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關 せき 於「
士 し 夫 おっと 」及「
士 し 大夫 たいふ 」
的 てき 其他
意思 いし ,請見「
士 し 大夫 たいふ 」。
神 かみ 我 が (梵語 ぼんご :पुरुष ,puruṣa ),在 ざい 契 ちぎり 經 けい 中 なか ,又 また 稱 たたえ 為 ため puṃs,另譯為 ため 原人 げんじん 、士 し 夫 おっと ,為 ため 瀰漫 びまん 在 ざい 宇宙 うちゅう 中 なか 的 てき 自我 じが 。最早 もはや 起源 きげん 於吠陀 べーだ 時代 じだい ,隨 ずい 後 ご 成 なり 為 ため 古 こ 印度 いんど 的 てき 概念 がいねん ,數 かず 論 ろん 派 は 以此為 ため 核心 かくしん 概念 がいねん 。佛教 ぶっきょう 也受到這個思想 しそう 的 てき 影響 えいきょう ,引用 いんよう 這個名詞 めいし ,用 もちい 到 いた 其教義 きょうぎ 探 さがせ 討中,但 ただし 一般 いっぱん 來 らい 說 せつ ,佛教 ぶっきょう 對 たい 這個概 がい 念持 ねんじ 批判 ひはん 態度 たいど 。
在 ざい 梵文 ぼんぶん 中 ちゅう , 神 かみ 我 わが 有 ゆう 人 ひと 、男 おとこ 人 じん 、自我 じが 及靈魂 れいこん 等 とう 意思 いし 。神 かみ 我 わが 這個概念 がいねん 最 さい 早出 そうしゅつ 現在 げんざい 《原人 げんじん 歌 か 》,是 ぜ 世間 せけん 最初 さいしょ 的 てき 開 ひらき 端 はし 。關 せき 於原人的 じんてき 傳說 でんせつ 後來 こうらい 轉化 てんか ,將 はた 神 かみ 我 わが 當 とう 成 なり 生命 せいめい 的 てき 核心 かくしん 與 あずか 輪 わ 迴的主體 しゅたい ,為 ため 古 こ 印度 いんど 數 かず 論 ろん 哲學 てつがく 的 てき 核心 かくしん 概念 がいねん 。數 かず 論 ろん 派 は 提出 ていしゅつ 「神 かみ 我 が 」與 あずか 「本性 ほんしょう 」之 これ 二元論 にげんろん 哲學 てつがく [ 1] ,與 あずか 吠 ほえ 檀 まゆみ 多 おお 主義 しゅぎ 「梵我 幻 まぼろし 」一元論 いちげんろん 相 あい 抗 こう 衡,成 なり 為 ため 古 こ 印度 いんど 的 てき 主流 しゅりゅう 哲學 てつがく 概念 がいねん 之 の 一 いち 。在 ざい 數 すう 論 ろん 派 は 思想 しそう 中 ちゅう ,神 かみ 我 わが 是 ぜ 不朽 ふきゅう 的 てき 精神 せいしん 。
佛教 ぶっきょう 批駁神 しん 我 が 論 ろん ,但 ただし 有 ゆう 限度 げんど 採納 さいのう 了 りょう 本性 ほんしょう 論 ろん 的 てき 內容,包括 ほうかつ 如來 にょらい 藏 ぞう 等 とう 概念 がいねん ,都 と 被 ひ 認 みとめ 為 ため 與 あずか 神 かみ 我 が 的 てき 概念 がいねん 有 ゆう 相近 すけちか 之 の 處 しょ 。
「原人 げんじん 」一詞最早見於《梨 なし 俱吠陀 べーだ 》的 てき 《原人 げんじん 歌 か 》中 ちゅう ,原人 げんじん 之 の 神 かみ ,無 む 生 なま 無死 むし ,超 ちょう 驗 けん 絕對 ぜったい ,其微妙 みょう 現身 うつせみ ,千 せん 頭 とう 千 せん 眼 め 千 せん 足 そく ,從 したがえ 彼 かれ 誕生 たんじょう 眾天神 しん 與 あずか 人類 じんるい ,原人 げんじん 化身 けしん 變化 へんか 成 なり 祭 さい 品 ひん ,一眾提婆用它來舉行祭祀儀式,從 したがえ 此祭品 ひん 中產 ちゅうさん 生 せい 世間 せけん 萬物 ばんぶつ [ 2] 。然 しか 而,學術 がくじゅつ 界 かい 認 みとめ 為 ため 這首讚美 さんび 詩 し 是 ぜ 吠陀 べーだ 時期 じき 結束 けっそく 後 ご 才 ざい 被 ひ 創作 そうさく 出來 でき 的 てき [ 3] 。
