(Translated by https://www.hiragana.jp/)
閔哀王 - Wikipedia コンテンツにスキップ

閔哀おう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
閔哀おう きむあきら
しん
だい44だい国王こくおう
王朝おうちょう しん
在位ざいい期間きかん 838ねん - 839ねん2がつ10日とおか
諡号しごう 閔哀大王だいおう
生年せいねん 元和がんわ12ねん817ねん
没年ぼつねん 開成かいせい4ねん1がつ23にち[1]
839ねん2がつ10日とおか
ちち きむただしきょう
はは たから夫人ふじん
テンプレートを表示ひょうじ
閔哀おう
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 민애왕
漢字かんじ 閔哀おう
発音はつおん ミネワン
日本語にほんごみ: びんあいおう
マ字まじ Minae Wang
テンプレートを表示ひょうじ

閔哀おう(びんあいおう、817ねん - 839ねん2がつ10日とおか)は、しんだい44だいおう在位ざいい838ねん - 839ねん)であり、せいきむいみなあかり。『さんこくのこことおうれきではさとしあいおうべつ表記ひょうきつたえる。だい38だいもと聖王せいおう曾孫そうそんであり、ちちだいおもね(5とうかん)のきむただしきょう[2]ははきむたから夫人ふじん[3]王妃おうひきむまことようおうきさき[4]。838ねん1がつ反乱はんらんこして先代せんだい僖康おうめ、僖康おう自殺じさつしたことによりみずか即位そくいした。

即位そくいまで

[編集へんしゅう]

835ねん2がつきむひとしさだ上大かみおおとう就任しゅうにんしてそのきむゆうちょう神武じんむおう)がさむらいちゅう退任たいにんすると、当時とうじだいおもね飡(5とうかん)のくらいにあったきむあきら後任こうにんさむらいちゅうとなった。きょう徳王とくおう死後しごきむひとしさだきむ悌隆(僖康おう)が王位おうい継承けいしょうをめぐってあらそうと、おもね(6とうかん)の利弘としひろらとともに悌隆を擁立ようりつしてあらそいにち、僖康おうとして即位そくいさせた。僖康おう即位そくい837ねん1がつ上大かみおおとうてられ、利弘としひろさむらいちゅうとなって反対はんたい圧倒あっとうする立場たちばとなった。

ひとしさだゆうちょうらが清海きよみ全羅南道ぜんらなんどうふといしまぐん大使たいしゆみぶくちょうたもつさつきもと集結しゅうけつしてかえしをはかろうとしていたが、838ねん1がつきむあきら利弘としひろとともに私兵しへいもちいて僖康おう側近そっきん殺害さつがいし、反乱はんらん意志いししめした。この反乱はんらんで僖康おう王宮おうきゅうないくびをくくって自殺じさつすると、きむあきら貴族きぞくそう推戴すいたいという手続てつづきをることなく自立じりつして王位おういいた。

即位そくい

[編集へんしゅう]

ちょうたもつさつきのもとに集結しゅうけつしたゆうちょうらの一派いっぱは838ねん3がつ軍事ぐんじ活動かつどうこし、ゆうちょうきむようたけしゅう光州こうしゅう)をくだしてさらに南原なんばらしょうきょう南原なんばら)を陥落かんらくさせた。12月になってきむようたけしゅうてつ冶県(しゅう)までぐんすすめたところでおうきむさとししゅう派遣はけんして迎撃げいげきしたが、きむようぐんまえ壊滅かいめつした。839ねん1がつ19にち首都しゅと金城きんじょうかって攻勢こうせいはじめたきむようぐんいたる大邱たいきゅういたると、おうは10まんきんぐんもちいて防戦ぼうせんつとめたがかなわず、へい半数はんすう以上いじょう戦死せんしした。この敗戦はいせんいたおう側近そっきんみなしてしまい、おうもまた金城きんじょう郊外こうがいつきゆうたくという離宮りきゅうげてかくれていたが、きむようぐん兵士へいしつけられて1がつ23にち殺害さつがいされた[5]

神武じんむおうによって閔哀おうおくりなされ、また、おうかばね礼式れいしきのっとって埋葬まいそうされた。つて閔哀おうりょうとして慶州けいしゅううち南面なんめんもちぼしさと史跡しせきだい190ごう比定ひていされている。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 『閔哀おう石塔せきとう舍利しゃり盒記』による。
  2. ^ きむただしきょうだいおもね飡位は『さん国史こくししん本紀ほんぎ・閔哀おう即位そくいによるもので、きむあきら(閔哀おう出生しゅっしょうのものとおもわれる。けん徳王とくおうには(2とうかん)にあったことがえ、『さんこくのこことおうれきではかく(1とうかん)とする。閔哀おう即位そくいせんかん大王だいおうついおくりなされた。
  3. ^ さんこくのこことおうれきには、ははめぐみちゅう大王だいおうきむひとしけんへのついふう)のむすめともえ夫人ふじんとする。閔哀おう即位そくいせん懿太きさきついふうされた。
  4. ^ さんこくのこことおうれきでは、えいきょうかくむすめまことようおうきさきとする。
  5. ^ さん国史こくし』は、閔哀おう死去しきょを1がつ19にち、『さんこくのこことおうれきでは、1がつ22にちしるされている。

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]