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蘇定方 - 維基百科,自由的百科全書 とべいたり內容

定方さだかた

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邢國そうこう 定方さだかた
國家こっかずい建德けんとくりゅうくろとう
姓名せいめいれつ
定方さだかた
ふう邢國こう
ぞくかんぞく
せきぬき冀州たけ
出生しゅっしょう大業おおわざ年間ねんかん(592ねん[1]
逝世いぬいふうねん(667ねん
おやぞく
父親ちちおや
養父ようふ高雅こうがけん
けいぶし
  • さだかんはつ
    ただしどう折衝せっしょう
  • さだかんさんねん(629ねん
    ひだりたけしこうちゅうろうしょう
  • えい徽中
    ひだりまもる勛一府中ふちゅうろうしょう
  • えいろくねん
    みぎたむろまもる將軍しょうぐんふう臨清けんこう
  • あらわけいねん(657ねん
    うららどう行軍こうぐんだいそうかん
    ひだり驍衛大將軍だいしょうぐんふう邢國こう
  • あらわけいよんねん(659ねん
    ひだりたけまもる大將軍だいしょうぐん
  • あらわけいねん(660ねん
    神丘かみおかどう行軍こうぐんだいそうかん
  • あらわけいねん(660ねん
    遼東りゃおとんどう行軍こうぐんだいそうかん
  • りゅうさく元年がんねん(661ねん
    平壤ぴょんやんどう行軍こうぐんそうかん
  • りゅうついたちさんねん(663ねん
    りょうしゅうやすしゅう大使たいし節度せつどしょぐん
  • いぬいふうねん(667ねん
    病死びょうしねんななじゅうろくさいおくりなそう追贈ついぞうかそけ州都しゅうととく

定方さだかた(592ねん—667ねん),冀州たけこんぞく河北かわきたにん原名げんめいれつ定方さだかた以字ぎょう中國ちゅうごくとうだいてき將領しょうりょう[2][3]曾在西域せいいき遼東りゃおとんたい多國たこく作戰さくせんいんこうくんたくちょふうため邢國こういぬいふうねん定方さだかたびょう逝,享年きょうねんななじゅうろくさい追贈ついぞうひだり驍衛大將軍だいしょうぐんかそけ州都しゅうととく諡號しごうそう

生平おいだいら

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早年そうねん

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定方さだかた於大おだいぎょう年間ねんかん出生しゅっしょうてき父親ちちおやざい大業おおわざすえ年率ねんりつりょう同鄉どうきょうすう千人為郡里征討賊寇。定方さだかたせいせい勇猛ゆうもう氣魄きはくおどろきじんじゅう五歲便跟隨父親一同追討賊寇,常常つねづね作為さくい先鋒せんぽうはたやぶじん[4][5]ざい邕去たけ邑郡太守たいしゅいのち定方さだかたりょうへい繼續けいぞくしん周圍しゅういぞく寇。りつぐんきよし剿了於郡西にし南部なんぶてきちょうきんしょう公卿くぎょうおやしゅ斬殺ざんさつはりきんしょうなみ追擊ついげき公卿くぎょうじゅうさと獲得かくとくりょう很多戰利せんりひんさとみんいん此都開始かいしもたれ於他。[6][7][8]ずい定方さだかた加入かにゅうりょう建德けんとくてき勢力せいりょくふか高雅こうがけんてきあいなみおさむため養子ようし[9]ざい建德けんとく死後しご定方さだかた繼續けいぞく效力こうりょくりゅうくろ手下てした高雅こうがかしこつぎためりゅうくろ闥攻じょう拔寨,定方さだかた每次まいじ作為さくい先鋒せんぽうせん鬥都ゆう戰功せんこう武德ぶとくろくねんたてしげるりつぐんおさむなみ斬首ざんしゅりょうりゅうくろ闥,定方さだかた就此かいいたろういえ[10]

せい頡利あせ

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からふとしむねさだかん初年しょねん定方さだかたいずるにんただしどう折衝せっしょうちょう參與さんよあずか突厥てき作戰さくせん[11][12][13]さだかんさんねん(629ねん),定方さだかたやすし派遣はけんためぜんほこさきりつりょうりょうひゃく騎兵きへい,趁着だいきり偷襲突厥軍營ぐんえいざい衝擊しょうげき過程かていちゅう頡利あせ所在しょざいてききばちょうなみこううら掩殺過去かこ,致使頡利所部ところぶとく撤退てったいとうやすしりつぐん趕到剩餘じょうよてきてきぐん也都投降とうこうりょう最後さいごやすし俘虜ふりょりょう包括ほうかつ頡利あせざい內的突厥首領しゅりょうかい定方さだかた也因此被ますにんためひだりたけこうちゅうろうしょう[14][15][16][17][18]

とうだかむねえいなか定方さだかたかんいたりひだりまもる勛一府中ふちゅうろうしょう[19]えいろくねん(655ねん高句麗こうくり聯合れんごう百濟くだら、靺鞨進攻しんこうしんおさむうらない其北さかいさんじゅうあまりじょうしんこうとうあさ使つかいもとめ援,定方さだかたずいどうほど名振なぶり征討せいとう高句麗こうくり[20]五月ごがつ定方さだかたひとしわたりりょうすい高麗こうらいから軍兵ぐんびょうしょう,於是わたりはしすいむかえせん定方さだかたひとし奮力進攻しんこう大敗たいはい高句麗こうくりぐんころせなみ俘虜ふりょどもけいいちせんじん,焚毀其外じょう村落そんらくかい戰後せんご定方さだかたはい授右たむろまもる將軍しょうぐんふう臨清けんこう[21]

征戰せいせん西域せいいき

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はつせい西にし突厥

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あらわけい元年がんねん(656ねん),ひだりまもる大將軍だいしょうぐんほどぶし出征しゅっせい西にし突厥おもね那賀なか定方さだかたいん而跟ずい出征しゅっせい任命にんめいためまえぐんそうかん[22][23][24][25]つぎねんじゅうがつざい初戰しょせんつげとし大軍たいぐん到達とうたつたかしゃばがわ今新いまじん疆開河上かわかみゆうひろし勒都斯河だに),西にし突厥りょう萬騎兵前來抵禦唐軍,そうかんうみせいりつぐんあずか突厥所部ところぶ接觸せっしょく,互有勝負しょうぶ[26][27][28]ずい西にし突厥てきぶんささえねずみあまほどこせとうまたりつりょうりょうまん騎兵きへいぜんらい增援ぞうえん定方さだかた當時とうじせい下馬げばきゅうせいあずか突厥軍隊ぐんたいしょうへだたちゃく一座いちざしょう山嶺さんれいまたはなれほどぶしところりつ主力しゅりょくやくじゅうさととおいたどおしょ塵土じんど飛揚ひようりつりょう五百名騎兵前去截擊敵軍。突厥軍隊ぐんたいいん此軍こころつぶせ定方さだかたりつぐん追擊ついげきりょうじゅう斬殺ざんさつてきぐんいちせんひゃくじんかえ獲得かくとくりょうりょうせんひき,而突厥軍たいいんつぶせはい而在戰場せんじょうじょう遺留いりゅうりょう非常ひじょうてき甲冑かっちゅう武器ぶき[29][30][31][32]

どきためふくだいそうかんてきおうぶん嫉妒定方さだかたてき功勞こうろうたいほどぶし建議けんぎせつ:「てきぐん雖然逃跑りょう官軍かんぐん死傷ししょう也很現在げんざいおうとう結成けっせい方陣ほうじんはた輜重しちょう安置あんちざい軍陣ぐんじん中間ちゅうかん四面しめんれつたい人馬じんば披甲,てきらい就迎せん,這才まんぜんこれさく不要ふようゆずるへい輕率けいそつはなれじん,以致造成ぞうせい損傷そんしょう。」。[33][34][35][36]ため使ほどぶし信服しんぷくおうぶん矯旨せめかいほどぶし恃勇けいてきてん而讓おうぶん節度せつどしょ。於是おうぶんれいぜんぐん固守こしゅばらとく繼續けいぞく深入ふかいり[37][38][39][40]ざいおうぶんてき軍令ぐんれいしたとうぐんとくまいてん披甲騎馬きばせん不堪ふかんじゅうまけゆう很多いん此而瘦死;騎兵きへい非常ひじょう疲勞ひろうさいゆうせん鬥的意志いし[41][42][43][44]此情きょうじょう方向ほうこうほどぶし進言しんげんみとめため如此ぼうもり法立ほうりゅうこうぐういたてきぐん便びんかいつぶせはい進一しんいち指出さしでほどぶし現在げんざい將軍しょうぐんたい事物じぶつ交由おうぶん管理かんり不合理ふごうりてき要求ようきゅうほどぶしはたおうぶん先行せんこうせき押,さい上奏じょうそう朝廷ちょうていしか而最後程のちほどぶしなみ聽從ちょうじゅうてき建議けんぎ[45][46][47][48]

こう大軍たいぐん行進こうしんいたりつねあつしじょうぐういたゆうえびすじんおもえよう投降とうこうおうぶんまたせつ:「這些えびすじん現在げんざい投降とうこうとうわがぐん撤回てっかい們還かいはん叛,如全ころせ奪取だっしゅ們的物資ぶっしぜにざい。」定方さだかたのり反駁はんばくせつ:「如果這樣處置しょち便びん自己じことうぞくまた怎能せつ討伐とうばつ叛逆はんぎゃく?」おうぶんとげまたゆるがせりょう定方さだかたしょげんしたれい處決しょけつりょう些胡じんひとしいたふりぶん財物ざいぶつただどく定方さだかたぼつゆう拿任なんいちてん[49][50][51][52]いたりじゅうがつとうぐんこう而返,おうぶんほんいん擅自矯詔該當がいとうばんしょ死刑しけい除名じょめいため平民へいみんほど節也せつやいん逗遛まえ追擊ついげきちからざい減免げんめん死刑しけいやめ官職かんしょく定方さだかたのりてんためみぎたむろまもる將軍しょうぐん[53][54][55][56]

さいせい西にし突厥

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あらわけいねん(657ねん正月しょうがつ定方さだかた擢升ためうららどう行軍こうぐんだいそうかん,以にんみやびしょうかいばばじゅんためふくそうかん北道ほくどう而行,さいつぎせい討阿那賀なか魯。[57][58][59][60][61][62]十二月じゅうにがつ定方さだかたさきしたがえ金山かなやま北部ほくぶ進軍しんぐんりつはいりょうこん部落ぶらくやすなでりょうぜんらい投降とうこうてきものぐさどく祿ろくりつ千餘騎兵突進至突騎施部。[63][64][65]りつとうぐん及回紇僕從軍じゅうぐんども萬餘人進擊並抵達了曳咥河,魯此のりやめけい集結しゅうけつりょう兵力へいりょくどもじゅうまんぜんらい抵禦とうぐんよしとうぐん人數にんずうしょうてきぐんしょ包圍ほうい定方さだかたさきれい步兵ほへい南部なんぶ高地こうちゆいじんもち槊向がい自己じこそくおやりつりょう騎兵きへいれつじん於北てき平原へいげん魯所たいとう步兵ほへい陣地じんち發起ほっきりょうさん衝鋒,卻都成功せいこう防禦ぼうぎょじゅうりょう定方さだかた趁機衝擊しょうげきりょうてきぐん主力しゅりょくざいてきぐんつぶせはいまた追擊ついげきりょうさんじゅう最後さいご斬首ざんしゅじょうまん[66][67][68][69][70]

つぎ定方さだかたりつぐん繼續けいぞく進擊しんげき,五弩失畢都紛紛投降了唐軍,魯及あましたてきすう百騎兵被迫向西逃亡。[71][72][73]おもねしたがえ南道みなみどう進軍しんぐん聽聞ちょうもん敗退はいたいてき五咄陸部落以唐朝為其舊主為理由歸降於步真。[74][75][76]定方さだかたれい副將ふくしょうしょう嗣業りつぐんこうよこしま斯川出發しゅっぱつ追擊ついげき魯,則和のりかずにんみやびしょうりつしん投降とうこうてき士卒しそつ跟在めんよし於正たくみとう地下ちか大雪おおゆき積雪せきせつきんさんしゃくとうぐん將領しょうりょう請求せいきゅう停止ていし進軍しんぐんとういた天氣てんき晴朗せいろうさい打算ださん定方さだかた卻說てきじんあずかりょう們會いんためゆきふか而不さい前進ぜんしん麼就おう該現ざい追擊ついげき,如果なるしも腳步そくかいこしついえつとお經過けいか晝夜ちゅうや行軍こうぐん定方さだかた所部ところぶあずかおもねしんしょ部會ぶかい於雙かわ距離きょり魯只ゆうひゃくとおとうぐんとげゆいじんこう魯牙ちょう所在しょざいてききんきばやま前進ぜんしん們趁不備ふび發起ほっきりょう突襲,りょうじょうまん首級しゅきゅう魯再逃脫,りつすう十騎和咥運一同逃向石國。[77][78][79][80][81][82]おもねわたる射的しゃてきもと爽和しょう嗣業ごうへいいちしょ捕獲ほかくりょういしこくしょけんじ出來できてき魯,最終さいしゅう定方さだかた押解魯班かいあさ[83][84][85][86]定方さだかたざい此戰ちゅうさきとりこりょう魯,またひらけてんりょうとうてき疆域版圖はんといん而被ますためひだり驍衛大將軍だいしょうぐんふう邢國こうけいぶし也被ふうためたけ邑縣こう[87][88][89][90][91][92][93]

