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周子南君 - 維基百科,自由的百科全書 とべいたり內容

周子かねこ南君なぎみ

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周子かねこ南君なぎみぜん113ねん大約たいやく310ねん),也叫做まもるおおやけかんたけみかど時代じだいみこと儒術復古ふっこ,於もとかなえよんねんぜん113ねん分封ぶんぽう中國ちゅうごくじょうみこと二王におう備三つとむ政策せいさくてきいち部分ぶぶん

周子かねこ南君なぎみこくまもる公國こうこく)一直延續到西晉,やくざいあずますすむ時期じきぜっふう

緣起えんぎ[編輯へんしゅう]

上古じょうこ封建ほうけん社會しゃかい時代じだい通常つうじょうめつ其國而不ぜっ其封,往往おうおうざい軍事ぐんじ勝利しょうりなみ斷絕だんぜつ該國てき繼嗣けいし,而是另立しんくんあるもの遷望它地,而使其祖宗そそうとく以血しょく祭祀さいし

はたはじめすめらぎ統一とういつ停止ていし分封ぶんぽうせい實行じっこうぐんけんせいかん高祖こうそ劉邦りゅうほうすべ一天下後雖然對古代朝代設置祭祀,ただしなみぼつゆう封地ほうち建立こんりゅう宗廟そうびょういたりょうかんたけみかど時代じだいいんためどくみこと儒術,儒家じゅか思想しそうてききょうめつこくつぎ絕世ぜっせいとく以有げん推行,於是ざいもとかなえよんねんぜん113ねんふうしゅうちょうのちひめよしみため周子かねこ南君なぎみ,以祭祀さいししゅうちょうさきくん

這種制度せいどざい後來こうらい通稱つうしょうふう二王におうさんつとむこれ

姓氏せいし[編輯へんしゅう]

司馬しば. しゅう本紀ほんぎ. 史記しき. [-61]. 記載きさいかんたけみかどふうひめよしみため周子かねこ南君なぎみしんみとめためひめよしみまもるこくこくくんてき後裔こうえいためみなみ祖先そせんまもるれいこう之子ゆきこ公子こうしみなみ後來こうらいよりゆきこくこれりょく篡奪こくくんくらいただしかお古和こわおうさきけんみとめためひめよしみまもるこく後裔こうえい[1]

沿革えんかく[編輯へんしゅう]

  • 周子かねこ南君なぎみもとかなえよんねんぜん113ねんじゅういちがつちょうしげるひめよしみ以周きさきふうため周子かねこ南君なぎみさんせんざいちょうしゃさんじゅう地位ちい相當そうとう於列こう。其孫ひめとう於地ぶしさんねんぜん67ねん),いんゆび使やつころせすすむ棄市,ふうこく撤消。
  • しゅううけたまわきゅうこう元康もとやす元年がんねんぜん65ねんさんがつへいいぬひめとうてきおとうとおとうとひめのべねんふうため周子かねこ南君なぎみはつもとねんぜん44ねん正月しょうがつあらためふうごうためしゅううけたまわきゅうこうざい諸侯しょこうおうしたなみ受賜諡號しごう
  • しゅううけたまわきゅうこうひめのべねんてき曾孫そうそんひめとうためしゅううけたまわきゅうこう,綏和元年がんねん爵位しゃくいますかくためしゅううけたまわきゅうこう封地ほうち滿まんひゃくさと
  • ていこう元始げんしよんねんあらためためていこう
  • あきら牟公おう篡位あらためためあきら牟公(《外戚がいせき恩澤おんたくこうひょうさくあきら牟公《おう莽傳さく章平しょうへいおおやけ)。
  • しゅううけたまわきゅうこうたてたけしねん(26ねん),ひがしかん王朝おうちょう建立こんりゅうまたあらためためしゅううけたまわきゅうこう
  • まもるおおやけたてたけしじゅうさんねん(37ねん),あらためためまもるおおやけざいそうこうした褒成こううえ西にしすすむやすしはじめさんねん(267ねん朝議ちょうぎふとしつねうえ博士はかせりゅう憙等みとめためまもるおおやけざいさんつとむこれすうおうくだ爵為こう[2]ただしなみ施行しこう[3]

まもる國大こくだいやくざいえい嘉之よしゆきらんこうめつこくあずますすむなりみかど曾經みことのりもとめまもるこう後續こうぞくふう[4]ただししょうじょうやめけいとく而知。

封地ほうち[編輯へんしゅう]

けい[編輯へんしゅう]

周子かねこみなみくん[まもるおおやけ]けい
爵號[爵位しゃくい] 諡號しごう 姓名せいめい 在位ざいい年數ねんすう
周子かねこみなみきみ ひめよしみ ぜん113ねんまえ107ねん(6ねん
周子かねこみなみきみ ひめおけ ぜん107ねんまえ87ねん(24ねん
周子かねこみなみきみ ひめとう ぜん83ねんまえ67ねん(16ねん
周子かねこ南君なぎみ ひめのべねん ぜん65ねんまえ44ねん
しゅううけたまわきゅうほう こう ぜん44ねんまえ36ねん
しゅううけたまわきゅうほう しつ ひめやすし ぜん36ねん
しゅううけたまわきゅうほう ひめ ぜん23ねん
しゅううけたまわきゅうこう ひめとう ぜん15ねん
しゅううけたまわきゅうおおやけ ぜん8ねん
ていこう 4ねん
あきらおおやけ 8ねん
あきらおおやけ ひめつね 14ねん
しゅううけたまわきゅうおおやけ 26ねん
しゅううけたまわきゅうおおやけ ひめたけし 29ねん
まもるおおやけ 37ねん

