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グレイトフル・デッド - Wikipedia

グレイトフル・デッド

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのロックバンド

グレイトフル・デッド (英語えいご: Grateful Dead) は、アメリカロックバンド1965ねんカリフォルニアしゅうパロアルト結成けっせいされ[3][4]1995ねん解散かいさん音楽おんがくせいは”ゆるさ”を特徴とくちょうとしたルーツ志向しこうられた。

グレイトフル・デッド
1970ねんのプロモーション写真しゃしんひだりからみぎに:ビル・クルーツマン、ロン「ピッグペン」マッカーナン、ジェリー・ガルシア、ボブ・ウェア、ミッキー・ハート、フィル・レッシュ
基本きほん情報じょうほう
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく カリフォルニアしゅうパロアルト
ジャンル
活動かつどう期間きかん 1965ねん - 1995ねん
レーベル
公式こうしきサイト Official Site Of The Grateful Dead
きゅうメンバー

音楽おんがくスタイルはカントリーフォークブルーグラス、ブルース、ロック即興そっきょうジャズサイケデリックスペース・ロック融合ゆうごうしたもの[5][6]、ライブパフォーマンスではながいインストルメンタルジャムが特徴とくちょうであり[7][8]かれらの熱狂ねっきょうてきなファンは「デッドヘッズ」としてられた。

パティ・スミスグループのギタリスト、レニー・ケイは「かれらの音楽おんがくは、おおくのバンドがその存在そんざいりさえしない領域りょういきたっしている」とあらわした[9]。これらの様々さまざま影響えいきょう抽出ちゅうしゅつされ、多様たようでサイケデリックな完全かんぜんたいとしてグレイトフル・デッドを「ジャム・バンドかい開拓かいたくしゃてきなゴッドファーザー」とした[10]

バンドはローリング・ストーンの「ローリング・ストーンのえら歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100くみのアーティスト」で57えらばれた[11]。1994ねんにはロックの殿堂でんどうりしている[12]。また、1977ねん5がつ8にちにコーネル大学だいがくのバートン・ホールでおこなわれたコンサートはアメリカ議会ぎかい図書館としょかん全米ぜんべい録音ろくおん資料しりょう登録とうろく簿追加ついかされた[13]。ギター、ボーカルのジェリー・ガルシアは「ローリング・ストーンのえら歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100にんのギタリスト」において2003ねんだい13、2011ねん改訂かいていばんではだい46えらばれている。グレイトフル・デッドはヒットチャートとはほとんど無縁むえん存在そんざいながら、毎年まいとしのようにだい規模きぼツアーをおこない、観客かんきゃく動員どういんすう上位じょういだった。日本にっぽんでは知名度ちめいどたかくないが、本国ほんごくアメリカではアメリカを代表だいひょうする伝説でんせつてきバンドとして認識にんしきされており、世界中せかいじゅうで3,500まんまいえるアルバムをげている。

グレイトフル・デッドはヒッピー文化ぶんかサイケデリック文化ぶんか代表だいひょうするアーティストである。カウンターカルチャーが上昇じょうしょうする1960年代ねんだいに、その中心ちゅうしんであるサンフランシスコ・ベイエリア結成けっせいされた[14][15][16]

創立そうりつメンバーは、ジェリー・ガルシア(ギター、ボーカル)、ボブ・ウェア(ギター、ボーカル)、ロン「ピッグペン」マッカーナン(キーボード、ハーモニカ、ボーカル)、フィル・レッシュ(ベース、ボーカル)、およびビル・クルーツマン(ドラム)であった[17]

グレイトフル・デッドのメンバーはサンフランシスコの様々さまざまなバンドでとも演奏えんそうしており、そのなかにはマザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオンとワーロックスがふくまれた。レッシュはワーロックスに加入かにゅうした最後さいごのメンバーで、それがのちにグレイトフル・デッドとなった。レッシュはいくつかのライヴでベースを演奏えんそうしたダナ・モーガンジュニアにわって加入かにゅうした。ドラマーのミッキー・ハートおよび演奏えんそうには参加さんかしない詩人しじんロバート・ハンターは1967ねん参加さんかした。マッカーナンは1973ねん死去しきょし、ハートは1971ねんから74ねんまでバンドからはなれていたが、バンドのかくはほぼ30年間ねんかん不変ふへんであった[18]

このほか公式こうしきメンバーは、トム・コンスタンテン(キーボード、1968-1970) 、キース・ゴドショウ(キーボード、1971-1979) 、ドナ・ゴドショウ(ボーカル、1972-1979) 、ブレント・ミドランド(キーボード、ボーカル、1979-1990)、ヴィンス・ウェルニック(キーボード、ボーカル、1990-1995)がいる。ピアニストのブルース・ホーンズビーは、1990ねんから1992ねんまでのツアーメンバーであり、バンド参加さんか以前いぜん以後いご時々ときどきゲスト出演しゅつえんした。

バンドとそのファン(「デッドヘッズ」)は、ヒッピー・ムーヴメントと密接みっせつ関連かんれんし、ながあいだアメリカ文化ぶんかなか制度せいどいち形態けいたいとしてられた[7][8]現在げんざいでもおおくの熱狂ねっきょうてきなファンがおり、メンバーの使用しようしていた楽器がっきなどがオークションに出品しゅっぴんされると高額こうがく落札らくさつがされる。バンドのメンバーはそののミュージシャンとともに1998ねんザ・アザー・ワンズとしてツアーをおこなう。2000ねん、2002ねんにもツアーをおこなったのちザ・デッドとして2003ねん、2004ねん、2009ねんにツアーをおこなった。現在げんざいはデッドのさい結成けっせいともえる多数たすうのバンドがあり、もっと有名ゆうめいなツアーアクトはファーザーフィル・レッシュ・アンド・フレンズラットドッグ、そしてドラマーのミッキー・ハートビル・クルーツマン参加さんかしたリズム・デビルズがある。バンドは結成けっせい50周年しゅうねん記念きねんとして、トレイ・アナスタシオフィッシュとコンサートをおこなったが、バンドはそれを最後さいごのコンサートになるとアナウンスした[19]

経歴けいれき

編集へんしゅう

グレイトフル・デッド結成けっせい・1965ねん-1969ねん

編集へんしゅう
 
グレイトフル・デッド、1980ねんひだりからみぎに:ジェリー・ガルシア、ビル・クルーツマン、ボブ・ウェア、ミッキー・ハート、フィル・レッシュ

バンドは1965ねんはじめにワーロックスとしてパロアルト活動かつどうはじめた。ワーロックスはジャグ・バンドマザー・マクリーズ・アップタウン・ジャグ・チャンピオンのこったメンバーにより結成けっせいされた[20]最初さいしょのステージは1965ねん5がつ5にちメンローパークのサンタクルーズどおり639にあるマンゴーズ・ピザでおこなわれた。かれらはワーロックスと名乗なのったものの、どう時期じき東海岸ひがしかいがんにもワーロックスというバンドがあり、それはのちヴェルヴェット・アンダーグラウンドとなっている[21][22]。そのショーは録音ろくおんされず、セットリストものこっていない。かれらはおな名前なまえのバンドがレコーディングの契約けいやくおこなったことをると、すぐにその変更へんこうした。あらたな名前なまえグレイトフル・デッドでの最初さいしょのステージは1965ねん12月4にちサンノゼで、ケン・キージーアシッド・テスト英語えいごばんひとつであった[23][24][25]初期しょきデモテープ残存ざんそんしたが、2,000以上いじょうのコンサートでバンドのファンによって記録きろくされた最初さいしょものとしてられているのは1966ねん1がつ8にちのサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムのショーであった[26]。そのつき後半こうはんにグレイトフル・デッドはトリップス・フェスティバル(初期しょきサイケデリック・ロックのコンサート)に参加さんかした。

