(Translated by https://www.hiragana.jp/)
加行 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

ゆき

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん

这是ほん页的いち历史版本はんぽんゆかりTsai4111とめげん | 贡献ざい2012ねん9がつ14にち () 07:21 →‎いただきほう编辑。这可能かのうとうぜん版本はんぽん存在そんざい巨大きょだいてき异。

よんゆき佛教ぶっきょう術語じゅつごゆび煖法いただきほう忍法にんぽうだい一法いっぽうよんしゅ修行しゅぎょうてきほうごうたたえよんゆきよん行者ぎょうじゃいいがくじんふつ菩提ぼだいどうせいおさむ,於第いち無量むりょうすうこうちゅうぜんしゅう福德ふくとくかて智慧ちえかて,及修學しゅうがくじゅん解脫げだつぶんやめためもとめのうにゅう大乘だいじょうべつきょう真見まみどう而住於唯識ゆいしきせいちゅう必須ひっすさきおさむゆき,以伏じょ,而起煖、いただきしのべだい一法いっぽう由起ゆき此四ほうせつためよんゆき圓滿えんまなりべつきょうろくじゅう滿まんしん菩薩ぼさつ;於此ちゅう,一旦證悟自心藏識,そく六住四加行所起之順抉擇分,常住じょうじゅうななじゅう退すさなり退すさ菩薩ぼさつ故知こちよんゆき重要じゅうようのうれい菩薩ぼさつそうしるしむなしゆえ。二取謂能取與所取,しょいいろくちりまんほう能取のとろいいななてん識(とう六識及意根末那識);がくじんゆかりおさむよんひろおもえあかしとくよん如實にょじつさとしおこり煖法あかししょむなしおこりいただきほうじゅうかんしょしょうしょむなしぜん煖頂ほうしょしょうしょむなし,而觀能取のとろこころまたそらしるしまえしょむなしじゅんこう能取のとろそらだてしるしじゅんめいのうにんさかい識皆そらためにんよし如是にょぜげんかん而發如實にょじつさとしそうしるし能取のとろしょむなししたがえ此起,心心こころごころあいだ,必入じょう真見まみどうだん我見がけん);於凡夫ぼんぷ及三かい世間せけんちゅう,此為さい勝之かつゆきじんだい一法いっぽう

煖法

四加行之法證,乃依よんひろおもえ、四如實智之觀行而立。よんひろおもえしゃいい行者ぎょうじゃひろおもえ名義めいぎ名義めいぎ自性じしょう名義めいぎ自性じしょう差別さべつ」,ひろおもえ此四法假有實無。しかこうげんかん:「わかはなれ能取のとろ識--意識いしき及前五識ごしき--のり此四ほう;而此四法所依之能取識亦非真實有。」如是にょぜ現前げんぜん觀察かんさつ發起ほっきあきらとくじょう」而發「しもひろおもえ」,げんかんしょむなし建立こんりゅう此位ひろおもえはてため

いただきほう

じょうさいさくひろおもえ發起ほっきうえひろおもえ」,げんかん名義めいぎ名義めいぎ自性じしょう名義めいぎ自性じしょう差別さべつ諸法しょほうみな六識所取所辨,いち切所せっしょ諸法しょほうろくちりまんほうみな假名がな施設しせつぜっじつゆうわかまえろく識,のり萬法現前而可親觸。如是にょぜげんかんしゃ,乃是うえひろおもえ」而現かんところ一切いっさいほうそら」,そく此現かんたてためいただき,此是世間せけんいただきほうゆえいただきほう:這是三界之頂的法義。也就せつ,三界之頂無過於非想非非想定、そうそうてん境界きょうかいただし這個いただきほうやめいた三界さんがいいただきてき;雖然かえ無法むほうしんてき出離しゅつり三界さんがい生死せいしただし三界中的所有眾生,無法むほう到達とうたつ這個智慧ちえ境界きょうかい所以ゆえん就稱ためいただきほういただきほうてき實意じつい涵有よん:一者認知內識識陰的虛妄;二者認知本識——がい如來にょらいぞう——てき真實しんじつ存在そんざい以去いた他方たほう繼續けいぞく存在そんざい不滅ふめつさんしゃ認知にんちさわ、受、おもえおもえあいとうほうみやこただし內、そと識共どう出生しゅっしょうてきしんしょほうせい自在じざいよんしゃ認知にんち內識、そと識、しんしょほう和合わごう而起てき三界五蘊中的種種功能差別(さかいみやこただし藉內識、そと識、しんしょ法的ほうてき和合わごううんさく出生しゅっしょうてき了知りょうち這四法的ほうてきじん,就是しょうとくいただき法的ほうてきじんわかいただきほう退すさのう繼續けいぞく深入ふかいり觀察かんさつひさ就能しょうはつはててき解脫げだつ功德くどく

