開祖は河内源氏の棟梁の源義家(八幡太郎)の三男(諸説あり)源義国。義国は下野国足利荘(栃木県足利市)を本拠としていたが、足利荘は義国の次子である足利義康が継いで足利氏を名乗り、異母兄の新田義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏重代の拠点である摂関家領上野国八幡荘を継承し、また義国と義重は渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡(現在の群馬県太田市周辺)を開発する。
保元2年(1157年)平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘された。本家は鳥羽院御願寺の金剛心院、領家は藤原氏北家花山院流となる。[注釈 2]荘官[注釈 3]に任ぜられた義重は新田氏を称し、源義国以来の八幡荘と新田荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立するとともに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固めた。
義重は周囲の藤姓足利氏や秩父党、源義賢と対立するが、甥である足利義兼や源義朝と連携し、それらに対抗する。特に義朝の長子義平に娘を娶らせるなど積極的に清和源氏嫡宗家と関係を強めている。しかし、平治の乱で義朝が没落すると平家に接近している。ちなみに、新田荘領家である藤原忠雅も平清盛に近づき太政大臣にまで昇進した公卿である。また、義重ら新田氏一族が歴代の女院の判官代や蔵人として近侍していたことも知られている。これに対して、幼くして父親を失った甥の足利義兼は八条院の蔵人となった。八条院は当時の女院の中では平氏政権と対立関係にあり、それが後の反平氏の動きに対する新田氏・足利氏の行動の差異に現れたとも考えられる。
1180年(治承4年)、伊豆に流罪となっていた義朝の子源頼朝、木曽では義賢の子源義仲らが京都の平氏政権に対して挙兵し、治承・寿永の乱となる。平家に属し、京に滞在していた新田義重は、頼朝討伐を命ぜられ東国に下った。義重は上野国八幡荘寺尾城に入り兵を集めながら事態を静観し、頼朝追討に加わらなかった。その後、木曽勢は上野国へ進出し、下野国足利荘を本拠とする平家方の藤原姓足利氏の足利俊綱と対立するが義重は中立を保つ。木曽氏や佐竹氏と共に関東の源氏の一大勢力だった新田氏は義重の弟の足利義康が早世してしまったため甥の足利義兼を庇護し周辺の敵対勢力から守った。
頼朝が鎌倉を本拠にすると一族の中には、甥・足利義兼や、子である山名義範、孫の里見義成など、参じて挙兵に加わるものもあったが、義重自身は参陣の要請を無視し、静観していた。頼朝勢が関東地方を制圧すると、12月に義重は鎌倉へ参じる。その参陣の遅さから、頼朝の勘気を被ったと伝えられている(『吾妻鏡』)。
1221年の承久の乱にも惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。これらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。また、早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。その後も新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏・額戸氏・岩松氏などの創立による分割相続や、所領の沽却により弱体化する。特に足利氏を父系とする岩松氏の創立により、本宗家の所領は小さいものとなった。新田尼による家政の結果、父系を足利氏とする岩松時兼の相続分は宗家を上回った。さらに細谷・荒井・大館・堀口・脇屋らも分立し、弱体化は進む。
4代の新田政義は、京都大番役での上京中に幕府に無断で出家した罪で、御家人役を剥奪される。新田氏惣領職は没収され、一族の実力者である世良田頼氏に与えられ、また世良田氏と共に岩松氏も分担する。この時、新田氏本宗家の所領は得宗家にも渡り、得宗勢力被官が荘内に進出する。
その後、頼氏が北条氏内の得宗家と反得宗家の争いである二月騒動に連座して佐渡島に流罪となると、岩松経兼が鎌倉に出仕した。のちに惣領職は新田氏本宗家に復するものの、幕府における新田氏本宗家の地位は非常に低いものとなり、以後は無位無官に甘んずることとなる。そのため新田氏本宗家は、鎌倉幕府の重鎮となっていた足利惣領家(北条家の有力庶家並みの家格となっていた)の庇護を受ける。2代の新田義兼は娘を足利義純に嫁がせ、4代の新田政義は足利義氏の娘を妻として5代新田政氏を儲け、政氏の娘は足利家時に嫁いでいる。
政義失脚以降、新田氏本宗家の歴代当主は足利氏惣領の通字であった「氏」を名前に入れた。新田氏本宗家は足利氏惣領を烏帽子親として元服し、「氏」の偏諱を与えられたことで、擬制的親子関係という庇護下に入ったからと考えられている。足利氏惣領で「氏」を用いなかった足利高義の時代に元服したと見られる8代新田義貞の名に「氏」ではなく「義」の字が入っていることが、この事実を裏付けている。後に新田義貞が討幕の兵を挙げた時のことを「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」(『神皇正統記』)・「尊氏の末の一族新田小四郎義貞といふ物」(『増鏡』)と記しているのは、実は婚姻関係と烏帽子親を通じた擬制的親子関係の結果、足利氏庶流と化していた新田氏本宗家の実態を的確に表したものであったといえる(この傾向は里見氏や世良田氏などの新田氏一族にもみられる)。ただしこうした見解に対して、鎌倉期――新田義重の段階で既に足利氏一門として扱われており、新田氏は成立当初より一貫して足利氏を宗家としており、『太平記』以外の同時代史料はその点ではほぼ一致している。「新田氏流」「新田氏一門」という概念自体が『太平記』の影響を受けて後世に創作された概念に過ぎない、という批判も出されている[9][10]。
