西行さいぎょう

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西行さいぎょう
西行
西行さいぎょう法師ほうし菊池きくち容齋ようさい江戶えど時代じだい
國家こっか日本にっぽん
時代じだい平安へいあん時代じだい末期まっき - 鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
姓名せいめい佐藤さとう 义清(あるけんきよし則清のりきよはんきよし
假名かめいさとう のりきよ
うま拼音Satō Norikiyo
ごう西行さいぎょう
信仰しんこう佛教ぶっきょう
氏族しぞく藤原ふじわら
けい藤原ふじわらきた藤原ふじわらしげる一系いっけい
法號ほうごう圆位
出生しゅっしょう元永もとなが元年がんねん(1118ねん
逝世文治ぶんじ6ねん2がつ16にち(1190ねん3がつ23にち1190-03-23
西行さいぎょう
百人一首ひゃくにんいっしゅ歌人かじん
敕撰265しゅ
はつつぎ收錄しゅうろく千載せんざい和歌集わかしゅう
家集かしゅうにち家集かしゅう山家やまがしゅう
にちうつしほう
にち原文げんぶん西行さいぎょう
假名かめいさいぎょう
平文へいぶんしき罗马Saigyō

西行さいぎょうにち语:さいぎょう英語えいごSaigyō),元永もとなが元年がんねん(1118ねん) - 文治ぶんじ6ねん2がつ16にち(1190ねん3がつ23にち),平安へいあん時代じだい末期まっきいたり鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきてき日本にっぽん武士ぶし僧侶そうりょ歌人かじん世人せじん谓之以“西行さいぎょうほう”。俗名ぞくみょう佐藤さとう義清よしきよ(さとう のりきよ)[1][2],其氏ため佐藤さとうあるさかのぼじょうたたえ藤原ふじわら[2];其名也表记为けんきよし[2]則清のりきよはんきよし[3]:西行さいぎょう生涯しょうがい01西行さいぎょう为其ごうまたたたえ大本おおもとぼう大寶たいほうぼう大法たいほうぼう法號ほうごう为圓西行さいぎょうぜん出家しゅっけざい各地かくち漂泊ひょうはくゆい草庵そうあん巡遊じゅんゆう諸國しょこくとめ許多きょた和歌わか。传世いたりいましゃ约2300しゅ[4]敕撰しゅう(以じゅういちだいしゅう计)なかおさむ录的和歌わか就有265しゅ,此中,其作品さくひんくびおさむ录至《詞花集しかしゅうとうちゅう(1しゅ),另外还有18しゅおさむ录至《千載せんざいしゅう》、94しゅおさむ录至《しん古今ここんしゅう》(おさむ录数さいしゃちゅう家集かしゅうゆう山家やまがしゅう》(ろく家集かしゅうこれいち)、自撰じせん山家やまや心中しんちゅうのしゅうとう。另有說話せつわしゅう撰集せんしゅうしょう》、《西行さいぎょう物語ものがたりはたゆう关其个人逸話いつわ傳說でんせつ集中しゅうちゅうおさむ录。

生平おいだいら[编辑]

在俗ざいぞく期間きかん[编辑]

西行さいぎょう誕生たんじょう元永もとなが元年がんねん(1118ねん[5]少年しょうねん時期じきてき西行さいぎょう學習がくしゅうりょう和歌わかうつしさく,也在14さい藤原ふじわらしげるどおりしょ學習がくしゅうりょう蹴鞠けまり[6]。及長いたり15-16さい一如いちにょ其祖じょうきさきぶん家系かけいいちしょう),西行さいぎょうつかまつ于德大寺おおてら左大臣さだいじん藤原ふじわら實能さねよし府下ふか[7]ため左大臣さだいじん隨從ずいじゅう武士ぶし,其與皇室こうしつゆうりょう接觸せっしょく機會きかい[5]。19さい(1136ねんにん兵衛ひょうえじょうなりため鳥羽とばいんこれ北面ほくめん武士ぶし[2][8]當年とうねんあきざい鳥羽とっぱ離宮りきゅうさくえいきく和歌わかいちしゅ[9]學界がっかいみとめため西行さいぎょう集中しゅうちゅう做成最早もはやしゃしょう見和みわいちしょう在任ざいにん北面ほくめん武士ぶし间,ざいたけまなぶ方面ほうめん,其善騎射きしゃつう武略ぶりゃくざい文学ぶんがく方面ほうめん,其写さくりょうもと于武生活せいかつてき和歌わかのべ4ねん(1138ねん),西行さいぎょうぜん法輪寺ほうりんじはいかいそらじん法師ほうし,其間作成さくせい些許連歌れんがしたがえちゅう以體かい其已けい對空たいくうじん法師ほうし及出生活せいかつおおせ[10][11]

