(Translated by https://www.hiragana.jp/)
イングランド銀行 - Wikipedia

イングランド銀行いんぐらんどぎんこう

イギリスの中央ちゅうおう銀行ぎんこう

イングランド銀行いんぐらんどぎんこう(イングランドぎんこう、えい: Bank of Englandきゅう日本にっぽんめい: えいらん銀行ぎんこう)は、イギリス中央ちゅうおう銀行ぎんこう[注釈ちゅうしゃく 1]

イングランド銀行いんぐらんどぎんこう
Bank of England 英語えいご
イングランド銀行本店
イングランド銀行いんぐらんどぎんこう本店ほんてん
本店ほんてん シティ・オブ・ロンドン
位置いち 北緯ほくい5130ふん50.76びょう 西経せいけい05ふん18.96びょう / 北緯ほくい51.5141000 西経せいけい0.0886000 / 51.5141000; -0.0886000
設立せつりつ 1694ねん7がつ27にち
総裁そうさい アンドリュー・ベイリー
くに イギリスの旗 イギリス
通貨つうか UKポンド
GBP (ISO 4217)
基準きじゅん貸付かしつけ利率りりつ 0.5%
継承けいしょう 通貨つうか委員いいんかい(アイルランドのみ)
ウェブサイト bankofengland.co.uk

概説がいせつ

編集へんしゅう

1690ねん同行どうこう成立せいりつ以前いぜんから、フォンテーヌブローのみことのりれいフランスからながれたユグノー資本しほん英国えいこくさいきに貢献こうけんしていた。4ねん創立そうりつしたとき、世界せかいだい同盟どうめい戦争せんそうウィリアムおう戦争せんそう、そしてザームエル・オッペンハイマー活躍かつやくするだいトルコ戦争せんそうのさなかにあり、同行どうこう政府せいふへの貸付かしつけ主要しゅよう業務ぎょうむとする商業しょうぎょう銀行ぎんこうであった。おおくのユグノーが毎年まいとし選挙せんきょ理事りじとなった[1]。1697ねん同行どうこうだい4利払りばらいリストによると、ウーブロンをはじめとする移住いじゅうはやかったユグノーは同行どうこうの15%を支配しはいした。後発こうはつぐみにはテオドール・ヤンセントーマス・パピヨンなどがおり、かれらが先行せんこうぐみから同行どうこう株式かぶしきゆずりうけ、しかも英国えいこくさいやく1わり所有しょゆうした[2][3]

同行どうこう政府せいふとおしてイギリスひがしインド会社かいしゃハドソンわん会社かいしゃなどへも貸付かしつけおこなっていた[4]。ユグノー出身しゅっしんで6代目だいめ総裁そうさいのジェームズ・ベイトマン(James Bateman)はロンドン市長しちょう南海なんかい会社かいしゃふく社長しゃちょうつとめた[5]

18世紀せいき後半こうはん将来しょうらいネイサン・メイアー・ロスチャイルド義父ぎふとなるレヴィ・バレント・コーエンをふくむユダヤじんが、最初さいしょアムステルダムにいながら、やがてロンドンに定住ていじゅうするまで、ひがしインド会社かいしゃ破綻はたんした事業じぎょう買収ばいしゅうしていた[6]

1800ねん8がつから1816ねん8がつまでのかく16ヵ年かねんにおいてはとし平均へいきん60まんポンドの割引わりびき収入しゅうにゅうをあげて準備じゅんびきんたくわ[7][注釈ちゅうしゃく 2]イングランド銀行いんぐらんどぎんこうは1816ねん金本位きんほんいせい採用さいようした。やがてロスチャイルド台頭たいとうし、各国かっこく外債がいさい発行はっこうイングランド銀行いんぐらんどぎんこう準備じゅんびきん補填ほてんかかわった。ぎん価格かかく低下ていか時期じきアルフレッド・ド・ロスチャイルド理事りじつとめ、19世紀せいきまつきょう対応たいおうした。

だいいち世界せかい大戦たいせんではJPモルガン戦時せんじ国債こくさい独占どくせん代理人だいりにんつとめた。1934-1935ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこう植民しょくみん中央ちゅうおう銀行ぎんこう設立せつりつかかわった。だい世界せかい大戦たいせんこう財務省ざいむしょう法官ほうかん(Treasury solicitor)が政府せいふのために100%保有ほゆうするところとなった[8]。しかしおおきな権限けんげん縮小しゅくしょうまぬかれ、きむプールの運営うんえい参画さんかくした。

オイルショックのセカンダリー・バンキング危機ききでは金融きんゆう機関きかん救援きゅうえん奔走ほんそうした。1997ねん財務省ざいむしょうから金利きんり設定せってい権限けんげん委譲いじょうされる一方いっぽうよく1998ねんには債務さいむ管理庁かんりちょう金融きんゆうサービス機構きこう各種かくしゅ権限けんげん移譲いじょうした。

近代きんだい

編集へんしゅう

ユグノー金融きんゆう三角さんかく貿易ぼうえき

編集へんしゅう
 
イングランド銀行いんぐらんどぎんこう憲章けんしょう調印ちょういん(1694ねん
出資しゅっししゃ1268にんちゅう123にんがユグノーであった。7がつ10日とおか選挙せんきょでユグノーから初代しょだい総裁そうさいジョン・ウーブロンがえらばれた。理事りじは6にんであったが、そこにどうウーブロンジェームズアブラハムせきめた。

16世紀せいき王立おうりつ取引とりひきしょ設立せつりつされ、17世紀せいきちゅうごろには民間みんかんきむたくみ銀行ぎんこう(Goldsmith)が発行はっこうする記名きめいしききむたくみ手形てがた(goldsmith note)が流通りゅうつうしていた。ところがだい3えいらん戦争せんそう(1672ねん - 74ねん)の戦費せんぴ増大ぞうだいにより政府せいふきむたくみ手形てがた返済へんさい保留ほりゅうしたことで多数たすうきむたくみ銀行ぎんこう破綻はたんした。このたねのリスクの顕在けんざい銀本位ぎんほんいせい銀行ぎんこう創設そうせつ要請ようせい理由りゆうのひとつになった[注釈ちゅうしゃく 3]

イングランド銀行いんぐらんどぎんこうは1694ねん5がつスコットランドじんウィリアム・パターソン[注釈ちゅうしゃく 4]財務ざいむ長官ちょうかんチャールズ・モンタギュー主導しゅどうした歳入さいにゅうほう(Ways and Means Act)により軍事ぐんじ調達ちょうたつする目的もくてき創設そうせつされた[注釈ちゅうしゃく 5]イングランド王国おうこく政府せいふ銀行ぎんこうとして同年どうねん7がつ27にちウィリアム3せいメアリー2せいみことのりれいにより認可にんかされた。資本しほんきんは120まんポンドであったが年利ねんり8%で政府せいふに120まんポンドをし、一方いっぽうで120まんポンドを上限じょうげん紙幣しへい発行はっこうすることができる株式会社かぶしきがいしゃとされた。初代しょだい総裁そうさいジョン・フーブロンで、初期しょき紙幣しへいにはイングランド銀行いんぐらんどぎんこう捺印なついんがあり、きむたくみ手形てがた同様どうよう記名きめいしきであった[9]証券しょうけん市場いちば成立せいりつなどの改革かいかくすすめられた[10]

1695ねん10がつジョン・ロック銀貨ぎんか改鋳かいちゅうについて建議けんぎした。ロックあん閣議かくぎ決定けっていされて、12月17にち法案ほうあんとなった。ロックは27にちFurther Considerations Concerning Raising the Value of Money という論文ろんぶん発表はっぴょうした。翌年よくねん1がつ法案ほうあん裁可さいか成立せいりつした[11]。1696ねんにはそう資産しさんが330まんポンドにたっした[注釈ちゅうしゃく 6]

1699ねん、イギリスがきよから広東かんとん貿易ぼうえきゆるされる。1720ねん南海なんかい泡沫うたかた事件じけん

1734ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこうはスレッドニードルがい現在地げんざいち移転いてんした。かつてはポールトリーまちのグローサーズ・ホールないにあった。

1750ねん長期ちょうき国債こくさい発行はっこうけん独占どくせんする[4][注釈ちゅうしゃく 7]。1764ねん砂糖さとうほう

1772ねん、ロンドンのニール・ジェイムズ・フォーダイス・アンド・ダウン銀行ぎんこう倒産とうさん端緒たんしょとするブリテン金融きんゆう危機きき (1772ねん-1773ねん)英語えいごばんはスコットランドやオランダへ波及はきゅうし、スコットランドではエアー銀行ぎんこう倒産とうさんした。アダム・スミスの『国富こくふろん執筆しっぴつ影響えいきょうした[12]

1780ねんゴードン暴動ぼうどうこる。以来いらいぐんイングランド銀行いんぐらんどぎんこう夜間やかん警備けいびにあたるようになった。この警備けいび習慣しゅうかんはライバル銀行ぎんこうたちのいかりをった[注釈ちゅうしゃく 8]

1786ねん大臣だいじんがおかれないげんさい委員いいんかいCommissioners for the Reduction of the National Debt)が発足ほっそくした。

