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寿ひさし

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汉昭ぶんみかど
統治とうち338ねん-343ねん
出生しゅっしょう300ねん
逝世343ねん(42—43さい
やすそう
あんあきらりょう
年號ねんごう
汉兴:338ねんよんがつ-343ねん
谥号
昭文あきふみ皇帝こうてい
庙号
ちゅうむね
せいなり

汉昭ぶんみかど寿ひさし(300ねん—343ねん),たけこうじゅうろくこく时期なりせい权的皇帝こうてい。为とくこれおとうと少子しょうし

338ねん即位そくいきさきあらため国号こくごう为“汉”。343ねん病死びょうし

生平おいだいら

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早年そうねん

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ひさし天生あもうさとしさとし好學こうがくすくななおれいようざい諸子しょしちゅう相當そうとう突出とっしゅつ,受到つよし欣賞,みとめためあし以擔とう大任たいにん,乃授以前いぜん將軍しょうぐんみつるりょうともえしょく軍事ぐんじかれ遷征ひがし將軍しょうぐん當時とうじねんじゅうきゅうさい在任ざいにん期間きかん以處譙秀ためはかりごとぬしたい其言聽計したがえれいざいともえしょく威德いとくたかし[1]

驤卒,ひさしさい先後せんごます遷為大將軍だいしょうぐんだいとくさむらいちゅうなみふう扶風こうろく尚書しょうしょごとざい出征しゅっせいやすししゅうかこえおさむひゃくにち最終さいしゅう悉數平定へいていしょぐん雄大たけひろえつさい封建ほうけんやすしおう[2]

つよしそつ,受遺いのち輔政,つぎあらためふうかんおう兼任けんにんやなしゅう刺史ししたまものふうやなしゅうぐん[3]

此,ひさし威名いめいどお播,卻同ふかためえつけいひとしところ忌憚きたんれいひさしふかため擔憂。ざい暫代屯田とんでん涪水期間きかん每次まいじあさ覲日到來とうらい邊境へんきょうぞく橫行おうこう不可ふか戒備はなれひらき而推卻。同時どうじひさしまたいんためえつ兄弟きょうだいとう十餘人年紀漸長,またよう有精ゆうせいへい,擔心不能ふのうぜん便びんすうよく聘得龔壯ため其效いのち。龔壯雖然こたえおう仍多あずかひさしめんとき岷山くずし塌,こうみずいん此枯竭,ひさしみとめため此乃上天じょうてんあずかしめせわざわいこういん非常ひじょういやあく便びんとい龔壯安之やすゆきほう。龔壯てき父親ちちおや叔父おじとく殺害さつがいためりょう假借かしゃく壽之としゆきほうかたき便びんむかいひさし提出ていしゅつおこりへい自立じりつ以自てき建議けんぎ最終さいしゅう獲得かくとくひさし採納さいのうこれ後便こうびん暗中あんちゅうあずかちょうりゃくひさしともえ西にしかいおもえあきら共同きょうどうはかりごとだつ首都しゅと成都せいとなみとくすうせんにん加入かにゅうひさしぐんおこりへい突襲成都せいとはた其攻かつたてへい擄掠,甚至かん污李ゆう女兒じょじ及李もろなみ將之まさゆきざんころせひさしかいおもえあきらおうとしとうひと乃勸ひさし自稱じしょう鎮西ちんぜい將軍しょうぐんえきしゅうまぎ成都せいとおうなみむこうすすむあさしょうはん[4]

