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飯倉いいくら (東京とうきょうみなと)

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飯倉いいくら(いいぐら、いいくら)は東京とうきょうみなと麻布まふ地域ちいき東部とうぶ歴史れきしてき地名ちめい。そのしめ範囲はんい時代じだいによってことなるが、現在げんざいではおもきゅう飯倉いいくらまち飯倉いいくら片町かたまちす。およ飯倉いいくらまち東麻布ひがしあざぶいちさん丁目ちょうめ麻布台あざぶだいいち丁目ちょうめ飯倉いいくら片町かたまち麻布台あざぶだいさん丁目ちょうめ六本木ろっぽんぎ丁目ちょうめ東北とうほくかくたる。

歴史れきし

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地名ちめい由来ゆらい

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江戸えど時代じだいには、飯倉いいくら御厨みくりやにおいて伊勢神宮いせじんぐうへの神饌しんせんおさめるくら由来ゆらいするせつものおおい。御厨みくりや成立せいりつ飯倉いいくらたことになり不審ふしんだが、現在げんざいしば大神宮だいじんぐう往古おうこ飯倉いいくら神明しんめいばれ、寛弘かんこう2ねん1005ねんふる飯倉いいくらさんばれたしば丸山まるやま古墳こふん伊勢神宮いせじんぐう勧請かんじょうして創建そうけんされたとつたえられており、当地とうち飯倉いいくら御厨みくりや成立せいりつまえから伊勢神宮いせじんぐう関係かんけいがあった可能かのうせいもある。

また『江戸えど砂子すなご』はあるひとによれば飯倉いいくら神明しんめい古代こだいたむろくら跡地あとちだったとし、『日本書紀にほんしょきせん天皇てんのう元年がんねん5がつ1にちじょうえる穀倉こくそうではないかとする。『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』もあるひとはなしとして文武ぶんぶ天皇てんのうくらせつせるが[1]、いずれも時代じだいとおへだてた証言しょうげんであり、信憑しんぴょうせいける。

明治めいじになり、吉田よしだ東伍とうごは『だい日本にっぽん地名ちめい辞書じしょ』において、地域ちいき飯倉いいくら地名ちめいべいぞう由来ゆらいとするものはないとして従来じゅうらいせつしりぞけ、こめったかたちのため名付なづけられた飯倉いいくらさん発祥はっしょうであるとした。

飯倉いいくら御厨みくりや

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実際じっさい史料しりょう飯倉いいくらあらわれるのは、『吾妻あづまきょうもとこよみ元年がんねん1184ねん)5がつ3にちじょうみなもと頼朝よりとも伊勢神宮いせじんぐう内宮ないくう荒木田あらきだ成長せいちょう飯倉いいくら御厨みくりや寄進きしんした記事きじ最初さいしょである。飯倉いいくら御厨みくりやたてひさ3ねん1192ねん)8がつの『かみおおとり』にも存在そんざい確認かくにんできる。

その鎌倉かまくら時代ときよつうじて史料しりょうにはあらわれず、荒木田あらきだけい内宮ないくう引付ひきつけ所収しょしゅうひろしただし5ねん1464ねん)8がつ9にち内宮ないくうちょうせんがあるものの、文明ぶんめい元年がんねん1469ねん)1がつ26にちには飯倉いいくら御厨みくりや相模さがみこく大庭おおば御厨みくりや代官だいかんによる押領太田おおた道真みちざね道灌どうかんうったえる書状しょじょう収録しゅうろくされている。これ以降いこう史料しりょうには登場とうじょうしない。

飯倉いいくらさと

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一方いっぽう鎌倉かまくら時代じだいには飯倉いいくら御家人ごけにん所領しょりょう存在そんざいしていた。平安へいあん時代じだい末期まっきにはたいらしげるつぎ豊島としまぐん江戸えどきょう土着どちゃくし、江戸えど名乗なのった。次代じだい江戸えどじゅうちょう次男じなん以下いかみずからの所領しょりょう名乗なの独立どくりつし、そのうちろくなん六郎ろくろうしゅうじゅう飯倉いいくら名乗なのったとされるが、その消息しょうそく不明ふめいである。

戦国せんごく時代じだいには飯倉いいくらこう北条ほうじょう支配しはいかれた。えいろく2ねん1559ねん成立せいりつ小田原おだわらしゅう所領しょりょうやくちょう』によってくわしい領有りょうゆうじょうきょうることができる。

  • 御馬おんままわりしゅ大草おおくさ左近さこん大夫たいふやすしさかり 39かん780ぶん 「飯倉いいくらこれないぜん引」
  • 江戸えどしゅ島津しまづまごよんろう 38かん150ぶん 「飯倉いいくらない桜田さくらだ善福寺ぜんぷくじぶん
  • 江戸えどしゅ飯倉いいくら弾正だんじょうただ 11かん280ぶん 「飯倉いいくらこれない
  • 江戸えどしゅ太田おおた新六郎しんろくろうかん 14かん850ぶん 「江戸えど飯倉いいくらない小早川こばやかわ」 よせしゅ蒲田かまた配当はいとう

