限けんげんった。1877ねん明治めいじ10ねん)1がつ20日はつかかん営所官員かんいん条例じょうれい制定せいていされて、その権限けんげんこまかく規定きていされた[6]司令しれいかんさい重要じゅうよう任務にんむ管内かんないの「くさぞく」、つまり国内こくない反乱はんらん鎮圧ちんあつにあり(だい1じょう)、不穏ふおん情勢じょうせい偵察ていさつし(だい5じょう)、政府せいふ中央ちゅうおう鎮台ちんだいとの連絡れんらく猶予ゆうよがない緊急きんきゅう地方ちほうかん要請ようせい出動しゅつどうすることができた(だい6じょう)。

1885ねん明治めいじ18ねん)5がつ鎮台ちんだい条例じょうれい改正かいせいで、ぐんかんおさめる鎮台ちんだい司令しれいかん戦時せんじ師団しだんちょうとなり、かん旅団りょだんちょう担任たんにんすることになった(だい1じょう[7]。また、1ぐんかん一律いちりつに2かんかれることになり(だい1じょう)、3かんをもっていた東京とうきょう大阪おおさかでは、東京とうきょうぐんかん高崎たかさき大阪おおさかぐんかん大津おおつかんはいされた。1かんには2歩兵ほへい連隊れんたいぞくしたので、6ぐんかん師団しだん、12かん旅団りょだん、24歩兵ほへい連隊れんたいで、以前いぜんくらべて10連隊れんたいぞうである[8]かんすなわち旅団りょだん番号ばんごうあらたになおされ、旧師きゅうしかん番号ばんごう連隊れんたいがれた。屯田とんでんへいがいる北海道ほっかいどうだい7ぐんかんかんがなく、近衛このえかんたないのは、以前いぜん同様どうようである。この改正かいせいでは、鎮台ちんだい所在地しょざいち以外いがいにあるかん旅団りょだんちょうが営所司令しれいかんとなり、鎮台ちんだい司令しれいかんじゅんじて騒擾そうじょう鎮圧ちんあつとうにんにあたることがさだめられた(だい29じょう、30じょう)。

またこの1885ねん明治めいじ18ねん改正かいせいでは、師団しだん旅団りょだん出征しゅっせいしたときのぐんかんかん事務じむについてはじめて規定きていもうけられた。鎮台ちんだい司令しれいかん征戦せいせんするときにはわりの鎮台ちんだい司令しれいかんかれ、旅団りょだんちょう征戦せいせんするときにはその次官じかんかんとめ事務じむ代理だいりすることとされた(だい6じょう)。

ここまで説明せつめいした鎮台ちんだいせいかんは、のちの師団しだんせいたびかんへ、そして連隊れんたいへと継承けいしょうされた。したかんから連隊れんたいへの用語ようご変遷へんせんかかげる。 これよりのち説明せつめいする師団しだんせいかんは、鎮台ちんだいせいぐんかん継承けいしょうしたものである。

かんから連隊れんたいへの変遷へんせん
とし 地区ちくめい かれる軍隊ぐんたい 司令しれいかん
1873 - 1885 かん 歩兵ほへい連隊れんたい 連隊れんたいちょう
1885 - 1888 かん 歩兵ほへい旅団りょだん 旅団りょだんちょう
1888 - 1896 たびかん 歩兵ほへい旅団りょだん 旅団りょだんちょう
1896-1946 連隊れんたい 歩兵ほへい連隊れんたい 連隊れんたい司令しれいかん

師団しだんせいかん(1888 - 1945)[編集へんしゅう]

1888ねんの6かん
1896ねんの13かん
1899ねんの12かん
1907ねんの18かん
1925ねんの14かん

にちしん戦争せんそうまでの6かん(1888 - 1894)[編集へんしゅう]

1888ねん明治めいじ21ねん)5がつ12にち鎮台ちんだい呼称こしょう廃止はいしし、師団しだん統一とういつすることをさだめた師団しだん司令しれい条例じょうれい制定せいていされた[9]師団しだんせいのもとで師団しだんちょうは、管内かんないにある軍隊ぐんたい統率とうそつし(だい1じょう)、出師すいし準備じゅんび徴兵ちょうへいこと統括とうかつし(だい2じょう)、不意ふいおかせかさね災害さいがい緊急きんきゅうようする場合ばあいには管内かんない部隊ぶたい自己じこ判断はんだんうごかす権限けんげんった。このとき従来じゅうらいぐんかんかんに、かんたびかんがせ、かん師団しだんたびかん旅団りょだん対応たいおうするようにした[10]おな陸軍りくぐん管区かんくひょう制定せいていされ[11]鎮台ちんだい条例じょうれい付録ふろくだった編制へんせい管区かんくひょう独立どくりつした法令ほうれいになった。かんとう管区かんく陸軍りくぐん管区かんくひょうさだめて公表こうひょうするのは、徴兵ちょうへい事務じむにあたる市町村しちょうそんとの関係かんけい必要ひつようなことであった。