1797ねん前年ぜんねんからの恐慌きょうこう (1796ねん-1797ねん)英語えいごばんと、たいふつだい同盟どうめいもとづく活動かつどうにより正貨せいか流出りゅうしゅつし、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう制限せいげんほうにより兌換だかん停止ていしされた。イギリスの銀行ぎんこうかずはこのとし270ぎょうであったが、1810ねんには783ぎょうにまで増加ぞうかした。1810ねん地金じがね委員いいんかいによる調査ちょうさで、このときの兌換だかん停止ていしかね高騰こうとう為替かわせ相場そうば下落げらく原因げんいん指摘してきされた[13][注釈ちゅうしゃく 9]

国際こくさい金融きんゆうロスチャイルド

編集へんしゅう
 
1816ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこう王立おうりつ証券しょうけん取引とりひきしょ

1807ねん奴隷どれい制度せいど廃止はいし運動うんどうたかまりによりだいえい帝国ていこくないでの奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんしされる。バルト海ばるとかい貿易ぼうえきとみきずき、とう銀行ぎんこう理事りじつとめたジョン・ソーントンは、息子むすこヘンリ総裁そうさいつとめたサミュエルらとともに奴隷どれい貿易ぼうえき廃止はいし法案ほうあん尽力じんりょくしていた[10]。この禁止きんしはのちの帝国ていこく経済けいざいへの長期ちょうきてき打撃だげきとなり、1815ねん恐慌きょうこうこした。

1816ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこう諸国しょこく先駆さきがけて銀本位ぎんほんいせいから金本位きんほんいせいえた。1816ねんから1817ねんには兌換だかん部分ぶぶんてき再開さいかいされたが[注釈ちゅうしゃく 10]1819ねん恐慌きょうこう発生はっせいした。

1823ねん兌換だかん全面ぜんめんてき再開さいかいされ、同年どうねんと1825ねんには代理だいりしょう取引とりひきほう制定せいていされて契約けいやくうながしたものの、取引とりひきしょ利害りがい関係かんけい混乱こんらんさせた。

このころ外債がいさい洪水こうずいのように契約けいやくされており、男爵だんしゃくたロスチャイルドは請負人うけおいにんとしてもっと活躍かつやくした [注釈ちゅうしゃく 11] [14][注釈ちゅうしゃく 12]。ロスチャイルドはロンドンの投資とうし関心かんしんぶために、スターリング・ポンド外債がいさい利率りりつさだめていた。

6がつ国庫こっこ委員いいんかい議事ぎじろくネイサン・メイアー・ロスチャイルド登場とうじょうする[15]同年どうねん3がつすでに、フランスが総額そうがく1おく2000まんフランの公債こうさい発行はっこうするにあたり、ジャコブ・マイエール・ド・ロチルドがシンジケートだん以下いか、シだん)を組織そしき引受ひきうけた。アッシニア担保たんぽ財産ざいさん没収ぼっしゅうされた教会きょうかい貴族きぞく反発はんぱつがあるも、フランス政府せいふ低利ていりえを画策かくさく実現じつげんけて公債こうさい相場そうば維持いじするため[16]、ネイサンは翌年よくねん5がつイングランド銀行いんぐらんどぎんこうから1年間ねんかんきん100まんポンドの保証ほしょうける。12月1にち保証ほしょうがくちゅう30-50まんポンドを[15]担保たんぽとしてイギリスの「整理せいり公債こうさい」を預託よたくした金塊きんかいフランス銀行ぎんこうあづれた。結局けっきょく利率りりつひくすぎてシだん半壊はんかい。ロスチャイルドはのこり、ぎゃくちから誇示こじすることになった[16]

イングランド銀行いんぐらんどぎんこうからはじまった1825ねん恐慌きょうこう英語えいごばんもまた欧州おうしゅう波及はきゅうした。ラテンアメリカ投機とうき一部いちぶでの株価かぶか暴落ぼうらくがねであった[注釈ちゅうしゃく 13]。フランス銀行ぎんこう正貨せいか供給きょうきゅう[注釈ちゅうしゃく 14]破綻はたん寸前すんぜんみとどまったが[注釈ちゅうしゃく 15]、この惨事さんじ社会しゃかい運動うんどう発展はってんし、紡績ぼうせき工場こうじょうほう修正しゅうせいされたり、労働ろうどう組合くみあい承認しょうにんされたりした。また、銀行ぎんこうけんとく小額しょうがくけん流通りゅうつうりょういちじるしくらされることとなった[注釈ちゅうしゃく 16]

国際こくさい流動りゅうどうせいかう投機とうき

編集へんしゅう

1833ねんしん特許とっきょほうイングランド銀行いんぐらんどぎんこうけん法貨ほうかとなる。同年どうねんクラウン・エージェンツ[注釈ちゅうしゃく 17]政府せいふにより創設そうせつされる。

1839ねん、マンチェスター商業しょうぎょう会議かいぎしょが、それまでの3年間ねんかんにおける金利きんり恣意しいてき変更へんこう為替かわせ相場そうばみだれだかくださせたと主張しゅちょう[19]いきおいづいていたチャーティズム政府せいふ翌年よくねん4がつにかけ弾圧だんあつ。また、このとし国内こくない電信でんしん敷設ふせつされる。

1844ねん改正かいせいされたピール銀行ぎんこう条例じょうれい当時とうじ呼称こしょうは「えいらん銀行ぎんこう条例じょうれい」、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう条例じょうれい)により中央ちゅうおう銀行ぎんこうとなる[注釈ちゅうしゃく 18]鉄道てつどうきょう時代じだいつづく。

1851ねん、ロスチャイルド商会しょうかい貴金属ききんぞく精錬せいれんしょ設立せつりつ。このとしドーバー海峡かいきょう横断おうだんケーブル開通かいつう翌年よくねんにロスチャイルドの精錬せいれんしょイングランド銀行いんぐらんどぎんこうで2番目ばんめ公認こうにん精錬せいれんしょとなる[20]

ピール銀行ぎんこう条例じょうれいくわえて1852ねんには「銀行ぎんこうけんほう」が施行しこうされ、1854ねんには高利こうり禁止きんしほう撤廃てっぱいされる[注釈ちゅうしゃく 19]。1856ねんパリ宣言せんげんわたしかすめせん放棄ほうきうたわれる。

1857ねん恐慌きょうこうでアメリカかぶ中心ちゅうしん市場いちば弱気よわきとなったところ、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう単独たんどく割引わりびき継続けいぞくし、11月20にちだけで100まんポンドちか法定ほうてい限度げんど超過ちょうかってピール銀行ぎんこう条例じょうれい停止ていしした[21]

1861ねんにはふたたイングランド銀行いんぐらんどぎんこう条例じょうれい成立せいりつし、以後いご、イギリスが世界せかい実質じっしつてき手形てがた交換こうかんしょ[22]条例じょうれい改正かいせい公定歩合こうていぶあいについては日本にっぽんでも官報かんぽうほうじられた[23]。それまでイングランド銀行いんぐらんどぎんこうが25ねんごとに国債こくさい所有しょゆうしゃ名簿めいぼじていた慣習かんしゅう廃止はいし[24]

1866ねん恐慌きょうこうベイルアウト発端ほったん割引わりびき商会しょうかいオーバーレンド・ガーニーげんバークレイズ)の失敗しっぱい関連かんれんした国際こくさい金融きんゆう市場いちばのしぼみと、イタリアでの銀本位ぎんほんいせい廃止はいし。これにより横浜よこはま進出しんしゅつしていた銀行ぎんこう支店してんが3つも撤退てったいした。公定歩合こうていぶあい10%。度目どめ特許とっきょじょう停止ていし同年どうねんホンジュラスにおき鉄道てつどうスキャンダルさらに移民いみんほう制定せいてい

1857ねん恐慌きょうこうから1873ねん恐慌きょうこうて、シティー・オブ・グラスゴー・バンク詐欺さぎてき業務ぎょうむうえ破産はさんした1878ねんまでの20年間ねんかんは、金利きんり変更へんこうじつとし平均へいきん10かいにまでおよんだ[25]途中とちゅうの1868ねんにはアルフレッド・ド・ロスチャイルド理事りじ就任しゅうにんしている。わりの1878ねんには首相しゅしょうローズベリーがネイサンのまごハンナと結婚けっこんした。1875ねんハックス・ギブズ(Henry Hucks Gibbs)が総裁そうさいとなった。かれギブズ商会しょうかい共同きょうどう経営けいえいしゃであった。この会社かいしゃは1981ねん香港ほんこん上海しゃんはい銀行ぎんこう買収ばいしゅうした。

現代げんだい

編集へんしゅう

せまかった国際こくさい金融きんゆう市場いちば

編集へんしゅう

1880ねんからのボーア戦争せんそうでは、植民しょくみん政府せいふなどのためにつぎ金融きんゆう機関きかんんで、非難ひなんびながらも国債こくさい発行はっこう代理人だいりにんとなった。モルガン・グレンフェルベアリングス銀行ぎんこう、ロスチャイルド、JPモルガン[26]

1890ねん、デフォルト寸前すんぜん[注釈ちゅうしゃく 20]ベアリングス銀行ぎんこう救済きゅうさい同行どうこう損失そんしつ秘匿ひとくしつつ、政府せいふ・シだんんで保証ほしょう基金ききん設置せっち、450まんポンドの外債がいさいをとりつける。やがて公衆こうしゅうるところとなり、1893ねん恐慌きょうこう発展はってんする[注釈ちゅうしゃく 21][29]

