グレイトフル・デッド (英語 えいご : Grateful Dead ) は、アメリカ のロックバンド 。1965年 ねん にカリフォルニア州 しゅう パロアルト で結成 けっせい され[3] [4] 、1995年 ねん に解散 かいさん 。音楽 おんがく 性 せい は”ゆるさ”を特徴 とくちょう としたルーツ志向 しこう で知 し られた。
音楽 おんがく スタイルはカントリー 、フォーク 、ブルーグラス 、ブルース、ロック 、即興 そっきょう のジャズ 、サイケデリック 、スペース・ロック が融合 ゆうごう した物 もの で[5] [6] 、ライブパフォーマンスでは長 なが いインストルメンタルジャムが特徴 とくちょう であり[7] [8] 、彼 かれ らの熱狂 ねっきょう 的 てき なファンは「デッドヘッズ 」として知 し られた。
パティ・スミスグループのギタリスト、レニー・ケイ は「彼 かれ らの音楽 おんがく は、他 た の多 おお くのバンドがその存在 そんざい を知 し りさえしない領域 りょういき に達 たっ している」と表 あらわ した[9] 。これらの様々 さまざま な影響 えいきょう は抽出 ちゅうしゅつ され、多様 たよう でサイケデリックな完全 かんぜん 体 たい としてグレイトフル・デッドを「ジャム・バンド界 かい の開拓 かいたく 者 しゃ 的 てき なゴッドファーザー」とした[10] 。
バンドはローリング・ストーン 誌 し の「ローリング・ストーンの選 えら ぶ歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい な100組 くみ のアーティスト」で57位 い に選 えら ばれた[11] 。1994年 ねん にはロックの殿堂 でんどう 入 い りしている[12] 。また、1977年 ねん 5月 がつ 8日 にち にコーネル大学 だいがく のバートン・ホールで行 おこな われたコンサートはアメリカ議会 ぎかい 図書館 としょかん の全米 ぜんべい 録音 ろくおん 資料 しりょう 登録 とうろく 簿 ぼ に追加 ついか された[13] 。ギター、ボーカルのジェリー・ガルシアは「ローリング・ストーンの選 えら ぶ歴史 れきし 上 じょう 最 もっと も偉大 いだい な100人 にん のギタリスト」において2003年 ねん は第 だい 13位 い 、2011年 ねん の改訂 かいてい 版 ばん では第 だい 46位 い に選 えら ばれている。グレイトフル・デッドはヒットチャートとはほとんど無縁 むえん の存在 そんざい ながら、毎年 まいとし のように大 だい 規模 きぼ ツアーを行 おこな い、観客 かんきゃく 動員 どういん 数 すう も上位 じょうい だった。日本 にっぽん では知名度 ちめいど が高 たか くないが、本国 ほんごく アメリカではアメリカを代表 だいひょう する伝説 でんせつ 的 てき バンドとして認識 にんしき されており、世界中 せかいじゅう で3,500万 まん 枚 まい を超 こ えるアルバムを売 う り上 あ げている。
グレイトフル・デッドはヒッピー 文化 ぶんか 、サイケデリック 文化 ぶんか を代表 だいひょう するアーティストである。カウンターカルチャーが上昇 じょうしょう する1960年代 ねんだい に、その中心 ちゅうしん 地 ち であるサンフランシスコ・ベイエリア で結成 けっせい された[14] [15] [16] 。
創立 そうりつ メンバーは、ジェリー・ガルシア (ギター、ボーカル)、ボブ・ウェア (ギター、ボーカル)、ロン「ピッグペン」マッカーナン (キーボード、ハーモニカ、ボーカル)、フィル・レッシュ (ベース、ボーカル)、およびビル・クルーツマン (ドラム)であった[17] 。
グレイトフル・デッドのメンバーはサンフランシスコの様々 さまざま なバンドで共 とも に演奏 えんそう しており、その中 なか にはマザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオンとワーロックスが含 ふく まれた。レッシュはワーロックスに加入 かにゅう した最後 さいご のメンバーで、それが後 のち にグレイトフル・デッドとなった。レッシュはいくつかのライヴでベースを演奏 えんそう したダナ・モーガンジュニアに代 か わって加入 かにゅう した。ドラマーのミッキー・ハート および演奏 えんそう には参加 さんか しない詩人 しじん のロバート・ハンター は1967年 ねん に参加 さんか した。マッカーナンは1973年 ねん に死去 しきょ し、ハートは1971年 ねん から74年 ねん までバンドから離 はな れていたが、バンドの核 かく はほぼ30年間 ねんかん 不変 ふへん であった[18] 。
この他 ほか の公式 こうしき メンバーは、トム・コンスタンテン (キーボード、1968-1970) 、キース・ゴドショウ (キーボード、1971-1979) 、ドナ・ゴドショウ (ボーカル、1972-1979) 、ブレント・ミドランド (キーボード、ボーカル、1979-1990)、ヴィンス・ウェルニック (キーボード、ボーカル、1990-1995)がいる。ピアニストのブルース・ホーンズビー は、1990年 ねん から1992年 ねん までのツアーメンバーであり、バンド参加 さんか 以前 いぜん と以後 いご も時々 ときどき ゲスト出演 しゅつえん した。
バンドとそのファン(「デッドヘッズ 」)は、ヒッピー・ムーヴメントと密接 みっせつ に関連 かんれん し、長 なが い間 あいだ アメリカ文化 ぶんか の中 なか で制度 せいど の一 いち 形態 けいたい として見 み られた[7] [8] 。現在 げんざい でも多 おお くの熱狂 ねっきょう 的 てき なファンがおり、メンバーの使用 しよう していた楽器 がっき などがオークションに出品 しゅっぴん されると高額 こうがく 落札 らくさつ がされる。バンドのメンバーはその後 ご 他 た のミュージシャンと共 とも に1998年 ねん 、ザ・アザー・ワンズ としてツアーを行 おこな う。2000年 ねん 、2002年 ねん にもツアーを行 おこな った後 のち 、ザ・デッド として2003年 ねん 、2004年 ねん 、2009年 ねん にツアーを行 おこな った。現在 げんざい はデッドの再 さい 結成 けっせい とも言 い える多数 たすう のバンドがあり、最 もっと も有名 ゆうめい なツアーアクトはファーザー 、フィル・レッシュ・アンド・フレンズ 、ラットドッグ 、そしてドラマーのミッキー・ハート 、ビル・クルーツマン が参加 さんか したリズム・デビルズ がある。バンドは結成 けっせい 50周年 しゅうねん 記念 きねん として、トレイ・アナスタシオ 、フィッシュ とコンサートを行 おこな ったが、バンドはそれを最後 さいご のコンサートになるとアナウンスした[19] 。
グレイトフル・デッド結成 けっせい ・1965年 ねん -1969年 ねん
編集 へんしゅう
グレイトフル・デッド、1980年 ねん 。左 ひだり から右 みぎ に:ジェリー・ガルシア、ビル・クルーツマン、ボブ・ウェア、ミッキー・ハート、フィル・レッシュ
バンドは1965年 ねん 初 はじ めにワーロックス としてパロアルト で活動 かつどう を始 はじ めた。ワーロックスはジャグ・バンド のマザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオン の残 のこ ったメンバーにより結成 けっせい された[20] 。最初 さいしょ のステージは1965年 ねん 5月 がつ 5日 にち 、メンローパーク のサンタクルーズ通 どお り639にあるマンゴーズ・ピザで行 おこな われた。彼 かれ らはワーロックスと名乗 なの ったものの、同 どう 時期 じき に東海岸 ひがしかいがん にもワーロックスというバンドがあり、それは後 のち にヴェルヴェット・アンダーグラウンド となっている[21] [22] 。そのショーは録音 ろくおん されず、セットリストも残 のこ っていない。彼 かれ らは同 おな じ名前 なまえ のバンドがレコーディングの契約 けいやく を行 おこな ったことを知 し ると、すぐにその名 な を変更 へんこう した。新 あら たな名前 なまえ グレイトフル・デッド での最初 さいしょ のステージは1965年 ねん 12月4日 にち のサンノゼ で、ケン・キージー のアシッド・テスト (英語 えいご 版 ばん ) の一 ひと つであった[23] [24] [25] 。初期 しょき のデモテープ は残存 ざんそん したが、2,000以上 いじょう のコンサートでバンドのファンによって記録 きろく された最初 さいしょ の物 もの として知 し られているのは1966年 ねん 1月 がつ 8日 にち のサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアム のショーであった[26] 。その月 つき の後半 こうはん にグレイトフル・デッドはトリップス・フェスティバル(初期 しょき のサイケデリック・ロック のコンサート)に参加 さんか した。
