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荒神橋こうじんばし事件じけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
荒神こうじんきょう(2006ねん

荒神橋こうじんばし事件じけん(こうじんばしじけん)は、1953ねん11月11にち立命館大学りつめいかんだいがく広小路ひろこうじキャンパスでの集会しゅうかい合流ごうりゅうしようとした京都大学きょうとだいがく学生がくせいデモたい警官けいかんたい京都きょうとうち荒神橋こうじんばしうえ衝突しょうとつした事件じけんである[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

学園がくえん復興ふっこう会議かいぎと「わだつみぞう[編集へんしゅう]

1953ねん日本にっぽん国内こくない大学だいがく戦争せんそうによる被害ひがいからいまなおっておらず、朝鮮ちょうせん戦争せんそうさい軍備ぐんびともな財政ざいせいりつめにより貧弱ひんじゃく教学きょうがく環境かんきょういられていた。またレッドパージなどをつうじた国家こっか介入かいにゅうにより大学だいがく自治じちおおきく制約せいやくけていた。このとし全学ぜんがくれん中央ちゅうおう委員いいんかいは、「教授きょうじゅ職員しょくいん学生がくせい団結だんけつによってあかるい学園がくえん復興ふっこうしよう」をスローガンとした「学園がくえん復興ふっこう会議かいぎ」を京都きょうとの3大学だいがく会場かいじょうに5日間にちかん予定よてい開催かいさいすることを決定けっていした[1]

会場かいじょうとなった3大学だいがく京都きょうと同志社どうししゃたていのちかんかく大学だいがくであったが、このうち京都大きょうとだいがくでは会場かいじょう予定よていされていたほうけいいちばん教室きょうしつ使用しよう大学だいがく当局とうきょく服部はっとりたかし治郎じろう学長がくちょう)がみとめようとせず、警官けいかんたい導入どうにゅうにより抗議こうぎする学生がくせい排除はいじょするなどしていたため当局とうきょく学生がくせい自治じちかいであるどう学会がっかい1951ねん京大きょうだい天皇てんのう事件じけん結果けっか解散かいさんをよぎなくされ、このとし初夏しょか学生がくせいによる全学ぜんがく投票とうひょう再建さいけんされたばかりであった)とのあいだには険悪けんあく雰囲気ふんいきただよっていた。復興ふっこう会議かいぎ11月8にち同志社大学どうししゃだいがく明徳めいとくかん会場かいじょうとしてだい1にち開催かいさいされ、全国ぜんこくから相当そうとうすう学生がくせいあつまった[1]

どう時期じきにはまた、戦没せんぼつ学生がくせい記念きねんのために製作せいさくされたにもかかわらずさきまっていなかった「わだつみぞう」(当初とうしょ東大とうだいでの建立こんりゅう予定よていされていたが東大とうだい当局とうきょく拒否きょひにより実現じつげんしなかった)が、末川すえかわはく総長そうちょうなどの尽力じんりょくによりようやく立命大りつめいだいれられこの建立こんりゅうされることがまっていた[1]

事件じけん発生はっせい[編集へんしゅう]

復興ふっこう会議かいぎだい4にちである11月11にち、わだつみぞう立命大りつめいだい到着とうちゃくし、当日とうじつ市内しないではぞう先頭せんとうてた「歓迎かんげいデモ」がおこなわれていた。おな京大きょうだい学生がくせいたちは会場かいじょう使用しよう拒否きょひした大学だいがくへの抗議こうぎ行動こうどうえたのち、わだつみぞう歓迎かんげいのデモ、および立命大りつめいだい当時とうじのキャンパスは鴨川かもがわ対岸たいがん西岸せいがん)の広小路ひろこうじ所在しょざい)で開催かいさいちゅう復興ふっこう会議かいぎ参加さんかするため、やく100めいがデモ隊列たいれつんで近衛このえとおる経由けいゆ鴨川かもがわにかかる荒神こうじんきょうわたろうとした[1]

しかし京都きょうと市警しけいはこれを「不法ふほうデモ」とみなし午後ごご445ふんごろデモたいわたりきょう阻止そししたため、学生がくせいともみいになりきょう南側みなみがわ欄干らんかん当時とうじ木製もくせい)がたおれた。これにより身動みうごきのとれなくなっていたさい前列ぜんれつ学生がくせい15めい浅瀬あさせ落下らっか、うち7めい頭蓋とうがい骨折こっせつ骨盤こつばん骨折こっせつふく重軽傷じゅうけいしょうった[1]

市警しけい本部ほんぶでの抗議こうぎ行動こうどう弾圧だんあつ[編集へんしゅう]