がらすうみたたかえ

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よりどころ敦煌とんこう莫高くつちゅう發現はつげんてきぞうぶん吐蕃大事だいじ紀年きねんだいじゅうじょう記載きさいぞうれきひつじねんとうだかむねあらわけいよんねんおおやけもと659ねん),定方さだかたざいあおぞう高原こうげんがらすうみ一帶いったいあずか吐蕃ぐん展開てんかいりょういち作戰さくせん。此次戰爭せんそうぼつゆう記載きさいざいとうあさ一方いっぽうてき史料しりょうなか[94][95]はくかつらおもえ猜測此役あずかどおりかんまき200所說しょせつろん欽陵おさむ吐谷渾是同一どういつ戰役せんえきただし年代ねんだい錯亂さくらんざいゆずる《吐蕃稿こう》於659-660ねんただうつし吐蕃おさむ吐谷渾,ぼつゆうひっさげいたあずかから交戰こうせん學者がくしゃたい此役史料しりょう解讀かいどく(如地てん勝負しょうぶ及兵りょくぼつゆうども識,如おう解讀かいどくためとうぐんいちせんげきはいぞうぐんはちまんさらあつしぐんつちかえしろ解讀かいどくためぞうぐんいちせんげきはいとうぐんはちまんせいけん主張しゅちょう《吐蕃大事だいじ紀年きねん慣例かんれいろく吐蕃戰敗せんぱい,而且漢文かんぶん文獻ぶんけんぼつゆう定方さだかた當年とうねんあずか吐蕃交戰こうせんてき記載きさいいん此或もとぞうぐん八萬戰勝唐軍一千的一場小戰役。いたるのべ莽布ささえてき份,えびすしょうおおとりみとめためがらすうみ一帶親吐蕃的吐谷渾首領,おうただしみとめためちゅうもり鄯善てき慕容尊王そんのう[96][97][98][99] 《吐蕃地名ちめい研究けんきゅう》也認ため所謂いわゆるがらすうみひがし茹,實際じっさいじょう於唐あさ隴右どう附近ふきんてきはじめたち天池あまいけそくひがし茹措。《みち幃藏ぞくしゃこころざしせついたるのべ莽布ささえ大臣だいじんりつしげるぐんぜん往董岱措おさめそく冬日ふゆび措納)一帶いったいあずかかんへいとうぐん交戰こうせんいたるのべ莽布ささえ不幸ふこう犧牲ぎせい部下ぶかためりょうねんはた其葬ざいおもねあまたちのぶさん,此後,たちのべ莽布ささえけいため山神さんじんどう時成ときなりため具有ぐゆう神力しんりきてき家鄉かきょうしん 。」

あらわけいよんねんてつ疏勒舉兵背叛はいはんからあさしもぞくゆう疏勒(いましん西南せいなん喀什一帶いったい)、しゅなみ今新いまじん疆西南部なんぶじょう一帶いったい)、かつ般陀またたたえ蔥嶺こくさんこく定方さだかた受命じゅめいたい進行しんこう征討せいとう[100][101][102]とうとうぐん行軍こうぐんいたりすいてきぐんざい馬頭ばとうがわやめけい建立こんりゅうこうりょう防禦ぼうぎょ工事こうじ。於是定方さだかたさん千匹馬跨越帕米爾高原突襲,經過けいか一整天的奔襲抵達了敵城西十里處。よし於都曼震おどろき於唐ぐんてき出現しゅつげんりつ部分ぶぶんもりぐんざい城門じょうもんがいためし阻攔とうぐん,卻被はいただのう退すさもりざいしろ內,而城もんそくとうぐんじゅん占領せんりょう[103][104][105][106]

ひとしいたばんじょうとうぐん主力しゅりょく陸續りくぞく抵達,ざいかこえじゅうじょう伐木ばつぼく製作せいさくおさむじょう器械きかい曼知どう無法むほう避免戰敗せんぱいてき結果けっか,於是自縛じばく投降とうこう定方さだかたかいおく曼回いたりょう洛陽らくようざいいぬいよう殿どのじょうけんじ俘於だかむねいん此功ますためひだりたけまもる大將軍だいしょうぐんしょく邑五ひゃく[107][108][109]

征戰せいせん遼東りゃおとん

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ひらめつひゃくすみ

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あらわけいねん(660ねんがつじゅうにち定方さだかたずいとうだかむね巡幸じゅんこうふとはらよし於百濟依仗有高麗的援助,開始かいししみゆびしん疆域,いん此新おうこうとうあさ發出はっしゅつりょうもとめ援信。定方さだかたとげさんがつ十日被任命為神丘道[a]行軍こうぐんだいそうかんりつひだり驍衛將軍しょうぐんりゅうはくえいとう水陸すいりく大軍たいぐんじゅうまんにん征討せいとう百濟くだらこくまた以新國王こくおうきん春秋しゅんじゅうため嵎夷どう行軍こうぐんそうかんりつりょうしんへい協同きょうどうからあさ大軍たいぐん作戰さくせん[110][111][112][113][114][115][116][117][118]

定方さだかたりつぐん城山しろやまこん山東さんとうしょうさかえなる東部とうぶ出發しゅっぱつ橫渡よこわたし黃海こうかいさき抵達りょうとくぶつとうしん方面ほうめん五萬士兵也在金庾信率領下合軍。當時とうじ百濟朝廷中佐平義直建議要趁唐軍登陸就截擊,たちりつつねながそくおもえようあずかからぐんひらきてん持久じきゅうせんよし於國おう猶豫ゆうよけつとうしん部隊ぶたいやめけい穿ほじりょう百濟的重要關口白江和炭峴。よし於後派遣はけんてき五千死士阻攔新羅軍隊不成,百濟軍隊不得不屯兵據守熊津江口(こん朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ錦江きんこうこう),ためし抵抗ていこうとうぐん。於是定方さだかたしたがえ東岸とうがんとうりくざい山下やましたれつじんなみ開始かいしあずか百濟くだらぐん交戰こうせんとうとう軍水ぐんすい抵達百濟くだらぐんやめけい戰敗せんぱい斬首ざんしゅすうせんみずずいみなぎしおあずか陸軍りくぐん一同いちどう進軍しんぐんあさしん都城みやこのじょう方向ほうこう出發しゅっぱつ[119][120][121][122][123][124][125]とうとうぐん距離きょりしん都城みやこのじょうやくじゅう,百濟集結國內軍隊前來阻擊。定方さだかたとげりつぐんむかえせんげきはいりょう百濟くだら軍隊ぐんたいなみ斬殺ざんさついちまん餘人よにんとうぐんじょうかつおさむにゅう外城とじょう[126][127][128][129][130]

百濟國王扶餘義慈自知無法避免失敗的下場,後悔こうかいぼつゆう聽取ちょうしゅ忠臣ちゅうしんてき諫言,おびりょう太子たいし扶餘りゅうひとしじんこう北境きたざかい逃去。定方さだかた後進こうしんぐん包圍ほういりょう百濟くだら都城みやこのじょう泗沘じょうこん韓國かんこく忠清ただきよ南道みなみどう扶餘ぐん),よし慈的次子じし扶餘たい自立じりつため百濟くだらおうりつ堅守けんしゅてき孫子まごこ扶餘ぶんおもえせつ:「國王こくおうかず太子たいし雖然いでりょうじょうただし依然いぜん活着かっちゃく叔父おじすべりょう兵馬へいば,就擅自稱じしょうおう,如果とうぐん撤退てったいわが父子ふしせいいのち就無ほう保全ほぜんりょう。」於是ぶんおもえりつ左右さゆうおやへいこぼしじょうこうとうぐん投降とうこう,很多百姓也紛紛跟隨他投降,扶餘たい無法むほう阻止そし。於是定方さだかた趁勢いのち士卒しそつとう上城かみしろろうおこりとうあさてき旗幟きし城中じょうちゅう人心じんしんさら惶恐,しるべ致扶あまりやすしとく打開だかい城門じょうもん投降とうこう請求せいきゅう保全ほぜん其性いのち。其大將たいしょう祢植またおび慈來くだ太子たいしたかしあずか眾城ぬしみなまえらいたてまつおもてまこと[131][132][133][134][135]

はちがつじゅうにちざい徹底てってい平定へいてい百濟くだらりょうしゅうちょうばん兵曹へいそうとげあきらため定方さだかた此次めつ國之くにゆきせんせんうつしりょうだいとうたいら百濟くだらこく碑銘ひめい》。其全文ぜんぶんこく於高しゃくすんひろし四丈六尺二寸的紀功碑上,此碑樹立じゅりつ於泅じょう內的てい林寺はやしじ石塔せきとううえ[136][137][138]ずい定方さだかた攜百ずみだいさんじゅういちだい國王こくおう扶餘太子たいしたかしたいとうじゅうはちにんかい洛陽らくよう,百濟國的疆域則被納入唐朝版圖,分別ふんべつ設置せっちりょうぐまうまかん東明とうめいきむれん和德わとくやすとくしもさんじゅうななしゅうひゃくじゅうけんひだり驍衛ろうしょうりゅうひとしねがい受命じゅめいりつりょう萬名唐軍與新羅王子きむひとしやすしところりつてきななせんしんぐん共同きょうどう守衛しゅえい百濟くたらじょう十一月じゅういちがついちにち定方さだかた於則てんもんけんじ俘,朝廷ちょうていため此「たまもの天下でんかだいさんにち」。定方さだかたのりますためひだりたけまもる大將軍だいしょうぐんなみ授其けいぶしためなお輦奉[139][140][141][142][143][144][145][146][147][148][149][150][151][152][153]

せい高句麗こうくり

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あらわけいろくねん十二月じゅうにがつがつじゅうろくにちとうだかそうおさむ打算ださんおやせいみことのりちぎり苾何りょくため浿江どう行軍こうぐんだいそうかん定方さだかたため遼東りゃおとんどう行軍こうぐんだいそうかんりゅうはくえいため平壤ぴょんやんどう行軍こうぐんだいそうかんほど名振なぶりためちりばめかたどうそうかんりつへいぶんどう進擊しんげき高句麗こうくりこういんたけきさきすすむ阻,とうだかむね取消とりけしおやせい念頭ねんとう[154][155]

りゅうさく元年がんねん(661ねんがつとうぐんてき作戰さくせん部署ぶしょ發生はっせいりょう較大てき變化へんか,以にんみやびしょうため浿江どう行軍こうぐんそうかんちぎり苾何りょくため遼東りゃおとんどう行軍こうぐんそうかん定方さだかたため平壤ぴょんやんどう行軍こうぐんそうかんあずかしょう嗣業及諸えびすへいさんじゅうぐん水陸すいりくぶんどう並進へいしん[156][157][158][159][160]はちがつ定方さだかたざい浿江(こん朝鮮ちょうせん大同だいどうげきはい高句麗こうくりぐんなみ拿下りょう邑山。とうぐん紮營於馬邑山じょう繼續けいぞく進軍しんぐん包圍ほういりょう平壤ぴょんやんじょう高句麗こうくり首都しゅと)。[161][162][163][164][165]きたせんてき陸路りくろとうぐん進展しんてん卻相たい緩慢かんまん高句麗こうくり權臣けんしんぶたあや長子ちょうしいずみおとこせいりつ精兵せいびょうすうまん固守こしゅかもみどりこうとうぐん無法むほう渡江とのえ雙方そうほう一直僵持到九月底。天氣てんき開始かいし寒冷かんれいかもみどりこうみず結成けっせいけん冰,とうぐんざいちぎり苾何りょくてきりつ領下りょうげ踏冰而過,つづみ譟奮げき高句麗こうくりぐんだいつぶせとうぐん追擊ついげきすうじゅう斬首ざんしゅさんまんきゅう,其餘眾全投降とうこうただ有泉ありいずみだんなま逃了かい正當せいとう遼東りゃおとんどう行軍こうぐんだいそうかんちぎり苾何りょくりつりょうてききたとうぐんじゅん推進すいしんはた南下なんかあずか定方さだかたかい平壤ぴょんやんてき時候じこうとうだかむねみことのりはん,於是撤軍,很快ばくきたてつ勒九せい發生はっせいりょう叛亂はんらんかい紇比あわどくあずかどうぼくかたすすむはんだいから邊境へんきょうじゅうがつじゅういちにちしょう嗣業回國かいこくあらためにんせんがくどう行軍こうぐんそうかんなみ加入かにゅうてつ勒平叛大ぐん兩人りょうにんはんとうぐん南北なんぼくあいげき高句麗こうくりてき戰略せんりゃく部署ぶしょ落空,戰爭せんそうおちいにゅうりょう持久じきゅうせん[166][167]