バンド名 めい の「グレイトフル・デッド」は辞書 じしょ から選 えら ばれた。フィル・レッシュの自伝 じでん (pp. 62)によると、メンバーがレッシュの家 いえ に集 あつ まった際 さい 、ガルシアが「...古 ふる いブリタニカ世界 せかい 言語 げんご 辞典 じてん を取 と り上 あ げた...そして、その澄 す んだ妖精 ようせい のような声 こえ で『よう、グレイトフル・デッドはどうだい?』と私 わたし に言 い った。その定義 ていぎ は『慈善 じぜん 行為 こうい として死者 ししゃ の埋葬 まいそう を手配 てはい した人物 じんぶつ に対 たい して謝意 しゃい を示 しめ す死者 ししゃ または天使 てんし 』であった。」グレイトフル・デッドの曲 きょく の出版 しゅっぱん 会社 かいしゃ 、アイス・ナイン の社長 しゃちょう であるアラン・トリストによると、ガルシアはその語 かたり をファンク・アンド・ワグネル (英語 えいご 版 ばん ) の「民話 みんわ 辞典 じてん 」でフィクショナリー をしているときに見 み つけたという[27] 。その辞書 じしょ によると、『トビト記 き 』やチベット仏教 ぶっきょう の経典 きょうてん 『チベット死者 ししゃ の書 しょ 』など世界中 せかいじゅう に残 のこ っている「彷徨 ほうこう える魂 たましい を成仏 じょうぶつ させる旅人 たびびと の寓話 ぐうわ 」に登場 とうじょう する「感謝 かんしゃ する死者 ししゃ (Grateful Dead)」という意味 いみ で、「負債 ふさい を抱 かか えたまま死 し んだため埋葬 まいそう されない死者 ししゃ のためにお金 かね を出 だ してやった旅人 たびびと が、以後 いご 不思議 ふしぎ な幸運 こううん に見舞 みま われるようになり、それはその死者 ししゃ に感謝 かんしゃ されたおかげだと気 き づいた。」とされる。ガルシアの伝記 でんき 「Captain Trips 」の作者 さくしゃ サンディ・トロイは、バンドが当時 とうじ DMT を吸飲 きゅういん していたと述 の べる[28] 。「グレイトフル・デッド」の語 かたり はいろいろな文化 ぶんか の民話 みんわ に現 あらわ れている。1969年 ねん の中頃 なかごろ にフィル・レッシュは別 べつ の話 はなし を、マリン郡 ぐん でバンドを訪 たず ねてきた若 わか いテキサス人 じん のキャロル・モーにしている。それによるとフィルは「ジェリーが辞書 じしょ を拾 ひろ い上 あ げて、ページが開 ひら いたところに自発 じはつ 的 てき に名前 なまえ を見 み つけた。『grateful』と『dead』は、無関係 むかんけい なテキストの載 の ったページを挟 はさ んで、互 たが いの反対 はんたい 側 がわ に真 ま っ直 す ぐに現 あらわ れた。」と語 かた ったという。
この他 ほか に、バンドを初期 しょき にサポートした人物 じんぶつ にはロック・スカリー がいる。スカリーはキージーからバンドのことを聞 き き、彼 かれ らとビッグ・ビート・アシッド・テストで出会 であ った後 のち にマネージャーとして契約 けいやく した。スチュアート・ブランド は「テープ録音 ろくおん された音楽 おんがく とインディアンの生活 せいかつ のスライドによるマルチメディア・プレゼンテーション」をビッグ・ビートで行 おこな い、トリップス・フェスティバルではそれを拡大 かくだい した。そして「アシッド・キング」と呼 よ ばれたオウズリー・スタンリー はLSD をテストに供給 きょうきゅう し、1966年 ねん 初 はじ めにはバンドを金銭 きんせん 的 てき にサポート、彼 かれ らのためにワッツ 周辺 しゅうへん に家 いえ を借 か り、音楽 おんがく 機材 きざい を買 か い与 あた えた。ガルシアは「私 わたし たちは当時 とうじ オウズリーの恩寵 おんちょう を受 う けて生 い きているだけだった...(彼 かれ の)トリップは私 わたし たちのための機材 きざい をデザインしたかったことであり、そして私 わたし たちは彼 かれ がそれをするために研究 けんきゅう 室 しつ の状況 じょうきょう でいなければならないつもりだった。」と語 かた った[28] 。
マントラ・ロック・ダンス のプロモーション・ポスター。
バンドの初期 しょき の重要 じゅうよう なパフォーマンスの一 ひと つとして、1967年 ねん のマントラ・ロック・ダンス (1967年 ねん 1月 がつ 29日 にち にザ・アヴァロン で行 おこな われたクリシュナ意識 いしき 国際 こくさい 協会 きょうかい 寺院 じいん 主催 しゅさい のコンサート)が上 あ げられる。グレイトフル・デッドは、クリシュナ意識 いしき 国際 こくさい 協会 きょうかい 創立 そうりつ 者 しゃ のスワミ・プラブパーダ 、詩人 しじん のアレン・ギンズバーグ 、モビー・グレープ 、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー ・ウィズ・ジャニス・ジョプリン らと共 とも に出演 しゅつえん し。収益 しゅうえき をクリシュナ意識 いしき 国際 こくさい 協会 きょうかい に寄贈 きぞう した[29] [30] 。バンドのファーストアルバム、『ザ・グレイトフル・デッド 』はワーナー・ブラザースから1967年 ねん にリリースされた。
クラシックのトランペット 奏者 そうしゃ であったフィル・レッシュ はベース を演奏 えんそう した。最 もっと も若 わか いオリジナルメンバーのボブ・ウェア はリズムギター を担当 たんとう した。ロン「ピッグペン」マッカーナン は、27歳 さい で死去 しきょ する直前 ちょくぜん の1973年 ねん までキーボード とハーモニカ を担当 たんとう した。ガルシア、ウェア、マッカーナンはリードヴォーカルをほぼ同 おな じく担当 たんとう した。レッシュは何 なん 曲 きょく かでリードヴォーカルを担当 たんとう したが、彼 かれ のテナーはバンドの3部 ぶ ハーモニーのキーであった。ビル・クルーツマン はドラム を演奏 えんそう し、1967年 ねん 9月 がつ には2番目 ばんめ のドラマー、ニューヨーク出身 しゅっしん のミッキー・ハート が参加 さんか した。ハートは多種 たしゅ 多様 たよう な他 ほか の打楽器 だがっき も演奏 えんそう した。
1970年 ねん 、バンドはニューオーリンズ のウェアハウス で2度 ど のコンサートを行 おこな った。1970年 ねん 1月 がつ 31日 にち 、地元 じもと の警察 けいさつ がバーボン・ストリート のバンドが宿泊 しゅくはく するホテルを捜索 そうさく し、様々 さまざま な麻薬 まやく の所持 しょじ 容疑 ようぎ で19名 めい を逮捕 たいほ 、起訴 きそ した[31] 。2晩 ばん 目 め のコンサートは保釈 ほしゃく 保証人 ほしょうにん が置 お かれた後 のち に行 おこな われた。結局 けっきょく 、起訴 きそ は音響 おんきょう エンジニアのオウズリー・スタンリーを除 のぞ いて全員 ぜんいん が退 しりぞ けられた。スタンリーは既 すで にカリフォルニアでLSDを製造 せいぞう していた罪 つみ で起訴 きそ されていた。この晩 ばん の出来事 できごと は後 のち にアルバム『アメリカン・ビューティー』からのシングル「トラッキン 」の歌詞 かし に歌 うた われ、チャートでは64位 い を記録 きろく した。
ミッキー・ハートは1971年 ねん 2月 がつ にグレイトフル・デッドを脱退 だったい [32] 、再 ふたた びドラマーはクルーツマン1人 にん という体制 たいせい になった。ハートは1974年 ねん 10月 がつ に再 さい 加入 かにゅう する。トム「TC」コンスタンテン は1968年 ねん から70年 ねん まで2人 ふたり 目 め のキーボード奏者 そうしゃ としてバンドに加 くわ わり、その間 あいだ ピッグペンは様々 さまざま なパーカッションとヴォーカルを担当 たんとう した。
