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紀元前きげんぜん378ねん

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紀元前きげんぜん378ねん(きげんぜん378ねん)は、ローマれきとしである。

当時とうじは、「メドゥリヌス、フィデナス、ラナトゥス、シクルス、プルウイルス、マケリヌスがまもるみんかん就任しゅうにんしたとし」としてられていた(もしくは、それほど使つかわれてはいないが、ローマ建国けんこく紀元きげん376ねん)。紀年きねんほうとして西暦せいれき(キリスト紀元きげん)がヨーロッパでひろ普及ふきゅうした中世ちゅうせい時代じだい初期しょき以降いこう、このとし紀元前きげんぜん378ねん表記ひょうきされるのが一般いっぱんてきとなった。

紀年きねんほう

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できごと

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ギリシア

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  • テーバイ将軍しょうぐん政治せいじエパメイノンダスが、テーバイぐん指揮しきしゃとなった。ペロピダスボエオタルク (Boeotarch) とばれるテーバイの最高さいこう執政しっせいかんとなった
  • アテナイ将軍しょうぐんコノン息子むすこティモテオス (Timotheus) が、将軍しょうぐんしょくえらばれた。
  • スパルタが(アテナイの外港がいこうである)ペイライエウス(現在げんざいピレウス)を奪取だっしゅしようとこころみたことから、アテナイはテーバイ接近せっきんした。アテナイの傭兵ようへい隊長たいちょうカブリアスはテーバイ近郊きんこうで、かずまさったアゲシラオス2せいひきいる軍勢ぐんぜい対峙たいじした。アゲシラオス2せいがわ前進ぜんしんしてきたが、カブリアスは攻撃こうげき命令めいれいさず、そのわりに、やり穂先ほさきうえけたままてきけず、たてかたせずにひだりひざてかけく「やすめ」の姿勢しせいめいじた。命令めいれいただちに、問答もんどう無用むよう指揮しき傭兵ようへいたちにつたえられ、さらに友軍ゆうぐん精鋭せいえいであるゴルギダス (Gorgidas) ひきいる神聖しんせいたいにも伝達でんたつされた。この「さげすみの姿勢しせい (show of contempt)」をせたことで、スパルタぐん前進ぜんしんまり、ほどなくしてアゲシラオス2せいがわ撤退てったいした[1]
  • アテナイはテーバイと同盟どうめいし、いわゆる「だいアテナイ帝国ていこく (Second Athenian Empire)」を構築こうちくした。この同盟どうめいには、ボイオーティアだい部分ぶぶんと、イオニア島々しまじま一部いちぶくわわっていた。

シチリア

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  • ディオニュシオス1せい (Dionysius I of Syracuse) の3度目どめたいカルタゴ戦争せんそうは、悲惨ひさんきとなった。クロニオン (Cronium) のたたかいで壊滅かいめつてき敗北はいぼくきっしたディオニュシオス1せいは、賠償金ばいしょうきんとして1000タレント支払しはらいと、ハリュコスがわ (the Halycus River) 以西いせいのカルタゴへの割譲かつじょういられた。

中国ちゅうごく

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誕生たんじょう

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死去しきょ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

出典しゅってん

  1. ^ Mark H. Munn (1993). The Defense of Attica: The Dema Wall and the Boiotian War of 378-375 B.C.. University of California Press. ISBN 978-0520076853. http://ark.cdlib.org/ark:/13030/ft0q2n99ng/ 

関連かんれん項目こうもく

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