即位そくい

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なりたまつねよんねん(338ねん),大臣だいじんにん調ちょう司馬しば蔡興さむらいちゅうつや以及ちょうれつとうすすむひさし自立じりつ壽命じゅみょうみこぼくとくとうすうねん天子てんしてきあずかしめせにん調ちょう大喜だいぎ進言しんげんいちにちなお滿足まんぞくなにきょうすうねん!」(いちにちなおためあし,而況すうねん乎!)ひさし以「有道ありみちはやじょう聽到警世けいせいてき道理どうり,就算とうばんようまた悔無憾」(あさ聞道きくならくゆう矣),にん調ちょうてき進言しんげん實在じつざい上乘じょうじょうこれさく!」乃自稱じしょうためみかど,舉國大赦たいしゃなみ改元かいげんかんきょう,以ただしこうため相國しょうこくひさしうまとうため股肱ここう奕、にん調ちょうためおやしんじかいおもえあきらためはかりごとぬしひさしほんそうむこう龔壯,授安しゃたば帛以いのちため大師だいししか而龔たけし拒絕きょぜつ,僅接收せっしゅうしまはばもとたい,以師友之とものきょ同時どうじ拔擢ばってきかそけとどこお,授以あらわなみついみこと驤為けんじみかどはは昝氏ためふとしきさきつま阎氏ため皇后こうごう世子せいしぜいため太子たいし[5]

ひさししょうみかど有人ゆうじんじょうつげこうかん太守たいしゅいぬいあずか大臣だいじんくしどおり密謀みつぼう廢帝はいてい壽命じゅみょうひろあずか大臣だいじんひとししゅう殿どのまえはたいぬい徙為かんよしみ太守たいしゅいちぐうじょう狂風きょうふう暴雨ぼうう震動しんどうだいくつ門柱もんちゅうひさしため此深悔責,下命かめいぐんしんよう盡忠じんちゅう進言しんげん切切せつせつ拘泥こうでい忌諱きき[6]

後來こうらいちょういしとらむかいひさし提議ていぎ結盟けつめい出兵しゅっぺいすすむあさことなりりょう人並ひとなみぶん天下でんかひさしだいえつさきだいおさむ船艦せんかんいむへいつくろえかぶとまたれい吏卒準備じゅんび充足じゅうそくかてそうつぎ而以尚書しょうしょれい當為とういろくぐんとくじゅん備以ななまんにん兵力へいりょく乘舟のりぶね溯江そこう而上。とう船隊せんたい經過けいか成都せいとごえふるえてんひさし登城とじょうけん閱,群臣ぐんしん趁機以國しょう眾寡,えつかい稽路とお不易ふえき成功せいこうためよしげん阻止そしゆう其解おもえあかりさらきり誎懇いたり,於是ひさし便びんゆずる群臣ぐんしんりょくひね利害りがい。龔壯谏曰﹕「陞下あずかえびすじん互通,かいあずかすすむちょうさらこう呢? えびすじんもとらい豺狼さいろういちようてき國家こっかすすむちょうほろびざいとく北面ほくめんごと。如果あずか爭奪そうだつ天下でんか結果けっかただかいれい強弱きょうじゃくさらかかこと昔日せきじつおそれこく、虢國(成語せいごかりめつてき典故てんこてき教訓きょうくんざいまえ希望きぼう陛下へいか以深おもえ熟慮じゅくりょ。」群臣ぐんしん同意どうい龔壯てき進言しんげんさら叩頭こうとう泣誎,おわり使ひさし放棄ほうき眾大さら連聲れんじょうまんさい[7]

これひさし派遣はけん鎮東將軍しょうぐん征討せいとう牂柯太守たいしゅしゃじょよりどころじょう堅守けんしゅにちのうおさむかつてき逢李奕糧つきいん撤兵てっぺい同時どうじ太子たいしぜいため大將軍だいしょうぐんろく尚書しょうしょごと[8]