婆羅門教 ばらもんきょう 數 すう 論 ろん 派 は 哲學 てつがく 理論 りろん 現存 げんそん 最早 もはや 的 てき 經典 きょうてん 是 ぜ 自在 じざい 黑 くろ 著 ちょ 《數 かず 論 ろん 頌 》,其中論述 ろんじゅつ 了 りょう ,神 かみ 我 わが 與 あずか 本性 ほんしょう 結合 けつごう 而創造 そうぞう 世間 せけん 萬有 ばんゆう ,在 ざい 與 あずか 身體 しんたい 分離 ぶんり 及勝性 せい 停止 ていし 活動 かつどう 後 ご ,神 かみ 我 わが 獲得 かくとく 確定 かくてい 而且最終 さいしゅう 的 てき 獨 どく 存 そん [ 4] 。
《數 かず 論 ろん 頌 》第 だい 二 に 十 じゅう 一 いち 頌[ 5] :
“
神 かみ 我 わが (與 あずか 自性 じしょう 結合 けつごう )是 ぜ 為 ため 了 りょう 注視 ちゅうし (自性 じしょう ),自性 じしょう (與 あずか 神 かみ 我 わが 結合 けつごう )是 ぜ 為 ため 了 りょう (神 かみ 我 が )獨 どく 存 そん 。二者的結合就如同跛者與盲者(的 てき 結合 けつごう )一樣 いちよう 。(世界 せかい 的 てき )創造 そうぞう 由 よし 此產生 せい 。[ 6]
”
《數 かず 論 ろん 頌 》第 だい 六 ろく 十 じゅう 四 よん 頌[ 5] :
“
通過 つうか 修習 しゅうしゅう (二 に 十 じゅう 五 ご )諦 たい ,產 さん 生 せい 非我 ひが (na asmi ),非我 ひが 所 しょ (na me ),因 いん 而無我 むが (na aham )的 てき 知識 ちしき 。(這種知識 ちしき )是 ぜ 無 な 誤 あやま 的 てき ,因 いん 此是純 じゅん 淨 きよし 的 てき 和 わ 絕對 ぜったい 的 てき 。[ 7]
”
在 ざい 大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 著名 ちょめい 論 ろん 師 し 那 な 嘎呵朱 しゅ 訥的 てき 著作 ちょさく 中 ちゅう ,作者 さくしゃ 曾引述 じゅつ 《韋陀經 けい 》等 とう 典籍 てんせき 所 しょ 提出 ていしゅつ 的 てき 一些説法並予以批駁[ 8] ,真諦 しんたい 譯 わけ 《數 かず 論 ろん 頌 》為 ため 《金 かね 七 なな 十 じゅう 論 ろん 》,有 ゆう 傳說 でんせつ 稱 しょう 其釋文 ぶん 為 ため 天 てん 親 おや 所 ところ 寫 うつし [ 9] 。
在 ざい 印度 いんど 宗教 しゅうきょう 教義 きょうぎ 中 ちゅう ,神 かみ 我 わが 是 ぜ 輪 わ 迴的 てき 主體 しゅたい ,但 ただし 佛教 ぶっきょう 認 みとめ 為 ため 這其實 じつ 是 ぜ 對 たい 五蘊 ごうん 生起 せいき 錯誤 さくご 的 てき 想 そう 而造成 ぞうせい [ 10] 。
大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 所 ところ 認可 にんか 的 てき 如來 にょらい 藏 ぞう 論 ろん ,與 あずか 神 かみ 我 が 論 ろん 相似 そうじ ,但 ただし 大乘 だいじょう 佛教 ぶっきょう 往往 おうおう 會 かい 強調 きょうちょう 兩者 りょうしゃ 之 の 間 あいだ 有 ゆう 不同 ふどう 的 てき 地方 ちほう [ 11] 。
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姚衛群 ぐん 《佛教 ぶっきょう 的 てき 「如來 にょらい 藏 ぞう 」思想 しそう 與 あずか 婆羅門教 ばらもんきょう 的 てき 「我 が 」》:「婆羅門教 ばらもんきょう 哲學 てつがく 中 ちゅう 的 てき 數 すう 論 ろん 派 は 和 わ 瑜伽 ゆが 派 は 是 ぜ 聯 れん 繫緊密 きんみつ 的 てき 兩個 りゃんこ 派 は 別 べつ 。它們關 せき 於「我 が 」的 てき 觀念 かんねん 基本 きほん 是 ぜ 一致 いっち 的 てき 。在 ざい 一般的數論派與瑜伽派的典籍中(尤 ゆう 其是在 ざい 中國 ちゅうごく 古代 こだい 翻譯 ほんやく 的 てき 數 すう 論 ろん 派 は 典籍 てんせき 或 ある 漢 かん 譯 やく 佛典 ぶってん 對數 たいすう 論 ろん 派 は 的 てき 敘述中 ちゅう ),所謂 いわゆる 「我 が 」與 あずか 一般的奧義書及其他婆羅門教派別說的「我 が 」(Ātman)並 なみ 不 ふ 相 あい 同 どう 。