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坂本龍馬とは (サカモトリョウマとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

坂本さかもと龍馬りょうま単語たんご

575けん
サカモトリョウマ
3.3まん文字もじ記事きじ
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掲示板けいじばん

なに坂本さかもと龍馬りょうまのことがきたい?

ずつとむかしブンはなしたやうなことかえしになるかもれんが、よいかノー

槪要

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坂本さかもと龍馬りょうまてんろくねん(1835ねん)十一月じゅういちがつじゅうにちまれた。いみなちょくかげ(なおかげ)、のちちょくやわら(なおなり)とへんえておる。

りゅううませいいえ坂本さかもといえざい谷屋たにやげんごうしょうからぶんいえして、わざわざ薄給はっきゅう身分みぶんになつたへんはり者の一族いちぞくだ。

長男ちょうなんけんひらたとはとしじゅういちはなれており、このあにとのあいだ千鶴ちづるさかえ乙女おとめといふさんにんいもうとがおつた。

じゅうとしころ母親ははおやこうくなり、そのちちはちひらた後妻ごさいであるあずかそだてられた。

幼少ようしょうなにやら冱えないかんじで、よる尿にょうくせのある洟垂はなたしょうだつたらしく、このまましははさんじょ乙女おとめにはとくいむしくしつけけられた。

乙女おとめたけ5しゃく8すん(176cm)、からだじゅう30かん(113kg)といふ堂々どうどうたるからだかくで、「坂本さかもとのお仁王におうよう」とばれる女傑じょけつだつた。

ははくなる前後ぜんごに、いちしろ下町したまちじゅく入門にゅうもんしたが、上士じょうし喧嘩けんかしたのが原因げんいんでやめてしまつたため、それ以後いご乙女おとめからがくといけんじゅつを習つた。

よしみなが元年がんねん(1848ねん)、じゅうよんとしころ近所きんじょ小栗おぐりながれ日根野ひねのみちかよはじめてからは、ひとへんはつたかのごと稽古けいこみ、まわりの者たちのへんはつていつた。

みちりゅううま心機しんきいちへんおねしょうも、むしいちぺんにんでしもうた。
あさはまっさきに、ゆうべは最後さいごまで、めしわんでもけんみち稽古けいこ一筋ひとすじ愉快ゆかいでたまらん、おもしろうてたまらん。
そんな氣持きもちでなんぼでもやる。
坂本さかもともうよかろう』というと『先生せんせいもう一本いっぽん、もう一本いっぽん』といくらでもうってかかる」
(はしつめのべことぶき坂本さかもと龍馬りょうま師匠ししょう』)

よしみながろくねん(1853ねん)、じゅうきゅうとしとき日根野ひねのみちにて「小栗おぐりながれへい法事ほうじろく」をさづけられると、さらなるけんじゅつ修行しゅぎょうもとむめてこうことになつた。

さて、よしみながろくねんといふとなんねんかるかね?まあそのあたりおい々、といつてもすぐはなことになるだらうヨ。

ちゅう 誕生たんじょう11月15にち斷定だんていしているが確定かくていではないことに注意ちゅうい

黑船くろふね來航らいこう

日根野ひねのみちろくのちりゅううま土佐とさはんちょうからじゅうつき修行しゅぎょうあいだみとめられて、けんじゅつ修行しゅぎょうためこうおもむいた。著いたのはよんがつもしくは五月ごがつげんはれておる。

こうではきたたついちかたなりゅう千葉ちばみちつうつていたが、ろくがつべい利加りか艦隊かんたいこうわんにやつてにわか世情せじょう々しくなつてきた。このときりゅううま土佐とさはん警備けいびたいとして出動しゅつどうしていて、くろふねつたきゅうがつじゅうさん日付ひづけいえ手紙てがみいている。

一筆いっぴつ啓上けいじょうつかまつこう
あき次第しだいそうぞうこうしょいよいよ御機嫌ごきげんのう(よく)御座ぎょざらせらるく、せんまんぞんまつこう
つぎ私儀わたくしぎことあいくれもうこう 休心きゅうしんなりくだらるこう
あに御許おもとアメリカ沙汰さたもうこうづけ御覽ごらんらせらるこう
ずは急用きゅうよう御座ぎょざこうづけはやしょらんしょ推覽らせらるこう
ことくにふねあてず免ぜられこうが、はるまたひとかずくわわりもうざいまつこう

  恐惶きょうこう謹言
  りゅう
 きゅうがつ廿にじゅうさんにち

 とうとちちようとうとした
じょうくだせられ、ゆう難き次第しだいざいまつこう
金子かねこおくおおけられ、なによりのしな御座ぎょざこう
ことくにふねしょ々にこうへば、ぐんちかうちざいまつこう
其節はことくにくび打取うちとり、くにつかまつこう かしく
(『よしみながろくねんきゅうがつじゅうさん ちち坂本さかもとはちひらたちょくあしあて 坂本さかもと龍馬りょうましょじょう』)

ことくにひとくびる」など隨分ずいぶんいさましいこといておるノー後年こうねんりゅううまからは一寸ちょっと想像そうぞうかないが、あのご時世じせいぢやこのぐらいの槪はあつてしかるべきだらうヨ。さいにやるかだうかはべつだがノー

こののち十二月じゅうにがつ西洋せいよう砲術ほうじゅつがくため佐久さくあいだぞうやまじゅく入門にゅうもんしておる。この佐久さくあいだげんふのは奇妙きみょうかおつきをしたちよこちよこしたおとこノーがく識にまかせて相手あいておどしつけるやうなところがあるから、りゅううまもこのおとこに習ひごとをするのはろうしたんぢやないかネ。

高知こうちにて

よしみながななねん(1854ねん)ろくがつりゅううま一旦いったん修行しゅぎょうえて土佐とさはんもどつた。もどるとすぐに高知こうちしろしもゆうかず知識ちしきじん評判ひょうばんだつた河田かわたしょうりゅうげんへんはり者とめんかいし、時勢じせいかたりごうつている。好奇心こうきしんつよかつたのだらう。

ときたいことにてきみ意見いけんかならずあるべし、きたし」

りゅううまといふと河田かわた

如何いかともして、いちそうそとふねもとむめ、同志どうしの者をつのこれせしめ、東西とうざいきゃくかんわたし荷物にもつとう運搬うんぱんし、以ってつう便びんようするを商用しょうようとしてふねなか入費にゅうひまかない、うえ練習すれば、こう一端いったん心得こころえべき小口おぐちだてべきや」

こたえた。このこたえにりゅううまつてよろこび、りゅううまふね購入こうにゅうを、河田かわた有志ゆうしとなる人材じんざい確保かくほをおたがいに約束やくそくした。さい河田かわたおとうとである近藤こんどう長次ちょうじろう長岡ながおか謙吉けんきち新宮しんぐうすけなど、のち援隊の同志どうしとなる人材じんざいりゅううましたしゅうまつていくことになる。

しかし、この時分じぶんから既に蒸氣じょうきふね利用りようした貿易ぼうえきゆびこころざしつていたなら、やはりおっとではあるマイよ。

ふたた江戶えど

安政あんせいさんねん(1856ねん)なながつじゅうとしになつたりゅううまふたたこうかい、以前いぜんどおりつていた千葉ちばみち再度さいどけんじゅつ修行しゅぎょうんでいる。安政あんせいねん(1858ねん)の正月しょうがつには『きたたついちかたなながれちょうかたな兵法ひょうほうろく』をさずかつた。けんわざもなかなかのものだつたやうだ。

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千葉ちば周作しゅうさく定吉さだきちじゅうふとしろうこんじつて女性じょせい名前なまえのあるのがかるだらう。これはりゅううまたつてのねがいといふことである定吉さだきちくわえたものだ。定吉さだきち滿みつるさらでもなかつたやうで、名前なまえつている證言しょうげんによると、自分じぶんとの緣組えんぐみのためりゅううまいえ手紙てがみいたりしていたさうだ。

なにりゅううまさずかつたのはかたなではなく薙刀なぎなたろくではないか?

たしかにそのとおり。だが、前述ぜんじゅつ證言しょうげんとして「ちちりゅううまさんを塾頭じゅくとうにんじ、きたたついちかたなながれろくさづけました」といふのもあるからノーたん現存げんそんしていないだけ、といふこともる。マアそんな詮索せんさく福澤ふくさわみたいながく者にまかせておけばイイサ。

安政あんせいねん(1858ねん)きゅうがつしてからしばらくのあいだはこれといつて活動かつどうはない。土佐とさくにさかいみずはん過激かげきされておうたいしたことくらいしかろくざんつていないやうだ。

りゅううま活動かつどうについてのろくふたた確認かくにんできるのは文久ぶんきゅう元年がんねん(1861ねん)、土佐とさ勤王とう結成けっせいまで必要ひつようがある。

ちゅう 平成へいせい27ねん(2015ねん)、薙刀なぎなた以外いがいに『きたたついちかたなながれ兵法ひょうほうみなつて』を取得しゅとくしていたことをしめ文書ぶんしょつかったと報道ほうどうされた。リンクexitまいりあきら

土佐とさ勤王とう

このいちねんまえそくあんせいななねん(1860ねん)のさんがつさんにちこう大事だいじへんきた。いはゆる櫻田さくらだ門外もんがいへんだ。掃部まもりとうしろなかみず薩摩さつま浪士ろうし暗殺あんさつされくにうちしか各地かくち血氣けっきさかんな浪士ろうしたちさわはつされてかちどきこえはじめた。

おれはこのころべい利加りかわたりつていたんだが、くにしてうら上陸じょうりくした途端とたんいきなり幕吏ばくりあらわれて「みずはんの者はいるか」などとくから「べい利加りかにはみずひと一人ひとりないかられ」とやかしてやつたよ。しかし、櫻田さくらだへんについていた時分じぶんには幕府ばくふはとてもだとおもえつたサ。

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武市たけいち半平はんぺんふとし

さてりゅううまだが、このとし土佐とさはんではその政局せいきょくせきはることこつている。土佐とさ勤王とうはつあしだ。首領しゅりょう武市たけいちみずほさんつうしょう武市たけいち半平はんぺんふとしといふおとこだ。この者はこうももみちけんじゅつはんを勤めたほどの達人たつじんで、土佐とさでもけんじゅつみちあるじおさむしており、土佐とさはんたちからおおいに人望じんぼうあつめていた。またりゅううま友人ゆうじんでもありおたがいに「武市たけいちアゴ」「りゅううまのアザ」とうくらいなかがよかつたといふことだ。

その武市たけいちたちただすごうして文久ぶんきゅう元年がんねん(1861ねん)のはちがつ結成けっせいしたのが土佐とさ勤王とうだ。そういきおい190めい以上いじょう血判けっぱんし、土佐とさはんうちいち大勢おおぜいちから形成けいせいした。りゅううまはこの血盟けつめいしょきゅうばんに署名している。

勤王とう加盟かめいしたりゅううまじゅうがつじゅういちにち讃岐さぬきまるかめはんけんじゅつ修行しゅぎょう出向でむいている。土佐とさはん樋口ひぐちまききち日記にっきろく』にある「さかりゅうとべあが」といふやつだ。その長州ちょうしゅう久坂くさかげんみずめんかいするためはぎかつた。讃岐さぬきおもむいたのは表向おもてむきの理由りゆうけんじゅつ修行しゅぎょうだつたが、しんてき各地かくち情勢じょうせい視察と武市たけいちしょじょう久坂くさかとどけることだつたやうだ。はぎに著いたのが翌年よくねん正月しょうがつじゅうよんにち久坂くさか日記にっきこうつきとき』にある。

坂本さかもときみらせられはらぞう談合だんごうつかまつこうころ委曲いきょく聞取ききとねがまつこう。竟にしょこう恃むにらず、おおやけきょう恃むにらず、くさ莽志ただすあいよしきょそとには迚もさくごとわたしども同志どうしちゅうさるこうこと御座ぎょざこう失敬しっけい乍ら、みことはんへいはん滅亡めつぼうしても大義たいぎなればしからず」

(久坂くさかげんみずこうつきとき』)

げきこし尊攘そんじょうろんられるひさざかはななにおもふところがあつたのかもらん。こののちりゅううま土佐とさもどだっはんすることになる。

脫藩だっぱん

文久ぶんきゅうねん(1862ねん)がつすえりゅううま高知こうちかえした。そのころ地元じもとでは武市たけいちまいりせい吉田東洋よしだとうようたいしてさかんに勤王ろんけんしろしていたが、吉田よしだ書生しょせいろんとしてあえはなかつた。そこで吉田よしだ暗殺あんさつしやうといふうごきが勤王とうじょうがつてきた。そしてさんがつ廿にじゅう四日よっかりゅううま土佐とさはなれ、だっはん浪人ろうにん相成あいなつた。

何故なぜりゅううまだっはんといふおもつた行動こうどうたのかについてはもろせつあるが、おれは勤王とうげき路線ろせん違和感いわかんかんじたんぢやないかとおもふヨ。古今ここん暗殺あんさつ大業おおわざす者はおらんからネー。

ちなみにこのとき有名ゆうめいな逸話で、あにけんひらたもうはんたいしてかたなかくし、次女じじょのおさかえかたなさづけたといふのがある。だがおさかえひろしねんあいだ(1844ねんから1847 ねん)、つまりだっはんじゅうねん以上いじょうまえくなつていることがかつている。おそらく後世こうせいあやまつたつてうけたまわつてえられたのだらう。

はなしもどす。そのけいみちだがさきぬげはんしていた澤村さわむらそうこれすすむといふおとこりゅううまむかえにうちわたり、廿にじゅう九日ここのかしたせきいた著。ごうしょう白石しらいし正一しょういちろう屋敷やしきはくまつてから九州きゅうしゅうかい、薩摩さつまにゅうろうとしたがいれくにできなかつたため、斷念だんねんして大坂おおさかむかいつたとつてはる。「つてはる」といふのは、この時期じきりゅううま足取あしどりにはたしかなあかしよりどころがなく、つて聞にもとづくせつよりゆきらざるをえないのだ。

かくりゅううまどうせい確認かくにんされるのはなながつ樋口ひぐちまききち日記にっきに「りゅううまかいつていちりょうを贈つた」とある記述きじゅつがそうだ。

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松平まつだいらはるだけ

樋口ひぐちはこの時分じぶん大坂おおさかたからりゅううま大坂おおさかたのだらう。

つづけいてきゅうがつ土佐とさはんあいださき滄浪がこう滯在たいざいちゅういたしょじょうなか登場とうじょうする。なながつからきゅうがつまでのあいだこう移動いどうしていたやうだ。こののちまた京都きょうとこうしている。

十一月じゅういちがつ今度こんど久坂くさかげんみず日記にっきあらわれる。日付ひづけ十一月じゅういちがつじゅうにちで、久坂くさかほか高杉たかすぎすすむさく武市たけいちみずほさん居合いあいはせてさけいんんだとある。なか愉快ゆかい面子めんつぢやないか。

十二月じゅうにがつ五日いつか今度こんど大膽だいたんにも越前えちぜんはん松平まつだいらはるだけおおやけもとおとずれている。これにはあいださき滄浪と近藤こんどう長次ちょうじろう同行どうこうしていたやうだ。このときりゅううまはるたけおおやけ大坂おおさかちかぼうさくについて意見いけんべたのち、おれへの紹介しょうかいじょういてくれとよりゆきんだ。そして十二月じゅうにがつ廿にじゅう九日ここのか文久ぶんきゅうねん大晦日おおみそかりゅううまはおれのもとおとずれたワケだ。

ちゅう 坂本さかもと龍馬りょうまだっはん理由りゆうかたりっているが、これはあくまでもかりせつの1つとほうがいい。

かつ麟太郞りんたろう

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かち海舟

このときりゅううま千葉ちばみちわか先生せんせいこと千葉ちばじゅうふとしろうともなえつてやつてた。やつらはおれをりにたんだが、おれはわらいつてけながらくさりくにひらくくになること海軍必要ひつようせい詳細しょうさい海軍創設そうせつけいかせてせつふくせた。するとりゅううまは、もしおれのせついかんによつてはおれをそうとおもえつたが、そのせついてみずからの固陋ころうじ、これよりおれの門下生もんかせいになりたいとげんつたのサ。

なにやらふくさうだが。なにきたいことでもあるかエ?

