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Dong Guan Han Ji : 紀一 : 世祖光武皇帝 - Chinese Text Project
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光武みつたけ皇帝こうてい

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1 光武みつたけ... :
光武みつたけ皇帝こうてい高祖こうそきゅうせいまごうけたまわぶんけいすべ出自しゅつじちょうすなていおうはつていおうせいうすりょうふしこううすりょうほんざいれいりょうぐんふしこうまごこうこう以土地下ちかしめもとみかどもとめふう南陽なんよう蔡陽しろ水鄉すいごういん國名こくめい曰舂りょう

2 光武みつたけ... :
皇考こうこうはつためずみれいすみ有武ありたけみかどぎょうみやつねふう閉。うえすすむせい皇考こうこう以令しゃしめひらき宮後みやうしろ殿居とのいけんひらた元年がんねんじゅうがつ甲子きのえねよる上生わぶゆうあかこうしつちゅうつきあかり皇考こうこうこと使つかい卜者ぼくしゃおうちょうぼくちょう曰:「此善事ぜんじ不可ふかげん。」これさいよしみ禾生,いちくききゅうだい於凡禾,けんかいだい豐熟ほうじゅくいんめいじょう曰秀。これさいおおとりすめらぎ來集らいしゅうずみみやみな鳳凰ほうおうひじりみずほもえちょうはじめがた於此。うえためじんたかしじゅんにちかく大口おおぐちよしひげまゆちょうななしゃくさんすんざいうすりょうもちしゃはくおもねもちうすりょうじょう曰:「美哉みやおう氣鬱きうつうつ蔥蔥。」ひとし智明ともあきとおけんりゃくらくほどこせ愛人あいじん在家ありいえじゅうまきかしこことつとむ於稼穡。あにはくますこう俠,わらいじょうこと田作たづくり高祖こうそけいとしきゅうさい而南とみくんそつずい叔父おじざいしょうにゅう小學しょうがく長安ながやす,受尚しょ於中大夫たいふいおりこう許子もとこようとぼしあずかどうしゃなまかんごうぜにかいうさぎうまれい從者じゅうしゃ僦,以給しょ公費こうひ大義たいぎりゃく舉,いんがく世事せじ朝政ちょうせいごと,必先聞知ぶんちためどうしゃ解說かいせつこうざい好學こうがくしかまたゆう俠,鬥雞走閭里かんよこしま,吏治得失とくしつどきかいあさ請,しゃ長安ながやすなおかんむりさと南陽なんよう大人おとな往來おうらい長安ながやす為之ためゆきていやみ稽疑ためちちうすりょうこうまいだい司馬しば,訟地すめらぎ元年がんねんじゅう二月壬寅前租二萬六千斛、芻稿ぜに若干じゃっかんまんときあてじんしゅぶくまたためしゅうと訟租于尤。ゆうとめしゃどくあずかうえぶくうえおどけぶく曰:「いむこうやすしきょうよこしま?」おう莽時,雒陽以東いとうまいせきせん,莽遣三公將運關東諸倉賑貸窮乏,また分遣ぶんけん大夫たいふ謁者きょうみんため酪,酪不可ふかしょくじゅうためはん擾,流民りゅうみんいれせきしゃすうじゅうまんにんおけやしなえ贍官以廩とうはつ其廩,みん餓死がししゃじゅうななはち人民じんみんしょうしょくすえねん天下てんか大旱たいかん蝗蟲ばった蔽天,盜賊とうぞくぐんおこり四方しほうつぶせほとり。荊州下江しもえ平林ひらばやしへいおこりおうただしおうおおとり為之ためゆきみぞりつとき南陽なんようひでりかつえ,而上田うえだどくおさむあてだいせいはくだま從弟じゅうてい軼數きゃくもとめじょううえよく避之。さきはくだま同母どうぼけい公孫こうそんしんためはくます請呼なんはくますころせこれうえおそれ其怨,避之。使つかい來者らいしゃげんほっしょう款誠他意たい上乃うえのみるふところ刀自とじ備,にゅうかたはじめこう兄弟きょうだいためじょうげん:「天下てんか擾亂じょうらん饑餓きが下江しもえへいもり南陽なんようごうみぎくも擾。」いんげん文事ぶんじ。「りゅうとうふくおこりため輔。」じょうこと不意ふいどく內念とみあつちちためむねきょうげん譎詭,こと次第しだい,嘗疾どく諸家しょかすうはん法令ほうれい家富いえとみあつなにため如是にょぜ然諾ぜんだく其言。しょとげあずか南陽なんようじょうちょうじゅんとうれんはかりごとうえふかねん良久よしひさ天變てんぺんやめなりとげへいいしゆみ,絳衣あか幘。ときはくますざいうすりょうまたやめ聚會きゃく矣。うえきゅういおり望見ぼうけんいおりみなみわかこう,以為じんよびひかりとげもり,赫然ぞくてんゆうごろこれとげしたがえ南郭なんかく歸宅きたく,乃與はくますしょうはつはくますおこり也,諸家しょか子弟していみな逃自匿,曰:「はくますころせわが。」及聞じょういたり,絳衣大冠だいかん將軍しょうぐんふく,乃驚曰:「以為どくはくます如此也,ちゅう謹厚きんこうまた如之。」みなごうかいきょうろうきょう新市しんいち平林ひらばやしへいおうおおとりおうただしとういんりつうすりょう子弟していずいへいあいななはちせんにんうえうしあずか俱,ころせ新野しんのじょう乃得光武みつたけおこり義兵ぎへいくれ聞塚じょうゆう哭聲,有人ゆうじんちょ大冠だいかん絳單ころも使つかいりゅうおわり詐稱さしょう江夏えなつ吏,さそえころせ湖陽こようじょう。五威將軍嚴尤擊下江兵,じょうたてまつ糗一斛,脯さんじゅう朐詣まく府營ふえいすすむかこえあてじょうおう莽遣だいつかさおうひろだいつかさそらおう邑將へいらいせい更始こうしりつ以上いじょうためふとつねへん將軍しょうぐんとき無印むじるしとくていこうすすむしるし,佩之入朝にゅうちょう。二公兵到潁川,いむゆうちんしげるあずかごうゆうといじょう中出なかでしゃ言上ごんじょう敢取財物ざいぶつただしごうかいしょへいためけいさくゆうわらいげん曰:「眉目びもくしゃ耶?よくなんため乃如此?」はつ,莽遣おおやけよくもり威武いぶ,以振山東さんとうきのえ衝輣,干戈かんか旌旗せいきせんおさむこれ甚盛。いたりとらひょうさいぞうえら猛獸もうじゅう,以長じんきょ霸為るいじょうはたかん以來いらい未曾有みぞう也。うえ邀之於陽せきおおやけへいもりかんへいはんはしうえはせにゅう昆陽こやしょしょう惶恐,かくほっあずかしょしょう:「城中じょうちゅうへいこくしょうあてじょう拔,ちから不能ふのうしょうすくいいま昆陽こんようそくやぶいちにちあいだしょはたまためつ不同ふどうりょくすくいはんよくもり妻子さいし財物ざいぶつ耶?」しょはたいか曰:「りゅう將軍しょうぐんなん以敢如此!」上乃うえのえみ,且去,ただおうつね上計あげかいこうかえげん大兵だいひょうやめらいちょうすうひゃくもち後尾こうびぜんやめいたり城北しろきた矣。しょしょう遽請じょううえいたためひねしょうすくいいきおいしょしょうもとけいじょう,及迫きゅううえため成敗せいばいみなしたがえしょげんときかんへいはちきゅうせんにんとめおうおおとりれいもりじょうよる出城でしろみなみもん。二公兵已五六萬到,とげたまき昆陽こんようしろさく營,かこえすうじゅうくもしゃじゅうあまりたけ,瞰臨じょうちゅう旗幟きし蔽野,ちり熛連くもきむこえすうじゅうさとあるため突,あるため衝車撞城,せきいしゆみしゃじょうちゅう矢下やおろし如雨,城中じょうちゅうまけ而汲。二公自以為功成漏刻。ゆう流星りゅうせい墜尋營中,せいひるゆう雲氣うんき如壞さん直營ちょくえい而霣,及地じゃく而散,吏士みな壓伏あっぷくときかんへいざいじょうりょう郾者,聞おおやけへいもりみなこわうえれきせつ其意,ためひね大命たいめい,請為まえぎょうもろ堅陣けんじんうえすすむせんあまりまえ大軍たいぐんよんさと。二公遣步騎數千乘合戰,じょう奔之,斬首ざんしゅすうじゅうきゅうしょ部將ぶしょう曰:「りゅう將軍しょうぐん平生へいぜい小敵しょうてきおびえ今見いまみ大敵たいてきいさむ,甚奇かい也。」じょうふくしんおおやけへい卻,しょじょう斬首ざんしゅすうひゃくせんきゅう連勝れんしょうとげれいけいあししょうしょあずか城中じょうちゅうしょしょうげんあて下兵しもへいふくいた,而陽墜其しょ。讀之,こわうえとげせん精兵せいびょうさんせんにんしたがえ城西じょうさい水上すいじょう奔陣。二公兵於是大奔北,ころせおうひろ,而昆城中じょうちゅうへいまた中外ちゅうがいなみげきかいてんだいかみなりふう暴雨ぼうう如注,みずにわたずみ成川なりかわ,滍水盛みずもり溢。おおやけだい眾遂潰亂かいらん,奔赴すい溺死できししゃ以數まん,滍水為之ためゆき不流ふりゅうおう邑、いむゆうちんしげるけい騎乘きじょう死人しにんわたり滍水逃去。かんぐんつき珍寶ちんぽう輜重しちょうしゃかぶとれんがつ不盡ふじん五月ごがつひとしたけおう拔宛じょう六月ろくがつうえやぶおおやけ於昆やぶあて數日すうじつおさむはくます部將ぶしょうりゅうきび,而伯ますきょうそう更始こうしとげよう譖訴,ふくおさむはくます即日そくじつみな物故ぶっこうえくだ潁陽,雖得いれ不安ふあん門下もんかゆうげきちょしゃうまおどろき硠磕。鄧晨おこり走出はしりで,乃馬也。うえざいちちじょうちょうまいあてはいじょうためやぶとりこ大將軍だいしょうぐんふう武信たけのぶこう更始こうしがいひとしたけおう光武みつたけ飲食いんしょくわらい平常へいじょう獨居どっきょ輒不酒肉しゅにく枕席ちんせきゆう涕泣ていきゅうしょ更始こうしよく北之きたの雒陽,以上いじょうため隸校じょうさきいた雒陽整頓せいとんかん文書ぶんしょうつりあずかぞくけん,三輔官府吏東迎雒陽者見更始諸將過者已數十輩,みなかんむり幘,ころも婦人ふじんころもしょ于繡よう缧,だいため長安ながやすしょわらい知者ちしゃあるかしこ其衣,奔走ほんそうにゅうあたりぐん隸官ぞくみなしょうゆびごくもちろう吏或たれ涕曰:「つばらしかふくかんかん威儀いぎ。」賢者けんじゃあり更始こうしよく以近おや巡行じゅんこう河北かほくだいつかさたまもの言上ごんじょうだいいち可用かよう更始こうし以上いじょうためだい司馬しばこれ河北かほくじゅうがつうえ節度せつどはじめ鎮撫ちんぶ河北かほくやすしゅう百姓ひゃくしょううえいたる邯鄲かんたんちょうおう庶兄えびすしんいぬうまひしおちょう王子おうじ臨說じょう灌赤まゆちょうおう庶兄えびすたて邯鄲かんたん卜者ぼくしゃおうろうため天子てんしうつりげき購求こうきゅうこうじゅうまん光武みつたけためおうろうしょおいいたりにょうしょう邯鄲かんたん使者ししゃにゅうつてしゃ。廚吏かたしんしょくかんぞく從者じゅうしゃひだるさえぎだつこれ。吏卒おどろきおこり聚語,乃椎すうじゅうつういつわりげん邯鄲かんたん將軍しょうぐんいたりかんぞくみな懼失しょくうえ臨升しゃかえすわ,曰:「請邯鄲かんたん將軍しょうぐんいれ。」久乃ひさのますゆうでんよび寺門てらかどひらく雒陽吏耳。上出かみでこうむはん霜雪そうせつ光武みつたけ大會たいかいじょうげき筑。