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刘曜 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

刘曜

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん
刘曜
統治とうち318ねん-329ねん
出生しゅっしょう
逝世329ねん
年號ねんごう
ひかりはつ:318ねんじゅうがつ—328ねん十二月じゅうにがつ
せいぜん

刘曜(?—329ねん[1]えいあきら新興しんこういま山西さんせい忻州匈奴きょうどひとじゅうろくこく汉赵くにくんかんちょうひかりぶんみかどりゅうふかしぞくりゅう曜由かんちょう建國けんこく開始かいし就經やめ為國ためくに征戰せいせん參與さんよ覆滅ふくめつ西にしすすむてき戰爭せんそうなみ於西すすむほろびちゅう長安ながやすいま陝西せんせい西安しーあん)。こう靳準これみだれちゅうとう上帝じょうてい遷都せんと長安ながやすただしとうひさりゅう曜將國號こくごうあらためかんためちょうふみたたえぜんちょう,而其將領しょうりょういし自立じりつそくためこうちょう國家こっか分裂ぶんれつりゅう曜在其在位ざいい期間きかんばん出兵しゅっぺい平定へいてい招降西戎せいじゅうかず西方せいほうてき割據かっきょ勢力せいりょくかたきぜんりょうひとし在國ざいこく內亦ひさげ漢學かんがく設立せつりつ學校がっこう[2]。及後あずかこうちょう交戰こうせん,一度大敗後趙軍並圍攻洛陽らくよういま河南かなん洛陽らくよう),ただしおわりいし勒擊はいなみ俘。りゅう曜及ころせざい其死ひさぜんちょうまたちょうしょめつ

生平おいだいら

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らくあつし

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りゅう曜年ようちち,於是ゆかりりゅうふかし撫養むやとしようさととしゆう非凡ひぼん。八歲時隨劉淵到西山狩獵,其間いんてん而在いち棵樹避雨,突然とつぜん一下雷電令該樹震動,つくりてきじん嚇得跌倒,ただしりゅう曜卻神色しんしょく自若じじゃくいん而得いたりゅうふかし欣賞。りゅう曜喜歡看しょただしこころざしざいこう涉獵しょうりょう而非精讀せいどく文句もんくゆう其喜あい兵書へいしょだい致都熟讀じゅくどくりゅう曜亦擅长うつしさく書法しょほう,習草書そうしょ隸書れいしょ。另一方面劉曜亦雄健威武,术娴じゅくのう一箭射穿寸余厚的铁板,ごうしょうしんしゃりゅう曜亦时常乐毅しょうなに曹參とう时人們都みとめどうただ刘聪知道ともみち才能さいのう

二十歲はたちいた洛陽らくよう遊歷ゆうれきただし期間きかん就被じょうざい而要誅殺ちゅうさつ,於是逃亡とうぼういた朝鮮ちょうせん後來こうらいぐういた朝廷ちょうてい大赦たいしゃざい敢回らいりゅう曜亦さとしとく自己じこ外表そとおもて於常じん,怕不世人せじんしょせっおさめ,於是ざいかん涔山隱居いんきょ

為國ためくに征戰せいせん

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すすむ永興りょうご元年がんねん(304ねん),りゅうふかし自稱じしょうかんおう國號こくごうかんあらためもともと任命にんめいりゅう曜為けん武將ぶしょうぐんりゅう曜當ねん就被進攻しんこう并州ぐんけん開拓かいたく疆土。かんえいおおとり元年がんねんすすむえいよしみねん,308ねん),りゅうふかししょうみかどはいりゅう曜為りゅう驤大將軍しょうぐんこうふうためはじめ安王やすおうかんかわみず元年がんねんすすむえいよしみさんねん,309ねん),りゅう曜與りゅうさとしとう進攻しんこう洛陽らくようただしすすむぐんじょうきょげきはいかわみずねん(310ねん),りゅうふかし患病,いのちりゅう曜為征討せいとうだいとくりょうたん于左輔。ひさりゅうふかし逝世,太子たいしりゅうかずつぎりゅうかずまたりゅうさとししょころせりゅうさとし及後とうためみかど