數 かず 論 ろん 派 は 與 あずか 瑜伽 ゆが 派 は 中 ちゅう 說 せつ 的 てき 「我 が 」更 さら 為 ため 流行 りゅうこう 的 てき 漢 かん 譯 やく 術語 じゅつご 是 ぜ 「神 かみ 我 が 」(Puruṣa),它被認 みとめ 為 ため 是 ぜ 一 いち 個 こ 獨立 どくりつ 的 てき 精神 せいしん 性 せい 實體 じったい 。這一實體與數論及瑜伽派中論述的另一實體「自性 じしょう 」(Prakṛti)並列 へいれつ 存在 そんざい ,對 たい 自性 じしょう 轉化 てんか 出世間 しゅっせけん 事物 じぶつ 起 おこり 某 ぼう 種 しゅ 作用 さよう (參 まいり 見 み 自在 じざい 黑 くろ 的 てき 《數 かず 論 ろん 頌》21及喬荼波陀相應 おう 的 てき 註)。 」
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巫 みこ 白 はく 慧 とし 譯解 やっかい 《「梨 なし 俱吠陀 べーだ 」神 かみ 曲 きょく 選 せん 》,《原人 げんじん 歌 か 》:「原人 げんじん 之 の 神 かみ ,微妙 びみょう 現象 げんしょう ,千 せん 頭 とう 千 せん 眼 め ,又 また 具 ぐ 千 せん 足 そく ;包攝 ほうせつ 大地 だいち ,上下 じょうげ 四 よん 維;巍然 ぎぜん 站立,十指 じっし 以外 いがい 。唯 ただ 此原人 じん ,是 ぜ 諸 しょ 一切 いっさい ;既 すんで 屬 ぞく 過去 かこ ,亦 また 為 ため 未來 みらい ;唯 ただ 此原人 じん ,不死 ふし 之 の 主 しゅ ;享受 きょうじゅ 犧牲 ぎせい ,昇華 しょうか 物 ぶつ 外 がい 。 如此神 しん 奇 き ,乃彼威力 いりょく ;尤 ゆう 為 ため 勝 しょう 妙 みょう ,原人 げんじん 自身 じしん :一切 いっさい 眾生,佔其四 よん 一 いち ;天上 てんじょう 不死 ふし ,佔其四 よん 三 さん 。原人 げんじん 昇華 しょうか ,用 よう 其四三 さん ,所 しょ 餘 あまり 四 よん 一 いち ,留 とめ 在世 ざいせい 間 あいだ 。是 ぜ 故 こ 原人 げんじん ,超越 ちょうえつ 十 じゅう 方 ぽう ,遍 へん 行 ぎょう 二 に 界 かい ,食 しょく 與 あずか 不 ふ 食 しょく 。從 したがえ 彼 かれ 誕生 たんじょう ,大 だい 毗羅闍;從 したがえ 毗羅闍,生 なま 補 ほ 盧 の 莎;彼 かれ 一 いち 出世 しゅっせ ,立 たて 放 ひ 光彩 こうさい ,創造 そうぞう 大地 だいち ,後 ご 復 ふく 前進 ぜんしん 。原人 げんじん 化身 けしん ,變化 へんか 祭 さい 品 ひん ,諸 しょ 天 てん 用 よう 以,舉行祭祀 さいし 。溶解 ようかい 酥油,是 ぜ 彼 かれ 春 はる 天 てん ,夏 なつ 為 ため 燃料 ねんりょう ,秋 あき 為 ため 供物 くもつ 。對 たい 此原人 じん ,太初 たいしょ 誕生 たんじょう ,灑水淨化 じょうか ,作 さく 聖 きよし 草 くさ 祭 さい 。上天 じょうてん 神祇 じんぎ ,往昔 おうせき 古 こ 聖 きよし ,及今仙人 せんにん ,用 よう 之 これ 行 ぎょう 祭 さい 。當 とう 此祭典 さいてん ,獻 けんじ 供 きょう 圓滿 えんまん ,由 ゆかり 是 ぜ 收集 しゅうしゅう ,酥油凝脂 ぎょうし 。彼 かれ 復 ふく 創造 そうぞう ,諸 しょ 類 るい 動物 どうぶつ ;空中 くうちゅう 蘭 らん 若 わか ,村落 そんらく 馴養。……原人 げんじん 之 の 身 み ,若 わか 被 ひ 肢 し 解 かい ,試 ためし 請考慮 こうりょ ,共有 きょうゆう 幾 いく 分 ふん ?何 なに 是 これ 彼 かれ 口 こう ?何 なに 是 これ 彼 かれ 臂 ひじ ?何 なに 是 これ 彼 かれ 腿 もも ?何 なに 是 これ 彼 かれ 足 あし ?……」
^ Nagarajan, V. Origins of Hindu social system. South Asia Books. 1994: 16, 121. ISBN 978-81-7192-017-4 .
