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芙苑あきら

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芙苑 あきら(ふぞの あき、1969ねん11月20にち - )は、日本にっぽん音楽家おんがくか電子でんし音楽おんがくトランスなどでおもられ、国際こくさいてき活動かつどうしている。カナダ在住ざいじゅう

概要がいよう[編集へんしゅう]

トランステクノ分類ぶんるいされる作品さくひん主体しゅたいに、IDMてきなものやクラシック音楽おんがくりの作品さくひんまで、キャリア全体ぜんたいにおいて多彩たさい変化へんかんでいる。ソロ・アルバムのおおくは組曲くみきょくスタイルで構成こうせいされており、アルバム全体ぜんたいひとつのテーマを表現ひょうげんする作品さくひんおおい。

ノンジャンル電子でんし音楽おんがくもしくは「総合そうごう音楽おんがく」としての「シンセサイザー・シンフォニー(Synthesizer Symphony)」とばれる連作れんさくソロ・アルバム・シリーズが代表だいひょうさくとしてられ、このスタイルの創始そうししゃとされる。このスタイルとリンクした「シンフォニック・テクノ(en:Symphonic_Techno)」といったしんジャンルを提唱ていしょうしたパイオニアでもある[1]。かかる評価ひょうかてんにおいては、プログレッシブ・ロックともしばしばクロスオーバーする傾向けいこうもある[2]

一方いっぽう、トランス前史ぜんし時代じだいの1980年代ねんだい後半こうはんよりトランスてき手法しゅほうによる作品さくひん先駆せんくてき発表はっぴょうしている[3]ほか、活動かつどう初期しょきにはミュジーク・コンクレートひとしのような実験じっけんてき作品さくひんなども制作せいさく発表はっぴょうしていた。

バンドおよびユニット[編集へんしゅう]

経歴けいれき[編集へんしゅう]

少年しょうねん時代じだい(クラシック・現代げんだい音楽おんがく時代じだい[編集へんしゅう]

幼少ようしょう両親りょうしん離婚りこん母子ぼし家庭かていそだった。さんにんあねおとうとすえとしてまれ、うえにんあねがいたが、したあねは14さい難病なんびょうのためくなっている[4]

4さいからピアノをはじめ、6さいごろから作曲さっきょくはじめる。作曲さっきょくまゆずみ敏郎としお才能さいのう見出みいだされ、幼少ようしょうよりクラシック音楽おんがく英才えいさい教育きょういくけた。まゆずみ敏郎としお師事しじ[4]当初とうしょクラシック作曲さっきょく志望しぼうであり、じゅうだい前半ぜんはん作曲さっきょくとして活動かつどうはじめ、いくつかのクラシック作品さくひん習作しゅうさく発表はっぴょう。また、このころより電子でんし音楽おんがく前衛ぜんえい音楽おんがく傾倒けいとうする。

作曲さっきょく武満たけみつとおるは、高校生こうこうせいだった芙苑あきらっているが、当時とうじ武満たけみつは芙苑あきらを「たぐいまれな、悪魔あくまてき天才てんさい・・・」とひょうしたというエピソードがある[1]

高校こうこう在学ざいがくちゅうすべ電子でんし楽器がっきのみによるアンサンブル・オーケストラ「エテロフォニック・オーケストラ(Etherophonic Orhcestra)」結成けっせい図形ずけい楽譜がくふひとしもちいた前衛ぜんえいてきコンサート活動かつどうをおこなう。おそらく日本にっぽん(ないし東洋とうようはつ推定すいていされる革命かくめいてきなものであった。ほかに、ミュージック・コンクレートの手法しゅほうもちいた実験じっけんてきテープ音楽おんがく作品さくひん制作せいさくなども発表はっぴょう前衛ぜんえいてきサイケデリック・ロック・バンド「いんしんとうでも活動かつどうした[4]

日本にっぽん高校こうこうを2ねん中退ちゅうたいヨーロッパわたり、1987ねん-1991ねんごろ推定すいてい)、ドイツきゅう西にしドイツ)に滞在たいざい現地げんち作曲さっきょくカールハインツ・シュトックハウゼンい、感化かんかけた。マウリシオ・カーゲル作曲さっきょく師事しじ[5]

ケルンかくれがく研究けんきゅう専門せんもん学者がくしゃ師事しじまなぶが、のちに訣別けつべつミュンヘン大学だいがく美学びがく芸術げいじゅつがくひとしまなんだのち、ベルリン自由じゆう大学だいがく哲学てつがくまなぶ(のちに中退ちゅうたい)。

1988ねんはつのソロ電子でんし音楽おんがくプロジェクト・幻覚げんかく植物しょくぶつ研究所けんきゅうじょ(Psychedelic Plants Research Laboratory)(タイトルなし・『幻覚げんかく植物しょくぶつ研究所けんきゅうじょ』)自主じしゅ制作せいさくばんで200のみカセット・リリース。

