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葛西かさい

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葛西かさい(かさい)は、現在げんざい東京とうきょう東部とうぶ地名ちめいである。広義こうぎにはかつての下総しもうさこく葛飾かつしかぐん西にし半分はんぶん中世ちゅうせい以前いぜん)、武蔵むさしこく葛飾かつしかぐん江戸えど時代じだい初期しょき発足ほっそく)をし、狭義きょうぎには東京とうきょう江戸川えどがわ南部なんぶ地区ちくである。ほん記事きじではこの両者りょうしゃについて記述きじゅつする。

広義こうぎ葛西かさい

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平安へいあん時代じだい(およそ西暦せいれき900年代ねんだい以前いぜんよりばれている広域こういき地名ちめいくにぐんせいさだめた下総しもうさこく葛飾かつしかぐん西にし半分はんぶん葛西かさいひがし半分はんぶんかずらひがしんだ。江戸えど時代じだいには武蔵むさしこく葛飾かつしかぐんいきであり明治めいじ以降いこう東京とうきょうみなみ葛飾かつしかぐんとなったいきおおむ該当がいとうする[1][2]

地域ちいき

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現在げんざい行政ぎょうせい区分くぶんでは、東京とうきょう葛飾かつしか江戸川えどがわ全域ぜんいき墨田すみだ一部いちぶきゅう向島むこうじまのほぼ全域ぜんいき)、江東こうとう一部いちぶきゅう城東じょうとうのほぼ全域ぜんいき)になる[3]

なお本所ほんじょ地区ちく牛島うしじま向島むこうじま吾妻橋あづまばし東駒形ひがしこまがたほか)、深川ふかがわ地区ちく永代えいだいとう永代えいたい佐賀さが福住ふくずみ)は中世ちゅうせいまでは武蔵むさしこく豊島としまぐんぞくしたが、江戸えど時代じだい初期しょき武蔵むさしこく葛飾かつしかぐん発足ほっそくさい編入へんにゅうされた[4]両国りょうこく江戸えど時代じだいつくられた地名ちめい)もこれにふくまれる。

中世ちゅうせいにおいての中心ちゅうしん葛飾かつしか青戸あおと青砥あおと付近ふきんであったとかんがえられ、中世ちゅうせい武将ぶしょうである葛西かさいはこの付近ふきんたて葛西かさいしろ)をかまえていたとられる。

歴史れきし

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下総しもうさこく武蔵むさしこく国境こっきょうはもともとはふる利根川とねがわかわどう一致いっちし、現在げんざい千住曙せんじゅあけぼのまち以南いなん隅田川すみだがわながれ、東京とうきょうわんへの河口かこう付近ふきんよこじゅうあいだかわながれた。

最近さいきんになってこの地域ちいき古代こだい戸籍こせきとばり下総しもうさこく葛飾かつしかぐん大嶋おおしまさと戸籍こせき)が発見はっけんされた[5]

また平安へいあん時代じだいには伊勢物語いせものがたりにこの地域ちいき記述きじゅつられる。東武とうぶ伊勢崎線いせさきせん業平橋なりひらばしえきげんとうきょうスカイツリーえき)の由来ゆらいはこの故事こじにちなむものとされている。

平安へいあん時代じだい末期まっきいたると桓武かんむたいらうち秩父ちちぶ一派いっぱがこの地域ちいきり、葛西かさい名乗なのった。葛西かさいみなもと頼朝よりとも蜂起ほうき呼応こおうしてこれに合流ごうりゅうし、現在げんざい宮城みやぎけんから岩手いわてけんにかけての地域ちいき所領しょりょうれる。のち葛西かさい東北とうほく地方ちほう戦国せんごく大名だいみょうとなり、現在げんざい東北とうほく地方ちほうおおられる葛西かさいせい由来ゆらいになっている。

中世ちゅうせいつうじて葛西かさいが、また葛西かさい東北とうほく本拠ほんきょうつしたのち千葉ちばがこの地域ちいき支配しはいしたが、千葉ちば勢力せいりょく衰退すいたいしてこう北条ほうじょう勢力せいりょくおおきくなると、千葉ちばこう北条ほうじょう服属ふくぞくしてこの地域ちいき実質じっしつ北条ほうじょう武将ぶしょうおさめるようになる。古河ふるかわ公方くぼう分裂ぶんれつしたさいこう北条ほうじょう擁立ようりつされた古河ふるかわ公方くぼう足利あしかがよしがこの元服げんぷくしている。