このとし改正かいせい全国ぜんこくは6つのかんけられ、かんしたにはかく2つのたびかんたびかんしたにはかく4つの大隊だいたいと0から2の警備隊けいびたいがおかれた。警備隊けいびたい離島りとうのために特別とくべつかれた区域くいきである。大隊だいたいしたに2から4の監視かんしかれたが、これは事務じむのための区域くいき対応たいおうする部隊ぶたいたない。かん複数ふくすう府県ふけんにまたがり、3かしょのぞいて府県ふけんかいにそって境界きょうかいいた。3つの例外れいがいは、三重みえけんだい3かん伊勢いせこく志摩しまこく)とだい4かん伊賀いがこく)に、福井ふくいけんだい3かん越前えちぜんこく)とだい4かん若狭わかさこく)に、岡山おかやまけんだい4かん備前びぜんこく美作みさくこく)とだい5かん備中びっちゅうこく)にかれたところである。北海道ほっかいどうは、管区かんく制定せいていいたるまでだい2かんだい4たびかん青森あおもり大隊だいたいぞくすることとした。[11]

1890ねん明治めいじ23ねん)5がつ19にちに、山口やまぐちけんあかあいだせきいま下関しものせき)と豊浦とようらぐんだい5かんから九州きゅうしゅうだい6かんうつされた[12]関門海峡かんもんかいきょう守備しゅび統一とういつ指揮しきするためであろう。

にちしん戦争せんそうちゅうに7かん(1894 - 1896)[編集へんしゅう]

1894ねん明治めいじ27ねん)のにちしん戦争せんそうは、6師団しだんかん近衛このえ師団しだんではじめ、戦争せんそう開始かいし北海道ほっかいどう屯田とんでんへいをもとに臨時りんじだい7師団しだん編成へんせいした。このとし10がつ16にち陸軍りくぐん管区かんくひょう改正かいせいされ、北海道ほっかいどうだい7かんかれた[13]

だい7かん設置せっち同日どうじつに、徳島とくしまけん板野いたのぐん鳴門なると要塞ようさい所属しょぞくを、だい5かんから、対岸たいがん兵庫ひょうごけん淡路島あわじしま管轄かんかつするだい4かんうつした。これは鳴門海峡なるとかいきょう守備しゅびどういち師団しだんゆだねるためである。[13]

だい7かん設置せっちは、臨時りんじだい7師団しだん常設じょうせつする意向いこうあらわれであったが、人口じんこうすくない北海道ほっかいどう1個いっこ師団しだんささえるのは容易よういではなかった。実際じっさい師団しだん設立せつりつには戦後せんごなおすうねんかかり、あとは屯田とんでんへい整理せいりのみという段階だんかいにこぎつけたのは1900ねん明治めいじ33ねん)のことであった[14]

にちしんにち戦争せんそうあいだの13かん(1896 - 1899)[編集へんしゅう]

にちしん戦争せんそう直後ちょくごに、日本にっぽんはロシアとの戦争せんそうそなえて陸海りくかいぐん軍備ぐんび拡張かくちょう計画けいかくした[15]陸軍りくぐんは6師団しだん増設ぞうせつすることをもとめ、1896ねん明治めいじ29ねん)4がつ1にちにその計画けいかくしたがってかん分割ぶんかつしなおした[16]

この計画けいかくでは、従来じゅうらいだい2からだい5かんにあるかく2たびかんのうち、師団しだん司令しれい所在地しょざいちふくまないほうのたびかんから、新設しんせつだい8からだい12かんつく[17]関東かんとう地方ちほうだい1かんからはひがしはんいて近衛このえ師団しだんのための近衛このえかんてる[17]北海道ほっかいどうだい7かんのままである。こうして、北海道ほっかいどうから沖縄おきなわまでが、だい1からだい12かん近衛このえかん全部ぜんぶで13のかんけられた。戦争せんそう獲得かくとくした台湾たいわんかんかれなかった。