りゅうさとしとうひさ就命りゅう曜與かわ內王りゅうつばらとう進攻しんこう洛陽らくようなみげきはいすすむしょう裴邈ざいりょうひねなんじみなみ潁川これあいだだい肆搶かすめつぎねんりゅうさとしいのちよびのべりょうへいおさむ洛陽らくようりゅう曜奉いのちりょうへいあずか會合かいごうなみろくがつみずのえたつ(7がつ8にち)抵達西明さいみょうもん五日いつかりゅう曜等便びんおさむ入洛にゅうらくだい肆搶かすめ殺害さつがい大臣だいじんなみ擄晉ふところみかどとうじんはた們送いたたいらよう今山いまやま西にし臨汾)。しょうえい嘉之よしゆきらん」。當時とうじおうわたるみとめため洛陽らくようじょういけかず宮室みやむろかんこう建議けんぎりゅう曜向りゅうさとし建議けんぎ遷都せんと洛陽らくようただしりゅう曜認ため天下でんか未定みてい而洛よんめん受敵,なみ不可ふかもり,於是焚毀洛陽らくよう宮殿きゅうでん

えい嘉之よしゆきらん鎮守ちんじゅ長安ながやすてき南陽なんようおう司馬しばいのちきばもんちょうしみりょうへいざいかばばん今山いまやま西にししょうえいわたる守備しゅびただしちょうしみいん請求せいきゅう馮翊太守たいしゅ一職被拒絕而投降漢國,りゅうさとし於是ざい八月命趙染攻取長安,またいのちりゅう曜和りゅうつばらりょうへい跟隨。司馬しばへいはい投降とうこうなみきゅうがつりゅうつばらしょころせりゅう曜則任命にんめいためくるま大將軍だいしょうぐん雍州まきなみあらためふうちゅう山王さんのう鎮守ちんじゅ長安ながやす

りゅう取得しゅとくちょうやす司馬しばてき從事じゅうじちゅうろうさくとうもたれ安定あんてい太守たいしゅ賈疋なみあずか賈疋とうじんはかりごと復興ふっこうすすむしつ,於是推舉賈疋ためひら西にし將軍しょうぐんりつ萬兵まんひょうおさむむかい長安ながやす當時とうじこばめ漢國かんごくてきすすむ雍州刺史しし麴特とうひとまたりょうへいあずか賈疋會合かいごうりゅう曜於りょうへいざいおかあずか賈疋大戰たいせんただしげきはいやなしゅう刺史しし彭蕩なかかずちゅうもり新豐しんゆたかこん陝西せんせい西安しーあん臨潼てきりゅうつばら先後せんご賈疋とうじんしょげきはい,彭蕩なか而劉つばらきたひら,賈疋とうじん於是ごえいきおいだい關西かんさいえびすじん和漢わかんじん都響ときょうおうりゅう曜只とくよりどころもり長安ながやす嘉平かへいねんすすむえいよしみろくねん,312ねん),りゅう曜因賈疋かこえこま長安ながやすけいやめすうがつ,且連續れんぞく戰敗せんぱい,於是かすめ長安ながやす八萬多名平民棄守長安,逃奔ひらりゅう曜及よし長安ながやすしつもり而被貶為りゅう驤大將軍しょうぐんぎょうだい司馬しば

同年どうねんすすむ并州刺史ししりゅう部下ぶかれいきつねどろ叛歸漢國かんごくりゅうさとし於是命令めいれいきつねどろさく嚮導きょうどう,以劉つばらかずりゅう曜領へい進攻しんこう并州しょすすむ今山いまやま西にしふと原市はらいち)。二人最終乘虛攻陷晉陽,奪取だっしゅりゅう琨的根據地こんきょちよし功績こうせきりゅう曜復にんしゃ大將軍だいしょうぐんただし兩個りゃんこがつりゅう琨即あずかつぶせばつ猗盧れんしゅ反攻はんこうすすむりゅう曜在汾河以東いとうあずかつぶせばつろくおさむ交戰こうせんただしへいはい墜馬なみ受重きずいん討虜將軍しょうぐんでんとらきょうじょざいとく以逃かいすすむりゅう曜及かすめすすむ城中じょうちゅう人民じんみん逃歸にげかえひらただし遭拓ばつ猗盧追及ついきゅうざいあいだに交戰こうせんただし慘敗ざんぱいただし成功せいこうかいいたひら

