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サファリラリー - Wikipedia

サファリラリー英語えいご:Safari Rally)とは、アフリカケニア中心ちゅうしんおこなわれるラリーイベント。世界せかいラリー選手権せんしゅけん (WRC) のいちせんふくまれる。

ジョギンダ・シンのドライブするフォルクスワーゲン・タイプ11962ねん

概要がいよう

編集へんしゅう
 
2021ねん、WRC復帰ふっき宣言せんげんするセレモニー

1953ねんひがしアフリカイギリス植民しょくみんにおいてエリザベス2せい即位そくい記念きねんしてはつ開催かいさいされた、歴史れきしながいラリーである。アマチュアイベントから国際こくさいてきなラリーへと発展はってんし、ラリー・モンテカルロRACラリーともに「世界せかいさんだいラリー」としょうされていた。

例年れいねん復活ふっかつさいにあわせて3がつから4がつにかけての時期じき開催かいさいされ、現地げんちでは乾季かんき雨季うきわりたる。ケニアの首都しゅとナイロビをスタート/ゴール地点ちてんとして、ビクトリア周辺しゅうへんのケニア、ウガンダタンザニアの3カ国かこくを5日間にちかんで5000kmも走破そうはしたころもあった。灼熱しゃくねつ大地だいちでは様々さまざまなトラブルがこり、「カーブレイカーラリー」との異名いみょうをとる世界一せかいいち過酷かこくなラリーであった(としによっては、完走かんそうりつが15%を下回したまわることもあった)。

かつてはマシンの信頼しんらいせい絶対ぜったい条件じょうけんとされていたが、時代じだいすすむにつれ日程にってい距離きょり短縮たんしゅくされ、のWRCイベントのようにびょう単位たんいきそうスプリントラリーへとわっていった(2002ねんは3日間にちかんで2,431 km[1])。オーガナイザーの財政難ざいせいなんくわえて、イベントの特殊とくしゅせい開催かいさいとおさが、コストダウンのしたかくイベントの画一かくいつすすめるFIA意図いとはんすることもあり、2002ねん最後さいごにWRCイベントからはずされた。

そのはアフリカラリー選手権せんしゅけんのカレンダーで開催かいさいされているが、2007ねんと2009ねんインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ (IRC) シリーズと併催へいさいされた。また、1ねんおきに「イースト・アフリカン・サファリ・クラシック」という、1970年代ねんだいとほぼおなじルートを使つかうクラシックラリーも開催かいさいされている。

2020ねんWRCのカレンダーでは18ねんぶりの復活ふっかつはたしたが、COVID-19のパンデミックの影響えいきょうにより、2021ねん正式せいしきなWRC復帰ふっきとなった。

イベントの特殊とくしゅせい

編集へんしゅう

コースとなる道路どうろ完全かんぜん閉鎖へいさ管理かんりすることが不可能ふかのうであるため、通常つうじょうのラリーのような移動いどう区間くかん(リエゾン)や閉鎖へいさ区間くかんスペシャルステージ)が存在そんざいしない[2]ぜん行程こうていがタイムコントロール (TC) 区間くかん区切くぎられ、かくTCごとに設定せっていされた目標もくひょう時間じかんたいしておくれたぶんのタイムが累積るいせきされる。また、TCのなかでもSSに相当そうとうするコンペティティヴ・セクション (CS) ではタイムアタックをおこない、これらの合計ごうけいタイムで最終さいしゅう順位じゅんいめる[3]

灼熱しゃくねつサバンナ舗装ほそう乾燥かんそうして砂埃すなぼこりがひどく、かたかわいた路面ろめんのせいでサスペンションやタイヤにかかる負担ふたんおおきい。しかしあめれば、今度こんどはたちまち泥濘でいねいし、スタックする車両しゃりょう続出ぞくしゅつする。

シマウマキリンのような野生やせい動物どうぶつおおくいる。

70km以上いじょう直線ちょくせん延々えんえんつづ名物めいぶつセクションがあり、WRCかくイベントちゅうでもっとも最高さいこうそく必要ひつようとされるのはこのイベントであった。最高さいこうそくは1986ねんトヨタ・セリカTCT (TA64) のマークした250km/h以上いじょうとされる。サファリがWRCからはずされた2003ねん以降いこう、200km/h以上いじょうはしつづける必要ひつようがなくなったかくワークスは、ダウンフォース増強ぞうきょうなどによるコーナリングスピード向上こうじょうはしった。通称つうしょう本棚ほんだなウィング」のはじまりである。

2021ねんのWRC復帰ふっきさいはCSやTCのようなものは設定せっていされず、一般いっぱんてきなラリーとおなじくクローズドコースのSSで実施じっしされた。ただし路面ろめん特性とくせいわっていないため、WRカーいきおい全員ぜんいんがなんらかのトラブルに見舞みまわれるサバイバルレースとなった。

歴代れきだい最低さいてい完走かんそうりつは1968ねんの7.5%(93だいちゅう7だい)。

 
サファリラリー仕様しようトヨタ・セリカ。シュノーケルや補助ほじょとう、アニマルバーが装着そうちゃくされている。

「サファリ仕様しよう」とばれる大幅おおはば改造かいぞうゆるされており、野生やせい動物どうぶつとの接触せっしょくにラジエーターを損傷そんしょうさせないためのアニマルバー[4]や、左右さゆうドアミラーの前部ぜんぶ装備そうびされ、光量ひかりりょう確保かくほするとともに競技きょうぎ車両しゃりょうであることをしめすウイングランプ、雨季うき開催かいさいではどろかわすコースで、エンジンにみずまないためのシュノーケル(吸排気はいきこう屋根やねまでばす)、車載しゃさいスペアタイヤの本数ほんすう増加ぞうか車内しゃないだけではなく、ルーフにもタイヤラックを装着そうちゃくして積載せきさいする)、ゆかを2じゅうにする、サスペンショントラベルをやす、燃料ねんりょうタンクを大型おおがたする、アクティブデフを機械きかいしきのデフに変更へんこうするなど、その改造かいぞう内容ないよう多岐たきにわたる。2007ねんまでのWRCのほかのグラベルイベントでは有効ゆうこうであるパンクレスタイヤの一種いっしゅムースタイヤは、ミシュランがわでは高温こうおんになり内圧ないあつがりすぎるため、サファリでは使用しようできなかったが使用しよう解禁かいきんされた1997ねんのイベントでフォードがミシュランがわ意見いけんとはぎゃく採用さいようした。

スペシャルステージがないため、ドライバーには耐火たいかスーツグローブヘルメット装着そうちゃく義務ぎむがない。車内しゃない温度おんどが50℃をえることもあるこのイベントで、ドライバーたちTてぃーシャツ・たんパンにヘッドセットをしただけの姿すがた競技きょうぎしていた。

1970年代ねんだいのサファリでは車体しゃたい改造かいぞうだけでなくチームによっては河川かせんえのリードよう滑車かっしゃとロープをんだり、河川かせん水量すいりょうやマディ路面ろめんのグリップ加減かげんによっては現地げんちじん協力きょうりょくくるまのトランクにそのままって浮力ふりょくかんでしまうリアのトラクションをかせひとしった行為こういや、もとからオーバーヒート気味ぎみになりやすいマシンではすう日間にちかん炎天下えんてんかはしり、ラジエータがそらになったときはレインコートでみずんで補充ほじゅうすること[5] もチームによってはめずらしくはなく、当時とうじはドライバーサイドも現地げんち対応たいおう苦労くろうさせられていたようである。

サポート体制たいせい

編集へんしゅう

サービスパークせい導入どうにゅう以前いぜんの、ほぼどこででもサービスができた時代じだい、ワークスチームではイベントごとにサポートカーなどふくめてすうじゅうだい車両しゃりょう用意よういしなければならなかった。このイベントは開催かいさいとおいのみならず交通こうつう便びんわるいため、輸送ゆそう負担ふたんすこしでも軽減けいげんするため競技きょうぎ車両しゃりょうおな車両しゃりょうレッキ事前じぜん下見したみ走行そうこう)ができた[6]イベントではレッキに競技きょうぎ車両しゃりょう同一どういつ仕様しよう車両しゃりょう使つかこと現在げんざいではゆるされていない。