かん境界きょうかい基本きほんてき従来じゅうらいかんたびかん境界きょうかいいだが、分割ぶんかつせんではきゅうたびかん境界きょうかいからえた箇所かしょが2つあった。すなわち、だい4かん分割ぶんかつさいに、新設しんせつだい10かんうつされるべき淡路島あわじしま旧師きゅうしかんにとどめて紀淡海峡きたんかいきょう防衛ぼうえいだい4かん統一とういつ指揮しきいた[17]。また、だい6かん分割ぶんかつさいに、しもせき長崎ながさき佐世保させぼの3要地ようち防衛ぼうえいにん新設しんせつだい12かん集中しゅうちゅうするのをけるため、長崎ながさきけんだい6かんにとどめ、かわりに大分おおいたけんだい12かんれた[17]たびかん境界きょうかいいだ結果けっかとしてかん府県ふけんかいをまたぐ箇所かしょおおくなった。

この改正かいせいでは、たびかん廃止はいしし、かん直下ちょっか連隊れんたいいた。連隊れんたい大隊だいたいあらためたものである[17]連隊れんたい所在地しょざいち変更へんこうおおかった[18]。またこの改正かいせいから、陸軍りくぐん管区かんくひょう簡略かんりゃくにし、司令しれい所在地しょざいち所属しょぞく部隊ぶたい陸軍りくぐん常備じょうびだんたい配備はいびひょうにまとめることにした[18]

しんかん事務じむは、あたらしい師団しだん司令しれいができるまで既存きそん師団しだんちょうおこなった。だい8かんだい2師団しだんちょうだい9かんだい3師団しだんちょうだい10かんだい4師団しだんちょうだい11かんだい5師団しだんちょうだい12かんだい6師団しだんちょうである。[19]

にち戦争せんそうの12かん (1899 - 1907)[編集へんしゅう]

1899ねん明治めいじ32ねん)4がつ1にちに、近衛このえかん廃止はいしされてだい1かんわさり、全部ぜんぶで12かんになった。近衛このえ師団しだん歩兵ほへい騎兵きへい関東かんとう東部とうぶかぎらず全国ぜんこくかんから徴集ちょうしゅうし、天皇てんのう護衛ごえいする名誉めいよ分有ぶんゆうさせることにしたのである。これにともないだい1かん連隊れんたいは8となり(は4)、だい1師団しだんだけでなく、近衛このえ師団しだん砲兵ほうへい工兵こうへい輜重しちょうへいだい7師団しだん不足ふそくぶんなどに兵員へいいん融通ゆうずうする役割やくわりになった[20]

そして1903ねん明治めいじ36ねん)には一度いちど廃止はいししたたびかん復活ふっかつさせた[21]連隊れんたい司令しれい徴兵ちょうへい事務じむにあたるのはわらないが、この重大じゅうだい仕事しごと精密せいみつ厳格げんかく執行しっこうするために、旅団りょだんちょう監督かんとくさせるという理由りゆうである[22]

1904ねん明治めいじ37ねん)にはじまったにち戦争せんそうは、この12かん13師団しだんではじめ、戦争せんそうちゅう後備こうびの2師団しだん臨時りんじ野戦やせん師団しだん4急造きゅうぞうして戦地せんちおくした[23]

にち戦争せんそうの18かん(1907 - 1925)[編集へんしゅう]

戦後せんご陸軍りくぐん臨時りんじ編成へんせいの4師団しだんをそのまま常設じょうせつとし、さらにやして平時へいじ25師団しだん戦時せんじ50師団しだん拡張かくちょうする計画けいかく策定さくていした。さすがにそれはみとめられなかったが、だい1軍備ぐんび充実じゅうじつ計画けいかくとして19師団しだんへの拡張かくちょう承認しょうにんされ、そのためにかん区割くわ変更へんこう必要ひつようになった[24]

そこで、1907ねん明治めいじ40ねん)09がつ17にち陸軍りくぐん管区かんくひょう改正かいせいで、6かんつくし、全部ぜんぶで18かんとした[25]。この18かん体制たいせいは、1925ねん大正たいしょう14ねん)までつづいた。途中とちゅう1915ねん大正たいしょう4ねん)に朝鮮ちょうせん所在地しょざいちとするだい19師団しだんだい20師団しだん増設ぞうせつされたが、これはみずからのかんともなわなかった。しん師団しだん兵員へいいんは、内地ないちかん徴兵ちょうへいされて朝鮮ちょうせんおくられた。

