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全日空機雫石衝突事故 - Wikipedia

全日空ぜんにっくう雫石しずくいし衝突しょうとつ事故じこ

1971ねん7がつ30にち岩手いわてけん発生はっせいした空中くうちゅう衝突しょうとつ事故じこ

全日空ぜんにっくう雫石しずくいし衝突しょうとつ事故じこ(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、1971ねん昭和しょうわ46ねん7がつ30にち金曜日きんようび)に日本にっぽん発生はっせいした航空こうくう事故じこである。

全日空ぜんにっくう雫石しずくいし衝突しょうとつ事故じこ
全日空ぜんにっくう 58便びん航空こうくう自衛隊じえいたい 訓練くんれん
事故じこ概要がいよう
日付ひづけ 1971ねん7がつ30にち (1971-07-30)金曜日きんようび
概要がいよう 自衛隊じえいたいのジェットルートへの侵入しんにゅうおよ自衛隊じえいたい接触せっしょく回避かいひおくれに起因きいんする空中くうちゅう衝突しょうとつ
現場げんば 日本の旗 日本にっぽん岩手いわてけん岩手いわてぐん雫石しずくいしまち
北緯ほくい3939ふん26びょう 東経とうけい14100ふん07びょう / 北緯ほくい39.657111 東経とうけい141.001917 / 39.657111; 141.001917
負傷ふしょうしゃ総数そうすう 1(地元じもと住民じゅうみん
死者ししゃ総数そうすう 162 (58便びん搭乗とうじょうしゃ全員ぜんいん)
生存せいぞんしゃ総数そうすう 1(自衛隊じえいたい乗員じょういん
だい1機体きたい

同型どうけいのボーイング727
機種きしゅ ボーイング727-281[注釈ちゅうしゃく 1]
運用うんようしゃ 日本の旗 全日本空輸ぜんにほんくうゆ
機体きたい記号きごう JA8329
出発しゅっぱつ 日本の旗 千歳空港ちとせくうこう
目的もくてき 日本の旗 羽田空港はねだくうこう
乗客じょうきゃくすう 155
乗員じょういんすう 7
負傷ふしょうしゃすう
死者ししゃのぞく)
0
死者ししゃすう 162(全員ぜんいん
生存せいぞんしゃすう 0
だい2機体きたい

事故じこ同型どうけい航空こうくう自衛隊じえいたいのF-86F
機種きしゅ F-86F
運用うんようしゃ 日本の旗 航空こうくう自衛隊じえいたい
機体きたい記号きごう 92-7932
出発しゅっぱつ 日本の旗 松島まつしま基地きち
乗客じょうきゃくすう 0
乗員じょういんすう 1
負傷ふしょうしゃすう
死者ししゃのぞく)
0
死者ししゃすう 0
生存せいぞんしゃすう 1(全員ぜんいん
地上ちじょうでの死傷ししょうしゃ
地上ちじょうでの負傷ふしょうしゃすう 1
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事故現場の位置
事故現場の位置
事故じこ現場げんば
事故じこ現場げんば位置いち

岩手いわてけん岩手いわてぐん雫石しずくいしまち上空じょうくう飛行ひこうちゅう全日本空輸ぜんにほんくうゆ全日空ぜんにっくう)の旅客機りょかくき航空こうくう自衛隊じえいたい戦闘せんとう空中くうちゅう衝突しょうとつし、双方そうほうとも墜落ついらくした。自衛隊じえいたい乗員じょういん脱出だっしゅつ成功せいこうしたが、機体きたい損傷そんしょうけた旅客機りょかくき空中くうちゅう分解ぶんかいし、乗客じょうきゃく155めい乗員じょういん7めいけい162めい全員ぜんいん死亡しぼうした。当時とうじ日本にっぽん国内こくない航空こうくう事故じことしては最大さいだい犠牲ぎせいしゃすうした事故じこであり、ANAのさんだい事故じこかぞえられる。

事故じこかんする情報じょうほう

編集へんしゅう

58便びん使用しようされたボーイング727-281がた機体きたい記号きごう:JA8329、製造せいぞう番号ばんごう:20436)は1971ねん昭和しょうわ46ねん3月2にち製造せいぞうされた。そう飛行ひこう時間じかんは865あいだ56ふんであった[1]

運航うんこう乗務じょうむいん

編集へんしゅう

機長きちょうは41さい男性だんせいで、陸上りくじょう自衛隊じえいたい1961ねん昭和しょうわ36ねん9月16にち全日空ぜんにっくう入社にゅうしゃした。そう飛行ひこう時間じかんは8,033あいだ44ふんで、そのうち242あいだ5ふんがB727がた飛行ひこうである。ダグラスDC-3、コンベアCV-440、フォッカーF-27、ボーイング727の運行うんこう資格しかく保有ほゆうしていた[2]

ふく操縦そうじゅうは27さい男性だんせいで、1965ねん昭和しょうわ40ねん)10がつ11にち全日空ぜんにっくう入社にゅうしゃした。そう飛行ひこう時間じかんは2,237あいだ55ふんで、そのうち624あいだ50ふんがB727がた飛行ひこうである。YS-11およびボーイング727の運行うんこう資格しかく保有ほゆうしていた[2]

航空こうくう機関きかんは30さいアメリカじん男性だんせいで、1970ねん昭和しょうわ45ねん)2がつ19にち全日空ぜんにっくう入社にゅうしゃした。そう飛行ひこう時間じかんは2,489あいだ30ふんであった[2]

3にんのコックピットクルーは、50便びん、57便びんつづ当日とうじつ3かいのフライトだった。

客室きゃくしつ乗務じょうむいん

編集へんしゅう

4めい女性じょせい客室きゃくしつ乗務じょうむいん乗務じょうむしていた[2]

事故じこ経過けいか

編集へんしゅう

衝突しょうとつまでの状況じょうきょう

編集へんしゅう

1971ねん昭和しょうわ46ねん7がつ30にち千歳空港ちとせくうこう午後ごご045ふんはつ羽田はたくだり全日空ぜんにっくう58便びん[3]は、かえとう便びんとなる全日空ぜんにっくう57便びん到着とうちゃくすでに45ふんおくれていたため午後ごご125ふん定時ていじより45ふんおくれて地上ちじょう滑走かっそう開始かいしし、午後ごご133ふん離陸りりくした[4]

乗客じょうきゃくのうち122めい団体だんたい旅行りょこうきゃく静岡しずおかけん富士ふじ吉原よしはら遺族いぞくかい北海道ほっかいどう旅行りょこうだんいちぎょうであった。また3にん旅行りょこう会社かいしゃ添乗てんじょういんであった[3]。 58便びん函館はこだてNDBにジェットルートJ10Lでかい、午後ごご146ふん通過つうかした。このとき飛行ひこう高度こうどは22,000フィート (6,700 m)であった。ここで高度こうど上昇じょうしょうしながら松島まつしまNDBにけて変針へんしんし、札幌さっぽろ航空こうくう交通こうつう管制かんせい管制かんせいしょに「松島まつしまNDB通過つうか午後ごご211ぶん予定よてい」と通報つうほうした。ここから巡航じゅんこう高度こうどを28,000フィート (8,500 m)に上昇じょうしょう自動じどう操縦そうじゅう飛行ひこうしていた[4]