バンドめいの「グレイトフル・デッド」は辞書じしょからえらばれた。フィル・レッシュの自伝じでん(pp. 62)によると、メンバーがレッシュのいえあつまったさい、ガルシアが「...ふるブリタニカ世界せかい言語げんご辞典じてんげた...そして、そのんだ妖精ようせいのようなこえで『よう、グレイトフル・デッドはどうだい?』とわたしった。その定義ていぎは『慈善じぜん行為こういとして死者ししゃ埋葬まいそう手配てはいした人物じんぶつたいして謝意しゃいしめ死者ししゃまたは天使てんし』であった。」グレイトフル・デッドのきょく出版しゅっぱん会社かいしゃアイス・ナイン社長しゃちょうであるアラン・トリストによると、ガルシアはそのかたりファンク・アンド・ワグネル英語えいごばんの「民話みんわ辞典じてん」でフィクショナリーをしているときにつけたという[27]。その辞書じしょによると、『トビト』やチベット仏教ぶっきょう経典きょうてんチベット死者ししゃしょ』など世界中せかいじゅうのこっている「彷徨ほうこうえるたましい成仏じょうぶつさせる旅人たびびと寓話ぐうわ」に登場とうじょうする「感謝かんしゃする死者ししゃ(Grateful Dead)」という意味いみで、「負債ふさいかかえたままんだため埋葬まいそうされない死者ししゃのためにおかねしてやった旅人たびびとが、以後いご不思議ふしぎ幸運こううん見舞みまわれるようになり、それはその死者ししゃ感謝かんしゃされたおかげだとづいた。」とされる。ガルシアの伝記でんきCaptain Trips」の作者さくしゃサンディ・トロイは、バンドが当時とうじDMT吸飲きゅういんしていたとべる[28]。「グレイトフル・デッド」のかたりはいろいろな文化ぶんか民話みんわあらわれている。1969ねん中頃なかごろにフィル・レッシュはべつはなしを、マリンぐんでバンドをたずねてきたわかいテキサスじんのキャロル・モーにしている。それによるとフィルは「ジェリーが辞書じしょひろげて、ページがひらいたところに自発じはつてき名前なまえつけた。『grateful』と『dead』は、無関係むかんけいなテキストのったページをはさんで、たがいの反対はんたいがわぐにあらわれた。」とかたったという。

このほかに、バンドを初期しょきにサポートした人物じんぶつにはロック・スカリーがいる。スカリーはキージーからバンドのことをき、かれらとビッグ・ビート・アシッド・テストで出会であったのちにマネージャーとして契約けいやくした。スチュアート・ブランドは「テープ録音ろくおんされた音楽おんがくとインディアンの生活せいかつのスライドによるマルチメディア・プレゼンテーション」をビッグ・ビートでおこない、トリップス・フェスティバルではそれを拡大かくだいした。そして「アシッド・キング」とばれたオウズリー・スタンリーLSDをテストに供給きょうきゅうし、1966ねんはじめにはバンドを金銭きんせんてきにサポート、かれらのためにワッツ周辺しゅうへんいえり、音楽おんがく機材きざいあたえた。ガルシアは「わたしたちは当時とうじオウズリーの恩寵おんちょうけてきているだけだった...(かれの)トリップはわたしたちのための機材きざいをデザインしたかったことであり、そしてわたしたちはかれがそれをするために研究けんきゅうしつ状況じょうきょうでいなければならないつもりだった。」とかたった[28]

 
マントラ・ロック・ダンスのプロモーション・ポスター。

バンドの初期しょき重要じゅうようなパフォーマンスのひとつとして、1967ねんマントラ・ロック・ダンス(1967ねん1がつ29にちザ・アヴァロンおこなわれたクリシュナ意識いしき国際こくさい協会きょうかい寺院じいん主催しゅさいのコンサート)がげられる。グレイトフル・デッドは、クリシュナ意識いしき国際こくさい協会きょうかい創立そうりつしゃスワミ・プラブパーダ詩人しじんアレン・ギンズバーグモビー・グレープビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー・ウィズ・ジャニス・ジョプリンらととも出演しゅつえんし。収益しゅうえきをクリシュナ意識いしき国際こくさい協会きょうかい寄贈きぞうした[29][30]。バンドのファーストアルバム、『ザ・グレイトフル・デッド』はワーナー・ブラザースから1967ねんにリリースされた。

クラシックのトランペット奏者そうしゃであったフィル・レッシュベース演奏えんそうした。もっとわかいオリジナルメンバーのボブ・ウェアリズムギター担当たんとうした。ロン「ピッグペン」マッカーナンは、27さい死去しきょする直前ちょくぜんの1973ねんまでキーボードハーモニカ担当たんとうした。ガルシア、ウェア、マッカーナンはリードヴォーカルをほぼおなじく担当たんとうした。レッシュはなんきょくかでリードヴォーカルを担当たんとうしたが、かれのテナーはバンドの3ハーモニーのキーであった。ビル・クルーツマンドラム演奏えんそうし、1967ねん9がつには2番目ばんめのドラマー、ニューヨーク出身しゅっしんミッキー・ハート参加さんかした。ハートは多種たしゅ多様たようほか打楽器だがっき演奏えんそうした。

1970ねん-1979ねん

編集へんしゅう

1970ねん、バンドはニューオーリンズウェアハウスで2のコンサートをおこなった。1970ねん1がつ31にち地元じもと警察けいさつバーボン・ストリートのバンドが宿泊しゅくはくするホテルを捜索そうさくし、様々さまざま麻薬まやく所持しょじ容疑ようぎで19めい逮捕たいほ起訴きそした[31]。2ばんのコンサートは保釈ほしゃく保証人ほしょうにんかれたのちおこなわれた。結局けっきょく起訴きそ音響おんきょうエンジニアのオウズリー・スタンリーをのぞいて全員ぜんいん退しりぞけられた。スタンリーはすでにカリフォルニアでLSDを製造せいぞうしていたつみ起訴きそされていた。このばん出来事できごとのちにアルバム『アメリカン・ビューティー』からのシングル「トラッキン」の歌詞かしうたわれ、チャートでは64記録きろくした。

ミッキー・ハートは1971ねん2がつにグレイトフル・デッドを脱退だったい[32]ふたたびドラマーはクルーツマン1にんという体制たいせいになった。ハートは1974ねん10がつさい加入かにゅうする。トム「TC」コンスタンテンは1968ねんから70ねんまで2人ふたりのキーボード奏者そうしゃとしてバンドにくわわり、そのあいだピッグペンは様々さまざまなパーカッションとヴォーカルを担当たんとうした。

コンスタンテンの脱退だったい、ピッグペンは唯一ゆいいつのオルガン奏者そうしゃとしてのポジションに変更へんこうした。2ねんらずの1971ねんまつあらたなキーボード奏者そうしゃキース・ゴドショウ加入かにゅうした。ゴドショウはピッグペンのオルガンのよこグランドピアノ演奏えんそうする。1972ねんはじめにはキース・ゴドショウのつまドナ・ジーン・ゴドショウがバックヴォーカルとして加入かにゅうした。