もっとも、境界きょうかい変更へんこうはたびたびあり、かん境界きょうかいえたものとしては以下いかがある。

1913ねん大正たいしょう2ねん)7がつ4にち改正かいせいで、小倉おぐらだい12かん増強ぞうきょうのため、だい5かんから山口やまぐちけん厚狭あさぐんを、だい18かんから長崎ながさきけん壱岐いきぐん移管いかんした[26]

1915ねん大正たいしょう4ねん)9がつ13にちかん連隊れんたい境界きょうかい変更へんこうがあった。かんレベルでは、兵庫ひょうごけん氷上ひかみぐんだい4かんから、福井ふくいけん大飯おおいぐん京都きょうと北桑田きたくわだぐんみなみ桑田くわたぐん船井ふないぐんだい16かんからけずり、だい10かんうつした。岡山おかやまけん久米くめぐんだい10かんから、愛媛えひめけん宇摩うまぐん新居にのいぐん周桑しゅうそうぐんだい11かんからけずり、だい17かんうつした。愛媛えひめけん上浮穴かみうけなぐんだい11かんからけずり、だい5かんうつした。熊本くまもとけん阿蘇あそぐんだい6かんからけずり、だい12かんうつした。[27]

1920ねん大正たいしょう9ねん)8がつ10日とおかかん連隊れんたい境界きょうかい変更へんこうがあった。かん境界きょうかい変更へんこうでは、山梨やまなしけん足柄上あしがらかみぐん足柄下あしがらしもぐんだい1かんからだい15かんうつした。岡山おかやまけん小豆しょうずぐんだい10かんからだい11かんうつし、苫田とまたぐん勝田かつたぐん真庭まにわぐんだい10かんからだい17かんうつした。広島ひろしまけん双三ふたみぐんだい17かんからだい5かんうつした。愛媛えひめけん周桑しゅうそうぐんだい17かんからだい15かんうつし、宇摩うまぐん新居にのいぐんだい17かんからだい11かんうつした。福岡ふくおかけん朝倉あさくらぐんだい12かんからだい18かんうつした。また、宮崎みやざきけん児湯こゆぐんだい6かんからだい12かんうつした[28]

1924ねん大正たいしょう13ねん)5がつ5にちたびかんがふたたび廃止はいしされた[29]

同年どうねん8がつ1にちには、樺太からふとみなみ樺太からふと)がだい7かん旭川あさひかわ連隊れんたいぞくすとめられた[30]樺太からふとにち戦争せんそう結果けっかロシアから獲得かくとくした領土りょうどだが、このときまでどの管区かんくにもはいっていなかったのである。

宇垣うがき軍縮ぐんしゅくからにちちゅう戦争せんそうまでの14かん (1925 - 1940)[編集へんしゅう]

だい1世界せかい大戦たいせん世界せかいてき軍縮ぐんしゅく傾向けいこうなか日本にっぽん陸軍りくぐん軍備ぐんび整理せいりすすめたが、そのだい1(1922ねん山梨やまなし軍縮ぐんしゅく)とだい2(1923ねん)ではかん師団しだん変更へんこうはなかった。1925ねん大正たいしょう14ねん)のだい3軍備ぐんび整理せいり、すなわち宇垣うがき軍縮ぐんしゅくで、内地ないちの4師団しだん・8旅団りょだん・16連隊れんたい廃止はいしになり、4がつ6にちかん区割くわ変更へんこうおこなわれた[31]廃止はいしされたのはだい13師団しだんだい15師団しだんだい17師団しだんだい18師団しだんである。廃止はいしされた連隊れんたいはこれら4師団しだん所属しょぞくとはかぎらず、歴史れきしなが連隊れんたいのこ配慮はいりょがとられた[32]。この改正かいせいで17師団しだん・14かんとなった。かんたないのは朝鮮ちょうせんだい19、だい20と東京とうきょう近衛このえ師団しだんわらない。

1888ねんから1925ねんまでのかん変遷へんせん
地方ちほう 1888ねん 1896ねん新設しんせつ 1907ねん新設しんせつ
✕は1925ねん廃止はいし
北海道ほっかいどう だい7(94ねん新設しんせつ  
東北とうほく だい2 だい8
関東かんとう だい1 近衛このえ(99ねん廃止はいし だい14
中部ちゅうぶ だい3 だい9 だい13・✕だい15
近畿きんき だい4 だい10 だい16
中国ちゅうごく四国しこく だい5 だい11 だい17
九州きゅうしゅう だい6 だい12 だい18

