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釋聖嚴 - 维基百科,自由的百科全书

しゃくきよしいむ

台灣たいわんそうじんほう鼓山つづみやまそう辦人

しゃくきよしいむ法師ほうし英語えいごSheng-Yen,1931ねん1がつ22にち—2009ねん2がつ3にち[1][2]),俗名ぞくみょうちょうたもつやすし江蘇こうそつねじゅくひと知名ちめい佛教ぶっきょう比丘びく佛學ぶつがく弘法ぐほうけん教育きょういくためほう鼓山つづみやまあずかほうむねそう辦人,禪門ぜんもん曹洞宗そうとうしゅうだい51だいでんじん临济むねだい57だいでんじん

しゃくきよしいむ
本名ほんみょうちょうたもつやすし
出生しゅっしょう(1931-01-22)1931ねん1がつ22にち
 中華民國ちゅうかみんこく江蘇ちぁんすーしょう南通みなみとおりけん
えんさび2009ねん2がつ3にち(2009さい—02—03)(78さい
臺灣たいわんしょう臺北たいぺいけん金山かなやまきょういま新北しんきた金山かなやまほう鼓山つづみやま
かたりげん國語こくごみなみ通話つうわにち英語えいご
国籍こくせき 中華民國ちゅうかみんこく
宗派しゅうは曹洞宗そうとうしゅう
臨濟宗りんざいしゅう
ほうむね創立そうりつしゃ
あたまほう鼓山つづみやまそう辦人
教育きょういく程度ていど
ちゅうすずほう鼓山つづみやまのうぜんてら
師承ししょうひがしはつ禪師ぜんじ
れいげんろう和尚おしょう
徒弟とていあずか學生がくせいしゃくはてひがししゃくはてあきら
著作ちょさくほう全集ぜんしゅう
總統そうとう文化ぶんか
行政ぎょうせいいん文化ぶんか
備註
遺言ゆいごんため:「無事ぶじ忙中ぼうちゅうおいそらうらゆう哭笑;本來ほんらいぼつ有我ありが生死せいしみな拋。」

ひじりいわお法師ほうし少年しょうねん出家しゅっけため沙彌さや,1949ねんいん戰亂せんらん還俗げんぞく加入かにゅう中華民國ちゅうかみんこく陸軍りくぐんいん佛法ぶっぽう戒殺,擔任たんにんこうつとむてき通信つうしんへいずいぐん抵臺,1960ねん准尉じゅんいぐんかい退すさとめひがしはつ禪師ぜんじ門下もんかさいつぎ剃髮ていはつ出家しゅっけ承繼しょうけい曹洞宗そうとうしゅうほうみゃくひがしはつ禪師ぜんじえんさび承繼しょうけいためのうぜんてら住持じゅうじ,此外また接受せつじゅれいげん法師ほうしぜんさとる印可いんか承繼しょうけい臨濟宗りんざいしゅうほうみゃく

ひじりいわお創立そうりつてきほう鼓山つづみやまそう世界せかい佛教ぶっきょう教育きょういくえん

1969ねんまえ日本にっぽん留學りゅうがく,1975ねん立正大學りっしょうだいがく取得しゅとく博士はかせ學位がくいかんでん佛教ぶっきょうだい一位赴日攻讀博士並順利完成所有學分的出家しゅっけ比丘びく[3]。1989ねん創立そうりつほう鼓山つづみやま發展はってんいたりいまやめなりため台灣たいわん佛教ぶっきょうよんだい名山めいざんこれいち。1998ねん5がつ1にちいたり3にちあずかぞうでん佛教ぶっきょう領袖りょうしゅういたるよりゆきじゅうよんせい於美こくひもやく進行しんこうさんにちてき文殊もんじゅ法會ほうえ[4][5]こらえしょうひしげ薩法いさかいかんでん佛教ぶっきょう與藏よぞうでん佛教ぶっきょうあいだ重要じゅうよう佛法ぶっぽうほう討論とうろん。2006ねん9がつ2にちでんはてひがし法師ほうし。2009ねんいんじんおとろええんさびとおることぶき78さい[6]

名稱めいしょう

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ひじりいわお法師ほうし俗名ぞくみょうちょうたもつかんしん私塾しじゅく學名がくめいためちょう志德しとく少年しょうねん出家しゅっけため沙彌さや戒名かいみょうつねすすむ

1949ねんいん戰亂せんらん還俗げんぞく加入かにゅう中華民國ちゅうかみんこく陸軍りくぐん登記とうきためちょうぜんまい」。

陸軍りくぐん退すさ再度さいど於東おひがしはつ法師ほうし門下もんか出家しゅっけ法名ほうみょうひじりいわお法號ほうごうとしそら承繼しょうけい曹洞宗そうとうしゅうあずか臨濟宗りんざいしゅうほうみゃく。另承繼しょうけいれいみなもと禪師ぜんじてき臨濟宗りんざいしゅうほうみゃく法名ほうみょうつよし法號ほうごうおもんみやわら

人物じんぶつ生平おいだいら

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わらわねん

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ひじりいわお法師ほうし於1931ねん1がつ22にち[1][7]庚午こうごねん农历じゅうがつはつよん[2]なま江蘇ちぁんすーしょう南通みなみとおりけんおおかみやままえてき小娘こむすめみなと

其祖ちちちょうのぞみ凡、祖母そぼ蔣氏,父親ちちおやはりせんざい母親ははおやちんよりどころ父母ちちははしょじゅつちょう家族かぞくげんきょ長江ながえ出口いでぐちたかし明島あからじま腳盆圩,いん大水おおみず而遷いたり南通みなみとおりおおかみやままえ,而且だい於南どおり海門かいもん一帶いったいみんこくじゅうねん(1931ねん以後いご家族かぞくしょう部分ぶぶんじゅうざい海門かいもんけんだい多數たすうのり遷居いたりつねじゅくけんつねかげすな法師ほうしぞく中有ちゅううろく兄弟きょうだい姊妹,はいぎょう最小さいしょうため其母ちん於四じゅうさいさんうえゆうさん哥哥、さん姊姊。[8]

少年しょうねん

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上海しゃんはいしず安寺あてら

1943ねんなつたかし值張やすしきょよわいじゅうよんさいゆう戴姓鄰居江北こうほくおおかみやま遊歷ゆうれき而來,法師ほうし聞說きくならくおおかみやまこうきょうてら方丈ほうじょうたくざい江南こうなん招募沙彌さや一方いっぽうめん於被どう,另一方面卻又自願地將生辰せいしんはち交予戴居おくうわおおかみやま請示,ねんあき便びんゆかり戴居たいいたりおおかみ山出やまで法名ほうみょうつねすすむ[9]

ひじりいわお法師ほうしざいおおかみやま居住きょじゅういたり1944ねん10がつあいだ便びんりょういち上海しゃんはいこれさいかいいたおおかみさんちょくいた1946ねんさいつぎぜん上海しゃんはい此便ぼつさいかいいた南通みなみとおりりょう最後さいごはたようはなれひらきおおかみやまやめ當時とうじ抗日こうにちてき國軍こくぐんれんばんちゅうぼうおおかみさんまたふく昔日せきじつかなえもり

ひじりいわお法師ほうしてき佛法ぶっぽう學識がくしき根基こんきはじめ於狼山上さんじょう出家しゅっけ半年はんとしじょりょう世代せだいてきちょうやから適時てきじとくみちびけ,另有いち教導きょうどう禪門ぜんもん誦》てき法師ほうし,以及いち教導きょうどう四書ししょ五經ごきょうてき還俗げんぞく居士こじ傳授でんじゅがく識與涵養かんようこれいたりょう上海しゃんはいてき大聖寺だいしょうじまい天為てんい施主せしゅうらぞうぶく延壽えんじゅ及超こも亡靈ぼうれい而誦けいはい懺、焰口さい餘力よりょく讀書どくしょ