コンスタンテンの脱退 だったい 後 ご 、ピッグペンは唯一 ゆいいつ のオルガン奏者 そうしゃ としてのポジションに変更 へんこう した。2年 ねん 足 た らず後 ご の1971年 ねん 末 まつ 、新 あら たなキーボード奏者 そうしゃ のキース・ゴドショウ が加入 かにゅう した。ゴドショウはピッグペンのオルガンの横 よこ でグランドピアノ を演奏 えんそう する。1972年 ねん 初 はじ めにはキース・ゴドショウの妻 つま のドナ・ジーン・ゴドショウ がバックヴォーカルとして加入 かにゅう した。
『ヨーロッパ'72 』ツアーの後 のち 、ピッグペンの体調 たいちょう は悪化 あっか し、バンドのツアーには参加 さんか できなくなった。彼 かれ が最後 さいご に登場 とうじょう したのは1972年 ねん 6月 がつ 17日 にち 、ロサンゼルス のハリウッド・ボウル でのコンサートであった[33] 。ピッグペンは1973年 ねん 3月 がつ にアルコール中毒 ちゅうどく が原因 げんいん の複 ふく 合 ごう 症 しょう により死去 しきょ した[34] 。
ピッグペンの死 し にも関 かか わらずバンドは活動 かつどう のペースを落 お とさず、彼 かれ らは新 しん メンバーと共 とも に続行 ぞっこう した。彼 かれ らは間 ま もなく自身 じしん のレーベル、グレイトフル・デッド・レコードを設立 せつりつ した[35] 。その年 とし の後半 こうはん 、バンドは新 あら たなスタジオアルバム、ジャズ の影響 えいきょう を受 う けた『ウェイク・オブ・ザ・フラッド 』をリリースした。同 どう 作 さく はこれまでに無 な い商業 しょうぎょう 的 てき 成功 せいこう となった[36] 。バンドは同 どう 作 さく の成功 せいこう を利用 りよう して、すぐにスタジオに戻 もど った。そして、翌 よく 1974年 ねん には『フロム・ザ・マーズ・ホテル 』をリリースした。しかしそのアルバムのリリースの後 のち まもなく、デッドはライヴツアーの休止 きゅうし を決定 けってい した。
1975年 ねん 9月 がつ 、バンドは8作 さく 目 め のスタジオアルバム『ブルース・フォー・アラー 』を発表 はっぴょう した。彼 かれ らは1976年 ねん 6月 がつ にツアー活動 かつどう を再開 さいかい し、休止 きゅうし は短期間 たんきかん で終了 しゅうりょう した[35] 。同年 どうねん 、彼 かれ らはアリスタ・レコード と再 さい 契約 けいやく した。1977年 ねん 、アリスタからのニューアルバム『テラピン・ステーション 』がリリースされた。全 すべ てがうまく行 い っているように見 み えたが、新 しん 加入 かにゅう のメンバー、キースとドナ・ジーン・ゴドショウに問題 もんだい が生 しょう じていた。1970年代 ねんだい 後半 こうはん のツアーでバンドはフリーベース・コカイン を使用 しよう するようになっていた[37] 。ライヴでは、ドナにしばしばヴォーカルの問題 もんだい が生 しょう じ、キースは習慣 しゅうかん 性 せい の麻薬 まやく に依存 いぞん するようになっていた。2人 ふたり の問題 もんだい はツアーによって複雑 ふくざつ 化 か を引 ひ き起 お こしていた。そして、彼 かれ らは1979年 ねん 2月 がつ にバンドからの脱退 だったい に同意 どうい した。
レッド・ロックス・アンフィシアター でのコンサート、1987年 ねん 。: ジェリー・ガルシア(ギター)、ミッキー・ハート(ドラムス)
ゴドショウ夫妻 ふさい の脱退 だったい 後 ご 、ブレント・ミドランド がキーボード奏者 そうしゃ 、ヴォーカリストとして加入 かにゅう し、それは「完全 かんぜん なフィット」と考 かんが えられた。キースとドナ・ジーンはハート・オブ・ゴールド・バンド を結成 けっせい したが、キースは1980年 ねん に交通 こうつう 事故 じこ で死去 しきょ した。ミドランドはグレイトフル・デッドで11年間 ねんかん キーボードを演奏 えんそう したが、1990年 ねん 7月 がつ にオーバードーズのため死去 しきょ した[38] 。グレイトフル・デッドのキーボード奏者 そうしゃ として死去 しきょ したのは3人 にん 目 め であった。
1980年代 ねんだい にバンドは、ミドランドの才能 さいのう を借 か りてその様子 ようす を変 か えていった。1980年代 ねんだい 初 はじ めにミドランドがバンドでの位置 いち を確立 かくりつ して間 あいだ もなく、ガルシアの健康 けんこう が衰 おとろ え始 はじ めた。彼 かれ の麻薬 まやく 使用 しよう の習慣 しゅうかん はステージ上 じょう での活気 かっき を損 そこ ねていった。ガルシアは1985年 ねん に麻薬 まやく 使用 しよう の習慣 しゅうかん を絶 た った後 のち 、1986年 ねん 7月 がつ に数 すう 日間 にちかん 糖尿 とうにょう 病 びょう 性 せい 昏睡 こんすい に陥 おちい った。回復 かいふく 後 ご 、バンドは1987年 ねん 7月 がつ に『イン・ザ・ダーク 』をリリースしたが、同 どう 作 さく は彼 かれ らのスタジオアルバムの中 なか で最大 さいだい のヒットとなり、同 どう 作 さっ からのシングル「タッチ・オブ・グレイ 」は彼 かれ ら唯一 ゆいいつ のトップ10ヒットとなった。またその年 とし にバンドはボブ・ディラン とツアーを行 おこな い、その様子 ようす は『ディラン&ザ・デッド 』としてリリースされた。
ガルシアの回復 かいふく とアルバムの成功 せいこう に触発 しょくはつ され、バンドの意欲 いよく と相性 あいしょう は1980年代 ねんだい 後半 こうはん から90年代 ねんだい にかけてピークに達 たっ した。パフォーマンスは精力 せいりょく 的 てき で、そしてその結果 けっか としてあらゆるショーはその最大 さいだい 収容 しゅうよう 数 すう を上回 うわまわ る盛況 せいきょう となった。ミドランドが1990年 ねん 夏 なつ のツアー後 ご に死去 しきょ し、バンドの「ハイタイム」は突然 とつぜん に停止 ていし した。バンドは今 いま や再 さい 構築 こうちく する必要 ひつよう があった。元 もと チューブス のキーボード奏者 そうしゃ であるヴィンス・ウェルニック と、ザ・レインジというバンドで成功 せいこう を収 おさ めていたブルース・ホーンズビー の2名 めい がキーボードとヴォーカルで加入 かにゅう した。ウェルニックはバンドに正式 せいしき メンバーとして加入 かにゅう し、ガルシアの死 し まで在籍 ざいせき したが、ザ・アザー・ワンズ やザ・デッド のメンバーにはならなかった。しかし彼 かれ はラットドッグ の初期 しょき の具体 ぐたい 化 か の際 さい にボブ・ウェアとプレイしている。ウェルニックは2006年 ねん 6月 がつ 2日 にち に死去 しきょ し、伝 つた えられるところによれば、死因 しいん は自殺 じさつ であったという[39] 。ホーンスビーは1992年 ねん 3月 がつ 24日 にち まで非公式 ひこうしき なメンバーであり、その後 ご も様々 さまざま なグレイトフル・デッドのプロジェクトに参加 さんか した。
ステージでのボブ・ウェア 、2007年 ねん 。モデュラス G3FHを使用 しよう
1995年 ねん 8月 がつ 9日 にち 、ジェリー・ガルシア はカリフォルニアの薬物 やくぶつ リハビリ施設 しせつ に入院 にゅういん 中 ちゅう 、心臓 しんぞう 発作 ほっさ のため53歳 さい で逝去 せいきょ 。
死後 しご 、残 のこ されたメンバーは正式 せいしき に解散 かいさん を決 き めた[40] 。しかしそれ以来 いらい 、残 のこ されたメンバーの様々 さまざま な組 く み合 あ わせによる再 さい 結成 けっせい コンサートが行 おこな われている。
1995年 ねん 以来 いらい 、グレイトフル・デッドの元 もと メンバーはソロの音楽 おんがく 活動 かつどう も継続 けいぞく した。ボブ・ウェア&ラットドッグ は多 おお くのコンサートを行 おこな い、何 なん 枚 まい かのアルバムもリリースした[41] [42] 。フィル・レッシュ・アンド・フレンズ も同様 どうよう である[43] [44] 。ミッキー・ハートとビル・クルーツマンもそれぞれ何 なん 枚 まい かのアルバムをリリースした。ハートは彼 かれ のワールドミュージック ・パーカッションアンサンブルのプラネット・ドラム[45] ならびにミッキー・ハート・バンドとともにツアーを行 おこな った[46] 。クルーツマンはいくつかの異 こと なったバンドを率 ひき い、その中 なか にはBK3 [47] 、7ウォーカーズ (パパ・マリ と共 とも に)[48] 、ビリー&ザ・キッズ が含 ふく まれる[49] 。ドナ・ゴドショウはドナ・ジーン・ゴドショウ・バンド でミュージックシーンに復帰 ふっき し[50] 、トム・コンスタンテン も作曲 さっきょく と演奏 えんそう を続 つづ けている[51] 。これらの全 すべ てのグループがグレイトフル・デッドの曲 きょく を演奏 えんそう し続 つづ けている