りゅうさくねん(662ねんはつ,沃沮どうそうかん,蠻酋孝泰たかやすりつみね南兵みなみへいせん於蛇すいうえ,「ぞく其懦,かさねやぶこれ」,あずか其子じゅうさんにんみな戰死せんし同月どうげつ,浿江どう行軍こうぐんだいそうかんにんみやびしょうざいぐんちゅうびょう逝。孤軍こぐんかこえじょうてき定方さだかたぼつゆう辦法いた友軍ゆうぐんてき協同きょうどう作戰さくせん援助えんじょまたせい逢大ゆきおさむかつ平壤ぴょんやんやめ不可能ふかのうとげ解除かいじょ包圍ほうい,於がつはん回國かいこく[168][169][170][171][172][173]

晚年ばんねん

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りゅうついたちさんねん(663ねん),吐谷渾吐蕃祿ろくひがしさんところやぶ定方さだかたたてまついのちにんりょうしゅうやすしゅう大使たいし節度せつどしょぐんていひとしやすしどくきょうくもからしぶんりょうひとしせめたい吐蕃てき守備しゅび[174]此外18世紀せいき中葉ちゅうようなりしょてき如意にょいたからいつき》就予以引用いんようせつ:「すすきまつさん時期じきあずか漢人かんど交戰こうせんかんへいらいぞう大臣だいじん噶爾(祿ろくひがしさん戰死せんし疆場, 布達ふたつひしげみややき毀。」ただししたがえ敦煌とんこう遺書いしょ、《西藏王にしざおうしんかずしんべにてき記載きさい,670ねんとうしげる雙方そうほうざいだいかわ交戰こうせんまえいくねん便びん爆發ばくはつりょう衝突しょうとつ

いぬいふうねん(667ねん),定方さだかた病死びょうし終年しゅうねんななじゅうろくさいこうはじめざい最初さいしょなお不知ふちじょうとうしたがえしょ聽說りょう定方さだかた逝世てき消息しょうそく,頗為悲傷ひしょう痛惜つうせきせめ侍臣じしんどう:「定方さだかたたい國家こっか有功ゆうこう,按例おうとう褒獎ふうじおくきょうとうせつ,致使死後しごさかえちょうのう及時頒下。言及げんきゅう於此,きん哀傷あいしょう悲嘆ひたん。」於是りつそくみことのり追贈ついぞう定方さだかたためひだり驍衛大將軍だいしょうぐんかそけ州都しゅうととく諡號しごうそう」。[175][176]

歷代れきだい評價ひょうか

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  • きゅうとうしょ》:「邢國こうかみりゃく翕張,はかりごと戡定かんてい,輔平たむろなん始終しじゅう成業せいぎょう。疏封のぼる暢茂のぶしげてんぶた闕如けつじょ也。」

さん曰:「將雄まさおゆうりつあたりこうちょうぞく功名こうみょう始終しじゅうかく、薛、つとむてい,徼功奮命。たれそくきゅうあたりへい常勝じょうしょう。」

  • しんとうしょ》:「から所以ゆえんのうえびすあら、斥大ふういきしゃまたゆう虎臣こしん為之ためゆききば距也。いたりぎょうすうせんまんきゅう討殊りょう其國よし鹿しかいのこしかいいせん值其ざい歟!
  • つな:「だいあきら宿衛しゅくえいちゅう裴行儉じょう方術ほうじゅつりゃくはた叔寶薛仁とうと嗣業搏戰いさむこうたかしぶん紀律きりついむおう忠嗣ただつぐもりかただきしん訓練くんれんしらげちょう萬福ばんぷくらく善之よしゆきあつしひかりがお、愬謀おもんばかこれけつみな凜然ゆうけん將之まさゆきふう
  • :「だい一統いっとう。必為おくまんねん西にし逾蔥みねかんどおり鑿空かんきたかい金山かなやまからしつらえきたにわだいたむろ戍。そと輯烏まご金滿きんまんけんじょうとおおさむれつ。凡茲經略けいりゃくのう略言りゃくげん歟。定方さだかた討沙缽羅。はやだいきゅうだましか。此其こうれつ
  • 元忠もとただしん聞帝おうみちつとむたかし經略けいりゃく經略けいりゃくじゅつ,必仗えい國家こっかはたとくげん矣。やすしやぶ突厥,ほうくんしゅうめつこうあきら定方さだかたひらく西域せいいきひら遼東りゃおとん,雖奉國威こくいれいまた其才りょくしょ致。古語こごゆう:『ひと無常むじょうぞくせい有理ゆうりみだれへい強弱きょうじゃくはた有能ゆうのういな』。よし此觀やす邊境へんきょうたて功名こうみょうざい於良はた也。
  • もりゆうくにあさやすしひら突厥,勣滅高麗こうらいほうくんしゅうくつがえこうあきら定方さだかたえびす百濟くだらたかしげんおうたかしすぐる婁師とくりゅうしんれいみなきょうしょうりつへいえびすえびすたいらかえ並無ならびなひさし
  • 黃道こうどうしゅう定方さだかた少年しょうねん驍勇。鄉里きょうりぞくおかせよりゆきおそれ。突厥したがえせいじょうきりいち涌。誅者かちくだしゃせっかかと魯再せい,攢槊ことたけし大雪おおゆき不休ふきゅう,砍幾ぜっしゅこうかさねしょてきさんくもようめんばく而降,けんじ俘丹甬。論法ろんぽうおう誅,もとめ恩寵おんちょう。蔥嶺以西いせいいん而朝拱。」
  • ちんもと:「邢公禦侮,闞如虓虎。なま曼,鉗驅魯。暨平ひゃくすみ,凡攻みな國之くにゆきこう,焜耀千古せんこ

藝術げいじゅつ形象けいしょう

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文學ぶんがく形象けいしょう

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ざい貫中かんちゅうところちょてき小說しょうせつずいから兩朝りょうちょうこころざしでんちゅう定方さだかた作為さくいとう驍將ぎょうしょう追隨ついずいからふとしむね征伐せいばつ遼東りゃおとんなみあずかぶたぶん作戰さくせん

明朝みょうちょうまんれき年間ねんかんしょせい編著へんちょてき小說しょうせつだいとうしんおうばなしだいじゅうななかいちゅう定方さだかた作為さくい建德けんとくてきせつきゃく出場しゅつじょうだいよんじゅうかい定方さだかたいん直言ちょくげんはん諫而建德けんとく貶斥かいきょうあきらたたかえ定方さだかたあずかしげるぶん上下じょうげ最終さいしゅうざい淤泥かわたたかえ設計せっけいころせしげるだいじゅうかいちゅうりゅうくろ闥被誅殺ちゅうさつはたおうよく招降定方さだかた定方さだかたざいろう母親ははおやてきくん誨下ためつき孝心こうしんざい決心けっしんくだとう

清朝せいちょう刊行かんこうてきせつから演義えんぎぜんつてちゅう定方さだかたかずてき兩個りゃんこ麟、おおとりおおとりてき一雙兒女蘇錦蓮和蘇寶同都被歪曲成主要的反面人物,しろ臉長ひげてきだい奸臣かんしん後世こうせいてきひょうしょ也多ざい基礎きそじょう改編かいへん

かげ形象けいしょう

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注釋ちゅうしゃく

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  1. ^ ゆうぐまどう神丘かみおかどうりょうたね記載きさい此處ここらゆびどう