…ヘー。りゅううまにははじめから殺意さついなどく、おれにおとうとりするためにめんかいしにた、とげんせつがあるのか。さらはつたいめん廿にじゅう九日ここのかではなく九日ここのかだつたのではないか、と。

なるほどたしかに文久ぶんきゅうねん十二月じゅうにがつのおれの日記にっきにはかうある。

よる有志ゆうしりょうさんやからおとずれ形勢けいせい議論ぎろんり」(十二月じゅうにがつ九日ここのか)

(かち海舟ふね日記にっき』)

この有志ゆうしりょうさんやからうち一人ひとりりゅううまではないかとげんふことか。さうえば廿にじゅう九日ここのかかいつた場所ばしょ兵庫ひょうごだつたかもれんノーわすれてしまつたワイほけろくしとるからノー往時おうじ茫々ぼうぼうゆめのごとくだ。

だがたしかにおぼえていることはある。あいつはち著いて、なんとなくおかしがたいけんがあつて、よいおとこだつたよ。

かち弟子でし

さてもさても、ひとあいだ一世いっせいはがてんのかぬはもとよりのこと、うんあくいものは風呂ふろよりでんとして、きんたまをつめわりてぬるものもあり。それとべてはわたしなどはうんつよく、なにほどぬるてもなれず、自分じぶんのうとおもうてもまたきねばならんことになり、いまにては日本にっぽんだいいち人物じんぶつしょう憐太ろう殿しんがりというひとおとうとになり、日々ひびおもいつくところをしらげといたしおりこう。其ゆえわたしよんじゅうとしになるころまではウチにはらんようにいたさるつもりにて、にいさんにも相談そうだんいたこうところ、このころおおいにご機嫌きげんよろしくなり、そのおゆるしがいでこうくにのためてんしたのためちからことごとしおりもうしこう。どうぞおんよろこびねがいあげ、かしこ

さんがつ廿にじゅう
おつよう

つきあいのひとにもごく心安こころやすひとには内々ないないせ かしこ

(『文久ぶんきゅうさんねんさんがつ廿にじゅうにち 坂本さかもと乙女おとめあて 坂本さかもと龍馬りょうましょじょう』)

おれのところにてからよんつきほどのちりゅううま乙女おとめてにいた手紙てがみだ。きしてらくだ。「日本にっぽんだいいち人物じんぶつ」だつてサ、アハゝゝ。

はなしすこさかのぼる。おれの門人もんじんになつたりゅううま大坂おおさかかつた。この時分じぶんおれは海軍奉行ぶぎょうなみとして幕府ばくふのみならずしょはん有志ゆうしふくめた一大いちだい共有きょうゆうきょくきょうこと苦心くしんしていて、そのためしをしていた。りゅううまもその活動かつどうあえはせたのサ。

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山内やまうち容堂ようどう

文久ぶんきゅうさんねん(1863ねん)いちがつ大阪おおさかけい兵庫ひょうごたおれのところにやつてりゅううまは、土佐とさはん同志どうし何人なんにんかおれの門人もんじんとして入門にゅうもんさせた。りゅううまおいである高松たかまつふとしろう菅野かんのさとしへいまもる、この時分じぶん千屋せんや寅之助とらのすけつていたつけ。それに望月もちづきかめ彌太やた。このさんにんはみな土佐とさ勤王とうまいり者で、土佐とさはんちょうから海軍修行しゅぎょうめいじられていたこともあつて、おれのもと修行しゅぎょうすることになつた。

するときりゅううまもおれと一緖いっしょ幕府ばくふ軍艦ぐんかんじゅんどうまるどうふねした。その下田しもだ入港にゅうこうしたさい土佐とさはん山内やまうち容堂ようどうおおやけ停泊ていはくしていた。ちやうどかいだつたので、容堂ようどうおおやけかいつてりゅううまだっはん者の赦免をねがうことにした。容堂ようどうおおやけてんごう宕、えりふところ落、英雄えいゆう資質ししつそなえたおかたで、しょにも通曉つうぎょうしておられた。おれが直談判じかだんぱんして、容堂ようどうおおやけが赦免のあかしとして瓢箪ひょうたんえがき「くじらよいほう」としるしたおうぎいただいたのがこのときだ。

こうもどると昭德あきのりおおやけはるたけおおやけみち京都きょうとかうけいじょうがつていて、いちがつ廿にじゅうさんにちはるたけおおやけじゅんまる出帆しゅっぱんりゅううまもこれに同行どうこうした。

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大久保おおくぼいちおきな

大阪おおさかに著いたりゅううまがつ廿にじゅうにち京都きょうと土佐とさはんやしき出向でむいてさんにち廿にじゅう五日いつかぬげはんつみ正式せいしきに免じられた。さんがつろくにちには土佐とさはんちょうからこうじゅつ修行しゅぎょうめいじられている。そんななかいたのがさき手紙てがみだ。

りゅううま再度さいどこうもどり、澤村さわむらそうこれすすむかずひとれてよんがつはじごろ大久保おおくぼいちおきなめんかいしている。

このめんかいいちおきなりゅううま澤村さわむらを「だいみちかいすべきひと」と判斷はんだんして「素意そいおもむき」をかたりつたところ、りょうひとつばかりにかいした、とよこしょうくすのきあて手紙てがみいている。

素意そいおもむき」とはおそらくとう時一ときいちおうとなえていたせいけん返上へんじょうろんだらう。朝廷ちょうてい攘夷じょうい督促とくそく拒否きょひなければせいけん返上へんじょうしてとくかわいえひがし地方ちほういち大名だいみょうになるべきであるといふのち大政奉還たいせいほうかんつらなるかんがえだ。このときからだけんりゅううま活動かつどうにおいておおきな意味いみつのでおぼえておくとヨイ。

かちじゅくにて

よんがつ廿にじゅうさんにち、このはおれにとつてわすれ難いだ。大阪おおさかわんの視察にやつて昭德あきのりおおやけたいしておれが海軍みさお練所の創設そうせつ直接ちょくせつもうげた。このときはたぐん昭德あきのりおおやけ、つまりだいじゅうよんだいはたぐんとくかわいえしげるおおやけだが、このほうはまだ若年じゃくねんではあつたがなかなかさとしあかりなおかたで、そくけつでご快諾かいだくいただいたのだ。それまでのろういちあたりぶほどうれしかつたヨ。

みさお練所開設かいせつまえのおぜんてとして海軍じゅくひらくことにしたのだが、じゅくひらくのにはなにかといれようだつた。そこではるたけおおやけきむ援助えんじょけるため、りゅううま越前えちぜんはんかはせた。五月ごがつじゅうろくにちのことだ。

ころてんしたぐんがく者勝ふとしろうといふだい先生せんせい門人もんじんになり、ことのそとほかかはいがられこうて、客分きゃくぶんのよふなものになりさるこう

ちかきうちには大阪おおさかよりじゅうさとあまりのにて兵庫ひょうごといふところにて、おおきに海軍きょうこうところをこしらへ、またよんじゅうあいだじゅうあいだもあるふねをこしらへ、おとうとどもにもよんひゃくひと諸方しょほうよりあつまりこうことわたしはつさかえふとしろう高松たかまつふとしろう)なども其海軍ところ稽古けいこがくとえいたし、時々ときどきふね稽古けいこもいたし、稽古けいこふね蒸氣じょうきふねをもって近々ちかぢかのうち土佐とさほうへもまいりさるこう。その節御にかかりさるこう

わたしぞんけは、このせつあにじょう坂本さかもとけんひらた)にもおおきに同意どういなされ、それわおもしろい、やれやれもうしの都合つごうにてこうあいだ、いぜんもさるこうとおり、ぐんさ(いくさ)でもはじまりこうときはそれまでのいのち

ことしいのちあればわたしよんじゅうとしになりこうを、むかしいいしこと引合ひきあえなされたまへ。

すこしヱヘンかおしてひそかにおりさるこう達人たつじんまなこはおそろしきものとや、つれづれ(徒然つれづれくさ)にもこれあり。なおヱヘンヱヘン。 かしこ

五月ごがつじゅうななにち  りゅううま

乙女おとめだいほん

みぎことは、まずまずあいだがらへもすこしもいうては、見込みこみのちがうひとあるからは、をひとりにてきおき。 かしこ

(『文久ぶんきゅうさんねん五月ごがつじゅうななにち 坂本さかもと乙女おとめあて 坂本さかもと龍馬りょうましょじょう』)

「ヱヘンかお」など得意とくいになつているワイ。おれもこの時分じぶんはヱヘンかおだつたヨ。

越前えちぜんに著いたのが五月ごがつ下旬げじゅんで、ことはるたけおおやけからせんりょう支援しえんけることに相成あいなつた。この越前えちぜんきのさいに、後年こうねんしん政府せいふきむとおる財政ざいせい政策せいさくつかささんおかはちろうや、はるたけおおやけ政治せいじ顧問こもんをしていたよこしょうくすのき知遇ちぐうりゅううまなりに人脈じんみゃくきずいていつたのだ。

おれのじゅく盛況せいきょうで、さつききょげた連中れんちゅうほかにも、りゅううまだっはんした澤村さわむらそうこれすすむ饅頭まんじゅうこと近藤こんどう長次ちょうじろう岡田おかだ以藏といふ凄腕すごうでけんきゃくたつけ。岡田おかだ刺客しかく擊退げきたいしておれのいのちすくえつてくれたが、「ひところすのをたしなんではいけない」と忠告ちゅうこくしたら、「先生せんせいそれでもあのときわたしなかつたら先生せんせいくびは既にんでませう」とかえされて流石さすがのおれも一言ひとこともなかつたよ。には紀州きしゅうから伊達だてしょうつぎろうといふうでしろ者がつた。のち陸奧むつはじめひかりといふられる。あれはおれが紀州きしゅうかられて連中れんちゅうのウチの一人ひとり小利口こりこう才子さいしだつたよ。

塾頭じゅくとうカエ?塾頭じゅくとうりゅううまだつたよ。マアきたいことはおゝよそさっしがつく。「海軍じゅく塾頭じゅくとうりゅううまではなく佐藤さとうあずかこれすけだつたのではないか」といふことだらう。こたえはカンタンだ。二人ふたりとも塾頭じゅくとうだつたんだよ。これをなさい。

同人どうじんよし、この節順どうまるくみしゅもうさず、つくり(かたがた)申付もうしつこうにもこれあり、且御屋敷やしきより修行しゅぎょうおおけられこうよんやからは、かねて容堂ようどうようじき申上もうしあ熟達じゅくたつつかまつこう同人どうじんやから別段べつだんはつげきいたり、そのじょう坂本さかもと塾頭じゅくとう申付もうしつふねもうさざる節はませこうこう

(『文久ぶんきゅうさんねん十二月じゅうにがつろくにち 土佐とさはんづけあて かち海舟しょじょう』)

「これはあくまでも土佐とさ浪士ろうしたちの筆頭ひっとうりゅううまだつたとうだけであつて、塾頭じゅくとうであつたことをしめすものではい」だつて?ヘーさうたか。だがおれはたしかにりゅううま塾頭じゅくとうにしたヨ。

サアーどつちがしんか?そのあたりりはもののほんでもんで自分じぶんかんがえて御覽ごらん。ドーダおれはずるいやつだらう、エ。

日本にっぽんをせんたくいたしさるこう

ともあれ、こんなあばれものをあつめてくにいえ進運しんうんさまたげがいする門閥もんばつ階級かいきゅう打破だはし、おおいに人材じんざい登用とうようみちひらいてやらうとおもえつていたのサ。

だが時勢じせい徐々じょじょにきな臭くなり、みさお練所の先行さきゆきにもかげはじめた。五月ごがつじゅうにち幕府ばくふ朝廷ちょうてい約束やくそくした攘夷じょうい決行けっこうに、長州ちょうしゅうはんほんとう攘夷じょうい開始かいししたのだ。まさかほんとうにやるとはおもえつてかつたから幕府ばくふあわてた。しかし一旦いったんことくにふねはらいうことに成功せいこうした長州ちょうしゅうはんだつたがすぐ逆襲ぎゃくしゅうに遭つてさかいたされることになる。

日本にっぽんいまいちせんたくいたしさるこう」といふだいはこのときのものだ。少々しょうしょうながいから全文ぜんぶん引用いんようせぬ。全文ぜんぶんたけりグーグル調しらべるがよい。

しかまことになげくべきことはながとのくにぐん(いくさ)はつり、のちつきよりろくせん日本にっぽん甚利すくなく、あきれはてたることは、其長州ちょうしゅうでたたかいたるふねこうでしふく(修復しゅうふく)いたし また長州ちょうしゅうでたたかいさるこう
みなかん吏のえびすじん内通ないつういたしこうものにてこう
みぎかん吏などはよほどいきおいもこれあり、大勢おおぜいにてこうへども、りゅううま二三にさんいえ大名だいみょうとやくそくをかたくし、同志どうしをつのり、朝廷ちょうていよりさきかみしゅうをたもつの大本おおもとをたて、おっとよりこう同志どうしはたもと大名だいみょうだんしんあわせ、みぎさるしょかん吏を一事いちじぐん(いくさ)いたしころせ日本にっぽんいまいちせんたくいたしさるこうことにいたすべくとのかみねがいにてこう
おもえづけだいはんにもすこむる同意どういして、使つかい者を内内ないないくださるることりょう

(『文久ぶんきゅうさんねんろくがつ廿にじゅう九日ここのか 坂本さかもと乙女おとめあて 坂本さかもと龍馬りょうましょじょう』)

要旨ようしは「幕吏ばくりそとくに内通ないつうし、軍艦ぐんかん修復しゅうふくして長州ちょうしゅうそうはせているのはけしからん二三にさん大名だいみょうこう同志どうし朝廷ちょうていもとあつめてこのかん吏をころしてしまいたい。このおもいはだいはんすこぶ同意どういしている」といふことだ。いかに長州ちょうしゅう攘夷じょういはかりごとであろうと、そとくに軍艦ぐんかん修理しゅうりしてあまつさえおなくにの者にけしかけるとは何事なにごとだといきどおつている。このころから幕府ばくふだいはるあたらしい政治せいじからだせい必要ひつようだとおもはじめたのだらう。だいはんといふのは越前えちぜんはんことで、とうときこのはんではきょへい上京じょうきょうしてしょはんあるじからだとした新政しんせいけんてるけいがあつたやうだが、このけんについてはマアそのうちべつ場所ばしょかたりられることもあるだらう。