豊臣とよとみ秀吉ひでよしによる関東かんとう征伐せいばつ徳川とくがわ家康いえやす支配しはいかれた。その江戸えど時代じだい利根川とねがわだい規模きぼ治水ちすい工事こうじおこなわれ、利根川とねがわ水流すいりゅうだい部分ぶぶん渡良瀬川わたらせがわあわしてきゅう鬼怒川きぬがわから銚子ちょうしに、一部いちぶふと日川にっかわながすようになった。これが現在げんざい江戸川えどがわである。江戸川えどがわ誕生たんじょう葛飾かつしか地域ちいき一体いったいせいおおきく分断ぶんだんした。

西側にしがわ葛西かさい江戸えど近郊きんこう地域ちいきした。1683ねん貞享ていきょう3ねん)また一説いっせつによれば寛永かんえい年間ねんかん1622ねん-1643ねん)には上流じょうりゅうとともに下総しもうさこくから武蔵むさしこく移管いかんされ、武蔵むさしこく葛飾かつしかぐん発足ほっそくした。葛西かさい地域ちいき西にしとなりでは、貯木じょうとなる木場きばかれ、元禄げんろく年間ねんかんには深川ふかがわ本所ほんじょ江戸えど市街地しがいちすすんだ。

東側ひがしがわ葛西かさいはまだまだむらおおかった。葛西かさいにはかつての葛西かさい末裔まつえいである葛西かさい権四郎けんしろうがおり、家康いえやす江戸えど入城にゅうじょう以来いらい代々だいだいにわたって江戸城えどじょうから上質じょうしつ糞尿ふんにょうって売買ばいばいできる権利けんり幕府ばくふからゆるされ、権四郎けんしろういえおおいにうるおった。肥料ひりょう使つかっていることから葛西かさいさん野菜やさい上物じょうものとされ葛西かさいむら々は近郊きんこう農業のうぎょうさかえた。

またこのころになると、この地域ちいき中川なかがわをおおよそのさかい東西とうざいけて「東葛西ひがしかさいりょう」と「西葛西にしかさいりょう」とばれるようにもなった。東葛西ひがしかさいりょうをさらに「上之割かみのわり」・「下之したのわり」に、西葛西にしかさいりょうを「本田ほんだすじ」と「新田しんでんすじ」にけ、4地域ちいき区分くぶんされる場合ばあいもあった。

江戸えど後期こうき歌人かじん国学こくがくしゃ大橋おおはしかたちょうによる「武蔵むさしえんじ[6]安政あんせい9ねん(1780ねん))には武蔵むさしこく様子ようすくわしくべられており、そこには『葛飾かつしかぐんハ、本所ほんじょ葛西かさい二郷にごうなかば幸手さって杉戸すぎと栗橋くりはしまでじゅういちまんせきあまりぐんして・・・』とべられており、また『西葛西にしかさいろくじゅうさんケ村かそん東葛西ひがしかさいじゅうケ村かそん』とある。 そのなか西葛西にしかさいりょうむらは、『本所ほんじょ南北なんぼく)、中郷なかごうやなぎしま亀戸かめいど押上おしあげ猿江さるえ大嶋おおしま平方へいほう永代えいだいとう小名木おなぎ海辺うみべ新田しんでん八右衛門はちえもん新田にった平井新田ひらいしんでんかめだか、炮烙新田しんでんはぎ新田にったおさむ兵衛ひょうえ新田にったひさひだりもん新田にった又兵エ新田またべえしんでん千田せんだ新田にったすなむらすなむら新田にった永代ながよ新田にった太良たらへい新田しんでん中田新田なかだしんでん大塚新田おおづかしんでん小梅こうめ須崎すさき、請池、寺嶋てらしましょう村井むらい隅田すみた隅田すみた新田にった木下きのしたがわ上下じょうげ)、大畑おおはた若宮わかみや葛西かさいかわ木ノ下きのしたぜんもんあわ須、川端かわばたはら渋江しぶえ立石たていし梅田うめだ中原なかはら堀切ほりきり小菅こすが篠原しのはら世継よつぎ宝来ほうらいしま青戸あおと東西とうざい)、千葉ちば上下じょうげ)、亀有かめあり砂原すなはら小谷野こやの』で 東葛西ひがしかさいりょうむらは『平井ひらい上中かみなか)、逆井さかさい小松川こまつがわ船堀ふなぼり宇喜田うきた東西とうざい)、長島ながしま桑川くわがわいちこう東西とうざい)、いちこう新田にったこうほん一色いっしょくほん奥戸おくどほん奥戸おくど新田にった今井いまい上下じょうげ)、当代とうだいしま鎌田かまた上下じょうげ)、新宿しんじゅく谷河内やごうち新堀しんぼり松本まつもと前野まえのだに篠崎しのざき上下じょうげ)、鹿骨ししぼね今井いまいさささきおくみや上一色かみいっしき小松こまつうち)、伊与田いよだ小岩こいわ上中かみなか)、小岩田こいわた細田ほそだ鎌倉新田かまくらしんでん曲金まがりかね諏方すわ柴又しばまた金町かなまち金町かなまち新田にった飯塚いいづかさるまたさる新田しんでん中新田なかにいだしん新田しんでんしょうごう上下じょうげ)、しょうごう新田しんでん』である としるされている。[7]