1895ねん横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう指図さしずでか、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう下関しものせき条約じょうやく賠償金ばいしょうきん市場いちば放出ほうしゅつ資金しきん供給きょうきゅう過剰かじょうとなる[30][注釈ちゅうしゃく 22]

1899ねんインドきむ為替かわせ本位ほんいせいとする。インドは植民しょくみんであり、世界せかいてきぎん消費しょうひこくでもあった。1ポンド=銀貨ぎんか15ルピーとした[31]まえもってブリュッセル国際こくさい通貨つうか会議かいぎひらかれていた。飢饉ききんこまったインドじん銀製ぎんせいひん装飾そうしょくひんることでぎん低落ていらくこらないように、それから税収ぜいしゅう安定あんていさせるために、植民しょくみん政府せいふ世界せかいはじめて本格ほんかくてき灌漑かんがい事業じぎょうをインドに展開てんかいした。

1901ねん、ルピー銀貨ぎんか鋳造ちゅうぞうえきてていたインドの金本位きんほんい準備じゅんびをロンドンへ移送いそう翌年よくねん、インド政庁せいちょう管轄かんかつ紙幣しへい準備じゅんび一部いちぶイングランド銀行いんぐらんどぎんこう預託よたくさせるとともに、どう政庁せいちょうかね自由じゆう鋳造ちゅうぞう断念だんねんさせる。こうしてルピーをよわめたイギリスは、その輸出ゆしゅつにおいてインドぜん輸入ゆにゅうの6わりちょうめた[32]

1901ねん4がつに6せんまんポンド、1902ねん4がつに3200まんポンドのコンソルさい一括いっかつ引受ひきうけ発行はっこう[注釈ちゅうしゃく 23]

1903ねんプランテーション植民しょくみんマレーシアが、インドと同様どうようかね為替かわせ本位ほんいせい編成へんせいされた[34][注釈ちゅうしゃく 24]

1907ねん恐慌きょうこうまで日銀にちぎんから借入かりいれ。この時期じきをはさみ、1895ねんと1908ねん増収ぞうしゅう目的もくてき保有ほゆう証券しょうけん売却ばいきゃく[35][注釈ちゅうしゃく 25]。また、この恐慌きょうこう以後いごライヒスバンクが、兌換だかん部分ぶぶん停止ていししたり、またイングランド銀行いんぐらんどぎんこう対抗たいこうして金利きんり設定せっていしたりして、正貨せいか流出りゅうしゅつ抑止よくしつとめる[36]

1909ねん以降いこう金本位きんほんい準備じゅんび一部いちぶ預金よきん銀行ぎんこうやマーチャント・バンカーに短期たんき通知つうちかし。さらに金本位きんほんい準備じゅんびは、もともと新規しんき国債こくさい消化しょうか市場いちば流通りゅうつうする国債こくさいささえに利用りようされていた[37]

国際こくさいするスターリング・ポンド

編集へんしゅう

1914ねん7がつ30にちに4%だった金利きんり翌日よくじつに8%へ、8がつ1にちには10%まで一気いっき[38]特許とっきょじょう停止ていしせず。だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうJPモルガンイングランド銀行いんぐらんどぎんこう発行はっこうする戦時せんじ債券さいけん独占どくせん代理人だいりにんであった[注釈ちゅうしゃく 26]日本にっぽん鈴木すずき商店しょうてんそう前身ぜんしん)に巨額きょがく融資ゆうしおこなった。

1919ねん4がつ金本位きんほんいせい離脱りだつ。1925ねん9がつ復帰ふっきする。この離脱りだつ期間きかん世界せかい恐慌きょうこうだい一波いっぱこる[40]国際こくさいカルテル流行りゅうこう

1924ねん10がつ、JPモルガンと引受ひきうけ地域ちいき分担ぶんたんドーズ公債こうさい起債きさい翌年よくねん5がつ政府せいふ借款しゃっかんける[41]

1928ねんヴィッカース・アームストロング合併がっぺい援助えんじょしていたのが実現じつげん大蔵省おおくらしょう紙幣しへいイングランド銀行いんぐらんどぎんこうけん発行はっこう統合とうごうされる。

1929ねん9がつ26にち世界せかい恐慌きょうこう直前ちょくぜん金利きんりげ。FRB が6.0%であったが、イングランド銀行いんぐらんどぎんこうは5.5%から6.5%に。

1931ねん8がつ1にち、フランス銀行ぎんこうニューヨーク連邦れんぽう準備じゅんび銀行ぎんこうから5せんまんポンド[42]。9月21にち金本位きんほんいせい離脱りだつきむ解禁かいきんしていた日本にっぽんからは10-11月に各月かくつきとも1.3おくえんちょう正貨せいか流出りゅうしゅつした[43]

1934ねんニュージーランド準備じゅんび銀行ぎんこうができる。翌年よくねんカナダ銀行ぎんこうインド準備じゅんび銀行ぎんこう開設かいせつされる。

1939ねん3月、ナチス・ドイツ全土ぜんど占領せんりょうされたチェコスロバキア中央ちゅうおう銀行ぎんこう[注釈ちゅうしゃく 27]国際こくさい決済けっさい銀行ぎんこう名義めいぎイングランド銀行いんぐらんどぎんこう預託よたくしている23.1トンのかね準備じゅんびライヒスバンクうつすよう不本意ふほんい指図さしずをさせられ、24にち国際こくさい決済けっさい銀行ぎんこう担当たんとう部局ぶきょく指図さしずのままに口座こうざえた[44]。5月に財務ざいむ大臣だいじんジョン・サイモン総裁そうさいモンタギュー・ノーマンへチェコのかね準備じゅんびではないかと確認かくにん要請ようせいしたが総裁そうさいらないとこたえて、6がつに44まんポンドの準備じゅんびきん売却ばいきゃくされうち42まんポンドがニューヨークへ船積ふなづみされた[45]

1946ねん国有こくゆうされるが運営うんえい目的もくてきなに制限せいげんされず、金融きんゆう監督かんとく権限けんげんる。

1947ねん7がつ国際こくさい通貨つうか基金ききん登録とうろくされたポンド平価へいか[注釈ちゅうしゃく 28] での交換こうかんせい一時いちじてき回復かいふくするも、交換こうかん要求ようきゅう殺到さっとうして6週間しゅうかん制限せいげん

1949ねん、ポンド[注釈ちゅうしゃく 29] により輸出ゆしゅつ増加ぞうか準備じゅんび総額そうがくは1950年代ねんだいなかばごろ20おくドル以上いじょうたっした[46]

国際こくさい流動りゅうどうせい危機きき

編集へんしゅう

1954ねん、ロンドンきん市場いちば再開さいかい。1939ねん開戦かいせん以来いらいどう市場いちばみなみアフリカ準備じゅんび銀行ぎんこう代理人だいりにんつとめる[47]。ロイ・ブリッジという為替かわせディーラーの仲介ちゅうかい国際こくさい決済けっさい銀行ぎんこう以下いか諸点しょてん確認かくにんイングランド銀行いんぐらんどぎんこうへの事前じぜん照会しょうかい合意ごういがなくても国際こくさい決済けっさい銀行ぎんこうなん銀行ぎんこうイングランド銀行いんぐらんどぎんこう金庫きんこしつ=ロンドンきん現物げんぶつ市場いちば取引とりひきをする。国際こくさい決済けっさい銀行ぎんこうみなみアフリカからしゅうあたり最高さいこう10まんオンス以上いじょう購入こうにゅうしない。その最高さいこうがく引揚ひきあげるときは事前じぜん通知つうちする。1957ねん、ポンド危機きき公定歩合こうていぶあい7%に上昇じょうしょう。1958ねんのヨーロッパ主要しゅようこくとともに、ドル地域ちいき保有ほゆうするポンドにかぎ交換こうかんせい回復かいふくした。

1962ねんはじめ、きむプール代理人だいりにんとして参加さんかこく[注釈ちゅうしゃく 30] 中央ちゅうおう銀行ぎんこう承認しょうにんされる[48]みとめられるまえは、きむプールの前身ぜんしんとなるシンジケートにおいて、そこから使用しようした正金しょうきんりょうイングランド銀行いんぐらんどぎんこう毎月まいつきまつニューヨーク連邦れんぽう準備じゅんび銀行ぎんこう報告ほうこくし、そのあとイングランド銀行いんぐらんどぎんこうがシンジケートのだれ保証ほしょうきん支払しはらわなければならないかNY連銀れんぎん指示しじった[49]

1964ねん、1966‐1967ねん、ポンド危機きき[注釈ちゅうしゃく 31]。1966ねんクラインワート・ベンソンロンズデールげんソジェン)によるゴールド・フィックス会員かいいんシャープス・ピクスレー買収ばいしゅう主導しゅどうした。1968ねん、ロンドンきん市場いちば崩壊ほうかい[注釈ちゅうしゃく 32]ユーロクリア誕生たんじょう。1971ねんシリングはいして1ポンド=100ペンスの10しんほうとする。また、スミソニアン協定きょうていで1ポンド=やく2.60ドルにげた。