忍法にんぽう

いただきさとし,於「一切法皆無所取」やめのうしるしていふくしも如實にょじつさとし」而觀察かんさつ能取のとろ--了知りょうち能取のとろ」萬法之覺知心(意識いしきしんじゅんらく而能やすにん如是にょぜしるしまえところゆう」,じゅんらくかん能取のとろ不實ふじつ」,せつめいしょうとくしるしじゅんにん」,めいにんほう,「しも如實にょじつさとし具足ぐそくざいにんがくじんよういちざい思惟しい能取のとろ也是そら」。よう觀察かんさつ建立こんりゅうのう夠分べつてきろく識」一定いっていそら,跟六塵一樣也是虛幻而不真實的「せい」,而且よう一再的觀察確認這個道理。觀察かんさつざい睡眠すいみん昏迷こんめい死亡しぼう意識いしきてき斷滅だんめつ現象げんしょうよう努力どりょくせつふくまつ承認しょうにんいちじつゆずる意識いしき自己じこのう夠忍受於承認しょうにん自己じこ虛妄きょもうてき事實じじつようかんぎょう能取のとろ六塵的意識覺知心,確實かくじつ因緣いんねんしょ出生しゅっしょうてき有生ゆうせいほうおわり無常むじょうおわりよう毀壞;也要かん察到さとしこころざい六塵中雖然一念不生時,也是のう了知りょうちろくちりてき內容,這樣就表示ひょうじさとしこころおこり一念いちねんてき時候じこう,仍然かえ能取のとろろくちりてきのう這樣如實にょじつてき確實かくじつてきかんぎょうなみ確認かくにんりょうさい能成よしなりため四加行位中的忍位菩薩。

だい一法いっぽう

證印しょういんじゅんにんしるしじょうところそら」、じゅんらく能取のとろそら」,ふくさくかんぎょう發起ほっきうえ如實にょじつさとし」;うわ如實にょじつさとし而不退すさぼつ如是にょぜ心心こころごころあいだ--曾起しん懷疑かいぎ自己じこ現前げんぜん觀察かんさつしょしょうのうしょ俱空」--そうしるし能取のとろしょ俱空。したがえ此以心心こころごころあいだひさ必入どう--あかしとくだい八識如來藏而發起般若慧--あるいれだいななじゅうあるいれじゅうぎょうじゅう迴向乃至ないしにゅうはつとう。以此「そうしるしのうしょそら」,將來しょうらい必入大乘だいじょうどうせつ此位乃是世間せけんだいいち上之うえのほうだい一法いっぽう」。於世だい一法いっぽうがくじん真實しんじつ確認かくにんところろくちりまんほうそら」,さらたい自己じこしょところ認知にんちてきのう分別ふんべつてきろく識」,也絕對ぜったい承認しょうにん無常むじょうそらかりてきたい於這いちてん,就算ざいばんじょうねむさとし做夢ざい夢中むちゅう也不かいふところうつりすえ正式せいしき承認しょうにん能取のとろてきさとしこころあずかところ取的とりてき六塵萬法都是空」,如此そくせつがく人證じんしょうとく世間せけんてき最高さいこうじつ正式せいしきてきだんりょう我見がけんなりため聲聞しょうもんはつはて成就じょうじゅ世俗せぞく人中ひとなかだいいち無上むじょうてき正法しょうぼう實證じっしょうめいだい一法いっぽう

佛經ぶっきょうてき相關そうかん經文きょうもん

大佛だいぶついただき如來にょらいみついんおさむしょうりょうよししょ菩薩ぼさつまんぎょうくび楞嚴けい》(まき8):「おもねなんぜん男子だんしつき清淨せいじょうよんじゅういちしんなりよんしゅみょうえんゆきそく以佛さとしようためおのれこころわかなお如鑽よくしか其木,めいため煖地また以己しん成佛じょうぶつしょくつわか如登高山こうざんにゅう虛空こくうしもゆうほろ礙,めいためいただきこころふつどうぜんとく中道ちゅうどう,如忍ごとじんふところめいためにん數量すうりょう銷滅,迷覺中道ちゅうどうしょめいだいいち。」(CBETA, T19, no. 945, p. 142, c5-11)


なり唯識ゆいしきろん》(まき9):「ろん曰。菩薩ぼさつさき於初無數むすうこうぜん福德ふくとく智慧ちえかてじゅん解脫げだつぶんすんで圓滿えんまんやめためいれどうじゅう唯識ゆいしきせいふくおさむゆきふくじょいい煖頂にんだい一法いっぽう。此四總名順決擇分。じゅんおもむき真實しんじつけつぶんゆえ近見ちかみどうたてゆきめいぜんかて行義ゆきよし。煖等四法依四尋思四如實智初後位立。四尋思者尋思名義自性差別假有實無。如實にょじつへん此四離識及識非有名如實智。名義めいぎしょうべつひろもとめ二相同故合思察。あきらとくじょうはつひろおもえかんしょ取立とりたてため煖位。いい此位ちゅうそうかんしょとう四法皆自心變假施設有實不可得。はつとし日前ひくまゆきしょうたてあかりとくめいそく此所道火みちびまえしょうまためい煖。あかりぞうじょうはつじょうひろおもえかんしょ取立とりたてためいただきいい此位中重なかしげかんしょとう四法皆自心變假施設有實不可得。あかりしょううたてもりめいあかりぞうひろおもえごくふくめいいただきしるしじゅんじょうはつ如實にょじつさとし於無しょ決定けっていしるし能取のとろちゅうまたじゅんらくにんすんで無實むじつさかいはなれ能取のとろ識。やすしゆうじつ識離しょさかいところ能取のとろしょうまちりつゆえしるしじゅんにん總立そうだちためにんしるしまえじゅんたてしるしじゅんめいにんさかい識空まためいにんあいだじょうはつじょう如實にょじつさとししるし二取空立世第一法。いい前上まえかみしのぶゆいしるし能取のとろそらこんだい一法いっぽうそらそうしるししたがえ此無あいだ必入どうだてあいだめいせいほうちゅう此最しょうめいだい一法いっぽう如是にょぜ煖頂能取のとろ識觀しょむなし下忍しもおしおこりしるしさかいそらしょうちゅうにん轉位てんい能取のとろ識如さかいそらじゅんらくにんうえしのぶおこりしるし能取のとろそらだい一法いっぽうそうしるしそらしょうみなたいしょうのうしょうせつ菩薩ぼさつよんちゅうなお於現ぜん安立あだちしょうものいい唯識ゆいしき勝義まさよしせい。以彼そらゆうそうじょおびしょうかんこころゆう所得しょとくゆえじつ安住あんじゅう唯識ゆいしきかれしょうめつやめかたじつ安住あんじゅう如是にょぜよしゆう頌言。

菩薩ぼさつ於定  かんかげただこれこころ
しょうすんでめつじょ  しんかんただそう
如是にょぜじゅう內心  しょゆう
つぎ能取のとろまた  さわ所得しょとく

此加ぎょうあいばく。於麁じゅうばくまたのうだんただのうふくじょ分別ふんべつ二取違見道故。於俱生者しょうじゃ及二隨眠有漏觀心有所得故有分別故未全伏除全未能滅。此位菩薩ぼさつ安立あだちたい安立あだちたい俱學觀察かんさつため引當ひきあてらいしゅ。及伏分別ふんべつしゅさわ安立あだちたい是正ぜせいしょかんじょうただかん安立あんりゅう菩薩ぼさつおこり此煖とう善根ぜんこん。雖方便びんどおりしょしずかおもんばか而依だい四方しほうとくなり滿まんたくさいかちにゅうどうゆえただ欲界よくかいぜんおもむきおこりあまりとしいやこころ殊勝しゅしょう。此位またかい行地ゆくじあかし唯識ゆいしき勝義まさよしつぎ通達つうたつ其相うんなに。頌曰。

わかとき於所えん  さとし所得しょとく
なんじじゅう唯識ゆいしき  はなれ二取相故」(CBETA, T31, no. 1585, p. 49, a25-c17)