誤殺された時章が持っていた九州の筑後・大隅・肥後の守護職は安達泰盛・大友頼泰に移った。蒙古襲来が現実化すれば、九州で現地御家人の指揮を執る立場となって鎌倉での影響力を強くする可能性のあった名越家の排除によって、時宗による九州異国警固態勢が強化される結果となった。また京においては、時輔・前将軍宗尊親王の名を借りた反得宗の動きを封殺し、反抗勢力を一掃した事で、得宗独裁体制が強化された。
積極的にこの討伐を指揮したのは時宗であり、時章を誤殺した討手5人は御家人ではなく、得宗被官(御内人)であった。寄合衆のメンバーで時宗を支える安達泰盛・北条実時の動向は不明であるが、川添昭二は、 泰盛は事件直後に二月騒動の犠牲者慰霊のための町石を高野山に造立しており、実時の子北条顕時は、後に二月騒動について「名越兄弟は無実の罪で誅された」と記しており、この事件を必ずしも支持してはいなかったと見ている[1]。一方、福島金治は、泰盛が犠牲者供養文に「一代の彰功」と記している事から、二月騒動を正当化していると見ている[2]。
時宗と共に討伐の主体となる立場にあった政村の意向は不明だが、筧雅博は、連署政村の名の下に出された「今後、御勘当を蒙った者に対し、仰せを受けた追討使が向かう以前に、勝手に馳せ向かう人々は重科に処せられる。この旨をあまねく御家人達に周知せしめられたい」という指示が執権(侍所別当)の時宗に対して下されている事から、時宗が家人たちに支えられて下した決断に、北条一門の長老政村や外戚の泰盛らは一様に不安感を持ち、ことさら将軍家(鎌倉殿)の「仰せ」をかかげて戒めようとしたと見ている[3]。
村井章介は、事件のなりゆきを「名分のない殺戮に批判が巻き起こり、慌てて身内(御内人)を犠牲にして取り繕った」と見ている。また、時宗は一門内部の粛清によって政敵を葬った一方、政村、実時、弟宗政らの死後は一門内から支えとなる新たな支持者を得る事ができず、元寇の繁忙な時期にも孤独な権力の座にあって政務に追われ、心身をすり減らしたと指摘している[4]。
網野善彦は、「二月騒動は異国警固の人事問題の幕閣不一致により、御内人の主導で起こった。それが時章誅殺によって解決した後、事態を逆転させて御内人に打撃をあたえつつ、守護職を自身の支持者である有力御家人に配して幕府中枢の実権を一段と強化したのは安達泰盛であり、その結果御内人との対立を深めた」とする[5]。
細川重男は、二月騒動は時宗の独裁政権の確立をもたらした、これによって、時宗は自身が非情な指導者であることを人々に演出した、と指摘する。武家政権を構成する要素の一つである、「恐怖」と「強制力」が発露された事件であると、細川は指摘する[6]。
- ^ 川添『北条時宗』吉川弘文館、2001年
- ^ 福島『安達泰盛と鎌倉幕府 - 霜月騒動とその周辺』有隣新書、2006年
- ^ 筧『蒙古襲来と徳政令』講談社文庫、2009年(2001年刊行)
- ^ 村井『北条時宗と蒙古襲来』NHK出版、2000年
- ^ 網野『蒙古襲来』小学館文庫、2001年(1974年刊行)
- ^ 細川『北条氏と鎌倉幕府』講談社選書メチエ・136頁、2011年