其後けいしょう司馬しば篡奪曹氏建立こんりゅうすすむあさなおゆうまもるおおやけひめしょ,薨於たいはじめななねん[3]あずますすむ曾經みことのりもとめまもるおおやけそうこうこれ

系圖けいず[編輯へんしゅう]

 
 
 
 
周子かねこ南君なぎみひめよしみ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周子かねこ南君なぎみひめおけ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周子かねこ南君なぎみひめとう
 
 
 
 
 
周子かねこ南君なぎみ
しゅううけたまわきゅうこうこうひめのべねん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しゅううけたまわきゅうしつこうひめやすし
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しゅううけたまわきゅう釐侯ひめ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しゅううけたまわきゅうこう
しゅううけたまわきゅうこう
ていこう
あきら牟公ひめとう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あきら牟公
しゅううけたまわきゅうこうひめつね
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
しゅううけたまわきゅうこう
まもるおおやけひめたけし

くにしょう[編輯へんしゅう]

まもる公國こうこくおけそう一人ひとり相當そうとう於縣れいちょう

  • もとたくなんじ南西なんせいたいらじんひがしかん中期ちゅうきにんまもるこくおおやけしょう[9]
  • だいしゅきょうさききょうちょうちょうりょうじんかん桓帝時任ときとうまもるしょう[10]
  • 裴秀彥,河東かわとう聞喜じん曹魏後期こうきにんまもるこくしょう[11]

參考さんこう文獻ぶんけん[編輯へんしゅう]