うえりつ鄧禹とうげきおうろう橫野よこの將軍しょうぐんりゅうたてまつ大破たいはかえ鄧禹營,禹進しょくあぶさかな上大かみおお餐啗。とき百姓以上新破大敵,欣喜きんき聚觀,見上みかみ餐啗,ろうつとむ吏士,威嚴いげん甚厲,於是みな竊言曰:「りゅうこう天人てんにん也。」引兵おさむ邯鄲かんたん連戰れんせんろうへい挫折ざせつろう諫議大夫たいふもりちょうぶしまい軍門ぐんもんうえ棨戟むかえのべ請入ぐんこうよりどころ曰:「實成さねなりみかど遺體いたい輿こし也。」おおやけ曰:「正使せいしなりみかどふくせい天下てんか不可ふかふくとく也。きょういつわり輿こし乎!」ちょうたけし請降とくまんこうおおやけ曰:「いち不可ふかとく。」ちょうたけし曰:「邯戰雖鄙,君臣くんしん并力じょうもりなおささえいちさいおわり君臣くんしんしょうりつ而降ただしとく全身ぜんしん也。」辭去じきょ。而郎しょうでんたてはんろう開城かいじょうもんかんへいやぶ邯鄲かんたん,誅郎。にゅう王宮おうきゅうおさむ文書ぶんしょとく吏民そし公言こうげんげきしゃすうせんしょう公會こうかいしょしょうしょう,曰:「れいはんがわしゃやす也。」じょうかこえ邯鄲かんたんした,彭寵のこべいほしいぎょしお以給ぐんかてゆかりやぶ邯鄲かんたん更始こうし使者ししゃそくりつおおやけためしょうおうしょしょうじょう尊號そんごううえもとまた擊破げきはどう,受降てき畢,ふうじぞくみぞりつしょしょうのうしんじぞくまたりょうしんうえ敕降ぞくかく歸營きえい勒兵まてうえけいいれ,按行ぞく營。賊將ぞくしょう曰:「しょうおう推赤こころおけじん腹中ふくちゅうやすとう。」ゆかりみなやすみことのり馮異ぐんかりもんそつまん餘人よにんくだこれ光武みつたけきたげきゆうらいだい搶、五幡いつはた於元ついいたり北平きたひら連破れんぱこうはん為所しどころはいぐんちゅう光武みつたけあるうんやめ歿。うえやめおうゆたかしょううまさきいた矣,營門不覺ふかくうえやぶぞく入漁にゅうぎょしょしょうじょう尊號そんごううえもと曹掾ちょう祉言:「ぞく以為つばめじんほうじょう大事だいじはんあずか愚人ぐじんしょうもりけい也。」上大かみおおわらい光武みつたけはつあざみかえ眾喜らくもろゆき鼓舞こぶごえうたえいはちあら震動しんどう范陽,いのちしょしょうおさむそう吏士。いたり中山なかやましょしょうふく請上尊號そんごう,曰:「帝王ていおう不可ふかひさ曠。大王だいおう社稷しゃしょくためけいまんせい為心いしん。」耿純せつじょう曰:「てん人事じんじやめ可知かち矣。」はつおう莽時,うえあずかはくます及姊婿むこ鄧晨、みのるじん蔡少こうつばめしょう公道こうどう讖言りゅうしげる當為とうい天子てんしある曰是國師こくしりゅう駿しゅん也。うえ戲言ざれごと:「なにぼく耶?」すわしゃみなだいわらいとき傳聞でんぶんあかふくぶんぐんちゅうしょうえしんじいた鄗,うえ所與しょよざい長安ながやすどうしゃしょなまつよしはな長安ながやすたてまつあかふくまい鄗,あずかうえかい群臣ぐんしんふくかた請,上奏じょうそう曰:「みずおうあきらしか著聞ちょぶん矣。」乃命有司ゆうししつらえだん於鄗みなみ千秋亭五成陌。六月ろくがつおのれそく皇帝こうてい。燔燎つげてん,禋於ろくむね改元かいげんためたてたけしあらため鄗為高邑たかむらじゅうがつみかどにゅう雒陽,幸南こうなんみやとげてい焉。光武みつたけやぶせいおおやけあずかしゅはくしかしょ曰:「交鋒これにちかみぼしひる太白たいはく清明せいめい。」ねん正月しょうがつえきかん、鄧禹とうふううえふう功臣こうしんみなため列侯れっこう大國たいこくよんけんかくゆう博士はかせちょうきょうとう:「帝王ていおうふう諸侯しょこうひゃく以建こうほう於雷。」じょう曰:「いにしえ亡國ぼうこくみな以無どう嘗聞ふう功臣こうしん而滅しゃ也。」乃遣謁者,そく印綬いんじゅかん草創そうそうとくうんせいついたちふくしょくゆう所定しょてい高祖こうそよししん,以じゅうがつためただし,以漢すいとくたてきた畤而ほこらくろみかど至孝しこうぶん,賈誼、公孫こうそんしん以為しんすいとくかん當為とういとく至孝しこうたけ,倪寬、司馬しば遷猶したがえとくうえ即位そくいあん讖,推五うんかんためとくしゅうあおかんあか水生すいせい赤代あかしろあおうえ雒陽。せい郊兆於城みなみなな北郊ほっこうよんためえんだん天地てんち其上,みな南面なんめん西にしじょうくだりなつとき以平いたいらだんふくしょく犧牲ぎせいなおくろあかり德之のりゆきうん,徽熾なおあかよんずいしょく季夏きか黃色おうしょくしゃ曰:「むかししゅうこう郊祀きさききび以配てんむねまつぶんおう以配上帝じょうてい讖著堯赤みかど之子ゆきこ,俱與きさききびなみ受命じゅめい而為おうかんりゅう堯,むべれい郊祀みかど堯以はいてんむねまつ高祖こうそ以配上帝じょうてい。」有司ゆうしそう曰:「追跡ついせき先代せんだい郊其うんしゃ禹不郊白みかどしゅう郊帝嚳。かん雖唐なえ,堯以歷數れきすういのちしゅん高祖こうそかんあかりゅうとくうけたまわうん而起,とう高祖こうそはい堯之かえふく於漢,むべおさむたてまつすみ陽成ようぜいけん堯冢,くもだい致敬祭祀さいしれいまたむべこれ。」じょうゆうげき將軍しょうぐん鄧隆あずかかそけしゅうまぎしゅ浮擊彭寵,たかしぐん潞,浮軍雍奴,相去あいさりひゃくあまりさと上奏じょうそうごと:「ちょうやぶざい旦暮たんぼ。」じょう讀檄竟,いか曰:「

