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君沢形 - Wikipedia

君沢きみざわがた(きみさわがた、くんたくがた[1])は、幕末ばくまつ日本にっぽん君沢きみざわぐん戸田とだむらなどで建造けんぞうされた西洋せいようしき帆船はんせん型式けいしき原型げんけいは、下田しもだおき難破なんぱしたロシア船員せんいん帰国きこくよう戸田とだむら建造けんぞうされた「ヘダごう」で、同型どうけいせん10せき日本にっぽん使用しようするために量産りょうさんした。そう形式けいしきスクーナー分類ぶんるいされる。ヘダごう戸田とだむら由来ゆらいし、君沢きみざわがた名前なまえ戸田とだむらぞくした君沢きみざわぐん由来ゆらいする。ヘダごうおよ君沢きみざわがた建造けんぞうは、日本人にっぽんじんにとって、洋式ようしきせん建造けんぞう技術ぎじゅつ実地じっち習得しゅうとくする重要じゅうよう機会きかいとなった。なお、「君沢きみざわがた」のは、同型どうけいせんかぎらずスクーナー全般ぜんぱんをさす一般いっぱん名詞めいしとしてももちいられることがある[2]

君沢きみざわがたいちばんせん「ヘダごう」の絵図えず。ロシアじんによって運用うんようちゅう状態じょうたいえがかれており、ロシア海軍かいぐん軍艦ぐんかんはた掲揚けいようしている。

建造けんぞう経緯けいい

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1854ねん10月21にちよしみひさし7ねん8がつ30にち)、にち和親わしん条約じょうやく締結ていけつ交渉こうしょうのため、ロシア帝国ていこくエフィム・プチャーチン提督ていとくフリゲートディアナ」で来日らいにちした。しかし、下田しもだおき碇泊ていはくちゅう同年どうねん12がつ23にちよしみひさし7ねん11月4にち)に安政あんせい東海とうかい地震じしん見舞みまわれて「ディアナ」は津波つなみ大破たいは修理しゅうりのため戸田とだむら回航かいこうちゅうあらし航行こうこう不能ふのうとなり、1855ねん1がつ17にち安政あんせい元年がんねん12がつ2にち)に沈没ちんぼつしてしまった。

 
「ヘダごう」の進水しんすいしきえがいた船体せんたいおおきさはかなりデフォルメされているが、西洋せいようしき船台せんだい進水しんすい様子ようすとらえている。

プチャーチンは、帰国きこくのために洋式ようしきせん新造しんぞうすることを即座そくざ決意けついし、1855ねん1がつ24にち安政あんせい元年がんねん12がつ7にち)に幕府ばくふ同意どういけ、戸田とだむら建造けんぞう準備じゅんび着手ちゃくしゅした[3]設計せっけいはロシアじん乗員じょういんアレクサンドル・コロコリツォフロシアばん少尉しょういのち中将ちゅうじょう)やアレクサンドル・モジャイスキーのち飛行機ひこうき開発かいはつみ、ロシアでは飛行機ひこうきによる有人ゆうじん動力どうりょく飛行ひこう世界せかいはじめて成功せいこうした人物じんぶつとされている)らが担当たんとうし、日本にっぽんがわ資材しざい作業さぎょういんなどを提供ていきょう支援しえん代償だいしょうとして完成かんせいしたふね帰国きこくには日本にっぽんがわ譲渡じょうとする契約けいやくとなった。幕府ばくふは、韮山にらやま代官だいかん江川えがわ英龍ひでたつ江川えがわ太郎左衛門たろうざえもん)と勘定かんじょう奉行ぶぎょう川路かわじ聖謨としあきら日本にっぽんがわ責任せきにんしゃ任命にんめいしている。まずは船台せんだい建築けんちくしたのちに、船体せんたい起工きこう日本にっぽんがわには洋式ようしきせん建造けんぞう経験けいけんとぼしかったにもかかわらず、にち共同きょうどう作業さぎょうはおおむね順調じゅんちょうで、起工きこうよりやく3カ月かげつの4がつ26にち安政あんせい2ねん3がつ10日とおかロシアれき4がつ14にち)には無事ぶじ進水しんすいしきえ、建造けんぞう戸田とだ(へだ)にちなんでふねめいを「ヘダ」(ヘダごう)と命名めいめいされた。艤装ぎそうすみやかにおこなわれ、5月2にち安政あんせい2ねん3がつ16にち、ロシアれき4がつ20日はつか)には戸田とだからはつ航海こうかいた。建造けんぞう費用ひようは、労賃ろうちんのぞいて3100-4000りょうかかった[4]

