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あいそうおう

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あいそうおう 金重かねしげ
しん
だい40だい国王こくおう
王朝おうちょう しん
在位ざいい期間きかん 800ねん - 809ねん9月2にち
諡号しごう あいそう大王だいおう
生年せいねん 貞元さだもと4ねん788ねん
没年ぼつねん 元和がんわ4ねん7がつ19にち
809ねん9月2にち
ちち あきら聖王せいおう
はは かつらはな夫人ふじん
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あいそうおう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 애장왕
漢字かんじ あいそうおう
発音はつおん エジャンワン
日本語にほんごみ: あいそうおう
マ字まじ Aejang Wang
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あいそうおう(あいそうおう、788ねん - 809ねん9月2にち)は、しんだい40だいおう在位ざいい800ねん - 809ねん)であり、せいきむいみな清明せいめい、のちにじゅう熙と改名かいめいちちだい39だいあきら聖王せいおうははだいおもね(5とうかん)のかね叔明のむすめかつらはな夫人ふじん[1]王妃おうひおもね(6とうかん)のかねちゅうあおむすめ。800ねん6がつあきら聖王せいおう死去しきょしたことにより嫡子ちゃくし清明せいめいが13さい即位そくいし、叔父おじおもね飡(6とうかん)で兵部ひょうぶれい長官ちょうかん)をつとめていた金彦こがねひこのぼるけん徳王とくおう摂政せっしょうとなった。

治世ちせい

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これまでのしんびょう[2]は、きむおうみつる始祖しそきむ初代しょだいおうあじ鄒尼いま)・ふとしむねたけれつおう文武ぶんぶおうならびにおう祖父そふちちとしていたが、あいそうおうにいたって801ねん2がつたけれつおう文武ぶんぶおう別格べっかくびょうとしておこし、びょうそのものは始祖しそ大王だいおう高祖こうそ祖父そふ祖父そふちちとする形式けいしきあらためられた。805ねん1がつにはおうはは王妃おうひさついのち、8がつには律令りつりょう施行しこう細則さいそくである公式こうしきじゅうじょう頒布はんぷするなど律令りつりょう体制たいせい推進すいしんはかっているが、同年どうねんにはれいさく営繕えいぜん管掌かんしょう)のだいしゃ2めいふな航海こうかい管掌かんしょう)の2めい削減さくげんしており、貴族きぞく連合れんごう体制たいせいへの回帰かいきとのバランスをはかりながらも、総体そうたいとしては律令りつりょう体制たいせい没落ぼつらくはじまっているものとられている[3]

おなじ805ねんにはとうではとくむね死去しきょしてじゅんむね即位そくいし、先王せんおうあきら聖王せいおうへの哀悼あいとう使者ししゃおくられ、あいそうおうあらたにさつふうされて<開府かいふどうさん検校けんぎょうふとしじょう使つかいぶしだいとくにわとりはやししゅうしょ軍事ぐんじにわとりはやししゅう刺史ししけんぶしたかしやすし海軍かいぐん使うえばしらこくしんおう>へと官爵かんしゃくすすめられた。このときにおうははたいしてだい叔氏、王妃おうひたいしてぼくとするさついのちけているが、せいちがいがあることがられている[4]。こののち、とうたいしては朝貢ちょうこうおよび、さついのち謝恩しゃおん使派遣はけんおこなっている。

801ねん10月には、ふけこく済州さいしゅうとう)からの朝貢ちょうこうけたことがつたわっている。ふけこく文武ぶんぶおう19ねん679ねん)にしん隷属れいぞくしていたが、のち独立どくりつしていたとみられる。

803ねんには日本にっぽんとも国交こっこう再開さいかいされたが、両国りょうこく交渉こうしょうについて『さん国史こくし』があいそうおう4ねん(803ねん)7がつ国交こっこうひらどおりした」、5ねん804ねん)5がつ日本にっぽんから黄金おうごん300りょう進上しんじょうされた」、7ねん806ねん)3がつ日本にっぽんこく使者ししゃいたると、あさもと殿しんがり引見いんけんした」、9ねん808ねん)2がつ日本にっぽんこく使者ししゃあつくもてなした」という4れいつたえるのにたいし、『日本にっぽん』はのべれき23ねん(804ねん)9がつおのれうしじょうで「大伴おおとも宿やど禰岑まんさとしんつかわした」の1れいつたえるのみである[5]

文化ぶんかめんでは、802ねんには順応じゅんのう利貞としさだらの高僧こうそうめいじて伽耶かやさんうみしるしてら慶尚南道けいしょうなんどう陜川ぐん伽耶かやめん)を創建そうけんさせた。804ねんには、かつて文武ぶんぶおう王城おうじょうきずいたかり鴨池かもいけほとり臨海りんかい殿どの修復しゅうふくし、さらに東宮とうぐう万寿まんすぼう創建そうけんした。しかし、806ねんには以後いご仏寺ぶつじ創建そうけん禁止きんしして、修繕しゅうぜんのみをみとめるという教書きょうしょし、あわせて錦繍きんしゅう仏事ぶつじもちいたり金銀きんぎん器具きぐ製作せいさくすることをきんじる布告ふこくおこなっている。

在位ざいい10ねんの809ねん7がつ摂政せっしょう金彦こがねひこのぼるけん徳王とくおう(2とうかん)の悌邕(ていよう)とともに反乱はんらんこし、あいそうおうおうおとうとからだあかりさむらいまもるとともに殺害さつがいされた。『さんこくのこことおうれきれば、元和がんわ4ねん7がつ19にち(809ねん9月2にち)におう叔父おじけんとくおきとく2人ふたりによって殺害さつがいされた、としている。けん徳王とくおう即位そくいあいそうおくりなされたが、おうりょうについてはしょう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ さんこくのこことおうれきあきら聖王せいおうじょうでは、あいそうおうははすなわちあきら聖王せいおうは夙明こうむすめかつら花王かおうきさきとする。叔明と夙明とは同音どうおん숙명)。
  2. ^ しんびょう制度せいど推移すいいについては、神文しんもんおうめぐみきょうおうせん徳王とくおうもと聖王せいおう参照さんしょう王家おうけ祖廟そびょうびょうとしたことについては『れい王制おうせいへん天子てんしななびょう諸侯しょこうびょう」にもとづく。
  3. ^ 井上いのうえ1972 pp.222,234-235.
  4. ^ あいそうおうおうはは王妃おうひはいずれもきむであったが、とう同姓どうせいこん風習ふうしゅう考慮こうりょして別姓べっせい名乗なのることとなった。おうははについてはそのちちの叔明からりて叔氏としたことが『さん国史こくししん本紀ほんぎぶんちゅうにもしるされている。また、あきら聖王せいおうおうははについてはちちかみじゅつからさるけん徳王とくおうについてはれいえいかく(1とうかん)のむすめであるが、兄弟きょうだいやからぎょう影響えいきょうか、さだとしている。はじめは王妃おうひ個々人ここじんによって諸々もろもろせいもちいていたが、あいそうおう以降いこうぼくとすることが定形ていけいしたものとられている。→井上いのうえ1972 p.235
  5. ^ 日本にっぽんまきじゅう のべれきじゅうさんねんきゅうがつおのれうしじょう

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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