なお、音楽おんがくジャンルてき場合ばあいおそらくこの時期じきさかいにクラシック/現代げんだい音楽おんがく範疇はんちゅうから、よりフリースタイルなノンジャンル・テクノ/電子でんし音楽おんがくてき作風さくふう変化へんかしたものとられている[1]

ソロ・デビュー~初期しょき[編集へんしゅう]

1988ねんいんしんのメンバーでロンドン滞在たいざいちゅうセカンド・サマー・オブ・ラブ別称べっしょうでもられるアシッド・ハウス・ムーヴメントに遭遇そうぐう、グループめい ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット(Far East Acid House Quartet)変更へんこうしてさい出発しゅっぱつ以後いごどうバンドは日本にっぽんとヨーロッパのアンダーグラウンド・シーンを中心ちゅうしんサイケデリックトランス、レイヴ・バンドの草分くさわけとして活動かつどう(〜1997ねん解散かいさん)。

どう1988ねんはつのソロ・アルバム『燐光りんこう(Phosphorescence)』をニューヨークのNerve Nets Recordsより発表はっぴょう(「Siamese Twin」名義めいぎ)、ソロデビュー。どうさく本人ほんにんは「アシッド・ミュージック(Acid Music)」「サイケデリック・テクノ(Psychedelic Techno)」とうんでいた[3]。デビュー当時とうじ覆面ふくめん作家さっかであり、Siamese Twinとは日本語にほんごで「シャム双生児そうせいじ」を意味いみする不気味ぶきみなペンネームで、プロフィールなども一切いっさいかされなかった。

1989ねん世界せかい単独たんどく放浪ほうろうたび挙行きょこう。ヨーロッパ、アジア各地かくちめぐり、アメリカわたる。ニューヨーク滞在たいざいちゅう現地げんちでトランス・ユニット「Psychedelic Plants Research Laboratory」(幻覚げんかく植物しょくぶつ研究所けんきゅうじょ名義めいぎでの野外やがいゲリラ・ライブをニューヨーク各地かくちでおこなう。のちに野外やがいレイヴの先駆せんくなされている[3]1991ねん推定すいていオランダアムステルダム)に移住いじゅうおもにヨーロッパ、アメリカ、日本にっぽんひとし拠点きょてんとして国際こくさいてき活動かつどうをおこなう。

一方いっぽう、ソロ・アーティストとして、『木霊こだま(Echoes)』(1990ねん)、『荒廃こうはい(Ruins)』(1993ねん)、『伽藍がらん(Cathedral)』(1995ねん)などのソロ・アルバムを発表はっぴょう。これらのさんさくは「シンフォビエントさんさく(Symphobient Trilogy)」として完結かんけつアンビエントサイケ、トランス、クラシックなどを独自どくじ手法しゅほう合成ごうせいしたような神秘しんぴてきムードの作品さくひんぐんであった。

ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット[編集へんしゅう]

ファー・イースト・アシッド・ハウス・クワルテット以下いかファーイースト)では作曲さっきょくシンセサイザー、キーボードを担当たんとう、バンド・リーダーでもあった。ファー・イーストにおいては、「原始げんし回帰かいきとしての野外やがいレイヴ」というテーマを考案こうあん提唱ていしょう、「巫女ふじょやく」ともばれたダンサーであったメンバー・田嶋たじまエリサとともにファー・イースト独自どくじのスタイルによる野外やがいレイヴを考案こうあんした。ほかにも、ファー・イーストの原型げんけいとなるアイディアのおおくを考案こうあんしたのは芙苑あきらであったといわれており、バンドにおける創作そうさくめん思想しそうめんでの中心ちゅうしん人物じんぶつられた。ファー・イースト全盛期ぜんせいき(90年代ねんだい前半ぜんはんごろ)には「ネオ・ヒッピー元祖がんそ」といったでもファンにられた。

1992ねんどうバンドのメンバーでダンサーの田嶋たじまエリサと結婚けっこん1996ねん離婚りこん)。芸術げいじゅつじょう思想しそうじょうのパートナーとしてもられたが、1994ねん夫妻ふさい日本にっぽん帰国きこくちゅうLSD所持しょじにより逮捕たいほされるといったハプニングもあった。

ファー・イーストの活動かつどうにおいてはトラブルもおおく、バンド後期こうき(1994ねん以降いこう)は、メンバーの逮捕たいほ堕落だらくによって活動かつどう自体じたい困難こんなんになっていった。ファー・イーストのよんにんのメンバーのうち、さんにん死亡しぼうしたり引退いんたいしているため、芙苑あきら唯一ゆいいつ現役げんえきアーティストである。