1973ねんから1975ねんまで、セカンダリー・バンキング危機きき[50]。これにかんするイングランド銀行いんぐらんどぎんこうアーカイブ資料しりょう[注釈ちゅうしゃく 33]なにゆえかうしなわれている。イングランド銀行いんぐらんどぎんこうは、ライフボートをつうじて26金融きんゆう機関きかん援助えんじょ[注釈ちゅうしゃく 34]。また、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう単独たんどくで14の金融きんゆう機関きかんにベイルアウト[注釈ちゅうしゃく 35][注釈ちゅうしゃく 36]。1974ねんBPかぶ買収ばいしゅうなどによりバーマ・オイル救済きゅうさいした[51]。1976ねん銀行ぎんこうほうイングランド銀行いんぐらんどぎんこうは、銀行ぎんこう制度せいど全体ぜんたいるがすだい失敗しっぱいをやりそうな銀行ぎんこう直接ちょくせつ所有しょゆう監督かんとくする権限けんげんた。

1977ねんBank of England Nominees Limited (BOEN) なる子会社こがいしゃ設立せつりつ株主かぶぬし指名しめいせい会社かいしゃほうとの整合せいごうせいわれた。エドムンド・デル(Edmund Dell)がBOENを情報じょうほう公開こうかい制度せいど例外れいがいであると主張しゅちょうSAFE理事りじのロバート・オーウェン(Robert Owen)が、事実じじつじょうイングランド銀行いんぐらんどぎんこう子会社こがいしゃであるはずのBOENとその秘密ひみつ株式かぶしきによって支配しはいまたは私物しぶつされていると主張しゅちょうした[52]

1979ねん国家こっか債務さいむ、868おく8500まんポンド。ぜん預金よきん受託じゅたく機関きかんたいする認可にんか監督かんとく権限けんげんる。翌年よくねん7がつまで最低さいてい貸出かしだし金利きんり17%。

1981ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこうがバーマ・オイルから民事みんじ訴訟そしょう提起ていきされた。原告げんこくは1974ねん同行どうこうおこなったいオペで不当ふとう利益りえきしょうじていると主張しゅちょうイングランド銀行いんぐらんどぎんこう取得しゅとくしたBPかぶ価格かかくは、オペ時点じてんの1おく9700まんドルから急騰きゅうとうし、報道ほうどうに12おくドルや24おくドルにものぼった[53][54]

短期たんき金融きんゆう市場いちば歯車はぐるま

編集へんしゅう

1984ねんゴールド・フィックスであったジョンソン・マッセイ貿易ぼうえき金融きんゆう子会社こがいしゃ倒産とうさんした[注釈ちゅうしゃく 37]救済きゅうさい措置そちとしてイングランド銀行いんぐらんどぎんこうなどが1おく5000まんポンドの債務さいむ保証ほしょうあたえた。1985ねん、1ポンド硬貨こうか導入どうにゅう史上しじょうさいやすの1ポンド=1.04USドル。

1986ねんビッグバン。1987ねんアイヴァン・ボウスキーたいする捜査そうさ追及ついきゅうによってギネスかぶ価格かかく操作そうさ事件じけん発覚はっかくGuinness share-trading fraud)、イングランド銀行いんぐらんどぎんこうがモルガン・グレンフェル(げんドイツ銀行ぎんこう)CEOクリストファー・リーヴズ(Christopher Reeves)の引責いんせき辞任じにん強制きょうせいする事態じたいとなった。1988ねん、ジョンソン・マッセイ・バンカーズへの債務さいむ保証ほしょう使つかわれた資金しきんすべ返還へんかんされた。

1990ねん欧州おうしゅう通貨つうか制度せいど参加さんか。1991ねん国際こくさい商業しょうぎょう信用しんよう銀行ぎんこう営業えいぎょう停止ていし命令めいれい。ときの重役じゅうやく複数ふくすうロスチャイルド関係かんけい[55]

1992ねんポンド危機きき。このとし国家こっか債務さいむ、2145おく2800まんポンドにたっする。欧州おうしゅう通貨つうか制度せいど離脱りだつキャドバリー報告ほうこくしょ

1995ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこう証券しょうけん集中しゅうちゅう保管ほかん機関きかんであるCRESTクラウドプロバイダー国際こくさい銀行ぎんこうあいだ通信つうしん協会きょうかい選択せんたく[56]イングランド銀行いんぐらんどぎんこうふく総裁そうさいのペナント・リー(Rupert Pennant-Rea)が、行内こうない女性じょせいジャーナリストのシノン(Mary Ellen Synon)と性行為せいこうい、ベアリングス銀行ぎんこう救済きゅうさい最後さいご業績ぎょうせきとして引責いんせき辞任じにんした[57][58][59]

1996ねん7がつ、ロスチャイルド当主とうしゅとなるはずであったロンドンアムシェル(1955-1996)パリのホテルで変死へんし

1997ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこう金融きんゆう政策せいさく委員いいんかい財務省ざいむしょうから政策せいさく金利きんりなど金利きんり設定せってい権限けんげん移譲いじょうされた。

1998ねん4がつ債務さいむ管理庁かんりちょうDebt Management Office)に英国えいこくさい管理かんり政策せいさくかんする権限けんげん委譲いじょうした。同年どうねん根拠こんきょほう改正かいせいによりふく総裁そうさいわくえて、このしんわくふく総裁そうさいげんさい委員いいんかい参加さんかするようになった。また、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう一昨年いっさくねん設立せつりつされた金融きんゆうサービス機構きこう金融きんゆう機関きかん監督かんとくする権限けんげん移管いかんした。移管いかんは1998ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこうほうによった。

2002ねん8がつ、CREST がユーロクリア買収ばいしゅうされる。2003ねん2がつ公定歩合こうていぶあい3.75%に。48ねんぶりのてい金利きんりとなる。同年どうねん7がつに3.5%へ。2004ねんしんロンドン証券しょうけん取引とりひきしょがオープン。スレッドニードルからの移転いてん

2007ねんノーザン・ロック特別とくべつ融資ゆうし。2009ねん発券はっけんすうしゅう決算けっさん報告ほうこく廃止はいし同年どうねん3がつまつ時点じてんで、ポンド相場そうばは1.42ドル。イギリスの世界せかい金融きんゆう危機ききは、ノンバンク連鎖れんさ発端ほったんとする本質ほんしつにおいて、セカンダリー・バンキング危機ききおよび1992-3ねんモーゲージ危機きき共通きょうつうするという[60]

2011ねん11がつ以降いこう総裁そうさいマービン・キング国際こくさい決済けっさい銀行ぎんこう主要しゅよう会合かいごう議長ぎちょうねる。

2013ねん4がつ金融きんゆうサービス機構きこう廃止はいし同年どうねん7がつ1にちからはじめての外国がいこくじんマーク・カーニー総裁そうさいになった。

2014ねんふく総裁そうさい定員ていいんが4にんとなった。イングランド銀行いんぐらんどぎんこう関係かんけいしゃ(Joint Standing Committee)2人ふたり外為がいため相場そうば不正ふせい操作そうさ事件じけん関与かんよしたことが発覚はっかくForex scandal)。

2015ねん5月、イングランド銀行いんぐらんどぎんこうビットコインフォーラムメンバーになった[61]イングランド銀行いんぐらんどぎんこうは、ブロックチェーン技術ぎじゅつもとづいた法定ほうてい電子でんし通貨つうか発行はっこう検討けんとうしている。政府せいふも1460まんドルの研究けんきゅう資金しきん提供ていきょうするとうたっている[62]同年どうねん6がつイングランド銀行いんぐらんどぎんこうはロスチャイルドとアドバイザーをつとめ、政府せいふロイヤルバンク・オブ・スコットランドかぶ売却ばいきゃくする方針ほうしん同調どうちょうした[63]

2017ねん7がつ、BOENが解散かいさんした。イングランド銀行いんぐらんどぎんこう所有しょゆうする信託しんたく会社かいしゃとして発足ほっそくし40ねんっていた。

オランダ資本しほん凋落ちょうらく

編集へんしゅう

創立そうりつから当分とうぶん事実じじつじょう財務省ざいむしょうとして機能きのうした。政府せいふたいする直接ちょくせつ融資ゆうし国債こくさい引受ひきうけ消化しょうかもこなした[64]

1701ねん株主かぶぬしは1903にんであったが、このうち107にん総裁そうさい資格しかくたる4000ポンド以上いじょう株式かぶしき保有ほゆうしていた。その107にんは、創立そうりつ出資しゅっししゃ多数たすうふくむ[注釈ちゅうしゃく 38]。ユグノーはセファルディム参加さんかさせるようになった。筆頭ひっとうソロモン・デ・メディナ[注釈ちゅうしゃく 39]総裁そうさい資格しかくをもつ107にんのうち、およそ9ぶんの1がユダヤじんであった[65]。メディナとスペインけいシルバ[注釈ちゅうしゃく 40]同行どうこう大口おおぐち地金じがねりであった。

1750ねんオランダじんは、イングランド銀行いんぐらんどぎんこうひがしインド会社かいしゃ南海なんかい会社かいしゃかぶ国外こくがい保有ほゆうぶんについて78%を支配しはいした[6]。1751ねんでは、3294にん議決ぎけつけんゆうする同行どうこう出資しゅっししゃのうちやく1000にんがオランダじんまたはフランダースじんであった。総裁そうさい資格しかくのあるもの495にんのうち、すくなくとも105にんがオランダじんであった。10ねんほどするとアムステルダム銀行ぎんこう信用しんよう危機ききこった[注釈ちゅうしゃく 41]。スイスの株式かぶしき保有ほゆうしゃで4000ポンド以上いじょうにのぼったのはベルン最初さいしょケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくの31あるカレッジで最古さいこクレアカレッジ株式かぶしき保有ほゆう[67][注釈ちゅうしゃく 42]