3 光武みつたけ... :
へい必敗,なんじかえり可知かち。」吏還,いたりたかしぐんはてためちょうへい擊破げきは。浮軍とおいたり不能ふのうすくえ,以兵はしかそけしゅう。咸曰上神かずわ南越なんごしけんじしろ雉。さんねん光武みつたけただしはたゆたかこう舊宅きゅうたくじゅうがつうえみゆきうすりょうほこらえんびょうだいおけしゅあずかうすりょう父老ふろう人為じんいらく。以皇祖こうそ皇考こうこうためあきらりょうあらためためあきらりょういん以舂りょうためあきらりょうけん。隗囂上書うわがきほう以殊れいよんねんがつうえみゆきやつためせい彭寵也。おう莽末,天下てんかひでりしも連年れんねんひゃくこくなり元年がんねんはつ耕作こうさくしゃしょうみん饑饉ききん黃金おうごんいちきんえきあわいちせきいたりねんあき天下野けがのこくたびせいあさまめゆうもりあるなまふりさい协實,野蠶くわごなりまゆやまみんおさむ其絮,こくはて,以為蓄積ちくせきいたりとしこく生者しょうじゃ稀少きしょう,而南うねまたえき闢矣。たてたけしねんはつおこりたいがくしょなま子弟してい及民以義助作すけづくりうえひとしさいわいふとしがくたまもの博士はかせ弟子でしゆうこくわたるろくねんがつかん朐城,天下てんか悉定,ただどく公孫こうそんじゅつ、隗囂たいらうえ曰:「此兩おけ度外どがい。」乃休しょしょうおけしゅ賞賜しょうしまいさいわいぐんこくしも輿こし吏輒とい以數じゅうひゃくさい能吏のうり次第しだいしもいたりじょう。簡練臣下しんかこれぎょうしもしょかくれ其情,みちすうじゅうさいごとわかあん文書ぶんしょ,吏民おどろき惶,不知ふち所以ゆえんにん見識けんしきいえ以蒙おんとおしん受顏しょくめぐみすわせきあいだ,以要其死りょくとう此之ぞくげき以百すうゆう不可ふかしょううえなお以餘あいだこうけいげいはつ讖。せいつげ公孫こうそんじゅつしょ曰「公孫こうそん皇帝こうてい」。囂雖遣にゅうさむらいなおもちりょうしん。囂故吏馬援謂囂曰;「いた朝廷ちょうてい凡數じゅうことぬし常見つねみ明主めいしゅ如此也。ざいちょくおどろきじん,其勇非人ひにんてきひらくこころまことあずか人語じんごこうみにくところかくれいみなこう天下てんかごとごくつきおん兵事へいじ方略ほうりゃくりょうてきこうしょう闊達かったつ多大ただいぶしあずかこうみかどとう經學けいがく博覽はくらん政事せいじぶんべん前世ぜんせい無比むひ。」囂曰:「如卿げんしょうだかみかど耶?」曰:「如也。こうみかど大度たいど不可ふか今上きんじょうこう吏事,どう節度せつど飲酒いんしゅ。」囂大わらい曰:「如卿ごと反復はんぷく勝也かつや。」だいぐん太守たいしゅりゅうきょうしょうすうひゃくおさむ賈覽,うえじょうげきいたり光武みつたけとも其必はいほうしょ曰:「よくふくしんへいおそれしつ頭首とうしゅ也。」詔書しょうしょいたきょうやめためらんしょころせちょうとくげき,以為國家こっかすわ千里せんり也。ななねん正月しょうがつみことのり群臣ぐんしんそうごととくごと聖人せいじん」。また舊制きゅうせい上書うわがき以青ぬの囊素裹封しょちゅうしきとくじょうすんでじょうまいきたぐんまちむくい前後ぜんごしょうちりれん歲月さいげつ乃決。うえ躬親まんきゅう於下おしたじょう,乃令上書うわがきけいふうそくようとく刮璽しょ文字もじ而已。かなでまい闕,たいらだんじょう,其有とう及冤ゆいしゃつね以日,騶騎馳出はせだし召入,其餘以俟ちゅう使者ししゃむくいそくやめ所見しょけん如神,遠近えんきん不偏ふへんかそけかくれ上達じょうたつみん莫敢不用ふようじょうついねん前世ぜんせいえんりょういたりもり王侯おうこう外戚がいせきそううめ僭侈,吏民しょうこうひた以無げんみことのり誥天れいうすそうはちねん閏月じゅんげつくるま西にしせい河西かさい大將軍だいしょうぐん竇融あずか五郡太守步騎三萬迎上。隗囂眾震壞,みなくだ,囂走入城にゅうじょうかん、岑彭つい守之もりゆききゅうねん正月しょうがつ,隗囂かつえ出城でしろ餐糗ほしいはら脹死。じゅうねんかん引兵げき公孫こうそんじゅつにゅう犍為かいしょうけんしろもりした詔書しょうしょつげかんちょくようへいいた成都せいとよりどころ其心はらしろ營自解散かいさん漢意からごころなんまえ獨言ひとりごと朝廷ちょうてい以為わがばくぞく手足てあし矣。けいいたり成都せいとしょう市橋いちはしたけよう以東いとう小城おぎ營皆奔走ほんそうくだ,竟如詔書しょうしょかんへいじょうかちつい奔,じゅつ距守。詔書しょうしょまた戒漢曰:「成都せいとじゅうまんにん不可ふかけい也。且堅よりどころこう都城みやこのじょうこれじゅうまち其即營攻じょうやめ倦引,乃首尾しゅびげき,勿與そうほこさきじゅつへい敢來,てん營即移徙わたまし輒自けん。」じゅういちがつ,眾軍いたり城門じょうもんじゅつしょうじょう而戰。かんおさむじゅつぐん大破たいは刺傷ししょうじゅつ,扶輿にゅうかべ,其夜えびすじゅつ妻子さいしつてくび於洛たてへいだいかすめ,舉火燔燒。上聞じょうぶんしもみことのりゆずるかん副將ふくしょうりゅう禹曰:「しろくだ嬰兒えいじ老母ろうぼくち以萬すう一旦いったんへいたて,聞之ため酸鼻さんびいえゆうへい帚,とおる千金せんきん。禹宗しつ子孫しそん嘗更しょくなにしのぶこう此?仰視ぎょうしてん,俯視かん於放麑啜あつものよししゃ孰仁矣。しつはたつるしみん。」またかんころせじゅつおやぞくふとおおめいおう國有こくゆうけんじ名馬めいば寶劍ほうけんちょくひゃくきんうま以駕しゃけん以賜騎士きしえん囿池烃之かんはい,弋獵ことみやびせい聽音ちょうおんらく珠玉しゅぎょく衣服いふくだいきぬ,而不じゅう綵。征伐せいばつ嘗乘かわ輿こし羸馬。公孫こうそんじゅつあいみかどそく以數ぐん天子てんしようじゅつやぶえきしゅう傳送でんそう瞽師、郊廟らく、葆車、じょう輿こしぶつ乃稍備具焉。じゅつふく誅之,而事少閑しょうかんかん文書ぶんしょげんきゅう過半かはん下縣しもあがた吏無ひゃく繇,みんだしもんこれやくじゅうさんねんふういん紹嘉こうためそうこうしゅううけたまわきゅうこうためまもるおおやけえつけんじしろうさぎじゅうよんねんふう孔子こうしあなこころざしため褒成こうじゅうねんみことのり曰:「刺史しし太守たいしゅおおためいつわりたくみつとむじつかく,苟以ためめい,聚人田中たなかなみいおりさと落,聚人さえぎみち啼呼。」じゅうななねんうえ以日しょく避正殿どの讀圖どくず讖多,すわ廡下あさあらわちゅう風發ふうはつやましにがまぶし甚。左右さゆうゆうしろだい司馬しばふみ病苦びょうく如此,不能ふのう動搖どうようつよしたがえこうだしじょう,以車ぎょうすうやまいよんがつにちくるま宿やど偃師。やまい數日すうじつ入南にゅうなんかいいた。以車はぶけとめ數日すうじつぎょうはじむ兵馬へいばせんひきとげいたあきらりょう起居ききょひらたいよいよさいわいあきらりょうおさむえんびょうきゅう宅田たくださとしゃおおとりすめらぎいたりこうはちきゅうしゃく毛羽けば五彩ごさいしゅう潁川,ぐん鳥並とりなみしたがえぶたすうごろとめじゅうななにち乃去。商賈しょうこ重寶ちょうほう單車たんしゃ宿やど牛馬ぎゅうば放牧ほうぼくみち拾遺しゅういじゅうきゅうねん光武みつたけみことのり曰:「ただこうせん皇帝こうてい有功ゆうこうとく,其上尊號そんごう曰中むね。」うえみゆき南陽なんようなんじみなみいたりみなみとみとめれいしゃだいおけしゅたまもの吏民,ふくみなみひたぶる田租でんそいちさい。吏民叩頭こうとうごと:「皇考こうこうきょ此日ひさし陛下へいか識知てらしゃまいらい輒加厚恩こうおんただしふくいちさいしょうすすきねがいふくじゅうさい。」じょう曰:「

4 光武みつたけ... :
天下てんか重寶ちょうほう大器たいきつねおそれにんにちまきいちにちやす敢自とおじゅうさい。」ふくぞういちさいじゅうねんろくがつうえふう眴黃癉病はつ甚,以衛じょうせき內侯かげきょうためさむらいちゅうきょう受詔くもだいひろしつ甘露かんろくだよんじゅうにちじゅうねんがらす桓獻てんひょうがわまい朝賀ちょうがじゅうろくねん正月しょうがつみことのり曰:「ぜん用度ようど不足ふそく,吏祿うすしょう,乃自えき其俸。」三公下至佐史各有差。はつさくことぶきりょうはじめ營陵於臨たいらていみなみしょうさくだいたくみ竇融じょうげん:「えんりょうこう袤,無慮むりょ所用しょよう。」みかど曰:「帝王ていおうこれそうみなすえじんかわらしゃちがや使つかい後世こうせいこれにん不知ふち其處。臨平もちひらかげ河水こうすい洋洋ようようふねせん泛泛,ぜん矣夫!しゅうこう孔子こうしなおとくそんやすとくまつたかしあずかこれ而共ゆう乎!ふとしそう終始しゅうしこれけいみかどのう遵孝どう,遭天反覆はんぷく,而獨かん其福,あに美哉みやいましょせいさんごろ無為むい山陵さんりょう,陂池さいれい流水りゅうすい而已。迭興これまたおか壟,使つかいあいいにしえほう今日きょうがつやめ逝,とう自作じさく臣子しんしたてまつうけたまわとく有加ゆか。」乃令すえじんさくかわら

5 光武みつたけ... :
うえつね細書さいしょ一札いっさつじゅうぎょうほうぐんけんだん聽朝,いたり晏,よるこうけい聽誦。すわのり功臣こうしん特進とくしんざいがわろん時政ときまさ畢,道古どうこ行事ぎょうじせつ在家ざいけしょ識鄉さと能吏のうり次第しだい比類ひるいまたみち忠臣ちゅうしん孝子たかこ義夫よしおふしすわしゃ莫不げきあげ悽愴せいそう欣然きんぜんかずえつ群臣ぐんしん爭論そうろん上前うわまえ常連じょうれん皇太子こうたいし嘗承あいだごと:「陛下へいかゆう禹、あきら,而失ろうやしなえせいみちこん天下てんか大安たいあんしょうしょう思慮しりょやしなえ精神せいしん。」じょうこたえ曰:「わがらく此。」城郭じょうかくおか墟,掃地さらためうえ悔前徙之。さんじゅうねん有司ゆうしそうふう襌。みことのり曰:「わざわいれん仍,日月じつげつうすしょく百姓ひゃくしょう怨歎,而欲有事ゆうじ太山たいざん,汙ななじゅうだいへんろく,以羊がわざつてん裘,なにきょうがお耶?」さんじゅうねん群臣ぐんしんふくそうごと:「とうふうつげなりためみん報德ほうとくひゃくおうしょどう也。」とげとう太山たいざん,勒石ごう改元かいげんため中元ちゅうげん中元ちゅうげん元年がんねんうえ幸長よしながやすほこらちょうりょうかえ洛陽らくようみや醴泉於京ぐんこくいん醴泉しゃ痼疾こしつみないよいよどくすがめあしなえしゃゆうあか草生くさわ於水涯。ぐん國上くにがみ甘露かんろくだ群臣ぐんしんじょうげん:「

6 光武みつたけ... :
地祇ちぎれいおう而失くさもえむべいのちたいせんぐんこくしょじょう。」じょうとげ聽,以史かん鮮記焉。ふゆじゅうがつかぶとさる使つかいそら馮魴つげほこらだかびょう曰:「こうすめらぎりょふとしきさきよろしはいしょくうすきふとしきさき慈仁,孝文たかふみ皇帝こうてい賢明けんめい子孫しそんよりゆきぶくのべいたり於今,むべはいしょく地祇ちぎだかびょう今上きんじょううすきふとしきさき尊號そんごうためだか皇后こうごう,遷呂ふとしきさき於園,よんじょうさい。」これさいおこりあかりどう、辟雍、れいだい,及北郊ほっこうちょういきねんがつつちのえいぬみかどくずし於南宮前みやまえ殿どの在位ざいいさんじゅうさんねんねんろくじゅうのこみことのり曰:「

7 光武みつたけ... :
ちん無益むえき百姓ひゃくしょう,如孝ぶん皇帝こうてい舊制きゅうせいそうつとむしたがえやくしょう刺史しし千石長吏皆無離城郭,吏及いん郵奏。」太子たいしかさね尊號そんごうため皇帝こうてい群臣ぐんしんそう謚曰光武みつたけ皇帝こうていびょう曰世三月さんがつそうげんりょう