法師ほうしためりょう讀書どくしょ1947ねんはるはなれひらき大聖寺だいしょうじぜん同樣どうよう上海しゃんはいてきせい安寺あてらふつ學院がくいんとういちめい插班てき學僧がくそうせい安寺あてらふつ學院がくいん課程かてい涵蓋中學ちゅうがくいた大學だいがく英文えいぶん數學すうがく課程かていなんやくため小學しょうがく高年こうねんきゅういたはつなか國文こくぶん課程かていそく有高ありだかちゅう程度ていど佛學ぶつがく方面ほうめんそく教授きょうじゅ大乘だいじょうおこりしんろん》、《梵網菩薩戒ぼさつかいけい》、《印度いんど佛教ぶっきょう》、《はちむね綱要こうよう》、《八識規矩頌》とう。1948ねん佛學ぶつがくいん畢業ますにゅう佛學ぶつがくいん研究所けんきゅうじょざいせい安寺あてら一連いちれんじゅうりょう學期がっきちょくいた1949ねんいれためどめ當時とうじ以學そう身分みぶん發表はっぴょうすうへん文章ぶんしょうげん收錄しゅうろく於《みんこく佛教ぶっきょうかん文獻ぶんけん集成しゅうせいもう檢索けんさく資料しりょう[10]

軍旅ぐんりょ

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1949ねんだい國共こっきょう內戰ためりょうはなれひらき中國ちゅうごく大陸たいりく還俗げんぞく加入かにゅう中華民國ちゅうかみんこく陸軍りくぐん。以はくえびす叔齊いやわるたけおうかついんこれ戰亂せんらん隱居いんきょくびやま最後さいごぜんまい餓死がしてき典故てんこにゅう登記とうきめいちょうぜんまいひょうたち其回歸山きさんりんてき渴望かつぼうざい其自でんがくおもえ歷程れきてい》一書中提到1949ねん所以ゆえん選擇せんたく加入かにゅう軍旅ぐんりょしたがええびす,而最また選擇せんたくりょうどおり信連しんれん主因しゅいん如下しょじゅつ[11]

——「當時とうじてき社會しゃかい國家こっかてき局面きょくめんじょりょうゆうぜに備機ひょう和船わせんひょうはなれひらき大陸たいりくただゆう進入しんにゅう軍隊ぐんたいどおり台灣たいわんさい容易よういてきわがすんで信徒しんと,也沒ゆうせき蓄,さら不能ふのういた師長もろながてき同意どういすけ所以ゆえん考慮こうりょ再三さいさんただゆう選擇せんたく從軍じゅうぐんてき。而招兵站へいたんてきぐんかん說明せつめいりょうただよう人數にんずう招齊りょう馬上もうえひらくせんおく台灣たいわん接受せつじゅしんぐんてき訓練くんれんいたわが們幾じん和尚おしょうてき身分みぶん大概たいがい不便ふべん直接ちょくせつじょう戰場せんじょう衝鋒おちいじん所以ゆえん建議けんぎわが們做ぐんちゅうてきつとむ工作こうさく。」

軍旅ぐんりょ生活せいかつてき方式ほうしき很大てき轉變てんぺんゆかり於法ざい軍隊ぐんたいうら主動しゅどう聲明せいめいりょう:「はららいわが和尚おしょう將來しょうらいかえ要作ようさく和尚おしょう!」所以ゆえんざい軍隊ぐんたいうらてき生活せいかつ雖然困苦こんくいたりしょうまい逢假かえのう保有ほゆう自我じがしんじおさむてき空間くうかん同年どうねん5がつ19にちざい上海しゃんはいがいなだ碼頭上船じょうせんぜん往台わん經過けいかりょうてんてきこうほどざい台灣たいわん高雄たかお上岸かみきしこうけい一夜いちやてき移動いどうざいしんたけちゅう紮下らいずいちょ部隊ぶたいいくけいうつりぼう及駐紮,於1950ねん6がつ以上いじょうほうつとむいんてき階級かいきゅうふんはついた臺北たいぺいけん金山かなやまさと海邊うみべてき3391016だんだん所在地しょざいちざい金山かなやま石門せきもんしょうもとたかし沿海えんかい一帶住了兩年多。こうこういれ於宜らんてき陸軍りくぐん通信つうしんへい學校がっこう受訓,1954ねん6がつかんくん後前うしろまえ高雄たかおけんおおとりさん陸軍りくぐんだい軍團ぐんだん司令しれいにん准尉じゅんいぐんかん

ひじりいわお法師ほうしざい這段時間じかんうら陸陸ろくろく續續ぞくぞくざい學僧がくそう天地てんち》、《獅》、《當代とうだい青年せいねん》……とうかん發表はっぴょう文章ぶんしょう。1953年報ねんぽうめい參加さんかたつふゆ博士はかせぬし辦的中國ちゅうごく文藝ぶんげいはこ學校がっこうせん小說しょうせつはん當時とうじてき老師ろうしゆうしゃ冰瑩、沈櫻、ちょうゆうつちかえとう當代とうだい著名ちょめいてき文藝ぶんげい作家さっかろくなな。而這時期じき創作そうさくてき作品さくひん僅餘〈母親ははおやかず父親ちちおや兩個りゃんこ短篇たんぺんかん於《文壇ぶんだん雜誌ざっしこれ收錄しゅうろく佛教ぶっきょう文化ぶんか服務ふくむしょ出版しゅっぱんてき佛教ぶっきょう文化ぶんかあずか文學ぶんがく》。よし於筆ほこさきゆうけんざい1956ねんあきたかし調しらべいた國防こくぼう開始かいしりょう大量たいりょう閱讀與發表はっぴょう文章ぶんしょうてきひかり。此時接觸せっしょくりょう太虛たいきょ大師だいしひとなりそくふつなり」以及しるし順法じゅんぽうてき人間にんげん佛教ぶっきょう觀念かんねん,也陸續りくぞくたい佛教ぶっきょう問題もんだいうつしりょう許多きょた文章ぶんしょう形成けいせいたい於佛がく佛教ぶっきょうてき主要しゅよう理念りねん

1958ねんあずかれいげん和尚おしょうざい高雄たかお巿的佛教ぶっきょう講堂こうどうじゅう宿やど於同いち寢室しんしつりょうよるゆいほうえんざいれいげん和尚おしょうてき啟發けいはつひじりいわお法師ほうしけんていさいつぎ出家しゅっけてき信念しんねん

さいつぎ出家しゅっけ

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したがえ1949ねん5がつ8にちいれいた1960ねん1がつ正式せいしき退すさ,這一段軍旅生涯超過了法師少年時當和尚的年數,ただしざい心中しんちゅうの一直認為自己是個出家的和尚。退すさひじりいわお法師ほうし思考しこう未來みらい前途ぜんとざいれいげん和尚おしょうてき啟發けいはつ決心けっしんさいつぎ出家しゅっけ。這次出家しゅっけとめあぶみあきらひがしはつ(1907ねん—1977ねん),とく臨濟宗りんざいしゅうほうみゃくごうとしそらひじりいわお」。

