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源義仲みなもとのよしなか

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源義仲みなもとのよしなか
日本にっぽん武士ぶし
源義仲
木曾きそ義仲よしなかぞう
とくおんてらにちとくおんてらぞう
せい東大とうだい將軍しょうぐんにちせい東大とうだい将軍しょうぐん[1]
國家こっか日本にっぽん
時代じだい平安へいあん時代じだい末期まっき
位階いかいしたがえした
氏族しぞく清和せいわはじめためよしながれ(かわ內源)
幼名ようみょうこま王丸おうまる
別名べつめい木曾きそ義仲よしなか
戒名かいみょうとくおんいんよしさんせんこう
其他名號みょうごう木曾きそ次郎じろう木曾きそ冠者かんじゃ朝日あさひ将軍しょうぐんあさひ将軍しょうぐん
出生しゅっしょう久寿きゅうじゅ元年がんねん(1154ねん
逝世寿ことぶきひさし3ねん1がつ20日はつか(1184ねん3がつ4にち
日本にっぽん近江おうみこく粟津あわづ
はかそう滋賀しがけん大津おおつ馬場ばばてき朝日山あさひやま義仲寺よしなかでらにち義仲寺よしなかでら
京都きょうと東山ひがしやま法觀寺ほうかんじくびづか
長野ながのけん木曾きそぐんとくおんてら
にちうつしほう
にち原文げんぶんみなもと 義仲よしなか
木曾きそ 義仲よしなか
假名かめいみなもと の よしなか
きそ よしなか
平文へいぶんしき罗马Minamoto no Yoshinaka
Kiso Yoshinaka

源義仲みなもとのよしなか(1154ねん—1184ねん3がつ4にち),日本にっぽん平安へいあん時代じだい末期まっき著名ちょめいてき武將ぶしょうまた木曾きそ義仲よしなかいんざい信濃しなのこくてき木曾きそたににち木曽きそたにいま長野ながのけん木曾きそぐん木曾きそまち長大ちょうだいしょうさく木曾きそ義仲よしなか出身しゅっしん名門めいもんかわ內源源義賢みなもとのよしまさにち源義賢みなもとのよしまさてき次子じし幼名ようみょうこま王丸おうまる」。どう時期じき著名ちょめいてき武將ぶしょうみなもと賴朝よりとも源義經みなもとのよしつねため其堂兄弟きょうだい

1180ねん以仁王もちひとおうざい源賴政みなもとのよりまさてきすすむせつざい京都きょうとおこりへい討伐とうばつ平家へいけなみこう全日本ぜんにほんてきみなもと討伐とうばつ平家ひらかてき令旨れいしただしひさ以仁王もちひとおうへいはいころせ。其子北陸ほくりくみやにち北陸ほくりくみや逃往北陸ほくりくどう木曾きそ義仲よしなか擁立ようりつためぬしおこりへい反對はんたい平家へいけざい1183ねん俱利伽羅きゃらとうげたたかえなか木曾きそ義仲よしなか大敗たいはい平家へいけちょく京都きょうとふるえ四方しほうさこ使つかい平家へいけ拋棄京都きょうと逃亡とうぼう西國さいごく

木曾きそ義仲よしなか進入しんにゅう京都きょうとこう白河しらかわ法皇ほうおうふうためしたがえひだり馬頭めず越後えちごもり人稱にんしょうあさひ將軍しょうぐんある朝日あさひ將軍しょうぐん)」。ためし恢復かいふくざい1181ねん養和ようわかつえあらにち養和ようわ飢饉ききんこう荒廢こうはいてき京都きょうとてき繁榮はんえいただし失敗しっぱいりょう同時どうじよし於軍たい缺乏けつぼう食糧しょくりょう發生はっせいりょう搶劫みんたくてき暴動ぼうどう使つかい其民こころだいため下降かこう。此外またいん皇位こうい繼承けいしょう問題もんだいあずか法皇ほうおう發生はっせい衝突しょうとつ最終さいしゅうざいほうじゅうてら合戰かっせんちゅうしゅうきん白河しらかわ法皇ほうおう後鳥羽ごとば天皇てんのう罷免ひめん反對はんたい自己じこてき公卿くぎょうなみふうせい東大とうだい將軍しょうぐんにちせい東大とうだい将軍しょうぐん[1]