決意けつい出家しゅっけ[编辑]

のべ6ねん(1140ねんはる,其同親近しんきんひとどうゆう東山とうざんしたがえ當時とうじしょ作歌さっかちゅうのう夠體かいさら强烈きょうれつてき出家しゅっけねがい[2]:12[10]ひゃくねりしょう記述きじゅつ當年とうねん10がつ15にち一說いっせつ11がつ),其落髮らくはつ出家しゅっけ法名ほうみょうえんごう西行さいぎょうある大寳おおたからぼう[3][10]ざいくだりしょう出家しゅっけときこう鳥羽とっぱいんぎょうゆう[10]:116にゅうふゆ西行さいぎょう深居ふかい京都きょうと以北いほくてき鞍馬あんば山中さんちゅう[10]:138いたり於其出家しゅっけ根本こんぽん原因げんいん歷史れきしじょうぼつゆうかくきり定論ていろん[12]學界がっかい目前もくぜんゆう避免政治せいじ鬬爭而出てき政治せいじ原因げんいんせつあずか追求ついきゅう一名貴婦人失敗而出家的“失戀しつれん原因げんいんせつ[5],《西行さいぎょう物語ものがたりちゅうのり敘爲佐藤さとう憲康のりやす突然とつぜんはなれ,其感嘆かんたん人生じんせい無常むじょう而出てき無常むじょう感慨かんがいせつ[2]

京洛きょうらくざいとどこお[编辑]

永治えいじ元年がんねん(1141ねんはじめ西行さいぎょう開始かいしざい京都きょうと周圍しゅういてき東山ひがしやま嵯峨さが小倉こくらさん一帶いったい活動かつどうざい一些寺院或地點營建了供居住的草庵そうあんざい此期あいだ作成さくせいりょう一些有關草庵生活的和歌。同時どうじ鳥羽とばいんあずか崇德院すとくいん關係かんけい不和ふわ朝内あさうち逐漸出現しゅつげんけいためてき元之もとゆきらんうめりょう禍根かこん。而與おおかたゆうれんがかりてき西行さいぎょうため勸進かんじん供養くよう也經つね出入でいり當時とうじ名流めいりゅうたくてい[5]久安ひさやす元年がんねん(1145ねん),まちけんもんいん璋子あきこ薨,西行さいぎょう曾侍たてまつてき德大寺とくだいじ勢力せいりょく瓦解がかい西行さいぎょう情感じょうかんじょうげん悲愴ひそう[10]:134-135

はつたび陸奧みちのく[编辑]

西行さいぎょうざい30さい左右さゆうはなれひらき京都きょうと,踏上りょうぜん陸奧みちのくてき旅程りょてい[5],且在陸奧みちのくしょめい勝景しょうけい絕美ぜつびしょとめゆう和歌わか[10]いたり具體ぐたいなんまえ旅行りょこうぼつゆう直接ちょくせつ文獻ぶんけん證明しょうめい諸多しょた學者がくしゃゆう不同ふどうてき推定すいてい川田かわたじゅんよし康治こうじ2ねん(1143ねん西行さいぎょう曾作ゆう分別ふんべつ應答おうとう及天やしなえ元年がんねん(1144ねん西行さいぎょうざい京都きょうとりゅうらんりょう詞花集しかしゅうてきしょ稿こうこと推定すいてい旅行りょこう時間じかんざい此之あいだ[5]尾山おやま篤次郎とくじろうみとめため大約たいやくざい其不しょうさんじゅうさいてきじゅうななはちさい左右さゆう窪田くぼたあきら一郎等人則認爲是在三十歲左右[5][10]:184-185。兹取30さい左右さゆう一説涵蓋以上觀點。