1697ねん議会ぎかい条例じょうれいにより、イングランドウェールズでは、イングランド銀行いんぐらんどぎんこうのぞいて株式会社かぶしきがいしゃ銀行ぎんこうがつくれなくなった。株主かぶぬし銀行ぎんこうたちが独占どくせんするため制定せいてい圧力あつりょくをかけたのである。これで機能きのうはともかく、地方ちほう金融きんゆう面倒めんどうまで立場たちばとなった。しかし、この条例じょうれいは1825ねん恐慌きょうこう批判ひはんされた。会社かいしゃ形態けいたい独占どくせん地方ちほう金融きんゆう機関きかん成長せいちょう阻害そがいし、ひいては恐慌きょうこうまねいたというのである。そこで翌年よくねん解禁かいきんされる。ただし、ロンドンから半径はんけい65マイルにかぎった[注釈ちゅうしゃく 43]完全かんぜん解禁かいきんは1833ねんである[68]

ロンドン手形てがた交換こうかんしょ

編集へんしゅう

1864ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこうはロンドン手形てがた交換こうかんしょ加盟かめい同行どうこうあて加盟かめい銀行ぎんこう直接ちょくせつ振替ふりかえ指図さしずしょ交換こうかんしり決済けっさいできるようになった[69]。なお、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう本店ほんてんあて支払しはらい請求せいきゅうたいしては本店ほんてんはらった。

1944ねんまでに国内こくないロンドンがい支店してんは17店舗てんぽをつくっている。このうち14は中央ちゅうおう銀行ぎんこうとしてスタートするまでに設立せつりつされ、そのうち5つはだい不況ふきょうはじまるまでに閉鎖へいさされている[70]。このかずどう時期じき大陸たいりくけい中央ちゅうおう銀行ぎんこうくらべるとすくない。じつ準備じゅんびりつ同様どうようである[71]産業さんぎょう革命かくめい先駆さきがけたイギリスの金融きんゆう市場いちば大陸たいりくより手形てがた制度せいどはや発展はってんさせた。それでイギリスの銀行ぎんこう一般いっぱん預金よきん通貨つうか発行はっこうだか大陸たいりくけい銀行ぎんこうよりもたか[71]イングランド銀行いんぐらんどぎんこう例外れいがいではなかった。そうしたなかイングランド銀行いんぐらんどぎんこうがベアリング危機ききとうでベイルアウトするときは、ロンドン手形てがた交換こうかんしょ加盟かめい銀行ぎんこう連携れんけいした。欧州おうしゅう国際こくさい決済けっさい銀行ぎんこうネットワークをちいさくしたようなものがイギリスにはずっとはやくできていたことになる。イングランド銀行いんぐらんどぎんこうにとり加盟かめい銀行ぎんこうはよほど可愛かわいいとえる。1930ねん8がつ9にちロイヤルバンク・オブ・スコットランド加盟かめい銀行ぎんこうウィリアムズ・ディーコンズ・バンクWilliams Deacon's Bank経営けいえいたんをネット価格かかく23まん5せんポンドで買収ばいしゅうすることにより、株主かぶぬしがピンチをかぎつけるまえに救済きゅうさいした。イングランド銀行いんぐらんどぎんこうがりのディーコンズがさい出発しゅっぱつできるように西部せいぶ支店してん譲渡じょうとした。以後いごもロイヤルバンクをつうじて資金しきん融通ゆうずうしていたが、1940ねんで321まん2せんポンドもげついていた[72]渉外しょうがい事業じぎょうでも加盟かめい銀行ぎんこう連携れんけいしている。1931ねん7がつピアソンが50%を支配しはいするロンドンラザード休業きゅうぎょう瀬戸際せとぎわとなって、翌年よくねん5がつイングランド銀行いんぐらんどぎんこうはフランスの有価ゆうか証券しょうけん担保たんぽ加盟かめい銀行ぎんこうの1ぎょう共同きょうどう融資ゆうしにふみきった[73]

20世紀せいきまつからのかた

編集へんしゅう

現在げんざい1998ねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこうほう制定せいていされたしょ機能きのう、つまり物価ぶっか安定あんてい維持いじ英国えいこく政府せいふ経済けいざい政策せいさく支援しえん遂行すいこうする。まずたとえば、①イングランドウェールズにおける通貨つうか発行はっこうけんUKポンド参照さんしょう)をもつ[注釈ちゅうしゃく 44]。②政府せいふ銀行ぎんこうであるとともに「最後さいご貸手かして」として銀行ぎんこう銀行ぎんこうである。さらに③外国がいこく為替かわせきむ準備じゅんび管理かんりし、政府せいふ証券しょうけん国債こくさい)を登録とうろくするが、④政府せいふ統合とうごう基金ききん運営うんえいおこなう。

中央ちゅうおう銀行ぎんこうという範疇はんちゅうえて機能きのうしている可能かのうせいうたがわれている。イングランド銀行いんぐらんどぎんこう国際こくさい決済けっさい機関きかんセデルすうじゅう匿名とくめい口座こうざっていた。セデルは内緒ないしょで①金融きんゆう機関きかん支店してんが②国際こくさい金融きんゆう市場いちば決済けっさいする便宜べんぎのために、匿名とくめい口座こうざひらいていた。イングランド銀行いんぐらんどぎんこう匿名とくめい口座こうざ場合ばあいべた①②のいずれにもあてはまらない[74]

金融きんゆうサービス機構きこうFinancial Services Authority)は、1997ねん10がつ発足ほっそくして翌年よくねんイングランド銀行いんぐらんどぎんこうから金融きんゆう機関きかん監督かんとく権限けんげん移管いかんされたが、(LIBORなど)いくたびのスキャンダルをて、2012ねん金融きんゆうサービスほうFinancial Services Act 2012)にもとづき2013ねん4がつ廃止はいしされた。金融きんゆうサービス機構きこう権限けんげん新設しんせつ金融きんゆう安定あんてい委員いいんかいFinancial Policy Committee)にうつされた[75]

金融きんゆうサービス機構きこう自主じしゅ規制きせい団体だんたいあつめだった。投資とうし顧問こもん規制きせい機関きかん(IMRO)、生保せいほ投信とうしん規制きせい機関きかん(LAUTRO)、金融きんゆう仲介ちゅうかい管理かんり・ブローカー規制きせい協会きょうかい(FIMBRA)のさんしゃ統合とうごうされたのである[注釈ちゅうしゃく 45]金融きんゆうサービス機構きこう監督かんとく権限けんげんはかつてないほどに強化きょうかされていたが(Financial Services and Markets Act 2000)、エクイタブル生命せいめいThe Equitable Life Assurance Society)のかかえる年金ねんきん債務さいむ手段しゅだんこうじなかったことがスキャンダルした。監査かんさ法人ほうじんアーンスト・アンド・ヤング追及ついきゅうされた。エクイタブルの営業えいぎょうもうは、2001ねん2がつにハリファクス(Halifax)へ売却ばいきゃくされた。2002ねん12月12にち機構きこう委員いいんちょうハワード・デービス(Howard Davies)が辞任じにん意思いしあきらかにした。金融きんゆうサービス機構きこう会長かいちょうアデア・ターナー(Adair Turner)が就任しゅうにんした世界せかい金融きんゆう危機ききどき対応たいおうについても酷評こくひょうされた。「だれ負債ふさい水準すいじゅん管理かんりできず、危機ききがやってきてもだれ責任せきにん所在しょざいからなかった」[75]

歴代れきだい総裁そうさい

編集へんしゅう

1899ねん以降いこうイングランド銀行いんぐらんどぎんこう歴代れきだい総裁そうさい以下いかとおり。ただし、以下いかひょうイングランド銀行いんぐらんどぎんこうホームページの資料しりょうもとつくられたものである[76]

名前なまえ 期間きかん
サミュエル・グラッドストン(Samuel Gladstone) 1899-1901
アガストゥス・プレボスト(Augustus Prevost) 1901-1903
サミュエル・モーリー(Samuel Morley) 1903-1905
アレクサンダー・ワラス(Alexander Wallace) 1905-1907
ウィリアム・キャンベル(William Campbell) 1907-1909
レジナルド・ジョンストン(Reginald Johnston) 1909-1911
アルフレッド・コール(Alfred Cole) 1911-1913
ウォルター・カンリフ(Walter Cunliffe) 1913-1918
ブライアン・コケイン(Brien Cokayne) 1918-1920
モンタギュー・ノーマン(Montagu Norman) 1920-1944
トーマス・カット(Thomas Catto) 1944-1949
キャメロン・コボルド(Cameron Cobbold) 1949-1961
ローランド・ベアリング(Rowland Baring) 1961-1966
レスリー・オブライアン(Leslie O’Brien) 1966-1973
ゴードン・リチャードソン(Gordon Richardson) 1973-1983
ロバート・リー=ペンバートン(Robert Leigh-Pemberton) 1983-1993
エドワード・ジョージ(Edward George) 1993-2003
マーヴィン・キング(Mervyn King) 2003-2013
マーク・カーニー(Mark Carney) 2013-2020
アンドリュー・ベイリー(Andrew Bailey) 2020-