神戶こうべ海軍みさお練所

かれこれするうちに京都きょうとせいへんきた。いはゆる文久ぶんきゅうさんねんはちがつじゅうはちにちせいへんといふやつだ。薩摩さつまかいひさげ攜によるこのせいへん尊王そんのう攘夷じょうい京都きょうとから逐はれ、おおやけたけごうからだ朝廷ちょうていあるじしるべけんにぎつた。土佐とさはんでも勤王とうせきかかり者が捕縛ほばくされ、十二月じゅうにがつにはりゅううま土佐とさ出身しゅっしん塾生じゅくせいにもくにいのちれいた。おれはさつきせたしょじょうのとおりくに延期えんきもとむめたんだが土佐とさはんちょう承知しょうちしなかつた。畢竟ひっきょうりゅううま再度さいどだっはんせざるをなくなつた。

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よこしょうくすのき

としあけて文久ぶんきゅうよんねん(1864ねん)がつ京都きょうとからしをけて上京じょうきょうすると、慶喜よしのぶおおやけから「佛蘭西ふらんすしたせきめるらしいので、長崎ながさきくだりつて阻止そしするための交わたるをせよ」とめいじられた。

マラおおけだとおもえつたがてきねてくことになつた。りゅううま門人もんじん同行どうこうさせている。じゅうきゅうにちだつたかに肥後ひごいた著してりゅううまはここでふねり、おれはそのまま長崎ながさきかつた。りゅううま肥後ひごりたのはとうとき越前えちぜんから肥後ひごもどつていたよこしょうくすのきかいはせるためだ。

よことうときこしちゃからはん閉門へいもんくえつてるときだつた。りゅううまからみさお練所のじょうきょういたよこは「海軍問答もんどうしょ」を長崎ながさきにいたおれにおくり、二人ふたりおいみさお練所にれるためりゅううまあづけた。この「海軍問答もんどうしょ」といふのがエラ内容ないようで、その思想しそうこう調子ちょうしことは、おれなどは梯子はしごけてもおよばぬとおもえつたヨ。

よんがつじゅうさん大坂おおさかもどつたんだが、この時期じきりゅううま伴侶はんりょであるおりゅうこと楢崎ならさきりゅうあえつている。ずつとのちになつておりゅうかたりつたところによると、とうときりゅう京都きょうとななじょう新地さらちの「おうぎいわ」といふかごに勤めてつた。母親ははおやかたひろてら留守るすきょとしてんでいたためどおりつていたところ、そこをしろにしていたりゅううまかいつたんださうだ。おりゅう一目惚ひとめぼしたりゅううま母親ははおやけあつて、そのまま婚約こんやくしてしまつたといふことだ。

五月ごがつじゅうよんにち、おれは軍艦ぐんかん奉行ぶぎょう正式せいしき就任しゅうにんし、廿にじゅう九日ここのかかみ海軍みさお練所が開設かいせつした。紆曲折きょくせつあり、かならしもおもどおりにはこんだワケではなかつたが、ようや幕府ばくふもろはんかべちょうえた海軍へのだいいちした。

だがその矢先やさきだい事件じけんつづけけにこつた。

ちゅう 「よことうときこしちゃからはん閉門へいもんくえつてるとき」とは、よこしょうくすのきこう滯在たいざい襲擊しゅうげきけ、どくりで逃走とうそうしたみち事件じけんこと

池田いけだ事件じけん禁門きんもんへん

元治もとはる元年がんねん(1864ねん)ろくがつ五日いつかよるぶんかご池田いけだ新選しんせんぐみ尊攘そんじょう浪士ろうしによるらん事件じけんきた。肥後ひご宮部みやべかなえぞう長州ちょうしゅう吉田よしだみのる麿まろほか可哀想かわいそうりゅううまがおれのじゅくれてきた望月もちづきかめ彌太やたころされてしまつた。この事件じけんのとばつちりで佐久さくあいだぞうやま河上かわかみときといふおそろしいおとこころされてしまつたがそれは本筋ほんすじでないのでいておく。

らせをけた長州ちょうしゅうはんではげきすすむはつろんおさえられなくなり京都きょうといれみや闕をおかして薩摩さつまかいへいと衝突したのはなながつじゅうはちにちのことだつた。あのおれはかみ海軍かりきょくたところ、よるになるとひがしそらしんあかえたからこれはなにかへんはつたこときたにちがいないとおもえつた。

大阪城おおさかじょうではなにがどうなつているのか斥こうしゅっせと議論ぎろんがあつたが、だれ深入ふかいりしないからおれがみずから斥こうになつてぎょうつてみると、かわしたつてくるふねさんにん長州ちょうしゅうひとらしき連中れんちゅうつていて、おれのまえ上陸じょうりくしてきたからなにをするかとおもえつていたらいきなりちがえてんでしまつた。これは長州ちょうしゅうは既にやぶれたのだなとさとつた。

これらの事件じけんさき望月もちづきのやうに塾生じゅくせいたちせきはつていたことがまくかく露見ろけんし、馬鹿ばか馬鹿ばかしいはなしだがおれに謀反むほん嫌疑けんぎがかけられた。みさお練所のそんつづけあぶなくなりりゅううま塾生じゅくせいたちうえをどうにかしてやらねばとおもえつていたところにあのおとこあらわれたのサ。

ちゅう 禁門きんもんへん7がつ19にち

西にし吉之助よしのすけ

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西にしたかしもり

おれはいままでにてんしたおそろしいものをにんた。すなはちよこしょうくすのき西にし鄕南しゅうとだ。

このとしきゅうがつにおれは西にしかいつたが、そのまえりゅううま西にしかいつてたいといふから添書てんしょいてかいはせてみた。そのりゅううまもどつてげんふには、

なるほど西にしといふやつはわからぬやつだ。すこしくけばすこしくき、おおきくけばおおきくく。もし馬鹿ばかならだい馬鹿ばかで、利口りこうならおおきな利口りこうだらう

げんつた。げんだとおもえつたよ。めんかいしたとき、その意見いけん議論ぎろんはむしろおれのほうがまさるほどだつたけれども、いはゆるてんした大事だいじまけするものは、はたして西にしではあるまいかと、おれはひそかにおそれたよ。西にしおよぶことのだしないのは、その大膽だいたん識とだいまこととにあるのだ。

おれは西にしりゅううまいたる保護ほご要請ようせいし、西にしこころよおうじてくれた。薩摩さつまにしても、りゅううまいたるのやうなこう技術ぎじゅつはそのときどうしてもよくしかつたから、この人材じんざい確保かくほしておこうとおもえつたのだらう。

近藤こんどう長次ちょうじろう同志どうしさき薩摩さつまおくしたりゅううまはしばらくのあいだこうたが、元治もとはるねん(1865ねん)さんがつこうはつち、よんがつ五日いつかまでには京都きょうと薩摩さつまはんやしきにゅうつた。このおな土佐とさだっはん浪士ろうし土方ひじかたくすのきひだりまもるもんかいつたことが土方ひじかた日記にっきられる。土方ひじかたとうどき既に中岡なかおかまきふとしろうともなが和解わかい模索もさくして奔走ほんそうしていた最中さいちゅうで、りゅううまもそのはなしいたかもらん。

ちゅう ふね日記にっき元治もとはる元年がんねん(1864ねん)8がつ3にちに「吉井よしいみゆきりゅううまどうみちにて上京じょうきょう」とあり、りゅううま薩摩さつま吉井よしいみゆき上京じょうきょう吉井よしい紹介しょうかい西にしかいったとおもわれるため、かち紹介しょうかいじょうというのはうそ勘違かんちがい。

奔走ほんそう

けいおう元年がんねん(1865ねん)4がつ廿にじゅうりゅううま西にし小松こまつおびかたならととも鹿しかしまかつた。幕府ばくふまたぞろ長州ちょうしゅうさいせいはじめたためにはんとしての方針ほうしんあお必要ひつようがあつたためだ。

しゅうあいだほど西にしたく滯在たいざいしたりゅううまは、薩摩さつま方針ほうしん長州ちょうしゅうさいせいにははんたいでむしろ長州ちょうしゅうとの和解わかいのぞんでいることを見屆みとどけて、五月ごがつじゅうろくにち鹿しかしまはつつた。土方ひじかたはなしいて、このさきてんしたせいするのはながりょうはん見込みこんだりゅううま和解わかいのための奔走ほんそうはじめた。

まと文久ぶんきゅうせいへん京都きょうとを逐はれたきょう筑前ちくぜん太宰府だざいふだが、そのまえ肥後ひごよせつて逼塞ひっそくちゅうよこしょうくすのきめんかいした。二人ふたり長州ちょうしゅう征伐せいばつ是非ぜひについて議論ぎろんし、よこ肥後ひごはん長州ちょうしゅう征伐せいばつまいりすることをとしていた。そのため意見いけんたいたたしたりゅううまよこからぜっえん宣言せんげんされた。この時分じぶんよこ逼塞ひっそくしていたから長州ちょうしゅうひそかにひらけくにさくてんじたことをらなかつた。だからこのときりゅううま意見いけんわかれたのだらう。のちりゅううま手掛てがけた大政奉還たいせいほうかんについては贊意さんいしめしている。

よこわかれたりゅううま太宰府だざいふかつた。廿にじゅうさんにちいた著し、きょうめんかいしたりゅううまちょう和解わかいについてはなした。このときめんかいきょうにゅうつたのか、きょう一人ひとりひがし久世くぜつうきょうがこんなごと日記にっきいている。

五月ごがつ廿にじゅう五日いつか

はにしゅうはん坂本さかもと龍馬りょうまめんかい偉人いじんなり、せついえなり

(『ひがし久世くぜつう日記にっき』)

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中岡なかおかまきふとしろう

こののち太宰府だざいふ長州ちょうしゅうはんたちなが和解わかいさくもうれ、とうときかつら小五しょうごろうつていたまつきくにそのむねつてえさせた。廿にじゅう八日ようか大宰府だざいふうるう五月ごがつついたちせきにゅうつた。六日むいかりゅううまもとおとずれ、西にしとのめんかい了承りょうしょうしていた著をつことになつた。

二人ふたりとも西にしいた著を心待こころまちにしていたが、あにらんや西にしなかつた。廿にじゅういちにち西にしれてるはずだつた中岡なかおか一人ひとりしたせきりゅううまもとあらわれた。ワケをくと、京都きょうと重大じゅうだい用件ようけんたとかげんつて京都きょうとこうかつてしまつたとげんふ。仕方しかたなく二人ふたりかいいにくだりつてせつあかりすると、あんじょうプリプリいかはじめた。「薩摩さつまいちはいくえはされた!もういい、る!」つてネ。

二人ふたりなんとかなだめると、薩摩さつまとの和解わかいじょうけんとして、相手あいてがわから正式せいしき使つかい者をことたけ軍艦ぐんかん購入こうにゅう長州ちょうしゅうだいはりに薩摩さつま名義めいぎおこなことりゅううまいたるつてえた。とうどき幕府ばくふによる長州ちょうしゅうさいせいうわさされていて、長州ちょうしゅうとしてはすこしでも武備ぶびととのえておきたいとおもえつていたのサ。

要請ようせいけた二人ふたりは、廿にじゅう九日ここのかしたせきはつち、西にし談判だんぱんするため京都きょうとかつた。

龜山かめやま社中

なながつじゅうろくにちりゅううまらの談判だんぱん結果けっか確認かくにんしたは、伊藤いとう俊輔しゅんすけ井上いのうえ聞多の二人ふたりたけ購入こうにゅうの交わたるやくとして長崎ながさき派遣はけんした。前年ぜんねん禁門きんもんへん朝敵ちょうてきあつかいの長州ちょうしゅうは、たけ購入こうにゅう幕府ばくふからめられていたので、薩摩さつまはん名義めいぎりての隱密おんみつ活動かつどうだつた。

廿にじゅういちにち長崎ながさきに著いた二人ふたり千屋せんや寅之助とらのすけ高松たかまつふとしろうかいつた。千屋せんや高松たかまつについてはおぼえているカエ?かつてりゅううまがおれのじゅくれてきた連中れんちゅうだ。千屋せんや高松たかまつほか新宮しんぐうすけ澤村さわむらそうこれすすむ近藤こんどう長次ちょうじろうらも薩摩さつまから長崎ながさきつて、この時分じぶんにいはゆるかめやま社中をはつさせている。これは薩摩さつまはん支援しえんもとうん事業じぎょう交易こうえき旋をおこな組織そしきで、株式かぶしきかい社の嚆矢こうしなどとげんはれている。

さてこのかめやま社中だが、りゅううまいたるはこのゆい社を「かめやま社中」としょうしたことはいちく、たんに「社中」とのみんでいた。そもそも社中とげんふのは「かみ氏子うじこなかあいだ」とげん意味いみ言葉ことばが「なかあいだ」を意味いみする言葉ことばとして利用りようされるやうになつたもので、特別とくべつ名詞めいしではない。かめやまとうとき長崎ながさきにあつたせいすえしょ地名ちめいで、けいおう元年がんねん(1865ねん)にはいかま(はいよう)になつたざんされた住居じゅうきょよりどころてんとしたため後世こうせいかめやま社中とばれるやうになつたのだ。

この社中の者達を仲介ちゅうかいやくとして、伊藤いとう井上いのうえはグラバーしょうかいからよんせんさんひゃくていミニエーじゅうさんせんていゲベールじゅう購入こうにゅうすること成功せいこうした。軍艦ぐんかんについては近藤こんどう長次ちょうじろう購入こうにゅうのため周旋しゅうせんしていたが、これについてはあとはなさう。

薩長さっちょう同盟どうめい

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大久保おおくぼ利通としみち

そのころりゅううま京阪けいはんべつ行動こうどうつていた。とうどき問題もんだいになつていた兵庫ひょうご開港かいこうけん長州ちょうしゅうさいせいについて、なんらかの活動かつどうくだりつていたやうだ。きゅうがつ廿にじゅういちにち朝廷ちょうていから長州ちょうしゅうさいせいもとくだると大久保おおくぼいちぞうが「いのちいのちではない」とげんつて薩摩さつまはんまいりせんこばめぜっ通告つうこくした。りゅううまはこの大久保おおくぼ書簡しょかんつてきゅうがつ下旬げじゅん大坂おおさかはつち、廿にじゅう九日ここのかぼうしゅうじょうせき著。山口やまぐちまでおもむいて京都きょうと情勢じょうせい長州ちょうしゅうつてえた。同時どうじ西にしからのげんつてで、京阪けいはん滯在たいざいしている薩摩さつまはんへいのために兵糧ひょうろうべい支援しえんしてよくしいとねが、これが承諾しょうだくされ和解わかい下地したじせいつた。

十二月じゅうにがつ中旬ちゅうじゅん薩摩さつまはんからくろりょうかい使つかい者として長州ちょうしゅう派遣はけんされた。くろたいして頻りに京都きょうときをすすむめたが、まえこともあつての者にかせたがつたやうだ。だがはんあるじからの要請ようせいもあり、結局けっきょく京都きょうと西にしめんかいすることになつた。

十二月じゅうにがつ廿にじゅう八日ようか三田みたしりみなと翌年よくねんけいおうねん(1866ねん)いちがつ九日ここのか京都きょうとほんまつ薩摩さつまはんやしきいた著した。りゅううまとうはつ同行どうこうすることになつていたが、とある理由りゆうおそれた。からの要請ようせいはや京都きょうとよくしいといふ連絡れんらくがあり、いちがつ十日とおかちょうはん三吉みよしまきくらともなえつてせきはつつ。だしはつまえりゅううま高杉たかすぎすすむさくめんかいし、高杉たかすぎからピストルを贈られげきけた。

