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(ぎ ぼう、紀元前きげんぜん3世紀せいきなかごろ)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいたかし公子こうし[1]道家みちや思想家しそうか[1]きゅうちゅう山国やまぐにりょうふうぜられた。公子こうし中山なかやま公子きみこともばれる。

書物しょもつとして『公子こうし牟』よんへん存在そんざいが『漢書かんしょ芸文げいぶんこころざし記録きろくされているが現存げんそんしない[2]。『荀子じゅうへんでは思想家しそうか它囂並称へいしょうして非難ひなんされる[1]。『漢書かんしょ』『荀子』それぞれに、その道家どうかてき思想しそう略述りゃくじゅつされる[1]

名家めいか公孫こうそんりゅうとの交流こうりゅうが『そう秋水しゅうすいへんと『れつなかへんつたえられる[1]。『そう秋水しゅうすいへんでは、牟が公孫こうそんりゅうそうしゅう思想しそうについておしえをわれている[1]一方いっぽうれつなかへんでは、牟がらく正子まさこ輿こし公孫こうそんりゅう批判ひはん反論はんろんし、「白馬しろうまうま」などの学説がくせつ論拠ろんきょもっ弁護べんごしている。どう箇所かしょでは、牟は政治せいじへの関心かんしんうすかったこと、公孫こうそんりゅう門人もんじんだったこともつたえられる。『ぶんこころ雕龍諸子しょしへんでも公孫こうそんりゅうわせて言及げんきゅうされる[3]

りょ春秋しゅんじゅうしんためへんには、思想家しそうか詹何(詹子)との道家どうかてき対話たいわつたえられる[4]。『そうゆずるおうへんや『淮南ワイナンみちおうくんには、同様どうよう対話たいわさんえてつたえられる[4]

戦国せんごくさくちょうさくすう登場とうじょう[2]はた范雎に「贅沢ぜいたくほろぼす」とおしえたこと(平原ひらはらくんくちつうじてかたられる)や、こうなりおうたてしんくん中国語ちゅうごくごばん重用じゅうよういましめたことがつたえられる。これらから紀元前きげんぜん3世紀せいきなかごろに活動かつどうしたとかんがえられる[2]。そのほか、『せつえんたかしまきへんにはとの交流こうりゅうつたえられる[5]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 諸橋もろはし 1931, p. 30f.
  2. ^ a b c 池田いけだ 2014, 秋水しゅうすいへん 訳注やくちゅう.
  3. ^ 戸田とだひろしあかつき 訳注やくちゅうぶんこころ雕龍 じょう明治めいじ書院しょいん新釈しんしゃく漢文かんぶん大系たいけい 64〉、1974ねん。261fぺーじ
  4. ^ a b 池田いけだ 2014, ゆずるおうへん 訳注やくちゅう.
  5. ^ おうちょう. “歷史れきしひょう析】公子こうし牟的臨別おくげん | 縱橫じゅうおう古今ここん” (中国ちゅうごく). 人間にんげんぶくほう. 2023ねん4がつ29にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 池田いけだ知久ともひさそう ぜん訳注やくちゅう じょうした講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、2014ねん うえ: ISBN 978-4062922371 した: ISBN 978-4062922388
  • 諸橋もろはし轍次てつじ荀子じゅうへん」『東洋とうようがく研究けんきゅうだい1ごう駒沢大学こまざわだいがく東洋とうよう学会がっかい、1931ねんNAID 110006457409http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/20611/ 

外部がいぶリンク

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