1930ねん昭和しょうわ5ねん)に、宇垣うがき一成いっせい陸軍りくぐん大臣だいじんはさらなる師団しだん削減さくげんふくめた軍備ぐんび整理せいり検討けんとうしたが、翌年よくねん満州まんしゅう事変じへんにより事態じたい一変いっぺんした[33]陸軍りくぐん軍拡ぐんかくてんじ、航空こうくう戦車せんしゃ部隊ぶたい独立どくりつ歩兵ほへいだんなどの部隊ぶたい次々つぎつぎ新設しんせつした。師団しだん増加ぞうか計画けいかくしたが、実現じつげん後回あとまわしになった。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)ににちちゅう戦争せんそうはじまってから1940ねん昭和しょうわ15ねん)までに、陸軍りくぐん多数たすう師団しだん増設ぞうせつしたが、かんにはけなかった。新設しんせつ師団しだんみずからのかんたず、旧来きゅうらいかん徴集ちょうしゅうされた兵員へいいん編成へんせいされた。師団しだんかんが1たい1対応たいおうしていた時代じだいには、地域ちいき徴兵ちょうへいりつ均等きんとうにするために時々ときどき区割くわりを変更へんこうする必要ひつようがあったが、1かんから複数ふくすう師団しだん部隊ぶたい兵員へいいん徴集ちょうしゅうされるようになると、「そと」にまわ人数にんずう加減かげんして調整ちょうせいできるようになったのである。

1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつ2にち朝鮮ちょうせんにあるだい19師団しだんだい20師団しだん管区かんくさだめられた[34]師団しだん管区かんくという。師団しだん管区かんくしたには、連隊れんたい相当そうとうする兵事へいじがあり、徴兵ちょうへいはしないが志願しがんへい受付うけつけなど地区ちくないぐん関連かんれん行政ぎょうせいになった[35]

ぐん管区かんくしたかん管区かんく (1940 - 1945)[編集へんしゅう]

ぐん管区かんくしたの14、16、14かん (1940-41、41-43, 43-45)[編集へんしゅう]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ10日とおかに、陸軍りくぐんかんうえぐん管区かんくき、ぐん司令しれいかんぐん司令しれいぐん管区かんく動員どういん防衛ぼうえいてのひららせるために、ぐん司令しれいれい制定せいていし、8がつ1にち施行しこうした[36]。これ以前いぜん師団しだんちょう天皇てんのうちょく隷する地位ちいにあり、戦時せんじ必要ひつようおうじて上級じょうきゅう司令しれい指揮しきはいるという立場たちばにあったが、ぐん司令しれいれいにより、天皇てんのうちょく隷をやめ、ぐん司令しれいに隷する立場たちばになった[37]

同時どうじだい1かんだい2かんなどの番号ばんごうをやめ、東京とうきょうかん仙台せんだいかんなど所在地しょざいち地名ちめいから名付なづけることにした[36]かん境界きょうかい旧来きゅうらいのままである。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)11月1にちに、連隊れんたい府県ふけん一致いっちさせる境界きょうかい変更へんこうおこなった[38]かん境界きょうかいもそれにともなって整理せいりされ、1かんは3から5連隊れんたいかかえることになった。

またこのときの改正かいせいでは、朝鮮ちょうせんにあった師団しだん管区かんくかん改称かいしょうし、みなみかんきょうしろかんいた。した兵事へいじくのはわりない。りょうかんは2ねんの1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつ26にち廃止はいしされた[39]

19、17管区かんくへの改編かいへん (1945)[編集へんしゅう]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)になると、太平洋戦争たいへいようせんそうでの敗色はいしょくくなり、本土ほんど決戦けっせん準備じゅんびすすめられた。ぐん管区かんく方面ほうめんぐん作戦さくせん地域ちいき一致いっちさせ、作戦さくせん部隊ぶたい指揮しき方面ほうめんぐん、その部隊ぶたい指揮しきぐん管区かんく、と役割やくわり分担ぶんたんさせることにした[40]。これにともない内地ないち朝鮮ちょうせん台湾たいわんぐん司令しれいかんぐん司令しれいは2がつ11にちからぐん管区かんく司令しれいぐん管区かんく司令しれいかんとなった[41]

