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もと聖王せいおう

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もと聖王せいおう きむたかししん
しん
だい38だい国王こくおう
王朝おうちょう しん
在位ざいい期間きかん 785ねん1がつ - 799ねん2がつ12にち
都城みやこのじょう 金城きんじょう
諡号しごう げんきよし大王だいおう
びょうごう れつ
生年せいねん ?
没年ぼつねん 貞元さだもと14ねん12月29にち
799ねん2がつ12にち
ちち 明徳めいとく大王だいおう
はは 昭文あきふみふとしきさき
陵墓りょうぼ かけりょう
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もと聖王せいおう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 원성왕
漢字かんじ もと聖王せいおう
発音はつおん ウォンソンワン
日本語にほんごみ: げんせいおう
マ字まじ Wonseong Wang
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もと聖王せいおう(げんせいおう、生年せいねんしょう - 799ねん2がつ12にち)は、しんだい38だいおう在位ざいい785ねん - 799ねん)であり、せいきむいみなけいしん[1]だい17だい奈勿あまいまじゅうせいまごであり、高祖父こうそふだいおもね(5とうかん)のかねほうせん祖父そふ(2とうかん)のきむ義寬よしひろ祖父そふ飡(2とうかん)のきむたかしぶんちち一吉かずよし(7とうかん)のきむたかしゆずるははぼくつぎがらす夫人ふじん王妃おうひかく(1とうかん)のかねしんじゅつむすめよしさだ夫人ふじん[2]。785ねん正月しょうがつ先代せんだいせん徳王とくおう死去しきょすると、きむしゅうもと[3]とのこうそうって王位おういいた。

即位そくいまで

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だい36だいめぐみきょうおうすえとしこころざしさだ反乱はんらん780ねん2がつ)がこり、当時とうじ上大かみおおとうきむりょうしょうせん徳王とくおうがこれを鎮圧ちんあつするために挙兵きょへいすると、(2とうかん)だったきむたかししん参加さんかし、らん鎮圧ちんあつ功績こうせきがあった。反乱はんらんのなかでめぐみきょうおう落命らくめいしてそのきむ良相りょうしょうせんとくおうとして即位そくいし、けいしんせん徳王とくおうした上大かみおおとう任命にんめいされた。

せん徳王とくおうもうけないままに死去しきょし、群臣ぐんしんはじたけれつおうせいまごきむしゅうもと推戴すいたいしようとしたが、しゅうもと大雨おおあめって王城おうじょうりできないあいだけいしん王城おうじょう王位おういいだ、とつたえられている。『さん国史こくししん本紀ほんぎでは、この大雨おおあめしゅうもと即位そくいてんのぞまないためとかいし、あらためておう推戴すいたい審議しんぎしてけいしん選出せんしゅつすることになり、けいしん即位そくいするとあめんだ、すなわ天意てんいかなったとつたえる。『さんこくのここときのもと聖王せいおうじょうでは、しゅうもとうえおさむけいしんおさむであったときに、けいしんが「貴人きじん帽子ぼうしいでかさこうむり、じゅうげんきんち、てんかんてら井戸いどはいる」というゆめたこと、そのゆめうらないによれば「帽子ぼうしぐのはうえひとがいなくなること、かさこうむるのは王冠おうかんこうむきざし、じゅうげんきんじゅうせいまご王位おういきざし、てんかんてら井戸いどはいるのは宮殿きゅうでんはいきざし」であること、せん徳王とくおう死後しごけいしん王位おういいだのはほぼゆめのとおりであった、とつたえられている。

治世ちせい

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即位そくいちょくち(785ねん2がつ)に自身じしん祖先そせんへのついふうおこない、びょうさい整備せいびした[4]788ねんには官吏かんり登用とうよう制度せいどとして、科挙かきょ類似るいじする「読書どくしょさんひん」をさだめたように、儒教じゅきょうてき律令りつりょう体制たいせいてき政策せいさくした。また、度々どど天災てんさいによりみんえることがあったが、律令りつりょう体制たいせいしたみつぎおさめされた租粟を振舞ふるまってみん救済きゅうさいおこなっている。めぐみきょうおうすえねん以来いらい政治せいじてき混乱こんらん収拾しゅうしゅうつとめたが、こうした天災てんさいつづいたこともあって、788ねんあきにはくに西部せいぶ盗賊とうぞくあらわれ、791ねんにはもとさむらいちゅうの悌恭が反乱はんらんこして誅殺ちゅうさつされるなど、 けっして安定あんていした政治せいじおこなわれたわけではなかった。