嘉平かへいさんねんすすむけんきょう元年がんねん,313ねん),りゅう曜與つかさ隸校じょうたかし智明ともあきとう進攻しんこう長安ながやすただし遭麴まことげきはいつぎねんまたあずかちょうしみいん進攻しんこう長安ながやすただしいん凱被麴允げきころせりゅう曜於てんおさむかわ太守たいしゅかくだまただし不能ふのうおさむやぶこうさらかむ鮮卑騎兵きへいしょ嚇退。たてはじめ元年がんねんすすむけんきょうさんねん,315ねん),りゅういち轉戰てんせん并州,雖曾かちただしひさまたさいかいいたがまざか準備じゅんびさいつぎ進攻しんこう長安ながやす。及後りゅう曜即進攻しんこう北地きたじ先攻せんこう馮翊而再おさむ上郡かみごおりまえ抵抗ていこうてき麴允敢進げき

ちゅう鎮長やす

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たてはじめねん(316ねん),りゅう曜圍こまなみおさむおちい北地きたじなみ逼近長安ながやす九月くがつりゅう曜雖司馬しばたもつ將領しょうりょうえびすところはいただしえびす崧並ぼつゆうしんいち攻擊こうげきはん而退もりえんじゅさと,而其援軍えんぐんまたいん懼怕漢國かんごくぐん而不敢進逼,りゅう曜於成功せいこうおさむおちい長安ながやす外城とじょう,逼得麴允さく綝只こうよりどころもりじょう內小じょうおわり於在じゅういちがついんためじょう內被かこえこま三個月而食糧嚴重困乏,すすむ愍帝逼向りゅう投降とうこうりゅう曜受降なみ於隨遷晉愍帝眾官いんいたひら西にしすすむ正式せいしき滅亡めつぼうりゅう曜因此功而獲任命にんめい以假鉞、だいとくとく陝西せんせいしょ軍事ぐんじ太宰だざいなみあらためふうためはたおう再度さいど鎮守ちんじゅ長安ながやす

麒嘉さんねんすすむふとしきょう元年がんねん,318ねん),りゅうさとし患病,しるし召劉曜為丞相じょうしょうろく尚書しょうしょごとあずかいし勒一同受遺詔輔政。ただしりゅう曜和せき勒都ゆずるりゅうさとし於是任命にんめいりゅう曜為丞相じょうしょうりょう雍州まき同年どうねんりゅうさとし太子たいしりゅうつばらとう。八月升劉曜為相國、とく中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじ,仍舊鎮守ちんじゅ長安ながやすただし當月とうげつ大將軍だいしょうぐん靳準就叛へん殺害さつがいりゅうつばら和大かずひろころせりゅうなみ自稱じしょうかん天王てんのうむかいあずますすむしょうはんりゅう曜知どう靳準さくみだれ,於是しんへいひら

たいららんしょうみかど

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じゅうがつりゅう曜進佔あかかべ今山いまやま西にし河津かわづけん西北せいほく赤石川あかいしかわ),ふとしよびのべとうひとしたがえひらぜんらいなみきょうはやぜんいん靳準誅殺ちゅうさつ王公おうこう而逃いたり長安ながやすてきふとしでんしゅおさむひとしきょう推劉曜為みかどりゅう曜稱みかどせいきた將軍しょうぐんりゅうみやびかず鎮北將軍しょうぐんりゅうさくすすむたむろ汾陰今山いまやま西にしまんさかえ),あずかいしゆう掎角いきおい共同きょうどう討伐とうばつ靳準。