ひさし繼承けいしょうつよし同樣どうよう為政いせいひろし儉,ざい篡位はつまた表現ひょうげん欲望よくぼうぼうつぎおうしたがえ鄴城歸來きらいもりたたえせきとらてき宮殿きゅうでん華麗かれい,鄴中戶口とぐちいん。卻同聽聞ちょうもんせきとら濫用らんよう刑法けいほう王侯おうこう表現ひょうげん不遜ふそんまた以殺ばつ懲戒ちょうかいはん而能夠控せい各地かくちくにいきれいひさし相當そうとうとも慕,決心けっしんこうほうしたしんごとゆうしょうどう輒處以立また都城みやこのじょう空虛くうきょさとこう戶口とぐちいたり充實じゅうじつ工匠こうしょう械仍未滿みまんみつるためゆかり,遷徙鄰郡ゆう三名男丁以上的家戶到成都,また建造けんぞうひさしかた派遣はけん各州かくしゅうぐんのうこうたくみたくみ充實じゅうじつなみこうおさむ宮室きゅうしつ引水ひきのみず入城にゅうじょうごくつきおごはなまた擴充かくじゅうふとしがく建立こんりゅうえん殿どのとうれい百姓疲於奔命,悲呼嗟嘆さたん怨聲みち,以致人心じんしん思亂おもいみだれしゃ,竟有じゅうはちきゅうひだりぼくしゃ蔡興しん阻止そしひさし以其散播謗げんためゆかりはたしょみぎぼくしゃいんため經常けいじょう直言ちょくげん忤逆むねひさしたいもとゆう積怨せきえん便びんかり以他ざいはた收監しゅうかんしかこうしょ[9]

後來こうらいひさし患有重病じゅうびょう經常けいじょう夢見ゆめみ、蔡興さくいのち[10]かいおもえあかりとうふくさいつぎみことたてまつ皇室こうしつひさししたがええんじまたゆかりえつ上書うわがきすすむせい返本へんぽん放棄ほうきしょうみかどふくしょうためおうひさしだいいかころせこれ,以警告けいこく龔壯、かいおもえあかりとう。龔壯於是作詩さくしななへん假借かしゃくおうこれこう諷刺ふうしひさしひさし便びんかいおうどう﹕「有道ありみち反省はんせい便びん可知かち意思いし」,如果這篇いまじん所作しょさ,就是賢哲けんてつはなしかりわか古人こじん所作しょさ便びんただ死去しきょおにたましいてき平常へいじょう辭令じれい!」[11]

逝世

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かんきょうろくねん(343ねん),最終さいしゅうざい憂患ゆうかんちゅう病死びょうし享年きょうねんよんじゅうよんさいひさし在位ざいいねんはておうしょうみかどぜんみこげん昭文あきふみ皇帝こうていびょうごうちゅうむねそうあんあきらりょう[12]

評價ひょうか

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ひさしためみかどはつ好學こうがくあいそく使つかい庶民しょみん小兒しょうに也對他稱たしょうどうやめ每次まいじ閱到はたけんしょうたていさお立業たちわざてき事蹟じせきぼつゆう一次不會反覆誦讀,のう征伐せいばつよんかつ開闢かいびゃく千里せんり疆土。しょうみかどまえ相對そうたい雄一ゆういちこころもとめじょうひさしまたのうつきまこと於下おしたいん此被しょうためけんしょういた即位そくいこれあらためりつ宗廟そうびょう,以父驤為かん始祖しそびょうとくつよしため大成たいせいびょうまたしもむね强調きょうちょうあずかえつなみ同族どうぞく大凡おおよそえつじょうせいみやこゆうしょあらためどう公卿くぎょうした,悉數任用にんよう自己じこてき幕僚ばくりょう輔佐ほさつよしてき舊臣きゅうしん以及ろくぐん士人しじん全部ぜんぶやめ[13]。而李ことぶき相當そうとうおおせかんたけみかどあかりみかどてき所為しょい同時どうじはじ於聞せつ父兄ふけいこと禁止きんし上書うわがきしゃ妄言ぼうげん前任ぜんにん教化きょうか功績こうせき,而只のうひさげ及李ことぶき在位ざいいてきとう世事せじこう

妻妾さいしょう

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子女しじょ

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延伸えんしん阅读

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[ざい维基すうすえ]