つぎねん盤踞ばんきょ鐮倉てきみなもと賴朝よりとも得知とくち義仲よしなかしゅうきん法皇ほうおう天皇てんのうてき消息しょうそく源範賴みなもとののりより源義經みなもとのよしつね討伐とうばつ義仲よしなか義仲よしなかざい宇治川うじがわ戰敗せんぱいこうきた逃亡とうぼう同年どうねんざい近江おうみこく粟津あわづいま滋賀しがけん大津おおつあずか源範賴みなもとののりよりてき部下ぶか交戰こうせんじんほろび

木曾きそ義仲よしなかざい源平げんぺい合戰かっせんちゅう大敗たいはいとうけんてきたいら一門いちもんふるえ四方しほう人稱にんしょうあさひ將軍しょうぐんある朝日あさひ將軍しょうぐん)」,一度いちどゆう君臨くんりん天下でんかいきおいただしゆかり於年けいもり以特ことてき成長せいちょう背景はいけいしょ形成けいせいてき驕傲きょうごう粗暴そぼう性格せいかくこれ眾叛おやはなれ迅速じんそく敗亡はいぼう木曾きそ義仲よしなかたん暫的30ねん生涯しょうがい充滿じゅうまんりょう傳奇でんきせい,崛起あずか滅亡めつぼうてき過程かていなお如一じょう壯麗そうれいてき悲劇ひげき日本にっぽん傳統でんとうてき悲劇ひげき英雄えいゆういち

生平おいだいら[编辑]

早期そうき生平おいだいら[编辑]

源義仲みなもとのよしなか出生しゅっしょうざいかわ內源家族かぞく擔任たんにん東宮とうぐう帯刀たいとう舎人とねりにち帯刀たいとう舎人とねりいちしょくてき源義賢みなもとのよしまさにち源義賢みなもとのよしまさてき次子じし幼名ようみょうこま王丸おうまるためいちめいさけべ小枝さえ御前ごぜんにち小枝さえ御前ごぜんてき遊女ゆうじょ所生しょせい義仲よしなか早期そうきてき生平おいだいら史料しりょう記載きさい匱乏,相傳そうでん出生しゅっしょうざい武藏むさしこくてき大藏おおくらかんいま埼玉さいたまけん嵐山あらしやままち),也有やゆう可能かのう出生しゅっしょうざい源義賢みなもとのよしまさ居住きょじゅうてき上野うえのこく多胡たごぐんにち多胡たごぐんいま群馬ぐんまけん多野たのぐん)。

根據こんきょ平家ひらか物語ものがたり》、《源平げんぺい盛衰せいすいにち源平げんぺい盛衰せいすい記載きさい,其父源義賢みなもとのよしまさどう伯父おじ源義朝みなもとのよしとも對立たいりつ結果けっか源義朝みなもとのよしとも長男ちょうなんみなもと義平よしひらざい大藏おおくらかんげきころせ源義賢みなもとのよしまさみなもと義平よしひらためし殺害さつがい當時とうじねん僅2さいてきこま王丸おうまるただし畠山はたけやま重能しげよしにち畠山はたけやま重能しげよし齋藤さいとうみのるもりにち斎藤さいとうみのるもり設計せっけい救出きゅうしゅつ,逃往信濃しなのこく。而根據こんきょ吾妻あづまきょう記載きさいこま王丸おうまる信濃しなのこく住人じゅうにん中原なかはらけんとおみとめため養子ようし居住きょじゅうざい信濃しなのこく木曾きそだにいま長野ながのけん木曾きそぐん木曾きそまち),元服げんぷくこう通稱つうしょう木曾きそ次郎じろう義仲よしなか中原なかはらけんとおてき三個親生兒子英勇非常,ざい木曾きそ義仲よしなかおこりへいなりため木曾きそ麾下きかてき心腹しんぷく悍將,義仲よしなか四天王してんのうなかてきさん

此外,義仲よしなかざいとしかるとき曾在諏訪すわ大社たいしゃ下社しもしゃてき宮司ぐうじ金刺かなざしもりきよしにち金刺かなざしもりきよししょ修行しゅぎょう後來こうらい金刺かなざし一族いちぞくてき手塚てづかひかりもりにち手塚てづかひかりもりとう中原なかはら一族いちぞくにち中原なかはら (木曽きそ)みな義仲よしなかてき心腹しんぷく

義仲よしなかてき異母いぼけいみなもと仲家なかいえにちみなもと仲家なかいえのりゆかり京都きょうとてき源賴政みなもとのよりまさおさむため養子ようし

舉兵[编辑]

うけたまわ4ねん(1180ねん),以仁王もちひとおうこう全國ぜんこく發出はっしゅつ打倒だとう平家ひらかてき令旨れいし義仲よしなかてき叔父おじみなもとこうよび全國ぜんこく各地かくちてきみなもとぞくじん舉兵討伐とうばつ平家へいけ義仲よしなかてきあにちょうげん仲家なかいえ參加さんかりょう以仁王もちひとおう舉兵ざい宇治川うじがわどう源賴政みなもとのよりまさ一起かずきじんほろび同年どうねん9がつ7にち義仲よしなか聲援せいえん北信濃きたしなのてき源氏げんじぞくじん市原いちはら合戰かっせんにち市原いちはら合戦かっせん),こう父親ちちおや源義賢みなもとのよしまさてき舊領きゅうりょう上野うえのこく多胡たごぐんにち多胡たごぐん進發しんぱつ。2個月かげつかいいた信濃しなの,以佐久さくぐんにち佐久さくぐん依田よだしろため根據地こんきょち舉兵。義仲よしなかしたがえ上野うえのこくかいいた信濃しなのてき原因げんいん避免どうみなもと賴朝よりともふじせい足利あしかがにち足利あしかが (藤原ふじわら)發生はっせい衝突しょうとつ

翌年よくねん(1181ねん)6がつ義仲よしなかざい小縣ちいさがたぐん白鳥しらとり河原かわはら聚集りょう木曾きそ眾、佐久さく眾(平賀ひらがにち平賀ひらが#信濃しなの平賀ひらが)、うえしゅう眾等さんせんおさむいれ越後えちござい千曲川ちくまがわ横田よこた河原かわはらこれせんにち横田よこた河原かわはらたたかちゅう擊破げきはじょうすけしょくにちしろちょうしげる,此後義仲よしなか進軍しんぐん北陸ほくりくどうことぶきひさし元年がんねん(1182ねん擁立ようりつ逃到北陸ほくりくどうてき以仁王もちひとおう遺子いし北陸ほくりくみやにち北陸ほくりくみやためぬし明確めいかく表示ひょうじ繼承けいしょう以仁王もちひとおうてき遺志いし立場たちばてき勢力せいりょく滲透しんとういたりょう北陸ほくりくどうてき各地かくちただし避免あずかどうみなもと賴朝よりとも結盟けつめいてき南信濃みなみしなの甲斐かいはじめにち甲斐かいはじめ豪族ごうぞく武田たけだ信光のぶみつ發生はっせい衝突しょうとつ

ことぶきひさし2ねん(1183ねん)2がつみなもと賴朝よりともげきはいりょう敵對てきたいてき志田しだ義廣よしひろにちみなもと義広よしひろ (志田しだ三郎さぶろう先生せんせい),而後,志田しだ義廣よしひろとう奔侄義仲よしなか;而於1181ねん義仲よしなかまた庇護ひごあずかみなもと賴朝よりとも關係かんけい和睦わぼくてきみなもとこう,此舉使義仲よしなかあずかみなもと賴朝よりともあいだてき關係かんけいさら惡化あっか。而根據こんきょ平家ひらか物語ものがたり》、《源平げんぺい盛衰せいすいてき說法せっぽう武田たけだ信光のぶみつ曾想はた女兒じょじよめきゅう義仲よしなかてき嫡子ちゃくしみなもと義高よしたかにちみなもと義高よしたか (清水しみず冠者かんじゃ)ただし後來こうらいいんため信濃しなのこく支配しはいけんてき問題もんだいあずか義仲よしなか發生はっせい衝突しょうとつ武田たけだ信光のぶみつこう源賴朝みなもとのよりともすすむ讒,こえたたえ義仲よしなか聯合れんごう平家へいけよくめつみなもと賴朝よりともためりょう避免どう武田たけだ賴朝よりとも衝突しょうとつ義仲よしなかあずか武田たけだ賴朝よりとも達成たっせい和議わぎなみはた嫡子ちゃくし武田たけだ義高よしたかおく鐮倉作為さくい人質ひとじち