1998年 ねん 、ボブ・ウェア、フィル・レッシュおよびミッキー・ハートに加 くわ えて何 なん 名 めい かのミュージシャンによるジ・アザー・ワンズ が結成 けっせい されて複 ふく 数 すう 回 かい のライヴを行 おこな い、翌年 よくねん にはライヴアルバム『The Strange Remain 』がリリースされた。2000年 ねん にアザー・ワンズは再 ふたた びツアーを行 おこな い、このときはビル・クルーツマンが加 くわ わったが、レッシュは参加 さんか しなかった。翌年 よくねん は休養 きゅうよう し、2002年 ねん に再 ふたた び活動 かつどう を行 おこな う。このときはレッシュが参加 さんか し、グレイトフル・デッドの経歴 けいれき のほとんどで活動 かつどう していた元 もと メンバー4人 にん が参加 さんか することとなった。アザー・ワンズにはこの他 た ギタリストとしてマーク・カラン (英語 えいご 版 ばん ) 、スティーヴ・キモック 、ジミー・ヘリング 、キーボード奏者 そうしゃ としてブルース・ホーンズビー 、ジェフ・キメンティ 、ロブ・バラッコ 、サキソフォン奏者 そうしゃ のデイヴ・エリス 、ドラマーのジョン・モロ 、ベーシストのアルフォンソ・ジョンソン 、ヴォーカリストのスーザン・タデスキ が加 くわ わった[52] 。
2003年 ねん 、ウェア、レッシュ、ハート、クルーツマンを含 ふく むジ・アザー・ワンズはその名 な を「ザ・デッド 」と変更 へんこう した[53] 。ザ・デッドは2003年 ねん と2004年 ねん にツアーを行 おこな った。2008年 ねん には2度 ど のコンサート、「デッドヘッズ・フォー・オバマ 」「チェンジ・ロックス」を行 おこな った。2009年 ねん にもツアーを実施 じっし する。デッドのメンバーは様々 さまざま で、その中 なか にはギタリストのジミー・ヘリング、ウォーレン・ヘインズ 、キーボードのジェフ・キメンティ、ロブ・バラッコ、ヴォーカリストのジョーン・オズボーン が含 ふく まれた[54] 。
2009年 ねん のデッドのツアー後 ご 、レッシュとウェアは「ファーザー 」を結成 けっせい し、9月にデビューした[55] 。参加 さんか メンバーはレッシュとウェアに加 くわ えてジョン・カドルシック (ギター)、ジェフ・キメンティ(キーボード)、ジョー・ルッソ (ドラム)、ジェイ・レーン (ドラム)、サンシャイン・ベッカー (ヴォーカル)およびゾエ・エリス (ボーカル)であった 。レーンとエリスは2010年 ねん にバンドを去 さ り、その年 とし の後 のち にヴォーカリストのジェフ・パーソン が加入 かにゅう した。ファーザーは2014年 ねん に解散 かいさん した[56] 。
2010年 ねん にハートとクルーツマンはリズム・デビルズ を再 さい 結成 けっせい し、夏 なつ にコンサートツアーを行 おこな った[57] 。
2014年 ねん 10月 がつ にマーティン・スコセッシ がグレイトフル・デッドのドキュメンタリー映画 えいが を製作 せいさく すると発表 はっぴょう された。監督 かんとく はアミール・バーレフ 。デヴィッド・レミュー が選曲 せんきょく の監修 かんしゅう を行 おこな い、ウェア、ハート、クルーツマンおよびレッシュは映画 えいが のために新 あら たなインタビューを受 う けることに同意 どうい した[58] 。
2015年 ねん 、ウェア、レッシュ、クルーツマンおよびハートは「"Fare Thee Well: Celebrating 50 Years of the Grateful Dead"」と呼 よ ばれる5夜 や のコンサートのためバンドを再 さい 結成 けっせい した[59] 。コンサートは6月 がつ 27日 にち 、28日 にち にカリフォルニア州 しゅう サンタクララ のリーバイス・スタジアム で、7月 がつ 3日 にち 、4日 にち 、5日 にち にイリノイ州 しゅう シカゴ のソルジャー・フィールド で行 おこな われた[59] [60] 。これはいわゆる「核 かく となる4人 にん 」が一緒 いっしょ に演奏 えんそう する最後 さいご のライヴであると述 の べられた[61] 。バンドはフィッシュ のトレイ・アナスタシオ (ギター)、ジェフ・キメンティ(キーボード)、ブルース・ホーンスビー(ピアノ)がサポートした[62] [63] 。チケットの需要 じゅよう は非常 ひじょう に高騰 こうとう した[64] [65] 。コンサートは、いろいろなメディアによって同時 どうじ 放送 ほうそう された[66] [67] 。シカゴでのショーはCDおよびDVDのボックスセットとしてリリースされた[68] 。
2015年 ねん 8月 がつ 、グレイトフル・デッドの元 もと メンバー、ミッキー・ハート、ビル・クルーツマンおよびボブ・ウェアは、ギタリストのジョン・メイヤー 、キーボード奏者 そうしゃ のジェフ・キメンティ 、ベーシストのオテイル・バーブリッジ と共 とも にデッド&カンパニー を結成 けっせい すると発表 はっぴょう した。バンドは2015年 ねん 10月 がつ から12月 がつ にかけて20以上 いじょう のコンサートを行 おこな い、2016年 ねん 夏 なつ にも第 だい 2回 かい ツアーとして20以上 いじょう のコンサートを行 おこな うことが発表 はっぴょう された[69] [70] 。
サンフランシスコ、ウォーフィールド・シアター でのアコースティック・パフォーマンス、1980年 ねん 。左 ひだり から右 みぎ に:ガルシア、レッシュ、クルーツマン、ウェア、ハート、ミドランド
グレイトフル・デッドは、ビートルズ 、ザ・ビーチ・ボーイズ 、ローリング・ストーンズ などのバンドが放送 ほうそう を支配 しはい していた時代 じだい に結成 けっせい された。「ビートルズは、私 わたし 達 たち がジャグ・バンドからロックンロールバンドに転向 てんこう した理由 りゆう であった」とボブ・ウェアは語 かた った。「私 わたし 達 たち が見 み た彼 かれ らの演奏 えんそう は極端 きょくたん に魅力 みりょく 的 てき であった。」以前 いぜん のフォークシーンにおけるスターであったボブ・ディラン は、エレキ楽器 がっき をフィーチャーしたアルバムを数 すう 枚 まい リリースした。「私 わたし はより価値 かち のある行 おこな いについて何 なに も考 かんが えることができなかった。」とガルシアは語 かた った[71] 。グレイトフル・デッドのメンバーはニューヨークのバンドラヴィン・スプーンフル とのツアーの後 のち 、「エレキで行 い く」と決心 けっしん し、より汚 よご れた音 おと を探 さが し始 はじ めた。徐々 じょじょ に、アメリカ東海岸 ひがしかいがん のフォークミュージシャン、元 もと はコーヒーハウスシーンの先覚 せんかく 者 しゃ のほとんどが、エレキ楽器 がっき の使用 しよう に転向 てんこう していった。1950年代 ねんだい 後半 こうはん および60年代 ねんだい 初期 しょき のアメリカのフォークミュージック・リバイバル に没頭 ぼっとう していたジェリー・ガルシアとボブ・ウェアにとって、エレキ楽器 がっき の方 ほう に心 しん を開 ひら いていったことは自然 しぜん なことであった。
グレイトフル・デッドの初期 しょき のスタイル(1960年代 ねんだい 中期 ちゅうき )は、「サイケデリック・ミュージック 」を確立 かくりつ する過程 かてい の一部 いちぶ であったけれども、彼 かれ らの本質 ほんしつ は「ストリート・パーティ」であった。彼 かれ らは「サイケデリック」な演奏 えんそう を発展 はってん させ、パロアルトでケン・キージー と出会 であ い、その後 ご 彼 かれ の開催 かいさい したアシッド・テスト のハウスバンド となった[72] 。デッドは、彼 かれ らの音楽 おんがく を確立 かくりつ したカテゴリー(例 たと えばポップ・ロック、ブルース、フォークロック、カントリー・アンド・ウェスタン)に固定 こてい したいとは思 おも わなかった。彼 かれ らのレパートリーの中 なか の個々 ここ の曲 きょく はこれらのカテゴリーの下 した で特定 とくてい することができた。しかし、全体 ぜんたい としての彼 かれ らの音楽 おんがく はこれら全 すべ てのジャンルと、よりしばしば、それらのいくつかが混合 こんごう したものであった。それはおそらくこれを考慮 こうりょ して、ビル・グラハム がグレイトフル・デッドについて「彼 かれ らは何 なに かをするときに最高 さいこう ではなく、彼 かれ らがすべきことをするのが、唯一 ゆいいつ のものである。」と語 かた った[73] 。しばしばデッドは(ライヴとレコーディングの両方 りょうほう において)、調査 ちょうさ のために奇妙 きみょう な音 おと の広 ひろ がりの余地 よち を残 のこ した。