维基文库中的相关文本:すすむしょ·まき121》,出自しゅつじぼうげんよわいすすむしょ

參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:さとし而好がく雅量がりょう豁然かつぜんすくななおれいよう於李諸子しょし其才,以為あし重任じゅうにんはいぜん將軍しょうぐんとくともえ西にし軍事ぐんじ,遷征ひがし將軍しょうぐんどきねんじゅうきゅう,聘處譙秀以為賓客ひんきゃくつき其讜ごとざいともえ西にしたけしめぐみ甚著。
  2. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:驤死,遷大將軍しょうぐんだいとくさむらいちゅうふう扶風こうろく尚書しょうしょごとしるしやすししゅう攻圍こういひゃくにち,悉平もろぐん雄大ゆうだいえつ封建ほうけんやすしおう
  3. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:ゆう,受遺輔政。りつあらためふうかんおうしょくやなしゅうぐんりょうやなしゅう刺史しし
  4. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:ことぶき威名いめいとおふかためえつけい騫等しょはばかことぶき深憂しんゆうだい玝屯涪,まいおうあさ覲,つねひね邊疆へんきょう寇警,不可ふか曠鎮,とくあさことぶきまたえつ兄弟きょうだいじゅう余人よにん年方としかた壯大そうだい,而並ゆう強兵きょうへい,懼不ぜん,乃數聘禮ともえ西にし龔壯。たけし雖不おう聘,すう往見ことぶきとき山崩やまくずれこうみず竭,ことぶきあくまいといたけし以自安之やすゆきじゅつたけし以特ころせ其父及叔,よくかりほうかたきゆう其由,いんせつことぶき曰:「ふし下若しもわかのうしゃしょうしたがえだい,以危えきやすのり開國かいこくきれながため諸侯しょこう名高なだか桓文,くんりゅうひゃくだい矣。」ことぶきしたがえこれかげあずかちょうりゃくひさしともえ西にしかいおもえあかり共謀きょうぼうよりどころ成都せいとしょう歸順きじゅん。乃誓文武ぶんぶとくすうせんにんかさね成都せいと克之かつゆきたてへいとりこかすめいたり乃奸りゃくゆうおんな及李もろしょ殘害ざんがい數日すうじつ乃定。
  5. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:つねあずかおもえあきら及李奕、おうとしとうすすむことぶきたたえ鎮西ちんぜい將軍しょうぐんえきしゅうまぎ成都せいとおうしょう籓于すすむ,而任調ちょうあずか司馬しば蔡興、さむらいちゅう豔及ちょうれつとうすすむことぶき自立じりつ壽命じゅみょう筮之,うらないしゃ曰:「すうねん天子てんし。」調ちょう曰:「いちにちなおためあし,而況すうねん乎!」おもえあきら曰:「すうねん天子てんし,孰與ひゃくせい諸侯しょこう!」ことぶき曰:「あさ聞道きくならくゆう矣。にんこうげんさくうえ也。」とげ以咸康よんねん僭即にせくらい,赦其さかい內,改元かいげんためかんきょう。以董こうため相國しょうこくひさしうま當為とうい股肱ここう奕、にん調ちょう閎為爪牙そうがかいおもえあきらためはかりごとぬし。以安しゃたば帛聘龔壯ためたいたけし固辭こじとく聽縞はばもとたいきょ友之ともの拔擢ばってきかそけとどこおしょあらわれつつい尊父そんぷ驤為けんじみかどはは昝氏ためふとしきさきたてつま閻氏ため皇后こうごう世子せいしぜいため太子たいし
  6. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:ゆうつげこうかん太守たいしゅいぬいあずか大臣だいじん通謀つうぼうよくはいことぶきしゃことぶきれい其子こうあずか大臣だいじんめい于前殿どの,徙乾かんよしみ太守たいしゅ大風おおかぜ暴雨ぼううふるえ其端もんことぶきふかし悔責,いのち群臣ぐんしんごくつき忠言ちゅうげん,勿拘忌諱きき