大阪おおさかに著いたりゅううまじゅうはちにち大久保おおくぼいちおきなかいいにぎょうつた。いちおきなとうときやくだつたが、長州ちょうしゅうしょぶんこまつたまくかくしをけて大坂おおさかつた。久々ひさびさかいつたいちおきなりゅううまたいし、「長州ちょうしゅうひといれきょうしたことが既に通報つうほうされ手配てはいされているからはや々に退去たいきょするやうに」と警告けいこくしたさうだ。

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孝允たかよし

じゅうきゅうにちりゅううま寺田てらだはいり、ここで同行どうこうしていた三吉みよしわかれ、廿にじゅうほんまつ薩摩さつまはんやしきにゅうつた。かいつたりゅううま同盟どうめい是非ぜひたずねたが、このあいだ西にしあいだでこれまでのいきさつと今後こんごについてはなごうはれたものの、同盟どうめいせきするからだてきはなしかつたものだから、憤懣ふんまんやるかたないろうとしていたのだ。りゅううま難するとは、「薩摩さつまおおやけしか朝廷ちょうてい幕府ばくふ諸侯しょこうまじえるが長州ちょうしゅうちがう。すべてがてきといふじょうきょうでこちらがわから薩摩さつま行動こうどうともにすることをもとむめればそれはたすけをもとむめることとおなじだ。それは長州ちょうしゅう本意ほんいではなくじるところであるからない。薩摩さつま王室おうしつくすことがかればたとえ長州ちょうしゅうほろびたとしても構はない。」とげんつた。それをいたりゅううま難するのをめてそのはなれた。

そのからだてきにどんなやりりがあつたのかはろくざんされていない。だがりゅううま西にし小松こまつおびかたな談判だんぱんした結果けっかじょうされていた出立しゅったつめて再度さいどかいだんもうけられたといふのがしゅう一致いっちするところだ。

かいだんにはりゅううまだてかいい、以下いかろくじょう盟約めいやくが交はされた。これがいはゆるちょう同盟どうめいだ。

このろくじょう盟約めいやくかいだんではあきら文化ぶんかされなかつたため、廿にじゅう三日みっかづけりゅううまに「この内容ないようあいだちがいないか」としょじょうおくつた。そのため後世こうせいにこの盟約めいやくからだてき内容ないようつてえられたのだ。コレがかつたらおそらく歷史れきしうえなぞひとつとなつただらう。西にしべると非常ひじょうちいさいが、かういふ綿密めんみつなことにはさとしおとこサ。そのしょじょうりゅううまが「相違そういなし」と朱筆しゅひつしたのがこれだ。

薩長同盟裏書薩長同盟裏書薩長同盟裏書
薩長同盟裏書薩長同盟裏書薩長同盟裏書

チョツトみにくいのでここにいてやらう。

ひょうしるしなされこうろくじょうしょう小松こまつ西にし西にしりょうおよびろうあにりゅう(りゅううま)とう同席どうせきにて談合だんごうせしところにて、相違そういこれなくこうのちといえどもけっしてへんこうことはこれなきはかみあかりところ御座ぎょざこう

へいがつ五日いつか   坂本さかもと りゅう

一介いっかい浪士ろうしぎないりゅううまが、くに歷史れきしうごかすだてかいい、その證人しょうにんになつたといふことを、どうるエ?

「こんな裏書うらがきにはなんこうちからもない。りゅううまなどいなくてもだいはりの志士ししはいくらでもいたといふ意見いけんもある」だつて?

それこそ「行藏こうぞうわがそんす、毀譽きよ他人たにんあるじちょう」サ。どうだ、寓意ぐういかるかね、おじょうさん。

寺田てらだ遭難

廿にじゅうさんにちようやおおきな仕事しごとえたりゅううま寺田てらだもど一息ひといきついた。寺田てらだざんつていた三吉さんきちまきぞうと祝宴をひらき、深夜しんやまで談笑だんしょうした。風呂ふろにゅうつてサアるかとおもえつたら、階下かいかからおりゅうじょうがつて捕吏ほりているとらせた。りゅううま高杉たかすぎから贈られたピストルを、三吉みよしやりかまえた。スルトあいだもなくなんじゅうにんもの捕吏ほりかいうえがつてきて「上意じょういにより尋問じんもんする!すわれ!」とげんつた。いちおきな警告けいこくどおり、奉行ぶぎょうしょほうでは既に調しらべがなされ、「坂本さかもと龍馬りょうまなる浪士ろうし寺田てらだせんふくし、ちょうあいだつているうたがいがある」とられていたのだ。りゅううま薩摩さつまはんであるとつたが否定ひていされ、あいだもなくらんまつた。

ピストルかずはつつておうせんし、かずひと命中めいちゅうしたが、捕吏ほりかたなじゅうゆびけられててなくなつた。やり名手めいしゅである三吉みよし必死ひっしおうせんしててきひるんだすき裏手うらてから上手うま脫出だっしゅつできたが、そとにもおおかず捕吏ほり彷徨うろついていたからかかとかえしてほりかわ土手どてにある材木ざいもく小屋こやまで辿たどり著くとそこでかくれた。りゅううま出血しゅっけつがひどく、意識いしき朦朧もうろうとしていた。

三吉みよしはもうきれないと覺悟かくごしてわりはらしやうともうたが、りゅううまはかうげんつた。

覺悟かくごことなれば、きみはこれよりやしきはしけよ。もしにしててきじんわば必死ひっし、これまでなり。ぼくもまた、ここにてせんのみ、と。ときすでにあかつきなればなおむつかし、とうんう。

(『三吉さんきちまきぞう日記にっき』)

勇氣ゆうきづけられた三吉みよしりゅううまわかれ、伏見ふしみ薩摩さつまはんやしきいそいだ。はんやしきでは既におりゅうきゅうじょううったえて救出きゅうしゅつからだせいととのえていた。三吉みよしはんやしきに著くと、吉井よしいみゆきうままたがつてはんたち救出きゅうしゅつかい、りゅううまはどうにか九死きゅうし一生いっしょうることがた。奉行ぶぎょうしょほうでは薩摩さつまはんやしきんだことも突きめていたが、薩摩さつまはそのやうな者はないと突つねた。奉行ぶぎょうしょはんやしきないけんかぎりいのでやめがつた。もこの事件じけんきもやしたやうでりゅううま見舞みまいの手紙てがみおくつている。

さんじゅうにち伏見ふしみから京都きょうとはんやしきうつりつてしばらく療養りょうようし、快復かいふくしつつあつたところへ陸奧むつ陽之助ようのすけがやつてた。く、近藤こんどう長次ちょうじろう切腹せっぷくしたとのことだつた。

ちゅう ここできゅうにおりゅう登場とうじょうするのは、元治もとはる元年がんねんりゅううま京阪けいはんはなれるさい寺田てらだあづけられ、そのままきょつづけけたため。

社中内紛ないふん

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近藤こんどう長次ちょうじろう

近藤こんどう長次ちょうじろうについてはな必要ひつようがあるから少々しょうしょうまえもどる。

近藤こんどう長次ちょうじろうまた上杉うえすぎむねろうげんつた。りゅううまおな時分じぶんにおれの門人もんじんになり、みさお練所の閉鎖へいさのち薩摩さつませ、社中の一員いちいんになつた。長州ちょうしゅうはん軍艦ぐんかん購入こうにゅう周旋しゅうせんまかされた近藤こんどうユニオンごうといふ軍艦ぐんかん購入こうにゅうこうとしたのだが、これに長州ちょうしゅう海軍きょく異議いぎとなえた。ふねけんさせることでとりあえず了承りょうしょうしてほこおさむめたが、このユニオンごう厄介やっかい問題もんだいかかえることになる。

けいおう元年がんねん(1865ねん)きゅうがつ長州ちょうしゅうはんばれた近藤こんどうはんあるじちちはい謁し、薩摩さつまはんあるじちちへの感謝かんしゃじょうあずかかつた。それをつてじゅうがつ鹿しかしまに著いた近藤こんどう正式せいしきユニオンごうり、そのままんでしたせきまでつていつた。十一月じゅういちがつにはふたたはんあるじはい謁してまでもらえつた。ここまではよかつた。

したせきると、ユニオンごうめぐもろけんについて、長州ちょうしゅうはんちがてんがあることかつてきた。近藤こんどう購入こうにゅう長州ちょうしゅうまけし、ふねせき薩摩さつま運用うんようは社中がおこなうといふこと伊藤いとう井上いのうえから承諾しょうだくされたものとおもえつていたところが、海軍きょくでは承知しょうちせず、購入こうにゅう長州ちょうしゅう全額ぜんがくはらいつたのだから運用うんようけんぞく長州ちょうしゅうにあるはずだとしたのだ。

こまつた近藤こんどう海軍きょくと交わたるして十二月じゅうにがつさくらしままるじょうやくげん約定やくじょうむすび、一旦いったんおさむまつたやうにえたがすぐに再燃さいねんしてふたたこじした。このときにはりゅううま長州ちょうしゅう滯在たいざいしていて、おさむひろえがつかないためわりつてり、じょうやく大幅おおはばゆずるするかたち修正しゅうせいしてようやおさむまつたが、この結果けっかユニオンごうは社中では自由じゆう運用うんようできなくなつた。さつき「とある理由りゆう上京じょうきょうおそれた」とげんつたのは、この交わたるあしられたためだ。

翌年よくねんいちがつ近藤こんどう長州ちょうしゅうはんからもらえつたほうすすむきむ使つかい、社中の同志どうしだまつてえい吉利よしとし密航みっこうするけいてていたこと露見ろけんした。これが原因げんいんけいおうねん(1866ねん)いちがつじゅうよんにちはららされるはねになつた。じゅうきゅうとしだつた。

近藤こんどういたりゅううまじょうに「じゅつかずまりありていたりまことらず、上杉うえすぎほろぼす所以ゆえんなり」といた。おりゅうそうによると「オレたらなせはしなかつた」とげんつたさうだ。りゅううまげんつたどおり、さくよりゆきりすぎていたりまことらなかつたのだらう。可哀想かわいそうことだ。

ちゅう ユニオンごういちけん同志どうし薩摩さつまはんびるために切腹せっぷくしたというせつもある。近藤こんどう命日めいにちは23にちもしくは24にちあいだちがい。

ホネー・ムーン

りゅううまはおりゅう三吉みよしともがついつぱい薩摩さつまはんやしきせいやしなえした。このとき正式せいしき結婚式けっこんしききょげて、二人ふたり夫婦ふうふになつたといはれる。がつ廿にじゅう九日ここのかりゅううまとおりゅう西にし小松こまつ同行どうこうして京都きょうとはつち、さんがつ五日いつか大坂おおさかから出航しゅっこう途中とちゅうせき長崎ながさきけいよししてじゅうにち鹿しかしまに著いた。

鹿しかしまではしばらくのあいだりゅうあそんでらした。霧島きりしまぬるいずみくだりつたり、湯治とうじしていた小松こまつたずねたり、かわ魚釣さかなつしたり、一番いちばんよくられているのは霧島きりしま高千穗峰たかちほのみね山頂さんちょうまでおりゅうとうつててんあたりさつていたてんぎゃくほこひきつこいたといふはなしだらう。これはのち乙女おとめての手紙てがみなかくわしくいている。丁寧ていねいまでえがいているのが微笑ほほえましい。

天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛
天の逆矛天の逆矛天の逆矛天の逆矛

だっはんりゅううまにとつておそらくただいち安息あんそく日々ひびだつたにちがいあるまい。このとき旅行のち坂崎さかざきむらさきの『あせ千里せんりこま』でホネー・ムーンつまり新婚しんこん旅行紹介しょうかいされ、やがて日本にっぽん最初さいしょ新婚しんこん旅行しょうされるやうになつたのサ。

ちゅう 「最初さいしょ新婚しんこん旅行」といういいかたについて、これより10ねんまえ小松こまつおびかたな夫婦ふうふ旅行かけていることからこちらを最初さいしょとするせつがある。というか、新婚しんこん旅行はつなにもあるのだろうか。

ワイルウエフごう難破

りゅうとの旅行らくしんだりゅううまは、よんがつじゅうにち鹿しかしまもどつた。このさきつき薩摩さつまはんではグラバーしょうかいからワイルウエフごうといふ帆船はんせん購入こうにゅうしている。さきユニオンごういちけんふね自由じゆうあつかえなくなつた社中にだいはりとしてあずかえたふねだ。

ワイルウエフごう運用うんようまかされた社中では、ちやうどユニオンごうあらためおつうしまるがかねてより約束やくそく兵糧ひょうろうべい鹿しかしま搬送はんそうする途中とちゅう長崎ながさき入港にゅうこうしていた。鹿しかしま一緖いっしょかうといふことになり、船長せんちょう因幡いなば出身しゅっしんくろしょうふとしろう士官しかんりゅううまけていた土佐とさ出身しゅっしん池内いけうちくらふとしえらばれた。

よんがつすえごろおつうしまるこうされて長崎ながさき出航しゅっこう鹿しかしまかつたが、きゅうてんこうあくこうは危けん判斷はんだんされてはなされた。そのワイルウエフごう暴風雨ぼうふううなかどんどんはなされてき、五月ごがつにちあさげて大破たいはした。この事故じこくろいけふくめたじゅうにん牲になつてしまつた。

そうだにしなかつた不慮ふりょ事故じこりゅううまいたるだい層嘆いたが、嘆いてばかりもいられない。幕府ばくふ長州ちょうしゅうひらくせんあいだこんせりつていたのだ。

だい長州ちょうしゅう征伐せいばつ

このとしろくがつ、おれは久方ひさかたぶりに上阪こうさかした。ねんまえ軍艦ぐんかん奉行ぶぎょうやめ免されてやくになつたおれは、こうこおりかわ屋敷やしき聊をかこつていたが、五月ごがつすえごろきゅう奉書ほうしょとどいた。 なにでもいそいで大坂おおさかけといふから用向ようむき老中ろうじゅうたずねたが、はたぐん直々じきじきいのちれいといふこと以外いがいからなかつた。くだりつてみると、薩摩さつま長州ちょうしゅう征伐せいばつにひどくはんたいするからまえせつとくしていといふ。げんはれたとおりに周旋しゅうせんしたが今度こんど薩摩さつまとつるんでいるのではとうたぐはれだした。馬鹿ばか馬鹿ばかしいからはやくおひまもらいたいとげんつたが、はたぐんがもうすこてくれとおおせるのでなにもせずに大坂おおさか宿やどざんつたヨ。

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高杉たかすぎすすむさく

ろくがつななにちまくぐん艦隊かんたいうち周防すおう大島おおしまほうげきしたのをごうまくちょうせんそうまつた。大島おおしまくちげいしゅうこういししゅうこう小倉おぐらくちよん方面ほうめんたい峙したので長州ちょうしゅうではよんさかいせんそうんでいる。

まくぐん大島おおしまうらないよりどころしたが、じゅうさんよるぶん高杉たかすぎすすむさくがオテントごうといふしょうかた軍艦ぐんかんり、まく軍艦ぐんかんたいいきに突つんでとうたり次第しだいほうげきしまくつた。おどろいたまく軍艦ぐんかんたいなさけないはなしだが大島おおしまざんつたへいいててしまつた。つづけいてげいしゅうこういししゅうこうにおいてひらくせんした。まくぐんさんひゃくとしむかしのやうにあか具足ぐそくを著んで、ふえ太鼓たいこでヒユードンユードンはやててすすんでくだりつたが、長州ちょうしゅうぐんぜんぐんじゅうたいかみくずひろえひかなにぞのやうなふうでやつてて、まくぐんはこれにらされてしまつた。