ひじりいわお法師ほうし出家しゅっけおもね闍黎ひがしはつ禪師ぜんじ人稱にんしょうひがしはつ老人ろうじん太虛たいきょ大師だいしてき學生がくせい,也曾けい擔任たんにん江蘇ちぁんすーしょう鎮江めい曹洞宗そうとうしゅうていとしてらてき方丈ほうじょうため曹洞宗そうとうしゅう創始そうしじん洞山ほらやまりょうしただいじゅうだいでんじんひがしはつ老人ろうじん也在臨濟宗りんざいしゅうつねしゅう天寧寺てんねいじ參學さんがくまたざい臨濟宗りんざいしゅうひろし陀山けいてき寺院じいん出家しゅっけ一人傳承曹洞宗與臨濟宗兩支法門。

ひじりいわお法師ほうしじょりょうしたがえひがしはつ老人ろうじんいたりょうけいてき傳承でんしょうそとなみざい1978ねん12月5にちうけたまわ臨濟宗りんざいしゅうほうみゃくてきれいげん和尚おしょうたまものほうみゃくほうみゃくごうためつよしおもんみやわら」,なみとくほうみゃく傳承でんしょうほしとうしゅう》,いん而與鼓山つづみやまゆう泉寺いずみでら臨濟宗りんざいしゅうほうみゃくゆうりょう傳承でんしょう關係かんけいなみどう時成ときなりため臨濟げんこれだいじゅうななだいでんじん

ひがしはつ老人ろうじん承繼しょうけい太虛たいきょ大師だいし遺志いし鼓吹こすい建立こんりゅう人間にんげん佛教ぶっきょう」,あずかいく佛教ぶっきょう青年せいねんあい辦了《人生じんせい月刊げっかんとうひじりいわお法師ほうしなげいたひがしはつ老人ろうじん座下ざか正當せいとう人生じんせい月刊げっかんばらおもへん提出ていしゅつ請辭,於是法師ほうししたがえ投稿とうこうしゃ而成ためぬしへん前後ぜんごども服務ふくむりょう兩年りょうねん。1961ねんのうれき8がつ法師ほうし於基たかしはちてきうみかいてらとめ道源どうげんのうしん長老ちょうろう(1900ねん-1988ねん座下ざかもとめ受「三壇護國千佛大戒」(ぶん授沙わたる戒、比丘びく戒、出家しゅっけ菩薩戒ぼさつかい),なみせんため沙彌さやくび[12]

戒律かいりつがく

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1961ねんあきたかしひじりいわお法師ほうし受了さんだんだい戒之,十月下旬回到北投中華佛教文化館,まちりょう一個星期不到,便びん向東むかいひがしはつ老人ろうじんぎょう,也同請辭《人生じんせい月刊げっかんてきへんつとむしかこうせきらいいた高雄たかおけん美濃みの廣林ひろばやしさとてき大雄山だいゆうざんちょう元寺もとてらおさむ持佛じぶつけい戒律かいりつ開始かいしろくねん閉關[12]這段時間じかん內修讀了どくりょうゆうせき戒律かいりつがくてきよんおもね含經》—《ながおもね含經》、《ちゅうおもね含經》、《ぞういちおもね含經》及《ざつおもね含經》,奠定りょう研究けんきゅう戒律かいりつがくてき基礎きそ[13]這段時期じき內,法師ほうしざい佛教ぶっきょう文化ぶんかあずか文學ぶんがく發表はっぴょうりょう戒律かいりつがくてき相關そうかん文章ぶんしょう:1961ねん6がつ發表はっぴょうゆうばばふさが戒經讀後どくご如何いかなりため理想りそうてき在家ざいけ菩薩ぼさつ〉;1962ねん3がつ發表はっぴょう弘一こういち大師だいしさんじゅうさんしゅりつがくごうかん讀後どくご〉,たい菩薩戒ぼさつかいゆう如下てきほう

——「《瓔珞ようらくけいちゅうせつゆう戒可はん菩薩ぼさつ戒可はん外道げどう所以ゆえんゆう戒而はんしゃしょう戒而不犯ふぼん;受了菩薩戒ぼさつかいはつりょう菩提心ぼだいしんてきじんそく使つかいはんりょう戒,はん戒的罪業ざいごう雖重,なみよう遭報,ただし其必はたゆかり於他曾受菩薩戒ぼさつかい,而可決定けってい得度とくどなりため真實しんじつてき菩薩ぼさつ乃至ないしあかしとく無上むじょうてき佛果ぶっか……希望きぼう在家ありいえ弟子でし們,ひとしのうはつ最上さいじょうしんもとめ菩薩戒ぼさつかい。」 [14]

これうつしなりりょうじゅうきゅうまんてき戒律かいりつがく綱要こうよう》,交給星雲せいうん法師ほうしてき佛教ぶっきょう文化ぶんか服務ふくむしょ發行はっこうしょぶんななしょうじょため:〈緒論しょろん〉、〈皈依三寶さんぼう〉、〈五戒ごかい十善じゅうぜん〉、〈はちせき戒齋〉、〈沙彌さやじゅう戒與しきまたろくほう〉、〈比丘びく比丘尼びくに綱要こうよう〉、〈菩薩戒ぼさつかい綱要こうよう〉,目前もくぜんやめなり為國ためくに內外りょうきし三地之間著名的戒律學教材。[15]南京なんきんきむりょうこくけいしょ,也將這本しょこぼししるし流通りゅうつう[16]

宗教しゅうきょう論戰ろんせんあずか著述ちょじゅつ

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めんたい佛教ぶっきょう環境かんきょう逐漸へん部分ぶぶん不肖ふしょう僧侶そうりょ玷汙佛門ぶつもん,遭到居士こじしん眾甚いたり其他宗教しゅうきょう信徒しんとてき誤解ごかいあずか批判ひはんひじりいわお法師ほうしかんねん環境かんきょうてき隳壞與教義きょうぎあきらとげおこり而為ぶん,以匡正きょうせい佛法ぶっぽうざい階段かいだんてき早期そうき主要しゅようゆかりくも法師ほうしざいたい南公園みなみこうえんうらこう開演かいえんこう佛教ぶっきょうあずか基督教きりすときょうてき比較ひかくただしずいちょくも法師ほうしてき身體しんたい狀況じょうきょうけい,也停止ていし應戰おうせんりょう同時どうじ另有長老ちょうろうしるし順法じゅんぽううつしりょうへん長文ちょうぶん:〈上帝じょうていあい世人せじん〉及〈上帝じょうていあい世人せじんてきさい討論とうろん〉,これまたいんもり而未神父しんぷはた佛教ぶっきょう信仰しんこう套入つきしん信仰しんこううつしりょう東方とうほう淨土じょうどはつほろ〉。

くも法師ほうししょこうてき佛教ぶっきょうあずか基督教きりすときょうてき比較ひかく」,こうよしいたるつよし居士こじ記錄きろくなりしょざい1950年代ねんだい蔚為佛教ぶっきょう潮流ちょうりゅうこれ基督教きりすときょう生命せいめいそう月刊げっかんてき主筆しゅひつくれおん先生せんせいはりたいくも法師ほうしてき言論げんろん著作ちょさくりょう《駁佛教ぶっきょうあずか基督教きりすときょうてき比較ひかく》,而此しょ輾轉てんてんいたりょうひじりいわお法師ほうしてきしゅじょう法師ほうし讀後どくごみとめため中有ちゅうう許多きょた偏頗へんぱてき論調ろんちょうとげようじゅうてんてき時間じかんうつしりょうひょう「駁佛教ぶっきょうあずか基督教きりすときょうてき比較ひかく」》。