高野たかの避世[编辑]

崇德院すとくいん畫像がぞう

西行さいぎょう完成かんせいりょう初次はつじ陸奧みちのく旅程りょていきさきいたりょう高野山こうのやま修築しゅうちく草庵そうあん,其在此爲中心ちゅうしん生活せいかつりょうやくさんじゅうねん,一直至治承4ねん(1180ねん左右さゆううつりきょ伊勢いせ[10]仁平にだいら元年がんねん(1151ねん),《詞花集しかしゅう編纂へんさん完成かんせい,其中收錄しゅうろく西行さいぎょう和歌わかいちしゅ於卷だいじゅうただしよし其身份卑賤且并非活躍かつやくざい中央ちゅうおう歌壇かだん歌人かじん以署“だい不知ふち作者さくしゃ不知ふち[13][14]

元之もとゆきらん[编辑]

ざい此期あいだ京都きょうとてき政治せいじ風波ふうはたちいたりょう高潮こうちょうさきもと元年がんねん(1156ねん),鳥羽とばいんびょうじゅう西行さいぎょうかいきょうなながつにち鳥羽とばいんざい鳥羽とっぱ離宮りきゅうくずれ西行さいぎょうかん因緣いんねん匪淺”さくゆう和歌わかなみ以長じょなみ參列さんれつ鳥羽とっぱいんてき殯隊[13]鳥羽とっぱいんくずし10にち元之もとゆきらん爆發ばくはつ最終さいしゅう崇德院すとくいんほう敗北はいぼく,其幽きん仁和寺にわじ期間きかん西行さいぎょう星夜せいやはせらい探訪たんぼう也有やゆう作歌さっか[10]:198-199爾後じごばんずいちょ舊主きゅうしゅ德大寺とくだいじ故人こじん逐漸逝去せいきょ西行さいぎょうあずか當時とうじ都内とない政治せいじややぎょうややとお同時どうじ其在事件じけん結束けっそくすすむせつすうめいきょうちゅう人士じんし出家しゅっけためそう[10]:198事後じごまた對流たいりゅうたたえまと崇德院すとくいん表示ひょうじ關心かんしんあるおくうた於侍たてまつ崇德院すとくいんてき女房にょうぼうあるたくぜん往讚岐的じん捎信[10]:207

大峰山おおみねさん

大峰おおみね修行しゅぎょう[编辑]

大峰山おおみねさん熊野くまの與吉よきちあいだ奈良なら時代じだい以前いぜん便びん原始げんし自然しぜん信仰しんこうてき聖地せいちまちいたり平安へいあん時代じだいまたゆう神佛しんぶつ雜糅ざつじゅうてき性質せいしつなりため真言しんごん密教みっきょうてき修行しゅぎょう場所ばしょ[13]西行さいぎょうざい高野たかの期間きかん曾有つぎ修行しゅぎょう活動かつどう,其中以繞大峰おおみね修行しゅぎょう活動かつどうためさい,其在修行しゅぎょう期間きかんとめりょううたえい大峰山おおみねさん及有せき熊野くまの吉野よしのてき和歌わか[13][10]:244-245

四國しこくたび[编辑]

じんやすさんねん(1168ねん)10がつ西行さいぎょう決心けっしんぜん四國しこく旅行りょこう以明かくてき,其四國之行是有計劃有目的的行程,一是爲了追慕有關弘法大師(空海くうかいてき古跡こせき;二是故人崇德院已于長寬2ねん(1164ねんくずれぜん往四國可拜謁其陵墓白峯陵[10]:253期間きかん其又おもえぜん土佐とさただし能成よしなりぎょう[10]:275