ヨーロッパ'72』ツアーののち、ピッグペンの体調たいちょう悪化あっかし、バンドのツアーには参加さんかできなくなった。かれ最後さいご登場とうじょうしたのは1972ねん6がつ17にちロサンゼルスハリウッド・ボウルでのコンサートであった[33]。ピッグペンは1973ねん3がつにアルコール中毒ちゅうどく原因げんいんふくごうしょうにより死去しきょした[34]

ピッグペンのにもかかわらずバンドは活動かつどうのペースをとさず、かれらはしんメンバーととも続行ぞっこうした。かれらはもなく自身じしんのレーベル、グレイトフル・デッド・レコードを設立せつりつした[35]。そのとし後半こうはん、バンドはあらたなスタジオアルバム、ジャズ影響えいきょうけた『ウェイク・オブ・ザ・フラッド』をリリースした。どうさくはこれまでに商業しょうぎょうてき成功せいこうとなった[36]。バンドはどうさく成功せいこう利用りようして、すぐにスタジオにもどった。そして、よく1974ねんには『フロム・ザ・マーズ・ホテル』をリリースした。しかしそのアルバムのリリースののちまもなく、デッドはライヴツアーの休止きゅうし決定けっていした。

1975ねん9がつ、バンドは8さくのスタジオアルバム『ブルース・フォー・アラー』を発表はっぴょうした。かれらは1976ねん6がつにツアー活動かつどう再開さいかいし、休止きゅうし短期間たんきかん終了しゅうりょうした[35]同年どうねんかれらはアリスタ・レコードさい契約けいやくした。1977ねん、アリスタからのニューアルバム『テラピン・ステーション』がリリースされた。すべてがうまくっているようにえたが、しん加入かにゅうのメンバー、キースとドナ・ジーン・ゴドショウに問題もんだいしょうじていた。1970年代ねんだい後半こうはんのツアーでバンドはフリーベース・コカイン使用しようするようになっていた[37]。ライヴでは、ドナにしばしばヴォーカルの問題もんだいしょうじ、キースは習慣しゅうかんせい麻薬まやく依存いぞんするようになっていた。2人ふたり問題もんだいはツアーによって複雑ふくざつこしていた。そして、かれらは1979ねん2がつにバンドからの脱退だったい同意どういした。

1980ねん-1994ねん

編集へんしゅう
 
レッド・ロックス・アンフィシアターでのコンサート、1987ねん。: ジェリー・ガルシア(ギター)、ミッキー・ハート(ドラムス)

ゴドショウ夫妻ふさい脱退だったいブレント・ミドランドがキーボード奏者そうしゃ、ヴォーカリストとして加入かにゅうし、それは「完全かんぜんなフィット」とかんがえられた。キースとドナ・ジーンはハート・オブ・ゴールド・バンド結成けっせいしたが、キースは1980ねん交通こうつう事故じこ死去しきょした。ミドランドはグレイトフル・デッドで11年間ねんかんキーボードを演奏えんそうしたが、1990ねん7がつにオーバードーズのため死去しきょした[38]。グレイトフル・デッドのキーボード奏者そうしゃとして死去しきょしたのは3にんであった。

1980年代ねんだいにバンドは、ミドランドの才能さいのうりてその様子ようすえていった。1980年代ねんだいはじめにミドランドがバンドでの位置いち確立かくりつしてあいだもなく、ガルシアの健康けんこうおとろはじめた。かれ麻薬まやく使用しよう習慣しゅうかんはステージじょうでの活気かっきそこねていった。ガルシアは1985ねん麻薬まやく使用しよう習慣しゅうかんったのち、1986ねん7がつすう日間にちかん糖尿とうにょうびょうせい昏睡こんすいおちいった。回復かいふく、バンドは1987ねん7がつに『イン・ザ・ダーク』をリリースしたが、どうさくかれらのスタジオアルバムのなか最大さいだいのヒットとなり、どうさっからのシングル「タッチ・オブ・グレイ」はかれ唯一ゆいいつのトップ10ヒットとなった。またそのとしにバンドはボブ・ディランとツアーをおこない、その様子ようすは『ディラン&ザ・デッド』としてリリースされた。 ガルシアの回復かいふくとアルバムの成功せいこう触発しょくはつされ、バンドの意欲いよく相性あいしょうは1980年代ねんだい後半こうはんから90年代ねんだいにかけてピークにたっした。パフォーマンスは精力せいりょくてきで、そしてその結果けっかとしてあらゆるショーはその最大さいだい収容しゅうようすう上回うわまわ盛況せいきょうとなった。ミドランドが1990ねんなつのツアー死去しきょし、バンドの「ハイタイム」は突然とつぜん停止ていしした。バンドはいまさい構築こうちくする必要ひつようがあった。もとチューブスのキーボード奏者そうしゃであるヴィンス・ウェルニックと、ザ・レインジというバンドで成功せいこうおさめていたブルース・ホーンズビーの2めいがキーボードとヴォーカルで加入かにゅうした。ウェルニックはバンドに正式せいしきメンバーとして加入かにゅうし、ガルシアのまで在籍ざいせきしたが、ザ・アザー・ワンズザ・デッドのメンバーにはならなかった。しかしかれラットドッグ初期しょき具体ぐたいさいにボブ・ウェアとプレイしている。ウェルニックは2006ねん6がつ2にち死去しきょし、つたえられるところによれば、死因しいん自殺じさつであったという[39]。ホーンスビーは1992ねん3がつ24にちまで非公式ひこうしきなメンバーであり、その様々さまざまなグレイトフル・デッドのプロジェクトに参加さんかした。

1995ねん解散かいさん-現在げんざい

編集へんしゅう
 
ステージでのボブ・ウェア、2007ねんモデュラス G3FHを使用しよう

1995ねん8がつ9にちジェリー・ガルシアはカリフォルニアの薬物やくぶつリハビリ施設しせつ入院にゅういんちゅう心臓しんぞう発作ほっさのため53さい逝去せいきょ

死後しごのこされたメンバーは正式せいしき解散かいさんめた[40]。しかしそれ以来いらいのこされたメンバーの様々さまざまわせによるさい結成けっせいコンサートがおこなわれている。

1995ねん以来いらい、グレイトフル・デッドのもとメンバーはソロの音楽おんがく活動かつどう継続けいぞくした。ボブ・ウェア&ラットドッグおおくのコンサートをおこない、なんまいかのアルバムもリリースした[41][42]フィル・レッシュ・アンド・フレンズ同様どうようである[43][44]。ミッキー・ハートとビル・クルーツマンもそれぞれなんまいかのアルバムをリリースした。ハートはかれワールドミュージック・パーカッションアンサンブルのプラネット・ドラム[45]ならびにミッキー・ハート・バンドとともにツアーをおこなった[46]。クルーツマンはいくつかのことなったバンドをひきい、そのなかにはBK3[47]7ウォーカーズパパ・マリともに)[48]ビリー&ザ・キッズふくまれる[49]。ドナ・ゴドショウはドナ・ジーン・ゴドショウ・バンドでミュージックシーンに復帰ふっき[50]トム・コンスタンテン作曲さっきょく演奏えんそうつづけている[51]。これらのすべてのグループがグレイトフル・デッドのきょく演奏えんそうつづけている

1998ねん、ボブ・ウェア、フィル・レッシュおよびミッキー・ハートにくわえてなんめいかのミュージシャンによるジ・アザー・ワンズ結成けっせいされてふくすうかいのライヴをおこない、翌年よくねんにはライヴアルバム『The Strange Remain』がリリースされた。2000ねんにアザー・ワンズはふたたびツアーをおこない、このときはビル・クルーツマンがくわわったが、レッシュは参加さんかしなかった。翌年よくねん休養きゅうようし、2002ねんふたた活動かつどうおこなう。このときはレッシュが参加さんかし、グレイトフル・デッドの経歴けいれきのほとんどで活動かつどうしていたもとメンバー4にん参加さんかすることとなった。アザー・ワンズにはこのギタリストとしてマーク・カラン英語えいごばんスティーヴ・キモックジミー・ヘリング、キーボード奏者そうしゃとしてブルース・ホーンズビージェフ・キメンティロブ・バラッコ、サキソフォン奏者そうしゃデイヴ・エリス、ドラマーのジョン・モロ、ベーシストのアルフォンソ・ジョンソン、ヴォーカリストのスーザン・タデスキくわわった[52]

2003ねん、ウェア、レッシュ、ハート、クルーツマンをふくむジ・アザー・ワンズはそのを「ザ・デッド」と変更へんこうした[53]。ザ・デッドは2003ねんと2004ねんにツアーをおこなった。2008ねんには2のコンサート、「デッドヘッズ・フォー・オバマ」「チェンジ・ロックス」をおこなった。2009ねんにもツアーを実施じっしする。デッドのメンバーは様々さまざまで、そのなかにはギタリストのジミー・ヘリング、ウォーレン・ヘインズ、キーボードのジェフ・キメンティ、ロブ・バラッコ、ヴォーカリストのジョーン・オズボーンふくまれた[54]

2009ねんのデッドのツアー、レッシュとウェアは「ファーザー」を結成けっせいし、9月にデビューした[55]参加さんかメンバーはレッシュとウェアにくわえてジョン・カドルシック(ギター)、ジェフ・キメンティ(キーボード)、ジョー・ルッソ(ドラム)、ジェイ・レーン(ドラム)、サンシャイン・ベッカー(ヴォーカル)およびゾエ・エリス(ボーカル)であった 。レーンとエリスは2010ねんにバンドをり、そのとしのちにヴォーカリストのジェフ・パーソン加入かにゅうした。ファーザーは2014ねん解散かいさんした[56]

2010ねんにハートとクルーツマンはリズム・デビルズさい結成けっせいし、なつにコンサートツアーをおこなった[57]

2014ねん10がつマーティン・スコセッシがグレイトフル・デッドのドキュメンタリー映画えいが製作せいさくすると発表はっぴょうされた。監督かんとくアミール・バーレフデヴィッド・レミュー選曲せんきょく監修かんしゅうおこない、ウェア、ハート、クルーツマンおよびレッシュは映画えいがのためにあらたなインタビューをけることに同意どういした[58]

"フェア・ジー・ウェル"

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2015ねん、ウェア、レッシュ、クルーツマンおよびハートは「"Fare Thee Well: Celebrating 50 Years of the Grateful Dead"」とばれる5のコンサートのためバンドをさい結成けっせいした[59]。コンサートは6がつ27にち、28にちにカリフォルニアしゅうサンタクララリーバイス・スタジアムで、7がつ3にち、4にち、5にちイリノイしゅうシカゴソルジャー・フィールドおこなわれた[59][60]。これはいわゆる「かくとなる4にん」が一緒いっしょ演奏えんそうする最後さいごのライヴであるとべられた[61]。バンドはフィッシュトレイ・アナスタシオ(ギター)、ジェフ・キメンティ(キーボード)、ブルース・ホーンスビー(ピアノ)がサポートした[62][63]。チケットの需要じゅよう非常ひじょう高騰こうとうした[64][65]。コンサートは、いろいろなメディアによって同時どうじ放送ほうそうされた[66][67]。シカゴでのショーはCDおよびDVDのボックスセットとしてリリースされた[68]

デッド&カンパニー

編集へんしゅう

2015ねん8がつ、グレイトフル・デッドのもとメンバー、ミッキー・ハート、ビル・クルーツマンおよびボブ・ウェアは、ギタリストのジョン・メイヤー、キーボード奏者そうしゃジェフ・キメンティ、ベーシストのオテイル・バーブリッジともデッド&カンパニー結成けっせいすると発表はっぴょうした。バンドは2015ねん10がつから12がつにかけて20以上いじょうのコンサートをおこない、2016ねんなつにもだい2かいツアーとして20以上いじょうのコンサートをおこなうことが発表はっぴょうされた[69][70]

音楽おんがくスタイル

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サンフランシスコ、ウォーフィールド・シアターでのアコースティック・パフォーマンス、1980ねんひだりからみぎに:ガルシア、レッシュ、クルーツマン、ウェア、ハート、ミドランド

グレイトフル・デッドは、ビートルズザ・ビーチ・ボーイズローリング・ストーンズなどのバンドが放送ほうそう支配しはいしていた時代じだい結成けっせいされた。「ビートルズは、わたしたちがジャグ・バンドからロックンロールバンドに転向てんこうした理由りゆうであった」とボブ・ウェアはかたった。「わたしたちかれらの演奏えんそう極端きょくたん魅力みりょくてきであった。」以前いぜんのフォークシーンにおけるスターであったボブ・ディランは、エレキ楽器がっきをフィーチャーしたアルバムをすうまいリリースした。「わたしはより価値かちのあるおこないについてなにかんがえることができなかった。」とガルシアはかたった[71]。グレイトフル・デッドのメンバーはニューヨークのバンドラヴィン・スプーンフルとのツアーののち、「エレキでく」と決心けっしんし、よりよごれたおとさがはじめた。徐々じょじょに、アメリカ東海岸ひがしかいがんのフォークミュージシャン、もとはコーヒーハウスシーンの先覚せんかくしゃのほとんどが、エレキ楽器がっき使用しよう転向てんこうしていった。1950年代ねんだい後半こうはんおよび60年代ねんだい初期しょきアメリカのフォークミュージック・リバイバル没頭ぼっとうしていたジェリー・ガルシアとボブ・ウェアにとって、エレキ楽器がっきほうしんひらいていったことは自然しぜんなことであった。

グレイトフル・デッドの初期しょきのスタイル(1960年代ねんだい中期ちゅうき)は、「サイケデリック・ミュージック」を確立かくりつする過程かてい一部いちぶであったけれども、かれらの本質ほんしつは「ストリート・パーティ」であった。かれらは「サイケデリック」な演奏えんそう発展はってんさせ、パロアルトでケン・キージー出会であい、そのかれ開催かいさいしたアシッド・テストハウスバンドとなった[72]。デッドは、かれらの音楽おんがく確立かくりつしたカテゴリー(たとえばポップ・ロック、ブルース、フォークロック、カントリー・アンド・ウェスタン)に固定こていしたいとはおもわなかった。かれらのレパートリーのなか個々ここきょくはこれらのカテゴリーのした特定とくていすることができた。しかし、全体ぜんたいとしてのかれらの音楽おんがくはこれらすべてのジャンルと、よりしばしば、それらのいくつかが混合こんごうしたものであった。それはおそらくこれを考慮こうりょして、ビル・グラハムがグレイトフル・デッドについて「かれらはなにかをするときに最高さいこうではなく、かれらがすべきことをするのが、唯一ゆいいつのものである。」とかたった[73]。しばしばデッドは(ライヴとレコーディングの両方りょうほうにおいて)、調査ちょうさのために奇妙きみょうおとひろがりの余地よちのこした。

かれらのライヴは、音楽おんがくへの即興そっきょうてきなアプローチをもとにして、グレイトフル・デッドをのライヴバンドとことなった存在そんざいつくげた。ほとんどのロックンロールバンドが、都市としから都市とし移動いどう毎晩まいばんツアーのための標準ひょうじゅんてきなショーをリハーサルするあいだ、グレイトフル・デッドはそれをおこなわなかった。ガルシアは1966ねんのインタビューで「わたしたちはまえもってわたしたちのセットをつくってはいない。わたしたちはいちまいかみからよりむしろあたまのてっぺんからはなれてはたらほうい。[74]」とかたっている。かれらは、存在そんざいとおしてこの操作そうさ倫理りんりてき体系たいけい維持いじした。それぞれの演奏えんそうごとに、バンドは100きょくほどのレパートリーから、材料ざいりょう[74]

1969ねんのライヴアルバム『ライヴ/デッド』はかれらの本質ほんしつおおくをとらえているが、商業しょうぎょうてき成功せいこうは1970ねんの『ワーキングマンズ・デッド』『アメリカン・ビューティー』までたなければいけなかった。これらのアルバムは、しゅとしてバンドのリラックスしたアコースティック演奏えんそうと、より伝統でんとうてききょく構造こうぞう特徴とくちょうとした。

バンドとそのサウンドは30ねんにもおよぶツアーと演奏えんそう、レコーディングによって円熟えんじゅくし、各々おのおののメンバーのスタイルの貢献こうけんはよりさだめられ、着実ちゃくじつで、定義ていぎ可能かのうになった。元々もともとはクラシックのトランペット奏者そうしゃで、幅広はばひろ音楽おんがく理論りろん背景はいけいつレッシュは、伝統でんとうてきなブルースを基礎きそとしたベースを演奏えんそうする傾向けいこうではなく、しばしば番目ばんめのリードギターのようによりメロディックで、シンフォニックな複雑ふくざつなラインを演奏えんそうした。ウェアも伝統でんとうてきなリズムギター奏者そうしゃではなかったけれども、デッドのサウンドにおいてはジャズに影響えいきょうされ、ユニークな逆転ぎゃくてんをする傾向けいこうがあった。2人ふたりのドラマー、ミッキー・ハートとクルーツマンは、クルーツマンのしっかりしたビートとハートのロック古典こてんからはずれたパーカッションスタイルへの興味きょうみって、ユニークで複雑ふくざつなインタープレイを開発かいはつした。ハートはみずからのドラムカウントにわせて11-カウントメジャーをれた。そして、その新生しんせいスタイルの重要じゅうよう部分ぶぶんになったバンドのおとしん次元じげんんだ[75]。ガルシアのリードラインはながれるようで、柔軟じゅうなんで、ひか気味ぎみだった。そして、フィンガーピッキングとバンジョーの訓練くんれんにその性格せいかくおおくをっていた。

バンドのおも作詞さくしロバート・ハンタージョン・ペリー・バーロウは、一般いっぱんてき愛情あいじょう損失そんしつなま、ギャンブルと殺人さつじん恐怖きょうふ、カオスと秩序ちつじょかみおよび宗教しゅうきょうてきテーマ、旅行りょこうとツアーをテーマにして作詞さくしおこなった[よう出典しゅってん]ザ・ニューヨーカー回顧かいこてんでは、ハンターの詩句しくを「楕円だえんで、かわるがわる鮮明せんめいで、格言かくげんてきな」ものと表現ひょうげんした。そして、それはしばしば「バラとベルとについてのヒッピーの」であった[76]

商業しょうぎょうてき成功せいこう

編集へんしゅう

ハル・カント音楽おんがくグループの代理人だいりにんぎょう専門せんもんとするエンターティンメント業界ぎょうかい活動かつどうする弁護士べんごしであった。かれは35ねんわたってグレイトフル・デッドの専属せんぞく弁護士べんごし代理人だいりにんつとめ、グループないでのポジションはつよく、バンドのビジネスにおいてかれは「皇帝こうてい」となされた[77]

カントはバンドの知的ちてき財産ざいさんけん販売はんばい権利けんり管理かんりつうじて、バンドにすうひゃくまんドルの利益りえきをもたらした。カントの推薦すいせんにより、デッドはロックかいにおける数少かずすくない自身じしんのマスターテープと出版しゅっぱんけん所有しょゆうするバンドの先駆さきがけとなった。

2006ねんにグレイトフル・デッドはライノ・エンタテインメントとの10ねんおよぶライセンス契約けいやくにサインした。ライノはデッドのビジネスをマネージメントし、そのなかにはアルバムのリリース、グッズの販売はんばいおよびマーケティングがふくまれた。2011ねんにライノとグレイトフル・デッド・プロダクションはキュリオス・センスとともにバンドの遺産いさんもとにしたオンラインおよびモバイルのソーシャルゲームの開発かいはつはじめた[78]。バンドはデッドの音楽おんがくカタログの所有しょゆうけん開発かいはつ権利けんりつづいて所有しょゆうする[79][80]

グレイトフル・デッドのビデオゲーム「Grateful Dead Game - The Epic Tour[81]」はキュリオス・センスが開発かいはつし、2012ねん4がつにリリースされた[82]

ライヴパフォーマンス

編集へんしゅう
 
グレイトフル・デッドのメンバー、1980年代ねんだいはじめ。:ドラムをプレイするビル・クルーツマンをつめるブレント・ミドランド、ボブ・ウェア、ジェリー・ガルシア
 
1994ねんはるナッソー・コロシアムでのコンサートチケットのはんけん

グレイトフル・デッドはその経歴けいれきとおしてつねにツアーをおこない、2,300かい以上いじょうのコンサートをおこなった[83]かれらは「デッドヘッズ」とばれるファンのコミュニティ形成けいせい促進そくしんし、おおくのファンがかれらのツアーをいかけた。バンドは経歴けいれき初期しょきみずからの時間じかん才能さいのうをコミュニティ形成けいせいにつぎみ、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーでは無料むりょう食事しょくじ宿泊しゅくはく音楽おんがく、そして健康けんこう管理かんり提供ていきょうした。バンドは「音楽おんがく歴史れきしじょうどんなバンドよりも自由じゆうなコンサート」を実行じっこうしたとわれた[84]

1975ねん(このとしはライヴを休憩きゅうけいし、4かいのコンサートをおこなったのみであった)をのぞいて、グレイトフル・デッドは1965ねん4がつ結成けっせい以来いらい1995ねん7がつ9にちまで毎年まいとしおおくのコンサートを実行じっこうした[85]当初とうしょかれらのショーのすべてはカリフォルニアしゅうおもサンフランシスコ・ベイエリアロサンゼルス近郊きんこうおこなわれた。かれらはまた、1965ねんと66ねんにはケン・キージー、メリー・プランクスターズともにアシッド・テストのハウスバンドとしてのショーもおこなった。かれらが全国ぜんこくツアーをはじめたのは1967ねん6がつ(ニューヨークへの最初さいしょ進出しんしゅつ)で、カナダヨーロッパでもなんかツアーをおこない、1978ねんにはエジプトギザのだいピラミッドで3にわたるコンサートをおこなった。1967ねんにはモントレー・ポップ・フェスティバル、1969ねんにはウッドストック・フェスティバル、1970ねんにはフェスティバル・エクスプレス参加さんかしている。1969ねん12月6にちオルタモント・フリーコンサートにはローリング・ストーンズつぎ出演しゅつえんする予定よていであったが、セキュリティの懸念けねんのためりやめとなった。ローリング・ストーンのスタッフは「それは、オルタモントで物事ものごとすすんだ方法ほうほうであった-それはひどく、グレイトフル・デッド、フェスティバルの主要しゅよう組織そしきしゃおよび移動いどうしゃは、演奏えんそう到着とうちゃくすることさえしなかった」と、イベントの詳細しょうさい執筆しっぴつした[86]