これ陸陸ろくろく續續ぞくぞく於1959ねんうつしせき於胡てき思想しそうてき宗教しゅうきょう信仰しんこう〉,ゆびじゅつえびすてき先生せんせいてき宗教しゅうきょうかんうつしろん佛教ぶっきょうあずか基督教きりすときょうてきどうこと〉以釐きよし香港ほんこんどうふうさん基督教きりすときょう中國ちゅうごく宗教しゅうきょう研究けんきゅうしゃしょ出版しゅっぱんてきけいふう雜誌ざっしたい佛教ぶっきょうあずか基督教きりすときょうてき混淆こんこうずいまた發表はっぴょう再論さいろん佛教ぶっきょうあずか基督教きりすときょうてきどうこと〉以正視聽しちょう
ざい1964ねんいた1966ねんあいだ陸陸ろくろく續續ぞくぞくうつしりょういくへん文章ぶんしょう分別ふんべつ交給《うみしおおん》、《さとし》、《香港ほんこん佛教ぶっきょうとう佛教ぶっきょう雜誌ざっしかん,1967ねんのり交由佛教ぶっきょう文化ぶんか服務ふくむしょしゅう結成けっせいさつ出版しゅっぱん書名しょめいため基督教きりすときょう研究けんきゅう》,ざい其自じょちゅうひっさげいたりょう

よし基督教きりすときょうてきおさむふつやぶふつさけべじん挑戰ちょうせんさい使わがたい基督教きりすときょう發生はっせいりょう研究けんきゅうてき興趣きょうしゅ結果けっか使わがうつしなりりょういち本書ほんしょ所以ゆえん本書ほんしょてき功臣こうしんおう該是攻擊こうげき佛教ぶっきょうてき基督きりすとわがためうつしさく本書ほんしょ特別とくべつ精讀せいどくりょう五十多種有關的中西著作。てき態度たいど以西いせいかた學者がくしゃてき見解けんかいかい西方せいほうじん信仰しんこうてき宗教しゅうきょうよう基督きりすと正統せいとうてき素材そざい說明せつめい基督教きりすときょう內容てき貌,同時どうじ也對佛教ぶっきょうあずか基督教きりすときょうあいだ若干じゃっかん重要じゅうよう問題もんだい,做了客觀きゃっかん理性りせいてき疏導。わがそう宣傳せんでん基督教きりすときょう,也無攻擊こうげき基督教きりすときょうただひらたこころせい分析ぶんせき研究けんきゅうよう歷史れきしてき角度かくど考察こうさつ基督教きりすときょう

——しゃくきよしいむ,《基督教きりすときょう研究けんきゅう》〈自序じじょ〉,ほう文化ぶんか,1999初版しょはん

本書ほんしょ招致しょうち宗教しゅうきょうかいせいはん兩極りょうきょくてき反應はんのう,而基督教きりすときょう基本きほん教義きょうぎ信徒しんとさら極力きょくりょく以攻訐。此後せき宗教しゅうきょうてきせんちょ論述ろんじゅつ先後せんご出版しゅっぱん:1968ねん出版しゅっぱん比較ひかく宗教しゅうきょうがく》、1969ねん8がつうつしなり世界せかい佛教ぶっきょう通史つうしじょうさつ,此書目しょもくぜん仍為華人かじん地區ちく佛教ぶっきょう教育きょういく課程かてい通用つうようてき教本きょうほん

留學りゅうがく

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1969ねん3がつ14にちひじりいわお法師ほうしはなれひらき台北たいぺいぜん日本にっぽん東京とうきょう留學りゅうがくいたり佛教ぶっきょう日蓮宗にちれんしゅうそう辦的立正大學りっしょうだいがく佛教ぶっきょう學部がくぶ辦理入學にゅうがく登記とうき出發しゅっぱつまえてき狀況じょうきょう台灣たいわんゆういくいたり日本にっぽん留學りゅうがくてきそうじんみながくなりそく還俗げんぞく所以ゆえんひじりいわお法師ほうし留學りゅうがくてき決定けってい,引起台灣たいわん佛教ぶっきょうかいてき流言りゅうげん,其師ひがしはつ禪師ぜんじまた支持しじはらゆううまらい西にしてき華僑かきょう願意がんいじょ留學りゅうがくただし也因ため流言りゅうげん撤回てっかいひじりいわお法師ほうしただゆう一張往日本的機票仍毅然前往。ざい日本にっぽんてきぜん兩年りょうねんもたれ日本にっぽん華僑かきょう誦經じゅきょう功德くどく擔任たんにんしるべゆうらい餬口ここうささえおうひらき銷。[17]

1971ねんひじりいわお法師ほうし確定かくていりょう其碩論文ろんぶん:「大乘だいじょう止觀しかん法門ほうもん研究けんきゅう」,論文ろんぶん容共ようきょうぶんさんしょう

  1. 大乘だいじょう止觀しかん法門ほうもんてき組織そしき及其內容
  2. 大乘だいじょう止觀しかん法門ほうもんてき真偽しんぎ及其作者さくしゃ
  3. 大乘だいじょう止觀しかん法門ほうもんてき基本きほん思想しそう

論文ろんぶん完成かんせい,請了駒澤大學こまざわだいがくてき佐藤さとういたるげん及牛じょうげん以潤かざりなみしょうよせいち份回台灣たいわんきゅううみしおおん雜誌ざっし發表はっぴょう。1971ねん10がつはた全書ぜんしょ翻譯ほんやくなりちゅうぶんなみ於1979ねんゆかりひがしはつ出版しゅっぱんしゃ出版しゅっぱん。1971ねんしゅ斐居そう辦的《菩提樹ぼだいじゅ雜誌ざっしちゅうほうしるべりょうひじりいわお法師ほうし留學りゅうがくてき狀況じょうきょう,引起沈家楨居士こじてき注意ちゅういなみざい1972いたり1975年間ねんかん陸續りくぞくしたがえみず匯款きゅうひじりいわお法師ほうしけいしゅ斐居うたて交以じょ留學りゅうがく

1973ねん立正大學りっしょうだいがくてき退すさきゅう教授きょうじゅうしじょうげんしょうしるし順法じゅんぽうてき中國ちゅうごく禪宗ぜんしゅうやくなりぶんおくいた大正大學たいしょうだいがくなみだいため申請しんせい博士はかせ學位がくいよし於聖げん法師ほうし當時とうじあずかうしじょうげん往來おうらいみつきり,於是便びん代行だいこう其勞。同年どうねんしるし順法じゅんぽうてきせんちょ通過つうか大正大學たいしょうだいがくてき博士はかせしん查,也促成そくせいりょう中國ちゅうごくだいいち博士はかせ比丘びくてき誕生たんじょう(以專ぎょう著作ちょさく而非おや就學しゅうがく獲得かくとく學位がくい)。[18]ひじりいわお法師ほうしため撰文せんぶん〈劃時代じだいてき博士はかせ比丘びく記述きじゅつ

ひじりいわお法師ほうし於碩畢業これ選擇せんたくりょうあかりまつよんだい高僧こうそうてき蕅益大師だいし做為博士はかせ論文ろんぶんてき研究けんきゅう主題しゅだい其原そのはらいん如書ちゅうしょじゅつ

——1.蕅益大師だいしあきらすえよん大師だいしいち僅是いち學者がくしゃ實際じっさいじょうまたいち實踐じっせん所謂いわゆるくだりかい相應そうおうせい佛法ぶっぽうてき標準ひょうじゅん原則げんそく

2.大家たいかみとめため蕅益大師だいし中國ちゅうごく天台宗てんだいしゅう最後さいごいちだい成就じょうじゅしゃわがたい天台宗てんだいしゅうしょ倡導てききょうかんなみじゅう止觀しかんそううん非常ひじょう嚮往。よしため這是教理きょうりぜんかんてきしょう輔相なり,也正今日きょう佛教ぶっきょうしょ需要じゅようてきいちしゅ精神せいしん