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自在 じざい 黑 くろ 《數 かず 論 ろん 頌 》,第 だい 六 ろく 十 じゅう 八 はち 頌:「當 とう 與 あずか 身體 しんたい 分離 ぶんり 時 じ ,當 とう 自性 じしょう 由 よし 於實現 じつげん 了 りょう 目的 もくてき ,而停止 ていし 活動 かつどう 時 じ ,(神 かみ 我 が )就獲得 かくとく 了 りょう 確定 かくてい 的 てき 和 わ 最終 さいしゅう 的 てき 獨 どく 存 そん 。」(姚衛群 ぐん 編 へん 譯 やく 《古 こ 印度 いんど 六 ろく 派 は 哲學 てつがく 經典 きょうてん 》)
^ 5.0 5.1 姚衛群 ぐん 編 へん 譯 やく 《古 こ 印度 いんど 六 ろく 派 は 哲學 てつがく 經典 きょうてん 》,商務 しょうむ 印 しるし 書 しょ 館 かん ,ISBN 7-100-03480-9 / B·524。
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真諦 しんたい 譯 わけ 《金 かね 七 なな 十 じゅう 論 ろん 》:「外 そと 曰:自性 じしょう 與 あずか 人 ひと ,何 なに 因 いん 得 とく 和合 わごう ?以偈答 こたえ 曰:『我 わが 求 もとめ 見 み 三德 さんとく ,自性 じしょう 為 ため 獨 どく 存 そん ,如跛盲人 もうじん 合 あい ,由 ゆかり 義生 よしお 世間 せけん 。』
我 わが 求 もとめ 見 み 三德 さんとく 者 しゃ ,我 わが 有 ゆう 如此意 い ,我 わが 今 いま 當 とう 見 み 三德 さんとく 自性 じしょう 故 こ ,我 わが 與 あずか 自 じ 性合 しょうあい 。自性 じしょう 為 ため 獨 どく 存 そん 者 しゃ ,是 ぜ 因 いん 苦 く 人 じん ,唯 ただ 有能 ゆうのう 知見 ちけん 。今 こん 當為 とうい 彼 かれ 令 れい 得 とく 獨 どく 存 そん ,以是義 よし 故 こ ,自性 じしょう 與 あずか 我 わが 和合 わごう 。譬 たとえ 如國王 おう 與 あずか 人 ひと 和合 わごう ,我 わが 應 おう 使 し 是 ぜ 人 じん ,是 ぜ 人 じん 亦 また 與 あずか 王 おう 和合 わごう ,王 おう 應 おう 施 ほどこせ 我 わが 生活 せいかつ 故 こ ,是 ぜ 王 おう 、人 ひと 和合 わごう 。由 よし 義 よし 故 こ 得 とく 成 なり ,我 わが 、自性 じしょう 和合 わごう ,義 ぎ 亦 また 如是 にょぜ ,我 わが 為 ため 見 み 故 こ ,自性 じしょう 為 ため 他 た 獨 どく 存 そん 故 こ 。
如跛盲人 もうじん 合 ごう 者 しゃ ,此中有 ちゅうう 譬 たとえ :昔 むかし 有 ゆう 商 しょう 侶往優 ゆう 禪尼 ぜんに ,為 ため 劫 こう 所 しょ 破 やぶ ,各 かく 分散 ぶんさん 走 はし ,有 ゆう 一生盲及一生跛,眾人棄擇,盲人 もうじん 漫走,跛 ちんば 者 しゃ 坐 すわ 看 み 。跛 ちんば 者 しゃ 問 とい 言 ごと :汝 なんじ 是 ぜ 何人 なんにん ?盲者 もうしゃ 答 こたえ 言 ごと :我 わが 是 ぜ 生 せい 盲 めくら ,不 ふ 識道故 こ ,所以 ゆえん 漫走。汝 なんじ 復 ふく 何人 なんにん ?跛 ちんば 者 しゃ 答 こたえ 言 ごと :我 わが 生 なま 跛 ちんば 人 じん ,唯 ただ 能見 のうみ 道 みち ,不能 ふのう 走行 そうこう 故 こ ,汝 なんじ 今 こん 當 とう 安 やす 我 わが 肩 かた 上 じょう ,我 わが 能 のう 導 しるべ 路 ろ ,汝 なんじ 負 ふ 我 が 行 ぎょう 。如是 にょぜ 二 に 人 にん 以共和合 わごう ,遂 とげ 至 いたり 所在 しょざい 。此之和合 わごう ,由 ゆかり 義 ぎ 得 とく 成就 じょうじゅ ,至 いたり 所在 しょざい ,各 かく 各相 かくしょう 離 はなれ 。如是 にょぜ 我 が 者 しゃ ,見 み 自性 じしょう 時 じ ,即 そく 得 とく 解脫 げだつ 。是 ぜ 自性 じしょう 者 しゃ ,亦 また 令 れい 我 が 獨 どく 存 そん ,各相 かくしょう 捨離。
