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もと黄玉おうぎょく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
もと黄玉おうぎょく
墓所はかしょ
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 허황옥
漢字かんじ もと黄玉おうぎょく
2000ねんしき
MRしき
Heo Hwang-ok
Hŏ Hwang'ok
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もと 黄玉おうぎょく(きょ こうぎょく、허황옥、ホ・ファンオク、32ねん - 189ねん)は、かねかんとぎ始祖しそくびおう[1]かねかんとぎ倻のだい2だいおうきょとうおうむ。

もと黄玉おうぎょくおもね踰陀(あゆだ)こく王女おうじょで、おもね踰陀こくからふねって48ねん伽耶かや渡来とらいし、くびおう出会であい、そのときおもね踰陀こくからもって石塔せきとうてつぶつ奉納ほうのうした。おもね踰陀こくについてはインドタイ中国ちゅうごく日本にっぽんなどのせつあるが、インドのアヨーディヤーさい有力ゆうりょくである[2]。その理由りゆうは、くびおうりょう正門せいもんだいはりきざまれたそうさかな文様もんようは、インドのアヨーディヤー建築けんちく紋章もんしょう特徴とくちょうだからである[2]

インドからってきた石塔せきとう

人物じんぶつ

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さんこくのここと』に抄録しょうろくされた『らくこく朝鮮ちょうせんばん』に、つぎのような記述きじゅつがある。古代こだい朝鮮ちょうせん部族ぶぞく国家こっかができあがるとき神話しんわとして解釈かいしゃくされている[3]

あらすじ:おもね踰陀こく黄玉おうぎょく両親りょうしんゆめのおげがくだった。いわらくこくかねかんとぎ倻)のくびおうてんつかわした特別とくべつ人間にんげんであるが、いまだ独身どくしんだ。黄玉おうぎょくおくつまとするようにと。黄玉おうぎょくうみからふけなつめ(なつめ)をもとめ、てんのぼってわだかまももると[3]くびのもとにやってきた[4]。なお、わだかまもも神仙しんせん思想しそうあらわれる長生ちょうせい不死ふしももで、こん崙山にある「たまもも」とかせん桃山ももやまみのる「せんもも」ともばれる[5]

考証こうしょう

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さんこくのここと』をはじめとする朝鮮ちょうせん史書ししょでは、もと黄玉おうぎょくおもね踰陀こく出身しゅっしんであり、きょとうおうおもね踰陀こく出身しゅっしんさるむすめ慕貞であり、あさひんおうおもね踰陀こく出身しゅっしんちょうただし孫娘まごむすめこうかたきである。はやしやすしは、近代きんだい学問がくもんせっした史学しがくしゃによって近代きんだいてき記述きじゅつ方法ほうほうかれた最初さいしょ朝鮮ちょうせん歴史れきし専門せんもんしょひょうされる『朝鮮ちょうせん』(1892ねん)において、くびおう夫人ふじんもと黄玉おうぎょくインドじんであり、インドから朝鮮ちょうせん南部なんぶ渡来とらいしたことを論述ろんじゅつしたさいに、「考証こうしょうがかなり煩雑はんざつしているので、他日たじつしてこれを詳論しょうろんする」とべており[6]後日ごじつ論文ろんぶん起源きげん」および「起源きげんぞくこう」において詳論しょうろんした。「起源きげん」では、仏書ぶっしょ散見さんけんされる同様どうよう事実じじつれいげることからろんじはじめ、『さんこくのここと』に抄録しょうろくされた『らくこく朝鮮ちょうせんばん』にしるされる天竺てんじくおもね踰陀こく王女おうじょもと根拠こんきょにして、はインドじんひらいたとする。「起源きげんぞくこう」では、朝鮮ちょうせん史籍しせき登場とうじょうする卵生らんせい説話せつわ赫居きょ西にし鄒牟おうくびおう伽耶かやおうだつかいあまいま)と『賢愚けんぐけい』『ほうえんたまりん』『しんとうしょ』『大越おおこし史記しき全書ぜんしょ』『山海さんかいけい』『大明だいめい一統いっとうこころざし』『博物はくぶつこころざし中国語ちゅうごくごばん』『こう漢書かんしょ』などにみられるインド古代こだい伝説でんせつとの類似るいじせいげ、「古代こだいにインドじんうま剌加海峡かいきょうわたって東方とうほう交通こうつうし、ついに朝鮮半島ちょうせんはんとう南岸なんがんこくひらいた」とべている[7]。また、『朝鮮ちょうせん』では「これからすると、らく地方ちほうはつまり朝鮮ちょうせん南部なんぶひらきで、かつてインドの風化ふうかよくしたものであり、高句麗こうくり地方ちほうはつまり朝鮮ちょうせん北部ほくぶへんささえ文明ぶんめい余光よこう依頼いらいするものである。…此説は前人ぜんじんのまだ道破どうはしていないところである」とべており[6]朝鮮ちょうせん開国かいこくのはじめから中国ちゅうごくふく日本にっぽん・インドなどに支配しはいされ、とくはインドから影響えいきょうけたと指摘してきしている。

