土佐とさ日記にっき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
土佐とさ日記にっき』 みことけいかく文庫ぶんこ所蔵しょぞう藤原ふじわら定家さだいえ臨書りんしょ部分ぶぶん。1235ねん書写しょしゃ国宝こくほう

土佐とさ日記にっき』(とさにっき)は、平安へいあん時代じだい成立せいりつした日本にっぽん最古さいこ日記にっき文学ぶんがくのひとつ。紀貫之きのつらゆき土佐とさこくからきょうかえ最中さいちゅうきた出来事できごと諧謔かいぎゃくまじえてつづった内容ないようつ。成立せいりつ時期じきしょうだが[1]うけたまわひらた5ねん934ねん後半こうはんといわれる[1]ふるくは『ひだり日記にっき』と表記ひょうきされ[1][ちゅう 1]、「とさの日記にっき」とんだ[1]

内容ないよう仮託かたく[編集へんしゅう]

日本にっぽん文学ぶんがく史上しじょう、おそらくはじめての日記にっき文学ぶんがくである。紀行きこうぶんちか要素ようそをもっており、その仮名かめいによる表現ひょうげんとく女流じょりゅう文学ぶんがく発達はったつおおきな影響えいきょうあたえている。『蜻蛉とんぼ日記にっき』、『和泉式部いずみしきぶ日記にっき』、『紫式部むらさきしきぶ日記にっき』、『更級さらしな日記にっき』などの作品さくひんにも影響えいきょうおよぼした可能かのうせいたかい。[よう出典しゅってん]

延長えんちょう8ねん930ねん)からうけたまわひら4ねん934ねん)にかけての時期じき貫之つらゆき(つらゆき)は土佐とさこく国司こくしとして赴任ふにんしていた[1]。その任期にんきえて土佐とさからきょうかえ貫之つらゆきいちぎょうの55日間にちかん旅路たびじとおぼしきはなしを、女性じょせい仮託かたくし、ほとんどを仮名かめい日記にっきふうつづった作品さくひんである[1]主題しゅだい単一たんいつではなく[1]親子おやこじょう国司こくし望郷ぼうきょう孤独こどくかん歌論かろんきの士族しぞく意識いしきなどが指摘してきされる[1]女性じょせい仮託かたくした理由りゆうについては、男性だんせいかんじんかり名文めいぶんいたため、諧謔かいぎゃく風刺ふうしのための韜晦とうかい公的こうてき身分みぶんはなれて私的してき感情かんじょう開陳かいちんするためなどの諸説しょせつがある[1]57しゅ和歌わかふく内容ないよう様々さまざまだが、中心ちゅうしんとなるのは土佐とさこくくなった愛娘まなむすめおも心情しんじょう、そして行程こうていおくれによる帰京ききょうをはやるおもいである。諧謔かいぎゃく表現ひょうげん(ジョーク、駄洒落だじゃれなどといったユーモア)をおおもちいていることも特筆とくひつされる。[独自どくじ研究けんきゅう?]

成立せいりつ過程かてい不明ふめいである。貫之つらゆきはおそらく帰京ききょう途上とじょう漢文かんぶん日記にっきをつけ、土佐とさ日記にっき執筆しっぴつするさいにはそれを参照さんしょうしたとかんがえられるが[独自どくじ研究けんきゅう?]、『土佐とさ日記にっき』そのものは虚構きょこうまじえたものであり、またあきらかに実録じつろく日記にっきそのものではなく文学ぶんがく作品さくひんである。

小松こまつ英雄ひでおは、この日記にっき女性じょせい仮託かたくしたものではなく、冒頭ぼうとう一節いっせつは「漢字かんじではなく、仮名かめい文字もじいてみよう」という表明ひょうめいを、仮名かめい特性とくせいかした技法ぎほうたくみに表現ひょうげんしたものだとしている[2][疑問ぎもんてん]。ただしこのせつひろれられるにはいたっていない。