靳準さきまえやめはい於石勒[3]りゅう曜和せき勒現ざい共同きょうどう討伐とうばつ自己じこ,於是ざいじゅういちがつさむらいちゅううらないやすしこういし勒請ただしいし勒將うらないたいしゅうきんおく交劉曜。りゅう曜於こううらないたいせつ:「先帝せんていりゅうつばら在位ざいい確實かくじつらんりょうりんつねつかさそら靳準你執行しっこういん霍光廢立はいりつこれけんれいわがとく以登實在じつざい很大てきこうくんわか早早そうそう迎接げいせつわがいれひらわが就要はた朝政ちょうせい大事だいじ全部ぜんぶ委託いたくきゅう你了,なにとめめん?你就ため我人われひと入城にゅうじょうでんばなし吧。」於是はたうらないやすしおくがえひら。靳準聽到うらないたいてきつてばなしいんため當日とうじつだつけんころせりょうりゅう母親ははおやえびすかずりゅう曜兄ちょう,於是猶豫ゆうよけつ十二月じゅうにがつ靳康れんゆいたかしやすしおうあがとうひところせ靳準,きょう尚書しょうしょれい靳明ためぬしまたいのちうらないたいたい六顆傳國璽向劉曜投降。此舉れいせきじゅうふん憤怒ふんぬりょうへい進攻しんこう靳明,靳明大敗たいはい而只退ずさにゅうひら,嬰城固守こしゅずいいし勒與いしとら一同いちどう進攻しんこうひら,靳明於是こうりゅう曜求すくえりゅう曜於りゅう雅和まさかずりゅうさく迎接げいせつ,靳明於是たいちょ一萬五千名平陽人民逃出平陽。りゅう曜及卻大ころせ靳氏,一如靳準殺劉氏一樣。ざい其欲纳靳やすしじょ为妾时,靳女说及家族かぞく灭,号泣ごうきゅう请死,刘曜于哀れいざい过了靳康てきいち个儿

漢國かんごく分裂ぶんれつ

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いし勒在靳明逃離またおさむにゅうひらとめへい戍守ひがしなみひかりはつ元年がんねんすすむふとしきょうねん,319ねん年初ねんしょいのちひだりちょうおうおさむけんじ捷報しょうほうきゅうりゅう曜。りゅう曜於つかさかく授予ちょうおうかず太宰だざいりょう大將軍だいしょうぐんてき職位しょくいなみ如同曹操そうそう輔東かんてき特殊とくしゅれいまちただしとめつかまつりゅう曜的おうおさむ舍人とねり曹平たのし卻向りゅう曜稱おうおさむ此行其實ようらいさがせ聽劉曜虛實きょじつ,以讓せき勒趁襲擊しゅうげきりゅう曜。りゅう曜眼其軍たいつかれ憊不こらえ,於是聽信曹平らくげんついかえかく汜並しょおうおさむいし勒及したがえ逃亡とうぼうかいらいてきおうおさむ副手ふくしゅりゅうしげる口中くちじゅう得知とくちおうおさむころせいん此大いか開始かいしあずかりゅう曜交あく

りゅう曜回いた長安ながやすそく遷都せんと長安ながやすなみ設立せつりつ宗廟そうびょう社稷しゃしょくだんさい天地てんちてきみなみ北郊ほっこうまたあらため國號こくごうためちょう」,しょうぜんちょう」。同年どうねんせき自稱じしょうちょうおう正式せいしき建立こんりゅうちょう」。漢國かんごく就此いちふんため

安定あんてい西戎せいじゅう

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及後,黃石こうせきほふかくひとみちまつおおざい新平にっぺいぐん扶風ぐんおこりへい南陽なんようおう司馬しばたもつ司馬しばたもつまたゆずる雍州刺史しし楊曼及扶ふう太守たいしゅおうれんよりどころもりちんくらこん陝西せんせいたから雞市ひがし),みちまつよりどころもり草壁くさかべりゅう曜派りゅうみやびとうじん進攻しんこうただし不能ふのうおさむひかりはつねん(320ねん),りゅう曜親りつぐん進攻しんこうひねくらげきころせおうれんなみ逼楊曼投奔氐族せっちょせっれんおさむ草壁くさかべかず安定あんていれい司馬しばたもつ恐懼きょうく而遷もりくわじょういまあま临洮县东)。ひさ司馬しばたもつ部下ぶかちょうはるところころせやめこうりゅう投降とうこうてき司馬しばたもつ部將ぶしょうちんやすしのり請求せいきゅう進攻しんこうちょうはるとうりゅう曜於任命にんめいひねやすため大將軍だいしょうぐん進攻しんこうちょうはるひねやす最終さいしゅうれいちょうはる逃至ならこん甘肅かんせい臨夏),なみころせちょうはるどうとう楊次消滅しょうめつ司馬しばたもつ殘餘ざんよ勢力せいりょく