りゅううまじゅうよんにちおつうしまるしたせきいた著した。はやはや高杉たかすぎ協議きょうぎしてうませきかいせいけん確保かくほのため、じゅうななにち未明みめいにオテントごうつた高杉たかすぎうらを、りゅううまおつうしまるゆび揮してしたせきたいきしもんつかさをそれぞれ攻擊こうげきし、小倉おぐらくちでのせんあるじしるべけんにぎつた。せん直接ちょくせつまいりしたのはこれだけで、のちせん情報じょうほうおさむしゅうせんきょう觀察かんさつつとめていたやうだ。薩摩さつまはん盟約めいやくのっとり、もろはんへのゆらさぶりや幕府ばくふへのたいけつ姿勢しせいをあからさまにしめはじめた。

まくぐん敗報はいほうつづけなかなながつ廿にじゅうはたぐんくなられた。死因しいん脚氣衝心かっけしょうしんだつた。瓦解がかいしつつある幕府ばくふ背負せおいつて心身しんしんともにむしばまれたのだらう。

おれが大阪城おおさかじょうくだりつてみると、みな閉息してひどいものだつた。板倉いたくらはなしたら、おあとことをすぐにめねばなどとげんふから、そんなこと後見こうけんしょく慶喜よしのぶおおやけにおまかせすればよろしいとげんつたら納得なっとくした板倉いたくら慶喜よしのぶかいいにぎょうつたヨ。慶喜よしのぶはそのころ役人やくにんみなからいやはれていたが、それでいよいよ慶喜よしのぶるとみな送迎そうげいするから、人情にんじょうてんくつがえといふものは、それはひどいものだとおもえつたヨ。

慶喜よしのぶはそれからきゅうにおれにあぶらをかけやがつて、「長州ちょうしゅう談判だんぱんくだりつてくれ」などと、ひどくあぶらをかけやがつた。馬鹿ばか馬鹿ばかしいやくおおけられて承知しょうちすまいかとおもえつたが、「これまでの幕府ばくふのやりかたあらためめる」とげんふから、どうせ長州ちょうしゅうころされるかもしれないがくだりつてやうといふので往つたのサ。

宮島みやじまくだりつてひろさわ兵助へいすけ井上いのうえ聞多の二人ふたりと交わたるして、おおやけひらたしょぶんをするから撤退てったいするまくぐん追擊ついげきはしないやうにとよりゆきんだらそのとおりにしてくれた。ソレ大坂おおさかもどると、慶喜よしのぶがおれの交わたるして勝手かって朝廷ちょうていからとませんもともらえつていた。「はたぐんんだから長州ちょうしゅうとませんし、おかせはらいえ」といふ一方いっぽうてき内容ないようだつたから長州ちょうしゅうがわりを拒否きょひした。おれの交わたるなどすべてどこかへんでしまつたヨ。おまけかち長州ちょうしゅうともつるんでるとたからいよいよろうとおもえつていたら、のおたっしがこうつたサ。

ちゅう 板倉いたくら老中ろうじゅう板倉いたくらかちせい宮島みやじまいむしまかみのある廣島ひろしまけん宮島みやじま

社中の苦境くきょう

幕府ばくふ長州ちょうしゅうせんそうおわりをむかえつつあつたなながつ下旬げじゅんりゅううま長崎ながさきつたが、ここでこま遭遇そうぐうする。

さきせんいでふねしていたおつうしまる長州ちょうしゅうはん要請ようせいで既にわたしており、正式せいしき長州ちょうしゅうはんのものとなつてしまつたのだ。だいはりだつたワイルウエフごうつてのとお事故じこ大破たいは。社中は念願ねんがんだつたふねしつつてしまつた。うんぎょうをやるといふしるべ頓挫とんざしてきむりにもこまるやうになつた。社中の者達にきゅうきむにもことかけようだ。サアーこまつた。素寒貧すかんぴんだ。りゅううまは社中の者達にひまそうとしたが、どの者は「ぬまでいていく」とはなれない。

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小松こまつおびかたな

こまつていたりゅううま薩摩さつまはん支援しえんべた。五代ごだいざいすけ旋でだいしまはん所有しょゆういろはまるといふふね運用うんようするために何人なんにんひとし、社中の者達にもさんりょうぶんつききゅうささえはらいことになつたのだ。じゅうがつには西にし小松こまつ談判だんぱんして、えびえびすみなもと開發かいはつをするためふね購入こうにゅう保證ほしょう薩摩さつまはんにしてもらことになつた。このとき購入こうにゅうしたのがだいきょくまる名付なづけられた西洋せいよう帆船はんせんで、費用ひようななせんさんひゃくりょうじゅうがつ廿にじゅう九日ここのかふねり、ようや本格ほんかくてき活動かつどう開始かいしすることになつた。

また、この時分じぶん薩摩さつま長州ちょうしゅうあいだうませきしょうけいといふのがじょうがつていて、これは薩摩さつまふね使つかいつて長州ちょうしゅうものさんしな兵庫ひょうごあたりりにはこんでうれろうといふもので、りゅううまもこのけいいちまいんでいたが、これをやるためにはうませきかい封鎖ふうさしなければならないため、長州ちょうしゅう拒否きょひされてげんしなかつた。

ちなみにはちがつ下旬げじゅんごろのことだが、越前えちぜんはん下山げざん尙といふ者が長崎ながさきりゅううまうている。ここでりゅううま自分じぶんくちからはじめて幕府ばくふせいけん返上へんじょうろん、すなはち大政奉還たいせいほうかんろんべた。いつか大久保おおくぼいちおきなからいたせいけん返上へんじょういまならくだりうつせるのではないかとおもえつたりゅううま下山げざんにかうげんつた。

其後いちゆうもんく。むかえすわひさしくてだんてんしたことおよぶ。危坐ひくこえかたりつてく、方今ほうこんくさり攘のせついちへんして討幕とうばくしょうかかとおこる。して幕府ばくふはんねんなく、せんよこはなはだし、きょうくはすくいからず、もっ如何いかんとなす。且、とくかわ親藩しんぱんうまれ、うえはるたけおおやけいただよろしくおもところあるべし。
せいけん奉還ほうかんさくすみやかにはるたけおおやけおおやけ一身いっしんれにとうらばこうひにすみすべきあらん。

(下山げざん尙『西南せいなん紀行きこう』)

りゅううまよりゆきけた下山げざんは、途中とちゅう肥後ひごよこしょうくすのきたくおとずれてこの大政奉還たいせいほうかんろんはなしたところ、つて贊同さんどうしたといふ。ただ越前えちぜんもどつた下山げざんはるたけおおやけ獻策けんさくしたが、はるたけおおやけは「おもふところあり」とげんつて採用さいようしなかつた。

はるたけおおやけいちおきなどうように、文久ぶんきゅうねんあいだから既にせいけん返上へんじょうするべきだと度々たびたび幕府ばくふ建議けんぎしていたのサ。この時分じぶんにも慶喜よしのぶせいけん返上へんじょううったえていたのだがききいれられないから越前えちぜんもどつていた。採用さいようしなかつたのは多分たぶんそのあたりりのけいぬきによるものだらう。

土佐とさはんとの和解わかい

そのころりゅううまくに土佐とさはんちょうの突出におそれをかんじてあせはじめてつた。山内やまうち容堂ようどうおおやけまくちょうせんそうさい長州ちょうしゅうなど烏合うごうしゅうかるていたが、結果けっかはごらんゆうようダヨ。そこで各地かくち配下はいか派遣はけんして情勢じょうせい視察をさせてみると、坂本さかもと龍馬りょうま中岡なかおかまきふとしろうりょうかびじょうがつてきた。そのときはまだ半信半疑はんしんはんぎちょう同盟どうめい仲介ちゅうかいしたとかで、コレはとく難い人材じんざいだといふことで土佐とさはんほうから接觸せっしょくもとむめてきたのだ。りゅううま中岡なかおか活躍かつやく土佐とさはん上士じょうしたちみとめざるをなくなつたのサ。

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後藤ごとうぞうろう

おなころ長崎ながさきたけ軍艦ぐんかん購入こうにゅう出掛でかけていた後藤ごとうぞうろうふううわさりゅううまこといたのだらう。後藤ごとう溝渕みぞぶちひろこれすすむといふ者を使つかいつてりゅううまようさぐらせた。溝渕みぞぶちはかつてこうりゅううま同門どうもんになつたことがあるのでそのやくにうつてつけだつた。その溝渕みぞぶちりゅううまから紹介しょうかいされてかいだんし、長州ちょうしゅう方針ほうしん確認かくにんして後藤ごとう報告ほうこくした。

けいおうさんねん(1867ねん)いちがつすえからがつはじごろりゅううま後藤ごとうはじめてめんかいした。にいふきよしふうちんかいだんだ。社中の者達のなかには土佐とさ勤王とうたまあつしたちょう本人ほんにん後藤ごとうころしてやりたいと口走くちばしる者もあつたが、かいだんした二人ふたりはそれらはむかしこととしてサラつとみずながしてひさげ攜することにした。かいだんくわしいろくざんつてないが、長州ちょうしゅう土佐とさとのせきかかりあらためぜんについてやら土佐とさ今後こんご方針ほうしんやらについてはなしあつたやうだ。

一方いっぽうがつじゅうななにち西にし容堂ようどうおおやけはい謁した。この時分じぶん京都きょうとでいはゆるよんけんこうあつめてかいをさせやうと薩摩さつま躍起やっきになつていて、西にし容堂ようどうおおやけ上京じょうきょううながしていたが、そのかいみる西にしりゅううま中岡なかおかだっはんつみ赦免をもとむめた。容堂ようどうおおやけ承知しょうちして、づるいちこえちょう法規ほうきてき措置そちによりにんの赦免がけつまつた。

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援隊ひだりから長岡ながおか謙吉けんきち溝渕みぞぶちひろこれすすむ
坂本さかもと龍馬りょうま山本やまもとひろしどう千屋せんや寅之助とらのすけ白峰しらみね駿馬しゅんめ

さんがつ中旬ちゅうじゅん後藤ごとう土佐とさはん重役じゅうやく福岡ふくおかとうと社中のあつかいについて協議きょうぎした。社中は土佐とさはんそとかくだんからだとし、りゅううまいたるには自由じゆう活動かつどうさせて土佐とさはん利益りえきはかこととし、社中あらため援隊と命名めいめいすることにした。後藤ごとうはこのほかにも、以前いぜん社中が購入こうにゅうしただいきょくまるささえはらいいがすみんでないことから全額ぜんがくささえはらいいをけたり、りゅううまにとつて心强こころづよ味方みかたになつた。

だがりゅううま後藤ごとうきょうちからせきかかりむすんだことをつた乙女おとめはひどくいかつた。く「姦物かんぶつ役人やくにんだまされている」「むさぼてんしたくにいえわすれたのか」と。りゅううま手紙てがみで「援隊じゅうひとやしなうためには一人ひとりあたりとしろくじゅうりょう必要ひつようで、そのためもとむめている」「もう土佐とさはんからは赦免されており、このころわたし京都きょうと出向でむいて日々ひびてんしたのためにはたらいている」「ひゃくひとななひゃくひとひきいるよりも土佐とさ廿にじゅうよんまんいしひきいててんしたくにいえくしたほうがよい」と反論はんろんした。かつて武市たけいち半平はんぺんふとし提唱ていしょうしたいちはん勤王ろんを、りゅううまのぞかたち復活ふっかつさせたのだ。

ちなみにこのとし3がつ長崎ながさき岩崎いわさき彌太やたろうが著任して土佐とさしょうかいかいけいりをしていた。りゅううま援隊がしよつちゆうきむをせびりにくるからしばしばしぶめんおうたいしたと、いちだけかいつたげんつてたヨ。

いろはまる事件じけん

いろはまるといふふねについていちはなしたかとおもふが、このふねがまた厄介やっかい事件じけんたねになつた。このいろはまるといふふねは、りゅううまいたるだいしまはんからしたふねだつたが、よんがつ廿にじゅうさんにちよるあいだうち運行うんこうちゅうだいかた蒸氣じょうきふねと衝突した。相手あいてとくかわ御三家ごさんけ紀州きしゅうはん所有しょゆうあきらひかりまるだつた。りゅううまをはじめいろはまるいんさんじゅうにんみなあきらひかりまるうつりつていのちべつじょうはなかつたが、こうむなしくいろはまる沈沒ちんぼつしてくずとなつた。

ろくもどつたりゅううまはすぐさまあきらひかりまる船長せんちょうあわせつて賠償ばいしょうきむ一部いちぶとしていちまんりょうようもとむしたが、紀州きしゅうがわはこれを拒否きょひして長崎ながさき奉行ぶぎょうしょおおやけほうもとづいてはなしあおうといふのでりゅううま同意どういし、五月ごがつ十日とおか長崎ながさきに著。じゅうにちから紀州きしゅうがわとの談判だんぱんまつた。

談判だんぱんではおたがいのこう日誌にっし交換こうかんしあつて、いろはまるのブーフランプ(舷燈げんとう)がいていただのいなかつただの、航路こうろ東南とうなんだつた、いや東北とうほくだつたとあるじちょうたがえつてらちがあかない。そこでりゅううま後藤ごとうぞうろう支援しえん要請ようせいして後藤ごとう談判だんぱん出席しゅっせきすることになつた。りゅううま後藤ごとうあきらひかりまるかぶといたうえとうちょく士官しかんなかつたこと衝突したことを理由りゆうしまくつた。またこの談判だんぱん最中さいちゅうりゅううま長崎ながさきちゃ料亭りょうていで「ふねしずめたそのつぐないは きむをとらずにくにをとる くにつてミカンらう」などといふじゃさくつて流行はやらせ、長崎ながさき世論せろん味方みかたけた。

土佐とさはん背景はいけいにしたりゅううま後藤ごとう强談判こわだんぱんひるんだ紀州きしゅうがわ代表だいひょう者は、薩摩さつまはんだいざいかい仲介ちゅうかいよりゆきし、過失かしつみとめてはちまんよんせんりょう賠償ばいしょうきむささえはらいいを約束やくそくした。紀州きしゅうはんでもだいめになつてななまんりょう減額げんがくされはしたが、りゅううま後藤ごとう勝利しょうりにはちがかつた。

ちゅう この事件じけんについては注意ちゅういようする。というのも明治めいじになってあきらひかりまるもと船長せんちょうが「ブーフランプがいていなかったのはほんとうだった」と證言しょうげんしており(ブーフランプがいていなかった場合ばあいいろはまるがわ重大じゅうだい過失かしつとなる)、せきかかり者は「いろはまる積荷つみに砂糖さとうべいだったのがいつのあいだにかミニエーじゅう400ていあるじちょうはじめた」とも證言しょうげんしているからである。ちなみに平成へいせい17ねんおこなわれた海底調しらべではミニエーじゅうつかっていない。

ふねちゅうはちさく

この五月ごがつ京都きょうとでは政局せいきょくおおきくうごきだそうとしていた。いはゆるよんけんこう京都きょうとしゅうまつてかいによつてくにせいめやうとしていたが、みな意見いけんがてんでんばらばらでまといまらない。とくはたぐん慶喜よしのぶ島津しまつ久光ひさみつおおやけたいだて深刻しんこくかい分裂ぶんれつし、さんねんまえまいりあずかかいおな結果けっかになつた。

