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けいぶんおう

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けいぶんおう きん膺廉
しん
だい48だい国王こくおう
王朝おうちょう しん
在位ざいい期間きかん 861ねん3月14にち - 875ねん8がつ12にち
諡号しごう けいぶん大王だいおう
生年せいねん かいあきら5ねん845ねん
没年ぼつねん いぬい2ねん7がつ8にち
875ねん8がつ12にち
ちち きむ啓明ひろあき
はは 光和こうわ夫人ふじん
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けいぶんおう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 경문왕
漢字かんじ けいぶんおう
発音はつおん キョンムンワン
日本語にほんごみ: けいぶんおう
マ字まじ Gyeongmun Wang
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けいぶんおう(けいぶんおう、845ねん? - 875ねん8がつ12にち)は、しんだい48だいおう在位ざいい861ねん - 875ねん)であり、せいきむいみなは膺廉(ようれん)[1]ちちだい43だい僖康おう啓明ひろあきおもね(6とうかん[2]はは光和こうわ夫人ふじん[3]王妃おうひ先代せんだいけん安王やすおうむすめやすしはな夫人ふじん[4]。861ねん1がつけん安王やすおう死去しきょし、王子おうじがいなかったために婿むこの膺廉を王位おういけよとするのこみことのりって王位おういいた。

治世ちせい

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とうたいしては、862ねん7がつ使者ししゃ派遣はけんして土産物みやげものみつげおさめし、865ねん4がつには懿宗から<開府かいふどうさん検校けんぎょうふとしじょう使つかいぶしだいとくにわとりはやししゅうしょ軍事ぐんじうえばしらこくしんおう>にさつふうされた。また、このときにはおうだけでなく王妃おうひおう太子たいしだい宰相さいしょうしょう宰相さいしょうへも下賜かしひんがあった。869ねん7がつには王子おうじかねたねらをとう派遣はけんし、うまとう砂金さきんひゃくりょうぎんひゃくりょうほか、様々さまざますすむたてまつおこなった。このときにはどうらの学生がくせいきむたねしたがわせており、とう学業がくぎょうおさめさせるとともに書物しょもつ購入こうにゅうするための費用ひようとしてぎんさんひゃくりょうどうらに下賜かししている。よく870ねん2がつにはすな(8とうかん)のかねいんとう宿衛しゅくえいさせた。874ねんには僖宗からのせんさとし使けており、とうとの交流こうりゅう往時おうじさかんさを回復かいふくした。このあいだ864ねん4がつ日本にっぽんからもくに使むかえたことがしるされているが、日本にっぽんがわ史書ししょには対応たいおうする記事きじ一切いっさいない[5]

867ねん5月にはおうみやこ金城きんじょう慶尚北道けいしょうほくどう慶州けいしゅう)で疫病えきびょう流行はやり、同年どうねん8がつには洪水こうずいこった。地方ちほう各地かくちでも穀物こくもつみのらず、おう各地かくちやすなで使者ししゃ派遣はけんして慰問いもんつとめた。870ねんにはおう地震じしん洪水こうずい見舞みまわれ、そのふゆにはふたた疫病えきびょう流行はやることとなった。873ねんにも飢餓きが疫病えきびょうこり、おうみん穀物こくもつあたえて救済きゅうさいしたが、政情せいじょう安定あんていしなかった。疫病えきびょうなどのやくわざわい呼応こおうするでもなくおうでの貴族きぞくそう反乱はんらん相次あいついだのは、そのあらわれとえる。

866ねん10月には(2とうかん)のまこときょうがそのおとうとの叔興・きょうとともに反逆はんぎゃくはかった。事前じぜん発覚はっかくしてまこときょうらは岱山たいざんぐん慶尚北道けいしょうほくどうほししゅうぐん)に逃走とうそうしたが、捕縛ほばくされてけいしょされ、一族いちぞく誅滅ちゅうめつされた。また、868ねん1がつには飡のかねするどきむ鉉らが反乱はんらんこして誅殺ちゅうさつされ。さらに874ねん5月にも飡のきんむね反乱はんらんこして宮中きゅうちゅうまでいたり、おう近衛このえへい派遣はけんして撃破げきはし、のがれたきんむね一味いちみらえてくるまけいにした。反乱はんらんしゃらえきれないほど統制とうせいりょく低下ていかしていたぶん聖王せいおうころからくらべると、すこしは統制とうせいりょく回復かいふくしていたとみられる。