かれらのイギリスにおけるはつのコンサートは、1970ねんハリウッド・ミュージック・フェスティバルであった。かれらの最大さいだいのコンサートは1973ねんオールマン・ブラザーズ・バンドおよびザ・バンドともったサマー・ジャム・アット・ワトキンズ・グレンで、やく600,000にん聴衆ちょうしゅうあつまった[87]。「ギネス世界せかい記録きろく」1998年度ねんどばんでは「もっとおおくコンサートをおこなったロックバンド」(2,318かい)として記録きろく掲載けいさいされた[88]かれらは推計すいけい2,500まんにんのオーディエンスのまえ演奏えんそうし、一回いっかいのコンサートの最高さいこうは80,000にん記録きろくした[88]。これらのコンサートのおおくは録音ろくおんされ保存ほぞんされた。そしてそのすうダースはCDとして、またネットでダウンロードする形態けいたいでリリースされた。デッドはごとにセットリストが相当そうとう変化へんかすることでられていた。バンドが演奏えんそうしたとされるきょくかずは500をえる[89]。バンドは4ほんのコンサートビデオを『View from the Vault』としてリリースしている。

1990年代ねんだいにグレイトフル・デッドはコンサートツアーで2おく8500まんドルの収益しゅうえきげたが、これはローリング・ストーンズにいで2番目ばんめであった[90]。ジェリー・ガルシアの死後しごツアーは終了しゅうりょうしたため、この数字すうじは1995ねんまでのツアー収益しゅうえき代表だいひょうする[90]

かれらのおおくのスタジオアルバムは、一般いっぱんてきかれらが最初さいしょにコンサートで演奏えんそうしたあたらしいきょくのコレクションであった。バンドはまた、拡大かくだいされたジャム演奏えんそうでも有名ゆうめいであった。きょうればひとつのきょくすうじゅうふん演奏えんそうつづけるため、ながいときは公演こうえん時間じかんが8あいだおよぶこともあったという。それは、同時どうじ結合けつごうりょくがある音楽おんがく単位たんいとして一緒いっしょ混合こんごうされる、バンドメンバーの各々おのおの即席そくせきにつくった個々ここのインプロヴィゼイションならびに特徴とくちょうてきな「グループ・マインド」インプロヴィゼイションを特徴とくちょうとした。音楽おんがくてきに、これはバンドがきょくかたち範囲はんいないでだけでなく、かたちでも即席そくせきにつくったというてん例示れいじされるかもしれない。グレイトフル・デッドは、しばしばおなきょくかいおな方法ほうほううたわなかったとわれた。各々おのおののバンドメンバーの結合けつごうりょくった能力のうりょくは、「フリーフォーム」とインプロヴィゼイションの超越ちょうえつかった。かれらのコンサートのセットはしばしばきょくつぎきょく混合こんごうされて演奏えんそうされた(セグエ英語えいごばん一種いっしゅ)。

コンサート音響おんきょうシステム

編集へんしゅう

ウォール・オブ・サウンドは、大型おおがた音響おんきょうシステムでグレイトフル・デッドのために特別とくべつ設計せっけいされた[91][92]。デッドはかれらが演奏えんそうおこなったコンサート会場かいじょう音響おんきょうシステムに満足まんぞくすることがかった。モントレー・ポップ・フェスティバルのち、バンドのクルーは演者えんじゃ音響おんきょう機材きざいを「りて」、サンフランシスコでのいくつかの無料むりょうコンサートを主催しゅさいするさい使用しようした[93]活動かつどう初期しょきには音響おんきょう技師ぎしオウズリー「ベアー」スタンリーかれらのためのPAおよびモニターシステムを設計せっけいした。ベアーはデッドのレコーディング・エンジニア長年ながねんわたってつとめ、かれはまた、最大さいだいLSD供給きょうきゅうしゃでもあった[94]。スタンリーの音響おんきょうシステムは繊細せんさいで、気難きむずかしく、技術ぎじゅつてき故障こしょうでしばしばライヴを停止ていしいたらせた。スタンリーが1970ねんにLSD製造せいぞうつみ刑務所けいむしょ収監しゅうかんされたのち、バンドは短期間たんきかん会場かいじょうのPAを使用しようしたが、それらはスタンリーがつくったシステムよりもさら信頼しんらいできないものであることを理解りかいした。1971ねんにバンドははじめてソリッドステート音響おんきょうシステムをアレンビック・インク・スタジオから購入こうにゅうした。このため、アレンビックはウォール・オブ・サウンドの研究けんきゅう発展はってん生産せいさん重要じゅうよう役割やくわりえんじることとなる。バンドはそのとしダン・ヒーリーむかれた。ヒーリーは1993ねんまでグレイトフル・デッドのライヴでのサウンドミックスを担当たんとうした。

ライヴの録音ろくおん

編集へんしゅう

この時期じきほかのいくつかのバンド同様どうよう、グレイトフル・デッドはファンにコンサートの自由じゆう録音ろくおん交換こうかん許可きょかした。長年ながねんわたって、会場かいじょうでは録音ろくおんしゃテーパーばれる)のマイクが林立りんりつし、公式こうしきなサウンドクルーの問題もんだいとなっていた。結局けっきょくこれは、サウンドボードセクション後方こうほうにテーパーようのセクションが確保かくほされることとなり、特別とくべつな「テーパー」チケットを購入こうにゅうすることでこのセクションで録音ろくおんができるようになった。しばしばサウンドクルーはテーパーにたいしてサウンドボードに録音ろくおん直接ちょくせつ接続せつぞくするのを許可きょかした。そして、それは特別とくべつなコンサート記録きろくテープとなった[95]。バンドはこのようにして録音ろくおんされたテープを営利えいり目的もくてきかぎ交換こうかんすることを許可きょか[96]、ライヴへのさらなる動員どういんうながした。

近年きんねんarchive.orgかれらのサイトでどの録音ろくおんをダウンロードすることができるかといういくつかの論争ろんそうがあった。現在げんざいすべての録音ろくおんがダウンロードできるけれども、サウンドボード録音ろくおんはダウンロードできず、ストリーミング配信はいしんのみである[95]

グレイトフル・デッドによるやく2,350かいのショーで、およそ2,200かいはテープに録音ろくおんされ、そのほとんどはオンラインで存在そんざいする[97]。バンドはこれらのテープをはや時期じきから収集しゅうしゅうし、カタログおこない、ディック・ラトバラがその管理かんりしゃであった。『Dick's Pick』はラトバラにちなんで名付なづけられた。1999ねんにラトバラが死去しきょすると、デヴィッド・レミューいだ。グレイトフル・デッドのライブ1,590回分かいぶんのサブセットからのコンサート・セットリストは、どのきょくがコンサートで演奏えんそうされ、どのような演奏えんそうちがいがあるか比較ひかくするため、Last.fm会員かいいんはオンラインでくことができる[98]。『Marketing Lessons from the Grateful Dead: What Every Business Can Learn From the Most Iconic Band in History[99]』でデヴィッド・ミアマン・スコットブライアン・ハリガンは、テーパー・セクションでの自由じゆう録音ろくおんとテープの交換こうかんがグレイトフル・デッドのファンをやした重要じゅうよう一因いちいん特定とくていしている。