明治めいじ時代じだいになるとこの地域ちいき東京とうきょう府下ふかかれ、1889ねん大半たいはん行政ぎょうせい区分くぶんじょうみなみ葛飾かつしかぐんになった。昭和しょうわはい1932ねんにはみなみ葛飾かつしかぐん東京とうきょう編入へんにゅう向島むこうじま城東じょうとう葛飾かつしか江戸川えどがわ)され、1943ねん東京とうきょう廃止はいしせい施行しこうて、1947ねん本所ほんじょ深川ふかがわとあわせ、現在げんざい墨田すみだ江東こうとう葛飾かつしか江戸川えどがわの4つの特別とくべつにまとめられた。

大正たいしょう時代じだいまでは本所ほんじょ深川ふかがわ以東いとう市街地しがいちすすんでおらず、水田すいでんはたけおおい、のどかな田園でんえん風景ふうけいひろがっており、小松菜こまつなふるくは葛西かさいさいともばれた)に代表だいひょうされる大都市だいとし近郊きんこう農業のうぎょういとなまれていた。しかし、隅田川すみだがわがたびたび氾濫はんらんし、この地域ちいきのみならず高度こうどしはじめた都心としん被害ひがい甚大じんだいになりはじめたため、対策たいさくとして昭和しょうわ5ねん荒川あらかわ放水ほうすい完成かんせいしてからは、宅地たくち工場こうじょう移転いてんにより人口じんこう流入りゅうにゅう急速きゅうそくすす市街しがいした。以降いこうは、この荒川あらかわ放水ほうすい以東いとう葛西かさい認識にんしきされるようになる。

昭和しょうわ末期まっきまでのこっていた県境けんきょう付近ふきん農地のうちも、バブルにそのおおくが宅地たくちされた。バブル崩壊ほうかい昭和しょうわ前半ぜんはんてられてしょくじゅう近接きんせつがた地域ちいき経済けいざい形成けいせいしていた工場こうじょう倉庫そうこおおくががい移転いてんし、跡地あとちだい規模きぼ商業しょうぎょう施設しせつあるいは住宅じゅうたく転用てんようされ、千葉ちばけんなどがい住宅じゅうたくから人口じんこう流入りゅうにゅうがみられている。