彼 かれ らのライヴは、音楽 おんがく への即興 そっきょう 的 てき なアプローチを元 もと にして、グレイトフル・デッドを他 た のライヴバンドと異 こと なった存在 そんざい に作 つく り上 あ げた。ほとんどのロックンロールバンドが、都市 とし から都市 とし へ移動 いどう し毎晩 まいばん ツアーのための標準 ひょうじゅん 的 てき なショーをリハーサルする間 あいだ 、グレイトフル・デッドはそれを行 おこな わなかった。ガルシアは1966年 ねん のインタビューで「私 わたし たちは前 まえ もって私 わたし たちのセットを作 つく ってはいない。私 わたし たちは一 いち 枚 まい の紙 かみ からよりむしろ頭 あたま のてっぺんから離 はな れて働 はたら く方 ほう が良 よ い。[74] 」と語 かた っている。彼 かれ らは、存在 そんざい を通 とお してこの操作 そうさ の倫理 りんり 的 てき 体系 たいけい を維持 いじ した。それぞれの演奏 えんそう ごとに、バンドは100曲 きょく ほどのレパートリーから、材料 ざいりょう を得 え た[74] 。
1969年 ねん のライヴアルバム『ライヴ/デッド 』は彼 かれ らの本質 ほんしつ の多 おお くを捉 とら えているが、商業 しょうぎょう 的 てき な成功 せいこう は1970年 ねん の『ワーキングマンズ・デッド 』『アメリカン・ビューティー 』まで待 ま たなければいけなかった。これらのアルバムは、主 しゅ としてバンドのリラックスしたアコースティック 演奏 えんそう と、より伝統 でんとう 的 てき な曲 きょく の構造 こうぞう を特徴 とくちょう とした。
バンドとそのサウンドは30年 ねん にも及 およ ぶツアーと演奏 えんそう 、レコーディングによって円熟 えんじゅく し、各々 おのおの のメンバーのスタイルの貢献 こうけん はより定 さだ められ、着実 ちゃくじつ で、定義 ていぎ 可能 かのう になった。元々 もともと はクラシックのトランペット奏者 そうしゃ で、幅広 はばひろ い音楽 おんがく 理論 りろん の背景 はいけい を持 も つレッシュは、伝統 でんとう 的 てき なブルースを基礎 きそ としたベースを演奏 えんそう する傾向 けいこう ではなく、しばしば二 に 番目 ばんめ のリードギターのようによりメロディックで、シンフォニックな複雑 ふくざつ なラインを演奏 えんそう した。ウェアも伝統 でんとう 的 てき なリズムギター奏者 そうしゃ ではなかったけれども、デッドのサウンドにおいてはジャズに影響 えいきょう され、ユニークな逆転 ぎゃくてん をする傾向 けいこう があった。2人 ふたり のドラマー、ミッキー・ハートとクルーツマンは、クルーツマンのしっかりしたビートとハートのロック古典 こてん から外 はず れたパーカッションスタイルへの興味 きょうみ が釣 つ り合 あ って、ユニークで複雑 ふくざつ なインタープレイを開発 かいはつ した。ハートは自 みずか らのドラムカウントに合 あ わせて11-カウントメジャーを取 と り入 い れた。そして、その新生 しんせい スタイルの重要 じゅうよう な部分 ぶぶん になったバンドの音 おと に新 しん 次元 じげん を持 も ち込 こ んだ[75] 。ガルシアのリードラインは流 なが れるようで、柔軟 じゅうなん で、控 ひか え気味 ぎみ だった。そして、フィンガーピッキングとバンジョーの訓練 くんれん にその性格 せいかく の多 おお くを負 お っていた。
バンドの主 おも な作詞 さくし 家 か のロバート・ハンター とジョン・ペリー・バーロウ は、一般 いっぱん 的 てき に愛情 あいじょう と損失 そんしつ 、生 なま と死 し 、ギャンブルと殺人 さつじん 、美 び と恐怖 きょうふ 、カオスと秩序 ちつじょ 、神 かみ および他 た の宗教 しゅうきょう 的 てき テーマ、旅行 りょこう とツアーをテーマにして作詞 さくし を行 おこな った[要 よう 出典 しゅってん ] 。ザ・ニューヨーカー 誌 し の回顧 かいこ 展 てん では、ハンターの詩句 しく を「楕円 だえん で、かわるがわる鮮明 せんめい で、格言 かくげん 的 てき な」ものと表現 ひょうげん した。そして、それはしばしば「バラとベルと露 ろ についてのヒッピーの詩 し 」であった[76] 。
ハル・カント は音楽 おんがく グループの代理人 だいりにん 業 ぎょう を専門 せんもん とするエンターティンメント業界 ぎょうかい で活動 かつどう する弁護士 べんごし であった。彼 かれ は35年 ねん に亘 わた ってグレイトフル・デッドの専属 せんぞく 弁護士 べんごし と代理人 だいりにん を務 つと め、グループ内 ない でのポジションは強 つよ く、バンドのビジネスにおいて彼 かれ は「皇帝 こうてい 」と見 み なされた[77] 。
カントはバンドの知的 ちてき 財産 ざいさん 権 けん と販売 はんばい 権利 けんり の管理 かんり を通 つう じて、バンドに数 すう 百 ひゃく 万 まん ドルの利益 りえき をもたらした。カントの推薦 すいせん により、デッドはロック界 かい における数少 かずすく ない自身 じしん のマスターテープと出版 しゅっぱん 権 けん を所有 しょゆう するバンドの先駆 さきが けとなった。
2006年 ねん にグレイトフル・デッドはライノ・エンタテインメント との10年 ねん に及 およ ぶライセンス契約 けいやく にサインした。ライノはデッドのビジネスをマネージメントし、その中 なか にはアルバムのリリース、グッズの販売 はんばい およびマーケティングが含 ふく まれた。2011年 ねん にライノとグレイトフル・デッド・プロダクションはキュリオス・センスと共 とも にバンドの遺産 いさん を元 もと にしたオンラインおよびモバイルのソーシャルゲームの開発 かいはつ を始 はじ めた[78] 。バンドはデッドの音楽 おんがく カタログの所有 しょゆう 権 けん と開発 かいはつ の権利 けんり を引 ひ き続 つづ いて所有 しょゆう する[79] [80] 。
グレイトフル・デッドのビデオゲーム「Grateful Dead Game - The Epic Tour [81] 」はキュリオス・センスが開発 かいはつ し、2012年 ねん 4月 がつ にリリースされた[82] 。
グレイトフル・デッドのメンバー、1980年代 ねんだい 初 はじ め。:ドラムをプレイするビル・クルーツマンを見 み つめるブレント・ミドランド、ボブ・ウェア、ジェリー・ガルシア
1994年 ねん 春 はる のナッソー・コロシアム でのコンサートチケットの半 はん 券 けん
グレイトフル・デッドはその経歴 けいれき を通 とお して常 つね にツアーを行 おこな い、2,300回 かい 以上 いじょう のコンサートを行 おこな った[83] 。彼 かれ らは「デッドヘッズ 」と呼 よ ばれるファンのコミュニティ形成 けいせい を促進 そくしん し、多 おお くのファンが彼 かれ らのツアーを追 お いかけた。バンドは経歴 けいれき の初期 しょき に自 みずか らの時間 じかん と才能 さいのう をコミュニティ形成 けいせい につぎ込 こ み、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーでは無料 むりょう の食事 しょくじ 、宿泊 しゅくはく 、音楽 おんがく 、そして健康 けんこう 管理 かんり も提供 ていきょう した。バンドは「音楽 おんがく の歴史 れきし 上 じょう どんなバンドよりも自由 じゆう なコンサート」を実行 じっこう したと言 い われた[84] 。