そのも、えいろく5ねん1562ねん)4がつ16にち北条ほうじょう氏康うじやす北条ほうじょう氏政うじまさとも)が本田ほんだ正勝まさかつ飯倉いいくらさとあてぎょう約束やくそくしたはんぶつ[2]、8がつ29にち飯倉いいくらさと39かんあてった正式せいしき本田ほんだ正勝まさかつあてった朱印しゅいんじょう本田ほんだつたわった。吉祥寺きちじょうじ伝来でんらい書状しょじょうからは、もとかめ2ねん1571ねん)7がつ28にち遠山とおやま政景まさかげどう寺領じりょうとして飯倉いいくら郷之ごうのない6かんりょうしたことがわかる。

また、慶長けいちょう12ねん1607ねん川越かわごえ光西こうせいてらつたわった本願寺ほんがんじきょうあかしじょうに「たけしゅう豊島としまぐん飯倉いいくらきょう阿佐あさぬの善福寺ぜんぷくじ」とあるとおり、飯倉いいくらさと桜田さくらだ小早川こばやかわ[3]麻布まふふくめた広域こういき地名ちめいであったとられるが、豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわら征伐せいばつさい天正てんしょう18ねん1590ねん)4がつもと麻布まふ善福寺ぜんぷくじおくった禁制きんせいには「武蔵むさしこく白金はっきんさと阿佐あさぬの善福寺ぜんぷくじ」としるされており、実態じったい複雑ふくざつであったことがうかがえる。

近世きんせい

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天正てんしょう19ねん1591ねん)11月にはしば西にしおうてら飯倉いいくらむらない5せき3あたえられた[1]江戸えど時代じだい初期しょきにはしばらくは飯倉いいくらむらとして農村のうそんであったが、江戸えど成長せいちょうにつれとお沿いが次第しだい市街しがいし、寛文ひろふみ2ねん1662ねんつい以下いかまち代官だいかん町奉行まちぶぎょうりょう支配しはいとなった。

  • 飯倉いいくらまちいちろく丁目ちょうめ
  • 飯倉いいくら片町かたまち
  • 飯倉いいくら狸穴まみあなまち
  • 飯倉いいくら六本木ろっぽんぎまち - 寛文ひろふみ2ねんつぎ飯倉いいくらまちから分立ぶんりつ
  • 飯倉いいくらじゅんりょう寺門てらかどぜん - 慶安けいあん元年がんねん1648ねん徳川とくがわ秀忠ひでただ霊廟れいびょう別当べっとうめぐみいんかどほまれ下屋敷しもやしき替地かえち拝領はいりょうこう町屋まちや起立きりつ
  • 飯倉いいくら善長寺ぜんちょうじ門前もんぜん - 同上どうじょう

同時どうじ寛文ひろふみ年間ねんかんには西にしおう寺領じりょう5せき3うち3せき7しょう6ごう用地ようちとしてげられ武家ぶけ屋敷やしき成立せいりつのべたから6ねん(1678ねん)にはむら残部ざんぶ飯倉いいくら狸穴まみあなまち一部いちぶとう甲斐かい甲府こうふはん甲府こうふ徳川とくがわ下屋敷しもやしきとなり、寺領じりょう消滅しょうめつした。このさい麻布永坂あさぶながさかまちとなり飯倉いいくら狸穴まみあなまち代地だいちとして飯倉いいくらひさしさかまち起立きりつした。

またこれ以降いこうにも飯倉いいくらかんする以下いかまち成立せいりつした。

  • 飯倉いいくら新町しんまち - とおる9ねん1724ねん植木うえき小右衛門こうえもん開発かいはつとおる19ねん1734ねん町奉行まちぶぎょう支配しはい
  • 飯倉いいくら的場まとば屋敷やしき - 天明てんめい6ねん1786ねん鈴木すずき九右衛門拝領町屋代地として成立せいりつ
  • 飯倉いいくらまちぞくしば永井ながいまち代地だいち - 文化ぶんか8ねん1811ねんしば永井ながいまち代地だいちとして成立せいりつ
  • 飯倉いいくらまちぞくしば永井ながいまち上納じょうのう地代じだい

近代きんだい

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明治めいじ初年しょねんまち整理せいりて、飯倉いいくらかんするのは以下いかの8箇町となった。