由 よし 義生 よしお 世間 せけん 者 しゃ ,由 ゆかり 人為 じんい 見 み 他 ほか ,自性 じしょう 為 ため 獨 どく 存 そん 故 こ ,因 いん 此二 に 義 ぎ 故 こ ,得 とく 和合 わごう 。是 ぜ 和合 わごう 者 しゃ ,能生 のう 世間 せけん ,譬 たとえ 如男女 だんじょ ,由 ゆかり 兩 りょう 和合 わごう 故 こ ,得 とく 生子 おいご 。如是 にょぜ ,我 わが 與 あずか 自 じ 性合 しょうあい ,能生 のう 於大 おだい 等 とう 。」
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喬 たかし 荼波陀註釋 ちゅうしゃく :「通過 つうか 對 たい 二 に 十 じゅう 五諦的靜慮修習,……在 ざい 神 かみ 我 わが 中產 ちゅうさん 生 せい 這樣的 てき 知識 ちしき :非我 ひが ,即 そく 我 わが 不 ふ 存在 そんざい ;非我 ひが 所 しょ ,即 そく 此身不 ふ 是 ぜ 我 が 的 てき ,因 いん 為 ため 我 わが 是 ぜ 一物 いちもつ ,身 み 是 ぜ 另一物 ぶつ ;徹底的 てっていてき 無我 むが ,即 そく 自己 じこ 擺脫自我 じが 。這種知識 ちしき 是 ぜ 徹底的 てっていてき ……,即 そく 只 ただ 有 ゆう 這(知識 ちしき )是 ぜ 解脫 げだつ 的 てき 因 いん ,沒 ぼつ 有 ゆう 其他的 てき 東西 とうざい (是 ぜ 因 いん )。」
Sāmkhya Kārikā, as translated by Vidyāsudhākara Dr. Har Dutt Sharma, M.A., Ph.D.. Kārikā LXIV: By practising the principles thus, there arises the kmowledge, viz., 『I am not, naught is mine, there is no Ego』, which is complete, absolute and pure, because there remains no doubt. Thus, in the way described above, by practising the meditation of twenty-five principles, viz., 『this is Nature; this is Spirit; these are the five subtle elements, the organs and the gross elements』, there arises this knowledge in the Spirit:—I am not, i.e., I do not exist; naught is mine, i.e., this body is not mine, for I am one thing and the body another; there is no ego, which is complete, i.e., I am exempt from ego; which knowledge is complete.
真諦 しんたい 譯 わけ 《金 かね 七 なな 十 じゅう 論 ろん 》:「復 ふく 次 じ 偈 げ 言 ごと :『如是 にょぜ 真實 しんじつ 義 よし ,數 かず 習無餘 あまり 故 こ ,無我 むが 及我所 しょ ,無 む 倒 たおせ 淨 きよし 獨 どく 智 さとし 。』如是 にょぜ 真實 しんじつ 義 ぎ 者 しゃ ,如前已 やめ 說 せつ 二 に 十 じゅう 五 ご 義 ぎ 。數 かず 習無餘 あまり 故 ゆえ 者 しゃ ,於六 ろく 行 ぎょう 中 ちゅう ,數 すう 數 すう 修習 しゅうしゅう 故 こ ;無 む 餘 あまり 者 しゃ ,修習 しゅうしゅう 究竟 くっきょう 故 こ ,智慧 ちえ 得 とく 生 せい 。因 よし 此智慧 ちえ ,無 む 執 と 、我執 がしゅう 、我 わが 所 ところ 執 と ,此三執 と ,及五疑 うたぐ ,並 なみ 得 とく 滅盡 めつじん 。一切 いっさい 事 こと 及身,皆 みな 自性 じしょう 所作 しょさ ,非 ひ 無 む 、非我 ひが 、非我 ひが 所 しょ ,悉屬自性 じしょう 故 ゆえ 。因 よし 此修智慧 ちえ ,得 とく 生 せい 清淨 せいじょう 獨 どく 存 そん ,因 いん 此智,我 わが 得 とく 解脫 げだつ 。」