1975年 ねん (この年 とし はライヴを休憩 きゅうけい し、4回 かい のコンサートを行 おこな ったのみであった)を除 のぞ いて、グレイトフル・デッドは1965年 ねん 4月 がつ の結成 けっせい 以来 いらい 1995年 ねん 7月 がつ 9日 にち まで毎年 まいとし 多 おお くのコンサートを実行 じっこう した[85] 。当初 とうしょ 彼 かれ らのショーの全 すべ てはカリフォルニア州 しゅう 、主 おも にサンフランシスコ・ベイエリア とロサンゼルス 近郊 きんこう で行 おこな われた。彼 かれ らはまた、1965年 ねん と66年 ねん にはケン・キージー、メリー・プランクスターズ と共 とも にアシッド・テストのハウスバンドとしてのショーも行 おこな った。彼 かれ らが全国 ぜんこく ツアーを始 はじ めたのは1967年 ねん 6月 がつ (ニューヨークへの最初 さいしょ の進出 しんしゅつ )で、カナダ やヨーロッパ でも何 なん 度 ど かツアーを行 おこな い、1978年 ねん にはエジプト のギザの大 だい ピラミッド で3夜 や にわたるコンサートを行 おこな った。1967年 ねん にはモントレー・ポップ・フェスティバル 、1969年 ねん にはウッドストック・フェスティバル 、1970年 ねん にはフェスティバル・エクスプレス に参加 さんか している。1969年 ねん 12月6日 にち のオルタモント・フリーコンサート にはローリング・ストーンズ の次 つぎ に出演 しゅつえん する予定 よてい であったが、セキュリティの懸念 けねん のため取 と りやめとなった。ローリング・ストーン 誌 し のスタッフは「それは、オルタモントで物事 ものごと が進 すす んだ方法 ほうほう であった-それはひどく、グレイトフル・デッド、フェスティバルの主要 しゅよう な組織 そしき 者 しゃ および移動 いどう 者 しゃ は、演奏 えんそう に到着 とうちゃく することさえしなかった」と、イベントの詳細 しょうさい を執筆 しっぴつ した[86] 。
彼 かれ らのイギリス における初 はつ のコンサートは、1970年 ねん のハリウッド・ミュージック・フェスティバル であった。彼 かれ らの最大 さいだい のコンサートは1973年 ねん 、オールマン・ブラザーズ・バンド およびザ・バンド と共 とも に行 い ったサマー・ジャム・アット・ワトキンズ・グレン で、約 やく 600,000人 にん の聴衆 ちょうしゅう が集 あつ まった[87] 。「ギネス世界 せかい 記録 きろく 」1998年度 ねんど 版 ばん では「最 もっと も多 おお くコンサートを行 おこな ったロックバンド」(2,318回 かい )として記録 きろく が掲載 けいさい された[88] 。彼 かれ らは推計 すいけい 2,500万 まん 人 にん のオーディエンスの前 まえ で演奏 えんそう し、一回 いっかい のコンサートの最高 さいこう は80,000人 にん を記録 きろく した[88] 。これらのコンサートの多 おお くは録音 ろくおん され保存 ほぞん された。そしてその後 ご 数 すう ダースはCDとして、またネットでダウンロードする形態 けいたい でリリースされた。デッドは夜 よ ごとにセットリストが相当 そうとう 変化 へんか することで知 し られていた。バンドが演奏 えんそう したとされる曲 きょく の数 かず は500を超 こ える[89] 。バンドは4本 ほん のコンサートビデオを『View from the Vault 』としてリリースしている。
1990年代 ねんだい にグレイトフル・デッドはコンサートツアーで2億 おく 8500万 まん ドルの収益 しゅうえき を上 あ げたが、これはローリング・ストーンズに次 つ いで2番目 ばんめ であった[90] 。ジェリー・ガルシアの死後 しご ツアーは終了 しゅうりょう したため、この数字 すうじ は1995年 ねん までのツアー収益 しゅうえき を代表 だいひょう する[90] 。
彼 かれ らの多 おお くのスタジオアルバムは、一般 いっぱん 的 てき に彼 かれ らが最初 さいしょ にコンサートで演奏 えんそう した新 あたら しい曲 きょく のコレクションであった。バンドはまた、拡大 かくだい されたジャム 演奏 えんそう でも有名 ゆうめい であった。興 きょう が乗 の れば一 ひと つの曲 きょく で数 すう 十 じゅう 分 ふん も演奏 えんそう を続 つづ けるため、長 なが いときは公演 こうえん 時間 じかん が8時 じ 間 あいだ に及 およ ぶこともあったという。それは、同時 どうじ に結合 けつごう 力 りょく がある音楽 おんがく の単位 たんい として一緒 いっしょ に混合 こんごう される、バンドメンバーの各々 おのおの が即席 そくせき につくった個々 ここ のインプロヴィゼイションならびに特徴 とくちょう 的 てき な「グループ・マインド」インプロヴィゼイションを特徴 とくちょう とした。音楽 おんがく 的 てき に、これはバンドが曲 きょく の形 かたち の範囲 はんい 内 ない でだけでなく、形 かたち でも即席 そくせき につくったという点 てん で例示 れいじ されるかもしれない。グレイトフル・デッドは、しばしば同 おな じ曲 きょく を二 に 回 かい 同 おな じ方法 ほうほう で歌 うた わなかったと言 い われた。各々 おのおの のバンドメンバーの結合 けつごう 力 りょく を持 も った聴 き く能力 のうりょく は、「フリーフォーム」とインプロヴィゼイションの超越 ちょうえつ に向 む かった。彼 かれ らのコンサートのセットはしばしば曲 きょく が次 つぎ の曲 きょく と混合 こんごう されて演奏 えんそう された(セグエ (英語 えいご 版 ばん ) の一種 いっしゅ )。
ウォール・オブ・サウンド は、大型 おおがた の音響 おんきょう システムでグレイトフル・デッドのために特別 とくべつ に設計 せっけい された[91] [92] 。デッドは彼 かれ らが演奏 えんそう を行 おこな ったコンサート会場 かいじょう の音響 おんきょう システムに満足 まんぞく することが無 な かった。モントレー・ポップ・フェスティバル の後 のち 、バンドのクルーは他 た の演者 えんじゃ の音響 おんきょう 機材 きざい を「借 か りて」、サンフランシスコでのいくつかの無料 むりょう コンサートを主催 しゅさい する際 さい に使用 しよう した[93] 。活動 かつどう 初期 しょき には音響 おんきょう 技師 ぎし のオウズリー「ベアー」スタンリー が彼 かれ らのためのPA およびモニターシステムを設計 せっけい した。ベアーはデッドのレコーディング・エンジニア を長年 ながねん に亘 わた って務 つと め、彼 かれ はまた、最大 さいだい のLSD 供給 きょうきゅう 者 しゃ でもあった[94] 。スタンリーの音響 おんきょう システムは繊細 せんさい で、気難 きむずか しく、技術 ぎじゅつ 的 てき な故障 こしょう でしばしばライヴを停止 ていし に至 いた らせた。スタンリーが1970年 ねん にLSD製造 せいぞう の罪 つみ で刑務所 けいむしょ に収監 しゅうかん された後 のち 、バンドは短期間 たんきかん 会場 かいじょう のPAを使用 しよう したが、それらはスタンリーが作 つく ったシステムよりも更 さら に信頼 しんらい できない物 もの であることを理解 りかい した。1971年 ねん にバンドは初 はじ めてソリッドステート 音響 おんきょう システムをアレンビック・インク ・スタジオから購入 こうにゅう した。このため、アレンビックはウォール・オブ・サウンドの研究 けんきゅう 、発展 はってん と生産 せいさん で重要 じゅうよう な役割 やくわり を演 えん じることとなる。バンドはその年 とし 、ダン・ヒーリー を迎 むか え入 い れた。ヒーリーは1993年 ねん までグレイトフル・デッドのライヴでのサウンドミックスを担当 たんとう した。
この時期 じき の他 ほか のいくつかのバンド同様 どうよう 、グレイトフル・デッドはファンにコンサートの自由 じゆう な録音 ろくおん と交換 こうかん を許可 きょか した。長年 ながねん に亘 わた って、会場 かいじょう では録音 ろくおん 者 しゃ (テーパー と呼 よ ばれる)のマイクが林立 りんりつ し、公式 こうしき なサウンドクルーの問題 もんだい となっていた。結局 けっきょく これは、サウンドボードセクション後方 こうほう にテーパー用 よう のセクションが確保 かくほ されることとなり、特別 とくべつ な「テーパー」チケットを購入 こうにゅう することでこのセクションで録音 ろくおん ができるようになった。しばしばサウンドクルーはテーパーに対 たい してサウンドボードに録音 ろくおん 機 き を直接 ちょくせつ 接続 せつぞく するのを許可 きょか した。そして、それは特別 とくべつ なコンサート記録 きろく テープとなった[95] 。バンドはこの様 よう にして録音 ろくおん されたテープを営利 えいり 目的 もくてき で無 な い限 かぎ り交換 こうかん することを許可 きょか し[96] 、ライヴへのさらなる動員 どういん を促 うなが した。
