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武家屋敷 - Wikipedia

武家ぶけ屋敷やしき

武家ぶけ所有しょゆうした邸宅ていたく
大名だいみょう屋敷やしきから転送てんそう

武家ぶけ屋敷やしき(ぶけやしき)は、武家ぶけ所有しょゆうした邸宅ていたくである。

洛中らくちゅう洛外らくがい』にえがかれたはな御所ごしょ

大名だいみょう所有しょゆうするものは大名だいみょう屋敷やしきあるいは藩邸はんていばれることもある。現在げんざい下級かきゅう武士ぶしまいであるさむらい屋敷やしき武家ぶけ屋敷やしきぶことがおおくなっている。

ここでは、現代げんだいさむらい屋敷やしき呼称こしょうとしての武家ぶけ屋敷やしきについても記述きじゅつする。

概要がいよう

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江戸えど初期しょき武家ぶけ屋敷やしき数多かずおおえがかれる江戸えど屏風びょうぶ

武家ぶけ屋敷やしき原形げんけい公家くげまい(公家くげ屋敷やしき)である寝殿造しんでんづくりにあるといわれ、武家ぶけ台頭たいとうする鎌倉かまくら時代ときよからはじまったといわれる。武家ぶけづくりともわれ、寝殿造しんでんづくり簡略かんりゃく武家ぶけ生活せいかつ様式ようしきわせ御家人ごけにんつど施設しせつ防衛ぼうえいのための施設しせつつのが特徴とくちょうとなっている。なお、現代げんだいではさむらい屋敷やしき様式ようしき武家ぶけづくりぶこともあるが、本来ほんらい武家ぶけづくりとは言葉ことば意味いみことなっている。

室町むろまち時代ときよになると武家ぶけ屋敷やしき様式ようしき寝殿造しんでんづくりから独立どくりつし、会所かいしょ対面たいめんしょといった建築けんちく象徴しょうちょうされる独自どくじ様式ようしきつようになり、しゅ殿しんがりづくり書院造しょいんづくりへと進化しんかしていった。安土あづち桃山ももやま時代じだいになると書院造しょいんづくり上段じょうだん下段げだん空間くうかん構成こうせい障壁しょうへきはじめとする絢爛けんらん装飾そうしょくそなえ、権力けんりょくしゃ権勢けんせいしめ荘厳しょうごん格式かくしきたかいものとなった。なお、ゆかあいだといった書院造しょいんづくり要素ようそ一部いちぶ江戸えど時代じだいになると武士ぶし上層じょうそう農民のうみんなどの住宅じゅうたくにもれられ、明治めいじ以降いこう民家みんかにも普及ふきゅうするようになった。

明治維新めいじいしんしょ大名だいみょう上屋敷かみやしき江戸えど幕府ばくふからあたえられたもの(拝領はいりょう屋敷やしき)であったため、しん政府せいふにより接収せっしゅうされ、ほとんどが解体かいたいされ政府せいふ施設しせつなどへと姿すがたえた。武家ぶけ個人こじん所有しょゆうであった下屋敷しもやしき本邸ほんていとしてもちいられることもあったが、武家ぶけ公家くげとも華族かぞくへと移行いこうし、また建築けんちく近代きんだいにより武家ぶけ屋敷やしき公家くげ屋敷やしきといった峻別しゅんべつ意味いみさなくなった。こうして武家ぶけ屋敷やしき姿すがたしていくが、わりに武士ぶし屋敷やしきさむらい屋敷やしき)が武家ぶけ屋敷やしきばれるようになり、さむらい屋敷やしきおおのこ地区ちくさむらいまち)も武家ぶけまち武家ぶけ屋敷やしきどおりなどとばれるようになった。

武家ぶけ屋敷やしきにおける御所ごしょとは、武家ぶけでもとくくらいたか武家ぶけかまえた屋敷やしきである。

天皇てんのうなどの邸宅ていたく御所ごしょばれるが、これらの屋敷やしき武家ぶけ屋敷やしきぶことはない。

また、徳川とくがわ将軍家しょうぐんけにおいては江戸城えどじょう二条城にじょうじょうといったしろんだため、通常つうじょう御所ごしょとはばれなかった。

御所ごしょれい

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など

大名だいみょう屋敷やしき

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越前えちぜん福井ふくいはん松平まつだいら忠昌ただまさ上屋敷かみやしき龍ノ口たつのくち屋敷やしき再現さいげん模型もけい
 