とうたいしては786ねん使者ししゃ派遣はけんしてみつぎおさめし、とくむねからはしん長年ながねん忠勤ちゅうきん慰撫いぶする詔書しょうしょをいただいている。また、せん徳王とくおうあたえられた官爵かんしゃく検校けんぎょうふとしじょうにわとりはやししゅう刺史ししやすし海軍かいぐん使しんおう〉をそのままいだ[5]

794ねん7がつにはたてまつおんてらソウル特別とくべつ江南えな)をて、王宮おうきゅう西にしにはもちおんろうきずいた[6]

在位ざいい14ねん貞元さだもと14ねん12月29にち799ねん2がつ12にち)に死去しきょし、もと聖王せいおうおくりなされた。のこみことのりにより、たてまつとくてらみなみ火葬かそうされたという。『さんこくのここときのことではおうりょう吐含やま西にしたかしぶくてら寺跡てらあと慶尚北道けいしょうほくどう慶州けいしゅうそと東面とうめんまつかたさと)にあるというが、かけりょう慶州けいしゅう市外しがい東面とうめんかけりょうさと史跡しせきだい26ごう)とするせつもある[7]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ さんこくのこことおうれきでは、「いみな)はたかしまきあるいはけいしんじ、『とうしょ』はけいそくとする」としるす。しかし、『きゅうとうしょ』211・しんつたえ、『しんとうしょ』236・しんつたえともにけいしんしるされる。
  2. ^ 系譜けいふについての本文ほんぶん記述きじゅつは、王妃おうひめいのぞき『さん国史こくししん本紀ほんぎもと聖王せいおうしたがう。『さんこくのこことおうれきでは、ちちこうゆずるだいおもね飡(5とうかん)、ははじん■(欠字けつじ)またはがらす夫人ふじんとし、あきらきん飡(2とうかん)のむすめとし、せいにはれていない。王妃おうひは『さん国史こくし』では「きむ氏神うじがみじゅつかくおんな」、『さんこくのここと』では「よしさだ夫人ふじんかみじゅつかくおんな」とする。
  3. ^ のちに、きむしゅうもと王位おういけなかったことを不服ふふくとして、きむけんあきら反乱はんらんこしている。
  4. ^ もと聖王せいおう高祖父こうそふだいおもねほうせんげんせい大王だいおう祖父そふ義寛よしひろかみえい大王だいおう祖父そふぶんきょうひら大王だいおうちちこうゆずる明徳めいとく大王だいおうとし、ははぼく昭文あきふみふとしきさきとした。びょうについては、せんとく王代おうだいに「始祖しそ大王だいおうあじ鄒尼いま)・ふとし宗武むねたけれつおう文武ぶんぶおう聖徳せいとくおうひらけせい大王だいおうせん徳王とくおうちち)」であったところを、聖徳せいとくおうひらけせい大王だいおうびょうこわしてもと聖王せいおう祖父そふきょうひら大王だいおうちち明徳めいとく大王だいおうびょうくわえており、始祖しそたけれつおう文武ぶんぶおう不変ふへんむねとしてまつり、自身じしんちち祖父そふくわえてびょうとするならわしが定着ていちゃくしたことをしめすものである。王家おうけ祖廟そびょうびょうとしたことについては『れい王制おうせいへん天子てんしななびょう諸侯しょこうびょう」にもとづく。
  5. ^ きゅうとうしょ』211・しんつたえ貞元さだもと元年がんねん其年じょう
  6. ^ さんこくのここときのもと聖王せいおうじょうでは報恩寺ほうおんじもちとくろうことなるつたわっている。
  7. ^ 井上いのうえ訳注やくちゅう1980 p.352 ちゅう7. 一般いっぱんにはかけりょうもと聖王せいおうりょうとするせつ有力ゆうりょくになっているが、慶州けいしゅう公式こうしきサイトなどのように、公式こうしきにはもと聖王せいおうりょうかけりょうとはべつのものとしてあつかわれている。

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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