5月11にち木曾きそ義仲よしなかざいえつ中國ちゅうごく礪波山となみやまてき俱利伽羅きゃらとうげたたかえ大破たいはよし平維盛たいらのこれもりりつりょうてきすうまん平家へいけ大軍たいぐん。此後ざい篠原しのはらこれせんにち篠原しのはらたたかさいはい平家へいけ,沿途糾集武士ぶし,以破ちくいきおいちょく京都きょうと。6がつ10日とおか進入しんにゅう越前えちぜん,13にち進入しんにゅう近江おうみこく,6がつまつどう京都きょうと最後さいごてき關門かんもん延曆寺えんりゃくじ進行しんこう交涉こうしょう。其諜ぶん內容含有がんゆうおびえ恫嚇ゆかり右筆ゆうひつにち右筆ゆうひつ大夫たいふさとしあきらにちさとしあきら執筆しっぴつ。7月22にち義仲よしなかざいひがしとうてき惣持そうじいん建立こんりゅう城郭じょうかくみなもとこうそくしたがえ伊賀いが方面ほうめん進攻しんこうあずか安田やすだよしじょうにち安田やすだよしじょう多田ただこうつなにち多田ただこうつなとう其他源氏げんじ武將ぶしょう一同いちどうさこきん京都きょうと。25にち平家ひらか決定けってい放棄ほうき京都きょうとはさみ安德天皇あんとくてんのうまもりさだ親王しんのう逃往西國さいごく平家ひらかためしこうこう白河しらかわ法皇ほうおう一起かずき逃,ただし法皇ほうおうごとさき察覺りょう此事,秘密ひみつぜん比叡山ひえいざん避難ひなん近江おうみはじめにち近江おうみはじめてき山本やまもと義經よしつねにち山本やまもと義経よしつね派遣はけん錦部にしきべ冠者かんじゃ義高よしたか保護ほご安全あんぜん

入京にゅうきょう[编辑]

7がつ27にち白河しらかわ法皇ほうおうあずか義仲よしなか同心どうしん反對はんたい平家へいけかえしかい京都きょうと。《平家ひらか物語ものがたり感歎かんたんどう,「じゅうねん未見みけんてきみなもと白旗しらはた今日きょうだいいち進入しんにゅうりょう京都きょうと。」翌日よくじつ義仲よしなか入京にゅうきょうあずかみなもとこう一起かずきざい蓮華れんげおういんまいり法皇ほうおう接受せつじゅりょう討伐とうばつ平家へいけてき命令めいれい2人ふたりなみかたぶん前後ぜんこうさん法皇ほうおう爭奪そうだつさん謁的序列じょれつ[2]30にち召開公卿くぎょう議定ぎてい會議かいぎ認定にんていこうくんだいいちてきためみなもと賴朝よりともだい木曾きそ義仲よしなかだいさんげんぎょうなみ此授位階いかい。(《たま》7がつ30にちじょう)。同時どうじ義仲よしなかゆだね收拾しゅうしゅう平家へいけ離京りきょうじょう治安ちあん混亂こんらん狀態じょうたいてき重任じゅうにん義仲よしなかしょう入京にゅうきょうてき同盟どうめいぐん武將ぶしょう分配ぶんぱいいた周邊しゅうへん地區ちく自己じこそくせめ中心ちゅうしん地區ちくきゅうじゅう左京さきょうてき守護しゅご工作こうさく。(《きち》7がつ30にちじょう

8がつ10日とおか除目じもくにち除目じもく儀式ぎしき舉行,義仲よしなか授予したがえひだり馬頭めずりょう越後えちごまもりてき官位かんいげんぎょう授予したがえ備後びんごまもりてき官位かんい(《百錬ひゃくれんしょう同日どうじつじょう、《たま》8がつ11にちじょう)。16にち義仲よしなか遷任もりみなもとこう遷任備前びぜんもり。《平家ひらか物語ものがたり記載きさい義仲よしなかざい此期あいだいたりょう朝日あさひ將軍しょうぐんてき稱號しょうごう義仲よしなかげんぎょう互相討厭,義仲よしなかねがいよう越後えちごあらため授伊ぎょうねがいよう備後びんごあらため授備まえ

介入かいにゅう皇位こうい繼承けいしょう問題もんだい[编辑]

こう白河しらかわ法皇ほうおう要求ようきゅう逃亡とうぼう西國さいこくてき平家へいけおく天皇てんのうさん神器じんぎかえきょうただし交涉こうしょうはて而終(《たま》8がつ12にちじょう)。よし法皇ほうおう決定けっていしたがえとめざい京都きょうとてき高倉たかくら上皇じょうこうてき皇子おうじおもんみあきら親王しんのうみことなり親王しんのうちゅう選出せんしゅついち人為じんいしんてき天皇てんのうただし義仲よしなか自恃じじ驅逐くちく平家へいけ有功ゆうこうちからこもよし北陸ほくりくみや即位そくい。而比叡山ひえいざんてきしゅんにちしゅん僧正そうじょうみとめため以仁王もちひとおう天皇てんのうけいてき正統せいとう血統けっとう要求ようきゅう朝廷ちょうていりつ北陸ほくりくみやため天皇てんのうしか九條くじょうけん支持しじゆずる高倉たかくら上皇じょうこうてき皇子おうじ即位そくい法皇ほうおうまたたい武士ぶし介入かいにゅう皇位こうい繼承けいしょう問題もんだい而感いた不快ふかい。8月20にちみことなり親王しんのうたてためみかどため後鳥羽ごとば天皇てんのうみことなり親王しんのう所以ゆえん超越ちょうえつけいちょうおもんみあきら親王しんのうよし法皇ほうおうてきちょう丹後局たんごのつぼね支持しじてき緣故えんこ。(《たま》8がつ18にちじょう