建築けんちく

編集へんしゅう

1694ねん創立そうりつ当初とうしょ建物たてものは、はじめサンプソン(なま没年ぼつねんしょう)によって1732~34ねん建設けんせつされ、1788ねんからソーン(1753~1837)によって長期ちょうきにわたる建造けんぞうおこなわれた。 ソーンの建物たてもの当時とうじとしてはおどろくほどに簡素かんそまどのないかべかこまれ、天窓てんまどから採光さいこうするという特異とくいなものであり、外壁がいへきはコリントしきのピラスターで区画くかくされておりムーアゲイトにかうかくのみ、ティヴォリのヴェスタ神殿しんでんしたティヴォリ・コーナーがある。内部ないぶはソーン独特どくとくのネオ・クラシシズムをしめすドームをかけた空間くうかんならぶが、コンソル公債こうさいきょくはその初期しょき部分ぶぶんで、おおきなはしらあいだ特異とくい櫛形くしがたのアーチ、あさ交差こうさヴォールト、単純たんじゅんなベンデンティヴ、カリアチッドにささえられたガラス・ドームという類例るいれいのない独創どくそうてき比例ひれい構成こうせいである。 1818~23ねん配当はいとうきょくDavidend Office も、同様どうよう構成こうせいから室内しつないであるが、そこでは、モールディングがほとんどなくなり、はしらとペンデンティヴがひとつのなめらかに連続れんぞくした局面きょくめんつくげられ、カリスチッドはばいたかさになり、ガラス張がらすばりのドラムでかこまれ、ガラス・ドームはたか上昇じょうしょうして、より統一とういつある空間くうかん発展はってんしている。 ソーンはこの時期じきのイギリスの主導しゅどうてき建築けんちくで、ペイールやピラネージ(1720~78)のしゅうから刺激しげきされ、フランスのルドゥーにて、より繊細せんさいでピクチャレスクなネオ・クラシズムを創造そうぞうしていった。イングランド銀行いんぐらんどぎんこうのロトンダのプロジェクトに、ほとんどアール・ヌーヴォーとってよい独創どくそうせい優雅ゆうがさをそなえている。だが、これらは現在げんざいイングランド銀行いんぐらんどぎんこうとく外観がいかんは、ベイカーによるぞう改築かいちく(1930~40)でいちじるしくそこなわれてしまっている。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 正式せいしき名称めいしょうは「Governor and Company of the Bank of England」である。本店ほんてんがシティのスレッドニードルどお所在しょざいすることから、1797ねんジェームズ・ギルレイ風刺ふうし漫画まんがなかで「スレッドニードルどおりのろう婦人ふじん」("The Old Lady of Threadneedle Street")とばれるようになり、現在げんざいでも呼称こしょうされることがある(イングランド銀行いんぐらんどぎんこう公式こうしきサイトない解説かいせつWho is The Old Lady of Threadneedle Street?」を参照さんしょう。)。過去かこには「えいらん銀行ぎんこう」ともかれた。この場合ばあいえいらん」は「イングランド」の音訳おんやくであり、「イギリスとオランダ」(えいらん戦争せんそうなど)を意味いみしない。
  2. ^ これ以降いこう20世紀せいき初頭しょとうまでにおいて60まんほどにたっしたのは、1865-6ねん以下いか8がつめ)の73.4まんポンドと、1914-15ねんの94.9まんポンドだけである[7]
  3. ^ イタリアのジェノアは1407ねんにCasa di San GiorgioとBank of St.George、ベニスは1587ねんにBanco di Rialto、アムステルダムは1609ねんロッテルダムは1635ねんハンブルグは1619ねんストックホルムでは1656ねん銀行ぎんこう設立せつりつされていた[9]
  4. ^ ウィリアム・パターソンは翌年よくねんスコットランド王国おうこく政府せいふスコットランド銀行ぎんこう設立せつりつにもかかわっているが、スコットランド銀行ぎんこう経済けいざいてき深刻しんこく状況じょうきょうにあったスコットランド国内こくないへの投資とうしおよびスコットランド会社かいしゃによるダリエン計画けいかくへの投資とうし目的もくてきとしておりその性格せいかくことなっている。1707ねん、スコットランドの経済けいざい破綻はたんともな連合れんごう王国おうこく成立せいりつ
  5. ^ これは、名誉めいよ革命かくめいによって国王こくおうとなったウィリアム3せい治下ちかのイングランドがオランダ財政ざいせいまなんだ結果けっかでもあった。
  6. ^ 内訳うちわけは、政府せいふへの貸付かしつけきんが120まんポンド、民間みんかんからった政府せいふ債務さいむしょうが178まんポンドとうである[9]
  7. ^ 1752ねんコンソル公債こうさい発行はっこうされる。ロンドン証券しょうけん取引とりひきしょにおいて国債こくさい取引とりひき比率ひりつが5%にんだ1914ねんでさえ、金縁きんぶち証券しょうけん筆頭ひっとうたるコンソルだけは、ていリスクゆえに流動りゅうどうせいほこり、最大さいだい取引とりひき対象たいしょうであった。
  8. ^ しかし伝統でんとうとなって1973ねんまでつづいた。
  9. ^ 1819ねんロバート・ピール議会ぎかいひらいた委員いいんかいでも、きむ高騰こうとう通貨つうか下落げらく原因げんいんとされた。この委員いいんかいは、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう私利しりのために銀行ぎんこうけん過剰かじょう発行はっこうすることを懸念けねん兌換だかん再開さいかい結論けつろん勧告かんこくした(概説がいせつイギリス経済けいざい, p. 22)。
  10. ^ 1816-1818ねんナポレオン銀貨ぎんかを481まん7000ポンド鋳造ちゅうぞう
  11. ^ 1822ねんハプスブルクがロスチャイルド一族いちぞく全員ぜんいん男爵だんしゃく授与じゅよ
  12. ^ 1822ねん発行はっこうこくおも手堅てがたく、ロシアプロシアデンマークなど。チリさいコロンビアさいは4ねんたつと利子りし支払しはらいがとだえた。1823ねん発行はっこうこくは、オーストリアポルトガルスペイン。1824ねん-1825ねん南米なんべいから1800まんポンド。1827ねん利子りしはらわれなくなる[14]
  13. ^ 外債がいさい洪水こうずいが600以上いじょう会社かいしゃ設立せつりつさせていた[17]
  14. ^ はまは、ネイサンが「欧州おうしゅうからかねをかきあつめ」たといている[18]兌換だかん再開さいかいからのうごきにらすと、かきあつめたというより、外国がいこくしたかね回収かいしゅうしただけのようである。
  15. ^ クラパムは数値すうちげてかね枯渇こかつこそ否定ひていするもけのあったことは否定ひていせず。一方いっぽう、ジュグラーの資料しりょうによるとすさまじい枯渇こかつれる。1824ねん1がつに1350まんポンドあったのが、1825ねん12月には120まんポンドにまで減少げんしょう
  16. ^ 恐慌きょうこうのときにやむなく1ポンド紙幣しへいを60まんまい発行はっこうしていた。流通りゅうつう減少げんしょうけて1832ねんには銀行ぎんこうけん偽造ぎぞうたいする死刑しけい廃止はいしされた。
  17. ^ 伝統でんとうてきには植民しょくみん政府せいふなどの代理人だいりにんをこなした。ユーロクリアのできたころには80の政府せいふと160以上いじょう公的こうてき当局とうきょく国際こくさい組織そしきのために活動かつどうしていた。また、このころから銀行ぎんこう関連かんれん業務ぎょうむにも従事じゅうじはじめた。
  18. ^ 19世紀せいきなかばのヴィクトリアあさ時代じだいからだいいち世界せかい大戦たいせんわりまでのイギリスは「世界せかい銀行ぎんこう」とばれ、世界せかい各地かくち政府せいふ鉱山こうざん工場こうじょう、プランテーションなどに投資とうしして、利子りしかせいだ。統計とうけいによれば、1914ねんにおける、世界せかい海外かいがい投資とうしの43パーセントをイギリスがめた。
  19. ^ つづいて1857ねんオランダで、1865ねんベルギーで、1867ねんきたドイツ連邦れんぽうでも撤廃てっぱいされた。
  20. ^ 実際じっさいには支払しはら能力のうりょくはあった」[27]経営けいえい失敗しっぱい原因げんいんは、ブエノスアイレス水道すいどう事業じぎょう会社かいしゃ(The Buenos Ayres Water Works Company) かぶ引受ひきうけ保有ほゆう[28]
  21. ^ ジョージ・ゴッシェン (初代しょだいゴッシェン子爵ししゃく)資料しりょうによると、このころイングランド銀行いんぐらんどぎんこうかね準備じゅんびが2400まんポンドであったのにたいして、ドイツ・フランス・アメリカの3こく総計そうけい2おく7700まんポンドであったという。
  22. ^ このときの公定歩合こうていぶあいとくひくい2%であった。
  23. ^ このような巨額きょがく起債きさいイングランド銀行いんぐらんどぎんこう政府せいふ関係かんけいのブローカーがはずをととのえ、モルガンが主催しゅさいするニューヨークシだんとロスチャイルドの主催しゅさいするロンドンシだん大量たいりょうった[33]
  24. ^ きむ為替かわせ本位ほんいせいとは、現地げんち政府せいふ手形てがた通貨つうか保証ほしょうする仕組しくみである。日本にっぽんは、制度せいどじょうかね為替かわせ本位ほんいせいではないが、にちえい同盟どうめい契機けいきとしてきむ準備じゅんびだい部分ぶぶんをロンドンにき、その半分はんぶん以上いじょうをイギリス国債こくさい投下とうかするか、もしくはロンドン預金よきん銀行ぎんこうけていた[34]
  25. ^ 短期たんきしによる収入しゅうにゅうも1904-1907ねん一気いっき増加ぞうか以下いか8がつ決算けっさんとした数値すうち単位たんいせんポンド。
    1893-1894ねんで331 1894-1895ねんで160 1895-1896ねんで158 1896-1897ねんで243 1897-1898ねんで293 1898-1899ねんで356 1899-1900ねんで410 1900-1901ねんで441 1901-1902ねんで485 1902-1903ねんで524 1904-1905ねんで301 1905-1906ねんで457 1906-1907ねんで500 1907-1908ねんで322 1908-1909ねんで200(Clapham(1970), p. 482. 付録ふろくD)
  26. ^ モルガンと連邦れんぽう準備じゅんび制度せいど協力きょうりょくにより、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう国内こくないあつめたUSドル大蔵おおくら証券しょうけんをニューヨーク市場いちば売却ばいきゃくすることができた[39]
  27. ^ のちのチェコ国立こくりつ銀行ぎんこうスロバキア国立こくりつ銀行ぎんこう
  28. ^ 1ポンド=3.58134ドル
  29. ^ 1ポンド=2.80ドル
  30. ^ アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、オランダ、スイス、ベルギー
