(Translated by https://www.hiragana.jp/)
興徳王 - Wikipedia コンテンツにスキップ

きょう徳王とくおう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
きょう徳王とくおう きんけい
しん
だい42だい国王こくおう
王朝おうちょう しん
在位ざいい期間きかん 826ねん - 836ねん
諡号しごう きょうとく大王だいおう
生年せいねん だいこよみ12ねん777ねん
没年ぼつねん 開成かいせい元年がんねん836ねん)12月
ちち めぐみただ大王だいおう
はは ひじりきよしふとしきさき
テンプレートを表示ひょうじ
きょう徳王とくおう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 흥덕왕
漢字かんじ きょう德王とくおう
発音はつおん フンドクワン
日本語にほんごみ: こうとくおう
マ字まじ Heungdeok Wang
テンプレートを表示ひょうじ

きょう徳王とくおう(こうとくおう、777ねん - 836ねん)は、しんだい42だいおう在位ざいい826ねん - 836ねん)であり、せいきむいみなしゅうむね[1]、のちにけい徽(けいき)と改名かいめいした[2]ちちだい38だいもと聖王せいおうもと太子たいしきむひとしけんあきら聖王せいおうによりめぐみちゅう大王だいおうついふう)、ははかく(1とうかん)のかねしんじゅつむすめよしさだ夫人ふじんひじりきよしふとしきさきついふう)であり、だい39だいあきら聖王せいおうだい41だいけん徳王とくおう同母どうぼおとうとである。王妃おうひあきら聖王せいおうむすめあきら夫人ふじん[3]。826ねん10がつ先代せんだいけん徳王とくおう死去しきょすると、ふくきみくらいにあったしげるのぼり即位そくいした。

即位そくいまで

[編集へんしゅう]

819ねん2がつ現職げんしょく上大かみおおとうきむたかしあきら死去しきょしたことにより、(2とうかん)のくらいにあったきむしげるのぼり後任こうにん上大かみおおとうとなり、822ねん1がつにはふくきみとされてがつ池宮いけみやまわされた。『さん国史こくし』ではふくきみ名称めいしょうはほかにはられないが、つきてんがついけたけしてんという官庁かんちょうめいしょくかんこころざし東宮とうぐうかん下部かぶ組織そしきとしてられることから、ふくきみおう太子たいし別称べっしょうであり、きむしげるのぼりおき徳王とくおう)がおう太子たいしてられたものとられている[4]。また、『きゅうとうしょ』や『しんとうしょ』のしんつたえには、きむけい徽(おき徳王とくおう)は金彦こがねひこのぼるけん徳王とくおう)のであるとしるしている[5][6]。しかし『さん国史こくししん本紀ほんぎけん徳王とくおうれば、けん徳王とくおうにはきむ憲章のりあききむちょうれんきむ昕らの王子おうじがいたことがしるされており、また、822ねん3がつ以降いこうちゅうきょうかくけん徳王とくおうおとうと)のむすめさだ嬌を太子たいしむかれたことをしるしており、おき徳王とくおう王妃おうひつてとはことなっていることから、おき徳王とくおうけん徳王とくおう太子たいしとされたとすることとは相容あいいれない。結局けっきょくのところ、けん徳王とくおう同母どうぼおとうとであったきょう徳王とくおうが、王子おうじらをいて王位おういいだことについて、確実かくじつ事情じじょう不明ふめいである。

治世ちせい

[編集へんしゅう]

ほぼどう時期じき代替だいがわりしたとうぶんむねからは、〈開府かいふどうさん検校けんぎょうふとしじょう使つかいぶしだいとくにわとりはやししゅうしょ軍事ぐんじけんぶしたかしやすし海軍かいぐん使しんおう〉にさつふうされた。『きゅうとうしょしんつたえにはふとし5ねん(831ねん)こととしている[5]が、この箇所かしょ引用いんようしたとられる『さん国史こくししん本紀ほんぎおき徳王とくおうは、このさつふうについてはおうの2ねん827ねん)のこととしている。また、このさつふうさいに、おうははぼくだい王妃おうひぼく[7]冊立さくりつすることもあわせておこなわれた。とうへの朝貢ちょうこうつづけて文物ぶんぶつ招来しょうらいつとめ、827ねんとうはいったきゅう高句麗こうくりけいそうおかいさお経典きょうてんかえった。また、828ねん帰国きこくしたきむだいかどかえったちゃ種子しゅし地理ちりさん慶尚南道けいしょうなんどうやませいぐんさとしやま)にえさせて以後いごしんでの喫茶きっささかんになったという。