葛西かさいかんする史跡しせき文化ぶんか

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  • 葛西かさい神社じんじゃ創建そうけん平安へいあん時代じだい末期まっきもとこよみ2ねん1185ねん)。うえ葛西かさいした葛西かさいわせたさんじゅうさんさとそう鎮守ちんじゅとして葛西かさい清重きよしげにより 香取かとり神宮じんぐう分霊ぶんれいまつったのがはじまり。現在げんざい東京とうきょう葛飾かつしか東金とうがねまち存在そんざい
  • 葛西かさい囃子ばやし江戸えど中期ちゅうきはじめられたといわれるまつ囃子ばやし現在げんざいまつり囃子ばやしとされる。とおる初年しょねん1716ねん葛西かさいきん町村ちょうそん鎮守ちんじゅ香取かとり明神みょうじんげん葛西かさい神社じんじゃ)の神主かんぬし能勢のせたまきはじめたものとされる。
  • 葛西かさい念仏ねんぶつ江戸えど中期ちゅうき江戸えど葛西かさい地方ちほう流行りゅうこうした念仏ねんぶつおどりで,近世きんせい初頭しょとう常陸ひたちあわとき(ほうさい)ぼう唱導しょうどうした〈あわとき念仏ねんぶつ〉という乱舞らんぶ形式けいしき念仏ねんぶつおどりながれをくむ。あわとき(ほうさい)念仏ねんぶつかね(かね)と太鼓たいこさんてんずつ一緒いっしょつ。農家のうか仏寺ぶつじ土手どてなどのさびしい場面ばめんや、まわり、ころじょうもちいる。
  • 葛西かさいおど念仏ねんぶつおどりのいち江戸えど時代じだい武蔵むさしこく葛西かさい農民のうみんかね(かね)・太鼓たいこふえ囃子はやし(はやし)で、江戸えど大路おおじおどまわったもの。葛西かさい念仏ねんぶつ
  • 葛西かさいふね葛西かさい農産物のうさんぶつ江戸えどはこんだり、肥料ひりょうよう江戸えど糞尿ふんにょう(ふんにょう)を葛西かさいはこんだりするのにもちいたふね
  • 葛西かさいしろ桓武かんむたいらながれをくむ葛西かさい鎌倉かまくらしろかんとしてきずいたとされるしろ現在げんざい東京とうきょう葛飾かつしか青戸あおと存在そんざいし、現在げんざい葛西かさい城址じょうし公園こうえんとなってる。
  • 葛西かさい用水ようすい江戸えど時代じだい初頭しょとう1660ねん万治まんじ3ねん)に江戸えど幕府ばくふ天領てんりょう開発かいはつ一環いっかんとして、関東かんとうぐんだい伊奈いな忠克ただかつ開発かいはつさせた灌漑かんがい用水路ようすいろ

狭義きょうぎ葛西かさい

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狭義きょうぎ葛西かさいは、東京とうきょう江戸川えどがわ南部なんぶきゅう東京とうきょうみなみ葛飾かつしかぐん葛西かさいむら中心ちゅうしんとする地名ちめいである。面積めんせきやく14平方へいほうkm。世帯せたいすう107,728。人口じんこう241,790にん平成へいせい20ねん1がつ1にち現在げんざい[8]東京とうきょうメトロ東西線とうざいせん葛西かさいえきがあるが、江戸川えどがわ単独たんどく町名ちょうめいとしての「葛西かさい」は現存げんそんしない。

東京とうきょう江戸川えどがわ南部なんぶ地域ちいき厳密げんみつには江戸川えどがわ区役所くやくしょ葛西かさい事務所じむしょ担当たんとうエリア)をす。住所じゅうしょ東葛西ひがしかさい西葛西にしかさい南葛西みなみかさい北葛西きたかさい中葛西なかかさいの5つにけられているが清新せいしんまち臨海りんかいまちなどの埋立うめたて地域ちいきわせて「葛西かさい」とばれることがおおい。なお、旧江戸川きゅうえどがわ中州なかすである妙見みょうけんとう東葛西ひがしかさい3丁目ちょうめ一部いちぶである。

この地域ちいき江戸えど時代じだい桑川くわがわむら長島ながしまむらひがし宇喜田うきたむら東葛西ひがしかさいまで)、西にし宇喜田うきたむらかれていた。1889ねん明治めいじ22ねん)に町村ちょうそんせい施行しこうされ、4つのむら合併がっぺいして葛西かさいむらとなった。1895ねん明治めいじ28ねん)、千葉ちばけん東葛飾ひがしかつしかぐん堀江ほりえむらげん浦安うらやす一部いちぶ)の江戸川えどがわ以西いせい葛西かさいむら編入へんにゅうされた。堀江ほりえ地区ちくめいいま東葛西ひがしかさい南葛西みなみかさいのこっている。1932ねん昭和しょうわ7ねん)のぐん合併がっぺいにより、江戸川えどがわ誕生たんじょう桑川くわがわまちなどがもうけられた。1934ねん昭和しょうわ9ねん)には、小島こじままち(1丁目ちょうめ・2丁目ちょうめ)や新田にった(1丁目ちょうめ・2丁目ちょうめ)、葛西かさい3丁目ちょうめつくられた。1969ねん昭和しょうわ44ねん)、営団えいだん地下鉄ちかてつげん東京とうきょう地下鉄ちかてつ東西線とうざいせん葛西かさいえき開業かいぎょうえき所在地しょざいちである「葛西かさい」という地名ちめい前面ぜんめんされ、1978ねん昭和しょうわ53ねん以降いこう住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっしにより、そのまち東西とうざい南北なんぼく中葛西なかかさい再編さいへんされた[9]宇喜田うきたまち住居じゅうきょ表示ひょうじ実施じっしせず、現在げんざい地番ちばん使用しようしている。1982ねん昭和しょうわ57ねん)、葛西かさいおき開発かいはつ事業じぎょうにより造成ぞうせいされた、清新せいしんまち臨海りんかいまちくわわった。