一方いっぽう航空こうくう自衛隊じえいたいだい1航空こうくうだん松島まつしま派遣はけんたい所属しょぞくF-86F戦闘せんとう2訓練くんれん機体きたい登録とうろく番号ばんごう92-7932、教官きょうかんどう02-7983)は、編隊へんたい飛行ひこう訓練くんれんのためゆう視界しかい飛行ひこう方式ほうしきによる飛行ひこう計画けいかく航空こうくう自衛隊じえいたい松島まつしま基地きち松島まつしま飛行場ひこうじょう)を午後ごご128ふんごろ離陸りりくした。教官きょうかん1とうそらじょう当時とうじ31さい)は訓練くんれんせい2とうそら当時とうじ22さい)にたいし、離陸りりくまえに、訓練くんれん空域くういき盛岡もりおかであること、基本きほん隊形たいけい(ノーマル・フォーメーション)、疎開そかい隊形たいけい(スプレッド・フォーメーション)、機動きどう隊形たいけい(フルイド・フォア・フォーメーション)およびたん縦陣じゅうじん隊形たいけい(トレール・フォーメーション)の訓練くんれんおこなったのち松島まつしま飛行場ひこうじょう帰投きとうし、自動じどう方向ほうこう探知たんち(ADF)による進入しんにゅう訓練くんれんおこな予定よていであること、編隊へんたい無線むせん電話でんわ符号ふごうはライラック・チャーリーであること、および訓練くんれん時間じかんは1あいだ10ふんであることなどを指示しじしたが、経路けいろ高度こうどについては説明せつめいをしなかった[5]

訓練くんれん空域くういきは、横手よこて訓練くんれん空域くういき北部ほくぶをその一部いちぶふく臨時りんじ空域くういき秋田あきたけん横手よこて付近ふきん)であり、松島まつしま派遣はけんたいは、ジェット・ルートJ11Lの中心ちゅうしんせん両側りょうがわ9km、25,000フィート (7,600 m)から31,000フィート (9,400 m)のあいだ飛行ひこう制限せいげん空域くういきとし、やむをない場合ばあいのぞ訓練くんれん飛行ひこう禁止きんししていた[6]

衝突しょうとつ

編集へんしゅう
 
事故じこまでの全日空ぜんにっくう自衛隊じえいたい飛行ひこう経路けいろ

岩手いわてけん岩手いわてぐん雫石しずくいしまち付近ふきん上空じょうくう午後ごご22ふん39びょうごろ東京とうきょう方向ほうこうへ190磁針じしんって飛行ひこうしていた全日空ぜんにっくう58便びんと、岩手山いわてさん付近ふきん上空じょうくう編隊へんたい飛行ひこう訓練くんれんしていた2自衛隊じえいたいのうち1が、高度こうどやく28,000フィート (8,500 m)で空中くうちゅう衝突しょうとつした。教官きょうかんおよび訓練くんれんせいやく30ふん現場げんば通過つうかした航空機こうくうき操縦そうじゅう報告ほうこくによれば、事故じこ当時とうじ雫石しずくいしまち上空じょうくう視界しかい良好りょうこう下層かそうくもすこしある程度ていどであった[1]事故じこ撮影さつえいした写真しゃしんからもそれは確認かくにんできる。

衝突しょうとつの3ふんまえ全日空ぜんにっくう高度こうど28,000フィート (8,500 m)、たい速度そくど(TAS)487ノット (902 km/h)、機首きしゅ方位ほうい189から190接触せっしょくまで水平すいへい定常ていじょう飛行ひこうおこなっていた[7]

おなごろ教官きょうかん高度こうどやく25,500フィート (7,800 m)たい速度そくどやく445ノット (824 km/h)でみぎ旋回せんかいやく180おこなったのちやく15びょう直進ちょくしんしてひだり旋回せんかいうつった。ひだり旋回せんかいちゅううしがわ時計とけいで6時半じはんから7方向ほうこうに、訓練くんれんとそのすぐ下方かほう接近せっきんしている全日空ぜんにっくうみとめ、ただちに訓練くんれんせいたい接触せっしょく回避かいひするよう指示しじし、みずからは訓練くんれん誘導ゆうどうする意図いとみぎ旋回せんかいし、つづいてひだり反転はんてんし、墜落ついらくしていく全日空ぜんにっくうしたをくぐりけた[8]

またおなごろ訓練くんれん教官きょうかん右側みぎがわ後方こうほうやく25線上せんじょうやく5,500フィート (1,700 m)の距離きょり地点ちてん上側うわがわやく3,000フィート (910 m)を飛行ひこうし、教官きょうかんみぎ旋回せんかい同時どうじ飛行ひこう要領ようりょうもとづいて高度こうどげして教官きょうかんのちった。いで教官きょうかんひだり旋回せんかいすると、訓練くんれん追従ついしょうしようと旋回せんかいちゅうに、教官きょうかんからの異常いじょう事態じたい通信つうしんはいり、その直後ちょくご右側みぎがわ時計とけいの4から5(120-150)の方向ほうこう至近しきん距離きょりおおきな物体ぶったいみとめ、ただちに回避かいひ操作そうさおこなったが追突ついとつされた[6]

訓練くんれんひだり60バンク機動きどうによる回避かいひ実施じっししたが、衝突しょうとつやく2びょうまえ距離きょりやく500m)からではすで手遅ておくれであった。そのうえ訓練くんれん全日空ぜんにっくう進行しんこう方向ほうこう旋回せんかいするかたちとなってしまったため、結果けっかとして全日空ぜんにっくういつかれることとなった。りょう機体きたい破損はそんじょうきょうから、全日空ぜんにっくう機体きたいもっとうえ部分ぶぶんにあるT尾翼びよく水平すいへい尾翼びよく安定あんていばんひだり先端せんたん付近ふきんぜんえん訓練くんれんみぎ主翼しゅよく付近ふきんっかけるようなかたち追突ついとつした。

全日空ぜんにっくうにはコックピット・ボイス・レコーダー装備そうびされていなかったが[9]同機どうき千歳ちとせ飛行場ひこうじょう管制かんせいしょ千歳ちとせターミナル管制かんせいしょおよび札幌さっぽろ管制かんせい管制かんせいしょとの交信こうしん通常つうじょうどおりにおこなわれていた。全日空ぜんにっくう事故じこ当時とうじに135.9MHz発信はっしんした音声おんせい付近ふきん飛行ひこうちゅう航空機こうくうきによっても傍受ぼうじゅされており[10]、これらの音声おんせい分析ぶんせきにより、コックピットない状況じょうきょう分析ぶんせきされた[11]。これによれば、操縦そうじゅうそなわっている全日空ぜんにっくう機長きちょうのブームマイクの送信そうしんボタンが、衝突しょうとつ7びょうまえから0.3秒間びょうかん衝突しょうとつ2.5びょうまえからやく8秒間びょうかんにわたり空押からおし(キーイング)されていることがかった。送信そうしんボタンを空押からおしすると送信そうしんされる搬送波はんそうは交信こうしん妨害ぼうがいするため、操縦そうじゅう意識いしきてき空押からおしをすることは通常つうじょうはない。これら送信そうしんボタンの空押からおしを操縦そうじゅうにぎなおとらえると機長きちょう動作どうさつぎのように想定そうていされる[11]

