(Translated by https://www.hiragana.jp/)
二月騒動 - Wikipedia

がつ騒動そうどう(にがつそうどう)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきぶんひさし9ねん1272ねん)2がつこうむ襲来しゅうらい危機ききむかえていた鎌倉かまくらきょうこった北条ほうじょう一門いちもん内紛ないふん鎌倉かまくら幕府ばくふ8だい執権しっけん北条ほうじょう時宗じしゅういのちにより、謀反むほんくわだてたとして鎌倉かまくら名越なごしりゅう北条ほうじょう名越なごしあきらきょう兄弟きょうだいきょうではろく探題たんだい南方なんぽう時宗じしゅう異母いぼけい北条ほうじょうがそれぞれ討伐とうばつされた。

北条ほうじょう嫡流ちゃくりゅうあらそ名越なごしりゅう異母いぼけい輔を討伐とうばつしたことで、執権しっけん時宗じしゅうたいする反抗はんこう勢力せいりょく一掃いっそうされ、とくむねいえ権力けんりょく強化きょうかされた。

背景はいけい

編集へんしゅう

ぶんひさし5ねん1268ねん正月しょうがつこううらら使節しせつ大宰府だざいふ来訪らいほうこうむもと)への服属ふくぞくもとめる内容ないよう国書こくしょ鎌倉かまくらおくられる。3月、こうむ襲来しゅうらい危機ききまえにして鎌倉かまくら幕府ばくふにおける権力けんりょく一元化いちげんかはかるため、北条ほうじょう嫡流ちゃくりゅうであるとくむねいえ北条ほうじょう時宗じしゅうが18さいで8だい執権しっけん就任しゅうにんした。時宗じしゅうの庶兄である北条ほうじょう輔は、ぶんなが元年がんねん1264ねん)に時宗じしゅうが14さい連署れんしょ就任しゅうにんしたさいきょうろく探題たんだい南方なんぽう出向しゅっこうしていた。南方なんぽう上位じょういである北方ほっぽうは、とくむね支援しえんしゃ北条ほうじょうしげるであったが、ぶんなが7ねん1270ねん)に死去しきょし、後任こうにんがないままろく探題たんだいとき輔の影響えいきょうつよくしていた。

一方いっぽう名越なごや北条ほうじょう一門いちもんでも九州きゅうしゅうおおくの守護しゅごしょくち、嫡流ちゃくりゅうとく宗家そうけ勢力せいりょくがあった。時宗じしゅうちちで5だい執権しっけん北条ほうじょうよりゆき時代じだいに、長兄ちょうけい名越なごやひかりときらがみや騒動そうどう処罰しょばつされており、おとうと名越なごしあきらきょうとく宗家そうけ恭順きょうじゅんして連座れんざのがれたが、きょうぶんなが3ねん1266ねん)にきょう送還そうかんされたぜん将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのう側近そっきんであり、依然いぜんとしてはんとくむね傾向けいこうがあった。

事件じけん経過けいか

編集へんしゅう

時宗じしゅう執権しっけん就任しゅうにんから4ねんぶんひさし9ねん1272ねん)2がつ7にち鎌倉かまくら騒動そうどうがあり、2がつ11にち名越なごしあきらきょう兄弟きょうだいとくむね被官ひかんである四方田よもだつな御内おんうちじんによって誅殺ちゅうさつされ、ぜん将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのう側近そっきんであった中御門なかみかど実隆さねたかきんじられた。4にち2がつ15にちきょうにおいて前年ぜんねん12がつろく探題たんだい北方ほっぽう就任しゅうにんしていた北条ほうじょう義宗よしむねが、鎌倉かまくらからの早馬はやうまけ、どう南方なんぽう北条ほうじょう討伐とうばつした。おおくの人々ひとびと戦闘せんとうに、事件じけん連座れんざしてろく探題たんだいにあった安達あだち泰盛やすもりの庶兄安達あだちよりゆきけい所領しょりょう没収ぼっしゅうされた。また事件じけんとのかかわりは明確めいかくにはかっていないが、同年どうねん渋川しぶかわ義春よしはる世良田せらだよりゆき佐渡さどこく流罪るざいとなり、きょうにおいてぜん将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのう出家しゅっけした。ただし宗尊親王むねかたしんのう出家しゅっけどう時期じきちちこう嵯峨さが法皇ほうおう死去しきょしたためともされる。また北条ほうじょう輔は逐電ちくでんしたとのせつもある。

あいだもなく、名越なごしあきらしんはなく誤殺ごさつであったとされ、その結果けっか討手うってである御内おんうちじん5にん責任せきにんわれて9がつ2にち斬首ざんしゅされた。ときしょうおおやけ所領しょりょう安堵あんどされた。きょうへの討手うってにはばちしょうもなく、人々ひとびとわらいものになったという。

この事件じけんかんしてされた2がつ11にちづけつう関東かんとう御教書みぎょうしょによると、討伐とうばつ主体しゅたい執権しっけん時宗じしゅう連署れんしょ北条ほうじょうまさしむらであり、名越なごや兄弟きょうだい幕命ばくめいとしてまえもって準備じゅんびされたうえで、「謀反むほん」として討伐とうばつされている。