近年 きんねん 、archive.org が彼 かれ らのサイトでどの録音 ろくおん をダウンロードすることができるかといういくつかの論争 ろんそう があった。現在 げんざい 全 すべ ての録音 ろくおん がダウンロードできるけれども、サウンドボード録音 ろくおん はダウンロードできず、ストリーミング配信 はいしん のみである[95] 。
グレイトフル・デッドによる約 やく 2,350回 かい のショーで、およそ2,200回 かい はテープに録音 ろくおん され、そのほとんどはオンラインで存在 そんざい する[97] 。バンドはこれらのテープを早 はや い時期 じき から収集 しゅうしゅう し、カタログ化 か を行 おこな い、ディック・ラトバラ がその管理 かんり 者 しゃ であった。『Dick's Pick 』はラトバラに因 ちな んで名付 なづ けられた。1999年 ねん にラトバラが死去 しきょ すると、デヴィッド・レミュー が後 ご を引 ひ き継 つ いだ。グレイトフル・デッドのライブ1,590回分 かいぶん のサブセットからのコンサート・セットリストは、どの曲 きょく がコンサートで演奏 えんそう され、どのような演奏 えんそう の違 ちが いがあるか比較 ひかく するため、Last.fm の会員 かいいん はオンラインで聞 き くことができる[98] 。『Marketing Lessons from the Grateful Dead: What Every Business Can Learn From the Most Iconic Band in History [99] 』でデヴィッド・ミアマン・スコット とブライアン・ハリガン は、テーパー・セクションでの自由 じゆう な録音 ろくおん とテープの交換 こうかん がグレイトフル・デッドのファンを増 ふ やした重要 じゅうよう な一因 いちいん と特定 とくてい している。
長年 ながねん に亘 わた ってグレイトフル・デッドを象徴 しょうちょう する多 おお くのイメージが使用 しよう されてきた。これらのイメージの多 おお くはアルバムカバーやコンサートポスターのアートワークが基 もと となった。
頭蓋骨 ずがいこつ とバラ
頭蓋骨 ずがいこつ とバラのデザインは、エドモンド・ジョセフ・サリバン による白黒 しろくろ 画 が に、アルトン・ケリー とスタンリー・マウス がレタリングと色 いろ を追加 ついか して創作 そうさく された。サリバンの元 もと イラストは1913年 ねん に出版 しゅっぱん された『ルバイヤート 』の挿絵 さしえ であった。頭蓋骨 ずがいこつ とバラは、キリスト教 きょう の殉教者 じゅんきょうしゃ の頭蓋骨 ずがいこつ を祭日 さいじつ にバラで飾 かざ る習慣 しゅうかん が含 ふく まれる。バラは聖 せい ヴァレンタイン の象徴 しょうちょう である。ヴァレンタインは断頭 だんとう によって処刑 しょけい された。したがって、ローマでは教会 きょうかい で彼 かれ を追悼 ついとう するため、祭日 さいじつ に頭蓋骨 ずがいこつ をバラで囲 かこ んだ[100] 。この習慣 しゅうかん は生存 せいぞん と行為 こうい が確 たし かめられることができなかった他 ほか の伝説 でんせつ 的 てき な聖者 せいじゃ と一緒 いっしょ に、ヴァレンタインがローマカトリック教会 きょうかい の司祭 しさい から取 と り除 のぞ かれた1960年代 ねんだい 後期 こうき に取 と りやめられた。ケリーとマウスによるデザインは、1966年 ねん 9月 がつ 16日 にち 、17日 にち にアヴァロン・ボールルーム で行 おこな われたコンサートのポスターに初 はつ 登場 とうじょう した[101] 。それは後 のち にアルバム『ザ・グレイトフル・デッド 』(1971) のジャケットに使用 しよう された。同 どう アルバムはしばしば『Skull and Roses 』とも呼 よ ばれる[102] 。
道化師 どうけし
デッドのもう一 ひと つのアイコンは、リュート をもって道化師 どうけし の服装 ふくそう をした骸骨 がいこつ である。このイメージは1972年 ねん にスタンリー・マウスがエアブラシによって製作 せいさく した。これは元々 もともと 『The Grateful Dead Songbook 』の表紙 ひょうし のために製作 せいさく された[103] [104] 。
ダンシング・ベアー
型紙 かたがみ によって創 つく られた一連 いちれん の踊 おど る熊 くま は、ボブ・トーマスがアルバム『History of the Grateful Dead, Volume One (Bear's Choice) 』(1973) のバックカバー用 よう にデザインした。トーマスは、詳細 しょうさい 不明 ふめい のフォント の活字 かつじ を元 もと にしたという[105] 。アルバムを録音 ろくおん 、プロデュースしたオウズリー「ベアー」スタンリー はその熊 くま について言及 げんきゅう する。スタンリーは「アルバムカバーの熊 くま は、本当 ほんとう は『踊 おど り』ではない。私 わたし は人々 ひとびと がなぜそう思 おも っているか分 わ からない。彼 かれ らのポジションは明 あき らかに行進 こうしん しているものである。[106] 」
スティール・ユア・フェイス スカル
おそらく最 もっと も有名 ゆうめい なグレイトフル・デッドのアイコンは頭蓋骨 ずがいこつ の中 なか に青白 あおじろ 赤 あか の稲妻 いなづま が描 えが かれた物 もの である。それはアルバム『凍 い てついた肖像 しょうぞう Steal Your Face 』(1976) のジャケットに使用 しよう され、そこからその名 な で知 し られる。オウズリー・スタンリー とボブ・トーマスによってデザインされ、当初 とうしょ はロゴマークとしてバンドの機材 きざい に使用 しよう された[107] 。
ダンシング・テラピン
2匹 ひき の踊 おど るテラピン (イエガメ)は、アルバム『テラピン・ステーション 』(1977) で初 はつ 登場 とうじょう した。ケリーとマウスがデザインしたが、元 もと 絵 え はドイツのイラストレーター、ハインリヒ・クレイ によるものであった。それ以来 いらい 、これらのカメはグレイトフル・デッドのよく知 し られるロゴとなった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
アンクル・サム・スケルトン
アンクル・サム・スケルトンは、『グレイトフル・デッド・ムーヴィー 』(1977) のアニメ部分 ぶぶん に登場 とうじょう し、ゲーリー・グティエレスがデザインした[108] 。このデザインは、グレイトフル・デッド・スケルトンと、アニメの中 なか で使用 しよう された「U.S.ブルース」に使用 しよう されるアンクル・サム のモチーフが合 あ わされて創 つく り出 だ された。
2008年 ねん 4月 がつ 24日 にち 、元 もと メンバーのボブ・ウェアとミッキー・ハートはクロニクルブックス のCEOナイオン・マケヴォイ、カリフォルニア大学 だいがく サンタクルーズ校 こう の学長 がくちょう ジョージ・ブルーメンタール 、同校 どうこう の図書館 としょかん 員 いん ヴァージニア・スチールと共 とも に記者 きしゃ 会見 かいけん を開 ひら き、同校 どうこう のマクヘンリー図書館 としょかん にグレイトフル・デッドの1965年 ねん から現在 げんざい までの完全 かんぜん な歴史 れきし の記録 きろく を収蔵 しゅうぞう することを発表 はっぴょう した。このアーカイブには書状 しょじょう 、写真 しゃしん 、フライヤー、ポスターとその他 た のメモラビリア、レコードが含 ふく まれる。また、未 み 公開 こうかい のインタビュービデオおよびテレビ出演 しゅつえん 時 じ のビデオが来館 らいかん 者 しゃ は閲覧 えつらん することができ、バンドがコンサートで使用 しよう したステージ背景 はいけい やその他 た のプロップも見 み ることができる。