參考さんこう文獻ぶんけん

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書目しょもく

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史料しりょう

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論文ろんぶん

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  • はいきょう. 《だいとうたいら百濟くだらこく碑銘ひめい關聯かんれん問題もんだいこうしゃく[A].とう論叢ろんそうだいはち輯)[C].:,2006:18.
  1. ^ そつねんたおせ
  2. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「定方さだかた冀州たけ邑人也」
  3. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「れつ定方さだかた以字ぎょう冀州たけ邑人徙始たいら
  4. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「ちち邕大ぎょうまつりつきょう閭數せんにん為本ためもとぐん討賊定方さだかた驍悍ちからきも氣絕きぜつりんねん十餘歲隨父討捕先登陷陣」
  5. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「ちち邕當ずいりつ里中さとなかすう千人為本郡討賊定方驍悍有氣決年十五從父戰數先登陷陣」
  6. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「ちちそつぐんもりまたれい定方さだかたりょうへいやぶぞくしゅちょうきんしょう於郡みなみしゅかねしょうまたやぶ公卿くぎょう於郡西にしつい十餘里殺獲甚眾鄉黨賴之」
  7. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「邕卒だいりょう其眾破げきぞくはりきんしょう公卿くぎょうついきたすう十里自是賊不舍境鄉黨賴之」
  8. ^ さつもとかめまきはちよんなな:「ちちそつぐんもりまたれい定方さだかたやぶぞくそちはりきんばかり於郡みなみしゅかねばかりまたやぶ公卿くぎょう於郡西にしつい十餘里殺獲甚眾公卿僅以身免繇是外盜不敢入界鄉黨賴之」
  9. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「つかまつ建德けんとく建德けんとくはた高雅こうがけん甚愛やしなえ以為
  10. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「まさけんにわかまたためりゅうくろ闥攻おちいしろ邑定かたごとゆう戰功せんこう及黑闥雅けん定方さだかた歸鄉ききょうさと
  11. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「さだかんはつためただしどう折衝せっしょうずいやすしかさね突厥頡利於磧こう
  12. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「さだかんはつためただしどう折衝せっしょう
  13. ^ さつもとかめまきさんなな:「定方さだかたため正道せいどう折衝せっしょう
  14. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「やすし使定方さだかたりつひゃくためぜんほこさきじょうきり而行ぞくいちさともとゆるがせしかきり望見ぼうけん其牙ちょうはせ掩殺すうじゅうひゃくにん頡利及隋公主こうしゅ狼狽ろうばいはし眾俯ふくやすしぐんすんでいたりとげ悉降ぐんかえ授左たけこうちゅうろうしょう
  15. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「したがえやすしかさね突厥頡利於磧こうりつ彀馬ひゃくためぜんほこさきじょうきりぎょうぞくいちさともときり霽見きばちょうはせころせすうじゅうひゃくにん頡利及隋公主こうしゅ惶窘かく遁去やすしまたひろいたりあまりとう悉降さい遷左まもるちゅうろうしょう
  16. ^ さつもとかめまきよんひゃくじゅう:「やすし定方さだかたりつひゃくためぜんほこさきじょうきり而行走去はしりさぞくいちさともとゆるがせしかきり望見ぼうけん其牙ちょうはせ掩殺すうじゅう百人頡利及隋公主狼狽散走餘眾俯伏靖軍既至遂悉降之」
  17. ^ どおりかんまきいちきゅうさん:「やすし使たけ邑蘇定方さだかたそちひゃくためぜんほこさきじょうきり而行きばちょうななさととりこ乃覺頡利じょう千里せんりうま先走さきばしやすしぐんいたりとりこ眾遂つぶせから儉脫とくかえりやすし斬首ざんしゅまんきゅう男女だんじょじゅうあまりまんざつ畜數じゅうまんころせずい義成よしなり公主こうしゅとりこ其子たたみほどこせ頡利そちまん餘人よにんよく磧李績軍於磧こう頡利いたり得度とくど其大酋長しゅうちょうみなそち眾降績虜五萬餘口而還斥地自陰山北至大漠露布以聞」
  18. ^ さつもとかめまきさんなな:「さだかんはつずいやすしかさね突厥頡利於磧こうやすし使定方さだかたりつひゃくためぜんほこさきじょうきり而行ぞくいちさともとゆるがせしか霧散むさん望見ぼうけん其牙ちょうはせ掩殺すうじゅうひゃくにん頡利及隋ぬし狼狽ろうばいはし眾俯ふくやすしぐんすんでいたりとげ悉降ぐんかえ授左たけまもるちゅうろうしょう
  19. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「えい徽中うたてひだりまもる勛一府中ふちゅうろうしょう
  20. ^ どおりかんまきいちきゅうきゅう:「二月乙丑遣營州都督程名振左衛中郎將蘇定方發兵擊高麗」
  21. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「あずかほど名振なぶり討高うららやぶこれはいみぎたむろまもる將軍しょうぐん臨清けんこう
  22. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「したがえひだりまもる大將軍だいしょうぐんほどぶしせい魯為まえぐんそうかん
  23. ^ さつもとかめまききゅうななさん:「あらわけい元年がんねん西にし突厥魯犯みことのりほどぶし定方さだかたひとしりょうへいなみ邏紇大破たいは魯於かげやまさいやぶ於牙さん
  24. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「したがえ蔥山どうだいそうかんほどぶしせい魯」
  25. ^ さつもとかめまきさんなな:「えい徽中以左まもるちゅうろうはたしたがえひだりまもる大將軍だいしょうぐんほどぶしせい魯」
  26. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「いたりたかしゃばかわ突厥ゆう萬騎來拒總管蘇海政與戰互有前卻」
  27. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「いたりたかしゃばがわ魯率萬騎來拒總管蘇海政連戰未決」
  28. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「じゅう二月程知節引軍至鷹娑川遇西突厥二萬騎」
  29. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「すんで而突厥別ねずみあまほどこせとうまたりょうまんぞくいたり定方さだかたただし歇馬へだたいち小嶺こみねぶしじゅうもとさと望見ぼうけんちりおこりりつひゃくはせ往擊ぞく眾大つぶせついじゅうころせ千五百餘人獲馬二千匹死馬及所棄甲仗綿亙山野不可勝計」
  30. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「ねずみあまほどこせとうふくまんため定方さだかたはじめきゅうちりおこりりつせいひゃく逾嶺はせ搗賊營賊眾大つぶせころせ千餘人所棄鎧仗牛馬借借山野不可計」
  31. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「べつねずみあまほどこせとうまんつぎいたりまえぐんそうかん定方さだかたそちひゃくはせ往擊西にし突厥大敗たいはいつい十里殺獲千五百餘人獲馬及器械綿亙山野不可勝計」
  32. ^ さつもとかめまきよんろく:「定方さだかたためみぎたむろまもる將軍しょうぐんだかむねあらわけいはつしたがえほどぶし討阿那賀なか魯與其別たねあまほどこせせん於雁しゃばかわ大破たいはぞく眾追奔じゅうさと斬首ざんしゅ千餘級獲馬二千匹死馬及所棄甲仗綿亙山野不可勝計」
  33. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「ふくだいそうかんおうぶんがい其功いいぶし曰雖くもやぶぞく官軍かんぐんまたゆう死傷ししょうぶたけつ成敗せいばいほうみみなんため此事自今じこんただしゆいため方陣ほうじん輜重しちょうなみおさめ腹中ふくちゅう四面布隊人馬被甲賊來即戰自保萬全無為輕脫致有傷損」
  34. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「ふくそうかんおうぶんやまし其功謬謂ぶし曰賊雖走ぐん死傷ししょうしゃ眾今とうゆい輜重しちょうじんあいだかぶと而趨ぞくらいそくせんいい萬全ばんぜん
  35. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「ふくだいそうかんおうぶんがい其功げん於知ぶし曰今茲雖くもやぶぞく官軍かんぐんまたゆう死傷ししょうじょう危輕だつ成敗せいばいほうみみなんきゅう而為此自今じこんとうゆいかたひねおけ輜重しちょうざい內遇ぞくそくせん萬全ばんぜんさく也」
  36. ^ さつもとかめよんろく:「ふくそうかんおうぶんがい其功いいぶし曰雖くもやぶぞく官軍かんぐんまたゆう死傷ししょうぶた未決みけつ成敗せいばいほうみみなんきゅう而為此事自今じこんただしゆいため方陣ほうじん輜重しちょうつきおさめ腹中ふくちゅう四面布隊人馬被甲賊來即戰自保萬全無為輕脫致有傷損」
  37. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「また矯稱べつたてまつ聖旨せいし以知ぶし恃勇けいてき使ぶんため節制せっせいとげおさむぐんもと深入ふかいり
  38. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「また矯制おさむぐん深入ふかいり
  39. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「また矯稱べつとくむね以知ぶし恃勇けいてきぶん為之ためゆき節制せっせいとげおさむぐんもと深入ふかいり
  40. ^ さつもとかめまきよんろく:「ぶんまた矯稱べつたてまつ以知ぶし恃勇けいてき使ぶんため節制せっせいとげおさむぐんもと深入ふかいり
  41. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「終日しゅうじつまたがうまかぶとゆいじんよし瘦死士卒しそつ疲勞ひろうゆうせんこころざし
  42. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「於是臒卒ろう鬥志」
  43. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「士卒しそつ終日しゅうじつまたがうまかぶとゆいひねかちつかれひたぶる瘦死」
  44. ^ さつもとかめまきよんろく:「終日しゅうじつまたがうまかぶとゆいじん繇是瘦死士卒しそつ疲勞ひろうゆう鬥志」
  45. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「定方さだかたいいぶし本來ほんらい討賊こん乃自もりかつえへいつかれ逢賊そくはい怯懦きょうだ如此なんこうりつまたおおやけため大將たいしょう閫外こともとせんべつぐんふくせん其號れい必不しか須囚縶文ひょうそうぶししたがえ
  46. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「定方さだかたせつぶし天子てんしみことのり討賊こんはんもりなんこう立哉たつや且公ため大將たいしょう而閫がいこととくせん副將ふくしょう乃得せん其然えびすしゅうぶんまち天子てんしいのちしたがえ
  47. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「てい方言ほうげん於知ぶし曰出よく以討ぞくこん乃自もりすわこま敝若ぐうぞく必敗懦怯如此なん以立こう且主じょう以公ため大將たいしょうあにさらぐんふくせん號令ごうれいごと必不しか請囚ぶんひょう聞知ぶんちぶししたがえ
  48. ^ さつもとかめまきよんろく:「定方さだかたいいぶし本來ほんらい討賊こん乃自もりかつえへいつかれ逢賊そくはい怯懦きょうだ如此なんたてこうまたおおやけため大將たいしょう閫外こと而許節制せっせいべつぐんふくせん其號れい必不しか須囚縶文ひょうそうぶししたがえ
  49. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「いたりつねあつ城有しろありえびすくだぶんまた曰比わがへいかいかれかえさくぞく如盡ころせ其資ざい定方さだかた曰如此自さくぞくみみなんなり叛文したがえ及分ざいただ定方さだかたいちしょ
  50. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「いたり怛篤城有しろありえびすじんくだぶん猥曰かえ而降且為ぞく如殺其貲定方さだかた曰此乃自さくぞくみみやすし曰伐叛及ぶんざい定方さだかたいち