つづいて4がつ1にちに、師団しだん留守るす師団しだん)がかん管轄かんかつする方式ほうしきあらため、師団しだん名目めいもくじょうむすびつきをたない管区かんく司令しれいあらたに設置せっちした。従来じゅうらいかん管区かんく改称かいしょうした[42]内地ないちでは、従来じゅうらい留守るす師団しだん司令しれい管区かんく司令しれいに、司令しれい補充ほじゅうたいからなる留守るす師団しだん管区かんく部隊ぶたい転換てんかんした。朝鮮ちょうせんでは、留守るす師団しだん新設しんせつ師団しだん転換てんかんし、司令しれい管区かんく部隊ぶたいあらたに編成へんせいした[43]

方面ほうめんぐんぐん管区かんく地域ちいき一致いっちさせるために、ぐん管区かんく区割くわりが変更へんこうになり、かんレベルでは姫路ひめじかん廃止はいしして長野ながのかんいた[44]。また、朝鮮ちょうせんかん管区かんく)が5つかれた[42]

19管区かんくは、6がつ20日はつか中部ちゅうぶぐん管区かんくぞくしていた広島ひろしま管区かんく善通寺ぜんつうじ管区かんく廃止はいししてそれぞれ中国ちゅうごくぐん管区かんく四国しこくぐん管区かんく変更へんこうしたことで、名目めいもくじょう17にった[45]りょうぐん管区かんくした管区かんくはなく、実質じっしつてきに1管区かんくのみのぐん管区かんくである。この状態じょうたいで、8がつ15にち敗戦はいせんむかえた。

管区かんく形式けいしきてき廃止はいしは、だいいち復員ふくいんしょう不要ふようになった軍令ぐんれい一括いっかつ廃止はいしした1946ねん3がつ31にちである[46]

地名ちめいかん一覧いちらん[編集へんしゅう]