一方いっぽう、「ヘダ」の建造けんぞう洋式ようしき造船ぞうせん技術ぎじゅつ習得しゅうとく好機こうき幕府ばくふは、「ヘダ」の建造けんぞう許可きょかのわずか15にちの1855ねん2がつ8にち安政あんせい元年がんねん12がつ22にち)には、川路かわじ聖謨としあきらたいして同型どうけいせん1せき戸田とだでの建造けんぞう指示しじした。のち佐賀さがはん水戸みとはんひとし技術ぎじゅつ習得しゅうとくのため、幕府ばくふ許可きょか藩士はんし派遣はけんしている。その「ヘダ」が無事ぶじ進水しんすいすると、同年どうねん5がつ6にち安政あんせい2ねん3がつ20日はつか)には1せき追加ついか建造けんぞう命令めいれい同年どうねん6がつ6にち安政あんせい2ねん4がつ22にち)にも2せき追加ついか指示しじ同年どうねん9がつ16にち安政あんせい2ねん8がつ6にち)には、戸田とだでさらに3せきのほか、石川いしかわとう造船ぞうせんしょでも4せき建造けんぞうめいじた[3]戸田とだせいの6せきは1856ねん1がつごろ安政あんせい2ねん12がつ)までには完成かんせいしている。これらの同型どうけいスクーナーを、幕府ばくふは1856ねん5がつ29にち安政あんせい3ねん4がつ26にち)に「君沢きみざわがた」と命名めいめいした。以上いじょうのほか、はこかん奉行ぶぎょうしょにも君沢きみざわがた建造けんぞう指示しじされたが、はこかん奉行ぶぎょうしょでは独自どくじ設計せっけいおこなってべつがた檣スクーナー「はこかんまる」などを完成かんせいさせ、これをはこかんがた呼称こしょうしている。

構造こうぞう

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君沢きみざわがた量産りょうさんせんえがいた絵図えず君沢きみざわがた御船みふね」(福井ふくい県立けんりつ図書館としょかん松平まつだいら文庫ぶんこ収蔵しゅうぞう

「ヘダ」および君沢きみざわがたかくふねは、比較ひかくてき小型こがた洋式ようしき帆船はんせんで、そう形式けいしきは2ほんマストたてったスクーナー(当時とうじは「スクーネル」「シコナ」「ヒコナ」などとんだ[5])に分類ぶんるいされる。「ヘダ」と君沢きみざわがた同型どうけいとされるが、資料しりょうによって若干じゃっかんことなった要目ようもく記録きろくされている。「ヘダ」は全長ぜんちょう81しゃく1すん(24.6m)、甲板かんぱんちょう12あいだ(21.8m)、はば23しゃく2すん(7.0m)、ふかさ9しゃく9すん(3.0m)とされ、排水はいすいりょうは87.52トンまたは100トンとの数値すうちがある[3]君沢きみざわがたについては、みぎ掲の松平まつだいら文庫ぶんこ所蔵しょぞう絵図えずによると全長ぜんちょう12あいだ3しゃく(22.7m)、はば3あいだ2しゃく(6.1m)、ふかさ8しゃく5すん(2.6m)となっている[6]設計せっけい変更へんこうされたとする見方みかたがある一方いっぽう浅川あさがわ道夫みちおバウスプリットふくまれるかかなどの測定そくていほうちがいにすぎないと推論すいろんしている[7]。また、石井いしい謙治けんじによれば、「ヘダ」の要目ようもくしょうする数字すうじのうちはばふかさは過大かだいあやまった記録きろくおもわれ、君沢きみざわがた記録きろくとほぼおな数値すうち比率ひりつとして自然しぜんだという[8]

設計せっけい基礎きそとなったのは、クロンシュタット軍港ぐんこう司令しれいかんファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンヨットとして建造けんぞうされた試作しさくスクーナーである。「ディアナ」にまれていたロシア海軍かいぐん機関きかんモルスコイ・ズボルニクロシアばん』(1849ねん1がつごう)に図面ずめん掲載けいさいされていた。この試作しさくスクーナーは全長ぜんちょう69フィート(21.0m)、はば21フィート(6.4m)、75そうトン要目ようもくであった[9]