ひさぜんちょう將領しょうりょうかいとらちょうみずこうじょういんしゃあずかともえ氐酋ちょうじょくらとうれんゆい意圖いと謀反ぼうほんただしことはいりゅう曜於誅殺ちゅうさつかいとらいんしゃなみしゅう禁句きんくじょかず彭等じゅうじん打算ださん誅殺ちゅうさつひかり祿ろく大夫たいふゆうとお極力きょくりょくすすむ阻,ただしりゅう曜都聽,ゆうとおいちちょく叩頭こうとういたり流血りゅうけつさら惹怒りゅう曜而はたしゅうきんりゅう曜後つきころせじょひとしじんさらざい長安ながやす內將曝屍じゅうにちしかこう丟進河中かわなか。此舉おわりれいともえ氐悉すうはん叛,自稱じしょう大秦たいしんなみとく其他少數しょうすう民族みんぞくどもさんじゅうまんにんひびきおう,於是せきちゅう大亂たいらん城門じょうもん日夜にちや緊閉。ざい獄中ごくちゅうてきゆうとお再度さいど上書うわがきすすむ諫劉曜,りゅう曜看だいいかいのちじんようたてこく殺害さつがいゆうとおこうとくりゅうみやびとうじんすすむとめりゅう曜,ゆうどおざいとく赦免しゃめんりゅう曜下れい內外戒嚴かいげん打算ださんおや討伐とうばつ叛亂はんらん首領しゅりょうみぞただし此時ゆうとおこうりゅう進言しんげん獻策けんさくみとめため出兵しゅっぺい強行きょうこう鎮壓ちんあつかい耗費ふと時間じかん資源しげん建議けんぎりゅう大赦たいしゃ叛民,ゆずる們重かい正常せいじょう生活せいかつゆずる自動じどうくだまた請給へい五千人讓他討伐可能不肯歸降的句渠知。りゅう聽從ちょうじゅうずいちょ大赦たいしゃれい下達かたつゆう遠所えんじょいたみやこゆうだい批人くだゆうとおまたかげみつ平定へいてい投降とうこうてき宗族そうぞくとう眾。及後ゆうとお更進こうしんへい隴右げきはいごうしんおうてききょじょけんみぞなみれいくだよし於虛じょけんみぞ一部是西戎中力量最強的,此其西戎せいじゅう部族ぶぞくしょうつぎくだぜんちょう

平定へいてい隴右

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ひかりはつねん(322ねん),りゅう曜親せいかたきかたき首領しゅりょう楊難てきりつへい迎擊げいげきただしげきはい逼退かたき池城いけのじょう。此時かたき轄下てき氐羌部落ぶらくだいおおむこうぜんちょう投降とうこう。及後りゅう曜轉おさむ楊韜,楊韜いんかしこ懼而あずか隴西太守たいしゅりょうとうひと投降とうこうりゅう曜於さいおさむかたきただし此時りゅう曜患びょう,而且ぐん中有ちゅうう疫症,逼退へいりゅう曜因怕楊なんてきじょう追擊ついげき,於是光國みつくにちゅうろうしょうおうゆうせつ楊難てき最終さいしゅうれい楊難てき投降とうこうりゅう曜於臣服しんぷくかたきなみりょうへい撤回てっかい長安ながやす

