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あじ鄒尼いま

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あじ鄒尼いま
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 미추 이사금
漢字かんじ あじ鄒尼いま
発音はつおん ミチュ・イサグム
日本語にほんごみ: みすう・にしきん
マ字まじ Michu Isageum
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あじ鄒尼いま(みすう にしきん、190ねん?- 284ねん)は、しんだい13だいおう在位ざいい:262ねん - 284ねん)であり、せいきむきむ閼智の7せいまごであり、ちちきむかたきどうかずらぶんおう[1]ははだい6だい祇摩あまいま柒葛ぶんおうむすめじゅつれい夫人ふじん王妃おうひだい11だいじょ賁尼いまむすめ光明こうみょう夫人ふじん先代せんだい沾解あまいまのないままに261ねん12月28にち死去しきょしたため、国人くにびと推挙すいきょされておうとなった。きむおうみつる初代しょだいである。『さん国史こくししん本紀ほんぎあじ鄒尼こんにはぶんちゅうあじあきらあまいま)、『さんこくのこことおうれきではあじ同書どうしょこと鄒王ちくぐんじょうではいにしえともしるされる。

治世ちせい

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もっぱら百済くだらとのたたかいが記録きろくのこっているが、いずれも戦勝せんしょうおさめている。266ねん8がつに烽山じょう慶尚北道けいしょうほくどうさかえしゅう)がめられたが、城主じょうしゅちょくせんがこれを敗走はいそうさせた。この功績こうせきとなえ、ちょくせん一吉かずよし(7とうかん)にてるとともに、しろ兵卒へいそつにも褒美ほうびあたえた。278ねん10月に、ふたたひゃくすみ侵入しんにゅうしてきてえんじゅたにじょう忠清ただきよ北道ほくどうさいかちさんぐん)を包囲ほういしたが、なみちん(4とうかん)のせいみなもと撃退げきたいした。283ねん9月にも百済くだらしんり、10月にはえんじゅたにじょう包囲ほういしたが、一吉かずよし飡の良質りょうしつがよくふせいだという。

在位ざいい23ねんにして284ねん10がつ死去しきょした。だいりょう別名べつめい竹長たけながりょう)に埋葬まいそうされた。『さんこくのここと』によれば、りょうきょうてら慶州けいしゅう)のひがしにあり[2]たけぐん伝説でんせつにちなんでたけげんりょうともいう。

たけぐん伝説でんせつ

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さん国史こくししん本紀ほんぎの儒礼あまこんや『さんこくのここときの鄒王ちくぐんじょうには、つぎのような説話せつわつたわっている。

儒礼あまいまの14ねん297ねん)、西国さいこく慶尚北道けいしょうほくどう清道きよみちぐん)がめてきて首都しゅと金城きんじょうかこんだとき、しんでは大軍たいぐんひきいて防戦ぼうせんつとめたが、なかなか退しりぞけることができなかった。不意ふい異形いぎょうへいかぞれないほどあらわれ、しんへい一緒いっしょになって伊西いにしいにしえこくぐんやぶることができた。これらの異形いぎょうへいたけみみかざりをつけており、たたかいがむと何処どこともなくせてしまった。あるひと竹長たけながりょうあじ鄒尼いま陵墓りょうぼ)にたけすうまんまいかさなっているのをて、これはあじ鄒尼いま幻術げんじゅつによるへいもちいてせんを援けてくれたのだ、とかんがえた。

きむおうみつる始祖しそ

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さん国史こくしまき32・祭祀さいしこころざしによれば、だい36だいめぐみきょうおう時代じだいびょうさだめたとあるが、そこにはきむ始祖しそとしてあじ鄒王(あまいま)を位置いちづけ、さんこく統一とういつ偉業いぎょうしたふとしそうたけれつおう)・文武ぶんぶおうとをあわせて代々だいだい不変ふへんむねとし、あわせてちちけい徳王とくおう祖父そふ聖徳せいとくおうくわえてびょうとしたという。おういくとおりにもしるされそれぞれにおとどおりすることは、その伝承でんしょうふるいことをあらわしており、また、あじ鄒のおと)は「もとほん」を意味いみし、あじ鄒王の表現ひょうげん始祖しそおうあらわすものとかんがえられている。きむ始祖しそについてはきむ閼智、いきおいかんあじ鄒王の諸説しょせつ(ほかに17だい奈勿おうとする伝承でんしょうもある)がふるくから平行へいこうして存在そんざいしていたとられている。(→井上いのうえ訳注やくちゅう1980 pp.64-65.)

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ただし、ちちかねかたきどうかずらぶんおうついふうしたのは、あじ鄒尼いま即位そくい2ねん263ねん)2がつであることが『さん国史こくししん本紀ほんぎしるされている。なお、しんおう即位そくいについては通常つうじょうたてとし改元かいげん立場たちばをとっているが、先王せんおう死去しきょが12月28にちであったためか、あじ鄒尼いまについては踰年改元かいげんしるされている。
  2. ^ 現在げんざい慶州けいしゅう観光かんこう市内しないけん)に古墳こふん公園こうえんとしてつたわっている。

参考さんこう文献ぶんけん

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