歴史れきし

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700ねん以上いじょうまえからこの地域ちいき漁村ぎょそんであったといわれている。 当地とうち沖合おきあい東京とうきょうわん日本にっぽん有数ゆうすう干潟ひがた発達はったつしていたことから、さかな貝類かいるいなどの魚介ぎょかいるい海藻かいそうるいなどが豊富ほうふだったため、江戸えど時代じだいはじごろにはそれらの産地さんちとしてられていた[10]。 そうしたおおきな干潟ひがた存在そんざいはにはわたどりなども群生ぐんせいし、自然しぜんゆたかな地域ちいきとなっていた。

そのため、昭和しょうわ30年代ねんだい前半ぜんはんまではかわ沿いに半農半漁はんのうはんぎょ集落しゅうらくがある地域ちいきであったが、1962ねん昭和しょうわ37ねん)に葛西かさいおき計画けいかく決定けっていしたことで、葛西かさいうら漁業ぎょぎょうはその歴史れきし終止符しゅうしふつことになった[10]

とく海苔のり採取さいしゅ寛永かんえい時代じだいからおこなわれており、葛西かさいうらでとれる「葛西かさい海苔のり」(別名べつめい浅草海苔あさくさのり」)は海苔のりのブランドとして有名ゆうめいだった。一時期いちじき衰退すいたいしていたが、1881ねん明治めいじ14ねんごろひがし宇喜田うきたむらもりきょうあきらかみなり名主なぬし)が海苔のり研究けんきゅうおこな復興ふっこうさせた。1891ねん明治めいじ24ねん)には、深川ふかがわ大島おおしままち浦安うらやすむらなどと共同きょうどう越中島えっちゅうじま沖合おきあいに10まんつぼ海苔のり養殖ようしょくじょうつくった。養殖ようしょく産業さんぎょう大正たいしょう時代じだいにかけて活況かっきょうていした。その上記じょうきのようなてや東京とうきょうわん水質すいしつ汚染おせんにより、地元じもと漁師りょうしらは海苔のり養殖ようしょくふくめた漁業ぎょぎょうけんを1962ねん放棄ほうきし、葛西かさい海苔のり歴史れきしまくじた[11]。こうした歴史れきし名残なごりで、現在げんざいでも中葛西なかかさいには白子しらこのり本社ほんしゃがある。

昭和しょうわ20年代ねんだいはいると、工場こうじょう排水はいすい生活せいかつ廃水はいすいなどで荒川あらかわ江戸川えどがわ汚濁おだくし、葛西かさい海岸かいがん荒川あらかわ江戸川えどがわからながれてきた汚水おすい汚濁おだくした。本州ほんしゅう製紙せいしげん王子製紙おうじせいし江戸川えどがわ工場こうじょうによる水質すいしつ汚染おせん1958ねん)および、日本化学工業にほんかがくこうぎょう小松川こまつかわ工場こうじょうろくクロムの不法ふほう投棄とうき1975ねん発覚はっかく)はおおきな問題もんだいになった。そのため漁業ぎょぎょう縮小しゅくしょうし、東京とうきょうわん自然しぜん破壊はかいされることとなった。

1969ねん営団えいだん地下鉄ちかてつ東西線とうざいせん当時とうじ)の葛西かさいえきができると、それまでりく孤島ことうであった葛西かさい都心としん非常ひじょうちか住宅じゅうたくとして発展はってんし、隣接りんせつする千葉ちばけんがわ浦安うらやす市川いちかわ行徳ぎょうとく地区ちくとともに多数たすう民間みんかんマンション建設けんせつされ、東西線とうざいせん沿線えんせんは「日本一にっぽんいちのマンションがい」と形容けいようされるほどになった。1979ねんには西葛西にしかさいえき開業かいぎょうし、ますます発展はってんした。また、埋立うめたて現在げんざい住所じゅうしょ表示ひょうじ清新せいしんまち臨海りんかいまちなど)にはだい規模きぼ団地だんち建設けんせつされた[10]。かつて自然しぜん破壊はかいされた反省はんせいなどから、葛西かさい臨海りんかい地域ちいき葛西かさい臨海りんかい公園こうえん葛西かさい海浜かいひん公園こうえん整備せいびされた。現在げんざい、そこでは野鳥やちょう保護ほごなどにんでいる。