田辺たなべ聖子せいこは、むすめくしたかなしみをくにあたって、「おとこ日記にっき場合ばあい普通ふつう漢文かんぶんです。しかし漢文かんぶんでは、「泣血(きゅうけつ)」のようなかたいことばでしかかなしみを表現ひょうげんできません。自分じぶんかなしみ、ささやかなしんのひだ、そういうものではくせない。そうおもったときにおそらく、貫之つらゆき仮名かめいくことをおもいついたのです」という見方みかたである[3]

橋本はしもとおさむ仮名かめい文字もじ使用しようした理由りゆうについて、紀貫之きのつらゆき歌人かじんであったことをげている[4]当時とうじ男性だんせい日記にっき漢文かんぶんであったが[ちゅう 2]和歌わか男女だんじょともに仮名かめい文字もじもちいていた。そのため和歌わか専門せんもんでもある貫之つらゆき自分じぶん得意とくい文字もじである仮名かめい文字もじもちいた、というものである。

旅程りょてい[編集へんしゅう]

つづられるおも旅程りょてい以下いかとおり。日付ひづけ原本げんぽんしる旧暦きゅうれき日付ひづけである。全体ぜんたいは3構成こうせいされており、だい1は12月21にち出発しゅっぱつから元日がんじつまで、だい2は1がつ2にちから2がつ5にちまで、だい3は2がつ6にちから同月どうげつ16にちまでと、内容ないようてき区切くぎることができる[1]

日付ひづけ 到着とうちゃく通過つうか 現在げんざい地名ちめい
12月21にち 国府こくぶはつ 高知こうちけん南国なんこく比江ひえ周辺しゅうへん
12月21にち - 26にち 大津おおつ 高知こうちけん高知こうち大津おおつ
12月27にち 浦戸うらと 高知こうちけん高知こうち浦戸うらと
12月29にち 大湊おおみなと 高知こうちけん南国なんこく前浜まえはま
1がつ9にち 宇多うた松原まつばら 高知こうちけん香南こうなん岸本きしもと周辺しゅうへん
1がつ10日とおか 奈半のはく 高知こうちけん安芸あきぐん奈半利なはりまち
1がつ11にち 羽根はね 高知こうちけん室戸むろと羽根はねまち
1がつ12にち 室津むろつ 高知こうちけん室戸むろと室津むろつ
1がつ29にち 土佐とさはく 徳島とくしまけん鳴門なると鳴門町土佐泊浦なるとちょうとさどまりうら
1がつ30にち 阿波あわ水門すいもん 鳴門海峡なるとかいきょう
沼島ぬしま 兵庫ひょうごけんみなみあわじ沼島ぬしま
和泉いずみなだ 大阪おおさか南西なんせい
2がつ1にち 黒崎くろさき松原まつばら 大阪おおさか泉南せんなんぐんみさきまち淡輪たんのわ
はこうら 大阪おおさか阪南はんなん箱作はこつくり
2がつ5にち 石津いしづ 大阪おおさかさかい浜寺はまでら
住吉すみよし 大阪おおさか大阪おおさか住吉すみよし
2がつ6にち 難波なんば 大阪おおさか大阪おおさか
2がつ8にち 鳥飼とりかい御牧みまき 大阪おおさか摂津せっつ鳥飼とりかい
2がつ9にち なぎさいん 大阪おおさか枚方ひらかた渚元なぎさもとまち
鵜殿うどの 大阪おおさか高槻たかつき鵜殿うどの
2がつ11にち 八幡やはたみや 石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう
山崎やまざき 京都きょうと乙訓おとくにぐん大山崎おおやまざきまち
2がつ16にち 島坂しまさか 京都きょうと向日むこう上植野かみうえのまちとうどう
きょうちゃく 京都きょうと京都きょうと

写本しゃほんぐん[編集へんしゅう]

土佐とさ日記にっき』はある時期じきまで貫之つらゆき自筆じひつのものがつたわっていた。鎌倉かまくら時代ときよまでは京都きょうと蓮華れんげおういん宝蔵ほうぞうおさめられていたものが、のちに歌人かじん尭孝ぎょうこうわたり、さらにそれが足利あしかが義政よしまさ献上けんじょうされてからは足利あしかが将軍家しょうぐんけ所蔵しょぞうとなっていたらしいが、その消息しょうそくについてはえている。