  31. ^ 1967ねんに1ポンド=2.40ドルまでポンド切下きりさげ。
  32. ^ きゅう固定こてい価格かかく国際こくさい金融きんゆうのみに利用りようされ、きむ自由じゆう市場いちばにはべつ価格かかく適用てきようされる。
  33. ^ 閲覧えつらん予約よやくせいつきから木曜日もくようび午前ごぜん10から午後ごご4時半じはんまで。
  34. ^ このうち、Marcantile Credit はバークレイズ合併がっぺい。Twentieth Century Banking Corporation はP&O合併がっぺい
  35. ^ 14ぎょうのうちスレイター・ウォーカー(Slater Walker)は、会長かいちょうしょくジェームズ・ゴールドスミスいたのちイングランド銀行いんぐらんどぎんこうがN・M・ロスチャイルド&サンズをうながして役員やくいん派遣はけんさせている。
  36. ^ 14ぎょうのうちウォレス・ブラザーズ・バンク(Wallace Brothers Bank) は、1974ねんにこの社名しゃめいとなるまえ、1972ねん3がつE.D.サッスーン・バンキング・カンパニー買収ばいしゅうしている。WBB のだい株主かぶぬしは1833ねん創業そうぎょうのクラウン・エージェンツで、27%を保有ほゆうしていた。解決かいけつさくとして、イングランド銀行いんぐらんどぎんこうが530まんポンドをカンパしてスタンダードチャータード銀行ぎんこう子会社こがいしゃつうじてWBB のぜん株式かぶしき取得しゅとくした。クラウン・エージェンツも経営けいえい危機ききにあったのである。
  37. ^ ジョンソン・マッセイはデグサ貴金属ききんぞくりの化学かがく工業こうぎょういとなんでいる。世界せかい金融きんゆう危機ききをすぎたころ、ソルトレイクシティ金銀きんぎん精錬せいれんしょ水質すいしつ保全ほぜんほう抵触ていしょく罰金ばっきんされ、以来いらいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく環境かんきょう保護ほごちょうによる保護ほご観察かんさつにおかれている。2014ねん12月、朝日あさひ化学かがく工業こうぎょうがジョンソン・マッセイの貴金属ききんぞく部門ぶもんを1おく8600まんドルで買収ばいしゅうした。翌年よくねん6がつ23にち国際こくさい協力きょうりょく銀行ぎんこう買収ばいしゅうようした資金しきん一部いちぶ融資ゆうしする貸付かしつけ契約けいやく締結ていけつした。公的こうてき機関きかんとして安易あんい亡命ぼうめいれである。
  38. ^ ボスコーアン、ファーニース、ゴドフリー、ウーブロンとレシュリエー家族かぞく全員ぜんいん、ヘスコット、スコーイン、エドワード・ラッセル (初代しょだいオーフォード伯爵はくしゃく)など
  39. ^ には、同名どうめいが2にんいるダ・コスタス、フォンセカ、ヘンリークズ、メンデス、ヌーネス、ロドリゲス、サルバドール、テクセーラ・デ・マトス。 Da Costas, Fonseca, Henriques, Mendez, Nunes, Rodriguez, Salvadore, Teixcira de Mattos
  40. ^ 末裔まつえいカイエターナ・フィツ=ハメス・ストゥアルト
  41. ^ 1760ねん、イギリスひがしインド会社かいしゃ株主かぶぬし総数そうすうにおいてユグノーが14%をめていた[66]
  42. ^ なお、イングランド銀行いんぐらんどぎんこう設立せつりつの5ねんまえ名誉めいよ革命かくめいでオランダ総督そうとくのウィリアム3せいがイングランドおう即位そくいしている。
  43. ^ 反撃はんげきとしてイングランド銀行いんぐらんどぎんこう同年どうねん法的ほうてき認可にんかけ17の地方ちほう支店してんかまえた。支店してんでは、過度かど正金しょうきん需要じゅようのときは交換こうかんりょう制限せいげんもうけた。銀行ぎんこうけんには支店してんめいしるされ、きむ兌換だかんけん発行はっこうした支店してんでなければおこなえなかった。
  44. ^ スコットランドきたアイルランド通貨つうか発行はっこうけんかく地域ちいき民間みんかん銀行ぎんこうがもっているが、それらの保証ほしょう準備じゅんび発行はっこうがくはごく限定げんていされたもので、それをえる発券はっけんにはイングランド銀行いんぐらんどぎんこうけんによる100%準備じゅんび必要ひつようとされている。
  45. ^ この資産しさん運用うんよう業界ぎょうかいは、マーガレット・サッチャーがサープス(State Earnings-Related Pension Scheme, SERPS)を廃止はいし縮小しゅくしょうして年金ねんきん市場いちば開放かいほうしたときに参入さんにゅうして利益りえきをあげていた。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 仙田せんた左千夫さちお 1992, p. 33.
  2. ^ Alice C. Carter, "The Huguenot Contribution to the Early Years of the Funded Debt, 1964-1714", Proceeding of the Huguenot Society of London, XIX, 1955, pp.31-32.
  3. ^ David Ormrod, The Rise of Commercial Empires: England and the Netherlands in the Age of Mercantilism, 1650-1770, Cambridge University Press, 2003, p.92.
  4. ^ a b ジョン・クラパム 山村さんそんのべあきらやく 『イギリス経済けいざい概説がいせつ来社らいしゃ 1981ねん p.396. 原書げんしょ A Concise Economic History of Britain, From the Earliest Times to 1750 Cambridge University Press, 4th ed., 1963
  5. ^ 新庄しんじょうひろしイングランド銀行いんぐらんどぎんこう成立せいりつにおける銀行ぎんこう計画けいかく信用しんよう通貨つうか清明せいめいかい叢書そうしょVII 1969ねん 45ぺーじ
  6. ^ a b Stanley Chapman, Merchant Enterprise in Britain: From the Industrial Revolution to World War I, Cambridge University Press, 2003, p.34.
  7. ^ a b Clapham(1970), p. 付録ふろくC
  8. ^ Eight European Central Banks, Routledge, 2012, p.97
  9. ^ a b c 平山ひらやま健二郎けんじろう 2006.
  10. ^ a b 井野いのせら久美惠くみえ 2007.
  11. ^ 楊枝ようじ嗣朗「ロック=ラウンズ論争ろんそう再論さいろん : イマジナリー・マネーとしてのポンドの観点かんてんより」『佐賀さが大学だいがく経済けいざい論集ろんしゅうだい39かんだい1ごう佐賀さが大学だいがく経済けいざい学会がっかい、2006ねん5がつ、144ぺーじCRID 1050287462747939840ISSN 02867230 
    (英語えいご) Rethinking on the Controversy between J. Locke and W. Lowndes : from the Viewpoint of Pound Sterling as the Imaginary Money, https://saga-u.repo.nii.ac.jp/records/16874 
  12. ^ 新村しんむらさとしスミスのステュアート信用しんようろん批判ひはん」『岡山大学おかやまだいがく経済けいざい学会がっかい雑誌ざっしだい32かんだい4ごう岡山大学おかやまだいがく経済けいざい学会がっかい、2001ねん3がつ、161-174ぺーじCRID 1390290699544579072doi:10.18926/oer/41480ISSN 0386-3069 
  13. ^ 吉岡よしおか昭彦あきひこ 1981, p. 14.
  14. ^ a b Clapham(1970), p. 57, pp.101-102. 原書げんしょ A BANK OF ENGLAND A History Volume.2. 1797-1914
  15. ^ a b Clapham(1970), p. 88-89
  16. ^ a b ジャン・ブーヴィエ 『ロスチャイルド ヨーロッパ金融きんゆうかいなぞ王国おうこく河出かわで書房しょぼう 1969ねん pp.74-83.
  17. ^ Clapham(1970), p. 101-102.
  18. ^ はま矩子のりこ金融きんゆうだい冒険ぼうけん物語ものがたりエコノミスト (日本にっぽん雑誌ざっし) 2009/1/13 pp.62-63.
  19. ^ 吉岡よしおか昭彦あきひこ 1981, p. 61.
  20. ^ Clapham(1970), p. 308-309.
  21. ^ A. アンドレァデス 『イングランド銀行いんぐらんどぎんこう日本にっぽん評論ひょうろんしゃ 1971ねん pp.410-413. 原書げんしょ A. Andreades Histoire de la Banque d'Angleterre 2tom. Paris 1904
  22. ^ 吉岡よしおか昭彦あきひこ 1981, p. 103.
  23. ^ 官報かんぽう 1890, p. 312.
  24. ^ リチャード・ロバーツ/デイヴィッド・カイナストンへん 浜田はまだ康行やすゆき/宮島みやじま茂紀しげき/小平こだいら良一りょういちやくイングランド銀行いんぐらんどぎんこうの300ねん東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ 1996ねん pp.191-192.
  25. ^ 概説がいせつイギリス経済けいざい, p. 167.
  26. ^ Burk, Kathleen and others (1989). “Morgan Grenfell 1838-1988: The biography of a merchant bank”. OUP Catalogu (Oxford University Press): 111-123. ISBN 9780198283065. https://ideas.repec.org/b/oxp/obooks/9780198283065.html. 
    ; Vincent P. Carosso, Investment Banking in America : A History Cambridge Mass. 1970 pp.510-513.
  27. ^ アンドレァデス p.433.
  28. ^ アンドレァデス p.432.
  29. ^ 概説がいせつイギリス経済けいざい, p. 165-166.