コースの閉鎖へいさされていないため、コースには対向たいこうしゃのみならず、歩行ほこうしゃあらわれる。それらとの事故じこけるため、上空じょうくうけい飛行機ひこうきやヘリコプターとばし、競技きょうぎしゃにコース状況じょうきょうつたえることみとめられている。また、地上ちじょう付近ふきん飛行ひこうして、コースじょうにいる動物どうぶつ排除はいじょするという仕事しごとう。

はじまったばかりのころは、ベースとなる市販しはんしゃ値段ねだんによってクラスけがされていた。英国えいこくりょうだった当時とうじポンドてで、600ポンドのAクラス、800ポンドまでのBクラス、1000ポンドまでのCクラス、それ以上いじょうのDクラスという4クラス構成こうせいだった。

1960ねんからエンジン排気はいきりょうによってけられるようになるが、当時とうじ日本にっぽんでいう軽自動車けいじどうしゃのようなくるまかくのクラス(750cc)以下いか設定せっていされており、NSUゴッゴモビル参戦さんせんした。

日本にっぽんぜい参戦さんせん

編集へんしゅう

このラリーには、自社じしゃ製品せいひん耐久たいきゅうせいたかさをアピールするため、日本にっぽん自動車じどうしゃメーカーの海外かいがい輸出ゆしゅつ本格ほんかくした1960年代ねんだい以降いこう日本にっぽんメーカーはこぞって参戦さんせんした。日産にっさんトヨタ三菱みつびし好成績こうせいせきおさめ、WRCで活躍かつやくしたスバルやクラス優勝ゆうしょうではあるもののダイハツ健闘けんとうひかった。ダカール・ラリーならび(WRCというシリーズ以上いじょうに)日本にっぽんでの知名度ちめいどたかく、映画えいが題材だいざいなどにもなった。

日産にっさん

編集へんしゅう
 
510がたブルーバード
 
S30がたフェアレディZ

1963ねん日産にっさん市販しはんしゃ性能せいのう海外かいがい車種しゃしゅレベルにげることを目的もくてきとし、WRCの誕生たんじょうするよりまえからサファリラリーへの参戦さんせん開始かいしした。当時とうじ日本にっぽんしゃはまだ国際こくさいてき認知にんちひく一流いちりゅうドライバーとは契約けいやく出来できなかった。そのため監督かんとく実験じっけん部長ぶちょう笠原かさはらつよしさん、ドライバーは実験じっけん所属しょぞく難波なんば靖治やすはるのラリーチーム監督かんとくニスモ初代しょだい社長しゃちょう)をはじめとした社員しゃいんドライバーいう体制たいせいいどんだ。

1966ねん日産にっさんブルーバード410でクラス優勝ゆうしょうたす。監督かんとく笠原かさはらはこのとき記録きろくを『栄光えいこうへの5000キロ―ひがしアフリカ・サファリ・ラリー優勝ゆうしょう記録きろく』という書籍しょせきにまとめた。これがベストセラーとなり、石原いしはら裕次郎ゆうじろう主演しゅえんで『栄光えいこうへの5000キロ』の題名だいめい映画えいがもされた。

1969ねん日産にっさんブルーバード510で総合そうごう3、Dクラス優勝ゆうしょうとチーム優勝ゆうしょう獲得かくとく(1はフォード・2はボルボ)。1970ねんには総合そうごう優勝ゆうしょうのほか2-4-7はいり、クラス優勝ゆうしょう、チーム優勝ゆうしょうとサファリラリー史上しじょうはつ完全かんぜん制覇せいはげた。

1971ねんは510つぶしの意図いとから、ルート変更へんこうにより高速こうそくルートがえたため意表いひょういて1.6Lのブルーバードからフェアレディ240Z変更へんこうし、総合そうごうで1-2-7となる。3のプジョーは2のフェアレディZから5時間じかん以上いじょうおくれで、日産にっさん圧勝あっしょうとなった。