写本しゃほんとしては、自筆じひつほんから直接ちょくせつ藤原ふじわら定家さだいえ藤原為家ふじわらのためいえ松木まつきそうつな三条西さんじょうにし実隆さねたからにより筆写ひっしゃされ、これら4系統けいとう写本しゃほんつたわっている[1]なかでも定家さだいえほんためほんは、貫之つらゆき自筆じひつほんさい構成こうせいには重要じゅうようである。

定家さだいえほん巻末かんまつ見開みひらき2ぺーじ使つかって貫之つらゆき自筆じひつほんまき臨書りんしょしており、その臨書りんしょ原本げんぽんうしなわれたいまとなっては唯一ゆいいつ貫之つらゆき筆跡ひっせきしのぶことができるきわめて貴重きちょう存在そんざいである。一方いっぽう本文ほんぶんについては原本げんぽん忠実ちゅうじつではなく、意図いとてき表現ひょうげん書替かきかえた箇所かしょや、定家さだいえ仮名遣かなづかいあらためた箇所かしょがある。わかりやすいれいとして冒頭ぼうとうあお谿書ほんでは、

「をとこもすなる日記にっきといふものを をむなもしてみんとてするなり」(あお谿書ほん

とあるのを定家さだいえほんでは、

「をとこもすといふ日記にっきといふものを ゝむなもしてこころみむとてするなり」(定家さだいえほん

としている。

ため定家さだいえ息子むすこで、定家さだいえ翌年よくねん筆写ひっしゃした。ため臨書りんしょまではしていないものの、原本げんぽんどおりの仮名かめい字体じたい原本げんぽんどおりに本文ほんぶんうつし、奥書おくがきには「きの正本しょうほん書写しょしゃいちたがえ」としるしている。写本しゃほんとの近代きんだいにおける比較ひかくから、写本しゃほんぐんのなかではため書写しょしゃほん系統けいとうさい善本ぜんぽんという評価ひょうかあたえられている。

以下いか系統けいとうじょう主要しゅよう写本しゃほんしめす。池田いけだ亀鑑きかん証本しょうほんとしたもの(後述こうじゅつ)には※を[5]

土佐とさ日記にっき』について特筆とくひつすべきこととして、原著げんちょしゃである貫之つらゆき自筆じひつほんから直接ちょくせつ書写しょしゃした写本しゃほん現存げんそんしていることがある。たとえば『枕草子まくらのそうし』にせよ『源氏物語げんじものがたり』にせよ、その作者さくしゃとされる清少納言せいしょうなごん紫式部むらさきしきぶ自筆じひつほんはやくにうしなわれ、現存げんそんしているそれらでんほんはいずれも原作げんさくしゃ自筆じひつほんではない写本しゃほんを、ひとからひとへと幾度いくどとなくうつして成立せいりつしたものである。つまりその書写しょしゃ過程かていにおいて誤写ごしゃ誤脱ごだつ意図いとてき改変かいへん本文ほんぶんくわわっており、原作げんさくしゃあらわした本文ほんぶんからは大変たいへんかけはなれたものが、現在げんざいつたわっている可能かのうせいがあるのである。これは『枕草子まくらのそうし』や『源氏物語げんじものがたり』にかぎったことではなく、ほかのふる時代じだい成立せいりつした文学ぶんがく作品さくひんについても大抵たいていてはまる。

しかし『土佐とさ日記にっき』では原著げんちょしゃ自筆じひつほんが、15世紀せいきごろというかなり時代じだいにまでつたわり、それを直接ちょくせつ閲覧えつらんしてうつした写本しゃほん現存げんそんしている。これは普通ふつうではかんがえられないような僥倖ぎょうこうであり、その価値かちたんなる文学ぶんがく作品さくひん写本しゃほんということまらないものである。

享受きょうじゅ研究けんきゅう[編集へんしゅう]

