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中澤佑 - Wikipedia

中澤なかざわ たすく(なかざわ たすく、1894ねん明治めいじ27ねん6月28にち - 1977ねん昭和しょうわ52ねん12月22にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海兵かいへい43うみだい26最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん中将ちゅうじょう戦時せんじちゅう特攻とっこう作戦さくせん承認しょうにんつよ推進すいしんした責任せきにんしゃでもある。終戦しゅうせんには部下ぶかに「おれかかりじゃないから」と発言はつげんしたことでられる。 [1]

中澤なかざわ たすく
だい艦隊かんたい参謀さんぼうちょう時代じだい
生誕せいたん 1894ねん6月28にち
日本の旗 日本にっぽん 長野ながのけん諏訪すわ
死没しぼつ (1977-12-22) 1977ねん12月22にち(83さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1916ねん - 1946ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん中将ちゅうじょう
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

1894ねん明治めいじ27ねん)6がつ28にち長野ながのけん諏訪すわぐん豊田とよだむらげん諏訪すわ)で農業のうぎょう染色せんしょくいとなちち忠助ちゅうすけのもとにまれる。中澤なかざわ宗家そうけ代々だいだい諏訪すわはん右筆ゆうひつだったが、明治維新めいじいしんにより帰農きのうした。ちち忠助ちゅうすけ豊田とよだむら村長そんちょうつとめた。旧制きゅうせい長野ながのけん諏訪すわ中学校ちゅうがっこう1912ねん大正たいしょう元年がんねん)9がつ9にち海軍兵学校かいぐんへいがっこうだい43に100めいちゅう71ばん席次せきじ入校にゅうこう1915ねん大正たいしょう4ねん)12月16にち、96めいちゅう19ばん席次せきじ卒業そつぎょう海軍かいぐん少尉しょうい候補こうほせい装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん吾妻あづま乗組のりくみ練習れんしゅう艦隊かんたい近海きんかい航海こうかい出発しゅっぱつ[ちゅう 1] し、1916ねん大正たいしょう5ねん)4がつ3にち帰着きちゃく。4がつ20日はつか練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい出発しゅっぱつ[ちゅう 2] し、8がつ22にち帰着きちゃく。8月25にち2とう巡洋艦じゅんようかん筑摩ちくま初代しょだい)」乗組のりくみ

同年どうねん12がつ1にち海軍かいぐん少尉しょうい任官にんかん1918ねん大正たいしょう7ねん)4がつ6にち戦艦せんかん伊勢いせ乗組のりくみ。12月1にち中尉ちゅうい進級しんきゅうし、海軍かいぐん水雷すいらい学校がっこう普通ふつう科学かがくせい1919ねん大正たいしょう8ねん)5がつ23にちより海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう普通ふつう科学かがくせい。12月1にち海軍かいぐん砲術ほうじゅつ学校がっこう普通ふつう卒業そつぎょうし、装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん常磐ときわ乗組のりくみ少尉しょうい候補こうほせい指導しどうかん)。12月3にち練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい[ちゅう 3]参加さんかし、1920ねん大正たいしょう9ねん)5がつ20日はつか帰着きちゃく。6月2にち2とう駆逐くちくかんかし乗組のりくみ。12月9にち、2とう駆逐くちくかんすぎ乗組のりくみ

1921ねん大正たいしょう10ねん)12月1にち大尉たいい進級しんきゅうし、海軍かいぐん水雷すいらい学校がっこう高等こうとうだい21学生がくせい土方ひじかたひさ陸軍りくぐん大佐たいさ長女ちょうじょ英子えいこ結婚けっこん1922ねん大正たいしょう11ねん)11月30にち海軍かいぐん水雷すいらい学校がっこう高等こうとう優等ゆうとう修了しゅうりょう恩賜おんしひん拝受はいじゅ。12月1にち、2とう駆逐くちくかんひし乗組のりくみ1923ねん大正たいしょう12ねん)5がつ1にち1とう海防かいぼうかん浅間あさま分隊ぶんたいちょう少尉しょうい候補こうほせい指導しどうかん)。11月7にち練習れんしゅう艦隊かんたい遠洋えんよう航海こうかい[ちゅう 4]参加さんかし、1924ねん大正たいしょう13ねん)4がつ5にち帰着きちゃく。4がつ10日とおか、「だいじゅうごう駆逐くちくかん艤装ぎそういん。12月1にちだいいち潜水せんすい戦隊せんたい参謀さんぼう

 
1943ねん昭和しょうわ18ねん)4がつ戦艦せんかん武蔵むさし」にて。さい前列ぜんれつみぎから1にん中沢なかざわたすく少将しょうしょう

1926ねん大正たいしょう15ねん)12月1にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅだい26学生がくせい1927ねん昭和しょうわ2ねん)12月1にち少佐しょうさ進級しんきゅう1928ねん昭和しょうわ3ねん)11月26にち海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ成績せいせき順位じゅんい22めいちゅうだい8卒業そつぎょう。12月10にち、2とう駆逐くちくかん朝顔あさがお艦長かんちょう1929ねん昭和しょうわ4ねん)11月30にちだい艦隊かんたい司令しれい参謀さんぼう1930ねん昭和しょうわ5ねん)11月15にち連合れんごう艦隊かんたいけんだい1艦隊かんたい参謀さんぼう1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月1にち海軍かいぐんしょう軍令ぐんれい出仕しゅっし1932ねん昭和しょうわ7ねん)1がつ11にちざいアメリカ日本にっぽん大使館たいしかん海軍かいぐん駐在ちゅうざい武官ぶかん補佐ほさかん。10月17にちスタンフォード大学だいがく入学にゅうがく。12月1にち中佐ちゅうさ進級しんきゅう1934ねん昭和しょうわ9ねん)1がつ20日はつか帰朝きちょう。3月10にち軍令ぐんれいだい一部いちぶだいいち首席しゅせき課員かいんたいべいせん作戦さくせん班長はんちょう)。大和やまとがた戦艦せんかん速力そくりょくにつき35ノットを主張しゅちょうしたが、27ノットに決定けっていしたさいしょくそうとした。

1936ねん昭和しょうわ11ねん)11月2にち連合れんごう艦隊かんたい司令しれい。12月1にち大佐たいさ進級しんきゅうし、連合れんごう艦隊かんたいけんだいいち艦隊かんたい先任せんにん参謀さんぼう

1937ねん昭和しょうわ12ねん)12月1にち軍令ぐんれいだい一部いちぶだいいち課長かちょう人員じんいん不足ふそくうったえ、士官しかん増員ぞういんへい学校がっこう採用さいようすう増加ぞうかたしたが、中澤なかざわとなえる必要ひつようすうからは不足ふそくしていた。また石油せきゆ備蓄びちく増加ぞうか必要ひつようであるとして、従来じゅうらいの300まんトンから倍増ばいぞうさせた。にちどくさんこく軍事ぐんじ同盟どうめい反対はんたいしたが同盟どうめい成立せいりつしてしょくそうとした。1939ねん昭和しょうわ14ねん)11月15にち陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶいん兼任けんにん1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつの「世界せかい情勢じょうせい推移すいいともなえ時局じきょく処理しょり要綱ようこう」を作成さくせいした1人ひとりであったが、これが南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうゆるしたとして、責任せきにん痛感つうかんしたという。10月15にちじゅう巡洋艦じゅんようかん足柄あしがら艦長かんちょう

1941ねん昭和しょうわ16ねん)7がつ5にち軍令ぐんれい出仕しゅっし。7月25にちだい艦隊かんたい参謀さんぼうちょう。12月8にち太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつ1942ねん昭和しょうわ17ねん)11月1にち少将しょうしょう進級しんきゅう。11月6にち軍令ぐんれい出仕しゅっし。11月10にち海軍かいぐんしょう出仕しゅっしねる。12月10にち海軍かいぐんしょう人事じんじ局長きょくちょう

軍令ぐんれいだいいち部長ぶちょう

編集へんしゅう

1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつ15にち軍令ぐんれいだいいち部長ぶちょう

1943ねん11月から12がつにかけておこなわれたブーゲンビルとうおき航空こうくうせんギルバート諸島しょとうおき航空こうくうせん現地げんちからだい戦果せんか報告ほうこくされたのにたいし、軍令ぐんれい戦果せんかはほぼいと判断はんだんした。中沢なかざわはこの経験けいけんから作戦さくせん現地げんち戦果せんかさんぶんいちかんがえるようにと指導しどうしている[2]

航空こうくう本部ほんぶ教育きょういく部長ぶちょう有馬ありま正文まさふみ黒木くろき剛一ごういち必死ひっし戦法せんぽう反対はんたい意見いけんべたさいに、中澤なかざわは「必死ひっし本人ほんにん崇高すうこう自由じゆう意志いしによるべきで、決死けっし限度げんど確信かくしんした」という[3]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつ海軍かいぐん大臣だいじん嶋田しまだ繁太郎しげたろう大将たいしょう軍令ぐんれい総長そうちょう就任しゅうにんする。中澤なかざわ手記しゅきには嶋田しまだ言動げんどうへの不満ふまんられるが、「格別かくべつのご指導しどう恩顧おんこけた」として、嶋田しまだかんする資料しりょう記録きろく収集しゅうしゅうし、嶋田しまだ伝記でんき一部いちぶ執筆しっぴつしている[4]

1944ねん昭和しょうわ19ねん)4がつ4にち軍令ぐんれいだい部長ぶちょう黒島くろしまひさしじんが「作戦さくせんじょう急速きゅうそく実現じつげん要望ようぼうする兵力へいりょく」として中澤なかざわたいして「ふるえよう」「回天かいてん」といった特攻とっこう兵器へいきふく提案ていあんをする。軍令ぐんれい検討けんとうのち海軍かいぐんしょう各種かくしゅ緊急きんきゅう実験じっけん要望ようぼうされ、かんせい本部ほんぶ水中すいちゅう特攻とっこう兵器へいき特殊とくしゅ緊急きんきゅう実験じっけん開始かいしした[5]戦後せんご中澤なかざわ特攻とっこう兵器へいきかんして「特殊とくしゅ奇襲きしゅう兵器へいき使用しようかんしては19ねん3がつごろから思想しそうはあった。マリアナ失陥しっかんしん情勢じょうせい対処たいしょするにはたたかえじょう在来ざいらい兵器へいきでは尋常じんじょう勝負しょうぶができないので特殊とくしゅ兵器へいき採用さいようとなった。しん兵器へいき軍令ぐんれい部長ぶちょうのイニシアティブで採用さいようとなったもので、作戦さくせん作戦さくせんじょうから要求ようきゅうしたものではなかった。だい部長ぶちょう戦備せんび見地けんちから特殊とくしゅ兵器へいき研究けんきゅうしていたが、どう兵器へいき整備せいびには熱心ねっしん専門せんもんてき研究けんきゅうしていたように記憶きおくする。これにはんだいいち部長ぶちょう特殊とくしゅ兵器へいき採用さいようには熱心ねっしんではなかった。理由りゆう特殊とくしゅ兵器へいきではたいした戦果せんか戦果せんかがらぬとかんがえたからであった。しかし、尋常じんじょう手段しゅだんではがなく、かつ資材しざい不足ふそく状況じょうきょう大量たいりょう生産せいさんができ、しかも戦果せんか期待きたいできるものということで戦備せんび見地けんちから賛成さんせいしたが、これでたたかえぜい挽回ばんかいできるなどというだいそれたかんがえにもとづくものではなかった。『のこされた唯一ゆいいつ手段しゅだんはあれ以外いがいにないではないか。そんな凄惨せいさんたたかいをおこなまえせんをやめねばならぬ』というのが当時とうじ伊藤いとう軍令ぐんれい次長じちょうだいいち部長ぶちょう共通きょうつうしたかんがかたであった。そんなわけで作戦さくせん部長ぶちょう以下いか一般いっぱん特殊とくしゅ兵器へいき採用さいようには冷淡れいたんであったが、だい部長ぶちょう特攻とっこう部長ぶちょう連絡れんらくして推進すいしんしていた」とかたってている[6]。しかし、戦史せんし叢書そうしょには、のちの1944ねん10がつ27にちおこなわれた「しょう懇談こんだん」の内容ないよう中澤なかざわ自身じしんのノートを参考さんこう記述きじゅつされていて[7]、そこで中澤なかざわは「特攻とっこう兵器へいき(による)必死ひっし必殺ひっさつ戦法せんぽう」を主用しゅようすることを強調きょうちょうし、海軍かいぐんしょうがわ体当たいあたり予定よてい生産せいさん確保かくほつとめられたいとべていることが記載きさいされている[8]

1944ねん6がつ25にち元帥げんすい会議かいぎにおいてサイパン断念だんねん上奏じょうそうされた。中澤なかざわ伊藤いとう整一せいいち中将ちゅうじょうたいし、必勝ひっしょうしうる信念しんねんうしなったので部長ぶちょう辞表じひょう提出ていしゅつし、一線いっせん最後さいご奉公ほうこうがしたいとべたが、伊藤いとうから自分じぶんどう意見いけんだがいのちがあるまでたのむとわれ、部長ぶちょうしょくとどまった[9]

1944ねん10がつ20日はつかだいいち航空こうくう艦隊かんたい長官ちょうかん大西おおにしたき治郎じろう中将ちゅうじょう神風かみかぜ特攻隊とっこうたい開始かいしする。中澤なかざわによれば、軍令ぐんれい総長そうちょう及川おいかわ古志こしろう次長じちょう伊藤いとう整一せいいちともに、だいいち航空こうくう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん内定ないていした大西おおにしたき治郎じろうから任地にんち特攻とっこう採用さいようする決意けついかされ、及川おいかわが「けっして命令めいれいはしないように。戦死せんししゃ処遇しょぐうかんしては考慮こうりょします」とこたえたという[10]戦後せんご作家さっか保坂ほさかただしやすし晩年ばんねん中澤なかざわたいする取材しゅざいで、その当時とうじはフィリピンに出張しゅっちょうちゅうでそのせき中澤なかざわはいなかったのではないかと質問しつもんしたときいのせいかもしれないが中澤なかざわ絶句ぜっくしてこたえられなかったといている[11]中沢なかざわ比島ひじま台湾たいわん南西諸島なんせいしょとう方面ほうめんへの出張しゅっちょうは10月2にち出発しゅっぱつし、9にち帰還きかんしており[12]大西おおにし東京とうきょう出発しゅっぱつしたのは9にちのことであり、鹿屋かのやについたのは10日とおかのことである[13]。また、妹尾せのおつくるふとしおとこ海兵かいへい74)によれば、中澤なかざわが1977ねん7がつ11にちみず交会の講演こうえんで、「航空機こうくうき体当たいあたりは大西おおにし中将ちゅうじょう比島ひしま採用さいようしたのが最初さいしょで、それまで中央ちゅうおうでそうしたうごきは一切いっさいなかった」と発言はつげんしたけんについて、後日ごじつ妹尾せのおが10月1にち編成へんせいされた桜花おうか部隊ぶたいだいなないち海軍かいぐん航空こうくうたい)にかんして質問しつもんし、中澤なかざわが「わたしらない。編成へんせい土肥どい一夫かずお中佐ちゅうさ担当たんとうしていた」とうと、土肥どいは「中澤なかざわ部長ぶちょう上申じょうしん決裁けっさいした」とこたえ、妹尾せのおが「すでに公式こうしき航空こうくう体当たいあたり戦術せんじゅつまっていたのではないか」と質問しつもんしたが、中澤なかざわ沈黙ちんもくしたままだったという[14]桜花おうか部隊ぶたい編成へんせい時点じてんでは特攻とっこうまっておらず、普通ふつう航空こうくうたいおな編成へんせいおこなわれ[15]軍令ぐんれいから特攻とっこう編成へんせいなどが発令はつれいされるのも中澤なかざわ転出てんしゅつの1945ねん2がつ10日とおかだい航空こうくう艦隊かんたい編制へんせいからであるが[16]神風かみかぜ特攻隊とっこうたい開始かいしされるまえから航空こうくう特攻とっこうかんして中央ちゅうおう研究けんきゅうはじまっており、桜花おうか部隊ぶたい特攻とっこう戦力せんりょく目指めざして準備じゅんびすすめられていた[17]

中澤なかざわ後任こうにんとして軍令ぐんれいだいいち部長ぶちょう就任しゅうにんした富岡とみおかじょうしゅん少将しょうしょうは、中澤なかざわを「日本にっぽん海軍かいぐん提督ていとくでもっとも有能ゆうのうかつ潔癖けっぺき人物じんぶつ」とひょうしている[18]

12月5にちだい航空こうくう艦隊かんたい司令しれい[19]。12月20にちだいじゅういち航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ5にち台湾たいわん海軍かいぐん航空こうくうたい司令しれいかん中澤なかざわ大切たいせつにしていたアルバムに、台湾たいわん航空こうくうたい司令しれいかんとして特攻とっこう指揮しきにあたっていたときのものがあり、特攻隊とっこうたいいんたちの写真しゃしんよこみずかいた説明せつめいは「わらわんとして死地しちかわんとする特攻隊とっこうたい勇士ゆうし」である。

5がつ10日とおか高雄たかお警備けいび参謀さんぼうちょう けん だいいち航空こうくう艦隊かんたい参謀さんぼうちょう。6月15にちだいいち航空こうくう艦隊かんたい参謀さんぼうちょうめんじられる。

停戦ていせんの1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月1にち定期ていき人事じんじ木村きむら昌福まさとみ矢野やのこころざしさん三戸さんのへ寿ひさしとも中将ちゅうじょう進級しんきゅう停戦ていせんであったためポツダム中将ちゅうじょうばれた(「ポツダム進級しんきゅう項目こうもく参照さんしょう)。11月15にちしたがえよんじょされる。1946ねん昭和しょうわ21ねん)4がつ30にち予備よびやく編入へんにゅう

1948ねん昭和しょうわ23ねん)12がつ10日とおか横浜よこはま軍事ぐんじ裁判所さいばんしょにてBきゅう戦犯せんぱんとして有罪ゆうざい判決はんけつけ、重労働じゅうろうどう10ねんけい宣告せんこくされる。巣鴨すがも刑務所けいむしょ収監しゅうかん1952ねん昭和しょうわ27ねん)4がつ11にち身柄みがら仮釈放かりしゃくほう。10月1にちアメリカ海軍かいぐん横須賀よこすか基地きち勤務きんむ1962ねん昭和しょうわ37ねん)12月31にち退職たいしょく。1963ねんより明石あかし製作所せいさくしょ顧問こもんつとめる。1977ねん昭和しょうわ52ねん)12月21にち急性きゅうせい心不全しんふぜんにて死去しきょ享年きょうねん83。

中澤なかざわたすく関係かんけい文書ぶんしょ」として、軍令ぐんれいだい1部長ぶちょう作戦さくせん部長ぶちょう時代じだい日誌にっしなどが国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん保存ほぞん公開こうかいされている。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 佐世保させぼ~仁川にがわ~旅順りょじゅん~大連たいれん~鎮海~舞鶴まいづる~鳥羽とば方面ほうめん巡航じゅんこう
  2. ^ a b 香港ほんこん~シンガポール~フリーマントル~メルボルン~シドニー~ウェリントン~オークランド~ヤルート~ポナペ~トラック~父島ちちじま方面ほうめん巡航じゅんこう
  3. ^ a b もとたかし~うまこう~香港ほんこん~シンガポール~コロンボ~アデン~ポートサイド~ナポリ~マルセイユ~トゥーロン~ヴィゼルダ~マルタ~ポートサイド~コロンボ~バタヴィア~マニラ~志布志しぶし方面ほうめん巡航じゅんこう
  4. ^ a b 上海しゃんはい~マニラ~シンガポール~バタヴィア~フリーマントル~メルボルン~ホバート~シドニー~ウェリントン~オークランド~ヌーメリア~ラバウル~トラック~パラオ~サイパン方面ほうめん巡航じゅんこう

出典しゅってん

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  1. ^ 神立かんだつ尚紀なおき 「あまりに人道的じんどうてき兵器へいき人間にんげんばくだん」を発案はつあんしたおとこは、名前なまえ戸籍こせきうしな戦後せんごきていた」現代げんだいビジネス、2023ねん11月24にちhttps://gendai.media/articles/-/119465?page=6 魚拓ぎょたくhttps://megalodon.jp/2023-1125-1735-55/https://gendai.media:443/articles/-/119465?page=6
  2. ^ 戦史せんし叢書そうしょ12マリアナおき海戦かいせん17ぺーじ
  3. ^ 海軍かいぐん中将ちゅうじょう中澤なかざわたすくはら書房しょぼう157ぺーじ
  4. ^ 海軍かいぐん中将ちゅうじょう 中澤なかざわたすく』p.184
  5. ^ 戦史せんし叢書そうしょ45大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(6)だいさんだん作戦さくせん後期こうき p326-327
  6. ^ 戦史せんし叢書そうしょ37 海軍かいぐんとしごう作戦さくせん(1)台湾たいわんおき航空こうくうせんまで 75ぺーじ
  7. ^ 戦争せんそうつみばち芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、2015ねん8がつ10日とおか、172ぺーじ 
  8. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい093かん 大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい<7>戦争せんそう最終さいしゅう”. 防衛ぼうえいしょう. pp. 20-22. 2023ねん7がつ29にち閲覧えつらん
  9. ^ 海軍かいぐん中将ちゅうじょう中澤なかざわたすくはら書房しょぼう147ぺーじ
  10. ^ まる編集へんしゅう特攻とっこう記録きろく光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ13–16ぺーじ
  11. ^ 昭和しょうわ戦争せんそう』p.125
  12. ^ 戦史せんし叢書そうしょ45大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(6)だいさんだん作戦さくせん後期こうき 429-430ぺーじ
  13. ^ 戦史せんし叢書そうしょ56かん 海軍かいぐんとしごう作戦さくせん(2)フィリピンおき海戦かいせん 109ぺーじ
  14. ^ デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー、翻訳ほんやく妹尾せのおさくふとしおとこ『ドキュメント神風かみかぜ  特攻とっこう作戦さくせん全貌ぜんぼう時事通信社じじつうしんしゃ378-379ぺーじ
  15. ^ 戦史せんし叢書そうしょ17沖縄おきなわ方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん704ぺーじ
  16. ^ 戦史せんし叢書そうしょ17かん沖縄おきなわ方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん 708-709ぺーじ加藤かとうひろしかみかみなり部隊ぶたい始末しまつ学習がくしゅう研究けんきゅうしゃ174-175ぺーじ
  17. ^ 戦史せんし叢書そうしょ45大本営だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい(6)だいさんだん作戦さくせん後期こうき 333ぺーじ
  18. ^ 参謀さんぼう (うえ)』p.47
  19. ^ a b 昭和しょうわ19ねん12月8にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう かぶと だい1663ごう
  20. ^ 昭和しょうわ17ねん12月11にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1009ごう
  21. ^ 昭和しょうわ18ねん6がつ15にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1415ごう

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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