  51. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「いたりつねあつ城有しろありぐんえびすぶん曰此ぞく伺我旋師かえふくためぞく如盡ころせ其資ざい定方さだかた曰如此乃ためぞくみみなんめい叛文竟殺ぶん其財どく定方さだかた受」
  52. ^ さつもとかめまきよんろく:「いたりつねあつゆうえびす開門かいもん乞降ぶんまた曰比わがへいかい此還さくぞく如盡ころせ其資ざい定方さだかた曰如此自さくぞくみみなんなり叛文またしたがえ乃分ざいおもんみ定方さだかたいちしょ
  53. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「かえぶんすわしょ死後しごとく除名じょめい
  54. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「こうそう知之ともゆきぶしとうかえ悉下吏當かしためみん
  55. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「旋文すわ矯詔とうとく除名じょめいぶしまたすわ逗遛ついぞく及減免官めんかん
  56. ^ さつもとかめまきよんろく:「かえぶしぶんみな除名じょめい
  57. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「明年みょうねん擢定かたため行軍こうぐんだいそうかんまたせい魯以にんみやびしょうかい紇婆じゅんためふく
  58. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「擢定方さだかたうららどう行軍こうぐんだいそうかんふくせい魯以にんみやびしょうかい紇婆じゅんためふく
  59. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいいちひゃくよんじゅうよん·突厥:「あらわけいねんみぎたむろまもる將軍しょうぐん定方さだかたつばめしかみやこまもるにんみやびしょうふくみやこまもるしょう嗣業ひだり驍衛大將軍だいしょうぐん瀚海とくかい紇婆うるうとうりつ討擊仍使みぎたけまもる大將軍だいしょうぐんおもねわたるしゃひだりたむろまもる大將軍だいしょうぐんおもねしん為安ためやすなで大使たいし
  60. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「かのえいぬ以右たむろまもる將軍しょうぐん定方さだかたためうららどう行軍こうぐんそうかんそちつばめしかみやこまもる渭南にんみやびしょうふくみやこまもるしょう嗣業はつかい紇等へい北道ほくどう討西突厥すな缽羅あせ
  61. ^ きゅうとうしょ本紀ほんぎだいよん·だかむねじょう:「ねんはる正月しょうがつかのえとらこう洛陽らくよういのちみぎたむろまもる將軍しょうぐん定方さだかたとう四將軍為伊麗道將軍帥師以討賀魯」
  62. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「及蘇定方さだかたためだいそう管領かんりょうかい紇等へいあずかおもねわたるしゃ等分とうぶん出西しゅつさいしゅう金城きんじょう兩道りょうどう經略けいりゃく
  63. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「金山かなやまきたゆびしょこん部落ぶらく大破たいは其俟きんものぐさどく祿ろく以眾萬餘帳來降定方撫之發其千騎進至突騎施部」
  64. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「定方さだかたげき西にし突厥すな缽羅あせいたり金山かなやまきたさきげきしょこん大破たいは其俟きんものぐさどく祿ろくとうそち萬餘帳來降定方撫之發其千騎與具」
  65. ^ さつもとかめまきよんろく:「乃擢定方さだかたためぐんぎょうだいそうかん以征魯於りつへい金山かなやまきたさきげきしょこん部落ぶらく大破たいは
  66. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「魯率えびす祿ろく闕啜懾舍ひさげ暾啜ねずみあまほどこせしょはんすすしょこんこごめりつすすつとむしつ畢兵眾且じゅうまんらいこばめ官軍かんぐん定方さだかたりつかい紇及かんへいまん餘人よにんげきぞくけい定方さだかたへいしょうよんめんかこえ定方さだかたれい步卒ほそつよりどころげん攢槊外向がいこうおやりょうかんじん於北げんぞくさきげきぐん三沖不入定方乘勢擊之賊遂大潰追奔三十里殺人馬數萬」
  67. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「はつせんなみかいまんにんすすむいたり曳咥かわ魯率じゅうせいへいじゅうまんこばめせんけい定方さだかたへいしょう舒左右翼うよくつつみ定方さだかたれい步卒ほそつよりどころだか攢槊外向がいこうおや引勁じん北原きたはらぞくさん突步じん不能ふのう入定にゅうじょうかたいん其亂げき鏖戰さん十里斬首數萬級賊大奔」
  68. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「定方さだかたいたる曳咥河西かさいすな缽羅そちじゅうせいへいじゅうまんらいこばめせん定方さだかたすすむからへい及回紇まん餘人よにんげきすな缽羅けい定方さだかたへいしょう直進ちょくしんかこえ定方さだかたれい步兵ほへいよりどころ南原なんばら攢槊外向がいこうしょう騎兵きへいひね於北げんすな缽羅先攻せんこうぐんさんおき不動ふどう定方さだかた引騎へいげきすな缽羅大敗たいはいついさん十里斬獲數萬人」
  69. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいいちひゃくよんじゅうよん·突厥:「定方さだかたこういたり曳咥河西かさい魯率えびす祿ろくきょ闕啜とうまんれつじん而待定方さだかたりつふくそうかんにんみやび相等そうとうあずかこれ交戰こうせんぞく大敗たいはいだい首領しゅりょう搭達いぬいとうひゃく餘人よにん
  70. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「すすむいたり曳河西にし魯率じゅうせい兵馬へいばじゅうまんらいこばめせん定方さだかたりょうかい紇及かんへいまん餘人よにん迎擊げいげきぞくけい定方さだかたへいしょうよんめんかこえ定方さだかたれい步卒ほそつよりどころ其原そのはら攢槊外向がいこうりょうかんひね於北げんぞくさきげきぐん三沖不動定方乘勢擊之賊遂大潰追奔三十里斬獲數萬人」
  71. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「明日あしたせいへいふくしん於是えびす祿ろくとう五努失畢悉眾來降賀魯獨與處木昆屈律啜數百騎西走」
  72. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「明日あしたへいふくしん五弩失畢舉眾降賀魯獨與處木昆屈律啜數百騎西走」
  73. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「明日あした勒兵ふくしん於是えびす祿ろくとう五弩失畢悉眾來降沙缽羅獨與處木昆屈律啜數百騎西走」
  74. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「五咄六聞賀魯敗各向南道降於步真於是西蕃悉定」
  75. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「おもねしん南道みなみどう五咄陸部落聞沙缽羅敗皆詣步真降」
  76. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「明日あしたそうへいふくしん魯之眾五つとむしつ部落ぶらくしょうらいくだつとむしつ部落ぶらく聞賀魯敗かくこうみなみどうくだ於步しんしょいたり蕃人ばんじんみなしょうりつくだ曰我舊主きゅうしゅ也」
  77. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:」ただ魯及咥運りつ其牙內餘眾而奔定かたおいふく大戰たいせん於伊うらら水上すいじょうころせりゃくつき魯及咥運十餘騎逼夜亡走「
  78. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「定方さだかた乃令副將ふくしょうしょう嗣業かい紇婆うるうりつしげるへい趨邪斯川以追魯定かたあずかにんみやびしょうりょう新附しんぷ眾以つぎ其後かい大雪おおゆき平地ひらちしゃくぐんちゅう咸請停へいこうはれ定方さだかた曰虜恃雪ふかいいわが不能ふのう前進ぜんしん必當いこいいきおい及緩以縱のりややとおなんおいしょうけんこうざい此舉也於勒兵おきゆき晝夜ちゅうやけんしんしょけいおさむ其人眾遂いたりそうかわあずかわたるしゃ真相しんそうかいりょうぐんあいいきおい魯所きょさと布陣ふじん長驅ちょうくみちいたりきんきばやましょ魯集しょ眾欲りょう定方さだかたあずかわたるしゃたてへいげきつきやぶ其牙ちょうせいとりこすうまん人並ひとなみ其鼓纛器械賀魯遂あずか咄運及其おんなおっと閻啜とう脫走だっそうせきこく
  79. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「定方さだかたれい副將ふくしょうしょう嗣業かい紇婆じゅんりつざつとりこへい趨邪斯川ついきた定方さだかたあずかみやびしょうりょう新附しんぷへいぜっ其後かい大雪おおゆき吏請しょうきゅう定方さだかた曰虜恃雪かたとめしゃいいわが不能ふのうすすむわかたて使どお遁則莫能とりことげ勒兵しんいたりそうかわあずかわたるしゃごう距賀魯所ひゃくさとれいじん而行うすきんきば山方やまがた魯將畋定かたたて擊破げきは其牙すう萬人悉歸所部賀魯走石國」
  80. ^ どおりかんまきりょうひゃく:」定方さだかた乃命しょう嗣業かい紇婆うるうはたえびすへい趨邪斯川ついすな缽羅定方さだかたあずかにんみやびしょうはた新附しんぷ眾繼かい大雪おおゆき平地ひらちしゃくぐんちゅう咸請俟晴而行定方さだかた曰虜恃雪ふかいいわが不能ふのうしん休息きゅうそく亟追及若なるこれかれ遁逃ひたどお不可ふかふくおいしょうけんこうざい此時矣乃蹋雪晝夜ちゅうや兼行けんこうしょおさむ其部眾至そうかわあずかわたるしゃしんへいごうすな缽羅しょきょひゃくさとぬのひね長驅ちょうくみちいたり其牙ちょうすな缽羅あずか其徒はたりょう定方さだかた掩其不備ふびたてへいげきすう萬人得其鼓纛沙缽羅與其子咥運婿閻啜等脫走趣石國「
  81. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいいちひゃくよんじゅうよん·突厥:」魯及闕啜けい奔竄わたしうららかわ兵馬へいば溺死できししゃ甚眾嗣業いたりせんいずみ魯下きばしょわたるしゃ進軍しんぐんいたり麗水れいすいしょがつしょみつとうかくりつ眾來くだわたるしゃまたすすむそうかわ魯先使しつたちばと集散しゅうさんそつよりどころしがらみこばめせんわたるしゃおさむだいつぶせまたあずか定方さだかたおさむ魯於碎葉すい大破たいは魯與咥運よくとうねずみ耨設いたりせきこく咄城傍人ぼうじんかつえとぼし
  82. ^ さつもとかめまきさんろくろく:「大雪おおゆき平地ひらちさんしゃくぐんちゅう咸請停へいこうはれ定方さだかた曰虜恃雪ふかいいわが不能ふのう前進ぜんしん必當いこいいきおい及若なる以縱のりややとおなんおいしょうけんこうざい此舉也於勒兵りょうゆき晝夜ちゅうやけんしんしょけいおさむ其人眾遂いたりそうかわ魯所きょいちひゃくあまりさと布陣ふじん長驅ちょうくみちいたりきんきば山賀やまが魯牙ちょう魯集眾欲りょう定方さだかたたてへいげきつきやぶ其牙ちょうせいとりこすうまんにん
  83. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「定方さだかた副將ふくしょうしょう嗣業おいこれいたり於石こくとりこ而還」
  84. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「わたるしゃもと爽以へいあずか嗣業かいばく魯以還「
  85. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「定方さだかた於是いきへいしょかくしょきょどおり道路どうろおけ郵驛掩骸こつといやまし疆場ふく生業せいぎょう凡為すな缽羅しょかすめしゃ悉括かえこれじゅうせい安堵あんど如故乃命しょう嗣業將兵しょうへいついすな缽羅定方さだかた引軍かえすな缽羅いたりせきこく西北せいほく咄城人馬じんばかつえとぼしひと珍寶ちんぽう入城にゅうじょう城主じょうしゅ沮達かんいつわり以酒しょく出迎でむかえさそえにゅう閉門へいもんこれおく於石こくしょう嗣業いたりせき國石くんぜ國人くにびと以沙缽羅授之」
  86. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいいちひゃくよんじゅうよん·突厥:「城主じょうしゅ涅達いつわりはた酒食しゅしょく出迎でむかえ魯信其言入城にゅうじょうとげかかわしょう嗣業すんでいたりせきこくねずみ耨設乃以魯屬魯謂嗣業曰我やぶほろびとりこみみ先帝せんていあつわが而我今日きょうこれはいてんいかわが也舊聞漢ほう殺人さつじんみな都市としいたりきょうころせわが請向あきらりょう使とく謝罪しゃざい先帝せんてい本願ほんがん也高むね聞而愍之」
  87. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「定方さだかた以功遷左驍衛大將軍だいしょうぐんふうけいこくこうまたふうけいぶしためたけ邑縣こう