  30. ^ Clapham(1970), p. 447-448.
  31. ^ 井村いむらかおるつよしささえ為替かわせ金銀きんぎん上海しゃんはい出版しゅっぱん協会きょうかい 1923ねん p.291.
  32. ^ 吉岡よしおか昭彦あきひこ 1981, p. 274.
  33. ^ Letter Gov./Hamilton 6 Dec. 1900.
  34. ^ a b 吉岡よしおか昭彦あきひこ 1981, p. 276
  35. ^ 概説がいせつイギリス経済けいざい, p. 168.
  36. ^ 吉岡よしおか昭彦あきひこ 1981, p. 281-282.
  37. ^ 吉岡よしおか昭彦あきひこ 1981, p. 275.
  38. ^ Clapham(1970), p. 474-478. 付録ふろくB, イングランド銀行いんぐらんどぎんこう利率りりつ 1794-1914ねん.
  39. ^ For Cunliff's closeness, Norman Diary 19 Sept. 1916. For financing proposals generally at this juncture, Weems, America and Munitions, p.312.
  40. ^ Michael D. Bordo and John S. Landon-Lane, "The Global Financial Crisis: Is It Unprecedented?", Conference on Global Economic Crisis: Impacts, Transmission, and Recovery ,Paper Number 1, EWC / KDI Conference, Honolulu, Hawaii, 19–20 August 2010, p.7.
  41. ^ (On 4th May 1925,) two credits have been already conditionally negotiated. First, there is a credit which has been arraged with the Federal Reserve Bank of New York, who have undertaken to give the Bank of England a revolving credit of 200 million dollars for two years from the 10th May or the date of the British Government guarantee, whichever date is the latest. Then there is a second arrangement with a Syndicate headed by Messrs. J.P.Morgan. That is for a revolving credit of 100 million dollars, also for two years, to His Majesty's Government direct.
    [Extract from the speach of the Financial Secretary to the Treasury, the Rt. Hon. Walter Guinness, D.S.O., T.D., M.P., in the debate on the Gold Standard Bill (House of Commons Hansard, Vol. 183, pp.622-623.)]
    簡単かんたん交渉こうしょう翌日よくじつチャーチルは、JPモルガンから年利ねんり1.25%という破格はかく条件じょうけん提出ていしゅつされたことを報告ほうこくした。
    House of Commons Hansard, Vol. 183, p.815.
  42. ^ Richard Sidney Sayers, The Bank of England 1891-1944, Cambridge University Press, 1976, Appendix 22.
  43. ^ NHK取材しゅざいはん金融きんゆう小国おぐにニッポンの悲劇ひげき角川かどかわ文庫ぶんこ 1995ねん p.203. ひょう
  44. ^ McKittrick Collection, aide memoire, or-tchéque, vom 24.3.39.
  45. ^ ガーディアン How Bank of England 'helped Nazis sell gold stolen from Czechs' Wednesday 31 July 2013
  46. ^ John Fforde, The Bank of England and Public Policy, 1941-1958, Cambridge 1992 pp.276-304.
  47. ^ フォレスト・キャピー イギリス金融きんゆう研究けんきゅうかいやくイングランド銀行いんぐらんどぎんこう 1950年代ねんだいから1979ねんまで』 日本にっぽん経済けいざい評論ひょうろんしゃ 2015ねん pp.185-186. 原題げんだい THE BANK OF ENGLAND Cambridge University Press 2010
  48. ^ フォレスト p.218.
  49. ^ Parsons to Cromer, 'Brief for talk with Dr. Holtrop Gold', 30 October 1961 G1/280
  50. ^ フォレスト だい11しょう
  51. ^ イングランド銀行いんぐらんどぎんこう Memorandum of Agreement between Burmah Oil Company and the Bank of England, written in January, 1975
  52. ^ Leszek Niewdana, Money and Justice: A Critique of Modern Money and Banking Systems from the Perspective of Aristotelian and Scholastic Thoughts, Routledge, 2015, p.124.
  53. ^ New York Times, Burmah Oil Sues Bank of England, Jun 3, 1981
  54. ^ New York Times, A SHAKEN BURMAH OIL NOW RISK-SHY, Oct 15, 1981
  55. ^ 広瀬ひろせたかし世界せかい金融きんゆう戦争せんそう 謀略ぼうりゃくうずまくウォうぉル街るがい』 NHK出版しゅっぱん 2002ねん11月 p.198.
  56. ^ 八尾やおあきら国際こくさい取引とりひき電子でんし決済けっさい 改訂かいていばん東京とうきょう経済けいざい情報じょうほう出版しゅっぱん 1999ねん pp.167-168.
  57. ^ New York Times, Sex and Bank of England: Downfall for No.2 Official, March 22, 1995
  58. ^ Independent, Bank chief quits over `foolish' affair, March 22, 1995
  59. ^ AP News, No. 2 Bank of England Official Quits Over Love Affair, March 21, 1995
  60. ^ Alistair Milne and Justine Wood, UK Banking 1997-2009: a Very Old Fashioned Crisis, Sept, 2013
  61. ^ 経済けいざい産業さんぎょうしょう Fintech研究けんきゅうかい資料しりょう 2015ねん11月30にち p.6.
  62. ^ 日本にっぽんデジタルマネー協会きょうかい BITCOIN2.0概況がいきょう 2015.05.08 pp.15-16.
  63. ^ WSJ えい政府せいふ、RBSかぶ売却ばいきゃく開始かいしへ=オズボーン財務ざいむしょう 2015ねん6がつ11にち
  64. ^ はま 2008/11/18 pp.66-67.
  65. ^ クラパム 『イングランド銀行いんぐらんどぎんこう 1』 ダイヤモンド社だいやもんどしゃ 1970ねん pp.318-319. 原書げんしょ A BANK OF ENGLAND A History Volume.1. 1694-1797
  66. ^ 仙田せんた左千夫さちお 1992, p. 38.
  67. ^ クラパム 『イングランド銀行いんぐらんどぎんこう 1』 pp.324-325.
  68. ^ はま 2008/12/23 pp.44-45.
  69. ^ 宮田みやたよし智也ともやイギリスにおける銀行ぎんこうあいだ取引とりひき組織そしき成立せいりつ過程かてい : イギリスにおける銀行ぎんこう制度せいど成立せいりつ (2・かん)」『金沢大学かなざわだいがく経済学部けいざいがくぶ論集ろんしゅうだい18かんだい2ごう金沢大学かなざわだいがく経済学部けいざいがくぶ、1998ねん3がつ、71-99ぺーじCRID 1050282810903790848hdl:2297/24383ISSN 0285-4368 
  70. ^ Richard Sidney Sayers, The Bank of England 1891-1944, Cambridge University Press, 1976, Appendix 33.
  71. ^ a b 酒井さかい一夫かずお西村にしむら閑也 『比較ひかく金融きんゆう研究けんきゅうミネルみねるァ書房ぁしょぼう 1992ねん 序章じょしょうひょう1と2
  72. ^ R. S. Sayers, 1976, pp.253-259.
  73. ^ R. S. Sayers, 1976, pp.530-532.
  74. ^ エルネスト・バックス ドゥニ・ロベール 『マネーロンダリングの代理人だいりにん あばかれた巨大きょだい決済けっさい会社かいしゃ暗部あんぶ徳間書店とくましょてん 2002ねん p.204.
  75. ^ a b 米山よねやまとおるこうえい金融きんゆうサービス機構きこう(FSA) : 成立せいりつまでの状況じょうきょう」『埼玉さいたま学園がくえん大学だいがく紀要きよう. 人間にんげん学部がくぶへんだい13かん埼玉さいたま学園がくえん大学だいがく、2013ねん12月、101-110ぺーじCRID 1050282812975022720ISSN 21884803NAID 120005772428 
  76. ^ A chronological list (1694 - present)”. Bank of England. 2014ねん7がつ17にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう