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パウロ - Wikipedia

パウロ

新約しんやく聖書せいしょ登場とうじょうする人物じんぶつであり、新約しんやく聖書せいしょ著者ちょしゃのひとり

パウロまれ: Πぱいαあるふぁῦλος[ちゅう 1]、? - 60ねんころ[5])は、初期しょきキリスト教きりすときょう使徒しとであり、新約しんやく聖書せいしょ著者ちょしゃ一人ひとり。はじめはサンヘドリンともイエス信徒しんと迫害はくがいしていたが、回心かいしんしてイエスしんじるものとなり、ヘレニズム世界せかい伝道でんどうおこなった。ユダヤめいサウロまれ:Σしぐまαあるふぁῦλος,ヘブライ: שָׁאוּל‎、Šāʼûl[6]ともばれる。古代こだいローマぞくしゅうキリキア州都しゅうとタルソス(いまトルコちゅう南部なんぶメルスィンけんタルススまれのユダヤじん[7]

パウロ
ピエトロ・ダ・コルトーナが1631ねんえがいたパウロの回心かいしん 
生誕せいたん 紀元きげん5ねん[1]
マ帝国まていこくキリキアぞくしゅうタルスス[2]
(げんトルコ南部なんぶ)
死没しぼつ 紀元きげん67ねん[3]
ローマ[3]
崇敬すうけいする教派きょうは キリスト教きりすときょうぜん宗派しゅうは
主要しゅよう聖地せいち サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラだい聖堂せいどう
象徴しょうちょう けん
守護しゅご対象たいしょう 神学しんがくしゃ伝道でんどう異邦いほうじんクリスチャン[4]
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ジャン・フーケによる中央ちゅうおうにパウロ

概要がいよう

編集へんしゅう

「サウロ」はユダヤめい(ヘブライ)であり、ギリシアめいでは「パウロス」となる(現代げんだいギリシャではパヴロス)。かれは「使徒しととしてされた」(ローマ1:1)とべており、日本にっぽん正教会せいきょうかいでは教会きょうかいスラヴ反映はんえいしてパウェルばれる。正教会せいきょうかいではパウロを首座しゅざ使徒しととの呼称こしょうもっ崇敬すうけいする。

聖人せいじんであり、その記念きねんペトロとともに6月29にちユリウスれき使用しようする正教会せいきょうかいでは7がつ12にち相当そうとう)である。

正教会せいきょうかいカトリック教会きょうかいはパウロを使徒しとんで崇敬すうけいするが、イエスの死後しご信仰しんこうみちはいってきたためイエスの直弟子じきでしではなく、「最後さいご晩餐ばんさん」につらなったじゅう使徒しとなかにはかぞえられない。

パウロはギリシアヘブライはなすことができた[8]

略歴りゃくれき

編集へんしゅう
  • ローマ民権みんけんつユダヤ教徒きょうとであった[9]
  • 紀元きげん30ねんごろ[10]刑死けいしによってナザレのイエス他界たかいする。
  • イエスはキリストだとする集団しゅうだんまれた[11]
  • イエスはキリストだとする集団しゅうだん根絶こんぜつしようとし、信者しんじゃまり、ろうれた[12][13][14]
  • 年代ねんだい不明ふめいであるが、イエスはキリストだとする集団しゅうだん一員いちいんとなった[15][16]
  • 50ねんころ、ユダヤじんからの迫害はくがいけてきていることをしるしている[17][18]
  • 54ねんころ、コリントじんへのだいいち手紙てがみしる[19]書簡しょかんなかで、んだはずのナザレのイエスに自分じぶん出会であったことがあるとしている[20][21]
  • 54ねんごろ、ガラテヤじんへの手紙てがみしる[22]みずからの異邦いほうじんへの伝道でんどうを「キリストの福音ふくいん」と表明ひょうめいして伝道でんどうしていることをしるしている。その福音ふくいんは、すでに死去しきょしたナザレのイエスが直接ちょくせつ自身じしん内的ないてき啓示けいじによって通信つうしんしてきたものであることを表明ひょうめいした[23]
  • いくつかの地方ちほう教会きょうかいひら[24]
  • 投獄とうごくされる[25]
  • 刑死けいしにより他界たかいする[26]
  • 66ねんから70ねんだいいちユダヤ戦争せんそう結果けっかとしてエルサレム神殿しんでん崩壊ほうかいした。異邦いほうじんへの「キリストの福音ふくいん」が主流しゅりゅうとなる。

生涯しょうがい

編集へんしゅう

ユダヤ教徒きょうと時代じだい

編集へんしゅう
 
ヴァランタン・ド・ブーローニュもしくはニコラ・トゥルニエによる1620ねんごろのさく執筆しっぴつちゅうのパウロ
 
デューラー『4にん使徒しと』(部分ぶぶん)。マルコ(ひだり)とパウロ(みぎ

新約しんやく聖書せいしょの『使徒しとぎょうでん』によれば、パウロはまれながらのローマ民権みんけん保持ほじしゃであった[27]ベニヤミンぞくのユダヤじんでもともとファリサイぞくし、エルサレムにて高名こうみょうラビであるガマリエル1せい(ファリサイ著名ちょめい学者がくしゃヒレルまご)のもとでまなんだ。パウロはそこでキリスト教徒きりすときょうとたちと出会であう。熱心ねっしんなユダヤ教徒きょうと立場たちばから、はじめはキリスト教徒きりすときょうと迫害はくがいするがわについていた。ステファノころすことにも賛成さんせいしていた[28]

回心かいしん

編集へんしゅう

ダマスコへの途上とじょうにおいて、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害はくがいするのか」と、てんからのひかりとともにイエス・キリストこえいた、そのえなくなった。アナニアというキリスト教徒きりすときょうとかみのおげによってサウロのためにいのるとサウロのからうろこのようなものがちて、えるようになった[ちゅう 2]。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒きりすときょうととなった[29][ちゅう 3]。この経験けいけんは「サウロの回心かいしん」といわれ、紀元きげん34ねんごろのこととされる。一般いっぱんてき絵画かいが表現ひょうげんでは、イエスのまぼろしうまからちるパウロの姿すがたえがかれることがおおい。

一方いっぽうでパウロ自身じしんはこのエピソードをみずか紹介しょうかいしておらず、たんに「されて使徒しととなった」などとしるしている。

回心かいしん伝道でんどう活動かつどう

編集へんしゅう

その、かつてさんざん迫害はくがいしていた使徒しとたちにれられるまでに、ユダヤ教徒きょうとたちからなんはげしく拒絶きょぜつされいのちねらわれたが、やがてアンティオキア拠点きょてんとしてしょうアジア、マケドニアなどマ帝国まていこく領内りょうないおもむき、会堂かいどうシナゴーグ)を拠点きょてんにしながらバルナバテモテマルコといった弟子でし協力きょうりょくしゃとも布教ふきょう活動かつどうおこなった。布教ふきょう活動かつどうときのパウロの職業しょくぎょうはテント職人しょくにんであった[30]復活ふっかつ奇跡きせきおこなったこともある[31]とく異邦いほうじん伝道でんどうしたことが重要じゅうようである。

使徒しとぎょうでん』によれば3かい伝道でんどう旅行りょこうおこなったのち、エルサレムで捕縛ほばくされたが、ローマ市民しみんであるパウロに刑罰けいばつすには正式せいしき裁判さいばん手続てつづきが必要ひつようであり、そのためローマおくられ軟禁なんきんされた。伝承でんしょうによれば皇帝こうていネロ治世ちせい60年代ねんだい後半こうはんにローマで斬首ざんしゅけいしょされ殉教じゅんきょうしたとわれる。またローマからスペインにまで伝道でんどう旅行りょこうをしたとの伝承でんしょうもある。

キリスト信仰しんこう

編集へんしゅう

年代ねんだいじゅんにみると、新約しんやくちゅうもっとふる書簡しょかんとされるテサロニケじんへのだいいち手紙てがみ生前せいぜんのナザレのイエスとのあいだには、初期しょきのエルサレム教会きょうかいよりつたわる伝承でんしょう存在そんざいしたとされる[32]。その伝承でんしょうなかには、信仰しんこう告白こくはく定型ていけいばれるものがあり、書簡しょかんなかでパウロが、ナザレのイエスはかえったと表明ひょうめいしている箇所かしょについては、この伝承でんしょうもとづいているとされている。[33]。パウロにとっては、すでに死去しきょしたナザレのイエスが直接ちょくせつ自身じしん内的ないてき啓示けいじによって通信つうしんしてきた体験たいけん[34]がイエスはキリストであるという信仰しんこういたるきっかけとなった。[35]盲目もうもくからの奇跡きせきてき回復かいふくというはなし自身じしんしるしていないことから、キリストはイエスであったとかんがえるようになったのは、イエスを名乗なの存在そんざい内的ないてき啓示けいじと、だいさんてんにまであげられたというあるひと天界てんかい体験たいけん[36]とが原因げんいんとしてれる。ガラテヤじんへの手紙てがみ1:16によれば、啓示けいじかみ御子みこあらわれるのをよしとしたのはかみであり、その啓示けいじ仕方しかたは、パウロ自身じしん内側うちがわ御子みこ啓示けいじされたというものであった。手紙てがみ文面ぶんめんでは、生前せいぜんのイエスと関連かんれんづけて理解りかいしたものではなく、キリストとはユダヤきょうかみからくるものであり[37]、それは、これまで自分じぶん迫害はくがいしていた集団しゅうだんでイエスとばれていたものであった、というくらいの内的ないてき転換てんかんであった。そののちパウロは、ただちに使徒しとむエルサレムにおもむくことはせずアラビアきを実行じっこうしたとしるしていることからも、使徒しとたちの伝承でんしょうしてきているはなし精査せいさしてゆく方向ほうこうにはすすまなかった。むしろ後年こうねん使徒しと会議かいぎにおける使徒しとたち(割礼かつれいにこだわっていた)のことを、かの「だい使徒しとたち」とぶような関係かんけいにあった。[38]手紙てがみなかで、自分じぶんはそのひとたちになんおとっていないとパウロは表明ひょうめいしている。そのことからてもパウロは使徒しとたちの伝承でんしょうしてきているおしえには、批判ひはんてきなところもかんじていたようである。後年こうねん使徒しと会議かいぎのためにエルサレムにおもむいたときは、啓示けいじによってエルサレムにくことになったとしるしていることや、自身じしんはユダヤきょうにおいて卓越たくえつしていて、父祖ふそたちの伝承でんしょう熱心ねっしんであり、民族みんぞくなかでもっていた[39]自分じぶん位置付いちづけていたことも、自分じぶんだい使徒しとたちになんおとっていないとする自信じしんうらづけとなっていたようだ。また、当時とうじ教会きょうかいなかには、だいいち使徒しとたち、だい預言よげんしゃたち、だいさん教師きょうしたちがいて、つぎちからあるごうつぎいやしの賜物たまもの補助ほじょはたらき、指導しどう能力のうりょく種々しゅじゅげんなどの順列じゅんれつがあったとパウロはしている。[40]これらは聖霊せいれいによるめぐみの賜物たまものであるとしるされている。当時とうじ聖霊せいれいわりにかみからあたえられるとしんじられていたすくいのれいかんがえられていた。しかし、わりでもないのに聖霊せいれい現象げんしょう信者しんじゃ出現しゅつげんしたのは、終末しゅうまつ賜物たまもの先取さきどりであり、「れい手付金てつけきん」であると信者しんじゃによってめられていた。そしてそれらはキリストの復活ふっかつ現実げんじつのものとなった、という解釈かいしゃく教会きょうかいないにおいてなされていた。[41]初期しょきのエルサレム教会きょうかいつたわっていた伝承でんしょう予言よげんはいくつかあり、だい使徒しとはなしくことはくても、そうした伝承でんしょうにはパウロも影響えいきょうけていたとおもわれる。そうしたことからパウロはテサロニケだいいち手紙てがみにおいて、復活ふっかつしたイエスはキリストであり、復活ふっかつわりを現実げんじつのものとするものであり、かれみずからの啓示けいじあらわれたユダヤきょうのキリストであったとしるした。パウロは、自分じぶんきているうちにやってくるおも来臨らいりんときには、啓示けいじ出現しゅつげんしたキリストによってのこったままですくわれることになったという信仰しんこう奥義おうぎとして信者しんじゃいていた[42]。50ねんころ、パウロはテサロニケの信者しんじゃへの手紙てがみなかで、下記かきのような終末しゅうまつかん表明ひょうめいしている。[43] きているうちにおも来臨らいりんがおきる。 きているうちに合図あいずこえとともにあるじてんからくだってくる。 きているうちにキリストにあってんだ人々ひとびとが、まず最初さいしょによみがえる。 きているうちによみがえった死人しにんねむっていたひとたちがてんげられる。 きたままで空中くうちゅうおもうことになり、そののちはいつもおもともにいることになる。[44]

パウロはユダヤきょう時代じだいから、分派ぶんぱきらった。イエスはユダヤきょうわれるところのキリストだとする集団しゅうだん [45]迫害はくがいしたのも、パリサイとしてユダヤきょうなか一派いっぱとしての異端いたん排除はいじょしようとした行為こういである。[46]後世こうせいにおいてキリストきょう国教こっきょうされたのちにも継承けいしょうされてゆく分派ぶんぱ異端いたん排斥はいせきは、ナザレのイエスが分派ぶんぱ異端いたん仲間なかまとして容認ようにんしたこととは、おおきくことなっている。[47]ナザレのイエスが信仰しんこうしていたのは平和へいわかみであるとされていて[48]、パウロも手紙てがみにおいて平和へいわかみというかたり多用たようしていたけれど、異端いたんしゃたいしては平和へいわてきでなかった。[49] [50]。イエスの啓示けいじけて回心かいしんしたとされたのちでも、その排他はいたせい異端いたん排斥はいせきせい変化へんかはなかった。手紙てがみなかでは、のろってはならないという指導しどう信者しんじゃたいしてなしているが、これは内的ないてき啓示けいじけた言葉ことばをそのままかえしただけのようである [51]異邦いほうじんへの伝道でんどうをするようになっても、党派心とうはしん分裂ぶんれつ分派ぶんぱものかみくにぐことはないといている。[52]そして、みずからの異邦いほうじんへの伝道でんどうを「キリストの福音ふくいん」であるとして、キリストの福音ふくいん変質へんしつしようとするものたいしてのろいの言葉ことばしるしている。[53][54]

パウロとナザレのイエスのきょうせつことなっているてんは、異端いたん排斥はいせきならんで、終末しゅうまつかんがあげられる。ナザレのイエスが直接ちょくせつかたった終末しゅうまつかんとは、マルコ福音ふくいんしょ13:32にある「かのないし〔かの〕時刻じこくについては、だれらない。てんにいるみ使つかいたちも、らない。ちちのみがっている」、という記述きじゅつであるとされている。[55]なお、マルコ福音ふくいんしょてくる終末しゅうまつについては、エルサレム神殿しんでん崩壊ほうかいわりの出来事できごと理解りかいする筆者ひっしゃ見方みかたふるちゅうによって編集へんしゅうされており[56] 不明瞭ふめいりょう記述きじゅつとなっている。わりについて、ナザレのイエスはてんのみ使つかいさえもはかることのできないほどの深遠しんえん事態じたいであるとしているのにたいして、パウロは、自分じぶんきているうちにおも来臨らいりんときはやってくるとしていた。[42]一方いっぽう、ヨハネ福音ふくいんしょ[57]はイエスの終末しゅうまつかん共通きょうつう部分ぶぶんがあるとおもわれ、わり・さばきのときという概念がいねん明瞭めいりょうになっていない。人々ひとびとがイエスの啓示けいじたいしてくだ判断はんだんが、そのひと運命うんめい決定けっていするとされ、悪人あくにんさばいてほろぼすためではなく、すくうために布教ふきょうしていることがしるされている。[58]ヨハネ福音ふくいんしょでは、さばきはもうているとされていて、この支配しはいしゃはすでにさばかれたともされている。[58]ちなみに、この支配しはいしゃたいする、さばきのときがすでにているれいとしては、聖霊せいれい冒涜ぼうとくするものは永遠えいえんつみさだめられる、とするイエスのきょうせつ[59]、があげられる。これはキリスト信者しんじゃはげしく迫害はくがいしていたと述懐じゅっかいしていたパウロにも十分じゅうぶんてはまるつみであったとかんがえられる。ユダヤ教徒きょうとが、ユダヤきょう精通せいつうし、もとめて熱心ねっしん信仰しんこうしているというだけで、聖霊せいれい冒涜ぼうとく永遠えいえんつみおかすリスクにさらされるということは不可思議ふかしぎなことである。また、永遠えいえんつみというのは、原罪げんざいという枠組わくぐみをえていて、かつ日常にちじょうてき精神せいしんあくであるようにもえる。つみからのすくいをもとめ、信仰しんこうみとめろんいていたパウロは、書簡しょかんなかで、自分じぶんすくわれるためには、あるいはすくいの経験けいけんがあったのは、信仰しんこうだったということをべている。

パウロ書簡しょかん

編集へんしゅう

パウロ書簡しょかんには新約しんやく聖書せいしょちゅう真性しんせい書簡しょかんとして『ローマの信徒しんとへの手紙てがみ』『コリントの信徒しんとへの手紙てがみいち』『コリントの信徒しんとへの手紙てがみ』『ガラテヤの信徒しんとへの手紙てがみ』『フィリピの信徒しんとへの手紙てがみ』『テサロニケの信徒しんとへの手紙てがみいち』『フィレモンへの手紙てがみ』があり、偽名ぎめい書簡しょかんとして『エフェソの信徒しんとへの手紙てがみ』『コロサイの信徒しんとへの手紙てがみ』『テサロニケの信徒しんとへの手紙てがみ』『テモテへの手紙てがみいち』『テモテへの手紙てがみ』『テトスへの手紙てがみ』がある。

なお伝統でんとうてきにパウロ書簡しょかんとされる『ヘブライじんへの手紙てがみ』は近代きんだいまでパウロのによるとされていたが、そもそも匿名とくめい手紙てがみであり、今日きょうでは後代こうだい筆者ひっしゃによるものとする見方みかた支持しじされている。

パウロ書簡しょかん成立せいりつ年代ねんだい著者ちょしゃ

編集へんしゅう

パウロ自身じしんしるしたのは、テサロニケじんへのだいいち手紙てがみ執筆しっぴつ年代ねんだいは50ねんごろ[60]、コリントじんへのだいいち手紙てがみ執筆しっぴつ年代ねんだいは54ねんごろ[61]、コリントじんへのだい手紙てがみ執筆しっぴつ年代ねんだいは54ねんから55ねんごろにかけての手紙てがみ集合しゅうごうたいとされる)[62]、ガラテヤじんへの手紙てがみ執筆しっぴつ年代ねんだいは54ねんごろ[22]、フィリピじんへの手紙てがみ執筆しっぴつ年代ねんだいは54ねん後半こうはんごろ[63]、フィレモンへの手紙てがみ執筆しっぴつ年代ねんだいは54ねんから55ねんごろ[64]、ローマじんへの手紙てがみ執筆しっぴつ年代ねんだいは55ねんから56ねんごろ[65]

これら以外いがいはパウロの使つかった偽書ぎしょである可能かのうせいたかいとされる。[66]

自由じゆう主義しゅぎ神学しんがくでの議論ぎろん

編集へんしゅう

歴史れきしてきキリスト教会きょうかいがパウロの著者ちょしゃせいみとめてきた『テサロニケの信徒しんとへの手紙てがみ』『コロサイの信徒しんとへの手紙てがみ』がパウロの真正しんせい書簡しょかんであるか自由じゆう主義しゅぎ神学しんがくものなかでは議論ぎろんがあり、『エフェソの信徒しんとへの手紙てがみ』およびいわゆるまきかい書簡しょかん(『テモテへの手紙てがみいち』、『テモテへの手紙てがみ』、『テトスへの手紙てがみ』)はパウロの弟子でしによるものとされ[67]、パウロをしてパウロの死後しごかれたとする見方みかた今日きょう自由じゆう主義しゅぎ神学しんがく(リベラル)では一般いっぱんてきである。リベラルではこれらを擬似ぎじパウロ書簡しょかんしょうする。