西行さいぎょう曾于承やす元年がんねん(1171ねんざい結束けっそく修行しゅぎょうたび聽聞ちょうもん6がつ1にちこう白河しらかわいんざい住吉すみよし大社たいしゃ參拜さんぱい便びん於2にちまえ參拜さんぱいなみ拜見はいけんりょう白河しらかわいん[10]:277うけたまわやすねん(1172ねん)3がつ18にち平清盛たいらのきよもりざい攝津せっつこくひらき行法ぎょうほうかい并將西行さいぎょう招徠,當日とうじつばんゆうまんとうかい西行さいぎょうゆう作歌さっか[10]:288-289。另外うけたまわ元年がんねん(1177ねん),いん蓮華れんげじょういんはた搬遷至高しこう野山のやま壇上だんじょう西行さいぎょう便びんちょしゅ於有せき工程こうていてきえん活動かつどう[10]:255

轉居てんきょ伊勢いせ[编辑]

うけたまわ4ねん(1180ねん),西行さいぎょう當年とうねん63さい,其離ひらきりょう過去かこさんじゅうねん生活せいかつてき中心ちゅうしん高野たかの,搬至伊勢いせじゅう[13][15]いたり於其ためなん長期ちょうき駐留ちゅうりゅうあずか此處ここら學界がっかいゆう諸多しょた論斷ろんだんゆう神宮じんぐう祠官しかん存在そんざいせつゆうたい高野山こうのやま失望しつぼうせつゆう神宮じんぐう崇敬すうけい躬往たれあとせつゆう源平げんぺい合戰かっせんこれ社會しゃかい原因げんいんせつ[13]當時とうじてき日本にっぽんしょ源平げんぺい合戰かっせんてき戰亂せんらんちゅう源平げんぺい兩家りょうけかく有人ゆうじん源義仲みなもとのよしなか平宗盛たいらのむねもりたいらきよしむねとう人死ひとじに西行さいぎょうみなゆうつるし[10]:337-342

さいたび陸奧みちのく[编辑]

文治ぶんじ2ねん(1186ねん),西行さいぎょう當年とうねん69さい,踏上りょうだい陸奧みちのくたび,此亦其人せいちゅう最後さいごいちたび[13]不同ふどう於第一次陸奧之旅的衆説紛紜,ほんたび時間じかん目的もくてきため吾妻あづまきょうしょ記載きさい

はちがつじゅうろくにちかのえとらうま剋、西行さいぎょう上人しょうにん退出たいしゅつしき抑留よくりゅう、敢不抅之。二品以銀作貓、贈物おくりもの上人しょうにん拜領はいりょう、於門がいあずかゆう嬰兒えいじ云云うんぬん請重げん上人しょうにん約諾やくだく東大寺とうだいじべいきんため勸進かんじんすなきん、赴奧しゅう、以此便びん巡禮じゅんれい鶴岡つるおか云云うんぬん陸奧むつまもるしゅう入道にゅうどうしゃ上人しょうにん一族いちぞく也。
吾妻あづまきょうまきだいろく 文治ぶんじねん正月しょうがついたり同年どうねんじゅうがつ[16]

另外西行さいぎょうざいたび途中とちゅう鐮倉あずかみなもと賴朝よりとも會談かいだん[16],也曾いた富士山ふじさん噴煙ふんえん[10]:346-351よく文治ぶんじ3ねん(1187ねん),其回いた伊勢いせ[13]

末期まっき生活せいかつ[编辑]

文治ぶんじ4ねん(1188ねん),其18しゅ和歌わか入選にゅうせん千載せんざい和歌集わかしゅう[10]。而後へん本山ほんざん家集かしゅう》及《山家やまや心中しんちゅうのしゅう》。文治ぶんじ5ねん(1189ねん),西行さいぎょう開始かいしびょうざいゆか期間きかんゆう上京じょうきょう欲望よくぼうただし最後さいご能成よしなりぎょう[10]:683たて久元ひさもとねん當年とうねん4がつ改元かいげん)(1190ねん)2がつ16にち西行さいぎょう河内かわうちこく弘川寺こうかわでらえんさび終年しゅうねん73さい[10]:716死後しご其亦そう於弘川寺かわでら