ブルーメンタールはその記者 きしゃ 会見 かいけん で「グレイトフル・デッド・アーカイブ は、20世紀 せいき の最 もっと も重要 じゅうよう なポピュラー文化 ぶんか のコレクションのうちの1つを代表 だいひょう している。UCサンタクルーズは、この測 はか り知 し れないほど貴重 きちょう な贈 おく り物 もの を受 う け取 と ることを光栄 こうえい に思 おも っている。グレイトフル・デッドとUCサンタクルーズは、共 とも に非常 ひじょう に革新 かくしん 的 てき な組織 そしき - 同 おな じ年 ねん に誕生 たんじょう した - である。世界 せかい への主要 しゅよう で、ポジティブなインパクトを作 つく り続 つづ ける。」と述 の べた。ギタリストのボブ・ウェアは「私 わたし 達 たち は探 さが し回 まわ り、UCサンタクルーズは最 もっと もよいホームと思 おも われた。もしいつかあなたが手紙 てがみ をグレイトフル・デッドに書 か いたならば、あなたは多分 たぶん 、そこでそれを見 み つけるだろう!」と語 かた った[110] 。
フレドリック・リーバーマン 教授 きょうじゅ はバンドと大学 だいがく の接触 せっしょく の橋渡 はしわた しとなった。教授 きょうじゅ はかつてミッキー・ハートと三 さん 冊 さつ の本 ほん 「Planet Drum (1990)」「Drumming at the Edge of Magic (1991)」「Spirit into Sound (2006)」を出版 しゅっぱん していた[111] [112] [113] 。
グレイトフル・デッド・アーカイブ収蔵 しゅうぞう 品 ひん の最初 さいしょ の大 だい 規模 きぼ な展示 てんじ 会 かい は、2010年 ねん にニューヨーク歴史 れきし 協会 きょうかい で行 おこな われた[114] 。
リードギタリストのジェリー・ガルシアは、しばしばグレイトフル・デッドのリーダーまたは主要 しゅよう なスポークスマンとして一般 いっぱん 大衆 たいしゅう とメディアから見 み なされたが、特 とく に彼 かれ と他 た のグループ・メンバーが自身 じしん を平等 びょうどう な参加 さんか 者 しゃ であり、総体 そうたい 的 てき な音楽 おんがく と創造 そうぞう 作品 さくひん の誘因 ゆういん と見 み なしたときから、彼 かれ はそのように認 みと められるのを嫌 きら った[117] [118] 。サンフランシスコ生 う まれのガルシアは、エクセルシオール地区 ちく で成長 せいちょう した。彼 かれ の主要 しゅよう な影響 えいきょう の一 ひと つはブルーグラス であり、彼 かれ はブルーグラスバンドでバンジョー(彼 かれ が最 もっと も愛 あい した楽器 がっき の一 ひと つ)とペダルスティール・ギターを演奏 えんそう した。そのようなバンドの一 ひと つにオールド・アンド・イン・ザ・ウェイがあり、彼 かれ はマンドリン奏者 そうしゃ のデヴィッド・グリスマンと共 とも に演奏 えんそう を行 おこな った。
ブルース・ホーンズビーは、他 た の活動 かつどう への関与 かんよ のため決 けっ してバンドのフルタイムの公式 こうしき メンバーとはならなかったが、デッドの1990年 ねん 9月 がつ から92年 ねん 3月 がつ までのほとんどのライヴでキーボードを演奏 えんそう し、1988年 ねん から95年 ねん にかけて100回 かい 以上 いじょう バンドと共 とも に活動 かつどう した。ジェリー・ガルシアは彼 かれ を「フローティング・メンバー」と称 しょう し、ホーンズビーは自由 じゆう に行 い き来 き ができた[119] [120] [121] 。
ロバート・ハンターとジョン・ペリー・バーロウはバンドの主要 しゅよう な作詞 さくし 家 か で、ハンターは1969年 ねん 、バーロウは1971年 ねん から活動 かつどう し、バンドが解散 かいさん するまで活動 かつどう に寄与 きよ した[122] [123] 。ハンターはガルシアと多 おお くコラボレートし、バーロウはウェアとであった。両 りょう 名 な はともに他 た のメンバーとも協力 きょうりょく した。
1994年 ねん にグレイトフル・デッド(11人 にん の公式 こうしき メンバーおよびロバート・ハンター)の12人 にん のメンバーがロックの殿堂 でんどう 入 い りした。ブルース・ホーンズビーがプレゼンターを務 つと めた[8] 。バーロウは公式 こうしき なメンバーとは認 みと められなかったが、バンドの公式 こうしき サイト、Dead.netでは公式 こうしき メンバーに次 つ いでリストされる[123] 。
グレイトフル・デッドのラインナップ [124]
1965年 ねん 6月 がつ - 1967年 ねん 9月 がつ
1967年 ねん 9月 がつ - 1968年 ねん 11月
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
ミッキー・ハート - ドラムス
1968年 ねん 11月 - 1970年 ねん 1月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
トム・コンスタンテン - キーボード
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
ミッキー・ハート - ドラムス
1970年 ねん 1月 がつ - 1971年 ねん 2月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
ミッキー・ハート - ドラムス
1971年 ねん 2月 がつ - 1971年 ねん 10月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
1971年 ねん 10月 がつ - 1972年 ねん 3月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
キース・ゴドショウ - キーボード
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
1972年 ねん 3月 がつ - 1972年 ねん 6月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
キース・ゴドショウ - キーボード
ドナ・ジーン・ゴドショウ - ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
1972年 ねん 6月 がつ - 1974年 ねん 10月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
キース・ゴドショウ - キーボード
ドナ・ジーン・ゴドショウ - ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
1974年 ねん 10月 がつ - 1979年 ねん 2月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
キース・ゴドショウ - キーボード
ドナ・ジーン・ゴドショウ - ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
ミッキー・ハート - ドラムス
1979年 ねん 4月 がつ - 1990年 ねん 7月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ブレント・ミドランド - キーボード, ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
ミッキー・ハート - ドラムス
1990年 ねん 9月 がつ - 1992年 ねん 3月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ヴィンス・ウェルニック - キーボード, ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
ミッキー・ハート - ドラムス
with
1992年 ねん 5月 がつ - 1995年 ねん 8月 がつ
ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
ヴィンス・ウェルニック - キーボード, ヴォーカル
フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
ビル・クルーツマン - ドラムス
ミッキー・ハート - ドラムス
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