近代きんだい自由じゆう主義しゅぎ神学しんがく批判ひはんてき聖書せいしょがく高等こうとう批評ひひょうによれば(異論いろんもあるが)、パウロ書簡しょかん新約しんやく聖書せいしょちゅう著者ちょしゃあきらかである唯一ゆいいつのものであり、またぜん文書ぶんしょなかで(一般いっぱんてきには『テサロニケの信徒しんとへの手紙てがみいち』)最古さいこ文書ぶんしょである。

ほかにもパウロのりた『パウロの黙示録もくしろく』『パウロぎょうでん』といった外典げてん存在そんざいし、パウロという人物じんぶつ影響えいきょうりょくおおきさを物語ものがたっている。

教会きょうかいのリーダーは男性だんせいであるべきと主張しゅちょうした(当時とうじ各地かくち教会きょうかい婦人ふじんによる問題もんだい多発たはつしていたためといわれる)[68][69][70](しかし、パウロ書簡しょかんどう時期じき成立せいりつした福音ふくいんしょにおいては、むしろ女性じょせい信徒しんと男性だんせい信徒しんとよりもたか評価ひょうかされている[71][72][73])。結婚けっこん苦難くなんまねくといた[74]結婚けっこん性的せいてきあやまりをくすためるといた[75]結婚けっこんできるのはかみからの特権とっけんであるともいている。[よう出典しゅってん] パウロにおいてはみずからの不完全ふかんぜんさ、つみ意識いしき非常ひじょうつよいことがまず指摘してきできる。かれしんほっするぜんおこなうことができずに、かえってしんほっせざるあくをなしてしまうことになやんだ[76]。そのためかれ思想しそうでは人間にんげん無力むりょくさが強調きょうちょうされる[77]。このような人間にんげん自力じりきではすくわれることがないために、かみ恩寵おんちょうによってしかすくわれないし、パウロはイエスのこそかみ自己じこ犠牲ぎせいであるとかんがえる[78]。このかみ自己じこ犠牲ぎせいによって人間にんげんつみから解放かいほうされるのであり、これをしんじ、イエスのおしえを実践じっせんすることであたらしいせいむかえることができるという[79]。このあたらしいなま物質ぶっしつせいて、人類じんるいからかみ世界せかいのがれることではない。このことは初期しょき教父きょうふ、たとえばエイレナイオスにおいてグノーシス主義しゅぎ異端いたんきょうせつたいする批判ひはんのなかで明確めいかく表明ひょうめいされる。かれによれば、人類じんるい救済きゅうさいとはあくまでその本来ほんらいてき物質ぶっしつせいから、かみみちびきによってより高次こうじれいせい獲得かくとくしていく過程かていである。そしてこのような立場たちばつとき、物質ぶっしつてき現実げんじつ世界せかい矛盾むじゅん不幸ふこうちている不完全ふかんぜんなものとして相対そうたいされていくのである。だが同時どうじにこの物質ぶっしつてき世界せかいこそがかみ救済きゅうさい舞台ぶたいであり、かみ現存げんそんし、はたらきかけるである[80][81]

政治せいじ思想しそう

編集へんしゅう

パウロの政治せいじ思想しそうとしては、受動じゅどうてき服従ふくじゅうられる。ウォーリンによれば、パウロや初期しょき教会きょうかい指導しどうしゃたちが政治せいじ権力けんりょくへの服従ふくじゅうかえべていることは、この時代じだいキリスト教徒きりすときょうと政治せいじ秩序ちつじょへのするど対立たいりつ意識いしきがあったことを物語ものがたっているという。[82]事実じじつ66ねんにはユダヤ戦争せんそう(〜70ねん)がき、112ねん115ねんにもユダヤじん蜂起ほうきし、135ねんにもバル・コクバのらんきている。パウロによれば、この権威けんいかみらないものはなく、したがってこれをれなくてはならない。パウロは政治せいじてき権威けんいたいして義務ぎむ宗教しゅうきょうてき権威けんいたいするそれを区別くべつした。しかしそれは政治せいじてき忠誠ちゅうせいしん宗教しゅうきょうてき忠誠ちゅうせいしん完全かんぜん分離ぶんりしたものであると主張しゅちょうしたわけではない。かれ政治せいじ秩序ちつじょかみ摂理せつりなか位置いちづけ、当時とうじキリスト教徒きりすときょうと政治せいじ秩序ちつじょキリスト教きりすときょうてき理解りかいもとづいてれるよううながした。[82]

ひとみなうえ権威けんいしたがうべきです。かみ由来ゆらいしない権威けんいはなく、いまある権威けんいはすべてしんによっててられたものだからです。したがって、権威けんいさからうものは、かみさだめにそむくことになり、そむもの自分じぶんさばきをまねくでしょう。実際じっさい支配しはいしゃは、ぜんおこなものにはそうではないが、あくおこなものにはおそろしい存在そんざいです。あなたは権威けんいしゃおそれないことをねがっている。それなら、ぜんおこないなさい。そうすれば、権威けんいしゃからほめられるでしょう。権威けんいしゃは、あなたにぜんおこなわせるために、かみつかえるものなのです。しかし、もしあくおこなえば、おそれなければなりません。権威けんいしゃはいたずらにけんびているのではなく、かみつかえるものとして、あくおこなものいかりをもってむくいるのです。 — パウロ、「ローマじんへの手紙てがみ」13.1-4。しん共同きょうどうやく
 