その一方で、義貞(里見家家譜によると里見家から新田惣領家への養子)の時代には長楽寺再建事業を通じて、同寺の門前町で当時の地域を代表する経済都市であった世良田宿を本宗家が掌握し、後の本宗家主導の討幕運動参加の基礎が築かれることになった。
鎌倉時代後期には、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、源義国流の同族にして北条氏と重代の姻戚の最有力御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の足利義詮)を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させる。
当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、後に政権内部の政争により、義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って反足利氏派・反武家派の首班として尊氏(高氏改め)と対立した。新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った湊川の戦いで敗戦。比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。しかし越前国金ヶ崎城で足利方の斯波高経・高師泰らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死する。
義貞の戦死後、三男新田義宗が家督を継いだ。足利家の内乱である観応の擾乱に乗じて異母兄の新田義興と共に各地を転戦、一時は義興が鎌倉の奪還を果たすが巻き返され、足利基氏・畠山国清らによって武蔵国矢口渡で謀殺されると劣勢は増すばかりとなった。義詮、基氏が相次いで没すると、義宗は越後から脇屋義治とともに挙兵するが、上野国沼田で関東管領上杉憲顕配下の軍に敗れて戦死し、新田氏本宗家は事実上滅亡した。その後も、義宗の子とする新田貞方とその子貞邦や、義宗の子とも伝わる脇屋義則などが抵抗を続けるが、鎌倉公方の軍に破れ新田氏の抵抗は収束していった。
一方、北朝方についた新田一族の岩松氏に上野国の新田荘が与えられ、義宗の落胤を称した岩松満純[注釈 4]が入嗣する。
室町幕府には支族である大館氏・大井田氏などが出仕し幕府高官となった。また、三河守護には大島義高が補任された[12]。また、越後に残ったものは次第に守護上杉家の家臣に組み込まれていった。
山名氏は山陰地方の国々を守護領国化し京都においても侍所の長官に任じられる四家の内の一つとして繁栄した。関東においては古河公方を支える有力な勢力として安房の里見氏が勢力を広げ下総南部も支配下に置いた。
戦国時代になると新田宗家を継承した岩松氏は重臣横瀬氏に下克上される。横瀬氏は名字を由良氏と改め、新田義宗の子・横瀬貞氏[13][注釈 5]の子孫とされているが、これといった確証がなく信憑性は薄い(横瀬氏-由良氏は源氏ではなく小野氏であるとするのが通説である)。
岩松氏は新田荘北東部の桐生に退隠していたが、後北条氏に代わって関東に入部した徳川家康に接見する。伝来の新田氏系図を進上するよう求められたがこれを拒否した。
『鑁阿寺新田足利両氏系図』によると、義宗には宗親・親季という子があったといい、宗親の子孫は新田岩松氏とは別の系統として子孫を残したという。また親季は一族の世良田政義の養子となり、その子の有親と孫・親氏が三河に流れ松平氏の祖となったという。『筑後佐田新田系図』では、義顕には義一(よしかず)という子があったという。
一方、貞方の庶子貞政は武蔵国稲毛に逃れたという。この系統は堀江氏と称し、後北条氏に仕え、後に足柄方面に移住し、神奈川県伊勢原市に現存しているという。
また、義宗の子とも伝わる新田(脇屋)義則は、母方の世良田氏も継承したといい、その子・祐義は真船村に逃れたという。この子孫は世良田氏を称したのち江戸時代に入って真船氏を称したという。
江戸時代に岩松氏は上野国新田郡田嶋郷内120石の禄を与えられ交代寄合として存続した。また、由良氏も常陸国牛久に5400石の領地を与えられ、数流に分かれた由良氏の中の嫡流家は1000石の高家となった。
幕末維新期の岩松家の当主俊純は「新田の殿様」と呼ばれる交代寄合だったが、わずか120石の家禄のために生活には苦労し、糊口を稼ぐためにネズミ除けの猫の絵を描くなどしていたという。しかし尊皇派と佐幕派の対立が深まる時世の中で尊皇の志を強めた。慶応3年(1867年)には新田義貞の勤王の志を継いで尊皇討幕を目指す新田勤王党を結成してその盟主となり、慶応4年(1868年)には征東軍の東山道総督岩倉具定軍に従軍。この際に新田官軍と改名し、戊辰戦争での旧幕府軍との戦闘で戦功をあげ、朝廷から所領を安堵された。
一方同時期の由良家の当主貞靖は旧幕時代に奥高家となり、従五位下侍従信濃守に叙任されていたが、明治維新に際して朝廷に早期帰順し、こちらも本領を安堵されている。
明治維新後、岩松家も由良家も朝臣に転じ、旧交代寄合・旧高家として中大夫席に列し、明治2年(1869年)12月に中大夫席以下が廃されると士族に列した。尊皇の風潮の中、由良家は明治元年(1868年)7月2日、新田義貞戦死日に合わせて新田に改姓し、岩松家の方も同時期に新田に改姓している。
明治15年(1882年)には明治天皇より皇室の忠臣である新田義貞に対して正一位が追贈されている[20]。
新田義貞嫡流をめぐる論争が岩松新田家と由良新田家の間にあったが[21]、三上参次などの歴史学者から由良氏の出自に関して疑問が出されるなどし、明治16年(1883年)7月4日に至り、岩松新田家の俊純が義貞の正統と認められて華族に列し、明治17年(1884年)7月8日、華族令の施行で華族が五爵制になったのに伴い男爵家に列せられた。
由良新田家はその後も叙爵運動を継続したが、結局不許可に終わっている。大正時代には新田義貞一族で鎌倉幕府の打倒に功があった江田行義の子孫と称する群馬県在住毛呂由太郎が叙爵運動をやっているが、不許可に終わっている。
俊純の子で爵位を継承した新田忠純男爵は外務省に勤務した後貴族院の男爵議員に4回当選した。新田男爵家の邸宅は東京府北多摩郡調布町にあった。