  • 衝突しょうとつ7びょうまえ(14:02:32.1 - 14:02:32.4):間近まぢか訓練くんれん視認しにん、あるいはそれ以前いぜんより視認しにんしていた訓練くんれんが、予期よきはんきゅう接近せっきんしてきたため、操縦そうじゅうつよにぎ[11]
  • 衝突しょうとつ2.5びょうまえ(14:02:36.5 - 14:02:44.8):訓練くんれんなな前方ぜんぽう接近せっきんしてきたため緊張きんちょう状態じょうたいとなり、再度さいど操縦そうじゅうつよにぎる。衝突しょうとつ機体きたいなおしをおこな[11]
  • 衝突しょうとつ9びょう(14:02:47.8 - 14:02:53.6):機長きちょう操縦そうじゅう不可能ふかのうとなったこと把握はあくし、緊急きんきゅう通信つうしんはっする[11]。「エマージェンシー、エマージェンシー」という音声おんせい記録きろくされているが、後半こうはん絶叫ぜっきょうれる解読かいどく不能ふのう音声おんせいわる。ほぼ同時どうじ教官きょうかんからも243.0MHzで「エマージェンシー、エマージェンシー、エマージェンシー」という緊急きんきゅう通信つうしん発信はっしんされた[11]

墜落ついらく

編集へんしゅう

衝突しょうとつ双方そうほう機体きたいはともに操縦そうじゅう不能ふのうになった。全日空ぜんにっくう58便びんはしばらく降下こうかしながら飛行ひこうしていたが、水平すいへい安定あんていばん昇降しょうこうかじ機能きのう喪失そうしつしていたため、降下こうか姿勢しせいから回復かいふくできずにぞうはやし、やがて音速おんそくやく15,000フィート (4,600 m)付近ふきん空中くうちゅう分解ぶんかいして墜落ついらく搭乗とうじょうしていた乗員じょういん乗客じょうきゃく162めい全員ぜんいん死亡しぼうした。全日空ぜんにっくう音速おんそくえたさいのものとおもわれるソニックブームによる「ドーン」と衝撃しょうげきおん閃光せんこうやく15kmはなれた盛岡もりおか市内しないなど、墜落ついらくからはなれた場所ばしょでも確認かくにんされている。

衝突しょうとつ直後ちょくごにはおおきなしろくもじょうもの発生はっせいしたのをおおくのもの目撃もくげきしており、金曜日きんようび晴天せいてん白昼はくちゅうこった事故じこであったが、全日空ぜんにっくう墜落ついらくして姿すがた写真しゃしん撮影さつえいしたもの複数ふくすういた。事故じこ発生はっせい写真しゃしんかんしては、毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ発行はっこうの『サンデさんで毎日まいにち』1971ねん8がつ15にち発行はっこう緊急きんきゅう特別とくべつごう表紙ひょうしに「全日空ぜんにっくう る」との見出みだしとともに、自衛隊じえいたい全日空ぜんにっくう接触せっしょくして空中くうちゅう分解ぶんかいしたのち全日空ぜんにっくうが、しろジェット燃料ねんりょうしろけむりきながら墜落ついらくしていく様子ようすとらえた写真しゃしん掲載けいさいされている。

偶然ぐうぜんちかくの青森あおもりけん上空じょうくう飛行ひこうしていた東亜とうあ国内こくない航空こうくう114便びんパイロットや、花巻はなまき上空じょうくう飛行ひこうしていた全日空ぜんにっくう61便びんのパイロットが、状況じょうきょう把握はあくできず混乱こんらんおちいった58便びんからの通信つうしん傍受ぼうじゅしていたが、それもすぐに途絶とだえてしまった[3]操縦そうじゅうらは地面じめん激突げきとつして大破たいはした機首きしゅなか発見はっけんされた。

また機体きたい空中くうちゅう分解ぶんかいしたため、事件じけん現場げんば近傍きんぼうはたらいていたり通行つうこうしていたりした目撃もくげきしゃは「くろまめのようなものがちてきた」と証言しょうげんしている[12]乗員じょういん乗客じょうきゃくたちやすにわ小学校しょうがっこうのある西安庭にしあにわ地区ちく中心ちゅうしんとした雫石しずくいし町内ちょうない各地かくち全日空ぜんにっくう残骸ざんがいとともに落下らっかし、きわめて凄惨せいさん状況じょうきょう発見はっけんされた。また、全日空ぜんにっくう車輪しゃりん残骸ざんがい民家みんか屋根やね落下らっか貫通かんつうし、81さい住民じゅうみん女性じょせい負傷ふしょうした[3]

墜落ついらく衝撃しょうげきによる火災かさいはなかったため、比較的ひかくてきはや犠牲ぎせいしゃ身元みもと判明はんめいしたが、遺体いたい高速こうそく地上ちじょうたたけられたため、きわめて凄惨せいさん状況じょうきょうていしていた[3]。また遺体いたい検死けんししていた岩手いわてけん警察けいさつが、犠牲ぎせいしゃのうち1めいちがえるミスをしたため、身元みもと確認かくにん精度せいどについて疑問ぎもんたれることとなった。

一方いっぽう訓練くんれんは、接触せっしょくのち錐揉きりも状態じょうたいおちいった。訓練くんれんせい射出しゃしゅつ座席ざせき装置そうちのレバーをこうとしたが、機体きたい回転かいてんによる遠心えんしんりょくのためをレバーへうごかすことができず、射出しゃしゅつできなかった。しかし、キャノピー(風防ふうぼう離脱りだつしていることにづいたため、安全あんぜんベルトをはずして機体きたいから自力じりき脱出だっしゅつパラシュート雫石しずくいしえき東南とうなんやく300mの水田すいでん降下こうかして生還せいかんした[13]無人むじんとなった訓練くんれん空中くうちゅう分解ぶんかいし、んぼに墜落ついらくした[3]

また教官きょうかんは、松島まつしま飛行場ひこうじょう管制かんせいしょ訓練くんれん旅客機りょかくき接触せっしょくしたことを通報つうほうし、その現場げんば上空じょうくう旋回せんかいして救援きゅうえん管制かんせいしょ位置いち状況じょうきょうなどを通報つうほうつづけていたが、帰投きとう命令めいれいけて午後ごご259ふん松島まつしま飛行場ひこうじょう着陸ちゃくりくした[13]

全日空ぜんにっくう自衛隊じえいたい残骸ざんがいのほとんどは、東西とうざいやく6km、南北なんぼくやく6kmの範囲はんい落下らっかしていた。全日空ぜんにっくう残骸ざんがいは、ひだり水平すいへい尾翼びよく垂直すいちょく尾翼びよく一部いちぶのぞいて、雫石しずくいしえきひがし2kmから3.5km、みなみ3.5kmから5kmの範囲はんい落下らっかした。訓練くんれん残骸ざんがいは、みぎ主翼しゅよく以外いがい雫石しずくいしえき西にしやく1kmの地点ちてんに、つばさ付根つけねからさきみぎ主翼しゅよく雫石しずくいしえきひがし1.3kmの地点ちてん落下らっかした[14]

事故じこ調査ちょうさ

編集へんしゅう

当時とうじはまだ常設じょうせつ航空こうくう事故じこ調査ちょうさ委員いいんかい設置せっちされておらず、事故じこ調査ちょうさのため「全日空ぜんにっくう接触せっしょく事故じこ調査ちょうさ委員いいんかい」が総理府そうりふ設置せっちされた。この全日空ぜんにっくう接触せっしょく事故じこ調査ちょうさ委員いいんかい1972ねん昭和しょうわ47ねん)7がつ27にち運輸うんゆ大臣だいじん提出ていしゅつした事故じこ報告ほうこくしょでは、事故じこ原因げんいんつぎのように発表はっぴょうされた[15]

  • だい1の原因げんいんは、教官きょうかん訓練くんれん空域くういき逸脱いつだつしてジェットルートJ11Lのなかはいったことにづかず訓練くんれん飛行ひこう続行ぞっこうしたこと。
  • だい2の原因げんいんは、
    • 全日空ぜんにっくう操縦そうじゅうしゃにあっては、訓練くんれんすくなくとも接触せっしょくやく7びょうまえから視認しにんしていたと推定すいていされるが、接触せっしょく直前ちょくぜんまで回避かいひ操作そうさおこなわれなかったこと。これは、全日空ぜんにっくう操縦そうじゅうしゃ接触せっしょく予測よそくしていなかったためとかんがえられる。
    • 教官きょうかんにあっては、訓練くんれんせい全日空ぜんにっくう視認しにんする直前ちょくぜん訓練くんれんせいたいった接触せっしょく回避かいひ指示しじおそく、訓練くんれんせい回避かいひわなかったこと。これは、教官きょうかん全日空ぜんにっくう視認しにんすることがおくれたためとかんがえられる。
    • 訓練くんれんせいにあっては、接触せっしょくやく2びょうまえに、事故じこ右側みぎがわやや下方かほう全日空ぜんにっくう視認しにんし、ただちに回避かいひ操作そうさおこなったが接触せっしょく回避かいひわなかったこと。これは、訓練くんれんせい機動きどう隊形たいけい訓練くんれん経験けいけんあさく、しゅとして教官きょうかんとの関係かんけい位置いち維持いじすることに専念せんねんしていて、全日空ぜんにっくう視認しにんするのがおくれたためとかんがえられる。

また、事故じこ報告ほうこくしょは、事故じこ背景はいけいとして、航空こうくう交通こうつう急速きゅうそく発展はってんともな種々しゅじゅ問題もんだい発生はっせいしていると指摘してきした。早急そうきゅうほう制度せいど整備せいび完全かんぜん実施じっしおこなうべしとしたのはつぎの5てんである[16]

  • 航空機こうくうき姿勢しせい頻繁ひんぱん変更へんこうする特殊とくしゅ飛行ひこうは、原則げんそくとして航空こうくう交通こうつう管制かんせいまたは航空こうくう交通こうつう管制かんせいけんではおこなえないよう法的ほうてき明確めいかくすること。また、飛行ひこう訓練くんれんおこなさい訓練くんれん空域くういきからの逸脱いつだつふせぐため、訓練くんれん性質せいしつ訓練くんれん形態けいたいおよび規模きぼとうおう必要ひつよう方策ほうさくこうじられるよう措置そちすること。
  • 航空機こうくうき操縦そうじゅうしゃは、航空こうくう交通こうつう管制かんせいしたがっていてもいなくても、飛行ひこうちゅう航空機こうくうき衝突しょうとつしないように見張みはりをしなければならないよう法的ほうてき明確めいかくすること。
  • 航空こうくう、ジェット・ルートにたいするポジティブ・コントロールの徹底てっていはかるとともに、事故じこ防止ぼうしする装置そうち開発かいはつ装備そうびすること。
  • 航空こうくう保安ほあん業務ぎょうむかんして、運輸うんゆ防衛ぼうえいりょう省庁しょうちょうはなおいっそうの協調きょうちょうはかること。
  • さらに、独立どくりつした事故じこ調査ちょうさ委員いいんかい常設じょうせつすべきこと。

当時とうじくにによる航空こうくう管制かんせいレシプロエンジン飛行ひこうしていた時代じだい基本きほんてきわっておらず、東北とうほく地方ちほうくつがえいきする航空こうくう監視かんしレーダー設置せっちされておらず、航空こうくう管制かんせい操縦そうじゅうからの位置いち通報つうほうもと地図ちず盤上ばんじょう識別しきべつして指示しじおよ許可きょかあたえるというノンレーダー管制かんせい主流しゅりゅうであった。そのうえジェットルートも1950年代ねんだいジェット機じぇっときくら運航うんこう速度そくどひくいレシプロ旅客機りょかくき運航うんこうする前提ぜんてい制定せいていされてから変更へんこうされておらず、ジェット、プロペラが混在こんざい大変たいへん危険きけん状態じょうたいであり、また訓練くんれん空域くういき横断おうだんする航空こうくう設定せっていされていた。

まただい世界せかい大戦たいせんのちになって旅客機りょかくき戦闘せんとう空中くうちゅう衝突しょうとつする事故じこアメリカでは1950年代ねんだいから1960年代ねんだいにかけて続発ぞくはつしていたが、日本にっぽんにおいても1965ねんごろからニアミス続発ぞくはつしていた。

いずれにせよ、事故じこ調査ちょうさ報告ほうこくしょ勧告かんこくのとおり航空こうくう行政ぎょうせいおくれが事故じこ発端ほったんであり、現在げんざいよう自衛隊じえいたいレーダーサイトによる訓練くんれん支援しえん航空こうくう監視かんしレーダーによる航空こうくう管制かんせい訓練くんれん空域くういき航空こうくうとう明確めいかく分離ぶんり航空局こうくうきょく航空こうくう自衛隊じえいたいあいだ演習えんしゅう訓練くんれん空域くういき使用しようかんする連絡れんらく調整ちょうせいシステムが確立かくりつされていればこりなかった事故じこであった。この事故じこ以降いこう同種どうしゅ事故じこ現在げんざいまで発生はっせいしていない。

事故じこ

編集へんしゅう

航空こうくう訓練くんれんいき完全かんぜん分離ぶんり

編集へんしゅう

事故じこ直後ちょくごの1971ねん昭和しょうわ46ねん)8がつ7にち政府せいふ中央ちゅうおう交通こうつう安全あんぜん対策たいさく会議かいぎは、(1)自衛隊じえいたい訓練くんれん空域くういき航空こうくう完全かんぜん分離ぶんりすること、(2)訓練くんれん空域くういき防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん運輸うんゆ大臣だいじん協議きょうぎして公示こうじすること、(3)その域内いきない飛行ひこうするすべての航空機こうくうき管制かんせいけることを義務付ぎむづける特別とくべつ管制かんせい空域くういき拡充かくじゅうすること、などをさだめる「航空こうくう安全あんぜん緊急きんきゅう対策たいさく要綱ようこう」を発表はっぴょうした[17]

航空こうくうほう改正かいせい

編集へんしゅう

1975ねん昭和しょうわ50ねん)6がつ24にちには改正かいせい航空こうくうほう参議院さんぎいん可決かけつ成立せいりつし、同年どうねん10がつから施行しこうされた[17]。この改正かいせい航空こうくうほうには、(1)航空こうくう管制かんせい空域くういきにおける曲技きょくぎ飛行ひこう訓練くんれん飛行ひこう原則げんそく禁止きんし空港くうこう周辺しゅうへん空域くういきにおける通過つうか飛行ひこう禁止きんし速度そくど制限せいげん特定とくてい空域くういき高度こうど変更へんこう禁止きんし速度そくど制限せいげん、などの運航うんこうルールの厳格げんかく、(2)ニアミス防止ぼうしのために見張みはりなど安全あんぜん義務ぎむとニアミス発生はっせい報告ほうこく義務ぎむ、(3)トランスポンダフライトレコーダーひとし安全あんぜん運航うんこう必要ひつよう装置そうち装着そうちゃく義務ぎむ明記めいきされた。そして、(4)これらの規制きせいはそれまで適用てきようされていなかった自衛隊じえいたいにも適用てきようするものとした[18]

レーダー設備せつび拡充かくじゅう空中くうちゅう衝突しょうとつ防止ぼうし装置そうち設置せっち義務ぎむ

編集へんしゅう

アメリカで1956ねん発生はっせいしたグランドキャニオン空中くうちゅう衝突しょうとつ事故じこのち全国ぜんこく航空こうくうもうをカバーするためにレーダー施設しせつ建設けんせつ整備せいび本格ほんかくしたのと同様どうよう日本にっぽんでは1971ねん発生はっせいしたほん事故じこ教訓きょうくんとして、全国ぜんこくでレーダーもう空港くうこう拡充かくじゅう本格ほんかくした。

くに航空こうくう監視かんしレーダー(ARSR)の導入どうにゅう推進すいしん1991ねん平成へいせい3ねん)6がつ日本にっぽん国内こくないのほぼ全域ぜんいきを17のレーダーでカバーし、1故障こしょうしてものレーダーでバックアップが可能かのうなレーダー管制かんせいシステムが完成かんせいした。

また、空中くうちゅう衝突しょうとつ防止ぼうし装置そうち(TCAS)が開発かいはつされ、日本にっぽん国内こくない飛行ひこうする最大さいだい離陸りりく重量じゅうりょう5,700kgまたは旅客りょかく定員ていいん19めいえるタービンへの装着そうちゃく航空こうくうほう義務ぎむづけられた。

防衛庁ぼうえいちょう自衛隊じえいたい自衛じえいかん対応たいおう

編集へんしゅう

この事故じこ責任せきにんかたちで、当時とうじ増原ますはらめぐみきち防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん上田うえだ泰弘やすひろ航空こうくう幕僚ばくりょうちょう辞任じにんした。

刑事けいじ裁判さいばんにおける裁判さいばん費用ひようくにではなく被告人ひこくにん個人こじん負担ふたんした。個人こじんまかなえるがくではなく、航空こうくう自衛隊じえいたいOB組織そしき「つばさかい」などからのカンパをけた。有罪ゆうざい判決はんけつをいいわたされたもと教官きょうかんは、自衛隊じえいたいほう規定きていにより失職しっしょくした。もと教官きょうかん再審さいしん請求せいきゅう辞退じたい[19]、パイロットしょく復帰ふっきすることもないまま2005ねん8がつ死去しきょした。また、訓練くんれんせい最高裁さいこうさい判決はんけつ戦闘せんとうから救難きゅうなんパイロットにてんじ、2003ねん平成へいせい15ねん)10がつ定年ていねん退職たいしょくするまで人命じんめい救助きゅうじょ任務にんむたった[20]

1986ねん10がつ執行しっこう猶予ゆうよ期間きかん満了まんりょうしたもと教官きょうかんたいする「激励げきれいかい」が、自衛隊じえいたいパイロットの親睦しんぼく団体だんたい主催しゅさいにより福岡ふくおか県内けんないひらかれた。しかし、このかい出席しゅっせきするため複数ふくすう自衛じえいかんが、おのおの所属しょぞくする基地きちから春日しゅんじつ基地きち福岡空港ふくおかくうこう)までの移動いどうに、訓練くんれん飛行ひこうなどの名目めいもく自衛隊じえいたい使用しようしていたことが発覚はっかく私的してき行事ぎょうじのために防衛ぼうえい装備そうびうごかしたのはいちじるしい公私こうし混同こんどうにあたると問題もんだいになり、当時とうじ矢崎やさき新二しんじ防衛ぼうえい事務次官じむじかん大村おおむらたいら航空こうくう幕僚ばくりょうちょう以下いかけい40にん処分しょぶんける事態じたいとなった。防衛庁ぼうえいちょう調査ちょうさによれば、このとき私用しようされたのはT-33など13で、基地きち司令しれいきゅう高官こうかんふくむ23にん搭乗とうじょうした(うちパイロット5にんは、参加さんか本人ほんにん意思いしではなく上官じょうかん命令めいれいだったとして処分しょぶんなしとなった一方いっぽうかい出席しゅっせきしなかったが監督かんとく責任せきにんわれて処分しょぶんけたものもあった)[21]

安全あんぜん教育きょういく

編集へんしゅう

2006ねん8がつ墜落ついらく現場げんばからすうひゃくメートルはなれた急斜面きゅうしゃめんまどわく座席ざせきなど事故じこ部品ぶひん10てんちかくがまっているのが発見はっけんされ、全日空ぜんにっくう社員しゃいんによって回収かいしゅうされた。

全日空ぜんにっくう部品ぶひんは、2007ねん平成へいせい19ねん)1がつ19にちから、同社どうしゃ研修けんしゅう施設しせつない東京とうきょう大田おおた下丸子しもまるこ)に全日空ぜんにっくう松山まつやまおき墜落ついらく事故じこなど人身じんしん死亡しぼう事故じこ残存ざんそんする遺品いひん資料しりょう保存ほぞん展示てんじして社員しゃいん安全あんぜん教育きょういくおこなう「ANAグループ安全あんぜん教育きょういくセンター」で公開こうかいされていたが、どうセンターは2019ねんにパイロットやCA、整備せいび地上ちじょう係員かかりいんとう各種かくしゅトレーニングセンターの集約しゅうやくともな大田おおた羽田旭はねだあさひまち移転いてんし、そちらへ保管ほかんされている[22]後述こうじゅつ)。

ANAグループでは、ほん事故じこ全日空ぜんにっくう61便びんハイジャック事件じけん発生はっせいした7がつを、「航空こうくう安全あんぜん推進すいしん航空こうくう保安ほあん強化きょうか月間げっかん」としてさだめている[23]

この事故じこ以降いこう全日空ぜんにっくう関係かんけいした乗客じょうきゃく死亡しぼう事故じこ発生はっせいしていない。

追悼ついとう施設しせつとう

編集へんしゅう

もりのしずく公園こうえん

編集へんしゅう

全日空ぜんにっくう犠牲ぎせいしゃとむらため雫石しずくいし地内じないに「慰霊いれいもり」として整備せいびされ(座標ざひょう座標ざひょう: 北緯ほくい3939ふん25.6びょう 東経とうけい1410ふん6.9びょう)、さんじゅうさん回忌かいきたる2003ねんまで同所どうしょ毎年まいとし慰霊いれいさい開催かいさいされていた。2003ねん平成へいせい15ねん以降いこう遺族いぞくらによる組織そしき一般いっぱん財団ざいだん法人ほうじん慰霊いれいもり」や地元じもと住民じゅうみん全日空ぜんにっくう社員しゃいんによって大切たいせつ維持いじされている。じゅう回忌かいき翌年よくねんひかえた2019ねんれい元年がんねん)にはだい規模きぼ改修かいしゅうされた。犠牲ぎせいしゃおおくが静岡しずおかけん富士ふじ出身しゅっしんであったことから、あらたに建立こんりゅうされた「航空こうくう安全あんぜん祈念きねんとう」は訪問ほうもんしゃ富士山ふじさん方角ほうがくくように位置いちしている[24]2020ねんれい2ねん5月1にちより「慰霊いれいもり」から「もりのしずく公園こうえん」に名称めいしょう変更へんこうされた[25]

前述ぜんじゅつとおり、全日空ぜんにっくう機体きたい高度こうど4,600 mで空中くうちゅう分解ぶんかいして、残骸ざんがい遺体いたい雫石しずくいしえきひがし2kmから3.5km、みなみ3.5kmから5kmの広範囲こうはんい落下らっかしており、この場所ばしょ直接ちょくせつ墜落ついらくしたわけではない。

