だつかいあまいま

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だつかいあまいま
しん
だい4だい国王こくおう
王朝おうちょう しん
在位ざいい期間きかん 57ねん - 80ねん
都城みやこのじょう 金城きんじょう
生年せいねん 紀元前きげんぜん19ねん
没年ぼつねん 80ねん
陵墓りょうぼ きた壌井おか
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だつかいあまいま
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 탈해 이사금
漢字かんじ だつかいあまいま
発音はつおん タルヘ・イサグム
(タレ・イサグム)
日本語にほんごみ: だっかい・にしきん
マ字まじ Talhae Isageum
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だつかいあまいま(だっかい にしきん、タルヘ/タレ イサグム)は、しんだい4だいおう在位ざいい:57ねん - 80ねん)で、せいむかし(ソク)、だつかい(タルヘ/タレ)。吐解あまいま(とかい にしきん、토해 이사금、トヘ・イサグム)ともしるされる。だい2だいみなみかい次次つぎつぎゆうむすめおもねこう夫人ふじん婿むこしん王族おうぞく3せいほおむかしきむ)のうちのむかし始祖しそ

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

倭国わのくに東北とうほくいち千里せんりのところにあるばばこく誕生たんじょうしたこと、だつかいふね渡来とらいした人物じんぶつであることをしめ挿話そうわなどとあわせて、出生しゅっしょう日本にっぽん列島れっとうない所在しょざいするときがおおく、丹波たんばこく但馬たじまこく肥後ひごこく玉名たまなぐん周防すおうこく佐波さばぐんなどに比定ひていするせつがある

このほかに 『さんこくのここと』のりゅうじょうこくアイヌ部族ぶぞく国家こっかとするアイヌけいせつもある[1]

即位そくいまで(誕生たんじょう説話せつわ[編集へんしゅう]

さん国史こくししん本紀ほんぎだつかいあまこんは、誕生たんじょうおよ即位そくいについては以下いかのようにしるしている。

倭国わのくに東北とうほくいち千里せんりのところにあるばばこく[2]おう女人にょにんこく不明ふめい)の王女おうじょつまむかえて王妃おうひとした(当時とうじやまと九州きゅうしゅう周辺しゅうへんであり、そこから東北とうほく千里せんり=400kmのためばばこく現在げんざい兵庫ひょうごけんから福井ふくいけんあたりとなる)。王妃おうひ妊娠にんしんしてから7ねんのちおおきなたまごんだ。おう王妃おうひかって、ひとでありながらたまごむというのは不吉ふきつであり、たまごるようにった。しかし王妃おうひたまごてることにしのびず、たまごきぬつつんで宝物ほうもつ一緒いっしょはこれてうみながした。[3]やがてはこかねかんこくながいたが、そのくに人々ひとびとあやしんではこげようとはしなかった。はこはさらにながれて、たつかんおもねめずらしうら慶尚北道けいしょうほくどう慶州けいしゅう)の浜辺はまべげられた。そこで老婆ろうばはこけられ、ちゅうから一人ひとりおとこてきた。このとき、しん赫居きょ西にしの39ねん紀元前きげんぜん19ねん)であったという。老婆ろうばがそのおとこそだてると、成長せいちょうするにしたがって風格ふうかくすぐれ、知識ちしき人並ひとなみならぬものになった。ながじて、だい2だいみなみかい次次つぎつぎ5ねん8ねん)にみなみかい次次つぎつぎゆうむすめめとり、10ねんには大輔だいすけくらいについて軍事ぐんじ国政こくせい委任いにんされた。みなみかい次次つぎつぎゆう死去しきょしたときに儒理あまいま王位おういゆずられかけたが、「賢者けんじゃかずおおい」という当時とうじ風説ふうせつもともちんでがたかずくらべ、儒理あまいま王位おういがせた。儒理あまいまが57ねん10がつ死去しきょしたときには、おう(儒理あまいま)の遺命いめいしたがってだつかい王位おういについた。

姓名せいめい由来ゆらい[編集へんしゅう]

さんこくのここと』によるとはじめ姓名せいめいがわからなかったので、はこながいたときにかささぎカササギ)がそばにいたことからかささぎりゃくして「むかし」をせいとし、はこひらいてまれてきたことから「だつかい」をとした、という。

治世ちせい[編集へんしゅう]

百済くだら婁王かえる山城やましろ忠清ただきよ北道ほくどう報恩ほうおんぐん)をめぐって度々どど戦争せんそうがあった。また73ねん倭人わじん出島でじま[4]進入しんにゅうしてきたが、かく(1とうかん別名べつめい)のはねがらす派遣はけんしたがてず、はねがらす戦死せんしした。77ねんには伽耶かやたたかって大勝たいしょうしたおもね(6とうかん)のきちもんなみちん(4とうかん)にげた。

65ねんにはきむおうみつる始祖しそとなるきむ閼智だい13だいあじ鄒尼いまの7せい)をひさごこう発見はっけんし、跡継あとつぎとして養育よういくすることとなった。実際じっさいにはだつかいあまいまのちは儒理あまいま王位おういいでばばしゃばあまいまとなり、儒理あまいまけいの4にんおうのちだつかいあまいままごきゅうあまいま王位おういにつくという複雑ふくざつ継承けいしょうとなり、きむおうみつるただちにてられたわけではなかった。詳細しょうさい朝鮮ちょうせん君主くんしゅ一覧いちらん#しんおう系図けいず参照さんしょう

在位ざいい24ねんにして80ねん8がつ死去しきょし、首都しゅと金城きんじょう慶州けいしゅう)のきた壌井おかほうむられた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ “이희용의 글로벌시대 귀화 성씨의 어제와 오늘”. 聯合れんごうニュース. (2017ねん1がつ17にち). オリジナルの2017ねん7がつ16にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170716054537/http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2017/01/11/0200000000AKR20170111049700371.HTML 
  2. ^ さんこくのここと』ではだつかい出身しゅっしんばばこくではなくりゅうじょうこくとされる。
  3. ^ はつ其國おう めとじょ國王こくおうおんなためつま ゆうななねん 乃生だいたまご おうじん而生たまご不祥ふしょうむべ棄之 其女にん 以帛裹卵なみたから物置ものおき於(もくへんにうれちゅう 浮於うみ
  4. ^ 慶尚南道けいしょうなんどう蔚山うるさん広域こういきとう比定ひていするせつ有力ゆうりょく。(→井上いのうえ訳注やくちゅう1980)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]