「ヘダ」の船体せんたい木骨もっこつ木皮もくひで、竜骨りゅうこつしゅ肋材ろくざい35くみおよびふく肋材ろくざい11くみささえられている。船底ふなそこ生物せいぶつ付着ふちゃく防止ぼうしのため銅板どうばん被覆ひふくされている。部品ぶひん日本にっぽん製造せいぞうされ、木材もくざい天領てんりょう各地かくちからしたまつクスノキ使用しよう金具かなぐのうち水線すいせんじょうのものはどうせい、その鉄製てつせいだった。調達ちょうたつむずかしい帆布ほぬのロープ最小限さいしょうげんりょうおさえられ、たとえば船首せんしゅ三角さんかくかくマストにガフセイル1まいずつのけい3まいのみで、予備よびたなかった。補助ほじょ推進すいしん設備せつびとして和式わしき6ちょうそなえられており、これだけで3.5ノット速力そくりょくられた[10]

武装ぶそうは「ヘダ」には実装じっそうされなかった。もっとも、ボート・ホイッスル(艦載かんさいよう小型こがた榴弾りゅうだんほう)など8もん装備そうびできるように、火砲かほう設置せっち場所ばしょ確保かくほされていた。これにたいして、自国じこくよう建造けんぞうされた君沢きみざわがた量産りょうさんせんでは、大砲たいほう搭載とうさいされて射撃しゃげき演習えんしゅうにも使用しようされていた。「ヘダ」とおなじく小型こがたほう8もん程度ていど装備そうび可能かのうだったと推定すいていされる[7]

作業さぎょうのうち、材木ざいもく加工かこう日本にっぽん大工だいくによって手際てぎわよくすすめられたが、ボルトなどれない金属きんぞく部品ぶひん製造せいぞう困難こんなんがあった[11]。また、かじ構造こうぞう和船わせんおおきくことなるため、日本にっぽんがわ作業さぎょういん船体せんたい一部いちぶ必要ひつよう切開せっかいをしてしまう混乱こんらんもあった[12]日本にっぽん船大工ふなだいく役人やくにんたちの知識欲ちしきよく旺盛おうせいで、作業さぎょうよう定規じょうぎ個人こじんごとに製作せいさくしたり、艤装ぎそう仕方しかたこまかく記録きろくしていた。西洋せいようしき進水しんすい作業さぎょう一瞬いっしゅんわったことは、日本人にっぽんじんたちをおどろかせた[5]。なお、ロシアがわは、日本にっぽん大工だいく道具どうぐのうちぼくつぼ便利べんりさを称賛しょうさんしている[13]

運用うんよう

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プチャーチンら48にんせた「ヘダ」は、1855ねん5がつ2にち(ユリウスれき4がつ20日はつか安政あんせい2ねん3がつ16にち)に戸田とだ出港しゅっこう不具合ふぐあい個所かしょ手直てなおしをおこなうと5がつ8にち(ユリウスれき4がつ26にち安政あんせい2ねん3がつ22にち)にひそかに日本にっぽんはなれた[5]。5月21にち(ユリウスれき5がつ9にち)にロシアりょうカムチャッカ半島はんとうペトロパブロフスクへと寄港きこう、さらに航海こうかいつづけ6がつ20日はつか(ユリウスれき6がつ8にち)にニコラエフスク到着とうちゃくした。そこでプチャーチンらは下船げせんし、無事ぶじ本国ほんごく帰還きかんたしている。なお、小型こがたの「ヘダ」だけでは「ディアナ」のぜん乗員じょういん収容しゅうようできず、乗員じょういん外国がいこく商船しょうせんやとって帰国きこくいている。

「ヘダ」は、1856ねん11月(安政あんせい3ねん10がつ11にち)、もと「ディアナ」みのコンスタンチン・ポシエト(ポシエート、ポシェット、ポシェト)英語えいごばん大佐たいさ(「ディアナ」乗艦じょうかん少佐しょうさでプチャーチンの参謀さんぼう)が条約じょうやく批准ひじゅんしょ交換こうかんのためコルベットオリヴツァロシアばん」で来日らいにちしたさい随伴ずいはんし、約束やくそくどお幕府ばくふわたされた。このとき「ヘダ」にはロシアがわにより建造けんぞうよりも上等じょうとう改装かいそうほどこされていた。ただし、ちゅうにちアメリカ公使こうしタウンゼント・ハリス手記しゅきによれば、わたされたのはニコラエフスクで建造けんぞうしただいふねだったという[14]

日本にっぽんでは君沢きみざわがたかくふねは、おも幕府ばくふ海軍かいぐん航海こうかい練習れんしゅうせんおよ運送うんそうせんとして使用しようされた。1ばんせんからじゅんに「君沢きみざわがたいちばん」「君沢きみざわがたばん」という番号ばんごうしきふねめいあたえられた。このうちの「君沢きみざわがたいちばん」が、返還へんかんされた「ヘダ」(またはそのだいふね)である。戸田とだせいの6せきは、1856ねん1がつごろ安政あんせい2ねん12がつ)に品川しながわ回航かいこうされた。1856ねん8がつごろ安政あんせい3ねん7がつ)には、長州ちょうしゅうはん会津あいづはんに2せきずつ譲渡じょうとするよう指示しじされている[14]東京とうきょうわん防備ぼうび品川しながわ台場だいば付属ふぞく砲艦ほうかんとしても、縮小しゅくしょうがたにら山形やまがたわせて12せき一時期いちじき配備はいびされたようである[15]。8ばん長崎ながさき蒸気じょうき機関きかん搭載とうさいされて「先登せんとうまる」になった可能かのうせいたか[16]、という。

君沢きみざわがたは、ジョン万次郎じょんまんじろう提案ていあんにより捕鯨ほげいせんとして使つかうことも計画けいかくされた。万次郎まんじろう指揮しきする「君沢きみざわがたいちばん」は1859ねん4がつ安政あんせい6ねん3がつ)に品川しながわ出港しゅっこうして小笠原諸島おがさわらしょとうへとかったが、暴風雨ぼうふううにより損傷そんしょうし、航海こうかい中止ちゅうしとなった。

君沢きみざわがたいちばん」は、そのはこかん戦争せんそう使用しようされたとするせつもある[14]

1872ねん明治めいじ5ねん)にアレクセイ・アレクサンドロヴィチ英語えいごばん大公たいこうアレクサンドル2せい)が来日らいにちしたさい今度こんど随行ずいこういんとしてやってきたもと「ディアナ」みのコンスタンチン・ポシエト中将ちゅうじょうは、函館はこだてこうはいせんとなっているかつての「ヘダ」をかけこれをなつかしみ、日本にっぽんがわたいして保存ほぞん措置そちるよう要望ようぼうしている。しかし、同船どうせん保存ほぞんされることは[14]、その消息しょうそく不明ふめい

影響えいきょう

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にち戦争せんそうなかにロシア装甲そうこう巡洋艦じゅんようかんロシア」に停船ていせんさせられた日本にっぽんのトップスル・スクーナーAiya Maru (1905ねん4がつ26にち

君沢きみざわがた建造けんぞうは、日本にっぽんへの洋式ようしきせん建造けんぞう技術ぎじゅつ導入どうにゅうかんし、非常ひじょうおおきな役割やくわりたしたとかつ海舟かいしゅう栗本くりもと鋤雲じょううんらによって評価ひょうかされてきた。かちらによると、君沢きみざわがた以前いぜんの「鳳凰ほうおうまる」などの洋式ようしきせん国産こくさんこころみは外見がいけんだけのもので、「ヘダごう」と君沢きみざわがたこそがしん最初さいしょ国産こくさん洋式ようしきせんであるという。竜骨りゅうこつからの手順てじゅんや、まつからのタール抽出ちゅうしゅつほう船底ふなそこ銅板どうばんさいにタールをもちいる技法ぎほうなどが実地じっちまなられた成果せいかとしてげられる[17]

もっとも、のち発見はっけんされた「鳳凰ほうおうまる」の造船ぞうせん史料しりょうなどを研究けんきゅうした石井いしい謙治けんじ安達あだち裕之ひろゆきは、君沢きみざわがた成果せいか過大かだい評価ひょうかされてきたと主張しゅちょうしている。石井いしいらによると、「鳳凰ほうおうまる」などは外見がいけんだけのふねではないにもかかわらず、勝海かつみふねらはことさらに軽視けいししているという[18]竜骨りゅうこつ船底ふなそこ銅板どうばんも「鳳凰ほうおうまる」などで実用じつようみであり、君沢きみざわがたにおいてしん技術ぎじゅつえるてんすくない。君沢きみざわがた建造けんぞう意義いぎは、現場げんば作業さぎょう技術ぎじゅつ習得しゅうとくと、うちこうてきしたスクーナー導入どうにゅう契機けいき後述こうじゅつ)にかぎられるという[1]。そして、君沢きみざわがたでは造船ぞうせん理論りろん習得しゅうとくけており、理論りろんめんまえた長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうのほうが重要じゅうよう役割やくわりたしたとひょうしている[19]