此時,しんしゅう刺史ししひねやす請求せいきゅう朝見ちょうけんりゅう曜,ただしりゅう曜以患病ためよし推辭,ちんやすし於是だいいか,以為りゅう曜已,於是決心けっしんはん叛。りゅう曜此びょうじょう卻愈らいいよいよ嚴重げんじゅうあらため乘馬じょうば輿こしさきかい長安ながやす,而命よびのべまことざい守護しゅご輜重しちょうただしひねやす卻領騎兵きへい邀截,俘獲よびのべまことなみ奪取だっしゅ輜重しちょうさらはたよびのべまこと殺害さつがいちんやすしまた其弟ひねしゅうとうりょう騎兵きへいさん萬追劉曜車駕,りゅう曜則よびのべげきころせひねしゅうなみつき俘部眾。ひね安見やすみ此感いた恐懼きょうく退すさかえうえいまあま天水てんすい),ただしずいまた佔領汧城なみいた隴上少數しょうすう民族みんぞくてきかえり,於是自稱じしょうりょうおうつぎねんひねやすかこえおさむぜんちょうただし西にし將軍しょうぐんりゅうみつぐただしぜんちょうてききゅうほふおういしたけしあずかりゅうみつぐてきれんぐんげきはいただとく收拾しゅうしゅうへい眾退隴城いまはたやすしけん東北とうほく)。ひさりゅう曜親りつぐんかこえこま隴城,なみべつぐん進攻しんこうひねやす根據地こんきょちじょう邽和たいらじょうひねやす於是出城でしろためしりょうじょう邽和たいらじょうてき軍隊ぐんたいかいかこえ當知とうち道上どうじょう邽被かこえ而平じょうおさむやぶのちあらためためみなみ逃陝ちゅう最終さいしゅうぜんちょう將領しょうりょうよび延清のぶきよ追及ついきゅうなみ殺害さつがいうえ邽和隴城先後せんご投降とうこう原本げんぽんひねやすてき隴上部落ぶらくくだぜんちょう

平定へいていひねやすりゅう曜於當年とうねんそく進攻しんこうぜんりょうおやりつへい西河にしかわなみいのちじゅうはち萬兵まんひょう眾沿黃河こうがたて營,のべ綿めんひゃくさとぐんちゅう鐘鼓しょうここえ震動しんどう河水こうすいかず大地だいち,嚇得ぜんりょう沿河てき軍旅ぐんりょもちふう奔退。りゅう曜又ごえげんゆずる軍隊ぐんたいぶん百道一同渡河進攻前涼都城しゅうとれいぜんりょう震動しんどうぜんりょう君主くんしゅちょうしげる於是こうぜんちょうしょうはんりゅう曜亦達成たっせい目的もくてきりょうへい退すさかえ

ちょうそうせん

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ひかりはつななねん(324ねん),こうちょうつかさしゅう刺史しし石生いしゅうざいしんやすげきぜんちょう河南かなん太守たいしゅいんたいらなみかすめせんひがし此前ちょうかずちょうざい河東かわとうひろのうこれあいだ就常ゆうせんごとひかりはつはちねん(325ねん),こうちょう將領しょうりょういし[4]おさむぜんちょうきた羌王ぼんじょだいかすめ而歸。りゅう曜因而大いかちゅう山王さんのうりゅうたけし追擊ついげき自己じこさらうつりたむろ富平とみひら作為さくい聲援せいえんおわり大敗たいはいちょうぐんなみ斬殺ざんさつせき佗。ひさちょう西にしえびすちゅうろうしょうおうあが以并しゅう投降とうこうぜんちょう

五月ごがつすすむつかさしゅう刺史ししのりとういんつぎちょう石生いしゅうところおさむとうもたれぜんちょうりゅう曜於りゅうたけしよびのべりょうへいあずかのりとうじん共同きょうどう進攻しんこうせきせいただしりゅうたけしかこえこま石生いしゅうきむ墉城とき救援きゅうえん石生いしゅう的石まといしとらげきはい退すさいしはりさらはんいしとらしょかこえよびのべ謨亦いしとらしょころせりゅう曜於おやりつへい救援きゅうえんりゅうたけしただし及後卻因ぐんちゅうよるおどろき而被逼退かい長安ながやすりゅうたけしいん無援むえん而且物資ぶっし缺乏けつぼうおわりいしとらしょ俘並おく往後ちょう都城みやこのじょうじょうこくいま河北かわきた邢台)。おうあがまた為石ためしとらげきはいなみ殺害さつがいかくだまかずのりまた逼南かえりあずますすむのりちょうちぇせんのり向後きょうこうちょう投降とうこう。此戰れいちょうつきつかさしゅう