葛西かさい名所めいしょ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 葛飾かつしか郷土きょうど天文てんもん博物館はくぶつかん地域ちいきフォーラム『葛西かさいとその歴史れきし』崙書房しょぼう、1997ねん、41ぺーじISBN 4-8455-1047-2 
  2. ^ にゅうもと英太郎えいたろう葛飾かつしか歴史れきし名著めいちょ出版しゅっぱん、1979ねん、156ぺーじ 
  3. ^ 葛飾かつしか郷土きょうど天文てんもん博物館はくぶつかん地域ちいきフォーラム『葛西かさいとその歴史れきし』崙書房しょぼう、1997ねん、96-97ぺーじISBN 4-8455-1047-2 
  4. ^ スカイツリー634m 一考いっこう - 武蔵むさし下総しもうさ国境こっきょう隅田川すみだがわ
  5. ^ そのなかに「トラ」「サクラ」という兄妹きょうだい名前なまえ見出みだせることが話題わだいとなった。
  6. ^ 国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんぞう
  7. ^ 葛飾かつしか郷土きょうど天文てんもん博物館はくぶつかん葛飾かつしか古文書こもんじょ資料集しりょうしゅう 10』 かつしかの地誌ちし1、1997ねん3がつ31にち発行はっこう 12こう 武蔵むさしえんじ 40-44ぺーじ
  8. ^ 葛西かさい地区ちく紹介しょうかい”. 2008ねん7がつ29にち閲覧えつらん
  9. ^ 住居じゅうきょ表示ひょうじ新旧しんきゅう対照たいしょうひょう案内あんない】(中央ちゅうおう図書館としょかん”. 2008ねん1がつ11にち閲覧えつらん
  10. ^ a b c 都市とし地域ちいきイメージ 地理ちり空間くうかん認知にんち空間くうかんのテクスチャ, 大明だいめいどう, (1996ねん2がつ20日はつか) 
  11. ^ 葛西かさい海苔のり歴史れきし紹介しょうかい江戸川えどがわ」『読売新聞よみうりしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん2がつ6にち都民とみんめん)、江戸川えどがわ郷土きょうど資料しりょうしつ企画きかくてん「むかし、葛西かさいうみで」紹介しょうかい記事きじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょへんだい日本にっぽん近世きんせい史料しりょう へんおさむ地誌ちし備用典籍てんせき解題かいだい』1 東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい 1972ねん3がつ
  • むら八郎はちろうぞうてい 国書こくしょ解題かいだいろくごうかん 1900ねん2がつ
  • 長沢ながさわただし炬也『江戸えど地誌ちし解説かいせつ稿こうまつくもどう書店しょてん 1932ねん11月
  • 和田わだ万吉まんきちちょ朝倉あさくら治彦はるひこ増補ぞうほしんてい増補ぞうほ いにしえばん地誌ちし解題かいだい国書刊行会こくしょかんこうかい 1974ねん7がつ
  • 東京とうきょう公文書こうぶんしょかんへん東京とうきょう公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞう 地誌ちし解題かいだい 総集編そうしゅうへんⅠ』東京とうきょう公文書こうぶんしょかん 1990ねん3がつ
  • 葛飾かつしか郷土きょうど天文てんもん博物館はくぶつかんへん葛飾かつしか古文書こもんじょ資料集しりょうしゅう 10』 かつしかの地誌ちし
  • 葛飾かつしか区立くりつ葛飾かつしか図書館としょかんへん葛飾かつしか郷土きょうど講座こうざ 昭和しょうわ54年度ねんど』1979ねん
  • 江戸川えどがわ 郷土きょうど資料しりょうしつ 江戸川えどがわ地名ちめい(3) 葛西かさい
  • 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん デジタルアーカイブ 葛西かさいすじ絵図えず (http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000317