土佐とさ日記にっき』はその成立せいりつからさんじゅうねんほどすると、その内容ないよう注目ちゅうもくされまれていたらしく、『こうせん和歌集わかしゅう』には『土佐とさ日記にっき』にしるされたうちの和歌わか2しゅが、語句ごく異同いどうはあるものの貫之つらゆきさくとしてられている。ちなみに『せん和歌集わかしゅう』の撰者せんじゃのひとりであるきの時文じぶん貫之つらゆき息子むすこである。その時文じぶん親交しんこうのあっためぐみけい法師ほうし私家集しかしゅうめぐみけいしゅう』には、『土佐とさ日記にっき』をにしたものがあったことがしるされている。

研究けんきゅうにおいてもっともふるいものは、ぶんれき2ねん1235ねん)の定家さだいえ書写しょしゃ鑑定かんていであろう。定家さだいえ原本げんぽんである貫之つらゆき自筆じひつほんについて、その形態けいたい巻子本かんすぼんだったこと、またそのかみ寸法すんぽう枚数まいすう紙質かみしつとう定家さだいえほん巻末かんまつきしている。三条西さんじょうにし実隆さねたか筆写ひっしゃおり句読点くとうてんこえてんほどこし、ほかにも校合きょうごうこころみられている。

注釈ちゅうしゃくてき研究けんきゅうとしてもっとふるいものは、三条西さんじょうにし実隆さねたか句点くてんこえてんほどこしたり、講義こうぎをしたりしたものである[1]。その池田いけだただししき講義こうぎが『土佐とさ日記にっきこう註』(慶安けいあん元年がんねん(1648ねん成立せいりつ)として筆記ひっきされたほか[1]慶安けいあん元年がんねん(1648ねん)5がつ松永まつなが貞徳さだのりおこなった講義こうぎは、加藤かとう磐斎ばんさいが『土佐とさ日記にっき見聞けんぶんしょう』(あかりれき元年がんねん(1655ねん成立せいりつ)として筆記ひっきされた[1]。いずれも江戸えど時代じだい注釈ちゅうしゃくてき研究けんきゅうのさきがけとなったものであり[1]万治まんじ4ねん1661ねん)のばつがある人見ひとみぼくかそけ土佐とさ日記にっきちゅう』や北村きたむら季吟きぎん土佐とさ日記にっきしょう』などの研究けんきゅうつづいた[1]元和がんわ寛永かんえいのころになって注釈ちゅうしゃくてき研究けんきゅうさかんになる。

ほんきょ宣長のりながは『土佐とさ日記にっきしょう』には『土佐とさ日記にっきちゅう』の影響えいきょうられるとするが、岸本きしもと由豆流ゆずるは、りょうしょ引用いんようしている古典こてんせき相違そうい説明せつめいできないと指摘してきしている。寛永かんえい4ねん1627ねん)5がつ刊行かんこうされた『土佐とさ日記にっきくびしょ』は、ほとんど『土佐とさ日記にっきしょう』のままである。藤宇ふじゆうまんは、契沖けいちゅう賀茂真淵かものまぶちとのせつ併記へいきした『土佐とさ日記にっき註』をいた。また上田うえだ秋成あきなりは、ふちせつみずからのせつえたものを刊行かんこうしている。さらにふちせつは、かじ魚彦なひこによってべつしるされ、『土佐とさ日記にっき聞』や『土佐とさ日記にっき聞書ききがき』となった。『土佐とさ日記にっき註』と『土佐とさ日記にっき聞』とでせつ相違そういがあるのを、岸本きしもとは「魚彦なひこがしるせるはけんきょおきなはやくのせつ、宇まん伎がしるせるは、せつなるべし」としている。