国際こくさいてき評価ひょうか引退いんたい復帰ふっき現在げんざい[編集へんしゅう]

1998ねんにリリースした5さくのソロ・アルバム『宇宙うちゅうろん(Cosmology)』では、シンフォニック・テクノというしんジャンル・しん手法しゅほう確立かくりつしたアルバムとなった。どうアルバムは芙苑あきら国際こくさいてきブレイクさくられている[5]。しかし、どうアルバム発表はっぴょう直後ちょくご1998ねん、アメリカのファンジンで突然とつぜん引退いんたい表明ひょうめい。その行方ゆくえをくらました。

この時期じき実質じっしつてきには2000ねんトランス・レイヴ・ドーターズをプロデュースしたのみで、それ以外いがい一切いっさい仕事しごとをやめてしまい、すう年間ねんかんリタイアしていたが、2003ねん、5ねんぶりに発表はっぴょうされたアルバム『年代ねんだい(Chronicle)』で復帰ふっきした。『年代ねんだい(Chronicle)』は、電子でんし音楽おんがくのほか、オーケストラ合唱がっしょう民族みんぞく楽器がっきなどをフィーチャーした交響こうきょうてき大作たいさくとしてしん境地きょうちひらいた。

2007ねんには、芙苑あきらの80-90年代ねんだい代表だいひょうきょくおもにトランスけい楽曲がっきょく中心ちゅうしん)をトランス・レイヴ・ドーターズをはじめとする内外ないがいDJリミックスがけたクラブ・リミックス・アルバム『恍惚こうこつてき宇宙うちゅうろん / トランス・レイヴ・コスモロジー(Trance-Rave Cosmology)』がリリースされた(芙苑あきら with トランス・レイヴ・ドーターズ名義めいぎ)。

2008ねん9月9にち現在げんざいわか世代せだいのファー・イーストファンからの公開こうかい質問しつもんじょうによる「Q&Aしゅう」、どうバンドのもと・メンバーである芙苑あきらスペースDJリョウにんによる最新さいしんの「eメール書簡しょかんしゅう」の構成こうせいによる公式こうしきサイト「レイヴ聖典せいてん Rave Scripture – Far East Acid House Quartet 芙苑あきら田嶋たじまエリサ、スペースDJリョウ、市川いちかわカヲル」げられた。これ以前いぜん海外かいがいでのインタビューやレビュー[よう曖昧あいまい回避かいひ]翻訳ほんやくがほとんどであったため、日本語にほんごをネイティヴとしてかれたおおやけ文章ぶんしょうとしてはめずらしいれいである。

ディスコグラフィー[編集へんしゅう]

オリジナル・アルバム[編集へんしゅう]

「Siamese Twin」名義めいぎでリリースされたもっとふる音源おんげん
このアルバム以降いこうは「シンセサイザー・シンフォニー(Synthesizer Symphony)」のサブタイトルがかんされ、木霊こだま(Echoes)』を「Synthesizer Symphony No.1 シンセサイザー・シンフォニーだい1ばん」として、以降いこう、No.2、3、4・・・・ととお番号ばんごうられている。また、このアルバム以降いこうは「AQi Fzono(芙苑あきら)」名義めいぎでリリースされている。
時空じくうあいだ超越ちょうえつ」をテーマとしている。「Cosmology 5」はクラブ・ヒットとなった。
2006ねんにはリマスターばん再発さいはつされた。
人類じんるい歴史れきし」をテーマにしている。

リミックス・アルバム[編集へんしゅう]

リミックス・アルバム/ベスト・ヒット・アルバム[編集へんしゅう]

  • 恍惚こうこつてき宇宙うちゅうろん/トランス・レイヴ・コスモロジー(Trance-Rave Cosmology)』 - AQi Fzono Club Hits Dance Remixes Best(2007ねん)(芙苑 あきら with トランス・レイヴ・ドーターズ)
芙苑あきら過去かこのソロ・アルバムからの代表だいひょうきょくをはじめ、ファー・イーストとう初期しょきのバンド・プロジェクトの代表だいひょうきょく収録しゅうろくされ、なおかつ全曲ぜんきょくがリミックスされたうえ、トランスのコンピレーションCDのようにつなげられているというベスト・ヒット・アルバムてき作品さくひんしゅうとなった。

そののアルバム[編集へんしゅう]

  • ぜん自動じどう少年しょうねん(Automatonboy)』(1997ねん

公式こうしきサイトのディスコグラフィーにはっていないアルバム。どのよう経緯けいいでリリースされたのかは不明ふめい

関連かんれん人物じんぶつ[編集へんしゅう]

トリビア[編集へんしゅう]

  • 日本にっぽんはじめて野外やがいレイヴを計画けいかくしたひとであるというせつがある[3][1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]