国内こくないでは827ねんかんやましゅう京畿けいきどう広州こうしゅうひさごがわけんからはやとみじゅつ(すぐに富貴ふうきになれる方法ほうほう)という宗教しゅうきょう運動うんどう流行はやすと、人々ひとびとまどわすものとして教祖きょうそ遠島えんとう流刑りゅうけいとした。832ねんはるなつ旱魃かんばつ、7がつ大雨おおあめ凶作きょうさくとなり、えた民衆みんしゅう盗賊とうぞくとなって蜂起ほうきすると、10月には各地かくち使者ししゃ派遣はけんして慰撫いぶつとめ、よく833ねんにも凶作きょうさくみん飢餓きがくるしみ流行りゅうこうびょうおおくの死者ししゃすと、834ねん10月にはおうみずからが巡幸じゅんこうしてみん穀物こくもつあたえ、民心みんしん安定あんていはかろうとした。

おなじ834ねんには、身分みぶん上下じょうげおうじていろふくくるま器物きぶつ家屋かおくなどの区別くべつ厳然げんぜんとさせて違反いはんしゃには刑罰けいばつもちいるとする教書きょうしょ発布はっぷ[8]して、奢侈しゃしきんじるとともにおうみやこ住民じゅうみんたいする身分みぶん序列じょれつ明確めいかくさせることとした。この教書きょうしょなか規定きていされた身分みぶん序列じょれつは「しんこつろくとうひんとうひんよんとうひんたいらじんのそれぞれ男女だんじょ」としており、7世紀せいき中葉ちゅうよう成立せいりつしていた王族おうぞく中心ちゅうしんとする身分みぶん序列じょれつである「ほね制度せいど」(せいほねほね)にたいして「あたまひん制度せいど」とされる。これらこつ制度せいどとうひん制度せいどをあわせてしんほねひん制度せいどという。

在位ざいい11ねんにして836ねん12月に死去しきょし、おき徳王とくおうおくりなされた。遺言ゆいごんしたがってあきら王妃おうひりょうごうそうされたといい、そのおうりょう慶州けいしゅう安康あんこう邑の史跡しせきだい30ごう比定ひていされている。

王妃おうひ

[編集へんしゅう]

きょう徳王とくおうが826ねん10がつ即位そくいしたのち、12月には王妃おうひあきら夫人ふじんくなり、おう大変たいへんかなしんだ。群臣ぐんしんこうれることを進言しんげんしたが、おうは「つがいのとりでさえ相方あいかたうしなってかなしむというのに、わたしにとっての伴侶はんりょうしなって、どうしてすぐに再婚さいこんするなどという無情むじょうなことができようか」といって、こうむかえようとはしなかった。また、後宮こうきゅう侍女じじょちかづけることもせず、おう左右さゆうにはただ宦官かんがんだけがいたという(『さん国史こくししん本紀ほんぎおき徳王とくおう即位そくい)。

王妃おうひうしなったかなしみをつがいのとりたとえたことについて、『さんこくのここときのおき徳王とくおう鸚鵡おうむじょうには、つぎのような説話せつわつたえられている。

おう即位そくいに、とうからかえってきた使者ししゃ鸚鵡おうむひとつがいをれていたが、やがて雌鳥めんどりんでのこされた雄鳥おんどりかなしんできやまなかった。雄鳥おんどりまえかがみかせたところ、雄鳥おんどりかがみうつ姿すがた雌鳥めんどりもどってきたとおもってかがみをつついたが、かがみうつった自分じぶん姿すがたであると気付きづくとかなしみきながらんでしまった。これをおううたつくったというが、どのような内容ないようであったかはわからない。


脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ さん国史こくししん本紀ほんぎけん徳王とくおうにおいてはぶんちゅうしゅうますともしるされている。
  2. ^ さんこくのこことおうれきではいみなけいあきら(けいき)としるされる。けい徽・けいあきら同音どうおん경휘)。
  3. ^ さんこくのこことおうれきでは、あきらはな夫人ふじんとする。あきら장화)・あきらはな창화)はおとどおりする。
  4. ^ 井上いのうえ訳注やくちゅう1980 p.356. ちゅう54,55.
  5. ^ a b きゅうとうしょまきひゃくじゅういちしんつたえ「(ふとしねん(831ねん)、金彦こがねひこますそつ。以嗣子ししきんけい徽為開府かいふどうさん検校けんぎょうふとしじょう使つかいぶしだいとくにわとりはやししゅうしょ軍事ぐんじけんぶしたかしやすし海軍かいぐん使しんおう。」
  6. ^ しんとうしょまきひゃくさんじゅうろくしんつたえ長慶ちょうけいたかられきあいだ(821ねん - 827ねん)、さい使者ししゃ来朝らいちょうとめ宿衛しゅくえい。彦升けい徽立。」
  7. ^ おうはは王妃おうひいずれもきむであるが、同姓どうせいこんとうせい考慮こうりょして、対外たいがいてきには姻族いんぞくせいぼくとする慣習かんしゅうができていたとられている。→井上いのうえ1972 p.235。あいそうおうけん徳王とくおう脚注きゃくちゅう参照さんしょう
  8. ^ さん国史こくしまきさんじゅうさんざつこころざししょくふくじょう

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]