この結果けっかけて西にし大久保おおくぼ(いちぞう)はたけちから倒幕とうばくけてうごはじめた。土佐とさはんでも中岡なかおかまきふとしろう周旋しゅうせんで、いぬい退助たいすけたに守部もるべ西にしいたる行動こうどうともにしたいとして、容堂ようどうおおやけに「決心けっしんしなければついにちょうもんにおうまをつなぐにいたりますぞ」といいはな始末しまつだつた。よんこうかい失敗しっぱい薩摩さつまのただならぬうごき、仕舞しまいには配下はいかたちすら倒幕とうばくかたりはじめた容堂ようどうおおやけみは深刻しんこくだつた。容堂ようどうおおやけ京都きょうとから後藤ごとうんでたいしょさせやうとした。

そのころ後藤ごとうは、りゅううまいろはまる事件じけん談判だんぱんあえつてる最中さいちゅうで、自分じぶんどくりでは不安ふあんだからとりゅううまれてきたがつていたのだが、談判だんぱん長引ながびき、おそれにおそれてそのうち容堂ようどうおおやけ土佐とさつてしまつた。

ろくがつ九日ここのかようやりゅううま後藤ごとうつて長崎ながさき出航しゅっこうし、じゅうにち兵庫ひょうご著。そしてじゅうななにち後藤ごとう土佐とさはん重役じゅうやくたちとのあいだ大政奉還たいせいほうかんさくについて議論ぎろんし、贊同さんどうた。

サアついにた。大政奉還たいせいほうかんだ。だがそのまえふねちゅうはちさくについてはな必要ひつようがある。

このふねちゅうはちさくばれるさくは、つうせつではろくがつじゅうにち長崎ながさきから兵庫ひょうごふねうえりゅううま後藤ごとう提示ていじしたはちさくだとされている。だが、はこれを裏付うらづけるあかしよりどころなに。このはちさくには原本げんぽん現存げんそんしておらず、さいおこりくさしたのもりゅううまではなくりゅううまけた援隊長岡ながおか謙吉けんきちだとげんはれる。そもそもこのはちさくはじめはふねちゅうはちさくとはばれていなかつた。だいからだろくがつじゅうにちにはりゅううまはもう兵庫ひょうご上陸じょうりくしたのちなのにふねうえ後藤ごとうしめしたならつじつまごうはんぢやアないカエ。ふねうえ提示ていじしたとしてもじゅうにちかろう。

とはいへ、このはちさく卓越たくえつした論策ろんさくであることはげんふまでもいだらう。

 以上いじょうはちさくは、方今ほうこんてんした形勢けいせいさっし、これうちまんくにちょうするに、これててすみどき急務きゅうむあるべし。いやしくかずさく斷行だんこうせば、すめらぎうんを挽し、くにいきおいちょうし、まんくになみだてするもまた敢て難しとせず。ふくねがわくはおおやけ明正めいせいだいみちもとづき、 一大いちだい英斷えいだんもってんした更始こうしいちしんせん。

せいけん返上へんじょうかい創設そうせつは、かつてりゅううま交流こうりゅうつた大久保おおくぼいちおきなよこしょうくすのき、それに松平まつだいらはるだけおおやけのぞみ、いまたしことだつた。これをりゅううまいちおきなたち意思いしかたち後藤ごとう提示ていじしてみせた。たけちから倒幕とうばくたいこうしう卓見たっけん後藤ごとう重役じゅうやくたちにも提議ていぎして土佐とさはんろんとすることにけっしたのだ。

ながりょうはんによるじょうしろ攻擊こうげきけいなどものうわさまではじめたから、うちせんはじまることを憂慮ゆうりょした後藤ごとう薩摩さつまはんうごきをおさえるため、かいだんもうけることにした。廿にじゅうにち薩摩さつまから西にし大久保おおくぼ小松こまつさんにん土佐とさから後藤ごとう福岡ふくおかとうよんめい、そして「浪士ろうしきょさきがけ」たるりゅううま中岡なかおか二人ふたり出席しゅっせきした。このせき後藤ごとうは、せいからだへんかわこころざしちょうさんはんとも共通きょうつう異論いろんとくいことをつてえて、以下いか約定やくじょうもと大政奉還たいせいほうかんけんしろ同意どういねがいつた。

後藤ごとうから「出兵しゅっぺいしてでも幕府ばくふ大政奉還たいせいほうかんませる」といた西にしいたる了承りょうしょうして、盟約めいやくむすばれた。失敗しっぱいすればそのときこそ土佐とさはんまきんで幕府ばくふくことができると見込みこんだのだらう。

薩摩さつまへのしをすみませた後藤ごとうは、なながつ上旬じょうじゅん土佐とさもどり、容堂ようどうおおやけ大政奉還たいせいほうかんさく建議けんぎした。容堂ようどうおおやけ異論いろんく、大政奉還たいせいほうかんからだめいじられた。

りゅううま後藤ごとうきょうちからして方々かたがたせつとくしていたが、ここでおもはぬ足止あしどめをくえらつた。えい吉利よしとしひとみずおっところせがいされる事件じけんこり、ならぬ援隊うたぐはれたのだ。なながつろくにち深夜しんや長崎ながさきえいふねイカルスごう組員くみいんにんなに者かにころせがいされ、翌日よくじつはつされた。犯人はんにんげきした者がしろ筒袖つつそで援隊のやうなふくそう犯人はんにんだつたとはなしたので土佐とさはん疑惑ぎわくけられた。じゅうよんにち長崎ながさきおとずれたえいくにおおやけ使つかいパークスはカンカンいかつて土佐とさしょうかい岩崎いわさき彌太やたろう長崎ながさき奉行ぶぎょうしょ怒鳴どなんだがマトモ相手あいてにされないので老中ろうじゅう抗議こうぎしたうえ土佐とさはん直接ちょくせつ談判だんぱんするため高知こうちかつた。りゅううま別件べっけんたまたま土佐とさもどることになり、はちがつ中旬ちゅうじゅんからとうこと者として後藤ごとうとも談判だんぱんまいりしている。長崎ながさき再調さいちょうといふことになつてえいくにつうわけかんのサトウと一緖いっしょ長崎ながさきかつた。

長崎ながさきでの調しらべ結局けっきょくしょうよりどころつからないからおとがしといふことになつたが、そりやソーダしん犯人はんにんは既にんでいたのサ。結論けつろんだけえば、犯人はんにん翌年よくねんけいおうよんねん(1868ねん)いちがつ判明はんめいした。筑前ちくぜんはん金子かねこざいきちとかいふ者で事件じけんにち自害じがいしていた。動機どうきまった不明ふめいらんしんとして筑前ちくぜんはんしょされていた。この事件じけんのせいでりゅううまいちつきほど足止あしどめをらい、大政奉還たいせいほうかん周旋しゅうせんにも支障ししょうたした。

ちゅう はちさく初出しょしゅつ管見かんけんでは明治めいじ31ねん(1898ねん)ごろ初稿しょこうみずやまかいへん坂本さかもと龍馬りょうまつて』。談話だんわにあるようにこのはちさくにはなぞおおく、原本げんぽんうつしほんつかっていない。

大政奉還たいせいほうかん

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とくかわ慶喜よしのぶ

りゅううまみずおっところせがい事件じけん足止あしどめされていたころきゅうがつにち上京じょうきょうした後藤ごとう京都きょうと大政奉還たいせいほうかん周旋しゅうせんをやつていた。はちがつ廿にじゅうにち容堂ようどうおおやけ大政奉還たいせいほうかんけんしろ正式せいしき布告ふこくして後藤ごとうめいじたが、出兵しゅっぺいについては許可きょかされなかつた。このため後藤ごとうへいれてこれず、「へいさずにけんしろとな?」と西にしいちあたりうたがはじめた。

そんなじょうきょうかねたのかりゅううませんていライフルじゅう土佐とさおくりつけて、けんしろれられない場合ばあいきょへいする覺悟かくごうながすことにした。じゅうにちじゅう入手にゅうしゅしてじゅうはちにち長崎ながさき出航しゅっこう廿にじゅうにちしたせき入港にゅうこうした。がつころからしたせき生活せいかつしていたおりゅうにちあいだほどごし、廿にじゅうにちよる土佐とさけてふたた出航しゅっこうした。

廿にじゅう四日よっか土佐とさに著いたりゅううま翌日よくじつ土佐とさはん重臣じゅうしんたちかいだんして、大政奉還たいせいほうかんいそがなければながきょへいしてしまうとつてえ、たけかいりをもとむめた。たけちからたけしあつしてでも大政奉還たいせいほうかん慶喜よしのぶれさせ、れなければたけちから倒幕とうばくえるのがりゅううま方針ほうしんだつた。廿にじゅうななにち容堂ようどうおおやけふくめたはん最高さいこうかいひらかれ、りゅううまつてきたたけかいりを承認しょうにんした。こののち文久ぶんきゅうねん(1862ねん)さんがつだっはんからねんぶりにいえおとずれた。突然つてきてあいだもあるから盛大せいだいむかいはできなかつたが、大物おおものになつてつてきたりゅううまて、乙女おとめけんひらたにいさんもさぞうれしかつただらう。

じゅうがつついたち高知こうちから風雲ふううんきゅうげる京都きょうとかつた。このさき、おりゅうさいかいすることも、長崎ながさき光景こうけいながめることも、家族かぞくとのだん欒も、二度にどい。

ふねおそれて京都きょうとにゅうつたのがじゅうがつ九日ここのか。このつきさんにち後藤ごとう大政奉還たいせいほうかん正式せいしきけんしろした。

うち形勢けいせい古今ここん得失とくしつを鑒し、まことまことおそれ頓首とんしゅさいはいふくおもんみ すめらぎくにきょうふくもとぎょうてんとよくせは、くにからだ一定いっていし、せい一新いっしんし、王政おうせい復古ふっこまんくにまんはじ者をもっ本旨ほんしとすへし、奸をのぞきょけ、寬恕かんじょせい施行しこうし、あさまく諸侯しょこうひとしだい基本きほん注意ちゅういするをもって、方今ほうこん急務きゅうむたてまつそんこうまえつきよんはん上京じょうきょうつかまついち獻言けんげん次第しだいゆう容堂ようどう病症びょうしょういんくにつかまつこうなおまたとく熟慮じゅくりょつかまつこうに、容易よういたいにて、安危あんきけつ今日きょうゆう哉におもんばかつかまつこういんはやはやさいうえつかまつみぎ次第しだい一々いちいち乍不及警げんつかまつこう志願しがんすわこうしょいまいたり病症びょうしょうつかまつとくやめほろ賤のわたしどももって、そんおもむき乍恐言上ごんじょうためつかまつこう

いちてんした大政たいせい議定ぎていするぜんけん朝廷ちょうていにあり、わが すめらぎくに制度せいど法則ほうそく一切いっさいまん、必すきょう政所まんどころよりつへし、
一議いちぎ政所まんどころ上下じょうげわかち、議事ぎじかんうえおおやけきょうよりしも陪臣ばいしん庶民しょみんいたまで正明まさあき純良じゅんりょうせんきょすへし、
いち庠序がくこうぐんかいもうけ、長幼ちょうようじょわかち、がくじゅつわざげいきょうみちびけせさるへからす、
いち一切いっさいがいしげるとの規約きやくは、兵庫ひょうごみなとて、しんに 朝廷ちょうてい大臣だいじんもろはんあいし、みち明確めいかくしんじょうつづまゆいひ、まこと商法しょうほうくだりひ、信義しんぎそとはんせさるをもっあるじようとすへし、
いち陸軍りくぐん備は一大いちだい至要しようとす、ぐんきょくきょうあいだ築造ちくぞうし、朝廷ちょうてい守護しゅごおやへいとし、世界せかい類なき兵隊へいたいんことをようす、
いち中古ちゅうこせいけい武門ぶもんつ、ようかんみなと以後いごてんしたまがえ紜、くにいえ難、せいけんこずえうごく、自然しぜんいきおいなり、今日きょういたり、いにしえきゅうへいあらためあたらし、枝葉えだはせす、しょうじょうまらす、大根だいこんもとけんるらもっあるじとす、
いち朝廷ちょうてい制度せいど法則ほうそくしたがえむかしりつれいありと雖、方今ほうこん時勢じせいまいりごうし、あいだあるとうしかならさるものあらんよろしく其弊ふう一新いっしんあらためかわして、地球ちきゅううえどくだてするのくにほんつへし、
いち議事ぎじ大夫たいふ私心ししんり、おおやけひらたもとづき、術策じゅっさくもうけす、正直しょうじきむねとし、既往の是非ぜひ曲直きょくちょくといはす、一新いっしん更始こうし今後こんごことるをようす、言論げんろんおおく、こうすくな通弊つうへいへからす、

みぎじょうおそらくはとういま急務きゅうむ内外ないがい各般かくはん至要しようてゝもとむむへきものはゆうあいだじきたてまつそんこうしかのりしょくとうる者、成敗せいばい利鈍りどん顧、一心いっしんきょうちからまんわたぬきとおるいたこうようゆうこれわかあるしたがえ事件じけんり、べん難抗ろんあさまく諸侯しょこうかたみそうそうあるはゆうしかへからす、是則これのり容堂ようどう志願しがんすわこういん愚昧ぐまい不才ふさい顧、大意たいい建言けんげんつかまつこう、就ては乍恐とう次第しだいそらしく聽捨に相成あいなこうては、てんしたため遺憾いかんこうなおまたうえ寬仁ひろひと趣意しゅいもって、ほろ賤のわたしどもと雖も、おやとい おおせづけたてまつ懇願こんがんこう
                  まつひらた土佐とさ守内もりうち
 けいおうさんねんちょうしげるきゅうがつ
                     てらむらひだりぜん
                     後藤ごとうぞうろう
                     福岡ふくおかふじつぎ
                     神山かみやま佐多さたまもる

ここまでおそれたのは薩摩さつまとの調整ちょうせいときあいだられたからだ。きゅうがつ九日ここのか薩摩さつまから盟約めいやく破棄はきつてえられていたが、そのけんしろからだにははんたいはしないともうがあつたのがじゅうがつにちで、その直後ちょくごけんしろほどこした。いそがないとながきょへいしてしまうからりゅううま後藤ごとうしかげきし、つづけちょう土佐とさあいだ調整ちょうせいつたが、結局けっきょく土佐とさからはへいかつた。

じゅういちにち慶喜よしのぶ大政奉還たいせいほうかん諮問しもんのため京都きょうともろはん重臣じゅうしんじょうしろことにした。後藤ごとうもそれにばれた。

相談そうだんこうけんしろこれまんいちぎょうはれざればもとより必死ひっし覺悟かくご御下おしもしろこれは、援隊いちもっ大樹だいきまいりうち道路どうろ待受まちうけ、社稷のためてんほうじ、こと成否せいひろんなく、先生せんせい地下ちかめんかいつかまつこう
くさあんちゅう一切いっさいせいけいきょ朝廷ちょうていかえうんうん一句いっく他日たじつ幕府ばくふよりのしゃひょうちゅうまんいち遺漏いろうゆう歟、ある一句いっく前後ぜんご交錯こうさくし、せいけいかえするのくだりを阻障せしむるか、したがえうえけんは鐮倉やめ武門ぶもんせるだいけんかしむるじゅうことなれば、幕府ばくふてはいかにも難斷のなり。
これゆえなかろんてきただいちやめみみあり。まんいち先生せんせい一身いっしん失策しっさくためてんしただいかいしっせば、其罪てんようるべからず。はたしてしからばしょうおとうとまた長二ちょうじはんとくせめを免れず。あにてんあいだだてべけんや。
   まことこわまこと
 じゅうがつじゅうさんにち   りゅううま
後藤ごとう先生せんせい
左右さゆう