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龍 りゅう 樹 いつき 《十 じゅう 住 じゅう 毘婆沙 すな 論 ろん 》卷 まき 10:「問 とい 曰:韋陀 中 ちゅう 亦 また 有 ゆう 善 ぜん 寂滅 じゃくめつ 解脫 げだつ 說 せつ :『世間 せけん 先 さき 皆 みな 幽 かそけ 闇 やみ ,都 と 無 む 所有 しょゆう ;初 はつ 有 ゆう 大人 おとな ,出現 しゅつげん 如日,若 わか 有 ゆう 見 み 者 しゃ ,得度 とくど 死 し 難 なん ,更 さら 有餘 ゆうよ 導 しるべ 。』又 また 說 せつ :『人身 じんしん 小 しょう 則 そく 神 かみ 小 しょう ,人 にん 大 だい 則 そく 神大 しんだい ,身 み 為 ため 神宅 かんやけ ,常 つね 處 しょ 其中;若 わか 以智慧 ちえ ,開 ひらき 解 かい 神 しん 縛 ばく ,則 のり 得 とく 解脫 げだつ 。』是 ぜ 故 こ 當知 とうち ,韋陀中有 ちゅうう 寂滅 じゃくめつ 解脫 げだつ 。答 こたえ 曰:無 む 是 ぜ 事 ごと 也,何 なに 以故?韋陀經 けい 中 ちゅう ,有 ゆう 四 よん 顛倒 てんとう 。世間 せけん 無常 むじょう ,而別有 ゆう 常世 とこよ 間 あいだ ,如說:『一作 いつさく 天 てん 祠 ほこら 墮落 だらく ,再 さい 亦 また 墮落 だらく ,三 さん 作 さく 則 そく 不 ふ 墮。』是 ぜ 為 ため 無常 むじょう 中 ちゅう 常 つね 顛倒 てんとう 。世間 せけん 苦 く ,而說有 ゆう 常樂 じょうらく 處 しょ ,是 ぜ 為 ため 苦 く 中樂 ちゅうらく 顛倒 てんとう 。又 また 說 せつ :『我 わが 神 かみ 轉 てん 為 ため 子 こ ,願 ねがい 使 し 壽 ことぶき 百 ひゃく 歲 さい 。』子 こ 是 ぜ 他 た 身 み ,云 うん 何 なん 為 ため 我 が ?是 ぜ 為 ため 無我 むが 中 ちゅう 我 わが 顛倒 てんとう 。說 せつ :『身 み 清淨 せいじょう ,第 だい 一 いち 無比 むひ ,金銀 きんぎん 珍寶 ちんぽう ,無 む 及身者 しゃ 。』是 ぜ 名 めい 無 む 淨 きよし 中 なか 淨 きよし 顛倒 てんとう 。顛倒 てんとう 則 そく 無實 むじつ ,無實 むじつ 云 うん 何 なん 有 ゆう 寂滅 じゃくめつ ?是 ぜ 故 こ 韋陀中 ちゅう 無 む 善 ぜん 寂滅 じゃくめつ 法 ほう 。」
龍 りゅう 樹 いつき 《十 じゅう 二 に 門 もん 論 ろん 》:「如經說 せつ :『裸 はだか 形 がた 迦葉問 とい 佛 ふつ ,苦 く 自作 じさく 耶?佛 ふつ 默然 もくぜん 不 ふ 答 こたえ 。世尊 せそん !若 わか 苦 く 不 ふ 自作 じさく 者 しゃ ,是 ぜ 他 た 作 さく 耶?佛 ふつ 亦 また 不 ふ 答 こたえ 。世尊 せそん !若 わか 爾 なんじ 者 しゃ ,苦 く 自作 じさく 他 た 作 さく 耶?佛 ふつ 亦 また 不 ふ 答 こたえ 。世尊 せそん !若 わか 爾 なんじ 者 しゃ ,苦 く 無 む 因 いん 無緣 むえん 作 さく 耶?佛 ふつ 亦 また 不 ふ 答 こたえ 。』如是 にょぜ 四 よん 問 もん ,佛 ふつ 皆 みな 不 ふ 答 こたえ 者 しゃ ,當知 とうち 苦 く 則 そく 是 ぜ 空 そら 。問 とい 曰:佛說 ぶっせつ 是 ぜ 經 けい ,不 ふ 說 せつ 苦 く 是 ぜ 空 そら ,隨 ずい 可 か 度 ど 眾生故 こ ,作 さく 是 ぜ 說 せつ 。是 ぜ 裸 はだか 形 がた 迦葉,謂 いい 人 じん 是 ぜ 苦 く 因 いん 。有我 ありが 者 しゃ 說 せつ :『好 こう 醜 みにく 皆 みな 神 しん 所作 しょさ ,神 かみ 常 つね 清淨 せいじょう ,無 む 有 ゆう 苦惱 くのう ,所 しょ 知 ち 所 しょ 解 かい ,悉皆 しっかい 是 ぜ 神 しん ,神作 かんさく 好 こう 醜 みにく 苦樂 くらく ,還 かえ 受種種 しゅ 身 み 。』以是邪見 じゃけん 故 こ ,問 もん 佛 ふつ 苦 く 自作 じさく 耶?是 ぜ 故 こ 佛 ふつ 不 ふ 答 こたえ 。……復 ふく 次 じ ,若 わか 他 た 作 さく 苦 く 者 しゃ ,則 のり 為 ため 是 ぜ 自 じ 在天 ざいてん 作 さく ,如此邪見 じゃけん 問 とい 故 こ ,佛 ふつ 亦 また 不 ふ 答 こたえ 。……共 とも 作 さく 亦 また 不 ふ 然 しか ,有二 ゆうじ 過 か 故 こ ;眾因緣 えん 和合 わごう 生 せい 故 こ ,不 ふ 從 したがえ 無 む 因 いん 生 せい ,佛 ふつ 亦 また 不 ふ 答 こたえ 。