アートワーク

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長年ながねんわたってグレイトフル・デッドを象徴しょうちょうするおおくのイメージが使用しようされてきた。これらのイメージのおおくはアルバムカバーやコンサートポスターのアートワークがもととなった。

頭蓋骨ずがいこつとバラ
頭蓋骨ずがいこつとバラのデザインは、エドモンド・ジョセフ・サリバンによる白黒しろくろに、アルトン・ケリースタンリー・マウスがレタリングといろ追加ついかして創作そうさくされた。サリバンのもとイラストは1913ねん出版しゅっぱんされた『ルバイヤート』の挿絵さしえであった。頭蓋骨ずがいこつとバラは、キリストきょう殉教者じゅんきょうしゃ頭蓋骨ずがいこつ祭日さいじつにバラでかざ習慣しゅうかんふくまれる。バラはせいヴァレンタイン象徴しょうちょうである。ヴァレンタインは断頭だんとうによって処刑しょけいされた。したがって、ローマでは教会きょうかいかれ追悼ついとうするため、祭日さいじつ頭蓋骨ずがいこつをバラでかこんだ[100]。この習慣しゅうかん生存せいぞん行為こういたしかめられることができなかったほか伝説でんせつてき聖者せいじゃ一緒いっしょに、ヴァレンタインがローマカトリック教会きょうかい司祭しさいからのぞかれた1960年代ねんだい後期こうきりやめられた。ケリーとマウスによるデザインは、1966ねん9がつ16にち、17にちアヴァロン・ボールルームおこなわれたコンサートのポスターにはつ登場とうじょうした[101]。それはのちにアルバム『ザ・グレイトフル・デッド』(1971) のジャケットに使用しようされた。どうアルバムはしばしば『Skull and Roses』ともばれる[102]
道化師どうけし
デッドのもうひとつのアイコンは、リュートをもって道化師どうけし服装ふくそうをした骸骨がいこつである。このイメージは1972ねんにスタンリー・マウスがエアブラシによって製作せいさくした。これは元々もともとThe Grateful Dead Songbook』の表紙ひょうしのために製作せいさくされた[103][104]
ダンシング・ベアー
型紙かたがみによってつくられた一連いちれんおどくまは、ボブ・トーマスがアルバム『History of the Grateful Dead, Volume One (Bear's Choice)』(1973) のバックカバーようにデザインした。トーマスは、詳細しょうさい不明ふめいフォント活字かつじもとにしたという[105]。アルバムを録音ろくおん、プロデュースしたオウズリー「ベアー」スタンリーはそのくまについて言及げんきゅうする。スタンリーは「アルバムカバーのくまは、本当ほんとうは『おどり』ではない。わたし人々ひとびとがなぜそうおもっているかからない。かれらのポジションはあきらかに行進こうしんしているものである。[106]
スティール・ユア・フェイス スカル
おそらくもっと有名ゆうめいなグレイトフル・デッドのアイコンは頭蓋骨ずがいこつなか青白あおじろあか稲妻いなづまえがかれたものである。それはアルバム『てついた肖像しょうぞう Steal Your Face 』(1976) のジャケットに使用しようされ、そこからそのられる。オウズリー・スタンリーとボブ・トーマスによってデザインされ、当初とうしょはロゴマークとしてバンドの機材きざい使用しようされた[107]
ダンシング・テラピン
2ひきおどテラピン(イエガメ)は、アルバム『テラピン・ステーション』(1977) ではつ登場とうじょうした。ケリーとマウスがデザインしたが、もとはドイツのイラストレーター、ハインリヒ・クレイによるものであった。それ以来いらい、これらのカメはグレイトフル・デッドのよくられるロゴとなった[よう出典しゅってん]
アンクル・サム・スケルトン
アンクル・サム・スケルトンは、『グレイトフル・デッド・ムーヴィー』(1977) のアニメ部分ぶぶん登場とうじょうし、ゲーリー・グティエレスがデザインした[108]。このデザインは、グレイトフル・デッド・スケルトンと、アニメのなか使用しようされた「U.S.ブルース」に使用しようされるアンクル・サムのモチーフがわされてつくされた。

デッドヘッズ

編集へんしゅう

グレイトフル・デッドのファンおよ熱狂ねっきょうてき愛好あいこうデッドヘッズばれる。その語源ごげん不明ふめいであるが、1971ねんのアルバム『グレイトフル・デッド (Skull & Roses)』には、ジャケットちゅうめんにマネージャーのジョン・マッキンタイアによるメッセージが掲載けいさいされた:

"DEAD FREAKS UNITE

Who are you?      Where are you?
How are you?
send us your name and address
and we'll keep you informed
Dead Heads

PO Box 1065, San Rafael, California 94901."

おおくのデッドヘッズがバンドとともにツアーをおこなう。グループとしてデッドヘッズは非常ひじょう成熟せいじゅくしているとかんがえられた。警官けいかんのリック・レイナーは「オレゴンでのフットボールの試合しあいで1かいはたらくより、グレイトフル・デッドのコンサートで9かいはたらほうがいい。」とかたった。「かれらはゲームでするように戦闘せんとうてきにはならない。」[109]

著名ちょめいじんのデッドヘッズとしては、女優じょゆう常盤貴子ときわたかこだい42だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうビル・クリントンもとふく大統領だいとうりょうアル・ゴア夫人ふじんティッパー・ゴアスティーブ・ジョブズウォルター・クロンカイトナンシー・ペロシフランク・マリノヘンリー・ロリンズグレッグ・ギンキース・ヘリングウーピー・ゴールドバーグジェフ・ペリーNBAシカゴ・ブルズロサンゼルス・レイカーズでヘッドコーチをつとめたフィル・ジャクソン、SF作家さっかウィリアム・ギブスン神話しんわ学者がくしゃジョセフ・キャンベルなど、錚々たる面子めんつならぶ。

アーカイブの寄贈きぞう

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2008ねん4がつ24にちもとメンバーのボブ・ウェアとミッキー・ハートはクロニクルブックスのCEOナイオン・マケヴォイ、カリフォルニア大学だいがくサンタクルーズこう学長がくちょうジョージ・ブルーメンタール同校どうこう図書館としょかんいんヴァージニア・スチールととも記者きしゃ会見かいけんひらき、同校どうこうマクヘンリー図書館としょかんにグレイトフル・デッドの1965ねんから現在げんざいまでの完全かんぜん歴史れきし記録きろく収蔵しゅうぞうすることを発表はっぴょうした。このアーカイブには書状しょじょう写真しゃしん、フライヤー、ポスターとそののメモラビリア、レコードがふくまれる。また、公開こうかいのインタビュービデオおよびテレビ出演しゅつえんのビデオが来館らいかんしゃ閲覧えつらんすることができ、バンドがコンサートで使用しようしたステージ背景はいけいやそののプロップもることができる。