地名ちめいかんとその前身ぜんしんとなったかん師団しだん管区かんくしめす。改廃かいはいがあるため、ある一時いちじてんにこれらが全部ぜんぶそろっていたわけではない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 昭和しょうわ2ねん(1927ねん制定せいていの「兵役へいえきほう施行しこうれいだい45じょう。『兵役へいえきほう関係かんけい法規ほうき. 昭和しょうわ2ねん改正かいせい』、内閣ないかく印刷いんさつきょく、1928ねん、13ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクションのリンクさき11コマめ。
  2. ^ 山本やまもと和重かずえ北海道ほっかいどう徴兵ちょうへいせい」、『きた軍隊ぐんたいぐん』141-149ぺーじ
  3. ^ ふとしせいるいてんだい2へんだい205かん兵制へいせい4・武官ぶかん職制しょくせい4)「鎮台ちんだい条例じょうれい改定かいていだい3じょう
  4. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)288ぺーじ
  5. ^ ふとしせいるいてんだい2へんだい205かん兵制へいせい4・武官ぶかん職制しょくせい4)「鎮台ちんだい条例じょうれい改定かいてい」。以下いか条文じょうぶんにかんする出典しゅってんおなじ。
  6. ^ ふとしせいるいてんだい2へんだい205かん兵制へいせい4・武官ぶかん職制しょくせい4)かん営所官員かんいん条例じょうれいつづ条文じょうぶん出典しゅってんおなじ。
  7. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい9へんだい6かん兵制へいせいもん兵制へいせいそう陸海りくかいぐん管制かんせいちょう衙及兵営へいえいじょう堡附・兵器へいき馬匹ばひつ及艦舩・徴兵ちょうへい)、「鎮台ちんだい条例じょうれい改正かいせい」。以下いか条文じょうぶん出典しゅってんおなじ。
  8. ^ 明治めいじ18ねん鎮台ちんだい条例じょうれい付録ふろくの「ななぐんかん兵備へいびひょう」。
  9. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい12へんだい12かん兵制へいせい2・陸軍りくぐん管制かんせい1)「鎮台ちんだい条例じょうれい廃止はいし師団しだん司令しれい条例じょうれい制定せいてい」。以下いか条文じょうぶんにかんする出典しゅってんおなじ。
  10. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい12へんだい12かん兵制へいせい2・陸軍りくぐん管制かんせい1)「鎮台ちんだい条例じょうれい廃止はいし師団しだん司令しれい条例じょうれい制定せいてい付録ふろくの「師団しだん司令しれい条例じょうれい制定せいてい鎮台ちんだい条例じょうれい廃止はいし理由りゆうしょ」。
  11. ^ a b 公文こうぶん類聚るいじゅうだい12へんだい11かん兵制へいせい1・兵制へいせいそう)「陸軍りくぐん管区かんく制定せいてい」(明治めいじ21ねん5がつ12にち)。
  12. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい14へんだい20かん兵制へいせい2・陸海りくかいぐん官制かんせい1)「大隊だいたい司令しれい条例じょうれいちゅう并陸ぐん管区かんくひょうちゅう改正かいせい」、明治めいじ23ねん5がつ19にち
  13. ^ a b 公文こうぶん類聚るいじゅうだい18へんだい29かん軍事ぐんじもん1・陸軍りくぐん1)「陸軍りくぐん管区かんくひょう大隊だいたい司令しれい条例じょうれい警備けいびたい司令しれい条例じょうれいちゅう改正かいせい」。明治めいじ27ねん10がつ16にち
  14. ^ 大江おおえ志乃しのおっとにち戦争せんそう軍事ぐんじてき研究けんきゅう』(1976ねん)、11ぺーじ
  15. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)、35ぺーじ大江おおえ志乃しのおっとにち戦争せんそう軍事ぐんじてき研究けんきゅう』(1976ねん)、8 - 10ぺーじ
  16. ^ 官報かんぽうだい3811ごう明治めいじ29ねん3がつ16にち発行はっこう陸軍りくぐん管区かんくひょう]」、明治めいじ29ねん3がつ14にち制定せいていみことのりれいだい24ごう、241 - 242ぺーじ(ファイルの1 - 2コマ)(2017ねん10がつ閲覧えつらん)。なお、戦史せんし叢書そうしょの『陸軍りくぐんぐん戦備せんび付表ふひょうだい1その2「陸軍りくぐん管区かんくひょう明治めいじ29ねん12月2にちみことのりれい382ごう)」は、『官報かんぽう』による明治めいじ29ねん3がつ16にち改正かいせい管区かんくひょうとも12月2にち改正かいせいだい7管内かんない調整ちょうせい)の管区かんくひょうとも一致いっちしない。明治めいじ31ねん3がつ5にち改正かいせい管区かんくひょううつしたもののようである。
  17. ^ a b c d e 公文こうぶん類聚るいじゅうだい20へんだい20かん陸軍りくぐんだんたい配備はいびひょう陸軍りくぐん管区かんくひょう改正かいせいシ○陸軍りくぐん常備じょうびだんたい配備はいびひょう要塞ようさい砲兵ほうへい配備はいびひょう廃止はいしちゅうの「かんしんぶん及之ニせきスル動員どういん計画けいかく意見いけん」。明治めいじ28ねん12月。
  18. ^ a b 公文こうぶん類聚るいじゅうだい20へんだい20かん軍事ぐんじいち陸軍りくぐんいち)「陸軍りくぐんだんたい配備はいびひょう陸軍りくぐん管区かんくひょう改正かいせいシ○陸軍りくぐん常備じょうびだんたい配備はいびひょう要塞ようさい砲兵ほうへい配備はいびひょう廃止はいしちゅうの「陸軍りくぐん軍団ぐんだん配備はいびひょう及陸ぐん管区かんくひょう改正かいせいけん」、明治めいじ29ねん12月。