ひかりはつじゅういちねん(328ねん),いしとらりょうよんまんにん進攻しんこう河東かわとうじゅうけんはん叛響おう,於是進攻しんこうかばばんよし楊難てきさき於光はつはちねん(325ねん反攻はんこうぜんちょう於光はつろくねん(323ねんしょ佔領てきかたき[5]また成功せいこう抵抗ていこうぜんちょう於光はつじゅうねん(327ねんてき攻擊こうげき[6]另一方面前涼於光初十年知道前趙光初八年被後趙擊敗後,そく恢復かいふく其晉あさてき官爵かんしゃくなみ侵略しんりゃくぜんちょうりゅう曜於河間こうまおうりゅうじゅつりょう氐族羌族へい守備しゅびしんしゅう以防かたきいけかずぜんりょうしたがえ偷襲,自己じこそくおやりつ全國ぜんこく精銳せいえい救援きゅうえんがまばんいしとら恐懼きょうく退すさぐんりゅう曜追げきなみざいこうこう大敗たいはいせきとら斬殺ざんさつせき曕。こうりゅう曜又進攻しんこう石生いしゅうしょちゅうてききん鏞城,以千金せんきんこれすい灌城,また派兵はへいおさむ汲郡かわ內,れいちょう滎陽太守たいしゅいんのりおう太守たいしゅちょうすすむとう投降とうこう。這次大敗たいはい震動しんどうちょう人心じんしん。而劉曜此不安ふあんなで眾,ただあずか寵臣ちょうしん飲酒いんしゅはくおどけ

さん個月かげついし勒親りつ大軍たいぐん救援きゅうえん石生いしゅうなみいのちせきこらえとうじんざい滎陽あずかいし勒會りゅう曜在とく悉石勒已わたり黃河こうがざい建議けんぎ增加ぞうか滎陽もり戍和封鎖ふうさせき以阻ちょうぐんひさらくすい斥候せっこうあずかいし勒前ほこさき交戰こうせんりゅう曜從俘獲てき羯人口中くちじゅう得知とくちせき勒來おさむてき軍隊ぐんたいきょうもりざいかん懼怕,於是かいきん鏞之かこえざいらくすい以西いせい佈陣。いし勒則りょうへい進入しんにゅう洛陽らくようじょう

後前うしろまえちょうぜんほこさきざい西陽にしびもんあずかのちちょうぐん大戰たいせんりゅう曜親だしせんただしだしせん就已飲酒いんしゅすう戰後せんごさい飲酒いんしゅいちこうちょうすすむいしこらえ其酒よい大敗たいはいちょうぐんりゅう曜在昏醉中退ちゅうたいはし期間きかん墮馬重傷じゅうしょういしこらえ俘獲。

俘遇がい

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りゅう曜被俘後おく往襄こく途中とちゅういし勒派ひさしりゅう曜。いたじょうこくいし勒让じゅうざい永豐ながとよ小城おぎきゅうさむらいひめさら命令めいれいりゅうたけしとうじんさがせもちりゅう曜。いし後來こうらいいのちりゅう曜寫しんじすすむ留守るす長安ながやすてき太子たいしりゅう儘快投降とうこうただしりゅう曜卻ざいしんちゅう命令めいれいりゅう熙和大臣だいじん們匡正和しょうわ維護國家こっか要因よういんため自己じこ放棄ほうきいし勒看かんいたいやあく後來こうらいりゅう曜還いし勒所ころせ

はかそう

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刘曜ざい霸陵西南せいなんたて寿ひさしりょうさむらいちゅう乔豫、かずつとじょう疏进谏,刘曜对规谏还听得进去。ただし刘曜こく灭,てき实际はかそう详。