ANAグループ安全あんぜん教育きょういくセンター

編集へんしゅう

ANAグループ安全あんぜん教育きょういくセンター(ASEC、東京とうきょう大田おおた羽田旭はねだあさひまち)の2かいにある導入どうにゅう空間くうかんには雫石しずくいし衝突しょうとつ事故じこ事故じこ機体きたい一部いちぶ展示てんじされている[22]。このセンターでは事故じこ現場げんばちかくで回収かいしゅうした部品ぶひんのほか、垂直すいちょく尾翼びよくのエンジンそら気取きどり入口いりくち一部いちぶや、胴体どうたい側面そくめんジュラルミンせいがいいたなどが展示てんじされている[26]

裁判さいばん

編集へんしゅう

ほん事件じけん裁判さいばん争点そうてんとされた、あるいは問題もんだいとなったてんつぎとおりである[27]

  • 問題もんだいろんずる前提ぜんていとしての、
    • 注意ちゅうい義務ぎむ内容ないよう
    • 注意ちゅうい義務ぎむ根拠こんきょ
    • 可能かのうせい程度ていど注意ちゅうい義務ぎむ
    • 注意ちゅういのメカニズム
  • 事実じじつ認定にんていじょう問題もんだいてん
    • 接触せっしょく時刻じこく
    • 接触せっしょく位置いち
    • 相対そうたい飛行ひこう経路けいろ
  • 一定いってい空域くういきへの進入しんにゅう訓練くんれんとう回避かいひ義務ぎむについて
  • 見張みは義務ぎむとその違反いはんについて
    • 航空機こうくうき操縦そうじゅうしゃ見張みは義務ぎむ
    • 見張みはりの必要ひつようせい認識にんしき
    • 見張みはるべき範囲はんい
    • 視認しにん可能かのうとなるときあいだたい
  • そのしょ問題もんだい
    • 事故じこ調査ちょうさ報告ほうこくしょ証拠しょうこ能力のうりょく
    • 民事みんじ判決はんけつにおける「責任せきにん制限せいげん約款やっかん効力こうりょく

ここでは、このうち、事実じじつ認定にんていじょう問題もんだいについてのみおおまかにれるにとどめる。

刑事けいじ裁判さいばん

編集へんしゅう
最高裁判所さいこうさいばんしょ判例はんれい
事件じけんめい 業務ぎょうむじょう過失かしつ致死ちし航空こうくうほう違反いはん
事件じけん番号ばんごう 昭和しょうわ53(あ)1333
1983ねん(昭和しょうわ58)ねん9がつ22にち
判例はんれいしゅう しゅうけい だい233ごう1ぺーじ
裁判さいばん要旨ようし
いわゆる雫石しずくいし全日空ぜんにっくう自衛隊じえいたい衝突しょうとつ事件じけん反対はんたい意見いけんがある)
だいいちしょう法廷ほうてい
裁判さいばんちょう 和田わだ誠一せいいち
陪席ばいせき裁判官さいばんかん だんふじ重光しげみつ 藤崎ふじさき萬里ばんり 中村なかむら治朗じろう 谷口たにぐちただしこう
意見いけん
多数たすう意見いけん だんふじ重光しげみつ 藤崎ふじさき萬里ばんり 谷口たにぐちただしこう
意見いけん なし
反対はんたい意見いけん 和田わだ誠一せいいち 中村なかむら治朗じろう
参照さんしょう法条ほうじょう
刑法けいほう211じょうまえ航空こうくうほうあきら49ほう87による改正かいせいまえ)142じょう2こう
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自衛隊じえいたい教官きょうかん訓練くんれんせいが、事故じこ発生はっせい33あいだ岩手いわて県警けんけい逮捕たいほされ、盛岡もりおか地検ちけん業務ぎょうむじょう過失かしつ致死ちし航空こうくうほう違反いはん容疑ようぎ起訴きそされた。航空こうくうほう違反いはんは「安全あんぜん飛行ひこうおこたった」とする83じょう抵触ていしょくしたとするもので、この条文じょうぶん個人こじん法人ほうじん双方そうほう責任せきにん認定にんていされる可能かのうせいのあるものであった。過去かこ発生はっせいした日本にっぽん航空こうくう事故じこでは、自衛隊じえいたい全日空ぜんにっくう滑走かっそう衝突しょうとつした事故じことして全日空ぜんにっくう小牧おまき空港くうこう衝突しょうとつ事故じこ1960ねん昭和しょうわ35ねん))がある。この事件じけん逮捕たいほ起訴きそされたのは管制かんせいかんのみであり、管制かんせいかん有罪ゆうざい判決はんけつとなっているが双方そうほう操縦そうじゅうしゃ責任せきにんわれていない。一方いっぽう検察けんさつ事故じこ責任せきにんがあると判断はんだんした全日空ぜんにっくう仙台せんだい空港くうこう着陸ちゃくりく失敗しっぱい事故じこ(1963ねん昭和しょうわ38ねん))と日本航空にほんこうくうMD11らん高下こうげ事故じこ(1997ねん平成へいせい9ねん))では、裁判さいばん結果けっか無罪むざい判決はんけつとなっているが、日東にっとう航空こうくうつばめごう墜落ついらく事故じこ(1963ねん昭和しょうわ38ねん))では乗員じょういん有罪ゆうざいとなっている。これらはすべ乗員じょういん生存せいぞんしていた航空こうくう事故じこであるが、乗員じょういん死亡しぼうした鉄道てつどう事故じこ場合ばあい信楽しがらき高原こうげん鐵道てつどう列車れっしゃ衝突しょうとつ事故じこ(1991ねん平成へいせい3ねん))とJR福知山ふくちやません脱線だっせん事故じこ(2005ねん平成へいせい17ねん))がある。りょう事故じこでは死亡しぼうした運転うんてんだけでなく、鉄道てつどう会社かいしゃ運行うんこう管理かんりしゃについても検察庁けんさつちょう書類しょるい送検そうけんされており、いずれの事故じこのち法人ほうじんとしての事故じこ責任せきにん追及ついきゅうされている。

だいいちしん

編集へんしゅう

だいいちしん盛岡もりおか地裁ちさい1975ねん昭和しょうわ50ねん3月11にち)は、教官きょうかん禁錮きんこ4ねん訓練くんれんせい禁錮きんこ2ねん8がつ実刑じっけい判決はんけつをいいわたした[28]盛岡もりおか地裁ちさいは、全日空ぜんにっくう飛行ひこう経路けいろについては「管制かんせいじょう保護ほご空域くういきない西側にしがわ」を飛行ひこうしていたとし、衝突しょうとつ地点ちてんについては「本件ほんけんぜん証拠しょうこによるもこれを確定かくていすることができないし、証拠しょうこ裁判さいばん主義しゅぎ原則げんそくからつよいて推論すいろんすべきでない」とした[29]弁護べんごがわ全日空ぜんにっくう操縦そうじゅうしゃ過失かしつがあったと主張しゅちょうしたが、裁判所さいばんしょは、被告人ひこくにんらに過失かしつがあったことを否定ひていするものではないとし、さらに、信頼しんらい原則げんそくについてもこれをれる余地よちはないとしている[30]

控訴こうそしん

編集へんしゅう

だいしん仙台せんだい高裁こうさい1978ねん昭和しょうわ53ねん)5がつ9にち)は、教官きょうかん控訴こうそ棄却ききゃくしたが、訓練くんれんせいたいしてはいちしん判決はんけつ破棄はき無罪むざいをいいわたした。訓練くんれんせいは、当日とうじつ臨時りんじ訓練くんれん空域くういき位置いち範囲はんいも、ジェットルートJ11Lの経路けいろらなかったため、確認かくにん義務ぎむ存在そんざいみとめられず、さらに、全日空ぜんにっくう接触せっしょくの29びょうまえからは訓練くんれんせい注視ちゅうし野外やがいにあったため、結果けっか予見よけん可能かのうせいがなく、したがって見張みはりの注意ちゅうい義務ぎむ違反いはんみとめられないとされたからである[31]仙台せんだい高裁こうさいは、全日空ぜんにっくう飛行ひこう経路けいろおよび接触せっしょく地点ちてんについては、事故じこ調査ちょうさ報告ほうこくしょ推定すいてい合理ごうりせいがあるとして事故じこ調査ちょうさ報告ほうこくしょのとおりにみとめた[32]

上告じょうこくしん

編集へんしゅう

上告じょうこくしんで、被告人ひこくにん弁護べんごがわうみほう泰治やすじ(2しん検察けんさつがわ鑑定かんていじん)の鑑定かんていしょ根拠こんきょに「全日空ぜんにっくうがジェットルートをおおきくはずれて飛行ひこうしたため、自衛隊じえいたい設定せってい訓練くんれん空域くういきない空中くうちゅう衝突しょうとつした」として、教官きょうかん無実むじつ主張しゅちょうした。最高裁さいこうさい1983ねん9月22にち判決はんけつ[33])は、教官きょうかんに『見張みは義務ぎむ違反いはん』があったことを認定にんていしたが、被告人ひこくにんたいする量刑りょうけい教官きょうかんいちにんにのみ刑事けいじ責任せきにんわせておりひどぎるとして、2しん判決はんけつ破棄はきして禁錮きんこ3ねん執行しっこう猶予ゆうよ3ねん判決はんけつくだした。

最高裁さいこうさい判決はんけつによれば、事故じこ当日とうじつ経緯けいいつぎのようなものであった[34]

  • 松島まつしま派遣はけんたい飛行ひこう訓練くんれん準則じゅんそくは、飛行ひこう空域くういきないに5かしょ訓練くんれん空域くういき設定せっていし、飛行ひこう訓練くんれんごとひとつをてるのを原則げんそくとしていた。
  • 事故じこ当日とうじつあさ予定よていだった訓練くんれん空域くういきだい4航空こうくうだん使用しようされることがわかり、飛行ひこう班長はんちょう補佐ほさのCさんは、飛行ひこう制限せいげん空域くういき考慮こうりょすることなく臨時りんじ訓練くんれん空域くういき設定せっていした。
  • Cさん飛行ひこう班長はんちょうDさんに、ジェットルートの記載きさいのない100まんぶんの1の地図ちずしめして臨時りんじ訓練くんれん空域くういき盛岡もりおか」の設定せってい進言しんげんし、Dさんはそのまま承認しょうにんした。
  • Cさん主任しゅにん教官きょうかんEいちじょうにも同様どうように「盛岡もりおか」の設定せってい伝達でんたつした。
  • Dさん飛行ひこう隊長たいちょうFに「盛岡もりおか」の設定せってい報告ほうこくし、Fもそのまま承認しょうにんあたえた。
  • Eいちじょうは「盛岡もりおか」の正確せいかく位置いち範囲はんいまった確認かくにんすることなく、教官きょうかん訓練くんれんせいたいして訓練くんれん空域くういき指示しじおこなった。そのさい盛岡もりおか」の具体ぐたいてき位置いち範囲はんい指示しじ説明せつめいせず、特段とくだん注意ちゅういあたえることもしなかった。
  • 教官きょうかんは「盛岡もりおか」との名称めいしょうから、臨時りんじ訓練くんれん空域くういき盛岡もりおかあたりをすとかんがえたが、ジェットルートJ11Lは盛岡もりおか市街しがいあたりの上空じょうくうをほぼ南北なんぼくかよっているとのあやまった認識にんしきのもとに、その西側にしがわ訓練くんれんおこなえばよいとかんがえていた。

このような事情じじょうから最高裁さいこうさいは、減刑げんけい理由りゆうとして「航空こうくう隣接りんせつして訓練くんれん空域くういき設定せっていしたうえに、被告人ひこくにんらに特段とくだん説明せつめいもなく」「杜撰ずさん計画けいかくもとづく上官じょうかん命令めいれいによる訓練くんれん」であり「被告人ひこくにんらは訓練くんれん命令めいれい拒否きょひできなかった」として、上司じょうし自衛隊じえいたい基地きち幹部かんぶ怠慢たいまんがあったことを認定にんていした。事故じこ当初とうしょ訓練くんれん命令めいれいした部隊ぶたいちょう捜査そうさされたが、最終さいしゅうてき起訴きそ見送みおくられ、上司じょうし自衛隊じえいたい幹部かんぶだれ起訴きそされなかった。

民事みんじ裁判さいばん

編集へんしゅう

乗客じょうきゃく遺族いぞくによる民事みんじ裁判さいばんくに被告ひこくとしたものがこされた。たとえば、死亡しぼうした大学だいがく助教授じょきょうじゅ妻子さいしたいする東京とうきょう地裁ちさい判決はんけつ1974ねん昭和しょうわ49ねん)3がつ1にちに4,823まんえん支払しはらいをくにめいじ、くにがわ控訴こうそしなかったためそのまま確定かくていした。

全日空ぜんにっくうがわ全日空ぜんにっくうおよ全日空ぜんにっくう機体きたい保険ほけんきん支払しはらった保険ほけん会社かいしゃ10しゃ)が、くにたいして国家こっか賠償ばいしょうほうだい1じょうによる損害そんがい賠償ばいしょうとうもとめる訴訟そしょう提起ていきしたところ、くに全日空ぜんにっくうたい民法みんぽう715じょうもとづく損害そんがい賠償ばいしょうもとめる反訴はんそ提起ていきし、全日空ぜんにっくうがわくにがわ双方そうほうが、たがいに損害そんがい賠償ばいしょう請求せいきゅうしあってあらそうことになった[35]全日空ぜんにっくう事故じこによる営業えいぎょう損失そんしつなど18おくえん保険ほけん会社かいしゃ全日空ぜんにっくう支払しはらった全壊ぜんかいした旅客機りょかくき航空こうくう保険ほけんきん25おくえんくに事故じこ喪失そうしつした戦闘せんとう被害ひがいしゃ遺族いぞくに「えて」支払しはらった賠償金ばいしょうきんなど19おくえんをそれぞれ請求せいきゅうするものであった[36]

だいいちしん

編集へんしゅう

だいいちしん東京とうきょう地裁ちさい1978ねん9がつ20日はつか判決はんけつ)は、教官きょうかん接触せっしょくの44びょうまえから14びょうまえあいだ全日空ぜんにっくう視認しにんし、訓練くんれんせい適切てきせつ回避かいひ操作そうさ指示しじあたえれば、また、訓練くんれんせいどう44びょうまえから30びょうまえあいだ全日空ぜんにっくう視認しにん適切てきせつ回避かいひ操作そうさおこなっていれば、事故じこ発生はっせい十分じゅうぶん回避かいひでき[37]全日空ぜんにっくうどう30びょうまえから10びょうまえあいだ訓練くんれんせい視認しにん適切てきせつ回避かいひ操作そうさをしていれば事故じこ発生はっせい十分じゅうぶん回避かいひできたと認定にんていし、双方そうほう過失かしつ対比たいひすると過失かしつ割合わりあいは6たい4であるとした[38]。そして、この過失かしつ割合わりあいしたがくに全日空ぜんにっくうへ2.7おくえん保険ほけん会社かいしゃに13.2おくえん支払しはらうよう命令めいれいし、全日空ぜんにっくうくにに7.1おくえん支払しはらうよう命令めいれいした[39]