(けいおうさんねんじゅうがつじゅうさんにち 後藤ごとうぞうろうあて 坂本さかもと龍馬りょうましょじょう)

先生せんせい」といふのは後藤ごとうで、「もしけんしろれられなければ、援隊をひきいて路上ろじょう慶喜よしのぶつ」とまでいて後藤ごとう覺悟かくごもとむめた。たいする後藤ごとう返信へんしんで「をもつてたいおうするが、きょへいのためもどるかもしれない。援隊の行動こうどうまかせるがかるきょまきむやうに」とはないきあらりゅううまをいなした。

はなしょはいぼくまんしゃりょうす。文中ぶんちゅうせいけい朝廷ちょうていかえうんこれろんくだり者、ろん生還せいかんするのこころ御座ぎょざこう。倂今日きょう形勢けいせい後日ごじつきょへいことはか飄然ひょうぜんとしてしたしろ致哉もけいこうとくども多分たぶん以死廷論するの心事しんじわかぼく死後しご援隊いちうん々はきみ時機じきなげこれまかす。妄きょきょことやめしろ程度ていどせまれり、大意たいいしょ奉答ほうとう頓首とんしゅ
   じゅうがつじゅうさんにち   後藤ごとうもと
 坂本さかもとけん

(けいおうさんねんじゅうがつじゅうさんにち 坂本さかもと龍馬りょうまあて 後藤ごとうぞうろうしょじょう)

じゅうさんにち薩摩さつま小松こまつおびかたなひとしとも後藤ごとう慶喜よしのぶ直接ちょくせつ意見いけんべた。

諮問しもんおわりはり、後藤ごとうりゅううまにすぐさま手紙てがみ寄越よこした。

ただこんしたしろ今日きょうこれおもむき敢申じょうこう大樹だいきおおやけせいけん朝廷ちょうていすのごうれいしめせり。こと明日あした奏聞そうもん明後日みょうごにちもとて、よう政事せいじどうかりりにもうけ、上院じょういん下院かいん創業そうぎょうすることうんべり。千載せんざいいちぐうためてんしたまんせい大慶たいけいこれだんまで敢奉さるじょうこう々 頓首とんしゅ
   じゅうがつじゅうさんにち                後藤ごとうぞうろう
  ざいたにふとしろうようむくいけい

(けいおうさんねんじゅうがつじゅうさんにち 坂本さかもと龍馬りょうまあて 後藤ごとうぞうろうしょじょう)

大政奉還たいせいほうかんけんしろ成功せいこうらせだつた。後藤ごとうろんりゅううまも、はちさくおこりくさした長岡ながおかも、援隊たちがらんばかりによろこんだだらう。堂々どうどうたることだよ。浪士ろうし活動かつどうくに上士じょうし階級かいきゅうゆらさぶり、めぐじゅんつてはたぐんをもうごかしたのだ。

翌日よくじつ慶喜よしのぶ朝廷ちょうていたいして正式せいしき大政奉還たいせいほうかん上表じょうひょうぶん提出ていしゅつした。

大政奉還たいせいほうかん上表じょうひょうぶん

しん慶喜よしのぶ謹て すめらぎくに時運じうんあらためかわこうこうに、むかしし おうつなひもき、そういえけんり、ひらたこれらんせいけん武門ぶもんうつりてより、祖宗にいたり、さらに ちょうこうむり、ひゃくとし子孫しそんしょう受、しん其職をたてまつすと雖も、せいけいとううしなふことしょう今日きょうこれ形勢けいせいいたこうも、畢竟ひっきょううすき德之のりゆきしょ致、不堪ふかん慙懼こうきょうとうこんそとくにこれ交際こうさいもりなるにより、いよいよ あさけん一途いっとさるこう者、綱紀こうき難立こうあいだしたがえこれきゅう習をあらためめ、せいけんを 朝廷ちょうていたてまつひろてん下之したのおおやけつくし、 きよしだんおおせき、同心どうしんきょうちからともに すめらぎくに保護ほごつかまつこうとく者、必す海外まんくになみだてこうしん慶喜よしのぶくにいえところつきたてまつそんこう、乍去、なお見込みこみこれゆうこうとく者、申聞もうしきけむね諸侯しょこうそうたちおけこうこれだん謹て奏聞そうもんつかまつこう以上いじょう詢。
 じゅうがつじゅうよんにち                  慶喜よしのぶ


みことのり

祖宗以委任いにんあつよりゆきためざいこうとくども方今ほうこんうち形勢けいせい考察こうさつし、けんしろ旨趣ししゅゆうおもえしょくこうあいだ 聞食こう、尙てんしたとも同心どうしんつきちからいたし、 すめらぎくに維持いじし、奉安ほうあん 宸襟しんきん 御沙汰ごさたこうこと

上表じょうひょうぶんつたじょう攝政せっしょうりを拒否きょひしたがつたが、後藤ごとう小松こまつけてりをせまり、じゅうにち大政奉還たいせいほうかん朝廷ちょうていより聽許ちょうきょされた。

しん體制たいせい構築こうちく

大政奉還たいせいほうかんなりつたりゅううまはやはや行動こうどうはじめた。ここで雅樂ががくといふ者が登場とうじょうする。

イキナリあらわれてだれおもふだらうからいちおうせつあかりすると、文久ぶんきゅうさんねんはちがつじゅうはちにちせいへん京都きょうとを逐はれたさんじょうきょういえしんだ。 情勢じょうせい探索たんさくのため長崎ながさきおとずれたさいうわさ坂本さかもと龍馬りょうまかいつてみることにした。きゅうがつさんにちことだ。 りゅううまかいしたりゅううま援隊にすつかりんで、情勢じょうせい探索たんさくソツチノケでりゅううま行動こうどうともにすることにした。

朝廷ちょうてい職制しょくせい素養そようのあつたは、もろはん身分みぶんひく有望ゆうぼう人材じんざいるべき新政しんせいけん採用さいようするため、りゅううまに「しん政府せいふ職制しょくせいあん」を提示ていじしてせた。

せきしろ 一人ひとり
おおやけきょうちゅうもっと德望とくぼう知識ちしき兼備けんびひともっこれつ、
うえいちにん弼し、まんせきしろし、大政たいせいそうたっす、

内大臣ないだいじん 一人ひとり
おおやけきょう諸侯しょこうちゅう德望とくぼう知識ちしき兼備けんびひともっこれつ、
せきしろふくとす、

そう 若干じゃっかんひと
おやおう諸王しょおう諸侯しょこうなかもっと德望とくぼう知識ちしき兼備けんびひともっこれつ、
可否かひけんじがえし、大政たいせい議定ぎていじきそうし、かねしょかんちょうぶんてのひらす、

まいり 若干じゃっかんひと
おおやけきょう諸侯しょこう大夫たいふ庶人の才德さいとくある者をもっこれつ、
大政たいせいまいりあずかし、かねしょかん次官じかんぶんてのひらす、

かく役職やくしょくうちわけ以下いかとおりだ。

せきしろ
記名きめい(さんじょう示唆しさ)

内大臣ないだいじん
記名きめい(とくかわ慶喜よしのぶ示唆しさ)

そう
有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのうみやいえ
仁和寺にんなじみやよしみあきらおやおうみやいえ
山階やましなみやあきらおやおうみやいえ
島津しまつ忠義ちゅうぎ薩摩さつま
毛利もうりひろふう長州ちょうしゅう
松平まつだいらはるだけ越前えちぜん
山内やまうち容堂ようどう土佐とさ
鍋島なべしま閑叟(肥前ひぜん
とくかわ慶勝よしかつちょう
伊達だて宗城むねなりしま
正親町おおぎまちさんじょうあいおおやけきょう
中山なかやま忠能ただやすおおやけきょう
中御門なかみかどけいこれおおやけきょう

まいり
岩倉いわくらおおやけきょう
ひがし久世くぜつうおおやけきょう
大原おおはら重德しげのりおおやけきょう
長岡ながおか良之助よしのすけ肥後ひご
西にし吉之助よしのすけ薩摩さつま
小松こまつおびかたな薩摩さつま
大久保おおくぼいちぞう薩摩さつま
孝允たかよし長州ちょうしゅう
ひろさわひらたすけ長州ちょうしゅう
よこしょうくすのき肥後ひご
さんおかはちろう越前えちぜん
後藤ごとうぞうろう土佐とさ
福岡ふくおかふじつぎ土佐とさ
坂本さかもと龍馬りょうま土佐とさ

これをりゅううまよろこんで後藤ごとうらんし、岩倉いわくらきょうにもらんされたやうだ。はそのさんじょうきょう情勢じょうせい報告ほうこくするため太宰府だざいふもどつていつた。

じゅうよんにちりゅううま後藤ごとう代理人だいりにんとして越前えちぜんかい、廿にじゅう八日ようか越前えちぜんいた著して松平まつだいらはるだけおおやけ京都きょうとうま要請ようせいした。 越前えちぜん滯在たいざいさんおかはちろうといふ者とたいだんした。職制しょくせいあんまいりふくまれているうちの一人ひとりだ。さんおか以前いぜん越前えちぜんはん財政ざいせい再建さいけんこうがあつたが、文久ぶんきゅうさんねんきょへい上京じょうきょうけいせきはつて居中きょちゅうだつた。りゅううまさんおか新政しんせいけん財政ざいせい政策せいさくについてきたがつていたのだ。ひさしぶりにあつた二人ふたりさむなか炬燵こたつにゅうつて あさからばんまでさけいんんで延々のびのびかたりごうつたといふ。

越前えちぜんはつつたのが11月はじめで、五日いつか京都きょうともどつた。京都きょうともどつたりゅううまは、大政奉還たいせいほうかんなみどうゆらひろがるなかふねちゅうはちさくつづけあらたなはちさくおこりくさして、新政しんせいけんあおうつししんえがいてせた。これがいはゆる「しん政府せいふ綱領こうりょうはちさく」で、これはりゅううま直筆じきひつ原本げんぽんつう現存げんそんしている。これも同志どうし後藤ごとうらんされた。

第一義だいいちぎ
 てんした有名ゆうめい人材じんざい招致しょうちし、顧問こもんに備ふ
第二義だいにぎ
 ゆうざい諸侯しょこうせんよう朝廷ちょうてい官爵かんしゃくたまものひ、現今げんこん有名ゆうめいかんのぞ
だいさん
 そとくに交際こうさい議定ぎてい
だいよん
 りつれいせんし、しんきゅう大典たいてんていむ。りつれい既にじょうれは、諸侯しょこうはくみなほうして部下ぶかりつ
だい
 上下じょうげ政所まんどころ
だいろく
 陸軍りくぐんきょく
だいなな
 おやへい
だいはち
 すめらぎくに今日きょう金銀きんぎんものあたいそとくにひらたなら

みぎあずか二三にさんあかり議定ぎていし、諸侯しょこうかいめいつてうんうん。◯◯◯みずかめいあるじり、もっ朝廷ちょうていまつり、はじめてんしたまんみんおおやけぬのうんうんつよこうれいおおやけたがえふ者は、斷然だんぜん征討せいとうす。けんもん貴族きぞく貸借たいしゃくすることなし

けいおうちょうしげる十一月じゅういちがつ 坂本さかもとちょくやわら

◯◯◯とあるのはだれことげんつているのか議論ぎろんかれるところだが、これはおそらく「慶喜よしのぶおおやけ」であらう。「つよこうれいおおやけたがえふ者は、斷然だんぜん征討せいとうす」ともいている。とうどき大政奉還たいせいほうかんはんたいする者もおおかつたからこれにたいする威嚇いかく意味いみいたのかもらん。

だがりゅううまはあくまでも平和へいわうらしんからだせい移行いこうさせたかつたやうだ。さきさんおかとのたいだんでは「せんにはしない」とかたりつたといふ。また知人ちじんに「ちょうあいだ周旋しゅうせんしてきたが、うちせんけられないかもれない」とみをけていた。

そのかたわら、援隊の事業じぎょうにもはいつていた。この時分じぶんりゅううま援隊のしょううれせきする事柄ことがら陸奧みちのくまかせていたやうで、手紙てがみに「陸奧みちのくさえウンとえばヨイ」「陸奧みちのくだい先生せんせい」などといている。

おいしろてもとのしないかゞ相成あいなこうか、きりなくてはまたふの(不能ふのう)と相成あいな
世界せかいの咄し相成あいなさるか、しろみね(白峰しらみね駿馬しゅんめ)よりあずかさんろうより少々しょうしょううけたまはりさるこう
ころおもしろきしもおかしきしもに々山々やまやまにてこうかしこ

はいけい
しか先生せんせいころ上京じょうきょうのよし、諸事しょじつきちから察申じょうこう
いまあさあずかさんろうまいり、咄聞こうところ先生せんせい周旋しゅうせんにて長崎ながさきまいりこうよし、同人どうじんこともとふとしろう(高松たかまつふとしろう)がふねの引もつれより、わがとも案内あんないつうのせしょうかけこうひとにて、ことに援隊がいの者にもざいこれこう
先生せんせい一人ひとり引うけなればよろしくこうども、たいちゅうじん見付みつけ且、長崎ながさき取入とりいこうしきにてやしなえなふなど少々しょうしょう用心ようじんこれこうとくば、きん立行たちゆかざるのがか〃りこうそんこう
小野おの(高松たかまつふとしろう)なまらがいちじょうにか〃ることしょうおとうと多少たしょうろんゆうこう
さきうけたまわこうづけはやいちぴつさしあげこう
   十一月じゅういちがつななにち   謹言
 
   こうへいちょうなか
 よんじょうつう室町むろまちのぼ西側にしがわさわ宿やど
 陸奧みちのくみなもとろうよう   ざいたにふとしろう
   直披じきひ

あずかさんろうといふ取引とりひき相手あいて長崎ながさきくから面倒めんどうてくれといふ手紙てがみだが、これの追伸ついしんに「世界せかいの咄し」とある。あたらしい時代じだいはじまりに、一躍いちやく世界せかいにその事業じぎょうひろげてきたいとかんがえていたのだらう。世界せかい援隊つテエやつだ。いそがしいこのじょういが、まだやりいことは澤山たくさんあつただらう。えびえびす開發かいはつもさうだ。これからすべてがはじまらうとしていたのだ。

ちゅう 「しん政府せいふ綱領こうりょうはちさく」は後世こうせいふみいえけたかりしょうで、とうときなんとばれていたかは不明ふめい

近江おうみへん

十一月じゅういちがつじゅうにちりゅううま京都きょうと河原かわはらまち近江おうみといふ醤油じょうゆた。すぐちかくにある土佐とさはんやしきはいるつもりだつたが、「くにもと不都合ふつごうはんやしきれなかつた」といふ手紙てがみいている。赦免されはしたが、はんうち保守ほしゅてききりかこえがそれをゆるさなかつたのだらう。薩摩さつま吉井よしいみゆきは「ウチのはんやしきればいい」とげんつていたが、土佐とさたいするからだめんにしてかうとしなかつた。

午後ごごごろ中岡なかおかまきふとしろうおとずれてはなごうつていると、もと新選しんせんぐみ御陵ごりょうまもるといふ組織そしき分離ぶんりした伊東いとう甲子きのえねふとしろうといふおとこがやつてた。く「ねらえはれているからはんやしきにゅうつたかたい」とげんふ。りゅううまとくなにげんはず、中岡なかおかが「ご注意ちゅういかたじけない」とだけげんつた。