在位ざいい15ねんの875ねん7がつ8にち死去しきょし、けいぶんおうおくりなされた。埋葬まいそうについてはしるされず、おうりょう比定ひてい不明ふめいである。

逸話いつわ

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嫁取よめと

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さん国史こくししん本紀ほんぎけん安王やすおうれば、けん安王やすおうの4ねん860ねん)9がつおう臨海りんかい殿どの群臣ぐんしん会合かいごうをしているとき、王族おうぞくの膺廉は15さいにして会合かいごう出席しゅっせきしており、まえのほうへすわっていた。けん安王やすおうが膺廉のこころざしためすために「善人ぜんにんたことがあるか」とうたところ、膺廉は「身分みぶんたか門閥もんばつ子弟していであるにもかかわらずひとうときには末席まっせきろうとするひと富裕ふゆうであるにもかかわらず粗末そまつ着物きものをきているひと権勢けんせいっていながら他人たにん圧力あつりょくくわえないひと、これら3にん善人ぜんにんだったとおもいます」とこたえた。これをいたけん安王やすおうは膺廉のすぐれた資質ししつ感激かんげきし、おうむすめよめとしてあたえようとかんがえた。20さいあねと19さいいもうとのいずれをめとるかをうたが、膺廉は丁重ていちょうれいべるだけで姉妹しまいのいずれともこたえずに退去たいきょした。膺廉がこのことを父母ちちはは相談そうだんしたところ、父母ちちははは「いもうとほう器量きりょういといううわさなので、いもうとめとるのがよいだろう」とさとした。決心けっしんのつきかねた膺廉はきょうてらそう相談そうだんしたところ、そのそうは「あねめとればみっつの利益りえきがあり、いもうとめとればみっつの損失そんしつがあるだろう」とおしえた。結局けっきょくは膺廉は姉妹しまいのいずれかをみずかめることはせず、けん安王やすおうには「おういのちしたがいます」とこたえ、おうあねやすしはな夫人ふじん)を降嫁こうかさせた。けん安王やすおうくなるときに王子おうじがなかったため、おう遺言ゆいごんしたがって膺廉は即位そくいした。

即位そくいしたけいぶんおうやすしはな夫人ふじんいもうとつぎとしてむかれた。のちきょうてらそうにあって「あねめとった場合ばあいみっつの利益りえきとはなにか」とたずねたところ、そうは「けん安王やすおうかなって寵愛ちょうあいふかめたことがその1、その結果けっか王位おういぐことができたのがその2、そして器量きりょうすぐれたいもうとめとることができたことがその3です」とこたえ、けいぶんおう大笑おおわらいした、という。

同様どうようはなしが『さんこくのここときのけいぶん大王だいおうじょうにもつたわるが、けん安王やすおうとの会話かいわのあった宴会えんかいのときに、膺廉は20さいであったとされている。また、みっつのとくしつかたったのははん教師きょうしというものであり、後日ごじつみっつの利益りえきはなしいたけいぶんおうはん教師きょうし大徳だいとくかね130りょうたまわった、としている。

さんこくのここときのけいぶん大王だいおうじょうではさき嫁取よめとりのはなしつづけて、けいぶんおうへびとのはなしつたえる。

けいぶんおう寝殿しんでんには日暮ひぐれになると無数むすうへびあつまってきた。宮人みやびと気味悪きみわるがってへびはらおうとすると、けいぶんおうは「わたしへびがいないと安眠あんみんできないので、そのままにしておくように」とい、おうるときにはへびしたしておうむねおおいつくしていた。

ロバのみみ

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さらに『さんこくのここときのけいぶん大王だいおうじょうにはミダスおう伝説でんせつの「王様おうさまみみはロバのみみ」の一節いっせつはなしつたえている[6]

けいぶんおう即位そくいしたのちおうみみきゅうながくなり、ロバみみのようになった。宮人みやびとだれ気付きづかなかったが、唯一ゆいいつおう帽子ぼうしつく職人しょくにんがこのことに気付きづいてしまった。職人しょくにんだれにもこのことをはなさなかったが、間際まぎわになって道林寺どうりんじだれない竹林ちくりんき、たけかって「おうみみはロバのようだ」とさけんだ。そのふうくとたけが「おうみみはロバのようだ」とるようになった。これを苦々にがにがしくおもったおうたけりとってやま茱萸ぐみ[7]えさせたところ、ふういても「おうみみながい」とだけこえるようになった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ さん国史こくししん本紀ほんぎけいぶんおうおさむぶんちゅうにはしこりかどともいう。また、しん本紀ほんぎ真聖まさたか女王じょおう即位そくいには、ちぇ致遠の『文集ぶんしゅうだいかんしゃ追贈ついぞうひょう」を引用いんようして、けいぶんおういみなしこりれん(ぎょうれん)としるしている。
  2. ^ さんこくのこことおうれきではちち啓明けいめいかく(1とうかん)とする。また、『さん国史こくししん本紀ほんぎではけいぶんおうの6ねん866ねん)に、亡父ぼうふ啓明けいめいついふうして懿恭大王だいおうとした。『さんこくのこことおうれきではきょう大王だいおうあるいは、懿恭大王だいおう)とする。
  3. ^ さん国史こくししん本紀ほんぎぶんちゅうでは光義みつよし夫人ふじんともしるす。また、866ねんおうははぼく」をひかり懿王ふとしきさきついふうしたとする。『さんこくのこことおうれきでは、だい45だい神武じんむおうむすめ光和こうわ夫人ふじんとしている。おうははせいぼくしるされることについては、とうたいして同姓どうせいこんはばかったものである。あいそうおう脚注きゃくちゅう参照さんしょう
  4. ^ さん国史こくししん本紀ほんぎでは、866ねんぶん懿王とされたとする。『さんこくのこことおうれきではぶんおうきさきしるされる。
  5. ^ 井上いのうえ訳注やくちゅう1980 p.385 ちゅう13
  6. ^ 日本にっぽんでは明治めいじ38ねん帝国ていこく大学だいがくげん東京大学とうきょうだいがく教授きょうじゅ坪井つぼいきゅうさんにより紹介しょうかいされ有名ゆうめいになり、高木たかぎ敏雄としお南方みなかた熊楠くまぐすなどが言及げんきゅうする。
  7. ^ かねおもえ燁はこのやま茱萸ぐみたいして「わかはじかみ」のみをつけている。→かねやく1997 p.155

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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