ブルーメンタールはその記者きしゃ会見かいけんで「グレイトフル・デッド・アーカイブは、20世紀せいきもっと重要じゅうようなポピュラー文化ぶんかのコレクションのうちの1つを代表だいひょうしている。UCサンタクルーズは、このはかれないほど貴重きちょうおくものることを光栄こうえいおもっている。グレイトフル・デッドとUCサンタクルーズは、とも非常ひじょう革新かくしんてき組織そしき - おなねん誕生たんじょうした - である。世界せかいへの主要しゅようで、ポジティブなインパクトをつくつづける。」とべた。ギタリストのボブ・ウェアは「わたしたちさがまわり、UCサンタクルーズはもっともよいホームとおもわれた。もしいつかあなたが手紙てがみをグレイトフル・デッドにいたならば、あなたは多分たぶん、そこでそれをつけるだろう!」とかたった[110]

フレドリック・リーバーマン教授きょうじゅはバンドと大学だいがく接触せっしょく橋渡はしわたしとなった。教授きょうじゅはかつてミッキー・ハートとさんさつほんPlanet Drum (1990)」「Drumming at the Edge of Magic (1991)」「Spirit into Sound (2006)」を出版しゅっぱんしていた[111][112][113]

グレイトフル・デッド・アーカイブ収蔵しゅうぞうひん最初さいしょだい規模きぼ展示てんじかいは、2010ねんニューヨーク歴史れきし協会きょうかいおこなわれた[114]

受賞じゅしょうれきとう

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2004ねんローリング・ストーンはグレイトフル・デッドを「ローリング・ストーンのえら歴史れきしじょうもっと偉大いだいな100くみのアーティスト」で57にランクした[115]

2007ねん2がつ10日とおかにグレイトフル・デッドはグラミーしょう特別とくべつ功労賞こうろうしょう生涯しょうがい業績ぎょうせきしょう受賞じゅしょうした。しょうはミッキー・ハートとビル・クルーツマンがった[116]

2011ねん5がつ23にちに、1977ねん5がつ8にちにコーネル大学だいがくのバートンホールでおこなわれたコンサートの発表はっぴょう録音ろくおんアメリカ議会ぎかい図書館としょかん全米ぜんべい録音ろくおん資料しりょう登録とうろく簿追加ついかされた。このライヴのオーディエンステープおよびサウンドボードテープはながあいだファンのあいだ流通りゅうつうしており、おおくのひとがそれをバンド最高さいこうのコンサートであったとかんがえる。

メンバーシップ

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リードギタリストのジェリー・ガルシアは、しばしばグレイトフル・デッドのリーダーまたは主要しゅようなスポークスマンとして一般いっぱん大衆たいしゅうとメディアからなされたが、とくかれのグループ・メンバーが自身じしん平等びょうどう参加さんかしゃであり、総体そうたいてき音楽おんがく創造そうぞう作品さくひん誘因ゆういんなしたときから、かれはそのようにみとめられるのをきらった[117][118]。サンフランシスコまれのガルシアは、エクセルシオール地区ちく成長せいちょうした。かれ主要しゅよう影響えいきょうひとつはブルーグラスであり、かれはブルーグラスバンドでバンジョー(かれもっとあいした楽器がっきひとつ)とペダルスティール・ギターを演奏えんそうした。そのようなバンドのひとつにオールド・アンド・イン・ザ・ウェイがあり、かれはマンドリン奏者そうしゃのデヴィッド・グリスマンととも演奏えんそうおこなった。

ブルース・ホーンズビーは、活動かつどうへの関与かんよのためけっしてバンドのフルタイムの公式こうしきメンバーとはならなかったが、デッドの1990ねん9がつから92ねん3がつまでのほとんどのライヴでキーボードを演奏えんそうし、1988ねんから95ねんにかけて100かい以上いじょうバンドととも活動かつどうした。ジェリー・ガルシアはかれを「フローティング・メンバー」としょうし、ホーンズビーは自由じゆうができた[119][120][121]

ロバート・ハンターとジョン・ペリー・バーロウはバンドの主要しゅよう作詞さくしで、ハンターは1969ねん、バーロウは1971ねんから活動かつどうし、バンドが解散かいさんするまで活動かつどう寄与きよした[122][123]。ハンターはガルシアとおおくコラボレートし、バーロウはウェアとであった。りょうはともにのメンバーとも協力きょうりょくした。

1994ねんにグレイトフル・デッド(11にん公式こうしきメンバーおよびロバート・ハンター)の12にんのメンバーがロックの殿堂でんどうりした。ブルース・ホーンズビーがプレゼンターをつとめた[8]。バーロウは公式こうしきなメンバーとはみとめられなかったが、バンドの公式こうしきサイト、Dead.netでは公式こうしきメンバーにいでリストされる[123]

メンバーの変遷へんせん

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グレイトフル・デッドのラインナップ[124]
1965ねん6がつ - 1967ねん9がつ
1967ねん9がつ - 1968ねん11月
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
  • ミッキー・ハート - ドラムス
1968ねん11月 - 1970ねん1がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
  • トム・コンスタンテン - キーボード
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
  • ミッキー・ハート - ドラムス
1970ねん1がつ - 1971ねん2がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
  • ミッキー・ハート - ドラムス
1971ねん2がつ - 1971ねん10がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
1971ねん10がつ - 1972ねん3がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
  • キース・ゴドショウ - キーボード
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
1972ねん3がつ - 1972ねん6がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ロン「ピッグペン」マッカーナン - キーボード, ハーモニカ, パーカッション, ヴォーカル
  • キース・ゴドショウ - キーボード
  • ドナ・ジーン・ゴドショウ - ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
1972ねん6がつ - 1974ねん10がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • キース・ゴドショウ - キーボード
  • ドナ・ジーン・ゴドショウ - ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
1974ねん10がつ - 1979ねん2がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • キース・ゴドショウ - キーボード
  • ドナ・ジーン・ゴドショウ - ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
  • ミッキー・ハート - ドラムス
1979ねん4がつ - 1990ねん7がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ブレント・ミドランド - キーボード, ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
  • ミッキー・ハート - ドラムス
1990ねん9がつ - 1992ねん3がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ヴィンス・ウェルニック - キーボード, ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
  • ミッキー・ハート - ドラムス

with

1992ねん5がつ - 1995ねん8がつ
  • ジェリー・ガルシア - リードギター, ヴォーカル
  • ボブ・ウェア - リズムギター, ヴォーカル
  • ヴィンス・ウェルニック - キーボード, ヴォーカル
  • フィル・レッシュ - ベース, ヴォーカル
  • ビル・クルーツマン - ドラムス
  • ミッキー・ハート - ドラムス

タイムライン

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ディスコグラフィ

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脚注きゃくちゅう/参照さんしょう

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  1. ^ a b c d e Ankeny, Jason. Grateful Dead | Biography & History - オールミュージック. 2021ねん4がつ13にち閲覧えつらん
  2. ^ Grateful Dead”. TeachRock. 2022ねん4がつ6にち閲覧えつらん
  3. ^ Meriwether, Nicholas G. (2012). Reading the Grateful Dead: A Critical Survey. Scarecrow Press. p. 280. ISBN 0-8108-8371-6 
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メンバーの著書ちょしょ

編集へんしゅう
  • ミッキー・ハート『ドラムマジック リズム宇宙うちゅうへのたび佐々木ささきかおるやく 工作こうさくしゃ 1994 ISBN 4-87502-242-5

書籍しょせき

編集へんしゅう
  • D・シェンク+S・シルバーマン『グレイトフル・デッド辞典じてん スケルトン・キー』南風みなみかぜしいやく 工作こうさくしゃ 2004 ISBN 978-4-87502-381-4

外部がいぶリンク

編集へんしゅう