控訴こうそしん

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だいしん審議しんぎ双方そうほう主張しゅちょうするど対立たいりつしたため判決はんけつまで10ねん以上いじょうかかった。東京とうきょう高裁こうさい1989ねん平成へいせい元年がんねん5月9にち判決はんけつ)は、1しんよりも自衛隊じえいたい過失かしつ割合わりあいきびしく認定にんていし、くに2、全日空ぜんにっくう1であるとした。これは「訓練くんれん空域くういき設定せってい自体じたい過失かしつがあり、自衛隊じえいたい航空機こうくうきルートの間近まぢか見張みは義務ぎむおこたった、全日空ぜんにっくう衝突しょうとつ7びょうまえ決断けつだんすれば衝突しょうとつふせげたのに回避かいひ措置そちをとらなかった過失かしつがあるが、ジェットルートの保護ほご空域くういきないであり過失かしつ程度ていどちいさい」と判示はんじ[40]した。そのため、自衛隊じえいたいくに)の過失かしつおもいとされた。また、損害そんがいがく認定にんていたって航空機こうくうきがたとえ新品しんぴん事故じこ就航しゅうこう3かげつであった)であっても、使用しようした年数ねんすうおうじて減価げんか償却しょうきゃくした金額きんがくであるべきとされた。裁判さいばんでは全日空ぜんにっくう機体きたい損害そんがいがくは22おく665まん8,377えんであると認定にんていされたが、すで航空こうくう保険ほけんきんでそれ以上いじょう支払しはらいをけたとして賠償ばいしょう請求せいきゅうけん消滅しょうめつしたとされた。そのうえで、東京とうきょう高裁こうさいくに全日空ぜんにっくうに7.1おくえん保険ほけん会社かいしゃに15.2おくえん全日空ぜんにっくうくにに6.5おくえん支払しはらうように判決はんけつくだし、双方そうほう上告じょうこくしなかったためそのまま確定かくていした。

東京とうきょう高裁こうさいは、全日空ぜんにっくう飛行ひこう経路けいろ事故じこ調査ちょうさ委員いいんかい認定にんていよりもさらに西にしよりとし、空中くうちゅう接触せっしょく地点ちてんについては、こま木野地きのじ矢筈やはず橋西きょうせいつめから北西ほくせいへ1.5kmの雫石しずくいしまち西根にしね八丁はっちょう野地のじ北側きたがわ中心ちゅうしんとする半径はんけい1km以内いないとし、その西にしげんはJ11Lの線上せんじょうから西にしやく6.7kmはなれた地点ちてんでJ11Lの保護ほご空域くういき範囲はんいないであるとした[41]

事故じこ題材だいざいにした作品さくひんなど

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ブラック・ジャックだい6ゆきよるばなし」
手塚てづか治虫おさむさく。『週刊しゅうかん少年しょうねんチャンピオン』1973ねん昭和しょうわ48ねん)12月24ごう発表はっぴょうほん事故じこをモチーフにしている。

類似るいじ事故じこ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 「81」は全日本ぜんにほん空輸くうゆてられたボーイングのカスタマーコード

出典しゅってん

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  31. ^ 判例はんれい時報じほう890ごう 1978, p. 15.
  32. ^ 判例はんれい時報じほう890ごう 1978, pp. 25, 27.
  33. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1983ねん9がつ21にち東京とうきょう夕刊ゆうかん
  34. ^ 最高裁判所さいこうさいばんしょだいいちしょう法廷ほうてい判決はんけつ 1983ねん9がつ22にち昭和しょうわ53(あ)1333、『業務ぎょうむじょう過失かしつ致死ちし航空こうくうほう違反いはん』。
  35. ^ 判例はんれい時報じほう911ごう 1979, p. 14.
  36. ^ 判例はんれい時報じほう911ごう 1979, pp. 20, 21.
  37. ^ 判例はんれい時報じほう911ごう 1979, p. 61.
  38. ^ 判例はんれい時報じほう911ごう 1979, p. 70.
  39. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1978ねん9がつ21にち
  40. ^ 朝日新聞あさひしんぶん』1989ねん5がつ9にち東京とうきょう夕刊ゆうかん
  41. ^ 判例はんれい時報じほう1308ごう 1980, p. 28.

参考さんこう文献ぶんけん

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事故じこ調査ちょうさ報告ほうこくしょ

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書籍しょせき

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  • 柳田やなぎだ邦男くにお航空こうくう事故じこ―その証跡しょうせきかたらせる』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ 390〉、1975ねんISBN 9784121003904 
  • 柳田やなぎだ邦男くにお失速しっそく事故じこ視角しかく文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ〉、1981ねん7がつISBN 9784167240028 
  • デイビット・ゲロー ちょ清水しみずたもつしゅん やく航空こうくう事故じこ人類じんるい航空こうくう事故じこからなにまなんできたか?』イカロス出版いかろすしゅっぱん、1997ねん5がつ1にちISBN 9784871490993 
  • 事件じけん犯罪はんざい研究けんきゅうかい へん明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ平成へいせい 事件じけん犯罪はんざいだい事典じてん東京法経学院出版とうきょうほうけいがくいんしゅっぱん、2002ねん7がつISBN 9784808940034 
  • 航空こうくう管制かんせいじゅうねん編纂へんさん委員いいんかい へん航空こうくう管制かんせいじゅうねん』2003ねん3がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:20438389 
  • 災害さいがい情報じょうほうセンター へん鉄道てつどう航空機こうくうき事故じこちょんふみ―シリーズ災害さいがい事故じこ』 1かんにちがい選書せんしょ〈Fontanaシリーズ災害さいがい事故じこ〉、2007ねん5がつ1にちISBN 9784816920431 
  • 佐藤さとうまもる自衛隊じえいたいの「犯罪はんざい雫石しずくいし事件じけん真相しんそう!』あお林堂はやしどう、2012ねん7がつ18にちISBN 978-4792604516 

裁判さいばん資料しりょう

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  • 雫石しずくいし全日空ぜんにっくう自衛隊じえいたい衝突しょうとつ事件じけんだいいちしん判決はんけつ(盛岡もりおかばん昭和しょうわ50ねん3がつ11にち)」『判例はんれい時報じほうだい773ごう、1975ねん5がつ21にち、21-76ぺーじdoi:10.11501/2794784 
  • 雫石しずくいし全日空ぜんにっくう自衛隊じえいたい衝突しょうとつ事件じけん控訴こうそしん判決はんけつ(仙台せんだいだかばん昭和しょうわ53ねん5がつ9にち)」『判例はんれい時報じほうだい890ごう、1978ねん8がつ11にち、15-51ぺーじdoi:10.11501/2794901 
  • 雫石しずくいし全日空ぜんにっくう自衛隊じえいたい衝突しょうとつ事件じけん民事みんじだいいちしん判決はんけつ(東京とうきょうばん昭和しょうわ53ねん9がつ20日はつか)」『判例はんれい時報じほうだい911ごう、1979ねん2がつ11にち、14-92ぺーじdoi:10.11501/2794922 
  • 雫石しずくいし全日空ぜんにっくう自衛隊じえいたい衝突しょうとつ事件じけん民事みんじ控訴こうそしん判決はんけつ(東京とうきょうだかばん平成へいせい元年がんねん5がつ9にち)」『判例はんれい時報じほうだい1308ごう、1989ねん6がつ21にち、28-108ぺーじdoi:10.11501/2795319 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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墜落ついらく現場げんば

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オンライン資料しりょう

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マスメディア

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