  88. ^ さつもとかめまきよんきゅう:「定方さだかたため行軍こうぐんだいそうかんとりこ突厥魯以けんじれつ其地ためしゅうけんごく於西うみ
  89. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「さくこうはいひだり驍衛大將軍だいしょうぐん邢國こう別封べっぷうけいぶしためたけ邑縣こう
  90. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「じゅう二月蘇定方大破賀魯金牙山盡收其所據之地西域悉平[...]定方さだかた於是悉兵いのちしょ其所きょ開通かいつう道路どうろれつおけかんえきうめ瘞骸こつ所在しょざいといやましぶん其疆かいふく產業さんぎょう魯所とりこかすめしゃ悉括かえこれ於是西域せいいき諸國しょこく安堵あんど如故」
  91. ^ きゅうとうしょ本紀ほんぎだいよん·だかむねじょう:「定方さだかたおさむやぶ西にし突厥すな缽羅あせ魯及咥運闕啜魯走せきこく副將ふくしょうしょう嗣業ついとりこおさむ人畜じんちく前後ぜんこう四十餘萬甲寅西域平以其地置蒙池昆陵二都護府」
  92. ^ さつもとかめまきよんさんよん:「こうはじめあきらけいさんねんじゅういちがつ定方さだかた俘賀魯到京師けいしみかどいい侍臣じしん曰賀魯背おんこんよくさきけんじ俘於あきらりょう乎許けいむねたい曰古しゃ而凱還そくいんいたりさく勛於びょうわか諸侯しょこう以王いのち討不にわまたけんじ俘於天子てんし近代きんだい征伐せいばつかつとしまたもちい斯禮未聞みもんけんじ俘於りょうしょ也伏以園いむ敬義たかよしどうきよしびょう陛下へいかこうおもえしょはつざいれいたがえまたくだりじゅうにちかえけんじ於昭りょうじゅうななにちつげ於大おだいしゃ皇帝こうてい臨軒大會たいかい文武ぶんぶひゃく夷狄いてきくんちょう定方さだかたえびすふくみさお魯獻於樂かかこれきたみかどせめ不能ふのうたい刑部おさかべ尚書しょうしょちょうまごおき跪於階下かいかそう曰伊うららどうけんじ俘賀魯請づけ所司しょしだいかんぞく受之以出みことのりめん其死」
  93. ^ ぜんからぶんまきじゅうさん·分立ぶんりつわたるしゃためきょうむかしほろびあせためつぎ往絕あせみことのり:「西にししげるかからんさんじゅうねんしゃ魯猖きょう百姓ひゃくしょうおも劫掠ごうりゃくちん君臨くんりん四海しかいじょうひとし養育よういく不可ふか使きょうずるとりこほしいままぎょうおかせりょう無辜むこあまひさし遭塗ずみみぎたむろまもる將軍しょうぐん定方さだかたひとし統率とうそついさむきた討逐きょうとうせんとおるすめらぎふう南道みなみどう撫育ぶいくとげ使きょうみぞかしこたけしえびすじん慕德叛柔ふく西域せいいきそう平賀ひらか父子ふしすんでやめとりこしょあたま部落ぶらく須有すべりょうきょう闕庭ひささん宿衛しゅくえいふかかん恩義おんぎ甚知法式ほうしき所以ゆえん冊立さくりつきょうとうかくため一部いちぶあせただししょせいしたがえ魯非其本じょうきょうとうざいいたりそくくだまた赤心せきしんむこうこくきょうむべあずかうけたまわけいとうじゅん部落ぶらく大小だいしょうもち高下こうげぶしきゅう授刺以下いかかん
  94. ^ 敦煌とんこうぞうぶん吐蕃文獻ぶんけん譯註やくちゅう》(甘肅かんせい教育きょういく出版しゅっぱんしゃ,2000ねんぬの凡、うま德合とくあいちょ 編年史へんねんしだいじゅうじょう
  95. ^ 敦煌とんこうほん吐蕃歷史れきし文書ぶんしょ》(ぞうていほん民族みんぞく出版しゅっぱんしゃ,1992ねんおう堯、ちん踐踐譯註やくちゅう 大事だいじ紀年きねん:「及至ひつじねん,(こうはじめあきらけいよんねんおのれ,659ねん),さんひろしちゅう於『さつ鹿しかえんだいろんひがしさんぜん往吐たに渾(おもね豺)。いたるのべ莽布ささえ於烏うみひがし岱』しょあずかからあさ定方さだかた交戰こうせんいたるのべまた,以八萬之眾敗於一千。ためいちねん。」
  96. ^ Christopher I. Beckwith. The Tibetan Empire in Central Asia: A History of the Struggle for Great Power Among Tibetans, Turks, Arabs, and Chinese During the Early Middle Ages. Princeton University Press. 28 March 1993: 27–28 [2018-12-20]. ISBN 0-691-02469-3. (原始げんし內容そん檔於2022-05-11). 
  97. ^ あつし瓊培. 《しろ》. ほうみことわけおう沂暖校訂こうてい. あららぎしゅう: 西北せいほく民族みんぞく學院がくいん. 1981: 71. 
  98. ^ せいけん. 敦煌とんこうほん吐蕃历史ぶん大事だいじ记年ゆう关唐しげる关系てき译注じつ遗》. 西藏にしくら研究けんきゅう. 1985-04-02, (だい1) [2018-12-20]. ISSN 1000-0003. (原始げんし內容そん檔於2018-12-20). 
  99. ^ えびすしょうほう; 楊惠れい. 敦煌とんこうぞうぶん写本しゃほん《吐谷浑(おもね豺)纪年》ざんまきさいさがせ. 敦煌とんこう研究けんきゅう. 2003, (だい1): 92 [2018-12-20]. (原始げんし內容そん檔於2018-12-21). 
  100. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「にわかゆうおもえゆい闕俟きん曼先鎮諸えびすよう其所及疏勒朱般蔥みね三國復叛詔定方為安撫大使率兵討之」
  101. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「かいおもえゆい闕俟きん曼先鎮諸えびすこう所部ところぶ及疏勒朱なみかつ般陀三國復叛詔定方還為安撫大使」
  102. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「おもえゆい俟斤曼帥疏勒しゅなみ謁般陀三こくはん擊破げきは于闐みずのと以左驍衛大將軍だいしょうぐん定方さだかた為安ためやすなで大使たいし以討
  103. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「いたりすい而賊保馬やすま頭川ずかわ於是せんせいそついちまん人馬じんばさんせんひきはせ掩襲いちにちいち夜行やこうさんひゃくさとつめあさいたり城西じょうさい十里じゅうり曼大おどろきりつへいこばめせん於城もんそとぞくはい績退保馬やすま保城ほうしろ王師おうししんたむろ其門」
  104. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「りつへいいたりすい而賊堞馬頭川ずかわ定方さだかたせんせいそつまんさん千襲之晝夜馳三百里至其所都曼驚戰無素遂大敗走馬保城」
  105. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「定方さだかたぐんいたりぎょうすいおもえゆい馬頭ばとうがわ定方さだかたせん精兵せいびょうまんにんさんせんひきはせ往襲いちにちいち夜行やこうさん百里詰旦至城下都曼大驚戰於城外都曼敗退保其城」
  106. ^ さつもとかめまきよんひゃくじゅう:「へいいたりすい而賊保馬やすま頭川ずかわ於是せん精兵せいびょうまんにんさんせん掩襲いちにちいち夜行やこうさん百里詰朝而到其城都曼大驚拒戰於城門之外賊師敗績」
  107. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「いれよるもろぐんややいたりよんめんかこえ伐木ばつぼくためおさむぬのれつ城下しろした曼自めんめんばく開門かいもん俘還いたり東都とうとだかそういぬいよう殿どの定方さだかたみさお曼特勒獻蔥嶺以西いせい悉定以功しょく邢州鉅鹿邑五ひゃく
  108. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「進攻しんこう曼計きゅうとげめんばくくだ俘獻於乾殿どの有司ゆうし請論如法にょほう定方さだかた頓首とんしゅ請曰しんむかいさとし陛下へいかもと以不ねがい丐其いのちみかど曰朕ためきょうちょん信乃しのなだめ蔥嶺以西いせいとげていしょく邢州鉅鹿さん百戶遷左武衛大將軍」
  109. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「及暮しょぐんつぎいたりとげかこえこれ曼懼而出くだ
  110. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「あらわけい五年從幸太原制授熊津道大總管率師討百濟」
  111. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「ため神丘かみおかどうだいそうかんりつ討百ずみ
  112. ^ さつもとかめまきはちじゅうよん:「はちがつみずのと以蘇定方さだかたひとし討平百濟くだらきょく赦神おかどう行軍こうぐんだいそうかん以下いか兵士へいし及其父母ちちはは妻子さいしだい辟罪やめ下賜かし天下でんかだいなまぐさ
  113. ^ きゅうとうしょ本紀ほんぎだいよん·だかむねじょう:「みずのと以邢こくおおやけ定方さだかたため神丘かみおかどうそうかんりゅうはくえいためこんえびすどうそうかん
  114. ^ ぜんからぶんまきりょうひゃく·だいとうたいら百濟くだらこく碑銘ひめい:「使つかいぶし神丘かみおか、嵎夷、うまかんくまとういちじゅうよんみちだいそうかんひだりたけまもる大將軍だいしょうぐんうえばしらこく、邢國こう定方さだかた,迭遠構於曾城,ちょう瀾於すいよう英圖えいと於武ちょう。」
  115. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「百濟くだら恃高うらら援數おかせしんしんおう春秋しゅんじゅう上表じょうひょうもとめすくいからし以左たけまもる大將軍だいしょうぐん定方さだかたため神丘かみおかどう行軍こうぐんだいそうかんそちひだり驍衛將軍しょうぐんりゅうはくえいとう水陸すいりくじゅう萬以伐百濟以春秋為嵎夷道行軍總管將新羅之眾與之合勢」
  116. ^ さん國史こくししん本紀ほんぎだい:「さんがつとうだかむねいのちひだりたけまもる大將軍だいしょうぐん定方さだかたため神丘かみおかどう行軍こうぐんだいそうかんきむひとしといためふくだいそうかんそちひだり驍衛將軍しょうぐんりゅうはくえいとう水陸すいりくじゅうさんまんぐん以伐ひゃくすみ
  117. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「ねんさんがつ以左たけまもる大將軍だいしょうぐん定方さだかたため神丘かみおかどう行軍こうぐんだいそうかんりつひだり驍衛將軍しょうぐんりゅうはくえいみぎたけまもる將軍しょうぐん馮士滄龐孝泰たかやすとうなみはつしん眾以討百濟百濟恃高麗之援屢侵新羅故也」
  118. ^ さん國史こくし百濟くだら本紀ほんぎだいろく:「こうはじめみことのりひだりまもる大將軍だいしょうぐん定方さだかたため神丘かみおかどう行軍こうぐんだい摠管りつひだりまもる將軍しょうぐんりゅうはくえいみぎたけまもる將軍しょうぐん馮士ひだり驍衛將軍しょうぐん龐孝こうすべへいじゅうさんまん以來いらいせいけん以新おうきん春秋しゅんじゅうため嵎夷どう行軍こうぐん摠管はた其國へいあずかこれごうぜい
  119. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「定方さだかた城山しろやまずみうみいたりぐま津江つえこうぞくたむろへいよりどころこう定方さだかたます東岸とうがんじょうやま而陣あずかこれ大戰たいせんあげぶたうみ相續そうぞく而至ぞくはい績死しゃすうせんにん自餘じよ奔散ぐうしお上連じょうれん入江いりえ定方さだかた於岸じょうようじん水陸すいりくひとしすすむかじ譟直おもむきしん
  120. ^ さん國史こくし列傳れつでんだいなな·かいはく:「からあらわけいねん庚申こうしんだかむね以蘇定方さだかたため神丘かみおかどうだいそうかんりつずみうみあずかしん百濟くだらかいはくため將軍しょうぐん簡死せんにんこばめ曰以一國之人當唐羅之大兵國之存亡未可知也恐吾妻<闋一>ぼつためやつ婢與其生はずかしめ如死かいとげつきころせいたりやましつらえさん營遇しんへいしょうせんちかい眾曰むかし踐以五千人破吳七十萬眾今之日宜各奮勵決勝以報國恩遂<闋一>たたかえ以一當千羅兵乃卻如是進退至四合力屈以死」
  121. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「城山しろやまずみうみいたりぐま津口つくちぞくひんこうたむろへい定方さだかたいずるひだり涯乘やま而陣あずかこれせんぞくはい死者ししゃすうせん王師おうしじょうしお而上舳艫じくろ銜尾しん而噪定方さだかたすすむ夾引ちょく趨真都城みやこのじょう
  122. ^ さん國史こくし列傳れつでんだいよん·:「かいだかむね以蘇定方さだかたため神丘かみおかどうだいそうかんりつ討百ずみみかどせいじんといとい道路どうろけんえき去就きょしゅう便宜べんぎじんとい應對おうたいゆうしょうみかどえつせい授神おかどうふくだいそうかん<闋一>赴軍ちゅうとげあずか定方さだかたわたるうみいたとくぶつとう
  123. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「定方さだかた引軍成山なりやまずみうみ百濟くだらよりどころぐま津江つえこう以拒定方さだかたすすむ擊破げきは百濟死者數千人餘皆潰走定方水陸齊進直趣其都城」
  124. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「はつ定方さだかたりつ眾自成山なりやまずみ海賊かいぞくよりどころぐま津江つえこう以拒官軍かんぐん定方さだかた既濟きさいじょうやま而陣あずかこれ大戰たいせんあげぶたうみ相續そうぞく而至ぞくはい績死しゃすう千人自餘大潰遇潮直上官軍連舳入江水陸齊進飛楫鼓譟」