1972ねんはフェアレディ240Zで参戦さんせんするが、56わる(1フォード・2ポルシェ・3フォード)。

1973ねんはフェアレディ240Zとブルーバード610の2車種しゃしゅいどみ、1-2-4獲得かくとく総合そうごう優勝ゆうしょう(3はプジョー)。このとしきたオイルショックと国内こくない排気はいきガス規制きせい対応たいおうため日産にっさんのラリー活動かつどう一旦いったん停止ていしされる。

1979ねんにワークス復帰ふっきし、以降いこうダットサン160J(PA10がたバイオレット)で1982ねんまで前人未到ぜんじんみとうの4連覇れんぱ達成たっせいした。しかしこれ以降いこうはトヨタと4WDぜい圧倒あっとうされつづけ、1992ねんをもって日産にっさんはWRCから撤退てったいした。

三菱みつびし

編集へんしゅう

日産にっさんはげしく覇権はけんあらそったのは、パリ=ダカールラリー同様どうようさんひしであった。前年ぜんねんにサザンクロスラリーで1~4独占どくせんする圧勝あっしょうしめしたランサー1600GSRは、サファリラリーにスポット参戦さんせんするかたちで1974ねんにWRCはつ登場とうじょう。わずか1600ccでありながら2600ccのポルシェ911などを相手あいて見事みごとなデビューウィンをかざった。このランサーは1977ねん三菱みつびしはいガス規制きせい対応たいおう一時いちじ活動かつどう停止ていしするまでスポット参戦さんせんし、1976ねんふたたびサファリをせいした[7]

1983ねん三菱みつびしはワークス復帰ふっきするが、サファリで勝利しょうりるのは1996ねんトミ・マキネンランサーエボリューションによるもので、じつに20ねんぶりとなるものだった。1998ねんリチャード・バーンズ、そして2001ねんのトミ・マキネンの勝利しょうり三菱みつびし最後さいごのサファリ勝利しょうりとなった。

2021ねんのWRCイベント復帰ふっきは、じつに14だいものランサーエボリューションが地元じもとぜいによって採用さいようされていた。

 
グループBのセリカツインカムターボ(1984ねん

日産にっさん三菱みつびしおなじくWRC発足ほっそくから参戦さんせんし、数々かずかずのラリーで優勝ゆうしょうをしてきたトヨタだが、2しゃことなり欧州おうしゅうのオベ・アンダーソン・モータースポーツを支援しえんするかたちっていた関係かんけいで、サファリとはながらく疎遠そえんであった。

サファリにはつ参加さんかしたのは、トヨタが完全かんぜんワークス復帰ふっきした翌年よくねんの1984ねんである。これは日本にっぽんメーカーでもっとおそ参戦さんせんであったが、このとしビョルン・ワルデガルドのドライブするセリカツインカムターボがはやくも優勝ゆうしょうげた。このとき①はつ参加さんかチームによる総合そうごう優勝ゆうしょう②ターボエンジン搭載とうさいマシンの優勝ゆうしょうだい1セクションをリードしたくるまによる優勝ゆうしょう④ヨーロッパじんふくすうかい制覇せいはという、よっつのサファリのしん記録きろく同時どうじ樹立じゅりつしている[8]以降いこうトヨタはアウディ・クワトロやプジョー・205ターボのようなグループB4WDいきおい跋扈ばっこするなかで、1986ねんまでこう駆動くどうのセリカでサファリを3連覇れんぱした。

1990ねん、1992ねん〜1995ねんもやはりセリカで、日産にっさん(ダットサンをふくむ)以来いらいの4連覇れんぱ達成たっせいした。とくに1993ねんは1-2-3-4までをセリカが独占どくせんするほどのつよさをせた。