推舉北陸ほくりくみや事件じけん使つかい重視じゅうし傳統でんとう格式かくしきてき法皇ほうおう公卿くぎょう發現はつげん木曾きそ義仲よしなかこれ粗野そやてき人物じんぶつたい宮中きゅうちゅうてき政治せいじ文化ぶんか歷史れきし知識ちしきてき一竅不通以及沒有教養。與平よへい一門和童年在京都長大的みなもと賴朝よりともそう義仲よしなかざい山村さんそんうら長大ちょうだいたい上層じょうそう社會しゃかい根本こんぽん就沒ゆう接觸せっしょくてき機會きかい

恢復かいふく治安ちあんてき失敗しっぱい[编辑]

義仲よしなか恢復かいふく京都きょうとてき企圖きと失敗しっぱい連年れんねんてきひだるあら使糧食りょうしょくてき事情じじょう極度きょくど惡化あっか(養和ようわかつえあらにち養和ようわ飢饉ききん)。同時どうじ義仲よしなか一同進京的武士在京都附近地區胡作非為,隨意ずいいしょうころせ搶劫おい百姓ひゃくしょう強行きょうこうわれ百姓ひゃくしょうてきいねこく,甚至れん神社じんじゃぞくてき莊園そうえん後來こうらい公卿くぎょう也成ためりょう受害しゃ(《たま》9がつ3にちじょう)。事實じじつ義仲よしなか一同進京的武士並不是義仲的部下,而是よしげんぎょう安田やすだよしじょう近江おうみはじめ美濃みのはじめにち美濃みのはじめ攝津せっつ源氏げんじにち摂津せっつ源氏げんじ組成そせいてきざつぱいぐん義仲よしなかぼつほう管理かんり們。

平家ひらか物語ものがたり記載きさい法皇ほうおう下達かたつりょう禁止きんし掠奪りゃくだつてき命令めいれいただし義仲よしなか卻稱ぐんちゅう不能ふのうぼつゆう糧食りょうしょくあずか法皇ほうおう發生はっせい衝突しょうとつ。《平家ひらか物語ものがたりしょう義仲よしなかざい此時どう法皇ほうおう決裂けつれつしるべ致了ほうじゅうてら合戰かっせんてき發生はっせい

而後,しのぶにんてき白河しらかわ法皇ほうおうせめ駡了義仲よしなかこえしょう天下てんかせいまたたいら放逸ほういつまいこと不便ふべん也。」(《たま》9がつ21にちじょう)。[3]知立ちりゅうじょう惡化あっかてき義仲よしなか奏請そうせいりつぐん追討ついとうたいら法皇ほうおうおや授予りょう出陣しゅつじんてき寶劍ほうけん義仲よしなかためし以戰こうらい恢復かいふく自己じこしつてき信用しんようなみ確保かくほ兵糧ひょうろうてき充足じゅうそく義仲よしなかしょう心腹しんぷく樋口ひぐち兼光かねみつとめざい京都きょうと自己じこそくりつぐん播磨はりまこく

向後きょうこう白河しらかわ法皇ほうおう抗議こうぎ[编辑]

ざい義仲よしなか征討せいとう平家ひらかてき同時どうじみなもと賴朝よりともてきさるしょ送達そうたつりょう朝廷ちょうてい。其內よう歸還きかん平家へいけ強行きょうこう霸佔てき神社じんじゃふつ寺領じりょうてき本社ほんしゃ」、「歸還きかん平家へいけ強行きょうこう霸佔てきいんみや諸家しょかりょうてきほんぬし」、「投降とうこうしゃほどこせ以斬ざい」。[4]朝廷ちょうてい大喜だいぎ,「這一さるじょうあずか義仲よしなかとうじん完全かんぜん不同ふどう。」(《たま》10がつ2にちじょう[5]10月9にち法皇ほうおう恢復かいふくりょうみなもと賴朝よりとも原本げんぽんてき官位かんい,14にちまた下達かたつりょう所謂いわゆるてきことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじにち寿ことぶきひさしねんじゅうがつ宣旨せんじはた東海道とうかいどう東山ひがしやまみち諸國しょこくてき實際じっさいひかえせいけん暫時ざんじ授予みなもと賴朝よりとも。(《百錬ひゃくれんしょう》)