テオドール・モムゼン
1890ねんの『ローマほうから宗教しゅうきょうてき逸脱いつだつ』において、帝政ていせい初期しょきキリスト教きりすときょう迫害はくがい理由りゆうを「国家こっか離反りはん」にもとめ、キリストきょう迫害はくがい研究けんきゅう決定的けっていてきいちきざみつけた

パウロは、教会きょうかい国家こっか分離ぶんりし、国家こっかたいするキリスト教きりすときょう服従ふくじゅうくが、したがうべき対象たいしょうとして「皇帝こうてい」ではなく、かみによってみとめられた「権威けんい」をげている[83]。パウロはマ帝国まていこく支配しはい無条件むじょうけん肯定こうていしているともいわれる[84]

歴史れきし意見いけん

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マ帝国まていこくキリスト教きりすときょうたいする迫害はくがいについてテオドール・モムゼンは、マ帝国まていこくによって「ゆるされた宗教しゅうきょう」ユダヤきょうと「ゆるされざる宗教しゅうきょう」キリストきょう対比たいひしたが、1世紀せいき段階だんかいでは、キリストきょう迫害はくがいネロ迫害はくがいのぞいてユダヤきょう迫害はくがい一環いっかんとしておこなわれている[85]。またネロみかどによるキリストきょう迫害はくがいについても、タキトゥス記述きじゅつ2世紀せいきにおけるキリスト教きりすときょうかんしめしており、1世紀せいき段階だんかいヨセフス新約しんやく聖書せいしょとの相違そういいちじるしいため、その史実しじつせいにははばがある[86]

労働ろうどうかん

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パウロは「自分じぶんはたらくこと」を推奨すいしょうしている[ちゅう 4]が、これは古典こてん古代こだい労働ろうどうかんはんする[88]古典こてん古代こだいにおいては労働ろうどう奴隷どれいがするもので、自由じゆうじん閑暇かんかスコレー σしぐまχかいοおみくろんλらむだηいーた)にあることをほこりとしていた。アリストテレスは「幸福こうふく閑暇かんか(スコレー)にそんするとかんがえられる。」[89]べており、ハンナ・アーレントによれば、アリストテレスは全体ぜんたいとして必要ひつよう従属じゅうぞくしているヒトぞく人間にんげんぶことをみとめなかった[90]

死生しせいかん

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パウロは復活ふっかつおし強調きょうちょうした。(当時とうじ、ユダヤきょうではサドカイなどや、キリスト教会きょうかい内部ないぶでも、イエスのおしえにはんして復活ふっかつ否定ひていするうごきがあったためか。)もし死人しにん復活ふっかつがないならキリストもよみがえらなかったことになり、それをよみがえらせたとっているわたしたちかみにそむく偽証ぎしょうじんということになるためすべてのひとなかもっともあわれむべき存在そんざいになるとまでかたった[91][92]

哲学てつがくとの接点せってん

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パウロはアテネ滞在たいざいしたさいエピクロスストア哲学てつがくしゃすうにんろんっている[93]当時とうじ哲学てつがくとキリストきょうおしえを巧妙こうみょうぜたおしえがおおかったためか、それらの哲学てつがくを「むなしいだましごと」と批判ひはんしたこともある[94]

評価ひょうか

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ルターによる評価ひょうか

ルターパウロ書簡しょかんきわめてたか評価ひょうかしている[95]

トロクメによる評価ひょうか

ルター以来いらいパウロはユダヤきょうからイエスによって解放かいほうされたとする見解けんかい主流しゅりゅうであったが、トロクメによるとかれ自身じしん意識いしきではユダヤの思想家しそうかであり、意識いしきとしてはユダヤきょう内部ないぶ論争ろんそうかかわっていたつもりであったとされる[96]。またトロクメは歴史れきしたちがパウロを「キリストきょう創始そうししゃ」とかんがえる傾向けいこうにあることを批判ひはんし、このかんがえがイエスを「ユダヤきょう改革かいかくしゃ」というあやまった位置いちづけにおとしめるものだという。トロクメはパウロの思想しそうアウグスティヌス以前いぜん正確せいかく理解りかいされているとはかならずしもえないこと、中世ちゅうせい神学しんがくしゃたちもかれをあまり重視じゅうししていないことをげ、パウロにキリスト教きりすときょうにおける中心ちゅうしんてき地位ちいあたえたのはルネサンス宗教しゅうきょう改革かいかくであるとべている[97]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ラテン文字もじ表記ひょうき: Paulos
  2. ^ からうろこちた」という言葉ことば語源ごげん
  3. ^ 自由じゆう主義しゅぎ神学しんがくでは、パウロ自身じしんが『ガラテアしょ』で言及げんきゅうしていないことから、これを「伝説でんせつてき」な事件じけんとみなし、パウロの回心かいしん史実しじつせい否定ひていされる
  4. ^ 「そして、わたしたちがめいじておいたように、いた生活せいかつをし、自分じぶん仕事しごとはげみ、自分じぶんはたらくようにつとめなさい」[87]