8 光武みつたけ... :
かん以炎せいぬの耀,あるかそけ而光。

9 光武みつたけ... :
上東うえひがし西にし赴難,以車じょうためでんさかえ合戰かっせんまたがうまみさおへいざいくだり

10 光武みつたけ... :
みかどそくゆうじんひじりあきら氣勢きせい形體けいたい天然てんねん姿すがたかた非人ひにんてき翕然きゅうぜんりゅう舉雲きょうさんあめ而濟天下でんか蕩蕩とうとうじん無能むのうめい焉。

11 光武みつたけ... :
光武みつたけみことのり曰:「あきらしつらえ丹青たんせいしんじこうひらきたばしゅみち。」

12 光武みつたけ... :
光武みつたけ功臣こうしん鄧禹とうじゅうはちにんみなためこうふうあまり功臣こうしんいちひゃくはちじゅうきゅうにん

13 光武みつたけ... :
みかど以天既定きてい思念しねんよくかん功臣こうしん爵土,れい以吏しょくためみな以列こう就第,おんぐう甚厚,遠方えんぽうみつぎあまめずらし,必先へんたまもの列侯れっこう,而大かんあまり有功ゆうこう輒增ふう邑,みな保全ほぜん

14 光武みつたけ... :
光武みつたけふう新野しんのしゅ鄧泛ためくれこう伯父おじすめらぎ皇考こうこう姊子しゅうひとしためとみなみこうついふうがい樊重ためことぶきはりこう重子しげこためしゃこうまごしげる為平ためひらのぞむこうひろげんきょうこうしたがえおきさらちちこうきさきちちかげむつみせんおんこう識原鹿しかこう,就為しんこう皇考こうこうおんな弟子でしらい歙征羌侯,おとうとよしむべ西にしこう,以寧ひら公主こうしゅつよしため新市しんいちこうきさきちちかくあきらためやすこうりゅう綿めん曼侯,兄子せこ竟新郪侯,ただしはつこう,以姨馮邯ため鍾離こう

15 光武みつたけ... :
光武みつたけ皇帝こうてい雖發つくりけん人馬じんばせきこも羈靽みなゆうなり賈,而貴おかせみんらくあずかかん

URN: ctp:dong-guan-han-ji/shi-zu-guang-wu-huang-di