なお1995ねん優勝ゆうしょうしゃ日本人にっぽんじんはつかつ唯一ゆいいつのサファリ優勝ゆうしょうとなる藤本ふじもと吉郎よしろうだが、このときはカレンダーのローテーションシステムのためWRCではなくFIA 2リッターワールドカップ(英語えいご)としての開催かいさいだった。どうカップは前輪ぜんりん駆動くどうしゃのためのシリーズだが、アフリカイベントで欧州おうしゅうのフル参戦さんせんしゃたちが参戦さんせんしなかったこともあり、グループAのよんりん駆動くどうぜい総合そうごう優勝ゆうしょうあらそった。

2021ねんにWRCイベント復帰ふっきしたさいは、TOYOTA GAZOO Racing WRTとして唯一ゆいいつ日系にっけいワークスチームとして参戦さんせん。マシンはヤリスWRCで、セバスチャン・オジェ優勝ゆうしょうした。また日本人にっぽんじんとして勝田かつたたかもと総合そうごう2でフィニッシュし、自身じしんはつとなるWRCでの表彰台ひょうしょうだい獲得かくとくした。

ハイブリッド規定きてい導入どうにゅうされた2022ねん優勝ゆうしょうカッレ・ロバンペラ、2エルフィン・エバンス、3勝田かつた、4オジェで、1993ねん以来いらい2度目どめとなるトヨタ1-2-3-4を達成たっせいした。よく2023ねんもオジェ-ロバンペラ-エバンス-勝田かつた順番じゅんばんで2ねん連続れんぞく1-2-3-4フィニッシュをめた。

スバルWRCの歴史れきしは、サファリラリーへの挑戦ちょうせん皮切かわきりとなっている。1980ねんは、4WD、1600ccの「スイングバック」を平林ひらばやしたけし/カーンぐみ総合そうごう18、グループ1優勝ゆうしょうみちびき、レオーネ4WDRXのデビューとなった1983ねんには、高岡たかおかさちろう/砂原すなはら茂男しげおぐみが、当時とうじ日本人にっぽんじんWRC入賞にゅうしょうさい上位じょういとなる、総合そうごう5でフィニッシュした。

その1988ねんにスバルのモータースポーツ部門ぶもんSTI設立せつりつされ、1990ねんからレガシィRSによるWRC本格ほんかく参戦さんせんがスタートした。ラリーカーの開発かいはつ・チーム運営うんえいは、アリ・バタネンコ・ドライバーとして世界せかいタイトルを経験けいけんもあるデビッド・リチャーズひきいるプロドライブ担当たんとうしているが、サファリへの参戦さんせんは、従来じゅうらいどお日本にっぽんのSMSG(スバル・モーター・スポーツ・グループ)からおこなわれていた(96ねんからはプロドライブも参戦さんせん)。 レガシィによる参戦さんせん初年しょねんは、アフリカじんドライバーのパトリック・ジルどうラリーはつとなるGr.Nでの完走かんそうたし、スバルとしては、その7ねんわたりクラス制覇せいはす。

1993ねんにはレガシィではなく、グループA仕様しようヴィヴィオ4WDはしらせた。チームはコリン・マクレーには「とにかくチームのまえはしれ」、しばしば各社かくしゃワークスのすけとしてサファリをはしった地元じもとドライバー、パトリック・ジルには「なにがなんでも完走かんそうしろ」とオーダーをした。マクレーはくるまこわしてリタイアとなったものの見張みはるスピードをせ、ジルは見事みごと総合そうごう12完走かんそうげた(グループA5クラス出走しゅっそうはジルのみ)。

1995ねん三好みよししげるあきらがインプレッサをり、日本人にっぽんじんはつのグループN優勝ゆうしょうげている。

 
82ねんクラス優勝ゆうしょうしゃ(G10がた
 
93ねんクラス優勝ゆうしょうしゃ(G100がた

ダイハツのWRC活動かつどう東京とうきょうダイハツ自販じはん競技きょうぎよう部品ぶひん部門ぶもん発展はってんしたDRS(ダイハツ・レーシング・サービス)が中心ちゅうしんとなったが、資金しきん体制たいせい小規模しょうきぼだったため、サファリのような一部いちぶイベント限定げんていおこなわれた。

1979ねんにDRS支援しえんした地元じもとのプライベーターがグループ2/1クラスにG10がたシャレードもちいたのが最初さいしょのサファリ挑戦ちょうせんとなる。

DRSは1979ねんにツアー・オブ・マレーシアをせいしたつぎにサファリを目標もくひょうさだめ、1982ねんから地元じもとディーラーを中心ちゅうしんに、日本にっぽんからスタッフをおくかたち参戦さんせん開始かいし日本人にっぽんじんドライバーはスタントマン本業ほんぎょうとする浅川あさがわせきとら、ナビはドライバーから転向てんこうした日下部くさかべ保雄やすおがいた。のち多数たすうのクラス優勝ゆうしょう獲得かくとくするが、耐久たいきゅうしょくつよ当時とうじのサファリの独特どくとくむずかしさと、それをしょう排気はいきりょうしゃでクリアしていくたのしさは、勝敗しょうはい以上いじょうにDRSの面々めんめんとりこにしていくことになる。

1985ねんにはDRSが本社ほんしゃ強引ごういんって限定げんてい生産せいさんしてもらったシャレード926ターボをグループB排気はいきりょう1,300cc以下いかのB5クラス)に投入とうにゅう。クラス1/総合そうごう12という記録きろくのこした。ただしグループBの消滅しょうめつもあって、ほんしゃ参戦さんせんはこのいちかぎりであった。

1990ねんからトップ10りできるようになり、1993ねんはグループA7クラスで軽量けいりょうボディに993cc/3気筒きとうターボ搭載とうさい最高さいこう時速じそく200kmというスペックをつG100がたシャレードGTXXは、2,000ccターボ+4WDのグループA8クラスぜい相手あいて奮闘ふんとうし、セリカの1~4総合そうごう5-6-7という記録きろくのこした。その距離きょり短縮たんしゅくによるスプリント予算よさん都合つごう、DRSの方針ほうしん転換てんかんなどもあって、結果けっかてきにこれが最後さいごのサファリ挑戦ちょうせんとなった。12年間ねんかん挑戦ちょうせんのうち、完走かんそうできなかったのは1983ねんと1989ねんのみであった。

DRSをひきいた寺尾てらおけいひろし後年こうねん巨大きょだい泥濘でいねいをスバルの4WDしゃより軽快けいかいにクリアしていくシャレードをたスバルの重役じゅうやくから「FFでしょ?どうしてあんなにスムーズにはしれるの?」とたずねられ、「うちのはスクリューがついてるんだ」と冗談じょうだんかえしたと述懐じゅっかいしている。一方いっぽうで「色々いろいろ経験けいけんをさせてもらったからね。ちいさいけれど、ちょっとやそっとのくるまじゃないさ」と自信じしんのぞかせていた[9]

地元じもとぜい活躍かつやく 

編集へんしゅう
 
1965ねん、ボルボ・PV544で優勝ゆうしょうしたジョギンダ・シン

サファリで活躍かつやくする地元じもとぜいとしてジョギンダ・シンシェカー・メッタらがおり、世界せかい強豪きょうごうメーカーへ対向たいこうするもまだ熟成じゅくせいすすんでいないスポット参戦さんせん日本にっぽんメーカーぜい起用きようしつづけ、かすようになる。 また、メッタは5かい優勝ゆうしょう(1973ねん1979ねん-1982ねん)と金字塔きんじとうてている。

1965ねん、ジョギンダ・シンがボルボ・PV544はつ優勝ゆうしょうするが、このときにシンがっていたPV544は前年ぜんねん、ボルボ・ワークスがって大破たいはさせたマシンをケニアのこしてったものであり、シンによって修復しゅうふくされたマシンをっての優勝ゆうしょうであった[10]

ヨーロッパぜい、スペシャリストの活躍かつやく 

編集へんしゅう
 
1978ねんポルシェ911SC3.0(ビヨン・ワルデガルドしゃ)

1953ねんだいいちかい大会たいかいには「総合そうごう優勝ゆうしょう」が設定せっていされていなかったが、最短さいたん時間じかんでゴールしたのは最下位さいかいクラスのフォルクスワーゲン・タイプ1であった。翌年よくねん総合そうごう優勝ゆうしょう設定せっていされてからもタイプ1はいちちゃくでゴールし、ラリーにおけるタイプ1のつよさをらしめることとなった。

70年代ねんだいよりランチアポルシェひとしのワークスで活躍かつやくしていたスペシャリストが1990年代ねんだいはじめごろまでサファリで活躍かつやくしており、なかでもビョルン・ワルデガルドは1974、77、84、86、90ねん優勝ゆうしょう。そこから2002ねんのWRCせんないではつづいてコリン・マクレーユハ・カンクネンが3しょうしている。

チームのサポート体制たいせいは70年代ねんだいてみると、ランチアチームのサポートカー(ベータ・クーペとう)に現地げんちみんから投石とうせきされ、ウインドウをられること[11] もしばしばあり、ランチア・ストラトス長丁場ながちょうばであるサファリを攻略こうりゃくすることから、チームよりステージないサービス(当時とうじ路上ろじょうでのサービスがゆるされていた)、ヘリコプター・セスナのかずをチームの独断どくだんやしたことからチームよりクレームがつくほどであった。

優勝ゆうしょうしゃ

編集へんしゅう
 
1978ねん優勝ゆうしょうJ-P・ニコラがったプジョー504V6クーペ
 
1983ねん優勝ゆうしょうアリ・バタネンがったオペル・アスコナ400
 
1991ねん優勝ゆうしょうユハ・カンクネンがったランチア・デルタHFインテグラーレ16v
とし ドライバー/コ・ドライバー 搭乗とうじょうしゃ チーム
1970ねん   エドガー・ヘルマン/
  ハンス・シューラー
ダットサン・510SSS ダットサン
1971ねん 日産にっさん・240Z
1972ねん   ハンヌ・ミッコラ/
  グンナー・パウム
フォード・エスコートRS1600
1973ねん   シェカー・メッタ/
  ロフティ・デレウス
日産にっさん・240Z
1974ねん   ジョギンダ・シン/
  デビット・ドイグ
三菱みつびし・ランサー
1975ねん   オヴェ・アンダーソン/
  アーネ・ハーツ
プジョー・504
1976ねん   ジョギンダ・シン/
  デビット・ドイグ
三菱みつびし・ランサー
1977ねん   ビヨン・ワルデガルド/
  ハンス・ソルセリウス
フォード・エスコートRS1800
1978ねん   ジャン=ピエール・ニコラ/
  ジャン=クロード・レフェブル
プジョー・504 V6クーペ
1979ねん   シェカー・メッタ/
  マイク・ドゥーティー
ダットサン・160J ダットサン
1980ねん
1981ねん ダットサン・バイオレットGT
1982ねん 日産にっさん・バイオレットGT 日産にっさん
1983ねん   アリ・バタネン/
  テリー・ハリマン
オペル・アスコナ400 ロスマンズ・オペル ラリーチーム
1984ねん   ビヨン・ワルデガルド/
  ハンス・ソルセリウス
トヨタ・セリカTCT ウエストランド・モータース
1985ねん   ユハ・カンクネン/
  フレッド・ギャラガー
ウエストランド・モータース
1986ねん   ビヨン・ワルデガルド/
  フレッド・ギャラガー
トヨタ・チーム・ヨーロッパ
1987ねん   ハンヌ・ミッコラ/
  アーネ・ハーツ
アウディ・200クワトロ アウディ・スポーツ
1988ねん   ミキ・ビアシオン/
  ティツィアーノ・シビエロ
ランチア・デルタHFインテグラーレ マルティーニ・ランチア
1989ねん
1990ねん   ビヨン・ワルデガルド/
  フレッド・ギャラガー
トヨタ・セリカGT-FOUR トヨタ・チームケニア
1991ねん   ユハ・カンクネン/
  ユハ・ピロネン
ランチア・デルタHFインテグラーレ16v マルティーニ・ランチア
1992ねん   カルロス・サインツ/
  ルイス・モヤ
トヨタ・セリカターボ4WD トヨタ・チームケニア
1993ねん   ユハ・カンクネン/
  ユハ・ピロネン
トヨタ・カストロールチーム
1994ねん   イアン・ダンカン/
  デイビッド・ウイリアムソン
1995ねん   藤本ふじもと吉郎よしろう/
  アーネ・ハーツ
1996ねん   トミ・マキネン/
  セッポ・ハルヤンヌ
三菱みつびし・ランサーエボリューションⅢ チーム三菱みつびし・ラリーアート
1997ねん   コリン・マクレー/
  ニッキー・グリスト
スバル・インプレッサ WRC 555スバル・ワールドラリーチーム
1998ねん   リチャード・バーンズ/
  ロバート・レイド
三菱みつびし・カリスマGT エボリューションIV チーム三菱みつびし・ラリーアート
1999ねん   コリン・マクレー/
  ニッキー・グリスト
フォード・フォーカスWRC フォード
2000ねん   リチャード・バーンズ/
  ロバート・レイド
スバル・インプレッサWRC スバル・ワールド・ラリーチーム
2001ねん   トミ・マキネン/
  リスト・マニセンマキ
三菱みつびし・ランサーエボリューション6.5 マールボロ・三菱みつびし・ラリーアート
2002ねん   コリン・マクレー/
  ニッキー・グリスト
フォード・フォーカスWRC フォード
2020ねん 中止ちゅうし
2021ねん   セバスチャン・オジェ
  ジュリアン・イングラシア
トヨタ・ヤリスWRC トヨタ・ガズー・レーシング・ワールド・ラリー・チーム
2022ねん   カッレ・ロバンペラ
  ヨンネ・ハルットゥネン
トヨタ・GRヤリス ラリー1
2023ねん   セバスチャン・オジェ
  ヴァンサン・ロンデ
2024ねん   カッレ・ロバンペラ
  ヨンネ・ハルットゥネン

※1973ねん以降いこうWRCイベントとして開催かいさい。1995ねんはFIA 2リッターワールドカップのみ[12]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ "2002ねん世界せかいラリー選手権せんしゅけんだい8せん 2002ねんプロダクションカー世界せかいラリー選手権せんしゅけんだい5せん 【7がつ5にち(金)きん 事前じぜんレポート】". 三菱自動車みつびしじどうしゃ.(2002ねん7がつ5にち)2014ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ としによってはスーパースペシャルステージ (SSS) てき設定せっていされたことがある。
  3. ^ "1997世界せかいラリー選手権せんしゅけん(WRC)だい3せん 555サファリラリー ". 三菱自動車みつびしじどうしゃ.(1998ねん)2013ねん1がつ22にち閲覧えつらん
  4. ^ ラジエーターは通常つうじょう車両しゃりょう前部ぜんぶかれ、こわれることは水冷すいれいエンジンにとってはリタイアを意味いみする。
  5. ^ 三栄さんえいムック ラリーカーズ Vol.1 Lanchia Stratos HF「ピエロ・ソダーノ」より抜粋ばっすい参考さんこう
  6. ^ これは、過酷かこく道路どうろ事情じじょうより通常つうじょうグループN相当そうとうのレッキしゃでは、レッキの完了かんりょうあやういためでもある。
  7. ^ 三菱自動車みつびしじどうしゃ モータースポーツヒストリー ランサー 1600GSR
  8. ^ トヨタ自動車とよたじどうしゃ75ねん モータースポーツ活動かつどう変遷へんせん
  9. ^ 『WRC PLUS 2008 Vol.6』P84-91
  10. ^ 三栄書房さんえいしょぼう「ラリー&クラシックス Vol.4 ラリーモンテカルロ 100ねん記憶きおくない「ラリーモンテカルロ・ヒストリック マシン総覧そうらん」より抜粋ばっすい参考さんこう
  11. ^ ラリー・モンテカルロの「ゆきかたまり」のような贔屓ひいき
  12. ^ 全体ぜんたいてきrallybase.nl Safari Rally Roll of Honour 参考さんこう。2012ねん9がつ1にち参照さんしょう

関連かんれん項目こうもく

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