きゅういんしゅう池田いけだ屋敷やしき表門おもてもん重要じゅうよう文化財ぶんかざい
 
大名だいみょう屋敷やしきもん
加賀かがはん上屋敷かみやしき御守おまもり殿どのもん
東京大学とうきょうだいがく構内こうない重要じゅうよう文化財ぶんかざい

大名だいみょう屋敷やしき(だいみょうやしき)は、その大名だいみょうつかえる主人しゅじん屋敷やしきしろ付近ふきん内側うちがわかまえた屋敷やしきである。人質ひとじちまわせるための施設しせつ天下てんか普請ふしんのための宿舎しゅくしゃ工事こうじ事務所じむしょ意味いみしていることもあった[1]文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきさい名護屋なごやしろつくられた大名だいみょう陣屋じんやひとしもそれにふくまれる。

大名だいみょう領地りょうちにおいては、大名だいみょう屋敷やしき基本きほんてき屋敷やしきのみで独立どくりつしててられることはなく、城内きうちまれて設置せっちされた。このため、多聞たもん長屋ながやとして、くらとして利用りようするなど、とく周辺しゅうへん施設しせつ防御ぼうぎょ施設しせつ兼用けんようされるれいおおられる。また、屋敷やしき自体じたい防御ぼうぎょ施設しせつねたり籠城ろうじょうそなえた配置はいち構造こうぞうとなっているものもある。城内きうち大名だいみょう屋敷やしきおおむ大名だいみょう居住きょじゅうする「奥向おくむき」とはんない政治せいじてき経済けいざいてき窓口まどぐち現在げんざい庁舎ちょうしゃのような役割やくわりつ「おもてむかい」とにかれるが、ほかにも式典しきてん饗応きょうおう娯楽ごらくなどの多様たよう機能きのうゆうしていた。屋敷やしき呼称こしょう通常つうじょうしろふくめて「居城きょじょう」とばれ、屋敷やしき自体じたいについては設置せっち場所ばしょおうじて本丸ほんまるにあれば「本丸ほんまる御殿ごてん」、さんまるにあれば「さんまる御殿ごてん」などとばれた。また、とく大名だいみょう本邸ほんていであることをしめ場合ばあいは「居屋敷いやしき」や「上屋敷かみやしき」などとばれる。このほか城内きうちはずれや郊外こうがいには下屋敷しもやしき(しもやしき)がもうけられ、休憩きゅうけいしょ隠居いんきょしょ近親きんしん居所きょしょなどにもちいられることがおおかった。

江戸えどにおいては、江戸城えどじょう近辺きんぺん幕府ばくふ土地とちあたえてかまえさせ、またかく大名だいみょう事情じじょうにより大坂おおさか京都きょうとなどにもかまえられた。江戸えど大名だいみょう屋敷やしき江戸えど屋敷やしきばれ、大名だいみょう幕府ばくふへの政治せいじてき経済けいざいてき窓口まどぐち現在げんざい大使館たいしかんのような役割やくわりっていた。

大名だいみょう居住きょじゅうする屋敷やしきは「上屋敷かみやしき(かみやしき)」とばれ、郊外こうがい別邸べっていとして設置せっちされた「下屋敷しもやしき(しもやしき)」と使つかけられた。下屋敷しもやしきにはだい規模きぼ庭園ていえん大名だいみょう庭園ていえん)が造営ぞうえいされたり、おおくのぞうてられることもおお蔵屋敷くらやしきばれた。また、大名だいみょうなかにはこのあいだに「中屋敷なかやしき(なかやしき)」をもうけるものもあった。

なお、初期しょき江戸えど屋敷やしきとく上屋敷かみやしき)は江戸えど屏風びょうぶられるようにもん殿舎でんしゃうるし金箔きんぱくほどこすなど豪華ごうか絢爛けんらんつくりがおおかったが、1635ねん寛永かんえい12ねん)の武家ぶけしょ法度はっとにより華美かび屋敷やしき建設けんせつきんじられ、1657ねんあかりれき3ねん)のあかりれき大火たいかによりそのおおくが焼失しょうしつしてからは質素しっそかまえとなった。

京都きょうと大名だいみょう屋敷やしき京屋きょうやじきばれ、屋敷やしき構成こうせい江戸えど同様どうようであった。大坂おおさか商業しょうぎょう中心ちゅうしんであったためとく蔵屋敷くらやしきおおつくられた。

旗本はたもと屋敷やしき

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旗本はたもと屋敷やしき(はたもとやしき)は旗本はたもと主君しゅくん知行ちぎょういた屋敷やしき意味いみするが、狭義きょうぎでは「江戸えど幕府ばくふつかえる直参じきさん旗本はたもと屋敷やしき」の意味いみである。ぞくに「旗本はたもとはちまん」とわれた江戸えどにはゆえに、おおくの旗本はたもと屋敷やしきならび、はた本屋敷もとやしきがいべる区域くいき形成けいせいされていた。これらは個人こじん所有しょゆうではなくあくまで幕府ばくふ所有しょゆうであり、役職やくしょく知行ちぎょう変更へんこうなどの理由りゆうによって、わり頻繁ひんぱん屋敷やしきえがおこなわれた。

大名だいみょうのうち、3まんせき以下いかしろたない大名だいみょうしろ大名だいみょうあるいは陣屋じんや大名だいみょうばれ、しろわりに陣屋じんやばれる屋敷やしきかまえ「大名だいみょう陣屋じんや」とばれた。

大名だいみょう陣屋じんやほりつなど旗本はたもと陣屋じんやくらだい規模きぼなものもあった。

旗本はたもとがその知行ちぎょういた陣屋じんや旗本はたもと陣屋じんやばれた。

武家ぶけまち

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江戸えど武家ぶけまち幕末ばくまつ愛宕山あたごやまから撮影さつえい

武家ぶけまち江戸えど大坂おおさか京都きょうとなどに武家ぶけ屋敷やしき集中しゅうちゅう形成けいせいされた街並まちなみである。とく江戸えどにはすうおおくの武家ぶけ屋敷やしき設置せっちされ、江戸えど面積めんせきやく50パーセントが武家ぶけ屋敷やしきめられていた。明治めいじ以降いこう武家ぶけ屋敷やしきとも武家ぶけまち消滅しょうめつしたが、現代げんだいではさむらいまち武家ぶけまちぶことがおおくなっている。

さむらい屋敷やしき

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さむらい屋敷やしき概要がいよう

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さむらい屋敷やしき(さむらいやしき)は、武家ぶけぞくさない中級ちゅうきゅう下級かきゅう武士ぶしまう邸宅ていたくのことである。現代げんだいでは本来ほんらい武家ぶけ屋敷やしきほとん消滅しょうめつしていることもあり、むしろさむらい屋敷やしきほう武家ぶけ屋敷やしきばれることがおおくなっている。ここでは現代げんだいにおける武家ぶけ屋敷やしきとしてさむらい屋敷やしきあつかうが歴史れきしてきには武家ぶけ屋敷やしきさむらい屋敷やしきことなるものであったことに注意ちゅうい必要ひつようである。

さむらい屋敷やしきおも城下じょうか陣屋じんや周囲しゅういなど主君しゅくん居所きょしょ周囲しゅうい形成けいせいされ、この集中しゅうちゅうさむらいまちぶ。基本きほんてき主君しゅくん居所きょしょからちかいほど身分みぶんたか人物じんぶつみ、とおくなるほどに身分みぶんひく人物じんぶつんだ。とく家老がろうはじめとする重臣じゅうしん藩主はんしゅ居所きょしょ近隣きんりん城内きうちむこともおおかった。一方いっぽう身分みぶんひくさむらい町屋まちや隣接りんせつした場所ばしょまうこともあり、なかには町屋まちやそのものにれいもあった。また、さむらい屋敷やしきさら外側そとがわには足軽あしがる屋敷やしき足軽あしがる屋敷やしきくみ屋敷やしき)や長屋ながや足軽あしがる長屋ながや組長くみちょう)がかれ、これらは防衛ぼうえいじょう観点かんてんから城下じょうか入口いりくちなどに集中しゅうちゅうしててられることがおおかった。

戦国せんごく時代じだいまでは武士ぶしおおくがそれぞれの領地りょうちんでおり、平時へいじ農業のうぎょう従事じゅうじしていたので、この時代じだいさむらい屋敷やしき名主なぬし屋敷やしき東日本ひがしにっぽん)や庄屋しょうや屋敷やしき西日本にしにほん)、あるいは代官だいかん屋敷やしきなどとばれている。近世きんせいになりへいのう分離ぶんりおこなわれると、城下町じょうかまちさむらい屋敷やしきあつめられ、さむらいまち形成けいせいされるようになった。さむらいまちおおくは城郭じょうかく防御ぼうぎょ意識いしきしてさんまる外郭がいかくないなどに計画けいかくてき配置はいちされ、基本きほんてきにはしろちかいほど身分みぶんたかしろからはなれるほど身分みぶんひくもの屋敷やしきてられていた。こうしたさむらい屋敷やしきはその武士ぶし所有しょゆうするものではなくつかえる主人しゅじんからあたえられるもので、出世しゅっせ降格こうかくなどにより地位ちいわれば屋敷やしき相応そうおうのものにえられ、主人しゅじんうたてふうとなればその屋敷やしきわたさなければならなかった。ただし、おも上級じょうきゅう武士ぶし郊外こうがいなどに個人こじんてき別邸べってい下屋敷しもやしき)をかまえることもあった。陣屋じんやにおいては敷地しきちない小規模しょうきぼさむらい屋敷やしきかまえてまわせることもあった。重臣じゅうしんクラスのさむらい屋敷やしきでは土塀どべい長屋門ながやもん式台しきだいかまえ、下級かきゅうのものでも書院造しょいんづくり座敷ざしきもうけるなど、格式かくしきしめ意匠いしょうほどこされていた。

また、江戸えど時代じだいには、上級じょうきゅう社家しゃけ医者いしゃ忍者にんじゃなども武士ぶしじゅんじる身分みぶん格式かくしきとされ、屋敷やしき様式ようしきも、おおむ武士ぶし屋敷やしきじゅんじるものである。

さむらいまち

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秋田あきたけん仙北せんぼく角館かくのだて武家ぶけ屋敷やしきどお
 
篠山しのやまつたえけん地区ちく徒士かじしまち武家ぶけ屋敷やしきぐん
 
島根しまねけん松江まつえ塩見しおみ縄手なわて
 
長崎ながさきけん島原しまばら武家ぶけ屋敷やしきがい
 
鹿児島かごしまけんみなみ九州市知覧町郡の武家ぶけ屋敷やしきどお

さむらいまち(さむらいまち)とは、さむらい屋敷やしきあつまってできたまちのことである。城下町じょうかまち陣屋じんやまちなかにあることがおおく、しろ陣屋じんやかかわる武士ぶし居住きょじゅうした。現在げんざい武家ぶけまちばれることもあるが、武家ぶけまちとは元来がんらい大名だいみょう上級じょうきゅう旗本はたもと屋敷やしきあつまった地域ちいきのことであった。

明治維新めいじいしんによりさむらい屋敷やしきおおくが国有こくゆうとなり、売却ばいきゃくやぶ却され、また戦災せんさい都市とし開発かいはつによりうしなわれた。しかし、さむらいまち町並まちなみを現在げんざいつたえる地域ちいきもあり、その一部いちぶ重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちくとして選定せんていされている。

平家へいけ落人おちうど伝承でんしょう徳島とくしまけん三好みよしひがし祖谷そたにきゅう東祖谷山ひがしいややまむら)、長崎ながさきけん五島ごしま福江島ふくえじま)にも「武家ぶけ屋敷やしき」とばれるまいがある。ひがし祖谷そだに外観がいかん農家のうかおなじく、五島ごしま民家みんかもんへいにのみ面影おもかげのこす。

さむらい屋敷やしき関連かんれん項目こうもく

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足軽あしがる屋敷やしき

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武士ぶし身分みぶんふくまれない(士分しぶんたない)足軽あしがるまいはさむらい屋敷やしきとはばれず、足軽あしがる屋敷やしきばれた。下級かきゅう足軽あしがる屋敷やしきではなく長屋ながや形式けいしき住宅じゅうたくであったため、この長屋ながや足軽あしがる長屋ながやばれる。現代げんだいにおいては足軽あしがる屋敷やしき武家ぶけ屋敷やしきぶことがある。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 東京とうきょう都市とし研究所けんきゅうじょへん比較ひかく考証こうしょう 江戸えど東京とうきょう古地こち散歩さんぽ新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ 1999ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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