性格せいかく特徵とくちょう

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  • りゅう曜高きゅうしゃくさんすん(2.2めーとる以上いじょう),たれしゅひざもくゆうあかこうまゆしょくはつしろ鬚髯しゅぜん雖長卻相とうまれ疏。
  • りゅう曜自しょう就酗しゅ,及至後來こうらい就更嚴重げんじゅうざい其在洛陽らくようへいはい俘一戰中臨陣昏醉,いい戰敗せんぱいてき其中いち原因げんいん
  • りゅう曜亦こうころせ,如靳じゅんみだれちゅう報復ほうふくせいつき誅靳誅殺ちゅうさつじょひとしじんとうたい大臣だいじんまたとき殺戮さつりくてんころせりょうゆうとおまた以毒しゅ殺害さつがい進言しんげんすすむ諫的大臣だいじん郝述ささえとう

評價ひょうか

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  • りゅうふかし:「此吾千里せんりこま也,從兄じゅうけいためほろび矣。」
  • りゅうさとし:「えいあきらこれりゅうなにすうおおやけあし道哉みちや!」
  • すすむ書評しょひょう:「曜則天資てんし虓勇,うん時艱じかん用兵ようへいそくおうこれりんこうころせまたただしおおやけこれ。而承もと醜類しゅうるいある有可ゆかしょう。」
  • 张茂:“曜可かた吕布关羽,而云はじめとく及,岂不过哉。”(《じゅうろくこく春秋しゅんじゅう》)

家庭かてい

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父母ちちはは

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后妃こうひ

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子女しじょ

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  1. 太子たいし りゅうけんじぶん皇后こうごうひつじけんじよう所生しょせいりゅう曜被俘後りょうみちびけぜんちょうただしいしとらしょころせ
  2. 臨海りんかいおう りゅうりゅう長子ちょうしもと皇后こうごうぼく所生しょせい
  3. 南陽なんようおう りゅうたねりゅう曜次もと皇后こうごうぼく所生しょせい
  4. 長樂ながらおう りゅうかさねけんじぶん皇后こうごうひつじけんじよう所生しょせい
  5. ふとげんおう りゅうけんじぶん皇后こうごうひつじけんじよう所生しょせい
  6. 淮南ワイナンおう りゅうおき
  7. ひとしおう りゅうたかし
  8. 魯王 りゅうだか
  9. すわえおう りゅう

おんな

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  1. 安定あんてい公主こうしゅあずかきさき赵君ぬしいしとらなましたいし

註釋ちゅうしゃく

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  1. ^ 按《すすむしょ·なりみかど》,りゅう曜於咸和さんねん十二月じゅうにがつ廿にじゅういち乙未おとみいし勒所俘,此時雖仍ためこうはつじゅういちねんただし西曆せいれきやめため329ねん2がつ6にち其卒ねん當為とうい329ねん
  2. ^ りゅう曜於長樂ながらみやひがししつらえふとしがく未央みおみや西にししつらえ小學しょうがくせんじゅう三至二十五歲適合受教育者共一千五百人入讀,なみゆかりちょうちゅう儒臣教學きょうがくまたしつらえ國子くにこさいしゅたかしぶんさいしゅ
  3. ^ いし勒先よりどころじょうりょう今山いまやま西にしじょう汾縣北原きたはら,靳準派兵はへいすう挑戰ちょうせんいんせき靳堅かべこばめもり失敗しっぱいじゅうがつさい主動しゅどう進攻しんこうひられいひら附近ふきんてきともえひとども十多萬個落都向石勒投降。
  4. ^ どおりかんさくせき佗,《すすむしょさくせき
  5. ^ よりどころどおりかん》,323ねん,楊敵知道ともみちちんやすしおさむ滅後めつごだい懼,とうかんちゅうりゅう曜於派兵はへい追擊ついげき楊難てきなみいのち崧出鎮仇いたり325ねん,楊難てきおさむかつかたき崧。
  6. ^ どおりかん咸和ねんじょうゆうちょうたけまもる將軍しょうぐんりゅうあきらそちさん萬襲楊難敵於仇池,どるかつかすめさんせん而歸。」

延伸えんしん阅读

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[ざい维基すうすえ]

维基文库中的相关文本:すすむしょ·まき103》,出自しゅつじぼうげんよわいすすむしょ

參考さんこう資料しりょう

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前任ぜんにん
靳準
しょう汉天おう
中国ちゅうごく汉赵皇帝こうてい
318ねん—329ねん
つぎにん
刘熙
僅為太子たいし