家系かけい[编辑]

西行さいぎょう物語ものがたり繪卷えまき》鐮倉ほんしょため西行さいぎょう踢開其女けいぞう

父母ちちはは祖先そせん[编辑]

西行さいぎょう其父为左衛門尉さえもんのじょう佐藤さとう康清やすきよ、其母为監物けんもつみなもときよしけいこれおんなさかのぼ其父家系かけい,乃是藤原ふじわらしげるきょうこれ後人こうじん[2]さいさかのぼいたり藤原ふじわら開闢かいびゃくときため藤原ふじわらきた藤原ふじわら房前ふさざき藤原ふじわら鱼名これ鱼名りゅう藤原ふじわら曾祖そうそ佐藤さとうこうせい一代かずよはじめしょう佐藤さとういち。其祖ちち佐藤さとうきよし及父佐藤さとう康清やすきよみなつかまつ于卫たてまつ於華ぞく德大寺とくだいじ[1]ざい纪州田仲たなかしょうゆう其家所属しょぞくてき知行ちぎょうつい其母家系かけいじょう况尚不明瞭ふめいりょうただゆうこう证源きよし经其じん通達つうたつ文武ぶんぶ[5]

兄弟きょうだい[编辑]

依據いきょ尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくいちしょ記載きさい佐藤さとう康清やすきよゆう兩子ふたごいち曰仲きよしいち曰義きよしただし記載きさいにんとうちゅう何人なんにんため長子ちょうし[1]

妻子さいし兒女じじょ[编辑]

依據いきょ尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくいちしょ記載きさい西行さいぎょうゆういちめい隆聖りゅうせいにんけん律師りっしいちしょく[1]外在がいざい西行さいぎょう物語ものがたりちゅう也有やゆうせき於其女兒じょじ存在そんざいてき文字もじ西行さいぎょう出家しゅっけぜんゆうねんよんさいてき女兒じょじまえむかえなみころもたもと西行さいぎょう想到そうとう不斷ふだん此念おもえとく出家しゅっけ”,便びんはた女兒じょじしたがえぼうろう一側踢了下去[2]

和歌わか[编辑]

西行さいぎょう敕撰一覽いちらん[17]:637-638
敕撰和歌集わかしゅう 新編しんぺん國歌こっか大觀たいかんへんごう けい
詞花しか和歌集わかしゅう 371[ちゅう 1] いち
千載せんざい和歌集わかしゅう 69、266、515、602、604、873、874、925、926、1006、
1020、1062、1063、1064、1146、1147、1228、1275
いちじゅうはち
しん古今ここん和歌集わかしゅう 7、27、51、79、86、126、217、218、262、263、
299、300、362、367、448、472、501、502、538、570、
585、603、625、627、691、697、793、831、837、838、
885、886、887、937、938、978、987、988、1099、1100、
1147、1148、1155、1185、1193、1200、1205、1230、1231、1267、
1268、1269、1297、1298、1307、1470、1530、1531、1532、1533、
1534、1560、1611、1613、1617、1630、1631、1640、1641、1657、
1658、1674、1675、1676、1677、1680、1746、1747、1748、1749、
1778、1779、1808、1828、1829、1830、1831、1842、1844、1877、
1878、1879、1977、1979、(1845-a)[ちゅう 2]
きゅうじゅうよん
しん敕撰和歌集わかしゅう 98、99、196、280、338、339、400、415、673、816、
1086、1155、1156、1200
いちじゅうよん
つづけせん和歌集わかしゅう 21、223、265、314、361、451、462、844、906、1129、
1243、1290、1314
いちじゅうさん
ぞく古今ここん和歌集わかしゅう 701、1029、1077[ちゅう 3]、1345、1346、1382、1447、1491、1528、1535 じゅう
ぞく拾遺しゅうい和歌集わかしゅう 19、91、346、596、692、822、1149、1359、1440 きゅう
しんせん和歌集わかしゅう 54、91、113、277、320、388、552、652、1281、1549、1570 いちじゅういち
たま和歌集わかしゅう 130、131、144、145、219、232、325、569、609、616、
657、658、666、688、696、815、839、877、904、905、
991、1111、1124、1189、1190、1222、1270、1476、1492、1493、
1524、1672、1692、1774、1837、1860、1931、2031、2052、2135、
2177、2178、2232、2265、2332、2333、2346、2360、2364、2431、
2454、2466、2468、2481、2494、2530、2773
じゅうなな
ぞく千載せんざい和歌集わかしゅう 254、673、969、980 よん
つづけ拾遺しゅうい和歌集わかしゅう 101、760、1265 さん
風雅ふうが和歌集わかしゅう 130、165、258、556、604、607、608、1463、1832、1847、
1993、2033、2109
いちじゅうさん
しん千載せんざい和歌集わかしゅう 1199、2151、2206、2219 よん
しん拾遺しゅうい和歌集わかしゅう 50、314、456、499、599、782、856、1764、1918 きゅう
しん拾遺しゅうい和歌集わかしゅう 193、405、1421 さん
しんぞく古今ここん和歌集わかしゅう 141、1480、1698 さん