伊東いとうつた午後ごごはちごろ、「十津川とつかわ」とるものがやつてた。おうたいしたふじよしといふ者が階段かいだんうえがつてりゅううまつてえにかうとしたところ突然うしろからられた。物音ものおとりゅううまが「ほたえな!」といちした。十津川とつかわかずひと刺客しかくりゅううま中岡なかおか部屋へやんでりかかつた。りゅううまがくよこられ、うしろにあつたかたなるが今度こんど背中せなかからられた。さや刺客しかくかたなふせぐが、あたまげきけてたおれた。中岡なかおかおうせんしたが、刺客しかくなんけられてたおんだ。ようがすんだ刺客しかくとうはスグにつた。

刺客しかくつてからりゅううまがると行燈あんどんをもつてき、かたなつて「のうをやられた。もうぬ」とげんつて突つふくし、んだ。

いえひと通報つうほういて同志どうしいたるけつけたが、おそれだつた。ふじよしじゅうろくにちに、事件じけん證言しょうげんのこした中岡なかおかじゅうななにちぜっいのちした。げきのぼるした援隊土佐とさはんらは、新選しんせんぐみいろはまる事件じけんたいたたした紀州きしゅうはんあやしいとおもい、その新選しんせんぐみ紀州きしゅうはん襲擊しゅうげきする事件じけんこした。翌年よくねんになつてからも新選しんせんぐみあやしいといふのはへんはらず、こう捕縛ほばくされた近藤こんどういさむ土佐とさはんから「坂本さかもと龍馬りょうま暗殺あんさつ」をつみじょうとえはれて斬首ざんしゅされた。

だが新選しんせんぐみ犯人はんにんではかつた。明治めいじさんねん(1870ねん)がつつちのえたつやくとき函館はこだて捕縛ほばくされた今井いまいしんろうなる者が、近江おうみいちけんについて詳細しょうさい供述きょうじゅつをしたのだ。今井いまい京都きょうと見廻組みまわりぐみ所屬しょぞくしており、とう日見ひみまわりくみあずかあたま佐々木ささきたださんろうされ、近江おうみかつた。くだりはん佐々木ささき今井いまいほか渡邊わたなべよしふとしろう高橋たかはし安次やすじろうかつらはやすけ土肥どい仲藏なかぞう櫻井さくらいだいさんろうけいななにんで、すべまわりくみくみだ。

佐々木ささきごうれいもと近江おうみかい、渡邊わたなべ高橋たかはしかつらさんにんかいうえがつてりゅううま中岡なかおかつた。今井いまい土肥どい櫻井さくらい一緖いっしょしたちょうりをしていたが、だれ佐々木ささきゆびしめしたのかまではからないとげんつた。供述きょうじゅつけた刑部おさかべしょうは、とうときまわりくみ配下はいかいたもと京都きょうとまわりやく小笠原おがさわら彌八やはちろう調しらべたが、小笠原おがさわらは「まわりくみしつ佐々木ささきたださんろうゆび揮しており、自分じぶんらない」とげんつた。供述きょうじゅつみとめられたため、それ以上いじょう追及ついきゅうされなかつた。

おれもこのけんについてきゅう幕臣ばくしんはなしたことがあつたケド、そのはなしなかでは榎本えのもとあやしいとげんはれた。榎本えのもとげんつてもがまろう(武揚ぶよう)ぢヤあなく、づけ榎本えのもと對馬つしまもりといふ者だが。

結局けっきょくだれ佐々木ささきめいじたのか、ハツキリしたことからなかつた。ただ、佐々木ささきかいはん出身しゅっしんであることかいはん用人ようにん手代木てしろぎちょくみぎまもるもん佐々木ささきあにで、浪士ろうししままりをやつていたこと。そして近江おうみがちやうど京都きょうと守護しゅごしょくまわりくみとういきにあること。これらをふくめてかんがえれば、手代木てしろぎから佐々木ささきいのちしもつたとかんがえるのが妥とうだらう。手代木てしろぎだれからめいじられたか。それはまうげんふまでもなからう。

りゅううま死後しご西にしひとし王政おうせい復古ふっこ時勢じせいきゅうへんした。慶喜よしのぶ君側くんそくの奸をのぞくとげんつて、鳥羽とば伏見ふしみでヘマをやつてつてた。それで正月しょうがつなんにちであつたか、きゅうしがて「うえようがおりになつた。安房あわもりべといふおおせだ」とのことだ。海軍きょくくだりつてみると、慶喜よしのぶおおやけの者もあおさいのやうですくなしも勇氣ゆうきはない。おれはひどくののしつたが、かくまでじゃくつているかとなみだのこぼれるほど嘆息したよ。

こうしろつたら慶喜よしのぶきつくから陸軍りくぐんそうたっになつたヨ。それでいちおきな一緖いっしょかまえていたら、たして西にしてきおつたワイ官軍かんぐん西にしなければはなしはとてもまといまらなかつただらうヨ。手紙てがみ一本いっぽんしば田町たまち薩摩さつま屋敷やしきまでのそのそと談判だんぱんたヨ。いよいよ談判だんぱんとなると、西にしはおれのいふこといちいち信用しんようし、そのあいだいちてん疑念ぎねんはさまなかつた。「いろいろむつかしい議論ぎろんりませうが、わたし一身いっしんにかけてお引受ひきうけします」西にしのこの一言ひとことこうひゃくまんせいれいも、その生命せいめいざいさんたもつことが、またとくかわもその滅亡めつぼうを免れたのだ。

ナアニ、こうわたしのときは、スツカ準備じゅんびしてあつたのサ。イヤだとげんやあ、仕方しかたがない。あつちが辜のみんころまえに、コチラからやきちのつもりサ。あと西にしはなして「あのときは、ひどいにあはせてやらうとおもえつてた」とげんつたら、西にしめ「アハゝ、そのしょくはんつもりでした」とげんつたよ。

維新いしん殘夢ざんむ

りゅううまのこした援隊だが、そのけいおうよんねん(1868ねん)うるうよんがつ土佐とさはんいのち解散かいさんせられている。おりゅう三吉みよしまきくらもとにしばらくせていた。りゅううまはもし自分じぶんになにかあつたら三吉みよし保護ほごしてもらうやうによりゆきんでいたらしい。その坂本さかもといえあづけられたが、あまりながきょつづけけることができなかつた。その各地かくちをフラフラして、西にしやおれのところにもたことがあつた。明治めいじはちねん(1875ねん)にだいみちげいひと結婚けっこんして細々こまごまらした。

しん政府せいふ職制しょくせいあん」「しん政府せいふ綱領こうりょうはちさく」がどうしたか?アーあれはしん政府せいふいだヨ。王政おうせい復古ふっこときそうたっ議定ぎていまいりあずかはほぼ「しん政府せいふ職制しょくせいあん」とおなじだからネー。多分たぶん岩倉いわくらきょうあたりりが採用さいようしたんだらうよ。「しん政府せいふ綱領こうりょうはちさく」は、翌年よくねんの「五箇ごかじょう誓文せいもん」のはらかたになつた。

維新いしんのちりゅううまのことはわすれられていつたが、明治めいじじゅうろくねん(1883ねん)、高知こうち新聞しんぶんりゅううま主人公しゅじんこうにしたしょうせつあせ千里せんりこま」が連載れんさいされ、だい層評ばんになつた。これによつて坂本さかもと龍馬りょうまといふおとこがかつてだい活躍かつやくしたことがられるやうになつたのサ。それから後世こうせいふみいえ作家さっかによつてひろ人口じんこうなますあぶされるやうになつたことはげんふまでもあるマイ。

サテ、おれのはなしはこれでおしまいだ。なにざんしはあるカエ?

坂本さかもと龍馬りょうま人氣にんきひそか?さうさナー。こころざしなかばで斃れたがゆえのうせいかんじさせるのかもらん。「もしアイツきていたら」つておもはんカエ?板垣いたがきは「坂本さかもときていたらだいざいかい岩崎いわさき彌太やたろうのやうなごういえになつていただらう」なんてげんふけどネー。しかしよくまあこれだけたくさん出版しゅっぱんされるモンだ。それにべておれのほんなんかほんとうしょうネー。

マアしょくんで御覽ごらんなさい。もしかしたら、自分じぶんかんがえていたりゅううまぞうちがあらたな側面そくめんえてくるかもれない。ことによつたらまぼろしめっするかもれない。ひよつとしたらますまするかもれない。毀譽きよ貶、過大かだいひょうあたい過小かしょうひょうあたいことせつせつ、いろいろあるだらう。

だがりゅううま、あいつは人物じんぶつだつたよ。

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坂本さかもと龍馬りょうま

269 ななしのよっしん
2023/09/04(月)げつ 14:32:24 ID: wDBrkyHkCm
一介いっかい商人しょうにんでありながら私兵しへいち、政治せいじどころか国家こっか体制たいせいにもくちしてくるおとこ
幕府ばくふがわどころかちょうがわしかるべきときしたかっただろうな
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270 ななしのよっしん
2023/09/04(月)げつ 20:08:36 ID: sF+180JHmV
>>269
こういう身分みぶん制度せいど維持いじかかわ因循いんじゅん姑息こそくあるじしゃ打破だはしたいというてんでは、
なが土肥どいばかりか幕府ばくふいちはしおなじだったのではないかな
そもそもりゅううまはれっきとした武士ぶしだし

>>265
個人こじん出来できることはせいぜい、時代じだい気分きぶんきをすこえるぐらいだろう
だがそれによって経済けいざい情勢じょうせい地政学ちせいがく歴史れきし民族みんぞく宗教しゅうきょうすべてのきがわってくる
あるしゅバタフライ効果こうかだな。たぶんりゅううま人気にんき背景はいけいにあるのはそういうことだろう
もっとより明治めいじ維新いしんったのではないかという願望がんぼう
それが真実しんじつかどうかはよしもないが、よりいありかたゆび気持きもちそのものはおれなら否定ひていしない
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271 ななしのよっしん
2023/11/28(火) 02:28:44 ID: 3Lidy33UQF
>>264
司馬しば前提ぜんていだがいま小山こやまゆうの「お〜い!りゅううま」のかげひびききょうそう
漫画まんがとしてはめんしろい、というかめんしろいからこそ歴史れきしてき事実じじつ混同こんどうされがち
山内やまうち容堂ようどうとかこんなやつリアルにおらんわってなTHE悪役あくやくだけど、めんしろさで納得なっとくさせられる
小山こやま作品さくひんは(あずみとか作品さくひんでも)けんちからものはわかりやすい悪役あくやくおとしめられがちだし
>>267
客観きゃっかんてきってか現代げんだい価値かちかんやりてはめれば、では
その理屈りくつだと世界せかいなか英雄えいゆう大量たいりょう殺人さつじんもの、キリストやお釈迦しゃかさんはカルト教祖きょうそじゃん
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272 ななしのよっしん
2024/01/10(水)すい 18:01:47 ID: 6tAepoddAY
りゅううまげのせいで不当ふとうかれてる土佐とさはん関係かんけいしゃ同情どうじょうするわ。
のうちからある郷士ごうし上士じょうしみにたてほかはんべて柔軟じゅうなんしろさつ郷士ごうし制度せいど時代遅じだいおくれでほかはんべて虐待ぎゃくたいされている可哀想かわいそう郷士ごうしたちとかさ。
郷士ごうしなんて足軽あしがるなみはんおおく、郷士ごうしはんせいにぎるなんてではまずない。
所詮しょせん、どこのはんでもよくあるけんちから闘争とうそうぎないのに、残虐ざんぎゃく差別さべつあるじしゃはんにされたのは同情どうじょうしてしまう。
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273 ななしのよっしん
2024/01/15(月)げつ 10:44:26 ID: NSpLn3M2na
はやしたから評価ひょうかたかくなった代表だいひょうれい
あのままきてたらここまでなっていなかった
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274 ななしのよっしん
2024/01/29(月)げつ 18:35:46 ID: sF+180JHmV
歴史れきし英雄えいゆう伝説でんせつ美化びかするな、というのはまったくそのとおりなのだけど同時どうじ統治とうち正当せいとうせい英雄えいゆうもとむめる
日本にっぽん民主みんしゅ主義しゅぎ米国べいこく占領せんりょうぐんけだ」という全体ぜんたい主義しゅぎもの極論きょくろん反論はんろんして
戦前せんぜんから日本にっぽんには民主みんしゅ主義しゅぎ伝統でんとうがある」とあるじちょうするところまではおおむねの民主みんしゅ主義しゅぎもの共通きょうつうする

ただ「じゃあだれがそんなものをつくった?そんな英雄えいゆう実在じつざいするのか」とわれると諸説しょせつみだれる
みだれるけど、やはりすご先人せんじん英雄えいゆうつくったというはなしこのまれるわけだ。偶然ぐうぜん産物さんぶつだはこのまれない
そこでふねちゅうはちさく坂本さかもと龍馬りょうまだ、というこたかた非常ひじょう戦後せんご日本にっぽんくにじょうう。
戦争せんそうよりも平和へいわてき解決かいけつこのみ、海外かいがいからの知識ちしき受入うけいれに貪欲どんよくおとこかれ民主みんしゅ主義しゅぎちちなら素晴すばらしい
まあ、はやにしたから板垣いたがき退助たいすけ大隈おおくま重信しげのぶ福沢ふくさわ諭吉ゆきちよりも有利ゆうり位置いちにいることは否定ひていしないが
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275 ななしのよっしん
2024/02/04(日)にち 11:43:49 ID: +I8l0w/N29
アンチころされたのは可哀想かわいそう
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276 ななしのよっしん
2024/02/07(水)すい 15:06:18 ID: jbsAftH3+E
>まあ、はやにしたから板垣いたがき退助たいすけ大隈おおくま重信しげのぶ福沢ふくさわ諭吉ゆきちよりも有利ゆうり位置いちにいることは否定ひていしないが

民主みんしゅ主義しゅぎとか平和へいわてき解決かいけつとかさけひとって、官僚かんりょうとか軍人ぐんじんきらいなせいか民権みんけんとか学者がくしゃとかの政治せいじこのむよね
まあぶたけてみれば、
板垣いたがきは、お友達ともだち人事じんじ民権みんけんつぶしによる政争せいそう
だいくまは、毎回まいかい軍事ぐんじ行動こうどう強硬きょうこう外交がいこう
福澤ふくさわは、クーデター支援しえんだつろん
と、平和へいわ民主みんしゅ主義しゅぎだとさけんでるにんおこるようなことをみんなやってるんだけどね

それを本当ほんとうらないほど歴史れきし無知むちなのか、民主みんしゅ主義しゅぎ平和へいわてき解決かいけついながらクーデター強硬きょうこう外交がいこう私情しじょうによる政争せいそうはOKなのか、ただの官僚かんりょう軍人ぐんじんぎらいによるぎゃくなのかは、ひとによるとおもうけど
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277 ななしのよっしん
2024/02/07(水)すい 16:43:05 ID: sF+180JHmV
自由じゆう民権みんけん運動うんどう軍国ぐんこく主義しゅぎ関係かんけいはまあってるひとってるからね
はやにしたりゅううまはそこも有利ゆうりになった
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278 ななしのよっしん
2024/02/10(土) 22:03:22 ID: +I8l0w/N29
りゅううまんではいない

っちゃニート生活せいかつをしながらなが余生よせいごしていただけ
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