得知とくち此事てき義仲よしなか仍舊ざい西國さいごく苦戰くせんうるう10がつ1にち義仲よしなかざい水島みずしまこれせんちゅうため平家へいけしょ慘敗ざんぱい有力ゆうりょく武將ぶしょう矢田やた義清よしきよにちみなもと義清よしきよ (矢田やた判官ほうがんだい)じんほろびせいざい戰線せんせんしょ於膠ちょ狀態じょうたいみなもと賴朝よりともおとうとおとうとため大將軍だいしょうぐんりつすうまん大軍たいぐん上洛じょうらくてき情報じょうほうでんいれ義仲よしなかてきみみちゅう(《たまうるう10がつ17にちじょう)。おどろきおそれてき仲立なかだちこく停止ていしりょうたい平家へいけてき進攻しんこう,15にちりつ少數しょうすう軍隊ぐんたいかえしかい京都きょうと20日はつか義仲よしなかたい於召みなもと賴朝よりとも上洛じょうらく一事いちじこう法皇ほうおう提出ていしゅつ強烈きょうれつてき抗議こうぎ(《たま同日どうじつじょう)。義仲よしなか要求ようきゅう下達かたつ討伐とうばつ賴朝よりともてき御教書みぎょうしょにち御教書みぎょうしょ(《たまうるう10がつ21にちじょう),なみ且起よう志田しだ義廣よしひろ為平ためひら追討ついとう使

義仲よしなかてきてきじんさい平家へいけ,而變成へんせいりょうみなもと賴朝よりとも。19にち義仲よしなか會合かいごう源氏げんじ一族いちぞくけい奉戴ほうたい法皇ほうおう出征しゅっせい關東かんとう(《たまうるう10がつ20日はつかじょう),26日向ひなた興福寺こうふくじそう眾下たちりょう討伐とうばつ賴朝よりともてき命令めいれい(《たま同日どうじつじょう)。しか而前しゃいんげんぎょうみなもと光長みつながにちみなもと光長みつながてき強烈きょうれつ反對はんたい失敗しっぱい後者こうしゃそう眾也ぼつゆうかいおん義仲よしなか指揮しきしたてき武士ぶしやめけいしょ瓦解がかい狀態じょうたい義仲よしなかげんぎょうてき不和ふわやめけい公開こうかい顯現けんげん出來できりょう。(《たまうるう10がつ27にちじょう

決裂けつれつ[编辑]

11月4にち源義經みなもとのよしつねぐん到達とうたつぬの和之かずゆきせき不破ふわせき),義仲よしなかていりょうどう鐮倉ぐんけついち雌雄しゆうてき決心けっしん一方いっぽうめんとくいたみなもと賴朝よりともぐん逼近京都きょうとてき消息しょうそくこう白河しらかわ法皇ほうおうためしはた義仲よしなか放逐ほうちく京都きょうと義仲よしなかしめせりょうゆずる義經よしつねりつ少數しょうすう入京にゅうきょうてき妥協だきょう方案ほうあん(《たま》11月16にちじょう),法皇ほうおうそくいた延曆寺えんりゃくじ園城寺おんじょうじてき幫助,召集しょうしゅう僧兵そうへいながれ氓等,ざいほうじゅうてら殿どの建造けんぞうしがらみらんとう防禦ぼうぎょ工事こうじ同時どうじ法皇ほうおうはた攝津せっつ源氏げんじ美濃みのはじめとうひしげ攏到自己じこ陣營じんえいちゅうすうもくとおとおざい義仲よしなか兵力へいりょくうえ