西行さいぎょう一生いっしょう作歌さっか衆多しゅうた,其生ひら活動かつどう軌跡きせき及情かん變化へんか以從其所さく和歌わかちゅういち窺。[10]列擧れっきょすうしゅ

推定すいてい集中しゅうちゅう最早もはやこれ和歌わか[编辑]

西行さいぎょう曾於そおきょうみなみ鳥羽とば離宮りきゅう正殿せいでん東側ひがしがわにわいんけんじ藤原ふじわら宗輔そうすけ以一えいきくうた尾山おやまあつし二郎等人判斷爲其19さいのべ2ねん,1136ねん所作しょさ[9]

京極きょうごく太政大臣だじょうだいじん中納言ちゅうなごんさるけるおりきくをおびたゞしきほど仕立したててゝ、鳥羽とばいんにまゐらせきゅうたりけり。とり南殿なんでん東面とうめんつぼに、ところなきほどにうゑさせきゅうたりけり。おおやけじゅう少將しょうしょう人々ひとびとすゝめてきくもてなされけるに、くはゝるべきよしありければ
きみがすむ
宿やどつぼをば
きくぞかざる
せんみやとや
いふべかるらん

該和山家やまがしゅう中編ちゅうへんごうため466;《ぞく國歌こっか大觀たいかんへんごうため7453。[9]

百人一首ひゃくにんいっしゅ[编辑]

全日本ぜんにほんぱい協會きょうかい版本はんぽん[18] 嵯峨さが嵐山あらしやまぶんはなかんにち嵯峨さが嵐山あらしやまぶんはなかん版本はんぽん[19] ちゅうやく[20]
なげけとて
つきやはもの
おもえはする
かこちかおなる
わがなみだかな
なげけとて
つきやはもの
おもえはする
かこちかおなる
わがなみだかな
つきおう長嘆ちょうたん
おもえおこりまんはし
蟾光なんざいゆう
れいわがなみださざなみさざなみ

此和收錄しゅうろく於《千載せんざい和歌集わかしゅうまきだいじゅう戀歌こいうた」,へんごうため929;《山家やまがしゅう中編ちゅうへんごうため628;《ぞく國歌こっか大觀たいかんへんごうため7620[9]

なげためよんだん活用かつよう動詞どうしなげ命令めいれいがた;“とて”,そく引用いんようくびため“(つき言道ことみち‘且嘆’”,作者さくしゃしょうがつ擬人ぎじん。“やはためひょうはん語意ごいかかり助詞じょし。“おもためよんだん活用かつよう動詞どうしおも未然みぜんがた,“するためしただん活用かつよう使役しえき助動詞じょどうし連體れんたいがた。此句ためなんみち使わが思慮しりょしゃ乃月(藉其しょげんいな”此句反問はんもん實則さねつねひょうたち思慮しりょあずかつき無關むせき。“かこちかおなるためナリ活用かつようふくあい形容動詞けいようどうしかこちかおなり連體れんたいがた。此句ため“(也。)ただしなみだ仍自あい恨之顔面がんめん潸然さんぜんなみだ”。ぜんうた大意たいいためがつあきらこう曰“且嘆”,しかわがいん自己じこ思慮しりょ物事ものごと而愴しかなみだまた怎能ざい明月めいげつ”。[20]