是 ぜ 故 こ 此經,但 ただし 破 やぶ 四 よん 種 しゅ 邪見 じゃけん ,不 ふ 說 せつ 苦 く 為 ため 空 そら 。答 こたえ 曰:佛 ふつ 雖如是 ぜ 說 せつ ,從 したがえ 眾因緣 えん 生 せい 苦 く ,破 やぶ 四 よん 種 しゅ 邪見 じゃけん ,即 そく 是 ぜ 說 せつ 空 そら 。說 せつ 苦 く 從 したがえ 眾因緣 えん 生 せい ,即 そく 是 ぜ 說 せつ 空 そら 義 ぎ 。何 なに 以故?若 わか 從 したがえ 眾因緣 えん 生 せい ,則 のり 無 む 自性 じしょう ,無 む 自性 じしょう 即 そく 是 ぜ 空 そら ,如苦空 そら ,當知 とうち 有為 ゆうい 、無為 むい ,及眾生 せい ,一切 いっさい 皆 みな 空 そら 。」
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真諦 しんたい 譯 わけ 《婆 ばば 藪 やぶ 槃豆法 ほう 師傳 しでん 》:「至 いたり 佛滅 ぶつめつ 後 ご 九 きゅう 百 ひゃく 年 ねん 中 ちゅう ,有 ゆう 外道 げどう 名 めい 頻 しき 闍訶婆 ばば 娑 しゃば ,頻 しき 闍訶是 ぜ 山名 やまな ,婆 ばば 娑 しゃば 譯 やく 為 ため 住 じゅう 。……有 ゆう 龍王 りゅうおう 名 めい 毘梨沙 すな 迦那,住 じゅう 在 ざい 頻 しき 闍訶山下池 やましたいけ 中 ちゅう ,此龍王 おう 善 よし 解 かい 僧 そう 佉論。……外道 げどう 採 と 華 はな 滿 みつる 一大 いちだい 籃,頭 とう 戴華籃至龍王 りゅうおう 所 しょ ,……即 そく 為 ため 解說 かいせつ 僧 そう 佉論。……即 そく 入 いれ 阿 おもね 緰闍國 こく ,以顯擊 げき 論 ろん 義 ぎ 鼓 こ 云 うん :我欲 がよく 論 ろん 義 よし ,……國王 こくおう 馝柯羅 ら 摩 ま 阿 おもね 祑多,譯 わけ 為 ため 正 せい 勒日,……王 おう 遣 や 人 ひと 問 とい 國 こく 內諸法師 ほうし ,誰 だれ 能 のう 當 とう 此外道 どう ?……佛陀 ぶっだ 蜜 みつ 多 た 羅 ら 法師 ほうし 在 ざい ,佛陀 ぶっだ 蜜 みつ 多 た 羅 ら ,譯 わけ 為 ため 覺 さとし 親 おや ,此法師 し 本 ほん 雖大解 かい ,年 ねん 已 やめ 老 ろう 邁。……法師 ほうし 即 そく 立 りつ 無 む 常義 つねよし 云 うん :一切 いっさい 有為 ゆうい 法 ほう ,剎那剎那滅 ほろび ,何 なに 以故?後 こう 不 ふ 見 み 故 こ 。……法師 ほうし 即 そく 墮負,……王 おう 以三 さん 洛 らく 沙 すな 金賞 きんしょう 外道 げどう 。……還 かえ 頻 しき 闍訶山入 やまいり 石窟 せっくつ 中 ちゅう ,……捨命身 み 即 そく 成 なり 石 せき 。……天 てん 親 おや 彌 わたる 復 ふく 憤懣 ふんまん ,即 そく 造 づくり 《七 なな 十 じゅう 真實 しんじつ 論 ろん 》,破 やぶ 外道 げどう 所 しょ 造 づくり 僧 そう 佉論,首尾 しゅび 瓦解 がかい ,無 む 一 いち 句 く 得 とく 立 りつ ,諸 しょ 外道 げどう 憂苦 ゆうく ,如害己 おのれ 命 めいじ ,雖不值彼師 し ,其悉檀 まゆみ 既 すんで 壞,枝 えだ 末 まつ 無 む 復 ふく 所 しょ 依 よ ,報 ほう 讐雪恥 はじ ,於此為 ため 訖,眾人咸聞慶 けい 悅 えつ ,王 おう 以三 さん 洛 らく 沙 すな 金賞 きんしょう 法師 ほうし 。」
窺基 《成 なり 唯識 ゆいしき 論述 ろんじゅつ 記 き 》:「梵雲僧 そう 佉,此翻為 ため 數 すう ,即 そく 智惠 ちえ 數 すう ,數 すう 度 ど 諸法 しょほう 根本 こんぽん 。立 だて 名 めい 從 したがえ 數 すう 起 おこり 論 ろん ,名 めい 為 ため 數 すう 論 ろん ,論 ろん 能生 のう 數 すう ,亦 また 名數 めいすう 論 ろん 。其造數 すう 論及 ろんきゅう 學 がく 數 すう 論 ろん ,名數 めいすう 論 ろん 者 しゃ 。此師所 しょ 造 づくり 《金 かね 七 なな 十 じゅう 論 ろん 》,謂 いい 有 ゆう 外道 げどう 入金 にゅうきん 耳 みみ 國 こく ,以鐵鍱腹、頂戴 ちょうだい 火 ひ 盆 ぼん ,擊 げき 王 おう 論 ろん 鼓 こ ,求 もとめ 僧 そう 論議 ろんぎ ,因 いん 諍 いさかい 世界 せかい 初 はつ 有 ゆう 後 ご 無 な ,謗 そし 僧 そう 不 ふ 如外道 どう 。遂 とげ 造 づくり 七 なな 十 じゅう 行 ぎょう 頌,申 さる 數 すう 論 ろん 宗 むね ,王 おう 意 い 朋 とも 彼 かれ ,以金賜 たまもの 之 の ,外道 げどう 欲 よく 彰 あきら 己 おのれ 令 れい 譽 ほまれ ,遂 とげ 以所造 づくり 名 めい 《金 かね 七 なな 十 じゅう 論 ろん 》。彼 かれ 論 ろん 長行 おさゆき ,天 てん 親 おや 菩薩 ぼさつ 之 これ 所 しょ 造 づくり 也。」