  7. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:其散つねさむらいおう嘏、ちゅうつねさむらいおうこう聘于せきりゅうさきりゅうのこことぶきしょよくれんよこ入寇にゅうこう約分やくぶん天下でんかことぶきだいえつ,乃大おさむ船艦せんかんいむへいつくろえかぶと,吏卒みな備候かて。以其尚書しょうしょれい當為とういろくぐんとくかりふし鉞,營東じょうだい閱,ぐんななまん余人よにんふね溯江そこう而上。成都せいとつづみ噪盈こうことぶき登城とじょうかん。其群臣ぐんしん鹹曰:「我國わがくにしょう眾寡,かいけわしとおえき。」かいおもえあきらまたきり諫懇いたりことぶき於是いのち群臣ぐんしんひね利害りがい。龔壯諫曰:「陛下へいかあずかえびすどおり,孰如與すすむどおりえびす豺狼さいろうこく也。すすむすんでほろびとく北面ほくめんごとわかあずかこれそう天下でんかのり強弱きょうじゃくぜいこと。此虞、虢之なり范,已然いぜんあかり戒,ねがい陛下へいか熟慮じゅくりょ。」群臣ぐんしん以壯げんためしか叩頭こうとう泣諫,ことぶき乃止,眾鹹しょうまんさい
  8. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:其鎮東大とうだい將軍しょうぐん奕征牂柯,太守たいしゅしゃじょ保城ほうしろ距守しゃせき不拔ふばつかい奕糧つき,引還。ことぶき以其太子たいしぜいりょう大將軍だいしょうぐんろく尚書しょうしょごと
  9. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:ことぶきうけたまわひろし儉,しんくだり篡奪,因循いんじゅんせいたくまし其志ほっかい閎、おう嘏從鄴還,もりしょうりゅうたけしきょうみやかん美麗びれい,鄴中いんことぶきまた聞季りゅうしいたげよう刑法けいほうおうへりくだまた以殺ばつ禦下,なみのうひかえせいくにいきことぶきこころ欣慕,にんゆうしょう,輒殺以立また以郊甸未都邑とゆう空虛くうきょ工匠こうしょう器械きかいことたかしみつる,乃徙つくり郡戶こおずさんちょう已上いじょう以實成都せいときょうひさしかた禦府,はつしゅうぐんこうたくみ以充こうおさむ宮室きゅうしつ引水ひきのみず入城にゅうじょうつとむ奢侈しゃしまた廣太ひろたがくおこりえん殿どの百姓ひゃくしょうつかれ使役しえきよび嗟滿どう思亂おもいみだれしゃじゅうしつ而九矣。其左ぼくしゃ蔡興きり諫,ことぶき以為誹謗ひぼう,誅之。みぎぼくしゃ嶷數以直言ちょくげん懺旨,ことぶきつもる忿非いちたく以他ざい下獄げごくころせこれ
  10. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:ことぶきやましあつ常見つねみ、蔡興ためたたり
  11. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:ことぶきはつやまいおもえあかりとうふくたてまつ王室おうしつことぶきしたがええんじえつ上書うわがきすすむことぶきせい返本へんぽんしゃくみかどしょうおうことぶきいかころせこれ,以威龔壯、おもえあかりとうたけし作詩さくしななへんたくごとおう璩以諷壽。ことぶきほう曰:「しょうわかいまじん所作しょさ賢哲けんてつはなしごと也。古人こじん所作しょさおにつねみみ!」どう慕漢たけあかり所為しょいはじ聞父けい時事じじ上書うわがきしゃとくげんさきせい以己勝之かつゆき也。
  12. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:はちねんことぶきねんよんじゅうよん在位ざいいねんにせおくりな昭文あきふみみかどびょう曰中むねはか曰安あきらりょう
  13. ^ すすむしょ だいじゅういち つよし はん ひさし ぜい》:ことぶきはつためおう好學こうがくあい庶幾しょき善道ぜんどうまいらんはたけんしょうたていさおたてことしゃ嘗不反覆はんぷく誦之,のう征伐せいばつよんかつ,辟國千里せんりすんで垂心すいしん于上,ことぶきまたつきまこと於下おしたごうためけんしょう。及即にせこれあらためりつ宗廟そうびょう,以父驤為かん始祖しそびょうとくため大成たいせいびょうまた下書したがきごとあずかえつべつぞく,凡諸制度せいどみなゆう改易かいえき公卿くぎょう以下いかりつようおのれ僚佐,ゆう舊臣きゅうしんろくぐん士人しじんみなはい黜。


前任ぜんにん
侄成かそけおおやけ
中国ちゅうごくなり皇帝こうてい
338ねん--343ねん
つぎにん
长子汉末ぬし