いずれにしても、君沢きみざわがた建造けんぞうたずさわった船大工ふなだいくたちは、習得しゅうとくした技術ぎじゅつかして日本にっぽん各地かくちでの洋式ようしきせん建造けんぞう活躍かつやくした。その一人ひとり上田うえだ寅吉とらきちは、長崎ながさき海軍かいぐん伝習でんしゅうしょ入学にゅうがくし、1862ねんには榎本えのもと武揚ぶようらとオランダ留学りゅうがく帰国きこく榎本えのもとともはこかん戦争せんそう参加さんかしたが、明治維新めいじいしんこう横須賀造船所よこすかぞうせんじょ初代しょだいこうちょうとして維新いしんはつ国産こくさん軍艦ぐんかん清輝きよてる」の建造けんぞう指揮しきしている[20]。また、高崎たかさき伝蔵でんぞう長州ちょうしゅうはん招聘しょうへいされ、戸田とだむらなどでまなんだ長州ちょうしゅう船大工ふなだいく尾崎おざき小右衛門こうえもんとともに、君沢きみざわがたどう規模きぼのスクーナーしき軍艦ぐんかんへい辰丸たつまる」をはぎ建造けんぞうした[21]幕府ばくふ韮山にらやま代官だいかん江川えがわ英敏ひでとし江川えがわ太郎左衛門たろうざえもん)にめいじて、君沢きみざわがた小型こがたしたスクーナー6せき建造けんぞうさせ、にら山形やまがた命名めいめいしている[22]。1866ねん幕府ばくふ竣工しゅんこうさせた国産こくさんはつ汽走軍艦ぐんかんである「千代田ちよだがた」もそう形式けいしき君沢きみざわがた同様どうようのスクーナーであり、建造けんぞう現場げんばにも君沢きみざわがた関係かんけいしゃおお参加さんかしている[23]

また、君沢きみざわがたは、日本にっぽんうち航海こうかいうんへのスクーナー導入どうにゅう契機けいきとなった。逆風ぎゃくふう帆走はんそう性能せいのうすぐれ、しょう人数にんずうでも運航うんこう可能かのう小型こがたせんてきしたスクーナーは、明治めいじから大正たいしょうにかけて日本にっぽんうち航海こうかいうん洋式ようしきせんおおくをめた。さらに、和船わせん船体せんたいにスクーナーそうれた和洋折衷わようせっちゅうごういのせんは、洋式ようしきせんされていた検査けんさ回避かいひできる制度せいどじょう利点りてんもあって真正しんせいのスクーナー以上いじょう普及ふきゅうし、機帆船きはんせん登場とうじょうまえうち航海こうかいうん主力しゅりょくになうことになった[24]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 石井いしい.安達あだち(2002), p. 107, 安達あだち裕之ひろゆき執筆しっぴつ
  2. ^ 君沢きみざわがた」『大辞林だいじりんだいはん三省堂さんせいどう、1995ねん
  3. ^ a b c 奈木(2005), p. 366
  4. ^ 奈木(2005), p. 372.
  5. ^ a b c 富士ふじ市立しりつ博物館はくぶつかん, だいよんしょう ヘダごう建造けんぞう 3-4
  6. ^ ふね科学かがくかん(2003ねん)、「ヘダごう君沢きみざわがたスクーナー
  7. ^ a b 浅川あさがわ道夫みちお 2009, p. 174.
  8. ^ 石井いしい謙治けんじ 1984.
  9. ^ 奈木(2005), p. 333.
  10. ^ 奈木(2005), p. 350.
  11. ^ 奈木(2005), p. 344.
  12. ^ 奈木(2005), p. 348.
  13. ^ 富士ふじ市立しりつ博物館はくぶつかん, だいろくしょう ひろがるにち友好ゆうこう.
  14. ^ a b c d 奈木(2005), p. 420-422
  15. ^ 浅川あさがわ道夫みちお 2009, p. 176.
  16. ^ 杉山すぎやま謙二郎けんじろう 2002, p. 6.
  17. ^ 奈木(2005), p. 380.
  18. ^ 杉山すぎやま謙二郎けんじろう 1995, p. 95.
  19. ^ 杉山すぎやま謙二郎けんじろう 1995, p. 98.
  20. ^ 奈木(2005), p. 377-378.
  21. ^ 九州きゅうしゅう山口やまぐち近代きんだい産業さんぎょう遺産いさんぐん / 恵美えみはな造船ぞうせんしょあと(2010ねん8がつ14にち閲覧えつらん
  22. ^ 奈木(2005), p. 550-55.
  23. ^ ふね科学かがくかん(2003ねん)、「わがくに造船ぞうせん技術ぎじゅつ成果せいか千代田ちよだがた
  24. ^ 石井いしい.安達あだち(2002), p. 112-115, 安達あだち裕之ひろゆき執筆しっぴつ.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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