3.わがざい選擇せんたくろん文題ぶんだい目的もくてき時候じこう,曾向指導しどう教授きょうじゅ坂本さかもと幸男ゆきお請教,せつ本來ほんらいそううつし現在げんざいろうりょう所以ゆえん曾經勵另がいいち中國ちゅうごく留學生りゅうがくせいうつしただし仍然ぼつゆう消息しょうそく現在げんざい如果わがのう夠寫,さいこうりょう

ひじりいわお法師ほうしざい1972ねん便びん開始かいしちょしゅ進行しんこう論文ろんぶん資料しりょうてき收集しゅうしゅうただし1973ねん指導しどう教授きょうじゅ坂本さかもと幸男ゆきお論文ろんぶん指導しどう教授きょうじゅあらためよし金倉かなくらえんあきら野村のむら耀昌うけたまわせっためただしふく指導しどう教授きょうじゅ論文ろんぶんてきだい一章寫蕅益智旭的時代背景,だい二章則寫智旭的生涯,だい三章寫智旭的信仰與實踐,だい四章則寫智旭的著作,だい五章討論智旭思想之形成與開展。1975ねんもとつき提出ていしゅつ博士はかせ論文ろんぶん經過けいか立正大學りっしょうだいがく嚴格げんかくてきしん查之じゅん於2がつ12にち通過つうか同年どうねん3がつ17にちじょううま頒授「學位がくい」(そく授予博士はかせ學位がくいてき證書しょうしょ)。而論文ろんぶんてき正式せいしき出版しゅっぱんそくいた當年とうねん11がつ23にちざいざい日本にっぽん完成かんせい

ざい日本にっぽん留學りゅうがくななねん期間きかんひじりいわお法師ほうしあずか日本にっぽん佛教ぶっきょう團體だんたいゆう很多交流こうりゅう,曾經參加さんか真言宗しんごんしゅうてきみつほう、也曾參加さんか曹洞宗そうとうしゅう臨濟宗りんざいしゅうてきぜんおさむ訓練くんれんなみいた龍澤寺たつさわでらにち龍澤寺たつさわでら (曖昧あいまい回避かいひ)原田はらだだけにち原田はらだだけてきつてじんばんてつぎゅう禪師ぜんじ(1910-1996)てき印可いんか

海外かいがい遊歷ゆうれき

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ざい論文ろんぶん出版しゅっぱん期間きかん法師ほうしおう邀回だい參加さんかだいよんとどけ海外かいがいがくじん國家こっか建設けんせつ研究けんきゅうかい」,ざい會議かいぎちゅう提出ていしゅつりょうさん問題もんだい

——

1.宗教しゅうきょう教育きょういくおう納入のうにゅう大學だいがくてき教育きょういく系統けいとう
2.社會しゃかい教育きょういくおう注意ちゅうい風化ふうかてき整頓せいとんくろ社會しゃかいてき疏導。
3.注意ちゅうい精神せいしんてき教育きょういく,也就人文じんぶん科技かぎとう並行へいこう發展はってん


雖然會議かいぎじょう並無ならびな達成たっせいにんなんてき具體ぐたいなりこうただし當時とうじ佛教ぶっきょうかいたい於僧眾出りょういち博士はかせ反應はんのう畢竟ひっきょう兩極りょうきょくてきじょう法師ほうしみとめためざい階段かいだんのう夠做てきいん此會結束けっそくかえしかい東京とうきょう便びんおう沈家楨居邀,ざい1975ねん12月10にちまえ往美こく弘法ぐほうこうがく

沈家ただし居士こじため美國びくに佛教ぶっきょうかい」(The Buddhist Association of the United States)そう辦人,經由けいゆ該會出面でづらやすはいはた法師ほうしやすはいいたり所屬しょぞくてきひもやくぬのろう大覺寺だいかくじ法師ほうしざい大覺寺だいかくじ居住きょじゅう前後ぜんこういた兩年りょうねんしか而由於西方せいほうじんじゅう實際じっさいいん佛教ぶっきょう佛學ぶつがくてき推廣ちょじゅう於修みつ咒、がくぜんすわ當時とうじ西方せいほうじんざい接觸せっしょく佛教ぶっきょう修學しゅうがく佛法ぶっぽうじょうかえ西藏にしくら密教みっきょう日本にっぽん禪宗ぜんしゅうため其主りゅう

1976ねんひじりいわお法師ほうし向東むかいひがしはつ老人ろうじんもとめたまもの曹洞宗そうとうしゅうほうみゃくひがし初老しょろうじんはた其列にゅう曹洞宗そうとうしゅうほうみゃくただしぼっゆうたまものしんてき名號みょうごう

かえしだい主持しゅうもち

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のうぜんてら開山かいさん農舍のうしゃためひじりいわおあずか弟子でし創立そうりつほう鼓山つづみやままえてき生活せいかつあずか修行しゅぎょう空間くうかん

1977ねん12がつひじりいわお法師ほうしてきひがしはつ老人ろうじんざい台灣たいわんえんさび法師ほうしせっ消息しょうそくこれたてこく回國かいこく料理りょうり後事こうじなみたてまつ其遺いのち承繼しょうけい道場どうじょうなりため中華ちゅうか佛教ぶっきょう文化ぶんかかんてきせめじん固定こてい往返美國びくにあずか台灣たいわんりょうひろこれ法師ほうしざいひもやく成立せいりつりょうぜん中心ちゅうしんためりょう授課需要じゅよう而編りょうぜんてき體驗たいけん》,なみ陸續りくぞく發行はっこうりょうりょうたね英文えいぶんかん:《Ch'an Magazine》(《ぜん雜誌ざっし季刊きかん)以及《Ch'an Newsletter》(《ぜんどおり訊》月刊げっかん),いたり1992ねんそこためどめぜん雜誌ざっしやめけい發行はっこうりょう58、《ぜんどおり訊》また發行はっこうりょう96

1978ねんおう聘為中國ちゅうごく文化ぶんか學院がくいんいま中國ちゅうごく文化ぶんか大學だいがく中華ちゅうか學術がくじゅついん佛學ぶつがく研究所けんきゅうじょ所長しょちょう及哲がく研究所けんきゅうじょ教授きょうじゅ,此外也在ひがし吳大學くれだいがく輔仁大學だいがくにんきょうざい台灣たいわんきたとうてき中華ちゅうか佛教ぶっきょう文化ぶんかかん以及のうぜんてら,舉行だいせん青年せいねん學生がくせい及一般社會人士的禪修活動,なみ陸陸ろくろく續續ぞくぞく出版しゅっぱんりょうせき於禪てき著作ちょさく包括ほうかつぜんてき生活せいかつ》、《ひねはな微笑びしょう》、《ぜんあずかさとるとういんため法師ほうしたい於禪おさむちょりょく頗深,在世ざいせいかい各國かっこく開始かいし指導しどうぜんほう修行しゅぎょう作為さくいひろあげ佛法ぶっぽうてき方式ほうしきなりため國際こくさい知名ちめい禪師ぜんじ

創建そうけんほう鼓山つづみやま

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ほう鼓山つづみやま世界せかい佛教ぶっきょう教育きょういくえん

ひじりいわお法師ほうしいんかんねん修習しゅうしゅう佛法ぶっぽうてきしん眾與學生がくせいぞう現有げんゆうてき佛門ぶつもん道場どうじょう逐漸じき使用しよう,於1989ねん因緣いんねん俱足購得台北たいぺいけん金山かなやまきょう三界さんがいむらてき土地とち建設けんせつほう鼓山つづみやま世界せかい佛教ぶっきょう教育きょういくえん」,以「つつみのぼり人的じんてき品質ひんしつ建設けんせつ人間にんげん淨土じょうどてき理念りねん創立そうりつかんでん佛教ぶっきょうほうむね」,ためほうみゃく傳承でんしょうてきそう辦人,於2006ねん9がつ2にちでん前任ぜんにん方丈ほうじょうはてひがし法師ほうし