  1. ^ 漢書かんしょちゅう·みかど本紀ほんぎ》:曰:「みなみ,其封邑之ごう,以為しゅうそうげん周子かねこ南君なぎみ。瓚說也。れいさきげんせい而後しょうくん,且自よしみやめみなせいひめしるざい史傳しでん。」
  2. ^ そうしょ·荀伯でん》:「またやすしはじめさんねんふとしつねうえ博士はかせりゅう憙等たたえまもるおおやけしょ於大おだいすすむざいさんつとむこれすうおうくだしょうこう。」
  3. ^ 3.0 3.1 すすむしょ·みかど》:「(やすしはじめななねんじゅういちがつちょうまもるおおやけひめしょ薨。」
  4. ^ すすむしょ·みかどだいなな·なりみかど》:みことのり曰:「れきかん先代せんだい,莫不褒崇あかりまつ賓禮ひんれいさんつとむ杞宋けいひかり於周てんむねひめほうまもるたれかんさつころみだれ,庶邦殄悴,しゅうかんこれぜっ而莫ままし。其祥もとめまもるおおやけ山陽さんようこうきんぞくゆう履行りこう修明のぶあき繼承けいしょう其祀しゃきゅうてん施行しこう。」
  5. ^ こう漢書かんしょ·光武みつたけみかど》:「庚午こうご,以殷紹嘉こうあなやすためそうこうしゅううけたまわきゅうこうひめつね)〔たけためまもるおおやけ。」
  6. ^ 三國志さんごくし·しょ·みかど》:「わりかわ內之とろけかげちょうはやしおもんばかひがしぐんまもるこくひたすらおか東武とうぶはつ,鉅鹿廮陶、きょくしゅうみなみかずこう平之ひらのにんじょうちょうじょうこく邯鄲かんたんえき以益ぐん。」
  7. ^ 三國志さんごくし·しょ·ぶんみかど》:「以魏ぐん東部とうぶため陽平ようへいぐん西部せいぶため廣平ひろへいぐん。」
  8. ^ すすむしょ·地理ちりこころざし》:「とみおかぐんたいはじめねんおけみつるけんよんろくせんさんひゃくひたすらおかしげるかげやすまもる。」
  9. ^ ぜん上古じょうこ三代秦漢三國六朝文·咸碑》:「舉孝れんじょろうちゅうひかり祿ろくしげざい,遷衛こくおおやけしょう,授高密こうみつれいつとむ恤民かくれせい成功せいこう簡。」
  10. ^ こう漢書かんしょ·だい五倫ごりんでん》:「以能かわためまもるしょう。遷兗しゅう刺史しし。」
  11. ^ 三國志さんごくし·裴潛でん》裴註引《文章ぶんしょう敘錄》:「としじゅう,遷黃もんさむらいろう。爽誅,以故吏免。遷衛こくしょうるい遷散つねさむらい尚書しょうしょぼくしゃれいひかり祿ろく大夫たいふ。」
  • 司馬しば. しゅう本紀ほんぎ. 史記しき. [-61]. 
    かんきょうきゅうじゅう有餘ゆうよ天子てんしはたふう泰山たいざんひがしじゅんかりいたり河南かなんもとめしゅう苗裔びょうえいふう其後嘉三よしぞう十里じゅうりごう曰周南君なぎみ
    正義まさよし》《くく地誌ちしうん:「しゅううけたまわきゅうじょういちめいはりすずめ塢,ざいなんじしゅうやなけん東北とうほくじゅうろくさと。《帝王ていおう世紀せいきくもかんたけみかどもとかなえよんねんひがしじゅんかわらくおもえしゅういさお,乃封ひめ嘉三よしぞうせん地方ちほうさんじゅうため周子かねこ南君なぎみ,以奉しゅうまつもとみかどはつもとねんよしみまごのべねんしん爵為うけたまわきゅうこう』,ざい此城也。ひらみかど元始げんしよんねんしんためていこう光武みつたけけんじゅうさんねんふう於觀,ためまもるおおやけ。」
    かおうん:「みなみ,其封邑之ごうためしゅうきさきそうげん周子かねこ南君なぎみ。」
  • 漢書かんしょまきじゅう なりみかどだいじゅう
    また曰:「ぶた聞王しゃ必存二王におうこれ所以ゆえんどおりさんすべ也。曰:「てんひとためさんみつる。二王之後並己為三。」むかしなり受命じゅめいれつためさんだい曰:「なついんしゅうただしためさんだい。」而祭祀さいし廢絕はいぜつこうもとめ其後,莫正あなきちしん瓚曰:「わかあなよしさい正也まさや。」其封きちためいん紹嘉こう。」さんがつしん爵為こう,及周うけたまわきゅうこうみなためこうかくひゃくさと
  • こう漢書かんしょ卷一けんいち 光武みつたけみかどだいいち
    五月ごがつかのえたつふう更始こうしもとおう歙為泗水しすいおうしんていおう楊子ようことく為真ためざにじょうおうしゅうきさきひめつねためしゅううけたまわきゅうこう
  • こう漢書かんしょ·太子たいしけんちゅう》:たけみかどふうしゅうきさきひめよしみため周子かねこ南君なぎみなりみかどふうひめのべためしゅううけたまわきゅうこうつねそく延之のぶゆきうけたまわきゅうしょふうじしろざいこんなんじしゅう東北とうほく
  • こう漢書かんしょまきいちいちはち 百官ひゃっかんこころざし
    まもるおおやけそうこうほんちゅう曰:たてたけしねんふうしゅうきさきひめつねためしゅううけたまわきゅうこうねんふういんあなやすためいん紹嘉こうだいじゅうさんねんあらためつねためまもるおおやけやすためそうこう,以為かんまろうどざいさんおおやけじょう
    五經ごきょう通義みちよし》:「二王之後不考功,ゆう誅無ぜっ。」ていげん曰:「王者おうじゃそんだい而封及五,郊天よう天子てんしれい以祭其始祖しそぎょう其正ついたち,此謂どおりさんすべ也。さんつとむしゃけい其先きよしふう其後而已,ことことしゃ也。」
  • すすむしょ
  • 讀史どくしかた輿こし紀要きようまきじゅういち 河南かなんろく
    うけたまわきゅうはいけんざいいまなんじしゅう治子はるこ城東じょうとうほん曰周うけたまわきゅうじょう
    かんたけみかどもとかなえよんねんふうひめよしみため周子かねこ南君なぎみ以奉しゅうまつ,邑於此。
    もとみかどはつもとねんさらめいしゅううけたまわきゅうこうこくぞく潁川ぐん
    なりみかど綏和はつ更進こうしんためこう
    ひらみかど元始げんしよんねんさらめいためてい
    光武みつたけあらためふうひめつね於東おひがしぐんほとりかんけん,曰衛こう,以鄭けんはいにゅうぐすくけん
    こうたかしおけみなみなんじはらけんけんおけなんじきたぐん
    こうひとしあらため曰汝はらけんまたあらためぐん曰汝かげ
    こうしゅうぐんはい
    大業おおわざはつあらためけん曰承きゅううつり本州ほんしゅうらいまたあらためためじょうぐすくぐん
    からはつためしゅうさだかんはつ,以梁けん併入,而改うけたまわきゅうためやなけんしゅうぐんみな此。
    あきらはつはい
    くく地誌ちし》:しゅううけたまわきゅうじょういちめいはりすずめ塢,ざいやなけん東北とうほくじゅうろくさと
    おさむこころざし》:あずまたかしたけじょうちゅうなんじきたぐんうつりはりすずめ塢,そくはり瞿鄉也。
    みずけいちゅう》:うけたまわきゅう東南とうなんゆうはり瞿鄉,こうかん嘗駐ぐん於此。もりあずか曰:うけたまわきゅうじょうざいやなけんひがししかのりずいうけたまわきゅうそく古城こじょう矣。いましゅうじょうあきらはつじゅうきずけこう屢經おさむ葺。しゅう九里くのりゆう有門ありかどよん