2004ねんに、もと黄玉おうぎょくの「インド渡来とらいせつ」を立証りっしょうする科学かがくてき証拠しょうこしめされた[8]ソウル大学だいがく医学部いがくぶじょ廷ソン教授きょうじゅ翰林かんりん大学だいがく医学部いがくぶのキム・ジョンイル教授きょうじゅは、韓国かんこく遺伝いでんたい学会がっかいにおいて「もと黄玉おうぎょく子孫しそん推定すいていされるきむうみにある古墳こふん遺骨いこつ分析ぶんせきした結果けっかかん民族みんぞくのルーツであるモンゴル北方ほっぽうけいとはことなり、インド南方なんぽうけいだった」と発表はっぴょうした[8]ミトコンドリアDNA保持ほじするが、もと黄玉おうぎょくの「インド渡来とらいせつ」が事実じじつであるならば、子孫しそん母方ははかたもと黄玉おうぎょくのDNAを継承けいしょうしており、インド南方なんぽうけいのDNAをもつことになるが、もと黄玉おうぎょく子孫しそん推定すいていされる遺骨いこつ塩基えんき配列はいれつ分析ぶんせきした結果けっか、モンゴル北方ほっぽうけいではなくインド南方なんぽうけい特徴とくちょうそなえていた[8]

エピソード

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  • 中国ちゅうごく四川しせんしょうやすたけけん出生しゅっしょうしたせつもあり、同地どうちに「ひろししゅうふとしきさきもと黄玉おうぎょく故里ふるさと」という観光かんこうがある[9][10]
  • きむうみもと黄玉おうぎょくはかがあり、もと黄玉おうぎょくがインドからもってきたとつたえられるばばしゃば石塔せきとうのこっている[2]
  • 釜山ぷさん広域こういき海雲台かいうんだいふゆかしわ公園こうえんには、「うみわたって恩恵おんけいおうとついだ黄玉おうぎょくひめ」の伝説でんせつもとづく人魚にんぎょのブロンズぞうがある[11]。ここでの黄玉おうぎょくひめもと黄玉おうぎょく同一どういつする郷土きょうど史家しかもいる[12]
  • 釜山ぷさん広域こういききむうみは、「もとおうきさきこんぎょうロード」の観光かんこう商品しょうひんにむけた「もとおうきさきこんぎょうロード再現さいげんおよび祝祭しゅくさい事業じぎょう」に共同きょうどうんでいる。どうロードは、インドからやってきた黄玉おうぎょくきむうみ到着とうちゃくした地点ちてんをスタートとし、結婚式けっこんしきげたところをゴールとする(もち山島やましま(鎭海りゅういん)→維舟がん興国寺こうこくじきむくびおうりょう)。長期ちょうきてきビジョンとしては、どうロードのユネスコ世界せかい文化ぶんか遺産いさん登録とうろく目指めざしている[13]

子孫しそん

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もと黄玉おうぎょくは、くびおうとのあいだに10にん息子むすこをもうけたが、そのうち2人ふたりもとせいあたえ、それがきむうみもと起源きげんとされる[8]

家族かぞく

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出典しゅってん

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  1. ^ 佐々木ささき道雄みちお人物じんぶつ朝鮮ちょうせん(77) くびおうきさきもと黄玉おうぎょく」『むくげ通信つうしんだい105ごう、むくげのかい神戸こうべなだ、1987ねん11月29にち、15-16ぺーじ 
  2. ^ a b c “허황후 もと皇后こうごう,33~89”. 斗山とさん世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん. オリジナルの2022ねん4がつ6にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220406110302/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000867986 
  3. ^ a b Jo 1999, p. 111-112.
  4. ^ Yon 2011, p. 95.
  5. ^ 袁珂 しる鈴木すずきひろし やく中国ちゅうごく神話しんわ伝説でんせつだい事典じてん大修館書店たいしゅうかんしょてん、1999ねん、415ぺーじ 
  6. ^ a b はやしやすし朝鮮ちょうせん吉川よしかわはんななまき だいさんへん〉、1892ねん、24-25ぺーじ 
  7. ^ はやしやすし起源きげんぞくこう光風こうふうかん書店しょてんささえ上代じょうだい研究けんきゅう〉、1927ねん 
  8. ^ a b c d きむくびおう夫人ふじんの「インド渡来とらいせつ科学かがくてき証拠しょうこ. 中央日報ちゅうおうにっぽう. (2004ねん8がつ19にち). オリジナルの2021ねん4がつ15にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210415231507/https://japanese.joins.com/JArticle/54982 
  9. ^ 四川资阳市与韩国达成旅游开发合作意向” (中国ちゅうごく). 四川省科学技术厅 (2006ねん2がつ5にち). 2022ねん8がつ13にち閲覧えつらん
  10. ^ 资阳せき韩国ふとしきさき故里ふるさと镖”:弃当ろういた かい乡做ささえ书_四川しせんざい线”. sichuan.scol.com.cn (2015ねん2がつ9にち). 2022ねん8がつ13にち閲覧えつらん
  11. ^ 海雲台かいうんだい”. Dynamic BUSAN. 釜山ぷさん広域こういき. 2020ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  12. ^ ちぇヨンチョル (2010ねん2がつ5にち). “うみささやきがみみこころよくすぐ”. japanese.busan.go.kr. 釜山ぷさん広域こういき. 2020ねん7がつ3にち閲覧えつらん
  13. ^ 釜山ぷさんきむうみ(韓国かんこく) TPO主管しゅかんし、「もとおうきさきこんぎょうロード観光かんこう商品しょうひん事業じぎょう」を推進すいしん」『TOURISM SCOPE』だい30ごう、アジア太平洋たいへいよう都市とし観光かんこう振興しんこう機構きこう、2014ねん、29ぺーじISSN 1739-50892020ねん7がつ3にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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