2006ねん擔任たんにん你可以不必自殺じさつもう页面そん档备份そん互联网档あん) 」代言だいげんじん勸告かんこく有意ゆうい自殺じさつまとじん:「そう兩分りょうぶんがね,你可以不必自殺じさつかえゆう許多きょたてき活路かつろはし」。

しん時代じだいしんろくりんひじりいわお法師ほうしざい中國ちゅうごくでん公司こうし公益こうえきがた深度しんどえんじこう節目ふしめぜんみんだい講堂こうどうだいさんしゅう(2007ねん10がつ21にちくび播)おもこうしん時代じだいしんろくりんしょ提出ていしゅつてき理論りろん時代じだいいよいよ進步しんぽ人類じんるいてき倫理りんり道德どうとく卻更薄弱はくじゃくひじりいわお法師ほうしかん察到りょう這個現象げんしょうひさげ倡把古代こだい五倫ごりん加入かにゅうしんてき觀念かんねんしんてき精神せいしんなりためしんろくりん」。

ひじりいわお法師ほうしじゅつ:「わが一生いっしょう修學しゅうがく佛法ぶっぽうひろあげ佛法ぶっぽう,奠定基礎きそてき經典きょうてんおもね含經》,とくりょく最多さいたてきのり維摩けい》;另外,《きむつよしけい》、《楞嚴けい》、《まどかさとしけい》、《ろくだんけいとう也頗じゅくあかつきたいわがみやこゆう很大てき啟發けいはつ。而《法華經ほけきょうたいわが而言,ざい信仰しんこう義理ぎりりょう方面ほうめんみな影響えいきょういたりふか。」[19]。另曾ひさげ及初讀《華嚴經けごんきょう,「〈きよしぎょうひん〉及四じゅうかんほんてきだいよんじゅうかん普賢菩薩ふげんぼさつぎょうねがいひん〉,さい使つかいわが感動かんどう」。[20]

罹病りびょうえんさび

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ひじりいわお法師ほうしうえそん於法鼓山つづみやま生命せいめいその時任ときとう總統そうとうえいきゅう參與さんようえそん儀式ぎしき

ひじりいわお法師ほうしいん罹患りかん腎臟じんぞうがんひらきがたなはたひだりじんわりじょ,2006ねんみぎじん也因嚴重げんじゅう鈣化なみ引發貧血ひんけつ必須ひっすあらいじん,一度住進台大醫院治療,此後固定こてい每週まいしゅうあらいじんさん定期ていきかいだいだいつい治療ちりょうひじりいわお法師ほうしざい2008ねん12月31にちいた醫院いいん接受せつじゅ定期ていきけん查後,發現はつげん罹患りかん泌尿どう相關そうかんがんしょうざいまもる人員じんいん建議けんぎ,於2009ねん1がつ5にちいれじゅうだいだい醫院いいん進行しんこう治療ちりょうこう於17日當ひなたたかしこう醫院いいん請假外出がいしゅつかいいたきたとうのうぜんてら雲來うんらいてらあずかにわ文化ぶんかかん與信よしん眾見めんよし多年たねん腎臟じんぞうびょうまといだいだい醫院いいん建議けんぎかわじんただしひじりいわお法師ほうし堅持けんじかわほう鼓山つづみやまいちめい法師ほうしせつ:「師父しふ本身ほんみ對生たいせいゆう一定いっていてきほうてき佛法ぶっぽう觀念かんねん就是,色身いろみはい壞是いち自然しぜんてき結果けっか不用ふようさい做額外的がいてき事情じじょう師父しふ也講せつやめけい麼老りょうかわ一個新的腎其實是一種浪費。」[21]

ひじりいわお法師ほうし早年そうねんそくからだじゃく晚年ばんねんまたゆうじんやましとうやまいつうただし卻不げん其對於社會しゃかいてきせきふところ以及かんでん佛教ぶっきょう思想しそうてき推動。2009ねんのうれき正月しょうがつはつきゅう(2がつ3にちしもうまよんてん,於臺だい醫院いいんいんかえしかい臺北たいぺいけん金山かなやまきょうこん新北しんきた金山かなやまほう鼓山つづみやま世界せかい佛教ぶっきょう教育きょういくえんてき途中とちゅうえんさびとおることぶき78さい隔日かくじつしのげいちてんひじりいわお法師ほうし大體だいたい吉祥きっしょう姿すがたうつりれいいたりほう鼓山つづみやま大殿おおいどの開放かいほう各界かくかい瞻仰法相ほうしょう[22]ほう鼓山つづみやま方面ほうめんそくよし方丈ほうじょうはてひがし法師ほうしだいためせん讀聖げん法師ほうしてきじゅうてん遺言ゆいごん

——ひじりいわお法師ほうし指示しじ不可ふか辦成ごと,而是一場いちじょう莊嚴しょうごんてき佛事ぶつじ不發ふはつ聞、つてきょうちくはかけんとうだて豎像、堅固けんご儀式ぎしき以簡やくため莊嚴しょうごんこんはな及輓れんなみよう確保かくほほう鼓山つづみやまてきほうみゃく宗風しゅうふう,凡由創立そうりつ及負せめてき道場どうじょう,舉凡どうふうてき確保かくほ人才じんさいてき教育きょういく、互動てきせきふところ人事じんじてきやすはいおう納入のうにゅう統一とういつせい國外こくがいてきぶんささえ道場どうじょうのり以禪ふう一致いっち人事じんじ本土ほんどため原則げんそく,以利純粹じゅんすいぜんほう墮,なみ使ぜんおさむざい文化ぶんか社會しゃかい推廣。

生前せいぜん曾留のこきゅう弟子でし

——「無事ぶじ忙中ぼうちゅうおいそらうらゆう哭笑;本來ほんらいぼつ有我ありが生死せいしみな拋。」

2009ねん2がつ6にちほう山僧さんそう眾為ひじりいわお法師ほうし大體だいたいにゅう殮,8にち護送ごそういたりなえぐり勸化かんげどう荼毘だび),15にちうえそう於法鼓山つづみやま生命せいめいその完成かんせいしゃくきよしげん生前せいぜん推廣禮儀れいぎたまきたもつてき理念りねん

褒揚れい

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2009ねん2がつ13にち總統そうとううまえいきゅうあかりれい褒揚ほう鼓山つづみやまそう辦人ひじりいわお法師ほうし,褒揚れい全文ぜんぶん如下[23]