出典しゅってん

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  1. ^ Peter and Paul . In the Footsteps of Paul . Tarsus . 1. PBS. Retrieved on 2010-11-19.
  2. ^ Acts 22:3
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  4. ^ Catholic Online
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  7. ^ 使徒しと言行げんこうろくしょう以下いか
  8. ^ 使徒しとぎょうでん(口語こうごやく)#21:37-40
  9. ^ 歴史れきしてきると新約しんやく聖書せいしょ著作ちょさくなかでこの存在そんざいしていたことが確認かくにんできているのは、ナザレのイエスとパウロである。パウロ自身じしんによるものであることがはっきりしている書簡しょかんもとづいて、パウロの生涯しょうがいることが可能かのうである。キリスト教きりすときょう#福音ふくいんしょとう成立せいりつ年代ねんだい著者ちょしゃ参照さんしょう
  10. ^ Britannica.com
  11. ^ キリストしゃというかたり使つかわれた時期じきは1世紀せいきわりころとされる。『新約しんやく聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい岩波書店いわなみしょてんP427(使徒しとぎょうでん11:26 におけるちゅう5 荒井あらい
  12. ^ 使徒しとぎょうでん8:3.  
  13. ^ パウロがステファノへのリンチをていたという事実じじつは、歴史れきしてき疑問ぎもんであるとされている。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP591(ガラテヤじんへの手紙てがみ1:13 におけるちゅう2 青野あおの
  14. ^ 福音ふくいんしょにおける「罪人ざいにん」とは、りつほうまもらぬ徴税ちょうぜいじん売春ばいしゅんとうげかけられる蔑称べっしょうとしてもちいられている(『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてん補注ほちゅう用語ようご解説かいせつP29 罪人ざいにん項目こうもく 新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい)。イエスは「あく」よりの救済きゅうさい(マタイ6-13)を救済きゅうさいとしていたが、それとはことなり、パウロは自己じこ内面ないめん宗教しゅうきょうてきつみ」をみとめ、そこからの救済きゅうさい追及ついきゅうしてゆくことになる。(『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてん補注ほちゅう用語ようご解説かいせつP29 罪人ざいにん項目こうもく 新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい
  15. ^ パウロのだいいちかい伝道でんどう旅行りょこうは47-48ねんとされていて、ガラテヤ1:18のちゅう9によれば、その2-3ねんまえにアラビアきがおこなわれたということになる。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてん(P990)のパウロ文書ぶんしょ成立せいりつ付表ふひょう 新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい
  16. ^ 教義きょうぎてきおおきな転向てんこうがあったわけではなく、みずからユダヤじんであったパウロは、かみのユダヤじんへの約束やくそく不変ふへんであるとかんがえていたとされている。「信仰しんこうみとめろん」によってかれらも最終さいしゅうてきにはすくわれるのだ(ローマじんへの手紙てがみ11:26)としているので、ユダヤきょうわれていたところのキリストはイエスであったというほどの変化へんかであった。『新約しんやく聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい岩波書店いわなみしょてんP928 (ローマじんへの手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  17. ^ テサロニケじんへのだいいち手紙てがみ2:15。ほかにも迫害はくがいれいとしては、使徒しとぎょうでん17:5などがあるとされる。『新約しんやく聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい岩波書店いわなみしょてんP491(テサロニケじんへのだいいち手紙てがみ2:15におけるちゅう6 青野あおの
  18. ^ みずからの信仰しんこう根幹こんかんをなすユダヤきょう信仰しんこうとユダヤじんとの区分くわけは不明ふめい
  19. ^ 新約しんやく聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい岩波書店いわなみしょてんP921 (コリントだいいち手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  20. ^ コリントじんへのだいいち手紙てがみ15:8
  21. ^ コリントだいいち手紙てがみ15:5において、弟子でし12にんにイエスがあらわれたことをしるしているが、ルカはこの時点じてんの「12にん」をつねに「11にん」に修正しゅうせいしている。その修正しゅうせいのないことは、イエス顕現けんげん伝承でんしょうはや時期じき成立せいりつしたことを示唆しさしている。『新約しんやく聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい岩波書店いわなみしょてん2004,p.543コリントじんへのだいいち手紙てがみ 15:5におけるちゅう1 青野あおの
  22. ^ a b 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP924 ガラテヤじんへの手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  23. ^ ガラテヤじんへの手紙てがみ1:16-18において、パウロはダマスコスで回心かいしんさいに、かみより異邦いほうじん伝道でんどうされたことを証言しょうげんしている。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP465 使徒しとぎょうでん22:21におけるちゅう8 荒井あらい
  24. ^ 直筆じきひつ手紙てがみなかで、ローマじんへの手紙てがみはパウロ自身じしん設立せつりつしたのではない教会きょうかいてた唯一ゆいいつ手紙てがみとされる。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP625 ローマじんへの手紙てがみ1-7におけるちゅう9
  25. ^ フィレモンへの手紙てがみ獄中ごくちゅうからかれた。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP620 フィレモンへの手紙てがみ1:1におけるちゅう青野あおの
  26. ^ 60ねんころローマにて殉教じゅんきょう?『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてん2004ねん(P990)のパウロ文書ぶんしょ成立せいりつ付表ふひょう 新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい
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  31. ^ 使徒しとぎょうでん(口語こうごやく)#20:9-12
  32. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP543コリントじんへのだいいち手紙てがみ15:3におけるちゅう15 青野あおの
  33. ^ コリントじんへのだいいち手紙てがみ15:8
  34. ^ ガラテヤじんへの手紙てがみ1:16