岸本きしもと由豆流ゆずるはのちに『土佐とさ日記にっき考証こうしょう』(文化ぶんか12ねん1815ねん成立せいりつ文政ぶんせい2ねん(1819ねん刊行かんこう)をあらわ[1]しょしょう取捨選択しゅしゃせんたく綿密めんみつ考証こうしょうこころみ、富士ふじたに御杖みつえは『土佐とさ日記にっきとう』(文化ぶんか14ねん(1817ねん成立せいりつ)をあらわした[1]香川かがわ景樹かげきも『土佐とさ日記にっき創見そうけん』(文政ぶんせい6ねん1823ねん〉)をあらわ[1]綿密めんみつ考証こうしょうをなしている。この3ちょ研究けんきゅう史上しじょう重要じゅうようなものである。これらの研究けんきゅう本文ほんぶん批評ひひょうしょほん研究けんきゅうじょうたか成果せいかをもたらしただけでなく、文体ぶんたい動機どうきなどにまでろんすすめている。

明治めいじ大正たいしょうにはそれほどおおきな研究けんきゅう進展しんてんられなかった[1]。しかし、昭和しょうわはいると、前田まえだ家蔵かぞう定家さだいえほん三条西さんじょうにしほん公開こうかいされ、たちばな純一じゅんいち山田やまだ孝雄たかおなどによって本文ほんぶん研究けんきゅうすすめられた[1]当時とうじためひつほん所在しょざいられていなかったが、ためほん忠実ちゅうじつうつしたとされるあお谿書ほんなどをもとにして池田いけだ亀鑑きかんがなした『古典こてん批判ひはんてき処置しょちかんする研究けんきゅう』(1941ねん)にいたって、本文ほんぶん研究けんきゅうはほとんど完成かんせいするにいたった[1]池田いけだしょほん研究けんきゅううえ、120しゅ以上いじょうおよ写本しゃほんぐんから貫之つらゆき自筆じひつほんさい構のために証本しょうほんえらんだ。

ためひつほんは1984ねんさい発見はっけんされ、あお谿書ほんにおける誤写ごしゃ確認かくにんされた。

その[編集へんしゅう]

2004ねん、ペルー・カトリカ大学だいがく東洋文庫とうようぶんこ)から、日本語にほんご原文げんぶんから直接ちょくせつスペイン翻訳ほんやくされたはじめての完訳かんやくほん出版しゅっぱんされた。日本語にほんご原文げんぶんマ字まじによって記載きさいされ、それに対応たいおうするスペインやくがあてられているのが特徴とくちょうである。

2023ねん11月、ペルー日系にっけいじん協会きょうかい出版しゅっぱん基金ききんより、Hiroko Izumi ShimonoとIvan Pinto Romanによる、日本にっぽん古典こてんから直接ちょくせつスペイン翻訳ほんやくした、El diario de Tosa(土佐とさ日記にっき。ISBN:978-612-4397-20-2)が出版しゅっぱんされた。2004年版ねんばん翻訳ほんやく内容ないよう見直みなおし、最新さいしんばんとして出版しゅっぱんされたものである。また、挿絵さしえには、菊池きくち容斎ようさい土佐とさ日記にっき」(中野なかのこう一早稲田大学名誉教授個人蔵)などがもちいられており、うつくしいほんである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 定家さだいえほんためほんふくおおくの写本しゃほんではだいは「ひだり日記にっき」となっている。さらに定家さだいえほん奥書おくがきには「ゆう外題げだい ひだり日記にっき 貫之つらゆきひつ」とあり、これによれば貫之つらゆき自筆じひつで「ひだり日記にっき」の外題げだいがあったことになる。
  2. ^ 当時とうじ日記にっき日々ひび公務こうむつづるものであった。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかい日本にっぽん古典こてん文学ぶんがくだい辞典じてん だい4かん岩波書店いわなみしょてん、1984ねん7がつ、464-465ぺーじ 
  2. ^ 小松こまつ英雄ひでお古典こてんさい入門にゅうもん:『ひだり日記にっき』をはいりぐちにして』笠間かさま書院しょいん、2006ねん
  3. ^ 田辺たなべ聖子せいこ古典こてんまんだら』じょう新潮社しんちょうしゃ)p.60f。
  4. ^ 橋本はしもとおさむ『これで古典こてんがよくわかる』筑摩書房ちくましょぼうちくま文庫ぶんこ〉、2001ねん
  5. ^ 池田いけだ: 48、52。
  6. ^ 弘文こうぶんそうについてジャパンナレッジ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]