^ 《雜 ざつ 阿 おもね 含經》卷 まき 13〈306經 けい 〉:「所以 ゆえん 者 しゃ 何 なに ?眼 め 、色 いろ 緣 えん 生 せい 眼識 がんしき ,三 さん 事 こと 和合 わごう 觸 さわ ,觸 さわ 俱生受、想 おもえ 、思 おもえ ,此四無色 むしょく 陰 かげ 、眼 め 、色 いろ ,此等法名 ほうみょう 為 ため 人 じん ,於斯等 とう 法 ほう 作 さく 人 じん 想 おもえ 、眾生、那 な 羅 ら 、摩 ま [少 しょう /兔 うさぎ ]闍、摩 ま 那 な 婆 ばば 、士 し 夫 おっと 、福 ぶく 伽羅 きゃら 、耆婆、禪 ぜん 頭 あたま 。」
^ 求 もとめ 那 な 跋 ばつ 陀羅譯 やく 《楞伽阿 おもね 跋 ばつ 多 た 羅 ら 寶 たから 經 けい 》卷 まき 2:「爾 なんじ 時 じ ,大 だい 慧 とし 菩薩 ぼさつ 摩 ま 訶薩白 しろ 佛 ふつ 言 ごと :『「世尊 せそん !世尊 せそん !修多羅 すたら 說 せつ :如來 にょらい 藏 ぞう 自性 じしょう 清淨 せいじょう ,轉 てん 三 さん 十 じゅう 二 に 相 そう ,入 にゅう 於一切 いっさい 眾生身中 しんちゅう ,如大價 か 寶 たから ,垢 あか 衣 ころも 所 しょ 纏 まとい 。如來 にょらい 之 の 藏 ぞう 常住 じょうじゅう 不變 ふへん ,亦 また 復 ふく 如是 にょぜ ,而陰,界 さかい ,入 いれ ,垢 あか 衣 ころも 所 しょ 纏 まとい ,貪欲 どんよく 恚癡不實 ふじつ ,妄想 もうそう 塵勞 じんろう 所 しょ 污,一切 いっさい 諸佛 しょぶつ 之 これ 所 しょ 演說 えんぜつ 。云 うん 何 なん 世尊 せそん 同 どう 外道 げどう 說 せつ 我 わが ,言 げん 有 ゆう 如來 にょらい 藏 ぞう 耶?世尊 せそん !外道 げどう 亦 また 說 せつ 有 ゆう 常 つね 、作者 さくしゃ 離 はなれ 於求那 な ,周 しゅう 遍 あまね 不滅 ふめつ 。世尊 せそん !彼 かれ 說 せつ 有我 ありが 。』佛 ふつ 告 つげ 大 だい 慧 とし :『我 わが 說 せつ 如來 にょらい 藏 ぞう ,不同 ふどう 外道 げどう 所說 しょせつ 之 の 我 わが 。大 だい 慧 とし !有 ゆう 時 じ 說 せつ 空 そら 、無 む 相 そう 、無 む 願 ねがい 、如、實際 じっさい 、法 ほう 性 せい 、法 ほう 身 み 、涅槃 ねはん 、離 はなれ 自性 じしょう 、不 ふ 生 なま 不滅 ふめつ 、本來 ほんらい 寂靜 じゃくじょう 、自性 じしょう 涅槃 ねはん ,如是 にょぜ 等 とう 句 く ,說 せつ 如來 にょらい 藏 ぞう 已 やめ 。如來 にょらい ,應 おう 供 きょう ,等 とう 正覺 しょうがく ,為 ため 斷 だん 愚 ぐ 夫 おっと 畏 かしこ 無我 むが 句 く 故 こ ,說 せつ 離 はなれ 妄想 もうそう 無 む 所有 しょゆう 境界 きょうかい 如來 にょらい 藏 ぞう 門 もん 。大 だい 慧 とし !未來 みらい 現在 げんざい 菩薩 ぼさつ 摩 ま 訶薩,不 ふ 應 おう 作 さく 我見 がけん 計 けい 著 ちょ 。譬 たとえ 如陶家 か ,於一泥 どろ 聚,以人工 じんこう 水木 みずき 輪 わ 繩 なわ 方便 ほうべん ,作 さく 種種 しゅじゅ 器 き 。如來 にょらい 亦 また 復 ふく 如是 にょぜ ,於法無我 むが 離 はなれ 一切 いっさい 妄想 もうそう 相 しょう ,以種種 しゅ 智慧 ちえ 善 ぜん 巧 たくみ 方便 ほうべん ,或 ある 說 せつ 如來 にょらい 藏 ぞう ,或 ある 說 せつ 無我 むが 。以是因 いん 緣故 えんこ ,說 せつ 如來 にょらい 藏 ぞう ,不同 ふどう 外道 げどう 所說 しょせつ 之 の 我 わが 。是 ぜ 名 めい 說 せつ 如來 にょらい 藏 ぞう 。』」