こう白河しらかわいん方面ほうめんてき主力しゅりょく部隊ぶたいみなもとこう當時とうじやめはなれひらき京都きょうと征討せいとう平家ひらか。(《たま》11月8にちじょう),法皇ほうおうみとめため自己じこようゆう壓倒あっとうせいてき優勢ゆうせいむかい義仲よしなか下達かたつりょう最後さいご通牒つうちょう法皇ほうおうせんたたえ義仲よしなか往西こく征討せいとう平家へいけただし中途ちゅうとかえしかい京都きょうと同時どうじ背叛はいはんりょう院宣いんぜんにち院宣いんぜんどうみなもと賴朝よりとも作戰さくせんわたしとめざい京都きょうと認定にんてい謀反ぼうほん行為こういきゅう義仲よしなか辯解べんかいてき餘地よち。(《たま》11月17にちじょう、《きち》《百錬ひゃくれんしょう》11月18にちじょう)。

あずか此相對地たいち義仲よしなかくつがえしょ表示ひょうじ完全かんぜんぼつゆう違背いはい君命くんめいてき意思いし公卿くぎょう九條くじょうけん也對義仲よしなか表示ひょうじ支持しじ(《たま》11月18にちじょう)。しか法皇ほうおう理會りかい義仲よしなかてきかいくつがえ,18日召にっしょう後鳥羽ごとば天皇てんのうまもりさとし法親王ほうしんのうにちまもりさとし法親王ほうしんのうまどかめぐみ法親王ほうしんのう天台座主てんだいざしゅあかりくも進入しんにゅう御所ごしょてんげん以武りょく對抗たいこう義仲よしなかてき決心けっしん

ほうじゅうてら合戰かっせん[编辑]

11月19にち義仲よしなかせめかい法皇ほうおう攻擊こうげきほうじゅうてら殿どのこう白河しらかわいん方面ほうめんてきみなもと光長みつなが源光げんこうけいにち源光げんこうけい父子ふし奮戰ふんせん抵抗ていこうざい義仲よしなかてき決死けっし猛攻もうこう面前めんぜん大敗たいはい義仲よしなかてき部下ぶか逮捕たいほりょうしたがえ御所ごしょちゅう出來できてき法皇ほうおう歡呼かんこごえちょく衝上くも霄(《たま》11月22にちじょう)。義仲よしなかこう白河しらかわ法皇ほうおうかそけきんざいりょう五條東洞院的攝政邸內。ざい此次せん鬥中,あかりくもまどかめぐみ法親王ほうしんのう戰死せんし九條くじょうけん實感じっかん嘆道:「如此高貴こうきてきそうじん遭到如此てきこうなん聞所ききどころ未聞みもん。」(《たま》11月22にちじょう[6]義仲よしなかおさむいた天台座主てんだいざしゅあかりくもてき首級しゅきゅうこれ,十分輕蔑地將它投棄到了河裡。(《かんしょう》)20日はつか義仲よしなかみなもと光長みつなが以下いか百余人的首級懸掛在五條河原示眾。(《百錬ひゃくれんしょう同日どうじつじょう、《きち》21にちじょう

21にち義仲よしなかまつ殿どのもとぼうはら關白かんぱく結盟けつめい任命にんめいもとぼうてきまつ殿どの師家しかため大臣だいじんけん攝政せっしょう建立こんりゅう傀儡かいらい政權せいけん。《平家ひらか物語ものがたりしょう義仲よしなかきょうめともとぼうてき女兒じょじにち藤原ふじわらためつまただし事實じじつじょうもとぼうためりょう恢復かいふく自己じこてき勢力せいりょく主動しゅどうはた女兒じょじよめきゅうりょう義仲よしなか[7]

11月28にち義仲よしなか決定けっていはたぜん攝政せっしょう近衛このえはじめどおりいえりょうてき八十餘所給予了新攝政松殿師家,并將中納言ちゅうなごん藤原ふじわら朝方あさがたにち藤原ふじわら朝方あさがた以下いかてき43にん解除かいじょりょう官職かんしょく(《きち》《百錬ひゃくれんしょう同日どうじつじょう、《たま》29にちじょう)。12月1にち義仲よしなか擔任たんにんいん御厩みまや別當べっとう兼任けんにんひだり馬頭めず全權ぜんけん掌握しょうあく軍事ぐんじ大權たいけん(《きち同日どうじつじょう)。[8]10日とおか下達かたつ討伐とうばつみなもと賴朝よりともてき院宣いんぜん形式けいしき上成うえなしためりょう官軍かんぐん(《百錬ひゃくれんしょう》《きち同日どうじつじょう)。

臨終りんじゅう[编辑]