学生がくせい立命大りつめいだいでの会議かいぎ参加さんかしたが、会議かいぎ市警しけい当局とうきょくたいする抗議こうぎ集会しゅうかいえられ、市警しけい本部ほんぶたいする抗議こうぎデモが決議けつぎされた。600めいのぼるデモたいよる9ごろ市警しけい本部ほんぶかい玄関げんかんまえ抗議こうぎ集会しゅうかい開始かいししたが催涙さいるいだんなどで強制きょうせい排除はいじょされ、10ぎにふたた集合しゅうごうして抗議こうぎだん編成へんせい市警しけい本部ほんぶちょう面会めんかい要求ようきゅうしようとした。しかしここで警官けいかんたい200めいあまりが学生がくせいたちにおそいかかり、学生がくせいがわ後頭部こうとうぶられるなど重軽傷じゅうけいしょうしゃ70めいした[1]

学生がくせい処分しょぶん[編集へんしゅう]

京大きょうだい当局とうきょく学生がくせい抗議こうぎ行動こうどうたい強硬きょうこう態度たいどのぞんだ。11月17にちには本部ほんぶとう時計とけいだい)で抗議こうぎすわみをおこなった学生がくせいたいし、警官けいかんたい導入どうにゅうして排除はいじょした。またどう学会がっかいによる期限きげんストライキが決議けつぎされると、大学だいがく当局とうきょく期限きげんストは学長がくちょう告示こくじ違反いはんするとして12月1にちにはどう学会がっかいおよび吉田よしだ分校ぶんこう教養きょうよう自治じちかい役員やくいん6めい無期むき停学ていがくなどの処分しょぶんくだした。もっとおも処分しょぶんとなったのは、どう学会がっかい中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんとして学園がくえん復興ふっこう会議かいぎ開催かいさい奔走ほんそうしていた(しかし荒神こうじんきょうでのデモ自体じたいには関与かんよしていなかったとされる)文学部ぶんがくぶせい松浦まつうられいで、退学たいがくよりおもがく処分しょぶんとなった。なお、松浦まつうら当時とうじ京大きょうだい寄宿舎きしゅくしゃ現在げんざい吉田よしだりょう)のしゃせい寮生りょうせい)であり、寄宿舎きしゅくしゃ処分しょぶん反対はんたいして松浦まつうらつづざいしゃさせようとしたが、京大きょうだい当局とうきょく寄宿舎きしゅくしゃ圧力あつりょくをかけて松浦まつうら退すさしゃさせた(松浦まつうらくん退すさりょう事件じけん)。以後いご寄宿舎きしゅくしゃ寮生りょうせいにゅう退すさりょうけんふく自治じちけん拡大かくだい目指めざして、大学だいがく当局とうきょくかえ衝突しょうとつするようになった[1]

訴訟そしょう[編集へんしゅう]

被害ひがいしゃ京都きょうと相手あいてどり損害そんがい賠償ばいしょうもとめる訴訟そしょうこし、勝訴しょうそした。1959ねん10月、京都きょうと地裁ちさい判決はんけつしたがい、総額そうがく27まんえん損害そんがい賠償金ばいしょうきん支払しはらった[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h 京都大きょうとだいがく世紀せいき1897-1997 京都きょうと総合そうごう研究所けんきゅうじょ むらさきみどりかい出版しゅっぱん
  2. ^ 1953ねん(昭和しょうわ28)11月11にち - 京都きょうと府立ふりつ京都きょうとがくれきいろどりかんデジタルアーカイブ 2019ねん11月22にち閲覧えつらん

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 京都きょうとみんほうしゃ藤谷ふじたに俊雄としお監修かんしゅう しる岩井いわいただしぐま へん戦後せんご京都きょうとのあゆみ』(ハードカバー)かもがわ出版しゅっぱん〈かもがわ選書せんしょ8〉、1988ねん9がつISBN 978-4-906-24742-4 
  • 京都きょうと総合そうごう研究所けんきゅうじょ藤谷ふじたに俊雄としお監修かんしゅう しる岩井いわいただしぐま へん京都きょうと大学だいがく世紀せいき―1897-1997』(単行本たんこうぼんむらさきみどりかい出版しゅっぱん8、1998ねん7がつISBN 978-4-916-00721-6 
  • 京都きょうと大学だいがくひゃくねん編集へんしゅう委員いいんかい京都きょうと大学だいがくひゃくねん総説そうせつへん京都きょうと大学だいがく後援こうえんかい、1998ねん
  • どう京都きょうと大学だいがくひゃくねん資料しりょうへん2』 京都きょうと大学だいがく後援こうえんかい2000ねん
当時とうじ新聞しんぶん記事きじ学生がくせい処分しょぶんかんする大学だいがく告示こくじなどを収録しゅうろく

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]