  125. ^ さん國史こくし百濟くだら本紀ほんぎだいろく:「定方さだかた引軍城山しろやまずみうみいたりこく西にしとくぶつ島新しましんおう將軍しょうぐんきん庾信りょう精兵せいびょうまん以赴おう聞之かい群臣ぐんしんといせんもりむべ佐平さへい直進ちょくしん曰唐へいとおわたる溟海習水しゃざいふね必困とう其初陸士りくしひらめきゅうげき以得こころざししんじん大國たいこく援故ゆうかるわがこれこころ若見わかみ唐人とうじんしつ利則としのり必疑懼而敢銳しん故知こちさきあずか唐人とうじん決戰けっせん可也かなりいたるりつつねえいひとし曰不しかとうへい遠來えんらい意欲いよくそくせん其鋒不可ふかとう也新人前ひとまえ屢見はい於我ぐんこんもちわがへいぜいとくおそれ今日きょうけいむべふさが唐人とうじんみち以待其師ろうさき使へんげきぐんおり其銳しかこう伺其便びん合戰かっせんそくとく以全ぐん而保こく矣王猶豫ゆうよ不知ふちしょしたがえ[...]また聞唐へいやめ白江しらえずみ峴遣將軍しょうぐん<闋一>はくそち五千出黃山與羅兵戰四合皆勝之兵寡力屈竟敗<闋一>はく於是ごうへい御熊みくま津口つくちひんこうたむろへい定方さだかたいずるひだり涯乘やま而陣あずかこれせんわがぐん大敗たいはい王師おうしじょうしお舳艫じくろ銜尾しん而噪定方さだかたすすむちょくおもむきしん都城みやこのじょう其都じょういちしゃとめ
  126. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「しろ十許里賊傾國來拒大戰破之殺虜萬餘人追奔入郭」
  127. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「ぞく傾國けいこくらいたけなわせんやぶこれころせとりこ萬人乘勝入其郛」
  128. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「いたり十餘里百濟傾國來戰大破之殺萬餘人追奔入其郭」
  129. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「ぞく傾國けいこくらいこばめ大戰たいせんやぶこれころせとりこ萬餘人追奔入郭」
  130. ^ さん國史こくし百濟くだら本紀ほんぎだいろく:「わがぐん悉眾こばめまたはい死者ししゃ萬餘人唐兵乘勝薄城」
  131. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「其王慈及太子たいしたかし奔於北境きたざかい定方さだかたすすむかこえ其城慈次たい自立じりつためおう嫡孫ちゃくそんぶんおもえ曰王與太よた雖並出城でしろ而身ざい叔總兵馬へいばそく擅為おう假令たといかんへい退すさわが父子ふしとう不全ふぜん矣遂りつ左右さゆうとうじょう而下百姓ひゃくしょうしたがえたい不能ふのうどめ定方さだかたいのちそつ登城とじょうけんのぼり於是たい開門かいもんひたすら顙其大將たいしょう祢植またはたよし慈來くだ太子たいしたかしなみあずかしょ城主じょうしゅみなどうおく款」
  132. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「おうよし慈及太子たいしたかしきたはし定方さだかたすすむかこえ其城慈子しげこたい自立じりつためおうりつ眾固守義もりよし慈之まごぶんおもえ曰王與太よた而叔あにとく擅為おうわか王師おうしかえわが父子ふしやすぜんとげりつ左右さゆうすが城下じょうかじんしたがえたい不能ふのうどめ定方さだかた使登城とじょうけんから旗幟きし於是たい開門かいもん請命其將祢植あずかよし慈降たかし及諸じょうおく款」
  133. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「百濟くだらおうよし慈及太子たいしたかし逃於北境きたざかい定方さだかたすすむかこえ其城慈次たい自立じりつためおうそち固守こしゅ隆子たかこぶんおもえ曰王與太よたみなざい而叔遽擁へいおう使つかいのう卻唐へいわが父子ふし必不ぜん矣遂左右さゆう逾城らいくだ百姓ひゃくしょうみなしたがえたい不能ふのうどめ定方さだかたいのちぐん登城とじょうりつのぼりたい窘迫開門かいもん請命於是慈隆及諸城主じょうしゅみなくだ
  134. ^ さん國史こくし百濟くだら本紀ほんぎだいろく:「おうともめん嘆曰悔不よう成忠しげただげん以至於此とげ與太よたこうはしきたひな定方さだかたかこえ其城おう次子つぎこたい自立じりつためおうりつ固守こしゅ太子たいしぶんおもえいい王子おうじたかし曰王與太よた而叔擅為おうわかとうへいほどけわが等安とうあんとくぜんとげりつ左右さゆう<闋一>而出みんみなしたがえたい不能ふのうどめ定方さだかたれいちょう堞立から旗幟きしたい窘迫開門かいもん請命於是おう太子たいしこうあずかしょしろみなくだ
  135. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「其王慈及太子たいしたかし奔於北境きたざかい定方さだかたすすむかこえ其城慈次たい自立じりつためおうりつ眾還固守こしゅ慈嫡まごぶんおもえ曰王與太よた雖並出城でしろ而身ざい叔總へい焉專擅為おう假令たといかん退すさわが父子ふしとう不全ふぜん矣遂りつ左右さゆうとうじょう而下百姓ひゃくしょうしたがえたい不能ふのうどめ定方さだかたれい兵士へいし登城とじょうりつのぼり於是たい開門かいもんひたすら顙請いのち大將たいしょう祢植またはたよし慈來くだ太子たいしたかしなみあずかしょ城主じょうしゅみなどうおく款百ずみ悉平」
  136. ^ はいきょう:《だいとうたいら百濟くだらこく碑銘ひめい關聯かんれん問題もんだいこうしゃくとう論叢ろんそうだいはち輯)》,2006ねん1がつ
  137. ^ ぜんからぶん》·まきりょうひゃく:「はらおっとすめらぎおう所以ゆえんあさ萬國ばんこくせいひゃくれいきよし海外かいがい而舉てん維,たく寰中而恢からま,莫不あげ七德以馭遐荒,耀五兵而肅邊徼。雖質ぶん軌,驟殊,揖讓あずか干戈かんか,受終あずか革命かくめいみなろう神武じんむ戢佳へいきょうすい挻妖,きゅう嬰遂戮;沿庭構逆,さんなえやめ誅。わか乃式鑒千よわいはるおもんみ萬古ばんことうぬりだいかんてんうまうけたまわ曹。いたり於任じゅう鑿門,れいたかし推轂,馬伏ばぶしなみそくどう交阯,竇車そく勒石つばめしか,竟不能ふのうくつがえ鯷海奔鯨,ぜっおおかみやまふうじいのこきょう邱樹磨滅まめつこえちり寂寥せきりょうまどかかなえつてぽうしょ莫紀?蠢茲卉服,竊命とうしゅうえりたいきゅうえびす懸隔けんかくまんさと。恃斯けんやく,敢亂てんつねひがししん鄰,きんたがえあきらみことのりきたれんぎゃく豎,とおおうふくろうごえきょうがい棄直しん,內信祅婦?刑罰けいばつしょ及,ただざい忠良ただよしちょうにんしょ,必先諂幸。摽梅ゆい怨,じく銜悲。わがすめらぎたいきょみことつうさんひょうごくたま衡毓けいにちかくあがてる。輯五みず而朝ひゃくかみみょう萬物ばんぶつ而乘ろくべんせいざいはしら於西きたかいひも於東おひがしみなみわかおっとせきりゅう,褒鳳かかかねきょうひとしだましょく,拔窮うろこ於涸わだち,拯危たまご於傾あい此遺甿,いきどお斯凶うしおやつるしさきいのちもとえびす使つかいぶしかみ邱嵎えびすかんぐま〈闕いち〉一十四道大總管左武衛大將軍上柱國邢國公蘇定方,じょうどお構於曾城,ちょう瀾於すいよう英圖えいと於武ちょうしめぎしげる於文あきら霍而おい,俯彭かん而高ちょうくも一身いっしんきもいさむかんむり三軍さんぐんせきまんにんてきこえゆうひゃくだい。捐軀殉國じゅんこくこころざしおかせりゅうかぶら而逾けんけいせい重義しげよし〈闕よん〉而難〈闕いち心懸こころがけ水鏡みずかがみ鬼神きじん以蔽其形;しつまつ筠,風霜ふうそう不能ふのうあらため其色。いたり於〈闕さんなでえびすまきよんさん惑,顧冰いずみ以表きよし,〈闕いちしもかしわ以凝さだ不言ふげん而合詩書ししょくだり而〈闕さんはた白雲しらくも而共爽,あずかあおまつ而競〈闕いちとお〈闕さん〉咸有慚德,ふくだいそうかんかんむりぐん大將軍だいしょうぐん〈闕さんまもる將軍しょうぐんじょうはしら國下こくがはくおおやけりゅうはくえいうえ〈闕はちろうびょうざい〈闕いちしょう相之あいのげんためぶつ范,ぎょうなりそくゆたか布帛ふはく馥芝らん,績着はたつね調しらべ諧律りょじゅう平生へいぜい〈闕さんけいしゃく璧於寸陰すんいんやぶおに勛,つね〈闕いち不足ふそくひらめ〈闕いちこれさく〈闕いちわたるげんふくだいそうかん使ぶし隴州しょ軍事ぐんじ隴州とげ史上しじょうばしら國安くにやすえびすこう〈闕ろく〉舉雄〈闕いち六藝りくげいどおりさんりゃく〈闕はちのうれいぐんとめ渴無ろう〈闕はちふくだいそうかんひだりりょうぐん將軍しょうぐんきん〈闕よん溫雅おんが沈毅ちんき小人こどもほそゆきゆう君子くんし高風こうふうたけすんでとめほこぶんまたやわとお行軍こうぐんちょう中書ちゅうしょ舍人とねり〈闕くも翹吐しゅうにちきょうあげてるふう偃搢しんみちこう雅俗がぞく,鑒清もとかくもちじゅう荀裴。べんあが〈闕さんきゅうりゅう學海がっかい〈闕いちはつ穎掩七澤ななさわ於文〈闕ふとしでん深謀しんぼうこらえささげくつわもり鎮南とおほぼなお扶輪。〈闕おおとりあるきよしくじら壑。邢國こううん鑒,そう驍雄,かげひらき偃月ぶん含曉ぼしりゅう韜豹鈐,必表於情げんもとおんなこう,咸會於神ようきょう乎稽てんあり聚,〈闕いち地蜂じばちるいたんきつね含沙,長蛇ちょうだ吐霧,れん營則豺狼さいろう滿まんみちゆいじんそくふくろう獍彌やま。以此兇徒きょうとまもり斯窮けわし不知ふちかか縷將ぜっ,墜之以千鈞せんきんるい棋先危,あつ以九かなえ。於時秋草あきくさおとろえ而寒やまきよしりょう飆舉而殺げん逸足いっそくあずかりゅうでんそうじょうども奔雷きおいふるえいのち豐隆とよたか而後殿どのひかえれつかけ以前いぜん。沴氣祅氛,掃之以戈戟;たかし墉峻堞,碎之以沖〈闕いちかん。〈闕いちぐんそうかんみぎたむろまもるろうしょうじょうはしらこくしゅく〈闕みぎ一軍總管使持節淄州刺史上柱國〈闕いちもと嗣,しょせきかわざいつつみ文武ぶんぶはさみ山西さんせいたけしじょう冀北浮雲うきぐも呼吸こきゅう則江のりえうみとまなみ,嘯咤そくふうかみなりぜっひびき。嵎夷どうふくそうかんみぎたけまもるちゅうろうしょうじょうはしらこく曹繼叔,ひさしあずか經綸けいりん,備嘗艱險,かど頗之強飯こわいいどうたかし國之くにゆき老臣ろうしん行軍こうぐんちょう岐州司馬しばもり爽,しつ耀璇ほうよしりゅうかつら畹。追風おいかぜ籋電,騁逸くつわ西海さいかいはいくもげきすい,搏勁翮於みなみ溟。驥足きそくすんでさるおおとりいけだつみぎ一軍總管宣威將軍行左驍衛郎將上柱國劉仁願,こうためちゅう自家じかけいこくはや聞周あなきょうばん孫吳そんごこれしょすんでえいいさみざい,仍兼ぶん吏之〈闕いち〉。邢國こうたてまつえん聖旨せいし以班じょう〈闕きむ如粟而不窺,うま如羊而不顧。みぎたけまもるちゅうろうはたきむりょうひだり一軍總管使持節沂州刺史上柱國馬〈闕ろく〈闕なな〈闕ななぐん〈闕いちりょう邢國こう〈闕いちたてまつかみ〈闕せん節度せつどある發揚はつよう蹈厲,あるのち勁前ほこさきてん入地いりじ千變萬化せんぺんばんか〈闕よん〈闕いちでんはつふうぎょう,〈闕よんえいごえみち。邢國こう〈闕〉甚投もろみぎゃくいのちしゃそく肅之以秋しも歸順きじゅんしゃそくじゅん以春つゆいち舉而ひらめきゅう〈闕さん〉而掃さんかん,〈闕元之もとゆき〈闕のりせんしろおおせとくはつ〈闕のりまんさと銜恩。〈闕ろく〉及太子たいしたかし〈闕おうあまりこういちじゅうさんにんなみだい首領しゅりょう大佐たいさ〈闕なななり以下いかななひゃく餘人よにんすんでいれじゅう闈,なみ就擒。〈闕よん以牛しゃ,〈闕〉こも勛,しきけんじきよしびょう,仍變斯獷ぞくれい沐宏猷,冕褰〈闕いちさき〈闕さん〉烹鮮せいにしき,必選賢良けんりょう,庶使剖符績邁於龔,〈闕さんこう於卓魯,凡置とく,卅ななしゅうさんひゃくじゅうけん廿にじゅうよんまんくちろくひゃく廿にじゅうまんかくひとし編戶あみど,咸變えびすふう大書たいしょ〈闕いちかん〈闕さん所以ゆえん旌其ぜん,勒辭かなえめいじけい所以ゆえんひょう其功。〈闕いちしゅうちょうばん兵曹へいそうとげあきら,濫以いさおざい,謬司ぶん翰,がく〈闕さん〈闕いち風雲ふううんしょくごう將軍しょうぐんねがいあずかれん頗之れつかんしょう博士はかせなお〈闕いち〉賈〈闕いち衡。衰容すいようなお〈闕よんほこ〈闕じゅうきゅう〈闕じゅう〉乃〈闕じゅうはち桑田くわたどうてん〈闕いち永久えいきゅう〈闕さんとうあずか日月じつげつちょうかか。其銘曰:悠悠ゆうゆうとげいにしえ,〈闕九字くじ權輿けんよ〈闕いん〈闕いちきょ以□以〈闕いちある畋或りょう,〈闕九字くじ〉及〈闕だいいちぬし,揖讓からおそれ革命かくめいたけ,〈闕ひとしきゅう,屢擾干戈かんかしき〈闕さん〈闕いち西にし〈闕ろくわがせいすめらぎとく穹蒼,〈闕千古せんこ,〈闕ろくとお徼。遐哉大荒おおあら,咸受ただしついたち,〈闕さん〉疆〈闕ろく三光さんこう,叛族さわくに,憑凌水鄉すいごうてんくだはたひょう〈闕いちりゅう驤,ゆみ月影つきかげけんどうぼしすすき,貔貅ひゃくまんでん舉風あげ,〈闕ななくわ冰銷なつよう碎秋しもたけしたけし武夫たけおあきらあかり號令ごうれい,〈闕びょう〈闕ひとし軍政ぐんせいかぜいわおくさおとろえにち〈闕きよししもほこ〈闕じゅうさん〉勁巨〈闕いち〉授首,逋誅請命,〈闕よんあたりすみ〈闕嘉樹よしき翦,〈闕じゅうかん〈闕さんようことこうこばめ〈闕さんながかたかい地軸ちじく以無〈闕いち〉」
  138. ^ 金石かねいし萃編》まきじゅうさん·とうじゅうさん·ひら百濟くだらこくどう
  139. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「百濟くだら悉平ぶん其地ためろくしゅう俘義慈及りゅうやすしとうけんじ於東おひがし定方さだかた前後ぜんこうほろびさんこくみなせいとりこ其主賞賜しょうし珍寶ちんぽう不可ふかかちけい仍拜其子けいぶしためなお輦奉定方さだかたにわか遷左たけまもる大將軍だいしょうぐん