晚年ばんねん和歌わか代表だいひょうさく[编辑]

弘川寺こうかわでら西行さいぎょうふんはかしゅうさくらじゅ亭亭ていてい如蓋

西行さいぎょう曾在ばん年表ねんぴょうたちざいのうれきがつじゅうにちそく釋迦牟尼しゃかむに涅槃ねはんにちのう于櫻はな樹下じゅか希望きぼう

山家やまがしゅう版本はんぽん ぞく古今ここん和歌集わかしゅう版本はんぽん
ねがはくは
はなのしたにて
はるなん
そのきさらきの
望月もちづきころ
ねがはくは
はなのもとにて
はるなん
そのきさらきの
望月もちづきころ

該和山家やまがしゅう中編ちゅうへんごうため77;《ぞく古今ここん和歌集わかしゅう中編ちゅうへんごうため1527,於卷じゅうななざつじょう;《ぞく國歌こっか大觀たいかんへんごうため7058。“きさらきそく如月きさらぎのうれきがつ;“望月もちづきそくじゅうにちそく釋迦牟尼しゃかむに涅槃ねはん,“その“其”便びんゆびだい此典。[9]はなしゃそく櫻花おうかよし西行さいぎょうざいがつじゅうろくにちえんさび完成かんせいりょう這首和歌わかちゅうてき願望がんぼう後世こうせい也將ほん和歌わか作爲さくい西行さいぎょうてき代表だいひょう[13]

傳說でんせつ[编辑]

撰集せんしゅうしょうまきだいよんだいじゅうろくせつ西行さいぎょう高野たかのおくづくり人事じんじちゅうゆう西行さいぎょう製作せいさく人造じんぞうじんてき記述きじゅつ西行さいぎょうじゅうざい高野山こうのやまこれ,曾收集しゅうしゅう原野げんやてき屍體したいぬり砒霜あずか骸骨がいこつ進行しんこうはんたましいじゅつためしづくりじんただし,卻做かんがいひょうじん姿すがたしか氣色けしき血相けっそうけいゆう聞似じんこえしか管弦かんげんおとてきれいもの最後さいご丟棄於高野山のやまふかしょこれ西にし行為こういりょう查明失敗しっぱいてき原因げんいん,而就きょう伏見ふしみぜん中納言ちゅうなごんなかただしてんねんいちそうまたさとしとく兹事おもむき,於是就此さくやめ[21][22]

刊行かんこう著作ちょさく文獻ぶんけん[编辑]

著作ちょさく[编辑]

文獻ぶんけん[编辑]

關連かんれん事項じこう[编辑]

西行さいぎょうあん吉野山よしのやま

关联藝術げいじゅつ作品さくひん[编辑]

のうげき[编辑]

西行さいぎょうさくら 月岡つきおかこうりょう 能樂のうがくひゃくばん 國立こくりつ能樂堂のうがくどうぞう
  • 江口えぐち
  • 西行さいぎょうさくら

落語らくご[编辑]

  • 西行さいぎょう
  • 西行さいぎょう鼓瀧つづみがだき

長唄ながうた[编辑]

  • 時雨しぐれ西行さいぎょう

義太夫ぎだゆうぶし[编辑]

  • 軍兵ぐんびょう富士見ふじみ西行さいぎょう

文學ぶんがく作品さくひん[编辑]

かげげき[编辑]

ゆう[编辑]

其他[编辑]

西行さいぎょう一生いっしょうちゅう遍歷へんれき諸國しょこくいん後世こうせいはた四處遍歷的木匠等工匠稱爲“西行さいぎょう”。[23]

参考さんこう文献ぶんけん[编辑]

註解ちゅうかい[编辑]

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參考さんこう[编辑]

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外部がいぶ連結れんけつ[编辑]