ことぶきひさし3ねん(1184ねん)1がつ6にち,鐮倉ぐんこし墨俣すのまたにち墨俣すのまたまち進入しんにゅう美濃みのてき消息しょうそくでんいれ義仲よしなかみみちゅう義仲よしなかだいためおどろきこわ。15にちふうためせい東大とうだい將軍しょうぐんにちせい東大とうだい将軍しょうぐん[1]ざい與平よへい達成たっせい和議わぎこれ義仲よしなかためしはさみ法皇ほうおういたり北陸ほくりくただし源範賴みなもとののりより源義經みなもとのよしつねりつ鐮倉ぐんさこきん京都きょうと義仲よしなかとく固守こしゅ京都きょうと防備ぼうびよし於幽きん法皇ほうおうとういち系列けいれつ暴行ぼうこう,很少じん支持しじ義仲よしなかいん此在宇治川うじがわ瀨田せたこれせんちゅう慘敗ざんぱい義仲よしなか自己じこそく於20にちざい近江おうみこくてき粟津あわづいま滋賀しがけん大津おおつじんほろび享年きょうねん31さい

義仲よしなか戰死せんし嫡子ちゃくしみなもと義高よしたかざいだいひめにちだいひめ (みなもと頼朝よりともむすめ)みなもと賴朝よりともてき女兒じょじてき幫助逃離鐮倉,ただしざいはん路上ろじょうみなもと賴朝よりともころせ

此外,戰國せんごく時代じだいてき木曾きそにち木曾きそ自稱じしょう木曾きそ義仲よしなかてき子孫しそん

文化ぶんかかげ[编辑]

电子ゆう

註釋ちゅうしゃく[编辑]

  1. ^ 1.0 1.1 1.2 よりどころ吾妻あづまきょうとう史料しりょう記載きさい義仲よしなか擔任たんにんてき官職かんしょくため征夷大將軍せいいたいしょうぐん」,《たまのり記載きさいためせい東大とうだい將軍しょうぐんにちせい東大とうだい将軍しょうぐん」。《さんえんじゅ荒涼こうりょう拔書ぬきがきようしょ收錄しゅうろくてきやまえんじゅにちやまえんじゅざいたてひさ3ねん(1192ねん)7がつ9にちじょうせきみなもと賴朝よりとも受封征夷大將軍せいいたいしょうぐん一職的詳細經過中發現相關記載。賴朝よりとも要求ようきゅう朝廷ちょうていさつふう自己じこため大將軍だいしょうぐん朝廷ちょうてい考察こうさつりょう歷史れきし發現はつげん義仲よしなかしょにんてきせい東大とうだい將軍しょうぐんとう職務しょくむ歷史れきしじょうゆうきょうれい,而坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろところつとむてき征夷大將軍せいいたいしょうぐん吉例きちれいいん決定けっていさつふう賴朝よりともため征夷大將軍せいいたいしょうぐん所以ゆえん以此推斷すいだん義仲よしなかしょにんてき官職かんしょくおう該是せい東大とうだい將軍しょうぐん而不征夷大將軍せいいたいしょうぐん。(櫻井さくらい陽子ようこ,「頼朝よりとも征夷大将軍せいいたいしょうぐん任官にんかんをめぐって」 《明月めいげつ研究けんきゅう》9ごう、2004ねん
  2. ^ たま》7がつ28にちじょう:「参入さんにゅうあいだ、かのりょう人相にんそうならび、敢へて前後ぜんごせず。そうけん意趣いしゅこれをもっるべし。
  3. ^ 天下てんかしずかならず。またたいら放逸ほういつまいこと不便ふべんなり。
  4. ^ 平家ひらか横領おうりょう神社じんじゃ仏寺ぶつじりょう本社ほんしゃへの返還へんかん」「平家ひらか横領おうりょういんみや諸家しょかりょうほんぬしへの返還へんかん」「降伏ごうぶくしゃ斬罪ざんざいにしない」
  5. ^ 一々いちいちさるじょう義仲よしなかとうひとししからず
  6. ^ いま貴種きしゅ高僧こうそうのかくのごとなんに遭ふをかず
  7. ^ 義仲よしなかきょうめとてき說法せっぽう,僅見於《平家ひらか物語ものがたり》,於《たまかずかんしょう》,とうけい平家ひらか物語ものがたりてき推斷すいだん
  8. ^ ただし於12がつ10日とおか辭去じきょひだり馬頭めずこれしょく(《きち同日どうじつじょう)。

參考さんこう文獻ぶんけん[编辑]

  • 木曾きそ義仲よしなかのすべて》,鈴木すずきあきら樋口ひぐちしゅうおとこ松井まつい吉昭よしあき編著へんちょ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2008ねん12月。

外部がいぶ連結れんけつ[编辑]