  140. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「百濟くだらたいら俘義慈隆たいとうけんじ東都とうと定方さだかたしょめつ三國皆生執其王賞賚珍寶不勝計加慶節尚輦奉御」
  141. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「百濟くだらゆう部分ぶぶんすべさんじゅうななぐんひゃくしろななじゅうろくまんみことのり以其おけぐまとうとく以其酋長しゅうちょうためとく刺史ししじゅういちがつつちのえいぬついたちじょうのりてんもんろう受百ずみ俘自其王慈以みなしゃく定方さだかた前後ぜんごめつ三國皆生擒其主赦天下」
  142. ^ ぜんからぶんまきりょうひゃく·だいとうたいら百濟くだらこく碑銘ひめい:「凡置とく,卅ななしゅうさんひゃくじゅうけん廿にじゅうよんまんくちろくひゃく廿にじゅうまんかくひとし編戶あみど,咸變えびすふう
  143. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいいちひゃくよんじゅうきゅう·百濟くだら:「ろくねんしんおうきん春秋しゅんじゅうまたおもてしょうひゃくすみあずか高麗こうらい靺鞨おかせ其北かいやめぼつさんじゅうあまりじょうあらわけいねんいのちひだりまもる大將軍だいしょうぐん定方さだかたみつるへい討之大破たいは其國とりこ慈及太子たいしたかししょうおうたかしえんじにせしょうじゅうはちにんとうおく於京じょうせめ而宥其國きゅうぶんためみつるぐんさんじゅうななしろひゃくななじゅうろくまんいたり乃以其地ぶんおけぐまかん東明とうめいとうとくかくみつるしゅう縣立けんりつ其酋みぞためとく刺史しし及縣れいいのちみぎまもるろうしょうおうぶんためぐまとくそうへい以鎮
  144. ^ 太平たいへい御覽ごらんすめらぎおうさんじゅう·とうだかむね天皇てんのう大帝たいてい:「ねんはちがつかのえたつ定方さだかたひとし討平百濟くだらめんばく其王扶餘慈國ぶんため五部ごへぐんさんじゅう七城二百戶七十六萬以其地分置熊津等五都督府」
  145. ^ さつもとかめまきよんきゅう:「またためだいそうかん討百濟平之分其地為六州俘其王義慈及子隆泰來獻」
  146. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうよん·りゅうひとし軌:「とき定方さだかたすんでたいら百濟くだらとめろうはたりゅうひとしねがい百濟くたらぐすく鎮守ちんじゅまた以左まもるちゅうろうしょうおうぶんためぐまとくやすなで其餘眾」
  147. ^ さん國史こくし列傳れつでんだいろく·ちぇ致遠:「至高しこうむね皇帝こうていあらわけいねんみことのり定方さだかたみつるじゅうみち強兵きょうへいろう舡萬隻大破百濟乃於其地置扶餘都督府招緝遺氓<闋二>以漢かん以臭あじ不同ふどう屢聞離叛りはんとげ徙其じん於河みなみ
  148. ^ 太平たいへい御覽ごらんよんえびす·東夷あずまえびす·百濟くだら:「ろくねんしんおうきん春秋しゅんじゅう上表じょうひょうしょうひゃくすみあずか高麗こうらい靺鞨おかせ其北かいやめぼつさんじゅうあまりじょうあらわけいねんいのちひだりまもる大將軍だいしょうぐん定方さだかたみつるへい討之大破たいは其國とりこ慈及太子たいしたかししょうおうたかしえんじにせしょうじゅうはちにんとうおく於京じょうせめ而宥其國きゅうぶんためみつるぐんさんじゅうななしろひゃくななじゅうろくまんいたり乃以其地ぶんおけぐまかん東明とうめいとうとくかくみつるしゅう縣立けんりつ其酋みぞためとく刺史しし及縣れいいのちみぎまもるろうしょうおうぶんためぐまとくそうへい以鎮
  149. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·りゅうひとし軌:「はつ定方さだかたすんでたいら百濟くだらとめろうはたりゅうひとしねがいもり其城ひだりまもるちゅうろうしょうおうぶんためぐまとくなでおさめ殘黨ざんとう
  150. ^ 太平たいへい御覽ごらんよんえびす·東夷あずまえびす·しん:「えいろくねんひゃくすみあずか高麗こうらい靺鞨りつへいおかせしんきたかい其王春秋しゅんじゅう使つかい上表じょうひょうもとめすくいあらわけいねんいのちひだりたけまもる大將軍だいしょうぐん定方さだかたためぐまどうだいそうかんすべ水陸すいりくじゅうまん仍令春秋しゅんじゅうため嵎夷どう行軍こうぐんそうかんあずか定方さだかた討平ずみ俘其おう扶餘慈來けんじ
  151. ^ きゅうとうしょ本紀ほんぎだいよん·だかむねじょう:「はちがつかのえたつ定方さだかたひとし討平百濟くだらめんばく其王扶餘慈國ぶんため五部ごへぐんさんじゅうななしろひゃくななじゅうろくまん以其ぶんおけぐまとう五都督府曲赦神丘昆夷道總管已下賜天下大酺三日[...]じゅういちがつつちのえいぬついたち邢國こう定方さだかたけんじ百濟王扶餘義慈太子隆等五十八人俘於則天門責而宥之」
  152. ^ さん國史こくし百濟くだら本紀ほんぎだいろく:「定方さだかた以王及太子たいしこう王子おうじ泰隆やすたかえんじ大臣だいじん將士しょうしはちじゅうはちにん百姓ひゃくしょういちまんせんはちひゃくななにんおく京師けいしこく本有ほんゆうさんじゅうななぐんひゃくしろななじゅうろくまんいたり析置ぐまかん東明とうめいきんさざなみとくやすとくかくみつるしゅうけん擢渠ちょうためとく刺史しし縣令けんれい以理いのちろうはたりゅうひとしねがいもり都城みやこのじょうまた以左まもるろうしょうおうぶんためぐまとくなで其餘眾定かた以所<闋一>見上みかみせめ而宥
  153. ^ ぜんからぶんまききゅうひゃくきゅうじゅう·からりゅうひとしねがいきのいさお:「ねん授夷どう行軍こうぐんそうかんずい邢國こう定方さだかたやぶ百濟執其王扶餘義慈並太子隆及佐<闕二>りつ以下いかななひゃく餘人よにんそと首領しゅりょう魯都大秦たいしんたけすすむ扶餘せい受延しか普羅ふらとうなみ而作りつこう歸順きじゅんあるいれはし<闕一>闋或<闕四>ごうさかいのこはじむ安堵あんど如舊しつらえかんぶんしょくかく有司ゆうしそんそく以君ためみやこまもるけんとめ鎮新おうきん春秋しゅんじゅうまた少子しょうし<闕一>やすしどういき固守こしゅ雖夷なつゆうこと長幼ちょうよう懸隔けんかくくん綏和接待せったいおんわかおとうとけい
  154. ^ しんとうしょ本紀ほんぎだいさん·だかむね:「みずのえうまひだり驍衛大將軍だいしょうぐんちぎり苾何りょくため浿江どう行軍こうぐんだいそうかん定方さだかたため遼東りゃおとんどう行軍こうぐんだいそうかんひだり驍衛將軍しょうぐんりゅうはくえいため平壤ぴょんやんどう行軍こうぐんだいそうかん以伐だかうらら
  155. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「みずのえうま以左驍衛大將軍だいしょうぐんちぎり苾何りょくため浿江どう行軍こうぐんだいそうかんひだりたけまもる大將軍だいしょうぐん定方さだかたため遼東りゃおとんどう行軍こうぐんだいそうかんひだり驍衛將軍しょうぐんりゅうはくえいため平壤ぴょんやんどう行軍こうぐんだいそうかんかばのしゅう刺史ししほど名振なぶりためちりばめかたどうそうかん將兵しょうへいぶんどうげき高麗こうらいあおしゅう刺史ししりゅうひとし軌坐とく海運かいうんくつがえふね以白ころも從軍じゅうぐんこう[...]じょうほししょう大軍たいぐんつぎ癸巳きし皇后こうごうこうひょう諫親せいだかうららみことのりしたがえこれ
  156. ^ きゅうとうしょ本紀ほんぎだいよん·だかむねじょう:「なつがつへいさるいのちひだり驍衛大將軍だいしょうぐんりょうこくおおやけちぎり苾何りょくため遼東りゃおとんどうだいそうかんひだりたけまもる大將軍だいしょうぐん邢國こう定方さだかたため平壤ぴょんやんどうだいそうかん兵部ひょうぶ尚書しょうしょ同中どうちゅうしょ門下もんか三品樂安縣公任雅相為浿江道大總管以伐高麗」
  157. ^ さん國史こくし列傳れつでんだいなな·きれおこり:「文武ぶんぶおう元年がんねんから皇帝こうてい定方さだかた討高うららかこえ平壤ぴょんやんじょう
  158. ^ しんとうしょ本紀ほんぎだいさん·だかむね:「よんがつかのえたつにんみやびしょうため浿江どう行軍こうぐんそうかんちぎり苾何りょくため遼東りゃおとんどう行軍こうぐんそうかん定方さだかたため平壤ぴょんやんどう行軍こうぐんそうかんしょう嗣業ため扶餘どう行軍こうぐんそうかんみぎ驍衛將軍しょうぐんほど名振なぶりためちりばめかたどう行軍こうぐんそうかんひだり驍衛將軍しょうぐん龐孝たいため沃沮どう行軍こうぐんそうかんりつさんじゅうぐん以伐だかうらら
  159. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「かのえたつ以任みやびしょうため浿江どう行軍こうぐんそうかんちぎり苾何りょくため遼東りゃおとんどう行軍こうぐんそうかん定方さだかたため平壤ぴょんやんどう行軍こうぐんそうかんあずかしょう嗣業及諸えびすへいさんじゅうぐん水陸すいりくぶんどう並進へいしん
  160. ^ さん國史こくししん本紀ほんぎだいろく:「元年がんねんろくがつ入唐にっとう宿衛しゅくえいじんとい儒敦とういたりつげおう皇帝こうていやめ定方さだかたりょう水陸すいりくさんじゅう五道兵伐高句麗遂命王擧兵相應雖在服重違皇帝勅命」
  161. ^ しんとうしょ本紀ほんぎだいさん·だかむね:「八月甲戌蘇定方及高麗戰於浿江敗之」
  162. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「あき七月甲戌蘇定方破高麗於浿江屢戰皆捷遂圍平壤城」
  163. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「はちがつ定方さだかたやぶ高麗こうらい眾於水貝みずがいしきせんみなとしだつ其馬邑山いんさんため營遂ため平壤ぴょんやんじょう
  164. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「いく定方さだかたため遼東りゃおとんどう行軍こうぐんだいそうかんにわか平壤ぴょんやん道破どうはだかうらら眾於浿江だつうま邑山ため營遂かこえ平壤ぴょんやん
  165. ^ さん國史こくし高句麗こうくり本紀ほんぎだいじゅう:「あき八月蘇定方破我軍於浿江奪馬邑山遂圍平壤城」
  166. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「高麗こうらいぶたぶん其子おとこせい以精へいすうまんもりかもみどりすいしょぐんとくわたりちぎり苾何りょくいたり值冰だいごうなんりょく引眾じょう冰渡すい譟而すすむ高麗こうらいだいつぶせつい奔數十里斬首三萬級餘眾悉降男生僅以身免會有詔班師乃還」
  167. ^ さん國史こくし高句麗こうくり本紀ほんぎだいじゅう:「きゅうがつぶたぶん其子おとこせい以精へいすうまんまもりかもみどりしょぐんとくわたりちぎり苾何りょくいたり值冰だいごうなんりょく引眾じょう冰度わたりすい<闋一>而進ぐんつぶせ奔何りょくおいすう十里殺三萬人餘眾悉降男生僅以身免會有詔班師乃還」
  168. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうよん·りゅうひとし軌:「とき定方さだかたたてまつみことのりこううららしんかこえ平壤ぴょんやんかつ而還」
  169. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「かいだい雪解ゆきげかこえかえ
  170. ^ どおりかんまきりょうひゃく:「つちのえとらひだり驍衛將軍しょうぐん白州しらす刺史しし沃沮どうそうかん孝泰たかやすあずか高麗こうらいせん於蛇すいうえぐんはいあずか其子じゅう三人皆戰死蘇定方圍平壤久不下會大雪解圍而還」
  171. ^ しんとうしょ本紀ほんぎだいさん·だかむね:「きのえいぬにんみやびしょう薨戊とら龐孝たい及高うららせん於蛇水死すいし
  172. ^ さん國史こくし高句麗こうくり本紀ほんぎだいじゅう:「じゅういちねんはる正月しょうがつひだり驍衛將軍しょうぐん白州しらす刺史しし沮沃沮道そうかん孝泰たかやすあずかぶたぶんせん於蛇すいうえきょぐんぼつあずか其子じゅうさんにんみな戰死せんし定方さだかたかこえ平壤ぴょんやんかいだい雪解ゆきげ而退凡前これぎょうみな大功たいこう而退」
  173. ^ さつもとかめまききゅうはちろく:「明年みょうねんさんがつ勒兵而還」
  174. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:」はいりょうしゅうやすしゅう大使たいし以定吐蕃吐谷渾「
  175. ^ きゅうとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうさん·定方さだかた:「いぬいふうねんそつねんななじゅうろくだかむね聞而きず惜謂侍臣じしん曰蘇定方さだかた於國有功ゆうこうれいあい褒贈きょうとう不言ふげんとげ使あいさかえ及興言及げんきゅう不覺ふかく嗟悼遽下みことのりおくかそけ州都しゅうととくおくりな曰莊」
  176. ^ しんとうしょ列傳れつでんだいさんじゅうろく·れつ:「いぬいふうねんそつねんななじゅうろくみかど悼之せめいい侍臣じしん曰定かた於國有功ゆうこうとう褒贈わかとう不言ふげんなんよこしま乃贈ひだり驍衛大將軍だいしょうぐんかそけ州都しゅうととくおくりな曰莊」

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維基文庫中的相關文本:きゅうとうしょ/まき83》,出自しゅつじりゅうきゅうとうしょ
維基文庫中的相關文本:しんとうしょ·まき111》,出自しゅつじしんとうしょ