  • 飯倉いいくらいち丁目ちょうめ - 明治めいじ5ねん1872ねん光蔵みつぞういん合併がっぺい
  • 飯倉いいくら丁目ちょうめ - 明治めいじ5ねん(1872ねん美作みさく鶴田つるたはん越智おち下屋敷しもやしき武家ぶけ合併がっぺい
  • 飯倉いいくらさん丁目ちょうめ - 明治めいじ5ねん1872ねん一乗寺いちじょうじきよしてら天徳寺てんとくじ隠居いんきょしょきゅう尾張おわり徳川とくがわだき屋敷やしき武家ぶけ合併がっぺい
  • 飯倉いいくらよん丁目ちょうめ - 明治めいじ5ねん(1872ねん飯倉いいくら熊野くまの神社じんじゃ瑠璃光寺るりこうじ武家ぶけ合併がっぺい
  • 飯倉いいくら丁目ちょうめ - 明治めいじ2ねん(1869ねん飯倉いいくら的場まとば屋敷やしきしば永井ながいまち代地だいち飯倉いいくらぞくしば永井ながいまち代地だいち飯倉いいくらまちぞくしば永井ながいまち上納じょうのう地代じだいしば霊屋たまや掃除そうじ屋敷やしき代地だいち飯倉いいくら善長寺ぜんちょうじ門前もんぜん飯倉いいくらじゅんりょう寺門てらかどまえ赤羽あかはね円明えんめいいん門前もんぜん合併がっぺい明治めいじ5ねん(1872ねん善長寺ぜんちょうじじゅんりょうてらしんこういん赤羽あかはねせっぐうしょ赤羽あかはね稲荷いなり神社じんじゃ合併がっぺい
  • 飯倉いいくらろく丁目ちょうめ - 明治めいじ5ねん(1872ねん豊後ぶんご臼杵きゅうしょはん稲葉いなば下屋敷しもやしき出羽でわ米沢よねざわ新田しんでんはん上杉うえすぎ上屋敷かみやしき合併がっぺい
  • 飯倉いいくら片町かたまち - 明治めいじ5ねん(1872ねん下野げや大田原おおたわらはん大田原おおたわら屋敷やしき武家ぶけ合併がっぺい
  • 飯倉いいくら狸穴まみあなまち - 明治めいじ5ねん(1872ねん陸奥みちのく三春みはるはん秋田あきた中屋敷なかやしきどうだき屋敷やしき武家ぶけ合併がっぺい

なお、飯倉いいくらひさしさかまち麻布永坂あさぶながさかまち飯倉いいくら新町しんまち麻布あざぶしんもうまち丁目ちょうめ合併がっぺいされ、飯倉いいくら六本木ろっぽんぎまちりゅう六本木ろっぽんぎまちとう合併がっぺいして麻布まふ六本木ろっぽんぎまちとなった。

明治めいじ11ねん1878ねん)、飯倉いいくら地域ちいき麻布まふ地域ちいきりゅう地域ちいき今井いまい地域ちいきとも麻布あざぶぞくした。明治めいじ44ねん1911ねん東京とうきょううち町名ちょうめいかんむりしょうはずされたため、飯倉いいくら狸穴まみあなまち狸穴まみあなまちとなり、飯倉いいくら飯倉いいくらまちいちろく丁目ちょうめ飯倉いいくら片町かたまちのこるのみとなった。

戦後せんご

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麻布あざぶしば赤坂あかさか合併がっぺいみなととなると、町名ちょうめいにはきゅうめいかんされ、麻布まふ飯倉いいくらまち麻布あざぶ飯倉いいくら片町かたまちとなり、狸穴まみあなまち飯倉いいくらかない麻布狸穴あざぶまみあなまちとなった。

1970年代ねんだい住居じゅうきょ表示法ひょうじほうにより町名ちょうめい整理せいりおこなわれ、麻布まふ飯倉いいくらまち麻布あざぶ飯倉いいくら片町かたまち麻布台あざぶだい東麻布ひがしあざぶ麻布まふじゅうばんひとしえられた。昭和しょうわ56ねん1981ねん)、ごくわずかにのこっていた麻布まふ飯倉いいくらまちよん丁目ちょうめ残部ざんぶ東麻布ひがしあざぶ丁目ちょうめ編入へんにゅうされ、飯倉いいくら地名ちめい住所じゅうしょから完全かんぜん姿すがたした。

現代げんだいのこ飯倉いいくら

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行政ぎょうせい地名ちめいとして消滅しょうめつ以降いこうも、きゅう飯倉いいくらまち飯倉いいくら片町かたまちでは公私こうし施設しせつ飯倉いいくらのこった。新規しんき施設しせつにも積極せっきょくてき飯倉いいくら飯倉いいくら片町かたまちもちいられ、鉄道てつどう駅名えきめいにないきゅう町名ちょうめいとしてはかなりの血脈けちみゃくたもっている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう飯倉いいくらまち在方ざいかたぶん.
  2. ^ えいろく5ねん卯月うづき16にち北条ほうじょう氏政うじまさちぎりじょう本田ほんだ文書ぶんしょ)(葛飾かつしか郷土きょうど天文てんもん博物館はくぶつかん 2009, p. 49(写真しゃしん掲載けいさいり))
  3. ^ 比定ひてい不明ふめい

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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  • 飯倉いいくら(いいくら)”. みなと公式こうしきホームページ (2012ねん3がつ30にち). 2019ねん11月2にち閲覧えつらん