  ほう鼓山つづみやまそう辦人ひじりいわお法師ほうしけんあつしぜんとしぜんさとし慈悲じひしょうとし偃蹇こまひたすらこころざし發心ほっしんこうふつ承繼しょうけいかんでん臨濟曹洞ほうみゃく盡瘁じんすい中國ちゅうごく佛教ぶっきょう經典きょうてん教義きょうぎ,紹休すべいとぐち,徽音悠揚ゆうよう。嗣負きゅうひがし立正大學りっしょうだいがくひたいん明代あきよ禪學ぜんがく精髓せいずい,闡釋佛門ぶつもんみやび堂奧どうおうさがせ賾索かくれみちたかしせんおさむため我國わがくに首位しゅい博士はかせ高僧こうそう畢生ひっせいひさげ倡人あいだ佛教ぶっきょうけいすすむしん眾應ずいえん;踐履心靈しんれいたまきたもつ,落實人文じんぶんせきなつけあきらおもえ霖雨,沾溉社會しゃかい風雪ふうせつぎょう腳,ふかうえ國際こくさい平素へいそつとむ經藏きょうぞう述作じゅっさくゆたか瞻,睿旨かそけすがめゆう以「比較ひかく宗教しゅうきょうがく」、「戒律かいりつがく綱要こうよう」、「正信まさのぶてき佛教ぶっきょうとうろんちょ,丕奠永續えいぞく弘法ぐほうもとせきふく籌設中華ちゅうか佛學ぶつがく研究所けんきゅうじょそうとぎ大學だいがく佛學ぶつがくいん暨法大學だいがく,推展文化ぶんか教育きょういく完備かんび佛學ぶつがく研究けんきゅうとう鎔鼓,瞿曇たきぎでん。曾獲頒社かい運動うんどう領袖りょうしゅう獎、中山なかやま文藝ぶんげい創作そうさく獎、行政ぎょうせいいんきむかなえ獎與文化ぶんか獎、中山なかやま學術がくじゅつ著作ちょさく獎、總統そうとう文化ぶんか獎等ことさかえちから促宗きょう交流こうりゅうかいしょう現代げんだいぜんふうきむこえだまじききょうよし。綜其生平おいだいら大願たいがんきょうがくあつさわ溥被はじむ庶;げんとく遺愛いあい,涵濡人間にんげん淨土じょうどりゅうこうたれ祚,わたかおるちょう仁者じんしゃやめとお,軫悼曷極,おうあかりれい褒揚,ようしめせ政府せいふたかしれい大德だいとくいたり

そう   みつる うまえいきゅう    
行政ぎょうせいいん院長いんちょう りゅうちょうげん    

  

重要じゅうよう記事きじ

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  • 1931ねん誕生たんじょう江蘇こうそめいやすし」。
  • 1943ねんとし14さい,於みなみどおりおおかみやまこうきょうてら出家しゅっけ法名ほうみょうつねすすむ」。
  • 1949ねんにゅうどおり信連しんれんゆかり上海しゃんはいとうていらい臺灣たいわん
  • 1959ねん結束けっそくじゅうねん軍旅ぐんりょ,於ひがしはつ老人ろうじん座下ざか再度さいど出家しゅっけ法名ほうみょうとしそらひじりいわお」。
  • 1961ねん:於高雄たかおけん美濃みのあさ元寺もとてら閉關ろくねんかいぎょう並進へいしん深入ふかいり經藏きょうぞう
  • 1969ねん留學りゅうがく日本にっぽん立正大學りっしょうだいがくろくねん取得しゅとく文學ぶんがく博士はかせ學位がくい
  • 1975ねん:抵美國びくに開設かいせつ週日しゅうじつ靜坐せいざはん隔年かくねんくび舉辦ぜんなな
  • 1977ねんいんひがしはつ老人ろうじんえんさびかえしだい繼承けいしょう中華ちゅうか佛教ぶっきょう文化ぶんかかんのうぜんてら
  • 1978ねん擔任たんにん中國ちゅうごく文化ぶんか大學だいがく哲學てつがく研究所けんきゅうじょきょう授及佛學ぶつがく研究所けんきゅうじょ所長しょちょう國立こくりつ政治せいじ大學だいがく研究所けんきゅうじょ教授きょうじゅ
  • 1978ねん:12月5にちうけたまわ临济むねほう脉的灵源和尚おしょうしょうほう脉赐给圣严法师,给了一份法脉传承谱《ほしとうしゅう》,なり为临济义げんしただいじゅうななだい传人。
  • 1985ねん:於きたとう中華ちゅうか佛教ぶっきょう文化ぶんかかんそう辦「中華ちゅうか佛學ぶつがく研究所けんきゅうじょ」。
  • 1989ねん創設そうせつほう鼓山つづみやま
  • 1990ねん:召開だいいちとどけ國際こくさい學術がくじゅつ會議かいぎ
  • 1992ねん提出ていしゅつ心靈しんれいたまきたもつ」,ためほう鼓山つづみやま核心かくしん理念りねん
  • 1994ねん提出ていしゅつ禮儀れいぎたまきたもつ」。
  • 1997ねん出席しゅっせきだいじゅういちとどけ國際こくさい宗教しゅうきょう領袖りょうしゅう和平わへい會議かいぎ訪問ほうもん梵蒂おか,晤見當時とうじてききょうむねわかもち·ろくせい(John Paul II)。
  • 1998ねん天下てんか雜誌ざっし》遴選ため四百年來對台灣最具影響力的五十位人物之一[24]ざいひもやくあずかだいじゅうよんせいたちよりゆき喇嘛進行しんこうかんぞう佛教ぶっきょう世紀せいきだい對談たいだん」。
  • 1999ねん:「提出ていしゅつしんよん運動うんどう——廿にじゅういち世紀せいき生活せいかつ主張しゅちょう」、りょうしるべほう鼓山つづみやま投入とうにゅう921地震じしんすくいわざわい工作こうさく積極せっきょく展開てんかいわざわい後人こうじんこころじゅうけん運動うんどう」。
  • 2000ねんかんでん佛教ぶっきょう唯一ゆいいつ代表だいひょう參加さんか「千禧年世界宗教與心靈領袖和平高峰會」、じゅうとどけ行政ぎょうせいいん文化ぶんか、於美國びくにぞうおか道場どうじょう舉辦「だまあきらぜんよんじゅうきゅう」。
  • 2001ねん:於臺北たいぺいけん金山かなやまさとほうつづみ山園やまぞの舉辦「だまあきらぜんよんじゅうきゅう」。
  • 2002ねん出席しゅっせきざいひもやく舉行世界せかい經濟けいざい論壇ろんだん會議かいぎ」,唯一ゆいいつ受邀てき佛教ぶっきょう領袖りょうしゅう出席しゅっせきざいたいこく曼谷舉行世界せかい宗教しゅうきょうあずか精神せいしん領袖りょうしゅう理事りじかい」、以《天台てんだいこころ鑰——きょうかんつなむねぬき註》一書獲中山學術著作獎[25]
  • 2003ねん:推動ほう鼓山つづみやま人文じんぶん社會しゃかい獎助學術がくじゅつ基金ききんかいあずか北京ぺきん大學だいがく合作がっさく設置せっちほう人文じんぶん講座こうざ」,おう世界せかい宗教しゅうきょう領袖りょうしゅう理事りじかい邀,出席しゅっせき日本にっぽん京都きょうと世界せかい青年せいねん和平わへい高峰こうほうかいだいいち籌備會議かいぎ,膺獲だいとどけ總統そうとう文化ぶんか
  • 2004ねん:推動ほう鼓山つづみやま人文じんぶん社會しゃかい獎助學術がくじゅつ基金ききんかい分別ふんべつあずか國立こくりつ臺灣たいわん大學だいがく北京ぺきん清華せいか大學だいがく合作がっさく設置せっちほう人文じんぶん講座こうざ」,主持しゅうもちほう人文じんぶん社會しゃかい學院がくいんどう典禮てんれい出席しゅっせきざい曼谷召開てき世界せかい宗教しゅうきょう領袖りょうしゅう理事りじかいあずかたい青年せいねん和平わへい高峰こうほうかい」,出席しゅっせきざいやくだん召開てき世界せかい宗教しゅうきょう領袖りょうしゅう理事りじかい」,擔任たんにんそう召集しょうしゅうじん,舉辦「世界せかい青年せいねん和平わへい高峰こうほうかい台北たいぺい論壇ろんだん」。
  • 2005ねん出席しゅっせきざいあいなんじらんかしわりん召開てき世界銀行せかいぎんこう信仰しんこう發展はってん會議かいぎ」,推動ほう鼓山つづみやま人文じんぶん社會しゃかい獎助學術がくじゅつ基金ききんかい分別ふんべつあずか國立こくりつ成功せいこう大學だいがく南京なんきん大學だいがく合作がっさく設置せっちほう人文じんぶん講座こうざ」,於中こく北京ぺきん大學だいがく清華せいか大學だいがく南京なんきん大學だいがく中山なかやま大學だいがく進行しんこうせんだいえんじこうたいこくしゅひしげりゅういさおそうとぎ大學だいがく榮譽えいよ博士はかせ學位がくい創設そうせつほう鼓山つづみやま世界せかい佛教ぶっきょう教育きょういくえん落成らくせい開山かいさん
  • 2009ねん2がつ3にち於從たいだい醫院いいんぜん往法鼓山つづみやま世界せかい佛教ぶっきょう教育きょういくえんてき途中とちゅうえんさびとおることぶきななじゅうはち