  19. ^ 師団しだん司令しれい条例じょうれいだい18じょう改正かいせい。『公文こうぶん類聚るいじゅうだい20へんだい7かん官職かんしょく3・官制かんせい3・陸軍りくぐんしょう2・海軍かいぐんしょう司法省しほうしょう文部省もんぶしょう)「師団しだん司令しれい条例じょうれいちゅう改正かいせい」、明治めいじ29ねん12月21にちみことのりれいだい399ごう明治めいじ30ねん4がつ1にち施行しこう
  20. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい23へんだい27かん軍事ぐんじ1、陸軍りくぐん)「陸軍りくぐん管区かんくひょうちゅう改正かいせい明治めいじ32ねん3がつ5にちみことのりれいだい53ごう本文ほんぶんおよびPDFファイルの5から9ぺーじの「理由りゆう」、制定せいていが3月15にち施行しこうが4がつ1にちである。
  21. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい27へんだい3かん、「旅団りょだん司令しれい条例じょうれい聯隊れんたい司令しれい条例じょうれい沖縄おきなわ警備隊けいびたい司令しれい条例じょうれい陸軍りくぐん管区かんくひょう改正かいせい」、明治めいじ36ねん2がつ13にちみことのりれいだい10ごう
  22. ^ 公文こうぶん類聚るいじゅうだい27へんだい3かん、「旅団りょだん司令しれい条例じょうれい聯隊れんたい司令しれい条例じょうれい沖縄おきなわ警備隊けいびたい司令しれい条例じょうれい陸軍りくぐん管区かんくひょう改正かいせいちゅうの「旅団りょだん司令しれい条例じょうれいちゅう改正かいせい理由りゆうしょ」、明治めいじ36ねん1がつ
  23. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)、50ぺーじ
  24. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)、55-57ぺーじ
  25. ^ 官報かんぽうだい7268ごう明治めいじ40ねん9がつ18にち発行はっこうなかの「陸軍りくぐん管区かんくひょう」、明治めいじ40ねん軍令ぐんれいりくだい3ごう戦史せんし叢書そうしょ陸軍りくぐんぐん戦備せんび付表ふひょうだい2その2「陸軍りくぐん管区かんくひょう」(明治めいじ40ねん9がつ17にち軍令ぐんれいりくだい3ごう)。
  26. ^ ふとしせいるいてんだい37へんだい15かん陸軍りくぐん管区かんくひょうちゅう改正かいせい」(大正たいしょう2ねん7がつ4にち)。
  27. ^ ふとしせいるいてんだい39へんだい14かん、「陸軍りくぐん管区かんくひょうちゅう改正かいせい」。『官報かんぽう936ごう大正たいしょう4ねん9がつ14にち発行はっこう
  28. ^ 官報かんぽうだい2406ごう大正たいしょう9ねん8がつ9にち発行はっこう軍令ぐんれいりくだい10ごう制定せいていが8がつ7にち施行しこうが8がつ10日とおか
  29. ^ 官報かんぽうだい3509ごう大正たいしょう13ねん5がつ7にち発行はっこう軍令ぐんれいりくだい5ごう
  30. ^ 官報かんぽうだい3523ごう大正たいしょう13ねん5がつ23にち軍令ぐんれいりくだい7ごう制定せいていが5月21にち施行しこうが8がつ1にち
  31. ^ 官報かんぽうだい3785ごう大正たいしょう14ねん4がつ8にち発行はっこう軍令ぐんれいりくだい2ごう
  32. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)101ぺーじ
  33. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)119 - 120ぺーじ
  34. ^ 官報かんぽうだい3772ごう昭和しょうわ14ねん8がつ2にち発行はっこう、37ぺーじ(リンクさきの3コマめ)。昭和しょうわ14ねん軍令ぐんれいりくだい6ごう
  35. ^ くわしくは朝鮮ちょうせんじん日本にっぽんへい参照さんしょう
  36. ^ a b 官報かんぽうだい4066ごう昭和しょうわ15ねん7がつ26にち軍令ぐんれいりくだい20ごう。7月24にち制定せいてい、8がつ1にち施行しこう
  37. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)、287ぺーじ
  38. ^ 官報かんぽうだい4375ごう昭和しょうわ16ねん8がつ7にち軍令ぐんれいりくだい20ごう。8月5にち制定せいてい、11月1にち施行しこう以下いかこの改正かいせい事実じじつについての出典しゅってんおなじ。
  39. ^ 官報かんぽうだい4939ごう昭和しょうわ18ねん7がつ1にち軍令ぐんれいりくだい15ごう
  40. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)、468ぺーじ
  41. ^ 官報かんぽうだい5420ごう昭和しょうわ20ねん2がつ10日とおか軍令ぐんれいりくだい2ごう制定せいていは2がつ9にち施行しこうは2がつ11にち
  42. ^ a b 官報かんぽうだい5420ごう昭和しょうわ20ねん2がつ10日とおか軍令ぐんれいりくだい3ごう。2月9にち制定せいてい、4がつ1にち施行しこう
  43. ^ 陸軍りくぐんぐん戦備せんび』(戦史せんし叢書そうしょ)、477ぺーじ
  44. ^ 官報かんぽうだい5405ごう昭和しょうわ20ねん1がつ24にち軍令ぐんれいりくだい1ごう。1月22にち制定せいてい、2がつ11にち施行しこう長野ながのかん業務ぎょうむ開始かいし後述こうじゅつ管区かんくへの移行いこうにあわせ、4がつ1にち延期えんきになった。『官報かんぽうだい5457ごう昭和しょうわ20ねん3がつ27にち軍令ぐんれいりくだい6ごう
  45. ^ 官報かんぽうだい5531ごう昭和しょうわ20ねん6がつ22にち軍令ぐんれいりくだい17ごう
  46. ^ 官報かんぽうだい5761ごう昭和しょうわ21ねん3がつ30にちいちふくしょうたちだい4ごう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]