  35. ^ しかし、この時代じだい新約しんやく旧約きゅうやく時代じだいあいだ断絶だんぜつ意識いしきうすく、信仰しんこう場合ばあいキリスト教きりすときょうへの改宗かいしゅうではなく、旧約きゅうやくにもとづく敬虔けいけんという意味合いみあいがつよかったとされる。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP726テモテへのだい2の手紙てがみ1:5におけるちゅう2 保坂ほさか
  36. ^ あるひととはパウロ自身じしんのことであるとされている。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP571(コリントだい手紙てがみ12:2におけるちゅう3 青野あおの
  37. ^ パウロはかみ中心ちゅうしん主義しゅぎであるとされている。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP508(コリントだいいち手紙てがみ3:23におけるちゅう1 青野あおの
  38. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP566(コリントだい手紙てがみ11:5におけるちゅう6 青野あおの
  39. ^ ガラテヤじんへの手紙てがみ1:14
  40. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP534(コリントだいいち手紙てがみ12:28におけるちゅう9 青野あおの
  41. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてん 補注ほちゅう 用語ようご解説かいせつP24 聖霊せいれい項目こうもく 新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい
  42. ^ a b 再臨さいりんときまでのこるというのは、パウロの確信かくしんであるとされている。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP546(コリントだいいち手紙てがみ15:51におけるちゅう6 青野あおの
  43. ^ 結果けっかてきには、おも来臨らいりんなかったことにより、信者しんじゃいていた真理しんりは「実現じつげんしなかった予測よそく」にとどまることになったが、これはおも言葉ことばとして伝承でんしょうされてきた初期しょきキリスト教きりすときょう預言よげんしゃ言葉ことばである可能かのうせいだいであるとされている。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP494(テサロニケだいいち手紙てがみ4:15におけるちゅう11 青野あおの
  44. ^ テサロニケじんへのだいいち手紙てがみ 4:15
  45. ^ キリストしゃというかたり使つかわれた時期じきは1世紀せいきわりころとされる。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP426(使徒しとぎょうでん11:26におけるちゅう5 荒井あらい
  46. ^ 分派ぶんぱ異端いたん排除はいじょすることは、ただ一神教いっしんきょうられる特徴とくちょうである
  47. ^ マルコによる福音ふくいんしょ9:38
  48. ^ マタイによる福音ふくいんしょ5:9
  49. ^ パウロが平和へいわかみかたり使用しようしている箇所かしょは、コリントじんへのだいいち手紙てがみ14:33、コリントじんへのだい手紙てがみ13:11、フィリピじんへの手紙てがみ4:9、ローマじんへの手紙てがみ15:33がある。(『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP667ローマじんへの手紙てがみ15:33におけるちゅう22 青野あおのに、テサロニケだいいち手紙てがみ5:23もある
  50. ^ マルコ12-29においては、かみ唯一ゆいいつかみではなく、(唯一ゆいいつかみ表記ひょうきすべき個所かしょを)いちなるかみ表記ひょうきしているとされている(『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP52(マルコ福音ふくいんしょ12:29におけるちゅう11 佐藤さとう)。また、マルコによる福音ふくいんしょ9:38~40には、ただ一神教いっしんきょうられがちな、排他はいたせい異端いたん排斥はいせきとはことなる調和ちょうわてき立場たちばがイエスの教示きょうしとしてしるされている
  51. ^ のろってはならないという言葉ことばは、パウロが実際じっさい啓示けいじいだイエスの言葉ことば引用いんようしている可能かのうせいがあるとされている『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP658ローマじんへの手紙てがみ12:14におけるちゅう11 青野あおの
  52. ^ ガラテヤじんへの手紙てがみ5:20
  53. ^ ガラテヤじんへの手紙てがみ1:8
  54. ^ ニカイヤ信条しんじょう参照さんしょう
  55. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP495(1テサ5:1のちゅう19 青野あおの
  56. ^ 新約しんやく聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい岩波書店いわなみしょてんP55、P57
  57. ^ 執筆しっぴつ年代ねんだいは90年代ねんだい著者ちょしゃ無名むめい作者さくしゃで、かれをよく理解りかいしたべつ人物じんぶついまかたちしたとされる。『新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP918 (ヨハネ福音ふくいんしょ解説かいせつ 小林こばやし
  58. ^ a b 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてん補注ほちゅう 用語ようご解説かいせつP19 さばきの項目こうもく 新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい
  59. ^ マルコ3:28
  60. ^ 新約しんやく聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょ翻訳ほんやく委員いいんかい岩波書店いわなみしょてんP920 テサロニケじんへのだいいち手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  61. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP921 コリントじんへのだいいち手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  62. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP922 コリントじんへのだい手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  63. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP925 フィリピじんへの手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  64. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP927 フィレモンへの手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  65. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP928 ローマじんへの手紙てがみ解説かいせつ 青野あおの
  66. ^ 新約しんやく聖書せいしょ岩波書店いわなみしょてんP929~P933 (コロサイ、テサロニケだい、テモテだいいちだい、ヘブルにおけるかく解説かいせつ保坂ほさか 小林こばやし 
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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