人物じんぶつ著作ちょさく

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  • ほう全集ぜんしゅう》-ひじりいわお法師ほうしちょ
  • ひじりいわお法師ほうしがくおもえ歷程れきてい》-ひじりいわお法師ほうしちょ 臺北たいぺいほう文化ぶんか出版しゅっぱん 2004ねんさんはん ISBN 957-598-303-3
  • ひじりいわお法師ほうしきょうぜんすわ》-ひじりいわお法師ほうしちょ 臺北たいぺいほう文化ぶんか出版しゅっぱん たいらそう ISBN 9789575984809
  • ぜんてき智慧ちえ》 -ひじりいわお法師ほうしちょ 臺北たいぺいほう文化ぶんか出版しゅっぱん たいらそう ISBN 9789575982522

まなぶふつ入門にゅうもん系列けいれつ

  • 佛教ぶっきょう入門にゅうもん》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 正信まさのぶてき佛教ぶっきょう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • まなぶふつぐんうたぐ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • まなぶふつ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 聖者せいじゃてき故事こじ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 念佛ねんぶつせい淨土じょうど》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 神通じんずうあずか人通ひとどおり-宗教しゅうきょう人生じんせい》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • せいりつ生活せいかつ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん

現代げんだい經典きょうてん系列けいれつ

  • 佛法ぶっぽう綱要こうよう四聖しせいたい六波羅蜜ろくはらみつよん弘誓ぐぜいねがいこう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 菩薩ぼさつぎょうねがい觀音かんのん地藏じぞう普賢菩薩ふげんぼさつ法門ほうもんこう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • さんじゅう七道しちどうひんこう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ふつ陀遺きょうよんじゅうしょうふつのこきょうけい、八大人覺經講記》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 觀音かんのんみょうさとし觀音かんのん菩薩ぼさつみみえんどおり法門ほうもんこうよう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 自家じか寶藏ほうぞう如來にょらいぞうけいからだやくしゃく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 華嚴けごんこころかい原人げんじん論考ろんこうしゃく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ぶくとし自在じざいきむつよしけい生活せいかつ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 修行しゅぎょうざいべにちり:維摩けいろくこう》--ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • しんてき經典きょうてんこころけい新釋しんしゃく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 《48願望がんぼう無量むりょうことぶきけいこう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 探索たんさく識界:八識規矩頌講記》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 絕妙ぜつみょう說法せっぽう法華經ほけきょうこうよう》-ひじりいわお法師ほうしちょほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 天台てんだいこころ鑰:きょうかんつなむねぬき註》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん

人間にんげん淨土じょうど系列けいれつ

  • ほう家風かふう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 人間にんげん》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 淨土じょうどざい人間にんげん》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ほう晨音》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 臺灣たいわん》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 平安へいあんてき人間にんげん》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ひと行道ぎょうどう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • べにちり道場どうじょう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 人間にんげん擺渡》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ひじりいわお法師ほうし心靈しんれいたまきたもつ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 《找回自己じこ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • したがえこころみぞどおり》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ほう鼓山つづみやま故事こじ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • かたがいべにちり》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 真正しんせいてき快樂かいらく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • さとしじょうしょひじりいわお法師ほうしだん世間せけんじょう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 工作こうさくこう修行しゅぎょうひじりいわお法師ほうしてき38のり職場しょくば智慧ちえ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 放下ほうかてき幸福こうふくひじりいわお法師ほうしてき47のり情緒じょうちょ管理かんり智慧ちえ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 歡喜かんき生死せいし》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 心安こころやす平安へいあん,你就力量りきりょう!》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 生死せいしみな自在じざいひじりいわお法師ほうしだん生命せいめい智慧ちえ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • おびちょぜんこころうわはんひじりいわお法師ほうしてきぜんしき工作こうさくがく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 是非ぜひよう溫柔おんじゅうひじりいわお法師ほうしてきぜんしき管理かんりがく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 安和あわ豐富ほうふ簡單かんたん享受きょうじゅみどり生活せいかつ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ぶく幸福こうふくぶく知足ちそくゆう幸福こうふく感恩かんおん奉獻ほうけん快樂かいらく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ほう鐘聲しょうせい》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • だい吉祥きっしょう安心あんしんやす安家あつかやすぎょう真心まごころ自在じざい廣大こうだい吉祥きっしょう。》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • こうしんこう世界せかいひじりいわお法師ほうしだん心靈しんれいたまきたもつ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 得心とくしん自在じざいこころ自在じざい自在じざい身心しんしん自在じざいぶくとし自在じざい。》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 和樂わらくいさかいこころ平氣へいき是非ぜひよう溫柔おんじゅう和樂わらく平安へいあんわがため祝福しゅくふく。》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ひがしはつぜんてらてき故事こじ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 光明こうみょう遠大えんだい智慧ちえてんさかいしん光明こうみょう慈悲じひ利他りた希望きぼう遠大えんだい。》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • しん光明こうみょう遠大えんだい念念ねんねん清淨せいじょう遍照へんじょう光明こうみょう步步ほほ踏實,まえほど遠大えんだい。》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ぶくとし傳家でんかおさむぶくおさむとし安心あんしんやすろくまんぎょうつてこころ傳家でんか。》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 平安へいあん無事ぶじとめ惡行あくぎょうぜん心安こころやす平安へいあん觀世かんぜ自在じざい無事ぶじ無礙むげ。》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん

だい智慧ちえ系列けいれつ

  • 本來ほんらい面目めんぼく:〈かんこころめいこう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ぜんざい哪裡?:ひじりいわお法師ほうし西方せいほうぜんおさむ指導しどう2》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • こころざい哪裡?:ひじりいわお法師ほうし西方せいほうぜんおさむ指導しどう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 虛空こくう粉碎ふんさいひじりいわお法師ほうし話頭わとうぜんほうむねよう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 無法むほうほうひじりいわお法師ほうしだまあきらぜんほうむねよう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 如月きさらぎしるしそらひじりいわお法師ほうしだまあきらぜんこうろく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 智慧ちえけん:《えいよしみしょう道歌どうかこうろく》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • たからきょうさかい石頭いしあたままれ遷〈まいりどうちぎり〉、洞山ほらやまりょう价〈たからきょう三昧ざんまいしんかい》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ぜんてき智慧ちえ》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • ぜんところもとむひじりいわお法師ほうしてきこころめいじゅうこう》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 完全かんぜんしょうさとるひじりいわお法師ほうしせつまどかさとしけい生活せいかつかん》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん
  • 禪門ぜんもんだいいち》-ひじりいわお法師ほうしちょ ほう文化ぶんか出版しゅっぱん

きさき纪念

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参考さんこう资料

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外部がいぶ連結れんけつ

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