誤殺ごさつされたときしょうっていた九州きゅうしゅう筑後ちくご大隅おおすみ肥後ひご守護しゅごしょく安達あだち泰盛やすもり大友おおともよりゆきやすしうつった。こうむ襲来しゅうらい現実げんじつすれば、九州きゅうしゅう現地げんち御家人ごけにん指揮しき立場たちばとなって鎌倉かまくらでの影響えいきょうりょくつよくする可能かのうせいのあった名越なごし排除はいじょによって、時宗じしゅうによる九州きゅうしゅう異国いこく警固けいご態勢たいせい強化きょうかされる結果けっかとなった。またきょうにおいては、とき輔・ぜん将軍しょうぐん宗尊親王むねかたしんのうりたはんとくむねうごきを封殺ふうさつし、反抗はんこう勢力せいりょく一掃いっそうしたことで、とくむね独裁どくさい体制たいせい強化きょうかされた。

事件じけん真相しんそう

編集へんしゅう

積極せっきょくてきにこの討伐とうばつ指揮しきしたのは時宗じしゅうであり、ときしょう誤殺ごさつした討手うって5にん御家人ごけにんではなく、とくむね被官ひかん御内おんうちじん)であった。寄合よりあいしゅうのメンバーで時宗じしゅうささえる安達あだち泰盛やすもり北条ほうじょうみのるとき動向どうこう不明ふめいであるが、川添かわぞえ昭二しょうじは、 泰盛やすもり事件じけん直後ちょくごがつ騒動そうどう犠牲ぎせいしゃ慰霊いれいのためのまちせき高野山こうのやま造立ぞうりゅうしており、北条ほうじょうあらわときは、のちがつ騒動そうどうについて「名越なごや兄弟きょうだい無実むじつつみで誅された」としるしており、この事件じけんかならずしも支持しじしてはいなかったとている[1]一方いっぽう福島ふくしま金治きんじは、泰盛やすもり犠牲ぎせいしゃ供養くようぶんに「いちだいあきらこう」としるしていることから、がつ騒動そうどう正当せいとうしているとている[2]

時宗じしゅうとも討伐とうばつ主体しゅたいとなる立場たちばにあったせいむら意向いこう不明ふめいだが、かけい雅博まさひろは、連署れんしょせいむらしたされた「今後こんご勘当かんどうこうむったものたいし、おおせをけた追討ついとう使かう以前いぜんに、勝手かってかう人々ひとびと重科じゅうかしょせられる。このむねをあまねく御家人ごけにんたち周知しゅうちせしめられたい」という指示しじ執権しっけんさむらいしょ別当べっとう)の時宗じしゅうたいしてくだされていることから、時宗じしゅう家人かじんたちにささえられてくだした決断けつだんに、北条ほうじょう一門いちもん長老ちょうろうせいむら外戚がいせき泰盛やすもりらは一様いちよう不安ふあんかんち、ことさら将軍家しょうぐんけ鎌倉かまくら殿どの)の「おおせ」をかかげていましめようとしたとている[3]

村井むらい章介しょうすけは、事件じけんのなりゆきを「名分めいぶんのない殺戮さつりく批判ひはんこり、あわてて身内みうち御内おんうちじん)を犠牲ぎせいにしてつくろった」とている。また、時宗じしゅう一門いちもん内部ないぶ粛清しゅくせいによって政敵せいてきほうむった一方いっぽうせいむらおとうとそうまさしらの死後しご一門いちもんないからささえとなるあらたな支持しじしゃことができず、もと寇の繁忙はんぼう時期じきにも孤独こどく権力けんりょくにあって政務せいむわれ、心身しんしんをすりらしたと指摘してきしている[4]

網野あみの善彦よしひこは、「がつ騒動そうどう異国いこく警固けいご人事じんじ問題もんだいまくかく不一致ふいっちにより、御内おんうちじん主導しゅどうこった。それがときあきら誅殺ちゅうさつによって解決かいけつしたのち事態じたい逆転ぎゃくてんさせて御内おんうちじん打撃だげきをあたえつつ、守護しゅごしょく自身じしん支持しじしゃである有力ゆうりょく御家人ごけにんはいして幕府ばくふ中枢ちゅうすう実権じっけん一段いちだん強化きょうかしたのは安達あだち泰盛やすもりであり、その結果けっか御内おんうちじんとの対立たいりつふかめた」とする[5]

細川ほそかわ重男しげおは、がつ騒動そうどう時宗じしゅう独裁どくさい政権せいけん確立かくりつをもたらした、これによって、時宗じしゅう自身じしん非情ひじょう指導しどうしゃであることを人々ひとびと演出えんしゅつした、と指摘してきする。武家ぶけ政権せいけん構成こうせいする要素ようそひとつである、「恐怖きょうふ」と「強制きょうせいりょく」が発露はつろされた事件じけんであると、細川ほそかわ指摘してきする[6]

史料しりょう

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 川添かわぞえ北条ほうじょう時宗じしゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2001ねん
  2. ^ 福島ふくしま安達あだち泰盛やすもり鎌倉かまくら幕府ばくふ - 霜月しもづき騒動そうどうとその周辺しゅうへん有隣うりん新書しんしょ、2006ねん
  3. ^ かけいこうむ襲来しゅうらい徳政令とくせいれい講談社こうだんしゃ文庫ぶんこ、2009ねん(2001ねん刊行かんこう
  4. ^ 村井むらい北条ほうじょう時宗じしゅうこうむ襲来しゅうらい』NHK出版しゅっぱん、2000ねん
  5. ^ 網野あみのこうむ襲来しゅうらい小学館しょうがくかん文庫ぶんこ、2001ねん(1974ねん刊行かんこう
  6. ^ 細川ほそかわ北条ほうじょう鎌倉かまくら幕府ばくふ講談社こうだんしゃ選書せんしょメチエ・136ぺーじ、2011ねん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう