(Translated by https://www.hiragana.jp/)
宗谷 (船) - Wikipedia

宗谷そうや (ふね)

1938ねん進水しんすいした砕氷さいひょうせん

宗谷そうや(そうや)は、海上保安庁かいじょうほあんちょう砕氷さいひょうせん巡視じゅんしせんとしてのふね番号ばんごうPL107前身ぜんしん大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん特務とくむかん[10]時代じだいふくめて昭和しょうわおおくの歴史れきしてき事件じけんかかわり[注釈ちゅうしゃく 2]とく1956ねんから1962ねんまで南極なんきょく観測かんそくせん初代しょだい)をつと日本にっぽん南極なんきょく観測かんそく事業じぎょういしずえきずいたことでひろられる。

宗谷そうや
ふね科学かがくかん展示てんじされる宗谷そうや
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 川南かわみなみ工業こうぎょう香焼こうやぎとう造船ぞうせんしょ
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん(戦後せんごまで)
 海上保安庁かいじょうほあんちょう
かんしゅ 巡視じゅんしせん
きゅうめい 天領てんりょうまるがた2ばんせん宗谷そうやがた雑用ざつよう運送うんそうかん灯台とうだい補給ほきゅうせん宗谷そうや巡視じゅんしせん宗谷そうや[注釈ちゅうしゃく 1]
愛称あいしょう奇跡きせきふね」「不可能ふかのう可能かのうにするふね」「福音ふくいん使者ししゃ」「うみのサンタクロース」「燈台とうだいしろひめ」「北洋ほくようまもがみ」「帝国ていこく海軍かいぐん最後さいごのこり」多数たすう
母港ぼこう 横須賀よこすか鎮守ちんじゅ特務とくむかん
東京とうきょうこうたけしば桟橋さんばし灯台とうだい補給ほきゅうせん
函館はこだてこう巡視じゅんしせん
東京とうきょうこうせん科学かがくかん保存ほぞんせん
かんれき
計画けいかく 契約けいやくだい1048ごう[2]
発注はっちゅう ソビエト連邦れんぽう通商つうしょう代表だいひょう
起工きこう 1936ねん12月7にち
進水しんすい 1938ねん2がつ16にち
竣工しゅんこう 1938ねん6がつ10日とおか
退役たいえき 1978ねん10月2にち
その 1979ねん5月1にちから記念きねんせんとして公開こうかい
要目ようもく
基準きじゅん排水はいすいりょう 3.800t(特務とくむかん[3]
満載まんさい排水はいすいりょう 4.775t(地領ちりょうまる[3]
トン数とんすう 1.170t(地領ちりょうまる[3]
総トン数そうとんすう 2.224t(地領ちりょうまる[3]
全長ぜんちょう 82.3m(地領ちりょうまる[3]
最大さいだいはば 12.8m(地領ちりょうまる[3]
ふか 7.0m(特務とくむかん[3]
吃水きっすい 5.8m(特務とくむかん[3]
機関きかん 川南かわみなみしき3れんしき往復おうふくどう蒸気じょうき機関きかん1、1じく地領ちりょうまる[3]
ボイラー 2かん地領ちりょうまる
出力しゅつりょく 1,450馬力ばりき地領ちりょうまる
1,597馬力ばりき特務とくむかん[3]
速力そくりょく 12.1ノット(特務とくむかん[3]
燃料ねんりょう 石炭せきたん819t 清水しみず417t(灯台とうだい補給ほきゅうせん[4]
航続こうぞく距離きょり 5.000海里かいり(8.5ノット)(特務とくむかん[3]
乗員じょういん 67にん灯台とうだい補給ほきゅうせん[3]
へいそう よん口径こうけいさんねんしきはちせんちめーとる高角こうかくほう1
きゅうろくしきじゅうみりめーとる機銃きじゅう5てい
きゅうさんしきじゅうさんみりめーとる機銃きじゅう3てい
きゅうしきななみりめーとるなな機銃きじゅう1てい
落下傘らっかさん爆雷ばくらい10-20はつ特務とくむかん
レーダー 三式一号電波探信儀三型[5]特務とくむかん
スペリーSO-3(灯台とうだい補給ほきゅうせん
ソナー 英国えいこくせい音響おんきょうはかさがせ地領ちりょうまる-特務とくむかん
きゅうしきはかさがせきゅう一式いっしきさがせしんじ特務とくむかん[6]
その 信号しんごうJIKL
ロイド船級せんきゅう100Aがた1たいごおり構造こうぞう
8しつ12名分めいぶん旅客りょかく設備せつびおよきゃくよう食堂しょくどう
載貨さいか重量じゅうりょう3009t(地領ちりょうまる[7]
舳先へさきなみ模様もよう迷彩めいさい特務とくむかん[8]
砕氷さいひょう能力のうりょく40cm[9]地領ちりょうまる-灯台とうだい補給ほきゅうせん
南極なんきょく観測かんそくせん改造かいぞうされるまえまでのデータ
テンプレートを表示ひょうじ

海上保安庁かいじょうほあんちょうふねとしては現存げんそんする唯一ゆいいつ保存ほぞんせん[注釈ちゅうしゃく 3][注釈ちゅうしゃく 4]現存げんそんする数少かずすくない(見方みかたによっては唯一ゆいいつの)帝国ていこく海軍かいぐん艦船かんせんでもある[注釈ちゅうしゃく 5]

概要がいよう

編集へんしゅう

ソビエト連邦れんぽうけの商船しょうせんたいごおり構造こうぞう貨物かもつせん)として日本にっぽん建造けんぞうされたが、にちちゅう戦争せんそう激化げきかともなわた不可ふか決定けってい一旦いったん栗林くりばやし汽船きせんたつみなみ汽船きせん所属しょぞく地領ちりょうまるとなり、それを大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんげて宗谷そうや名前なまえかたち宗谷そうや(そうや)となった[13]太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)では運送うんそうかん雑用ざつよう)としてだいよん艦隊かんたい[14]だいはち艦隊かんたい所属しょぞく[15]輸送ゆそう測量そくりょう任務にんむ従事じゅうじした[11][注釈ちゅうしゃく 6]敗戦はいせん復員ふくいん輸送ゆそう従事じゅうじしたあと海上保安庁かいじょうほあんちょう所属しょぞくし、灯台とうだい補給ほきゅうせん巡視じゅんしせん南極なんきょく観測かんそくせん時代じだいふくむ)として服務ふくむした[10]。1978ねん退役たいえき日本海事科学振興財団にほんかいじかがくしんこうざいだん管理かんり受託じゅたくし、永久えいきゅう保存ほぞん目標もくひょう保存ほぞんせんとして公開こうかいされている。稼働かどう目標もくひょうとしない静態せいたい保存ほぞんであるが船籍せんせきのこしており、つきに1にちほど海上保安庁かいじょうほあんちょう特殊とくしゅ救難きゅうなんたい訓練くんれん施設しせつとして使用しようされている。

宗谷そうや」のふねめいは、海軍かいぐん軍艦ぐんかんとしては2代目だいめ初代しょだい宗谷そうやは、にち戦争せんそう鹵獲ろかくされた防護ぼうご巡洋艦じゅんようかんヴァリャーグ[16]かんめい宗谷海峡そうやかいきょう由来ゆらい)、海上保安庁かいじょうほあんちょうふねとしては初代しょだいほんかん海軍かいぐん購入こうにゅうされたさい特務とくむかん命名めいめい基準きじゅんにより宗谷海峡そうやかいきょうにちなんで商船しょうせん時代じだいの「地領ちりょうまる」から改名かいめいされた。

日本にっぽん最初さいしょヘリコプター搭載とうさいしたふねでもあり、その運用うんよう実績じっせき後継こうけいせん[17]となるPLH01そうや以降いこうのヘリコプター搭載とうさいがた大型おおがた巡視じゅんしせんかされた。

商船しょうせん

編集へんしゅう

1936ねん昭和しょうわ11ねん9月18にち川南かわみなみ工業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ香焼こうやぎとう造船ぞうせんしょソビエト連邦れんぽう通商つうしょう代表だいひょうより、当時とうじ基準きじゅん砕氷さいひょうがた貨物かもつせん3せき発注はっちゅうけた[2]。これはソ連それんからきたまん鉄路てつろ買収ばいしゅうした契約けいやく一部いちぶであった[18]12月7にち砕氷さいひょうがた貨物かもつせんだい107ばんせんとして川南かわみなみ工業こうぎょう株式会社かぶしきがいしゃ香焼こうやぎとう造船ぞうせんしょ長崎ながさきけん)にて起工きこう1938ねん昭和しょうわ13ねん2がつ16にち川南かわみなみ工業こうぎょう社長しゃちょう長女ちょうじょ 川南かわみなみ幸子さちこによってソ連それんせんボロチャエベツ (Волочаевец) [注釈ちゅうしゃく 7]として進水しんすい[19]進水しんすい船体せんたいしょくくろで、ふねめいしたに「ペトロパブロフスク・カムチャツキー」と船籍せんせきみなとかれていた。

姉妹しまいせんボルシェビキ (Большевики) は1937ねん昭和しょうわ12ねん8がつ10日とおかに、コムソモーレツ (Комсомолец) は1937ねん昭和しょうわ12ねん10がつ20日はつかにそれぞれ進水しんすいしていた。しかし、だい世界せかい大戦たいせん直前ちょくぜん情勢じょうせいかんがみ、ソ連それんへの引渡はなされず、商船しょうせん地領ちりょうまるとして竣工しゅんこうした[10]船体せんたいしょく若草わかくさしょく塗装とそうされたという。おなさまにボルシェビキは「天領てんりょうまる」、コムソモーレツは「みんりょうまる」となった。なお3せきはロイド船級せんきゅう協会きょうかい (en) の規格きかく沿った性能せいのうであることがもとめられたが、1938ねん昭和しょうわ13ねん2がつ10日とおか一番いちばんせんボルシェビキをロイド船級せんきゅう協会きょうかい極東きょくとう主任しゅにん検査官けんさかん立会たちあいのもとでおおやけ試運転しうんてんしたところ、性能せいのう規定きていたず合格ごうかくとなっている[20]

本船ほんせん姉妹しまいせんソ連それんけに建造けんぞうされた砕氷さいひょうたいごおり能力のうりょくと、当時とうじとしてはめずらしいさい新鋭しんえいイギリスせい音響おんきょうはかさがせソナー)が装備そうびされていた民間みんかん貨物かもつせんだったため、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん興味きょうみいていた[21]時勢じせいにら測量そくりょう業務ぎょうむができ、なおかつ大量たいりょう輸送ゆそう能力のうりょくふねさがしていたのである。また帝国ていこく海軍かいぐんがこの時点じてん保有ほゆうしていた砕氷さいひょうかんだいはく(1921ねん11月、完成かんせい)しかなく[22]新型しんがた輸送ゆそう任務にんむにも対応たいおう可能かのう砕氷さいひょうかんもとめられていた[10]。 だが本船ほんせんソ連それんとの契約けいやく問題もんだいがこじれたため、帝国ていこく海軍かいぐん直接ちょくせつげることはなく、民間みんかん会社かいしゃ貨物かもつせんとして運航うんこうした[23]

1938ねん7がつ15にちにちしん汽船きせんにチャーターされ、大連たいれん基地きちにして天津てんしん青島ちんたお上海しゃんはいを17-18にちかけて往復おうふくする。積荷つみにおも雑貨ざっかであったが、ぶしによって林檎りんごにくぐりなどをんだ。1939ねん3がつ20日はつか契約けいやく終了しゅうりょう同日どうじつ香焼こうやぎとうのドックにはい改装かいそうされる。1939ねん5がつ7にち栗林くりばやし汽船きせんにチャーターされる。ファンネルマークえんなかかん数字すうじの「なな」、函館はこだて基地きちとしてうらないもりとう西岸せいがんにあるかに工場こうじょうむす航路こうろいた[注釈ちゅうしゃく 8]きはかに工場こうじょう必要ひつようとされる機材きざい資材しざい、さらに加工かこうじょうはたら女工じょこうはこび、かえりはかにさけます缶詰かんづめなどの水産すいさん加工かこうぶつ満載まんさい函館はこだて往復おうふくした[25]。5月下旬げじゅんうらないもりとうから製品せいひんんで抜錨ばつびょうする。航行こうこうちゅう千島ちしま列島れっとうから北海道ほっかいどう全域ぜんいきおお濃霧のうむ見舞みまわれたが、一般いっぱん貨物かもつせんにはないソナーによって、水深すいしん測定そくていしながら北海道ほっかいどう西にし迂回うかいなんのがれた[26][27]

10月、栗林くりばやし汽船きせん大連たいれん航路こうろ最後さいごにチャーターがけ、たつみなみ汽船きせん朝鮮ちょうせん航路こうろについた[28]。12月10にち地領ちりょうまる横須賀よこすか入港にゅうこうし、ここに商船しょうせんとしての航海こうかいえるにいたった[29]商船しょうせんとしての最後さいご経歴けいれきは、川南かわみなみ工業こうぎょうたつ汽船きせんが1939ねん4がつ共同きょうどう設立せつりつしたたつみなみ汽船きせん所属しょぞくしていた。このあいだ日本にっぽん戦略せんりゃく方針ほうしん南方なんぽうたいべい重視じゅうしとなったこともあり、3せき海軍かいぐん売却ばいきゃくする計画けいかくえ、地領ちりょうまる1せきのみが売却ばいきゃくされることとなった[30]

姉妹しまいせん2せきのうち、天領てんりょうまるは1941ねん10がつごろ陸軍りくぐん輸送ゆそうせんとしてしるしやといされる。みんりょうまるは1941ねん2がつごろ陸軍りくぐんちょうやといされ、4がつ23にち工作こうさくせん改装かいそうされた[31]

特務とくむかん

編集へんしゅう
1939-1941ねん

1939ねん昭和しょうわ14ねん)11月に海軍かいぐんによるげがまる。12月、海軍かいぐんは227まん5000えん購入こうにゅうとして計上けいじょうした。12月20にち地領ちりょうまる東京とうきょう石川いしかわとう造船ぞうせんしょ深川ふかがわだいいち工場こうじょうのドックに回航かいこうし、乗組のりくみいん下船げせんした。1940ねん昭和しょうわ15ねん)2がつ20日はつか宗谷そうや命名めいめいされ[32]同日どうじつづけ特務とくむかん編入へんにゅう雑用ざつよう運送うんそうかん砕氷さいひょうがた)に類別るいべつされた[33]雑用ざつよう運送うんそうかんとは石炭せきたん兵器へいきとう積荷つみに限定げんていせず、そのときおうじて兵員へいいん包装ほうそうした食糧しょくりょうドラム缶どらむかんりの燃料ねんりょうとうなんでもはこび、測量そくりょう砕氷さいひょうとう業務ぎょうむをおこなうかんのことである[34]。なお、この正式せいしき購入こうにゅうとするせつがある[35]海軍かいぐん民間みんかんから購入こうにゅうした特務とくむかんとして唯一ゆいいつ事例じれいとなる[36]

石川いしかわとう造船ぞうせんしょにて、8cmたんそう高角こうかくほう1もん、25mm連装れんそう機銃きじゅうはかさがせしつ測量そくりょう作業さぎょうしつ増設ぞうせつなどの改装かいそうおこな[10]。6月4にち特務とくむかんとしての改装かいそう工事こうじ完了かんりょうし、横須賀よこすか鎮守ちんじゅせき[37]となる。類別るいべつでは運送うんそうかんだったが、海軍かいぐん老朽ろうきゅうした砕氷さいひょうかん大泊おおとまり[38]不足ふそくおぎな役目やくめほんかん期待きたいし、新鋭しんえい砕氷さいひょうかんができるまでのつなぎとして千島ちしま樺太からふとなど北洋ほくよう水域すいいき後方こうほう補給ほきゅう物資ぶっし輸送ゆそうおよびどう海域かいいきでの強行きょうこう測量そくりょうかんとして運用うんようするつもりであった。初代しょだい特務とくむ艦長かんちょう山田やまだ雄二ゆうじ中佐ちゅうさ[注釈ちゅうしゃく 9]当時とうじかんからだしょく灰色はいいろだった。

12月20にちソ連それん通商つうしょう東京とうきょう民事みんじ裁判所さいばんしょ提訴ていそし、前払まえばら建造けんぞう返還へんかん違約いやくきん支払しはらいをもとめた[39]本船ほんせん購入こうにゅう問題もんだいは、ソ連それん政府せいふがモスクワ駐在ちゅうざい大使たいし東郷とうごう茂徳しげのり解決かいけつをせまるほどのだい問題もんだい発展はってんする[40]裁判さいばんちゅうノモンハン事件じけん発生はっせいしている。結局けっきょく裁判さいばんは1941ねん1がつソ連それん政府せいふ建川たてかわ大使たいしとの交渉こうしょう政治せいじ決着けっちゃくした[41]

6月4にち宗谷そうや長浦ながうらこうのドックを横須賀よこすかかった[42][43]所属しょぞく横須賀よこすか鎮守ちんじゅ部隊ぶたい付属ふぞくとなる[11]最初さいしょ任務にんむきた樺太からふと調査ちょうさだった。10月11にち紀元きげんせんろくひゃくねん特別とくべつ観艦式かんかんしき拝観はいかんかん一隻いっせきとして参加さんかした(番外ばんがいれつ13せきのうち9番目ばんめ[44]。10月22にち松本まつもと亀太郎かめたろう中佐ちゅうさ艦長かんちょう着任ちゃくにんする。11月12にち測量そくりょう気象きしょう海象せいうち観測かんそく任務にんむのためサイパンとうおもむ[45]。12月16にち測量そくりょう横須賀よこすかけて出航しゅっこうした[46]

1941ねん昭和しょうわ16ねん)2がつ8にちふたたびサイパンにおもむき、3がつまつまで調査ちょうさつづけて横須賀よこすか帰還きかんした[47]。5月7にち、ポナペにけて出港しゅっこうした。5月24にち、コロニアに基地きちき、ポナペとトラックとうあいだ測量そくりょうをおこない[48]。7月30にちトラックとうもどった。トラック泊地はくちだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん井上いのうえ成美まさみ中将ちゅうじょう旗艦きかん鹿島かしま)の根拠地こんきょちであり、宗谷そうや測量そくりょうかたわ輸送ゆそう任務にんむ従事じゅうじした[49]
当時とうじ宗谷そうや海洋かいよう測量そくりょうかんとしての機能きのう発揮はっきするため、水路すいろより測量そくりょう技師ぎしわざせい測量そくりょうてい常時じょうじせき配置はいちいており、遠洋えんよう漁船ぎょせん徴用ちょうようした測量そくりょうたい陣容じんよう大所たいしょたいだった。多数たすう測量そくりょう技術ぎじゅつしゃ最新さいしん測量そくりょう機材きざい器具きぐ搭載とうさいし、フル回転かいてんさせた技術ぎじゅつは、かんかたわるさにはんして随一ずいいちといわれていた[6]そらにはラジオゾンデなんせんげ、昼夜ちゅうやわず高層こうそう気象きしょう観測かんそくみ、きゅうしきはかさがせきゅう一式いっしきさがせしんじえいしき音響おんきょうはかさがせとう、また電動でんどう手動しゅどうのあらゆる機器きき駆使くしして当時とうじ軍機ぐんき海図かいずつくげた[6]。8月26にち、サイパンにて久保田くぼたさとし中佐ちゅうさ艦長かんちょう着任ちゃくにんする[注釈ちゅうしゃく 10]。そのひがしカロリン諸島しょとう、トラック諸島しょとう、ポナペとう測量そくりょうをおこない、11月1にち、サイパンを出港しゅっこう。11月13にち横須賀よこすか帰港きこう入渠にゅうきょした[50]

1941ねん12月8にち横須賀よこすか日米にちべい開戦かいせんほうける[51]

1942ねん

1942ねん昭和しょうわ17ねん)1がつ7にち宗谷そうや横須賀よこすか出発しゅっぱつ南洋なんようにむかう[52] 。1月20にちづけだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん井上いのうえ成美まさみ中将ちゅうじょう)に編入へんにゅうされた[11]。その幾度いくどかトラック泊地はくち横須賀よこすか往復おうふくした[53]。このころ南洋なんよう部隊ぶたいだいよん艦隊かんたい)は南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい支援しえんて、ビスマルク諸島しょとうニューブリテンとうニューアイルランドとう)を占領せんりょうした(ラバウルのたたか)。宗谷そうやはビスマルク諸島しょとうやソロモン諸島しょとう測量そくりょうめいじられ、3月8にちラバウル到着とうちゃくした[54]宗谷そうやはラバウルを拠点きょてんに、ニューイアルランドとうブーゲンビルとう測量そくりょうをおこなう[55]

3月22にち、ラバウル周辺しゅうへんのマッサバ掃蕩そうとう作戦さくせん参加さんかする[56]。このときだいはち特別とくべつ根拠地こんきょちたい司令しれいかん金沢かなざわ正夫まさお中将ちゅうじょう乗艦じょうかんしたため、宗谷そうやはじめてはたはたかかげられた。3月23にち宗谷そうや浅瀬あさせとお水船みずぶねのための泊地はくち水路すいろ調査ちょうさを、測量そくりょうていによる調査ちょうさ音響おんきょうはかさがせ実施じっしして、出入でい水船みずぶね安全あんぜん確保かくほした。これによりラバウルこう出入でいりする艦船かんせんに、真水まみず安心あんしんして供給きょうきゅうできるようになった[57]。3がつ下旬げじゅん北部ほくぶソロモン諸島しょとう攻略こうりゃくをおこなう。はちとく陸上りくじょう警備けいびたいせた宗谷そうやは、睦月むつきがた駆逐くちくかん3せき睦月むつき弥生やよい卯月うづき)とともにショートランドとうかった[58]。3月30にち午前ごぜん4ショートランド泊地はくち到着とうちゃく陸戦りくせんたい上陸じょうりくさせ通信つうしん機器きき揚陸ようりくして通信つうしんしょ仮設かせつしたのち水路すいろ測量そくりょうかる。この直後ちょくごべいぐん双発そうはつ飛行ひこうてい襲撃しゅうげきされるが随伴ずいはん駆逐くちく艦隊かんたい応戦おうせん撃退げきたい成功せいこうする。同日どうじつ午後ごご4、キエタにかった。3月31にち午前ごぜん1、ブーゲンビルとう東側ひがしがわキエタこう進入しんにゅう艦内かんないからも陸戦りくせん部隊ぶたい編制へんせいし、部隊ぶたいはキエタがい突入とつにゅうした、まちはもぬけのからだったので無血むけつ上陸じょうりく成功せいこうする[56]作戦さくせん完了かんりょうした宗谷そうやはラバウルにもどった[59]

4がつ6にち、13ミリ機銃きじゅう2増設ぞうせつ。4月7にち陸戦りくせんたい大発だいはつ搭載とうさいしラバウルを出港しゅっこうする[60]翌日よくじつ早朝そうちょう、タラシーわん進入しんにゅうし、陸戦りくせんたい揚陸ようりくさせ無血むけつ上陸じょうりく成功せいこうした[61]同日どうじつにダンピール海峡かいきょう水路すいろ調査ちょうさかった[62][注釈ちゅうしゃく 11]。 4月15にちデュークオブヨークとう英語えいごばんけてラバウルを出港しゅっこうする[60]。4月23にち測量そくりょうちゅうてき双発そうはつ襲撃しゅうげきされるも被害ひがいなし。4がつ下旬げじゅんだいはち根拠地こんきょちたいMO作戦さくせん準備じゅんびはい[65]珊瑚さんごうみ海戦かいせん)。宗谷そうや任務にんむニューギニアとう東部とうぶ水路すいろ調査ちょうさであった[66]

5月6にち、13ミリ機銃きじゅう1増設ぞうせつ、5月17にち、13ミリ機銃きじゅう1陸揚りくあげした。どう17にち[67]ミッドウェー作戦さくせん参加さんかのため、だいよん艦隊かんたい指揮しきはなれラバウルを出発しゅっぱつする[68]。5月25にちまでに、ミッドウェーとう占領せんりょうたい護衛ごえい部隊ぶたいだい水雷すいらい戦隊せんたいだいなな戦隊せんたい)はサイパンとうもしくはグアムとう集結しゅうけつした[69][70]。 5月26にち連合れんごう艦隊かんたいしたれいにより宗谷そうや南洋なんよう部隊ぶたいだいよん艦隊かんたい)からのぞかれ、だいだいさん作戦さくせんちゅう攻略こうりゃく部隊ぶたい指揮しきかん近藤こんどうしんちくだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん旗艦きかん愛宕あたご)に編入へんにゅうされることになった[71]占領せんりょうにおける測量そくりょうが、宗谷そうや任務にんむであった[72]どう26にち[67]護衛ごえいたい指揮しきかん田中たなかよりゆきさん少将しょうしょうだい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん旗艦きかん神通じんずう)は、低速ていそく輸送ゆそうせん2せきあきらまるやま福丸ふくまる)をだい21せんたい護衛ごえい先発せんぱつさせる[73]。また宗谷そうやも9ノットしかでないので、船団せんだん本隊ほんたい航路こうろたんかん先行せんこうさせた[注釈ちゅうしゃく 12]宗谷そうやたんかんミッドウェーとうかった[75]。 6月3にちだいはち戦隊せんたい利根りこんがたじゅう巡洋艦じゅんようかん2せき利根とね筑摩ちくま)に信号しんごうおく[76]。ただしだいはち戦隊せんたい南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい直衛なおえのため、宗谷そうや以下いか船団せんだん部隊ぶたいよりはる北方ほっぽう航行こうこうちゅうだった[77]攻略こうりゃく船団せんだん宗谷そうや付近ふきん行動こうどうしていた巡洋艦じゅんようかん部隊ぶたいは、だいなな戦隊せんたい司令しれいかん栗田くりた健男たけお中将ちゅうじょう指揮しきする最上さいじょうがたじゅう巡洋艦じゅんようかん4せきあさしおがた駆逐くちくかん2せきである[78][注釈ちゅうしゃく 13]。 6月4にち、ミッドウェーとう北西ほくせい500海里かいりでB-17きゅう交戦こうせん被害ひがいなし。同日どうじつ1215ふん宗谷そうやはミッドウェーとうやく600かいり地点ちてんで、てき味方みかた不明ふめい中型ちゅうがた陸上りくじょういち発見はっけん報告ほうこくした[80]

6月5にち0900ごろ南雲なぐも機動きどう部隊ぶたい空母くうぼ3せき炎上えんじょう速報そくほうはい[81]。1000、攻略こうりゃく部隊ぶたい指揮しきかん近藤こんどうしんちく中将ちゅうじょうは、船団せんだん部隊ぶたいの避退をしたれいした[82]。これをけて船団せんだん撤退てったい開始かいしした[82]どう時刻じこく護衛ごえい部隊ぶたい指揮しきかん田中たなかよりゆきさん少将しょうしょうは、低速ていそく宗谷そうやなどににたいし、ただちにウェークとうへのてんはりめいじた[82]船団せんだん部隊ぶたいとく被害ひがいなく退避たいひ成功せいこうする[83]。 6月8にち2030、近藤こんどう中将ちゅうじょうは『 二水にすいせん司令しれいかんハ九日補給終了後特令ニだいじゅうろく駆逐くちくたいりつ護衛ごえいたい占領せんりょうたい会合かいごう聨特、一木いちき支隊したい大宮おおみやとう及「サイパン」方面ほうめんだいじゅういちだいじゅう設営せつえいたいけいようまるしゅうまるヲ「トラック」ヘ護衛ごえいシ だいいちごうだいごうだいさんじゅうよんごう哨戒しょうかいてい原隊げんたい復帰ふっきセシメタルじょう 内海うつみ西部せいぶ回航かいこうスベシ だいじゅうろく掃海そうかいたい宗谷そうや(だいよん測量そくりょうたい)ハみぎ護衛ごえい任務にんむ終了しゅうりょうだいよん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん指揮しき復帰ふっきノコトトス 』と指示しじした[84]。ウェークとうからポナペに撤収てっしゅう[85]宗谷そうやのMI作戦さくせん終了しゅうりょうした[86]

だいよん艦隊かんたい復帰ふっき命令めいれいけたあと、ふたたびラバウル方面ほうめん防備ぼうび部隊ぶたい所属しょぞくする[87]。ポナペからトラックとう経由けいゆしてラバウルに進出しんしゅつ、ビスマルク諸島しょとうもどってきた[85][88]。7月になると、ニューアイルランドとうカビエン周辺しゅうへん行動こうどうする[89]。カビエンとニューハノーバーとうあいだ散在さんざいする小島こじまとステファン、バイロンりょう海峡かいきょう測量そくりょう航路こうろ浮標ふひょう設置せっち任務にんむいた。8月4にち、ラバウルに帰投きとうした[90]だいはち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん三川みかわ軍一ぐんいち中将ちゅうじょう参謀さんぼうちょう大西おおにし新蔵しんくら少将しょうしょう先任せんにん参謀さんぼうかみ重徳しげのり大佐たいさ)の指揮しきはい[注釈ちゅうしゃく 14]。8月7にち海兵かいへいたいだい1海兵かいへい師団しだんがガダルカナルとう上陸じょうりくし、ガダルカナルとう攻防こうぼうせんはじまった[92]だいはち艦隊かんたいは、佐世保させぼだい特別とくべつ陸戦りくせんたいだい81警備けいびたい兵士へいし519めい敷設ふせつかん津軽つがる宗谷そうやあきらまる(5,628 t)に分乗ぶんじょうさせ、だいじゅういちごう掃海そうかいてい護衛ごえいをつける[93]。3せき津軽つがる宗谷そうやあきらまる)は海軍かいぐん陸戦りくせんたいせ、フロリダ諸島しょとうたたかアメリカ海兵かいへいたい占領せんりょうされたツラギとう奪還だっかんかった[93]8がつ8にちセント・ジョージみさき沖合おきあいにおいて[94]、アメリカ潜水せんすいかんS-38 (SS-143) の雷撃らいげきあかりまる大破たいは沈没ちんぼつする[注釈ちゅうしゃく 15]奪回だっかい作戦さくせん中止ちゅうし命令めいれいにより、宗谷そうやはラバウルにもどった[注釈ちゅうしゃく 16]同日どうじつそと南洋なんよう部隊ぶたい指揮しきかん三川みかわ軍一ぐんいちだいはち艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん旗艦きかん鳥海とりうみひきいる“三川みかわ艦隊かんたい”がガとうてつそこ海峡かいきょう突入とつにゅうしてだいいちソロモン海戦かいせん発生はっせいした[90]。だが宗谷そうや津軽つがる撤退てったいしていたので、だいはち艦隊かんたい早期そうきのツラギやヘンダーソン飛行場ひこうじょう奪回だっかい失敗しっぱいした[95]

8がつ9にち、ラバウルをB-17爆撃ばくげき少数しょうすうおそい、宗谷そうや至近しきんだんとなった[97]横須賀よこすか帰還きかん命令めいれいけ、トラック泊地はくち経由けいゆし、8がつ28にち横須賀よこすか到着とうちゃくした[98][注釈ちゅうしゃく 17]

9月14にち横須賀よこすかからラバウルへむけて出港しゅっこう、9がつ下旬げじゅん到着とうちゃくした[100]。10月5にち、ラバウルからブイン移動いどうする。ソロモン諸島しょとう北部ほくぶ港湾こうわん測量そくりょう掃海そうかいおもりりょう浮標ふひょう設置せっちおこなった[101]ブカとうけて航行こうこうちゅうの10がつ16にち、B-17じゅうばく2から爆撃ばくげきされたが、すべて至近しきんだんとなりなんのがれた[102]。11月20にち、ラバウルに帰投きとうした[102]。ラバウルも頻繁ひんぱん空襲くうしゅうけるようになり、宗谷そうやあやうい場面ばめんいくかあったという[103]

ふたたびブーゲンビルとう出動しゅつどうし、ブイン周辺しゅうへん測量そくりょうをおこなう。12月27にち、ブインをる。よく12がつ28にち、ブカとうクイーンカロラインこう到着とうちゃく翌年よくねん1がつ1-31にちにかけてみなと付近ふきん測量そくりょう掃海そうかいおもりりょう浮標ふひょう設置せっち海図かいず設計せっけい、ブカとう滑走かっそう航空こうくうたい導入どうにゅうのための下地したじづくりをおこなった。

1943ねん

1943ねん昭和しょうわ18ねん)1がつ28にち[104]、ブカとうクイーンカロラインおき測量そくりょう海図かいず仕上しあげの最中さいちゅう午前ごぜん655ふんてき潜水せんすいかんから発射はっしゃされた魚雷ぎょらい4ほんのうち1ほん右舷うげん後方こうほう命中めいちゅうするも[105]不発ふはつであったためなんのがれた[106]護衛ごえいだいじゅうはちごう駆潜艇くせんてい爆雷ばくらい投下とうかし、この潜水せんすいかん撃破げきはした[104][107]。ただし、べいぐん記録きろくでは該当がいとうする潜水せんすいかん喪失そうしつ記録きろくはない[注釈ちゅうしゃく 18]。アメリカ潜水せんすいかんグリーンリング (USS Greenling, SS-213) の記録きろくでは1がつ18にち南緯なんい0204ふん 東経とうけい15037ふん / 南緯なんい2.067 東経とうけい150.617 / -2.067; 150.617地点ちてん宗谷そうや撃破げきはとなっているが、この時期じき宗谷そうやはブカとうクイーンカロライン近辺きんぺん測量そくりょうなどをおこなっていた。

4がつ26にち艦長かんちょう天谷あまや嘉重よししげ大佐たいさ交代こうたいした[注釈ちゅうしゃく 19]。4月28にち、ラバウルを出発しゅっぱつ水路すいろ測量そくりょうのためサンタイサベルとうおもむく。4月30にち、イサベル泊地はくち到着とうちゃく測量そくりょう任務にんむ開始かいしした直後ちょくごつばさやすめていたてき飛行ひこうてい遭遇そうぐうったのちてき飛行ひこうていった。5月5にち、B-24と交戦こうせん。12分間ふんかん戦闘せんとうあいだに、高角こうかくほう19はつ、20ミリ機銃きじゅう120はつ、13ミリ機銃きじゅう480はつ、7.7ミリ機銃きじゅう138はつ弾丸だんがんったが撃墜げきついにはいたらなかった。機銃きじゅう掃射そうしゃ至近しきんだんによりはか距儀を故障こしょうし、2めい負傷ふしょうしゃがでた。同日どうじつよるカビエンにけてイサベル泊地はくちをあとにした。

5月23にち午前ごぜん224ふんカビエンのみなとにててき襲撃しゅうげきをうけた。至近しきんだん爆発ばくはつ震動しんどうによって「きゅうしきいちがたあらため一転いってん羅針儀らしんぎ(ジャイロコンパス)」と「音響おんきょうはかさがせ」が故障こしょう横須賀よこすか修理しゅうりもどることになった。6月3にち、カビエンを出港しゅっこうし、トラックとうに6はくしたあとサイパンに寄港きこうし、6月24にち横須賀よこすか帰港きこうした。

7がつ19にち横須賀よこすか出港しゅっこう。7月29にちにトラック泊地はくち到着とうちゃく。8月6にち駆逐くちくかんゆうがつだいじゅうはちごう駆潜艇くせんてい護衛ごえいかん[109]朝風あさかぜまるやまきりまる北開きたびらきまるひきいてラバウルへ出発しゅっぱつした。9月27にち輸送ゆそう船団せんだんひきいてラバウルを出港しゅっこう、10月2にちにトラックとう到着とうちゃく。10月8にちすうせき大発だいはつ搭載とうさい上陸じょうりく部隊ぶたいせマーシャル諸島しょとうクェゼリンにかった。10月13にち早朝そうちょう、クェゼリンを目前もくぜんにアメリカ潜水せんすいかんシードラゴン (USS Seadragon, SS-194) から雷撃らいげきをうけるも被害ひがいなし。午前ごぜん9クェゼリンに到着とうちゃくした宗谷そうや陸軍りくぐん部隊ぶたい移乗いじょうした大発だいはつ見送みおくると、夕方ゆうがたにルオットへ移動いどうした[110]

1944ねん

1がつ初旬しょじゅんブラウン島うんじまから燃料ねんりょう食料しょくりょう補給ほきゅうのためクェゼリンにけて出港しゅっこう用意よういをしているとまえ艦長かんちょう久保田くぼたさとし大佐たいさだい24駆逐くちくたい司令しれい)が来訪らいほう「クェゼリンは食料しょくりょう不足ふそくしてる」と忠告ちゅうこくされ、トラックとう針路しんろをかえた。

1がつ14にち久保田くぼた司令しれいひきいる駆逐くちくかん海風かいふう[111]などの護衛ごえいけてブラウン島うんじま出航しゅっこうする[112]。 1月18にち海風かいふう涼風すずかぜおよびしおだい7駆逐くちくたい)などがトラックとう到着とうちゃくした[113][114]

2がつ1にちだいはち艦隊かんたいから連合れんごう艦隊かんたい付属ふぞく編入へんにゅうされた[115][注釈ちゅうしゃく 20]

2がつ17にちだい58任務にんむ部隊ぶたい (Task Force 58) によるトラックとう空襲くうしゅう遭遇そうぐうし、トラック泊地はくち夏島なつしま周辺しゅうへん対空たいくう戦闘せんとうをおこなう[116]どう17にち午後ごご回避かいひ行動こうどうちゅう座礁ざしょうした[117][注釈ちゅうしゃく 21]。アメリカぐんは、空母くうぼエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の艦上かんじょう攻撃こうげきTBFアヴェンジャーにより、レーダーのみをもちいた夜間やかん航空こうくう攻撃こうげき実施じっししようとしていた[注釈ちゅうしゃく 22]よく2がつ18にち午前ごぜん1すぎ、夜間やかん空襲くうしゅうによりに宗谷そうや損傷そんしょうする[117]べい軍機ぐんき1撃墜げきついするも[注釈ちゅうしゃく 23]はかさがせと20mm機銃きじゅう大破たいはふく艦長かんちょうふくむ9めい戦死せんしし、天谷あまや艦長かんちょう重傷じゅうしょうった[119]弾薬だんやく使つかたす[117]福島ふくしま大尉たいい指揮しきかん代行だいこう機密きみつ書類しょるい焼却しょうきゃくしたのち総員そういん退すさかん命令めいれいした[119]。2月19にち満潮まんちょうにより宗谷そうや自然しぜん離礁りしょうして漂流ひょうりゅうする[117]夏島なつしま避難ひなんしていた乗組のりくみいんは、ふたた宗谷そうやんで応急おうきゅう修理しゅうり実施じっしした[117]至近しきんだん衝撃しょうげき機関きかん若干じゃっかん損傷そんしょうけていたが、おおきな被害ひがいはなかったという[117]。 こうして宗谷そうや脱出だっしゅつ成功せいこうしたが、天谷あまや嘉重よししげ大佐たいさかん放棄ほうき責任せきにんエニウェトクのたたかまれただいよん測量そくりょうたい全滅ぜんめつ責任せきにんをとわれ、2がつ28にちづけ更迭こうてつされた[注釈ちゅうしゃく 24]

3月17にち、トラック泊地はくち出港しゅっこう、サイパンに移動いどうした[117]。3月24にち宗谷そうやだいじゅういち水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん高間たかまかん少将しょうしょう指揮しき[122]ひがしまつだい船団せんだん陽炎かげろうがた駆逐くちくかん野分のわけ神風かみかぜがた駆逐くちくかん朝風あさかぜ海防かいぼうかんまんたま敷設ふせつていきょずみ駆潜艇くせんてい4せき宗谷そうやふく加入かにゅう船舶せんぱく14せき)に所属しょぞくしてサイパンを出発しゅっぱつ横須賀よこすかかう[123][124]。 3月26にち、ボイラーの故障こしょうにより護衛ごえいかん2せきとも船団せんだん部隊ぶたいからの離脱りだつ余儀よぎなくされる[125]。3月28にち小笠原諸島おがさわらしょとう父島ちちじま二見ふたみこう到着とうちゃく応急おうきゅう修理しゅうり実施じっしする[125]。4月4にち二見ふたみこう出港しゅっこう。4月7にち横須賀よこすか帰港きこうする[11]。4月9にち日本にっぽん鋼管こうかん浅野あさのドックにはいり、測量そくりょうかんから輸送ゆそうかん改装かいそうされる。はかさがせ観測かんそく機器きき撤去てっきょし、25mm機銃きじゅうを4増設ぞうせつえんかんから海軍かいぐん制式せいしきみずかんかん交換こうかんをおこなう。4月22にちみぞする[126]

5月7にち戦車せんしゃだいじゅういち連隊れんたいだいよん梯団ていだんせた天領てんりょうまる大湊おおみなと合流ごうりゅうし、駆逐くちくかんとともに護衛ごえいする[注釈ちゅうしゃく 25][注釈ちゅうしゃく 26]。5月15にち[128][130]ほろむしろとう到着とうちゃく[131]。25にち横須賀よこすか帰着きちゃく、これ以降いこうボイラーの不調ふちょうになやまされ、修理しゅうり試運転しうんてん翌年よくねんの2がつまでりかえす。なお、姉妹しまいせんである天領てんりょうまるとは最初さいしょ最後さいご行動こうどうとなった。5月30にち志和しわぴょう大佐たいさ艦長かんちょう就任しゅうにん。8がつ20日はつか志和しわぴょう大佐たいさ横須賀よこすかにて退すさかん。8月28にち三式一号電波探信儀三型搭載とうさいする[132][5]


1945ねん

1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ20日はつか横須賀よこすか鎮守ちんじゅ付属ふぞく雑用ざつようかん配置はいちえがあり、宗谷そうやは2がつ輸送ゆそう任務にんむ復帰ふっきする。2月27にち特攻とっこう輸送ゆそうかんとして軍事ぐんじ物資ぶっし横須賀よこすか出港しゅっこう。3月2にち室蘭むろらん到着とうちゃく。3月4にち山内やまうち正規まさき大佐たいさ艦長かんちょう就任しゅうにんする。このあと物資ぶっし荷揚にあげして石炭せきたんなどを搭載とうさい青森あおもりけん八戸はちのへ石炭せきたんはこんで室蘭むろらんもどる。3月23にち横須賀よこすか帰港きこうする。これをもってだいいち輸送ゆそう任務にんむ完了かんりょうする[133]。3月25にちだい輸送ゆそうにんについた。5月29にち姉妹しまいせん天領てんりょうまる」がアメリカ潜水せんすいかんスターレット (USS Sterlet, SS-392) に撃沈げきちんされた[134]天領てんりょうまるうみえた宗谷そうやだいよん輸送ゆそう任務にんむえて横須賀よこすか軍港ぐんこうにいた。6月19にちだい輸送ゆそう任務にんむ完了かんりょうする。6月24にち物資ぶっし積載せきさいし、満州まんしゅうにむけてかみ津丸つまる永観えいかんまるれて横須賀よこすか出港しゅっこう同日どうじつ午後ごご海防かいぼうかんよんざかだいじゅういちごう駆潜艇くせんてい横須賀よこすかおき合流ごうりゅうし、護衛ごえいについた。6月25にちだいさんじゅうさんごう掃海そうかいてい護衛ごえいくわわる、6月26にち宗谷そうやだいいちろくよん船団せんだんかみ津丸つまる永観えいかんまる海防かいぼうかんよんざかだいじゅういちごう駆潜艇くせんていだいさんじゅうさんごう掃海そうかいてい)と大湊おおみなと警備けいびだいきゅうさん海軍かいぐん航空こうくうたいきゅうさんそら水上すいじょうたい航空こうくう支援しえんけて船越湾ふなこしわん大釜崎おおがまざきおき航行こうこうちゅう、アメリカ潜水せんすいかんからの雷撃らいげきをうける。この攻撃こうげき神津こうづまる轟沈ごうちん永観えいかんまるかみなり擱座かくざ魚雷ぎょらい1はつ宗谷そうやした通過つうかした。宗谷そうや護衛ごえいかん爆雷ばくらい反撃はんげきし、潜水せんすいかん撃退げきたいした[135][注釈ちゅうしゃく 27]

7がつ27にち横須賀よこすか帰港きこうだいろく輸送ゆそう任務にんむ完了かんりょうする。同日どうじつドックりする[注釈ちゅうしゃく 28]。8月2にち横須賀よこすかでドックりしているとき戦艦せんかん長門ながと病院びょういんせん氷川丸ひかわまるとも空襲くうしゅうける。被弾ひだんしたてき補助ほじょ燃料ねんりょうタンク(ぞうそう)を投下とうかして逃避とうひしたが、このタンクが宗谷そうや機関きかんしつ真上まうえ天窓てんまど命中めいちゅう、ガラスを破損はそんしガソリンが機関きかんしつない蒸発じょうはつする。室内しつない気化きかしたガソリンが充満じゅうまんしてしまったが、さいわ入渠にゅうきょちゅうのため火気かきがなく爆発ばくはつまぬかれる[136]空襲くうしゅうわったのち宗谷そうや乗組のりくみいん長門ながと派遣はけんされた[137]よく8がつ3にち横須賀よこすか鎮守ちんじゅの避退指令しれいけた宗谷そうやは、標的ひょうてきかん大浜おおはまともな女川おながわかった。8月4にち女川おながわ到着とうちゃくし、大浜おおはま同地どうちのこ[138]。8月6にち夕方ゆうがた宗谷そうやだいなな輸送ゆそう任務にんむのため室蘭むろらんけて単独たんどく出港しゅっこうした。

8がつ7にち早朝そうちょうだい37任務にんむ部隊ぶたい (Task Force 37) [注釈ちゅうしゃく 29]接近せっきんされるがきりくなり、そのきりつつまれた宗谷そうや八戸はちのへこうげきることに成功せいこうする。このきり乗組のりくみいんかみころもばれた[140][注釈ちゅうしゃく 30]。8月8にち早朝そうちょう八戸はちのへ出港しゅっこう同日どうじつ午後ごご室蘭むろらん到着とうちゃくする。8月15にち室蘭むろらんこう防空ぼうくう訓練くんれんちゅうに、終戦しゅうせんをむかえた[142]

8がつ17にち石炭せきたんんで室蘭むろらん出港しゅっこうする。八戸はちのへこう経由けいゆして8がつ21にち横浜よこはまわん到着とうちゃくする。台風たいふう影響えいきょうにより横須賀よこすかこうはいったのは8がつ24にち午後ごご4だった。同日どうじつだいなな輸送ゆそう任務にんむ終了しゅうりょうする。8月29にち軍艦ぐんかんはたろす。8月30にちわたしを終了しゅうりょう山内やまうち艦長かんちょう以下いか全員ぜんいん退すさかん[143][注釈ちゅうしゃく 31]。9月5にち海軍かいぐんせきから除籍じょせきされた。

艦長かんちょう

編集へんしゅう
艤装ぎそういんちょう
  • 山田やまだ雄二ゆうじ 中佐ちゅうさ:1940ねん4がつ24にち[144] - 1940ねん6がつ4にち[145]
特務とくむ艦長かんちょう/艦長かんちょう
  • 山田やまだ雄二ゆうじ 中佐ちゅうさ特務とくむ艦長かんちょう 1940ねん6がつ4にち[145] - 1940ねん10がつ22にち[146]
  • 松本まつもと亀太郎かめたろう 中佐ちゅうさ:1940ねん10がつ22にち[146] - 1941ねん8がつ11にち[147]
  • 久保田くぼたさとし 中佐ちゅうさ:1941ねん8がつ11にち[147] - 1943ねん4がつ26にち[148]
  • 天谷あまや嘉重よししげ 大佐たいさ:1943ねん4がつ26にち[148] - 1944ねん2がつ28にち[149]以後いご1944ねん5がつ30にちまで艦長かんちょうかず。
  • 志和しわぴょう 大佐たいさ:1944ねん5がつ30にち[150] - 1944ねん8がつ20日はつか[151]以後いご1945ねん2がつ18にちまで艦長かんちょうかず。
  • 山内やまうち正規まさき 大佐たいさ/だい復員ふくいんかん:1945ねん2がつ18にち[152] - 艦長かんちょう 1945ねん12がつ20日はつか[153] - 1946ねん2がつ13にち[154]
  • 土井どいさる だい復員ふくいんかん/だい復員ふくいん事務じむかん:1946ねん2がつ13にち[154] - 1946ねん6がつ1にち[155]
  • 田上たうえあきら だい復員ふくいん事務じむかん/復員ふくいん事務じむかん:1946ねん6がつ1にち[155] - 1946ねん8がつ15にち[156]

引揚せん(S119)

編集へんしゅう

終戦しゅうせんの1945ねん10がつ1にち宗谷そうやGHQから大蔵省おおくらしょう移管いかん手続てつづきおこなわれ、大蔵省おおくらしょう財産ざいさんとして返還へんかんされた[157]同日どうじつづけ日本にっぽん商船しょうせん管理かんりきょく所属しょぞくするSCAJAP番号ばんごうS-119があたえられ特別とくべつ輸送ゆそうかんS119となった[158]。このとき宗谷そうやまる改名かいめいされたがかんめい表記ひょうき宗谷そうやのままだった。

10月7にち、ヤップとう復員ふくいん任務にんむのため浦賀うらがはっする。10月24にち帰還きかんする。11月20にち、グアム、トラック方面ほうめん復員ふくいん任務にんむのため浦賀うらがはっする。12月1にちだい復員ふくいんしょうひらきちょうともな横須賀よこすか地方ちほう復員ふくいんきょく所管しょかん特別とくべつ輸送ゆそうかんさだめられる[159]。12月12にち大竹おおたけ揚陸ようりく移動いどうした。12月26にち上海しゃんはい方面ほうめん復員ふくいん任務にんむのためはっする。以後いご台湾たいわん、ベトナムのサイゴン、にんにくあし(コロ)しまからの復員ふくいん任務にんむ従事じゅうじした。

1946ねん3がつ23にち台湾たいわん高雄たかおからの引揚しゃ輸送ゆそうちゅう船内せんないにん産気さんけづき出産しゅっさん無事ぶじ女児じょじ誕生たんじょう名付なづおやになった土井どいさる艦長かんちょう宗谷そうやいちをとって宗子むねこ(もとこ)と名付なづけた[注釈ちゅうしゃく 32]。1946ねん8がつ15にち特別とくべつ輸送ゆそうかんさだめをかれ[160]、8がつ31にちづけ船主せんしゅ大蔵省おおくらしょうから民間みんかん組織そしき船舶せんぱく運営うんえいかい移籍いせき特別とくべつ輸送ゆそうかんから民間みんかん組織そしき引揚せんになった[注釈ちゅうしゃく 33]

1947ねん6がつ下旬げじゅん樺太からふとから引揚しゃ輸送ゆそうちゅう船内せんない女児じょじ誕生たんじょう当時とうじ船長せんちょう名付なづおやとなり宗子むねこづけた[161]。1947ねんから1948ねんにかけては、大連たいれん朝鮮ちょうせん樺太からふとからの引揚輸送ゆそう従事じゅうじした。1948ねん11月に引揚任務にんむ終了しゅうりょうするまでにはこんだ引揚しゃ総数そうすうは、19,000めい以上いじょうにもたっした。

灯台とうだい補給ほきゅうせんそうや(LL-01)

編集へんしゅう

1948ねん昭和しょうわ23ねん)11月の引揚任務にんむ終了しゅうりょう宗谷そうやまる商船しょうせんふう外見がいけんあらため、真岡もおか-函館はこだてあいだ輸送ゆそう業務ぎょうむ従事じゅうじしていた[162]。1949ねん昭和しょうわ24ねん)8がつ1にち宗谷そうやはGHQより正式せいしき帰還きかん業務ぎょうむかれた。8月13にち来訪らいほうした海上保安庁かいじょうほあんちょう係官かかりかん福井ふくい静夫しずおにより調査ちょうさされた宗谷そうやまる使用しよう可能かのう判断はんだんされた。当初とうしょ海上保安庁かいじょうほあんちょう宗谷そうやまる水路すいろ測量そくりょうせんとして使用しようする予定よていだった。しかし、民間みんかんからチャーターし灯台とうだい補給ほきゅうせんとして使用しようしていただいじゅうはちにちせいまる船主せんしゅからかいやといもとめられ返還へんかんするのにともない、急遽きゅうきょ灯台とうだい補給ほきゅうせんだいふね必要ひつようになり[10]、この宗谷そうやまる候補こうほせんいちせきとなった。候補こうほせんになったもういちせき当時とうじ青函せいかん連絡れんらくせんもちいられていた宗谷そうやまるであり、こちらは元々もともとややはく連絡れんらくせんよう砕氷さいひょうきゃく貨船として設計せっけい建造けんぞうされたふね砕氷さいひょう能力のうりょくもあったため候補こうほせんとして適当てきとうかんがえられていた。だが、GHQがもとめるしつらえしるべせんとしては測量そくりょうていのデリックをそなえた海上保安庁かいじょうほあんちょう宗谷そうやまるのほうが好都合こうつごうだったため、最終さいしゅうてきにこちらが選出せんしゅつされた[163]。このとき同名どうめいせん2せき候補こうほとしたため、海上保安庁かいじょうほあんちょうせきほう宗谷そうやまる宗谷そうやさい改名かいめいすることになった。

11月に小樽おたるより東京とうきょうこうたけしば桟橋さんばしおき回航かいこうされた宗谷そうやは、12月12にちづけ海上保安庁かいじょうほあんちょう移籍いせきした。もっとも宗谷そうや海上保安庁かいじょうほあんちょう発足ほっそくから水路すいろ測量そくりょうせんとしてその保有ほゆう既定きてい事実じじつてきみとめられており(昭和しょうわ23ねん法律ほうりつだい28ごう 海上保安庁かいじょうほあんちょうほうだい38じょう選定せんていされるべくしての編入へんにゅうであった[164]石川いしかわとう重工業じゅうこうぎょう改装かいそう工事こうじ着手ちゃくしゅ、ソナーを撤去てっきょ売店ばいてん設置せっち海軍かいぐん制式せいしきみずかんかんからえんかんふたたもどされる。船体せんたいしろえられ、代目だいめ灯台とうだいせんしゅうまる」のごうかね継承けいしょうした[注釈ちゅうしゃく 34]

1950ねん昭和しょうわ25ねん)4がつ1にち改装かいそうえた宗谷そうやなな代目だいめ灯台とうだい補給ほきゅうせん(LL-01)となった。このころ灯台とうだいまわいち年間ねんかんのコースは、東京とうきょうこうたけしば桟橋さんばしおき母港ぼこうとして、はる本州ほんしゅう一周いっしゅうなつ宗谷岬そうやみさきなど北海道ほっかいどう中心ちゅうしんあき九州きゅうしゅう本土ほんど南西諸島なんせいしょとうふゆ瀬戸内海せとないかい島々しまじま四国しこく地方ちほうめぐった[165]。1952ねん昭和しょうわ27ねん)6がつごろ改装かいそうされ、スペリーSO-3 たい水上すいじょう捜索そうさくようレーダー設置せっち[4]、SCAJAP番号ばんごう廃止はいしふねめいをひらがな表記ひょうきにした。

灯台とうだい補給ほきゅうせん時代じだい特殊とくしゅ任務にんむに、奄美あまみ群島ぐんとう現金げんきん輸送ゆそうがある。1953ねん昭和しょうわ28ねん)12月15にちどう年度ねんどだいさん補給ほきゅう航海こうかいえて門司もじこうはいった宗谷そうや鹿児島かごしまこう回航かいこう命令めいれいがでた。アメリカ統治とうちにあった奄美あまみ群島ぐんとうが、1953ねん12月25にち日本にっぽん返還へんかんされることになり、それにともなうやく9おくえん現金げんきん通貨つうか交換こうかん業務ぎょうむ要員よういん輸送ゆそうをするため、当時とうじ海上保安庁かいじょうほあんちょう最大さいだいふねだった宗谷そうや指名しめいされた。12月20にち深夜しんや鹿児島かごしまはっした宗谷そうやは21にち名瀬なぜ入港にゅうこうかくしままわり、12月25にち名瀬なぜ帰港きこう。12月27にちには「日本にっぽん復帰ふっき祝賀しゅくが式典しきてん」に出席しゅっせきした国務大臣こくむだいじんいちぎょうせ、12月28にち鹿児島かごしまもどった。けて1954ねん1がつ3にちふたた名瀬なぜかう。かくしまべいぐん統治とうち時代じだい軍票ぐんぴょう回収かいしゅうし、通貨つうか交換こうかん業務ぎょうむ要員よういんせる。1月9にち鹿児島かごしま帰還きかんした[166]

1950ねん4がつ20日はつか-6月6にちだいいち補給ほきゅう航海こうかい実施じっしした宗谷そうやは、南極なんきょく観測かんそくせん転用てんようのため灯台とうだい補給ほきゅうせんかいやくされるまでの5ねんはん、このにんにあたった。宗谷そうや灯台守とうだいもりからは就役しゅうえき直後ちょくご燈台とうだいしろひめ晩年ばんねんうみのサンタクロース」ばれしたしまれていた。当時とうじだいヒットした映画えいがビルマの竪琴たてごと[167]よろこびもかなしみもいく歳月さいげつには灯台とうだい補給ほきゅうせん時代じだい宗谷そうや登場とうじょうする。

1955ねん7がつ25にち-8がつ27にち麻布あざぶ海洋かいよう少年しょうねんだんせて日本にっぽん半周はんしゅうだい補給ほきゅう航海こうかいおこなった[注釈ちゅうしゃく 35]

船長せんちょう

編集へんしゅう
  • 吉井よしい三郎さぶろう:1949ねん12月12にち-1951ねん2がつ[169]だいじゅうはちにちただしまるから[169]
  • 鈴木すずき正雄まさお:1951ねん2がつ-1953ねん7がつ[169]
  • 小方おがたのぞむ:1953ねん7がつ-1954ねん2がつ[169]
  • 松原まつばら周吉しゅうきち1954ねん2がつ-1955ねん12月24にち[169]

南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや SÔYA(PL107)

編集へんしゅう
 
南極なんきょくへの航路こうろ
選定せんていから改造かいぞう

1957ねん昭和しょうわ32ねん)7がつ1にちから1958ねん昭和しょうわ33ねん)12月31にち開催かいさいされる国際こくさい地球ちきゅう観測かんそくねん(International Geophysical Year、略称りゃくしょう:IGY)にあわせて、日本にっぽん南極なんきょく観測かんそくおこなうことにし、1955ねん昭和しょうわ30ねん)7がつ開催かいさいされただい1かい南極なんきょく会議かいぎ文書ぶんしょ南極なんきょく観測かんそく参加さんか意志いしつたえた。それにともない、砕氷さいひょうせん必要ひつようとなった。候補こうほとして宗谷そうやとともに国鉄こくてつ宗谷そうやまるなどが選定せんていされる。砕氷さいひょう能力のうりょく船体せんたいのキャパシティは宗谷そうやまるのほうがっていたが、改造かいぞう予算よさん問題もんだいたいごおり構造こうぞう[注釈ちゅうしゃく 36]ふねうんつよ魚雷ぎょらい被弾ひだんするも不発ふはつだんとう船齢せんれいとう結果けっか最終さいしゅうてき宗谷そうや選定せんていされた。

1955ねん11月24にち-12月12にちには、三菱みつびし日本にっぽん重工じゅうこう横浜よこはま造船ぞうせんしょのドックでそう点検てんけん実施じっしされた。12月24にち灯台とうだい補給ほきゅうせんとしての解任かいにんしきおこなわれ、同日どうじつをもって巡視じゅんしせん(PL107)へ種別しゅべつ変更へんこうされた[注釈ちゅうしゃく 37]一般いっぱんてき南極なんきょく観測かんそくせんとしてられる本船ほんせんだが、海上保安庁かいじょうほあんちょうでのあつかいは大型おおがた巡視じゅんしせんだった。12月28にち海上保安庁かいじょうほあんちょう船舶せんぱく技術ぎじゅつは2400馬力ばりきしゅ機関きかんを2新潟鉄工所にいがたてっこうじょ発注はっちゅうした。

1956ねん昭和しょうわ31ねん)1がつ23にち宗谷そうや改造かいぞうおよび運航うんこうかんする業務ぎょうむ円滑えんかつ実施じっしするため、海上保安庁かいじょうほあんちょうない南極なんきょく調査ちょうさせん宗谷そうや整備せいび委員いいんかい設置せっちした。また本格ほんかくてき砕氷さいひょうせんへの改造かいぞうは、日本にっぽんにとってはつ経験けいけんであったので、内外ないがい資料しりょうにより調査ちょうさ研究けんきゅうおこなった。1月31にち、さらに慎重しんちょうするため、海上保安庁かいじょうほあんちょうない宗谷そうや設計せっけい審議しんぎかい設置せっちし、造船ぞうせんがくしょく経験けいけんしゃ委員いいんゆだねぞくした[170]。2月13にち適格てきかく造船ぞうせんしょじゅうしゃ指名しめいして入札にゅうさつをおこなったが不調ふちょうわり、よく2がつ14にちさい入札にゅうさつ不成立ふせいりつわったが、最低さいてい入札にゅうさつだった日本にっぽん鋼管こうかんげんジャパン マリンユナイテッド浅野あさの船渠せんきょ随意ずいい契約けいやくかたち改造かいぞう工事こうじ依頼いらいすることになった。しかし修理しゅうり専門せんもんとする浅野あさの船渠せんきょでは詳細しょうさい図面ずめん作成さくせいはできなかったことから、海上保安庁かいじょうほあんちょう船舶せんぱく技術ぎじゅつ部長ぶちょう水品みずしな政雄まさおは、船舶せんぱく設計せっけい協会きょうかい常務じょうむ理事りじ牧野まきのしげる詳細しょうさい図面ずめん作成さくせい依頼いらいした。

3月12にち日本にっぽん鋼管こうかん浅野あさの船渠せんきょ海上保安庁かいじょうほあんちょう船舶せんぱく技術ぎじゅつ徳永とくなが陽一よういちろう監督かんとくかんとし、南極なんきょく観測かんそくせんへの改造かいぞう工事こうじ着手ちゃくしゅ[注釈ちゅうしゃく 38]造船ぞうせんしょ以外いがいからもあつまった職人しょくにんたち意地いじとプライドをけて突貫とっかん工事こうじはじめた。一方いっぽう独自どくじしん技術ぎじゅつしていたかく企業きぎょうぜん454しゃ[171]しげもなく資材しざい提供ていきょうし、10月17にち竣工しゅんこうした[注釈ちゅうしゃく 39][注釈ちゅうしゃく 40]

宗谷そうや以下いかのような改造かいぞうけた。船首せんしゅはアメリカのウィンドきゅう砕氷さいひょうかん参考さんこうに、あつさ25mmのキルド鋼板こうはんせいで、喫水線きっすいせんたいし27傾斜けいしゃかくゆうするしん船首せんしゅ改造かいぞうする。これにより1mの砕氷さいひょう能力のうりょく[172]復原ふくげん能力のうりょく大幅おおはば強化きょうか[注釈ちゅうしゃく 41]、デリックブームの新規しんき交換こうかんレイセオンしゃせい観測かんそくよう/航海こうかいよう40マイル大型おおがたレーダーおよ見張みはりしょ新設しんせつ[4]船体せんたいしょく巡視じゅんしせんしろからアラートオレンジに塗装とそう蒸気じょうき機関きかんからディーゼル機関きかん22じくへのかわそうおこなう。これにより航続こうぞく距離きょりが8ノット4080海里かいりから、12.5ノット14950海里かいりおおきく延伸えんしんした。ファンネルかわそう、11m大発だいはつがた救命きゅうめいていふく作業さぎょうてい4せきおよびダビットをかわそう[4]宇宙うちゅうせん観測かんそくしつ新設しんせつ後部こうぶマストをもんがたかわそう居住きょじゅうかわそうかじかわそう、ヘリコプター発着はっちゃく飛行ひこう甲板かんぱん新設しんせつ、ヘリコプター格納庫かくのうこ新設しんせつ、バルジタンクの新設しんせつ、ベル47Gがたヘリコプター2搭載とうさい、セスナ180がた1搭載とうさい、ビルジキール撤去てっきょ、QCU-2がたソナー、音響おんきょうはかさがせ最新さいしんものさい装備そうび。まだ護衛ごえいかんなどでもヘリの搭載とうさいれいく、戦後せんご日本にっぽん艦船かんせんとしては最初さいしょ本格ほんかくてき回転かいてんつばさ搭載とうさい実現じつげんした

だい1観測かんそく(1956ねん11月8にち-1957ねん4がつ24にち)
 
だい1観測かんそく出発しゅっぱつ前夜ぜんや宗谷そうや

初代しょだい南極なんきょく観測かんそくせんとして、東京水産大学とうきょうすいさんだいがくげん東京とうきょう海洋かいよう大学だいがく)のうみたかまるせい(1.452t)を随伴ずいはんせんしたがえ、[注釈ちゅうしゃく 42]1956ねん11月8にち東京とうきょう晴海はるみ埠頭ふとうの1まんにん以上いじょうだい群衆ぐんしゅう島居しまい辰次郎たつじろう海上かいじょう保安ほあん長官ちょうかん乗組のりくみいん観測かんそく隊員たいいん家族かぞくらをせた巡視じゅんしせん「むろと」(PL-03)、「げんかい」(PM-07)、「つがる」(PL-105)[174]見送みおくられ、宗谷そうや永田ながた隊長たいちょう西堀にしぼり越冬えっとう隊長たいちょう以下いかだい1南極なんきょく観測かんそく隊員たいいん51めい松本まつもと船長せんちょう以下いか乗組のりくみいん76めい樺太からふといぬ22とう(オスけん20とう・メスけん2とう)、ねこ1ひき、カナリア2せ、南極なんきょく出港しゅっこうした[175]
11にち巡視じゅんしせんおおよどが接近せっきん挨拶あいさつわす[176]戦艦せんかん大和やまと沈没ちんぼつ地点ちてんにて花束はなたば献花けんか、14にち早朝そうちょうルソン島るそんとうおきにて花束はなたば献花けんか翌日よくじつフィリピン洋上ようじょう台風たいふう19ごう遭遇そうぐう、16にち台風たいふう20ごう発生はっせいし、ふたつの台風たいふうにはさまれた宗谷そうやよこれが40にもたっしそれをなんとかけたがセスナ機せすなきのさちかぜが損傷そんしょうした。20日はつか松本まつもと船長せんちょう出港しゅっこうまえたずねてきたもと士官しかんの「戦時せんじちゅう宗谷そうやしずまなかったのは艦内かんない宗谷そうや神社じんじゃのおかげ」とアドバイスされたことをおもし「宗谷そうや神社じんじゃ」を復活ふっかつさせた[注釈ちゅうしゃく 43][注釈ちゅうしゃく 44]。この船内せんない神社じんじゃ海上保安庁かいじょうほあんちょうはじまって以来いらい最初さいしょ誕生たんじょうした船内せんない神社じんじゃとなった[178]。23にちシンガポールに到着とうちゃく、さちかぜの修理しゅうり補給ほきゅうおこなった。28にちシンガポールを出港しゅっこう。12月1にち赤道せきどう通過つうか甲板かんぱんじょう赤道祭せきどうさいおこなわれた[注釈ちゅうしゃく 45]。12月5にち、インド洋上ようじょうほうおう流星りゅうせいぐん遭遇そうぐう、この流星りゅうせいぐんはは彗星すいせいは100ねん以上いじょう行方ゆくえ不明ふめいだったブランペイン彗星すいせいであることが2005ねん判明はんめいした。

12月19にち、ケープタウン入港にゅうこううみたかまる合流ごうりゅう20日はつか-25にち船内せんない一般いっぱん公開こうかいをおこない5日間にちかんで7,000にん以上いじょうひと見学けんがくにおとずれた。24-25にち元旦がんたん暴風ぼうふうけん最中さいちゅうでゆっくりできないので、こう甲板かんぱん模擬もぎてんとクリスマスツリーをもうけケープタウンの人々ひとびととともに盛大せいだいいわった[179]。25にち午後ごご6時半じはんソ連それん観測かんそくせんコオペラツィアごう(3850t)が入港にゅうこうし、午後ごご9ソ連それん観測かんそくたい隊長たいちょう以下いか5めい交歓こうかんのため宗谷そうやせんした[注釈ちゅうしゃく 46]。29にち大阪おおさか商船しょうせんぶえのすあいれすまる」に見送みおくられケープタウンを出港しゅっこう。1957ねん1がつ3にちうみたかまるからアメリカ観測かんそくたいのアネーブごう(12.700t)がアデアみさき沖合おきあい氷山ひょうざんにはさまれ、浸水しんすいしプロペラが脱出だっしゅつ困難こんなんとの報告ほうこくける[181]。4にち暴風ぼうふうけんとおけて最初さいしょ氷山ひょうざん遭遇そうぐう。7にち宗谷そうや偵察ていさつにベル47Gがたヘリコプターをばした。このヘリコプターは日本航空にほんこうくう史上しじょうはつ南極なんきょくんだ航空機こうくうきとなった。10日とおか、パックアイスえん到着とうちゃくうみたかまるから航空機こうくうき燃料ねんりょうりのドラム缶どらむかん47ほんり、ここでうみたかまるわか宗谷そうやはパックアイスに進入しんにゅうしていった。16にち偵察ていさつたさちかぜごうがプリンスオラフ海岸かいがん沿ってつづ細長ほそながひらき水域すいいき発見はっけん。このひらけ水域すいいきは「利根とね水路すいろ」と名付なづけられ宗谷そうやはこの水路すいろけてすすんでいった[注釈ちゅうしゃく 47]

1957ねん昭和しょうわ32ねん1がつ24にち南緯なんい6900ふん22びょう東経とうけい3935ふん24びょうオングルとうプリンスハラルド海岸かいがん接岸せつがん[183]1がつ29にち公式こうしき上陸じょうりくだい1南極なんきょく地域ちいき観測かんそくたい昭和しょうわ基地きち開設かいせつ宗谷そうやがプリンスハラルドに接岸せつがんあいだ、「プリンスハラルド宗谷そうや船内せんない郵便ゆうびんきょく」が船内せんないかれた[184]。2月13にちオングルとうきたにある小島こじまに「宗谷そうや神社じんじゃ」をぶんまつしこの小島こじまを「宗谷そうやとう」と命名めいめいした[185]。14にち、このまで151tの氷上ひかみ輸送ゆそう成功せいこう。15にち越冬えっとう隊員たいいん見送みおくられはなれがんしたが、翌日よくじつ天候てんこう悪化あっかごおりめられた。28にち早朝そうちょう天候てんこう回復かいふくしビセット状態じょうたいから解放かいほうされ、外洋がいようけて砕氷さいひょう再開さいかい午後ごご2氷原ひょうげんなかあいだてんにてうみたかまる誘導ゆうどう救援きゅうえん到着とうちゃくしたソ連それん砕氷さいひょうせんオビごう全長ぜんちょう130m、排水はいすいりょう7.500t、満載まんさい排水はいすいりょう12.600t、8.000馬力ばりき)と会合かいごう。オビの航跡こうせき午後ごご11外洋がいようへの脱出だっしゅつ成功せいこうかいたかまる合流ごうりゅう。オビごうとケープタウンで約束やくそくをしたのちオビごうわか帰路きろについた。
3月4にち、ケープタウンおき暴風ぼうふうけん宗谷そうや最高さいこうへんふなばた69およよこれに見舞みまわれた[186]がこれを見事みごと[187]、3がつ10日とおかケープタウンに寄港きこう。13にちオビごう寄港きこう両船りょうせん船長せんちょう隊長たいちょう相互そうご訪問ほうもんおこな祝宴しゅくえんひらかれた。またオビのソ連それん科学かがくしゃ宗谷そうや日本にっぽん科学かがくしゃにおいて科学かがく情報じょうほう意見いけん交換こうかんがおこなわれた。3月15にち永田ながた隊長たいちょう山本やまもと航海こうかいちょう南極なんきょく本部ほんぶ命令めいれいにより空路くうろ帰国きこくし、宗谷そうやもケープタウンをった。4月5-13にちまでシンガポールに寄港きこう台湾たいわんおき経由けいゆし。うみたかまるはコロンボと香港ほんこん経由けいゆし、21にち鹿児島かごしまおきにて鳥居とりい長官ちょうかんせた巡視じゅんしせんさつま(PL-105)と会合かいごう[188]。23にち午後ごご9宗谷そうやうみたかまる羽田はたおきにて合流ごうりゅう。4月24にちりくうみそらをうめつくす大観たいかんしゅむかえられ東京とうきょう桟橋さんばし帰港きこうした[189]

だい2観測かんそく(1957ねん10がつ21にち-1958ねん4がつ28にち)
 
南極なんきょく地域ちいき観測かんそく50周年しゅうねん記念きねん500えん硬貨こうか。タロとジロのこうがわ宗谷そうやがいる。
 
だい2改装かいそうえた宗谷そうや
 
だい2観測かんそく出発しゅっぱつ直前ちょくぜん宗谷そうや

南極なんきょく本部ほんぶだい1行動こうどうにおける輸送ゆそう氷海ひょうかい航行こうこう経験けいけんをかんがみ、だい2にそなえ宗谷そうやさい使用しよう可決かけつ早急そうきゅう決定けっていする必要ひつようがあったため、永田ながた隊長たいちょう山本やまもと航海こうかいちょう空路くうろ帰国きこくさせ詳細しょうさい報告ほうこくけた[190]。これにもとづき種々しゅじゅ検討けんとう結果けっか宗谷そうやより砕氷さいひょう能力のうりょくたか船舶せんぱく使用しようすることがのぞましいが、内外ないがいともにてきせん見込みこみがないので宗谷そうや砕氷さいひょう能力のうりょくその性能せいのう改善かいぜん実施じっしして使用しようすることがまった。また随伴ずいはんせん必要ひつようないことがまり、宗谷そうや単独たんどく航海こうかいとなった。4月28にち東京とうきょう桟橋さんばしにて一般いっぱん公開こうかいのち、5月2にち横浜よこはま浅野あさのドックに回航かいこう工事こうじ開始かいし。6月1にち宗谷そうや運用うんよう円滑えんかつにするためだい3管区かんく東京とうきょう海上かいじょう保安ほあんから海上保安庁かいじょうほあんちょう警備けいび救難きゅうなん配属はいぞくえした[191]

だい1反省はんせいまえ特製とくせいビルジキールを装着そうちゃく水上すいじょうをデ・ハビランド・カナダ DHC-2の昭和しょうわごうかわそう砕氷さいひょう能力のうりょくを1.2mにたかめ、積載せきさいりょう500tに増大ぞうだい海洋かいよう観測かんそくおよ極地きょくち航海こうかいのため10000mのきょく深海しんかいよう音響おんきょう測深そくしんをソナーしつ装備そうび舷側げんそくこおり状態じょうたい確認かくにんするため30cm探照灯たんしょうとう2つと投光器とうこうき8増設ぞうせつ[192]暴風ぼうふうけんでの姿勢しせい安定あんていのため常備じょうびするなどの改善かいぜんおこなった。10月9にち東京とうきょうこう埠桟きょう接岸せつがんしていた宗谷そうや高松宮たかまつのみや夫妻ふさい見学けんがく[193]した。だいいち経験けいけんもと出港しゅっこうを10月21にちげたものの、このとし南極なんきょく気象きしょう状態じょうたいはきわめてわるく、宗谷そうや以外いがいにも各国かっこく砕氷さいひょうせんこおりめられた [注釈ちゅうしゃく 48]。このとき救援きゅうえんたず脱出だっしゅつ成功せいこうしたが、1958ねん2がつ1にちにはみつぐんごおり航行こうこうちゅうひだりスクリュー・プロペラ1まい折損せっそんした。6にち、46にちぶりに外洋がいよう脱出だっしゅつ成功せいこうし、7にち、アメリカ海軍かいぐんのウィンドきゅう砕氷さいひょうかんバートン・アイランドごう会合かいごう支援しえんけて8にちみつぐんごおり突入とつにゅうしたが、その午後ごご3時半じはん誘導ゆうどうしていたバートン・アイランドごうのベルがたヘリコプターが不時着ふじちゃく救出きゅうしゅつ活動かつどうはいって進入しんにゅうをやめ、ここから昭和しょうわごうばすことになった。11にち、6便びんかれて1越冬えっとうたい11めいははけんシロ子犬こいぬ8ひきゆうさんもうねこタケシ、カナリア2宗谷そうやせん[195]。12にち、2たい隊員たいいん3めい昭和しょうわ基地きち到着とうちゃく。13にち天候てんこう悪化あっかにより空輸くうゆ困難こんなんとなった。同日どうじつ船長せんちょう航海こうかい機関きかんちょう操舵そうだしゅらが宗谷そうや前方ぜんぽう300メートルくらいのところ大型おおがた確認かくにん動物どうぶつ目撃もくげき、それは30びょうくらいえていたが機関きかんちょうがカメラをって船橋ふなばしもどってときにはえなくなっていたので写真しゃしん撮影さつえいすることはできなかった。当時とうじ船長せんちょうであった松本まつもとみつる自著じちょにて南極なんきょくゴジラ記述きじゅつした。14にちれのあいだをみて昭和しょうわごうばし2たい隊員たいいん3めい収容しゅうよう、これ以降いこう天候てんこう悪化あっか、15にち、バートン・アイランドごう砕氷さいひょう航行こうこうちゅうこおりばんうごけなくなってしまい宗谷そうやがロープでったがロープがれてしまった。16にち、バごうがわこおりばん爆破ばくはしてけだすことに成功せいこう。2月17にち外洋がいよう脱出だっしゅつし18にちみつぐんごおりさい進入しんにゅう昭和しょうわごう発進はっしんさせられそうな水路すいろ氷山ひょうざんさがしたがつからず、19にち風速ふうそく30メートルをえる吹雪ふぶきにより探照灯たんしょうとう電話でんわアンテナがもぎられた。2月24にち南極なんきょく本部ほんぶよりだい越冬えっとうほん観測かんそく放棄ほうきせよとの命令めいれいくだ計画けいかく断念だんねん帰途きとについた。これがタロとジロ物語ものがたりにつながる。

3月7-13にち、ケープタウン寄港きこう潜水せんすい作業さぎょうおこない、損傷そんしょう箇所かしょ調査ちょうさしたが応急おうきゅう修理しゅうりようしないことが確認かくにんされた[196]。4月7-15にち、シンガポール寄港きこう。4月28にち桟橋さんばし帰港きこうだい2南極なんきょく観測かんそく行動こうどう終了しゅうりょう

だい3観測かんそく(1958ねん11月12にち-1959ねん4がつ13にち)

だい2観測かんそく終了しゅうりょう斉藤さいとう主計かずえちょうがケープタウンで購入こうにゅうしたシルバーリーフ5はち昭和しょうわ天皇てんのう献上けんじょうされることがまった[197]。5月3-5にち桟橋さんばしにて一般いっぱん公開こうかい開催かいさい桟橋さんばしから浜松町はままつちょうえきまで行列ぎょうれつができた[198]。7にち映画えいがぶっつけ本番ほんばんのロケをおこなったのち横浜よこはまこうけて出港しゅっこう。8にち横浜よこはまこう開港かいこうひゃくねんさいにて帆船はんせん海王かいおうまる (初代しょだい)とも一般いっぱん公開こうかいをおこなった[199]
だい2観測かんそく失敗しっぱい経験けいけんだい3観測かんそくでは雪上せつじょうしゃによる輸送ゆそう体勢たいせいから大型おおがたヘリコプターによる空輸くうゆ主体しゅたいとすることに方針ほうしん転換てんかんし、3かいわた航空こうくう輸送ゆそう会議かいぎ結果けっか輸送ゆそうよう大型おおがたヘリコプターの候補こうほとしてシコルスキーS58がたとバートル44がたの2しゅ選定せんていされ[200]両機りょうきとも性能せいのうじょうから甲乙こうおつはなく、海上保安庁かいじょうほあんちょう審議しんぎ結果けっか機種きしゅ選定せんていについては次長じちょう、警救かん11めい選定せんてい調査官ちょうさかんとなり、バートル44は5月29にちべいぐん昭和しょうわ基地きちにて試乗しじょう調査ちょうさをおこない、シコルスキーS58は6がつ3日米にちべいぐん追浜おっぱまヘリポートにて機体きたい性能せいのう装備そうび品等ひんとう説明せつめいけ、公開こうかい飛行ひこう見学けんがくした。この報告ほうこくけた鳥居とりい長官ちょうかんは6がつ8にち海上保安庁かいじょうほあんちょう幹部かんぶによるごうかいおこない、バートル44は発注はっちゅう生産せいさんであり事前じぜん訓練くんれん最少さいしょう2かげつようすることが必要ひつようとなり見送みおくられ、シコルスキーS58は海上かいじょう自衛隊じえいたいたいせん哨戒しょうかいとして20すう量産りょうさんちゅうでありこのなかからくことにし、海上保安庁かいじょうほあんちょう就役しゅうえきちゅうのシコルスキーS55で訓練くんれんできると判断はんだんされ、シコルスキーS58の採用さいようまり、10月11にち宗谷そうや搭載とうさいされ27にちまで訓練くんれんおこなった[注釈ちゅうしゃく 49][201]

だい3改装かいそうでは大型おおがたヘリ発着はっちゃく甲板かんぱん従来じゅうらいのヘリ甲板かんぱんうえ増設ぞうせつし、小型こがたヘリ格納庫かくのうこ撤去てっきょ航空機こうくうきガソリンタンク新設しんせつ航空こうくう司令しれいしつ増設ぞうせつ、ヘリコプター吊上つるしあようのクレーン増設ぞうせつとうの、ヘリコプター運用うんようとくした航空こうくう母船ぼせんしきだい改装かいそうされ[202]世界せかいではじめての砕氷さいひょう航空機こうくうき母船ぼせんとなった[203][204]偵察ていさつようベル47G2[注釈ちゅうしゃく 50]シコルスキーS58かた2[注釈ちゅうしゃく 51]測地そくちようDHC-2ビーバー1搭載とうさいした宗谷そうや乗組のりくみいん観測かんそくいんからヘリ空母くうぼ、ミニ空母くうぼばれていた。大型おおがたヘリコプターによる人員じんいん物資ぶっし資材しざい基地きちまで空輸くうゆするという、前例ぜんれい輸送ゆそう方法ほうほうだった。また生物せいぶつ実験じっけんしつ化学かがく分析ぶんせきしつ新設しんせつ地磁気ちじき極光きょっこう夜光やこう電離層でんりそう宇宙うちゅうせん海象せいうちこおりぞう気象きしょうとう船上せんじょう観測かんそく設備せつび一新いっしんされ、観測かんそく能力のうりょく大幅おおはば強化きょうかされた[205]島居しまい辰次郎たつじろう長官ちょうかんは「この空母くうぼがた改造かいぞう船体せんたいの8わりあまりもその原型げんけいをとどめず、改造かいぞうすることになった」とかたった[206]

1958ねん10がつ27にち東京とうきょうこう桟橋さんばし船内せんないと201号機ごうき着船ちゃくせん訓練くんれん当時とうじ皇太子こうたいしせいじん親王しんのう見学けんがく[207]。11月12にち松本まつもと船長せんちょう以下いか92めい乗組のりくみいん永田ながた隊長たいちょう村山むらやま越冬えっとう隊長たいちょう以下いか36めい観測かんそく隊員たいいん樺太からふとけん子犬こいぬ3とう [注釈ちゅうしゃく 52]せて東京とうきょう桟橋さんばし出港しゅっこう[注釈ちゅうしゃく 53]。12月19にち、ケープタウンに入港にゅうこうよく20にちはつ外国がいこくじんオブザーバー、D.J.メロイ[注釈ちゅうしゃく 54]乗船じょうせん

1959ねん昭和しょうわ34ねん)1がつ14にち午前ごぜん815ふん宗谷そうや水平すいへいせんじょうグリーンフラッシュ現象げんしょうあらわれるなか、昭和しょうわ基地きちからやく163kmの地点ちてん空輸くうゆ拠点きょてんさだごおりばん横付よこづけし、こおりばんにヘリポートを設置せっち午後ごご138ふん、S58がた201ごう発進はっしんした。だいいち便びんのヘリが昭和しょうわ基地きち上空じょうくうはしまわくまのようにおおきないぬ2とう発見はっけん午後ごご1015ふんだい便びんのヘリで到着とうちゃくしただい1越冬えっとうたいいぬがかりだった北村きたむら泰一やすいちが2とういぬをタロとジロと確認かくにん

1959ねん2がつ1にち宗谷そうやから昭和しょうわ基地きち輸送ゆそうした物資ぶっしは57tにたっし、だい3南極なんきょく観測かんそくたい隊長たいちょう永田ながたたけしは、だい3越冬えっとうたい成立せいりつ宣言せんげんする。そして、かこまれていたこおり爆破ばくはすると宗谷そうやはなれがんした。2月3にち宗谷そうやこおりかこまれて身動みうごきがとれなくなったベルギーたいのポーラーハブごう(600t、1200馬力ばりき)を救出きゅうしゅつにあたるためリュツォ・ホルムわん待機たいきする。だい3南極なんきょく観測かんそくたい宗谷そうや待機たいきちゅうにプリンスハラルド海岸かいがん測量そくりょうおこない、昭和しょうわ基地きちへの追加ついか輸送ゆそうおこなった。2月4にち、ポーラーハブごうから「状況じょうきょう好転こうてんした」との連絡れんらくけたのち宗谷そうやは2がつ12にちまでプリンスオラフ海岸かいがんおき海洋かいようおよび海底かいてい地質ちしつ調査ちょうさおこない13にち任務にんむえて帰路きろについた[209]

1959ねん1がつ14にち-2がつ3にちの20日間にちかんに58便びん輸送ゆそうおこない、村山むらやま雅美まさみ越冬えっとう隊長たいちょう以下いか14めい越冬えっとう隊員たいいんおよ資材しざい57tの空輸くうゆ成功せいこうした[210]悪天候あくてんこう飛行ひこう強行きょうこうした場面ばめんおお航空こうくうかい常識じょうしきをもっては想像そうぞうできない飛行ひこう敢行かんこう結果けっか大型おおがたヘリコプターによる57tの空輸くうゆ実績じっせき当初とうしょ計画けいかくの2ばい以上いじょう成果せいか[211]各国かっこく(とくにアメリカとソ連それん)もおおいに注目ちゅうもくした。この空輸くうゆ基本きほんとした体制たいせい後継こうけいかんのふじ、しらせにもがれることになる。

2がつ23にち、ケープタウンに入港にゅうこう。3月3にち、D.J.メロイが下船げせんし、ケープタウン出航しゅっこう。4月13にち東京とうきょう桟橋さんばし帰港きこうだい3南極なんきょく観測かんそく行動こうどう完了かんりょうした。

だい4観測かんそく(1959ねん10がつ31にち-1960ねん4がつ23にち)

だい3における空輸くうゆ経験けいけんから越冬えっとう観測かんそく必要ひつよう物資ぶっし輸送ゆそう昭和しょうわごうによる航空こうくう測量そくりょう並行へいこう実施じっしすることはきわめて困難こんなんであるとの意見いけん海上保安庁かいじょうほあんちょうから提出ていしゅつされ、検討けんとう結果けっか航空こうくう観測かんそく越冬えっとう終了しゅうりょうのさいに実施じっしされることになり、だい4観測かんそくから昭和しょうわごう携行けいこうしないことになった。だい3観測かんそく経験けいけんまえ、航空こうくう関連かんれんけた明田あけたまついちろう船長せんちょう就任しゅうにん宗谷そうや航空機こうくうき指揮しき一元化いちげんかおよ航空こうくう通信つうしん強化きょうかするため船橋ふなばし海図かいずしつ後部こうぶ航空こうくう司令しれいしつ新設しんせつ後部こうぶマストに吊上つりあ装置そうち新設しんせつひかりたち距離きょり40キロの航空こうくう標識ひょうしきとう新設しんせつ、S58は降着こうちゃく装置そうち水陸すいりく両用りょうようがたから陸上りくじょうがた交換こうかんなどの改装かいそうをおこなった[212]

1959ねん10がつ31にち明田あけたしん船長せんちょう以下いか94めい乗組のりくみいん立見たちみしん隊長たいちょう以下いか36めい観測かんそく隊員たいいんせて、灯台とうだい補給ほきゅうせん若草わかくさ巡視じゅんしせんむつき、げんかいとう見送みおくられ、桟橋さんばし出港しゅっこう。11月12にち、シンガポール入港にゅうこう。18にち出港しゅっこう20日はつか南極なんきょく観測かんそく本部ほんぶソ連それん昭和しょうわ基地きち航空機こうくうき基地きち連絡れんらく中継ちゅうけいとして利用りようすることを許可きょかした。そのだい4観測かんそく隊員たいいんはオビごうがわ共同きょうどう接岸せつがん申込もうしこみオビごうがわはそれに同意どういした。12月11にち、ケープタウン入港にゅうこう。14にち、ベルギーたいからグリーンランド・ハスキーの子犬こいぬをプレゼントされた。22-29にち、オビごうとの連絡れんらくい、合流ごうりゅうは1がつ1にちとなった。1960ねん1がつ1にち、オビごう合流ごうりゅう。2にち昭和しょうわ基地きちから43マイルの位置いちから輸送ゆそう開始かいし。このよる明田あけた船長せんちょう立見たちみ隊長たいちょうはオビごう訪問ほうもんして会談かいだん結果けっか、5にちごろ当地とうちをはなれることになった。

3にち午後ごご宗谷そうやとオビごう乗組のりくみいんとの親善しんぜんバレーボール大会たいかい開催かいさい。4にち午後ごご8、オビごうドピーニン船長せんちょういちぎょう来訪らいほう、オビごう滞在たいざい期間きかん延長えんちょう決定けってい。7にち、オビごうわかだい1空輸くうゆ終了しゅうりょうとなった。この時点じてんでの輸送ゆそうりょう天候てんこうめぐまれたこととオビごう協力きょうりょくもあってだい3輸送ゆそうりょうの57tを上回うわまわる77tにたっした。16にち-18にちだい2空輸くうゆ村山むらやまぜん越冬えっとう隊長たいちょうふくむ8めい隊員たいいん収容しゅうよう。その海洋かいよう観測かんそくをしつつ輸送ゆそうおこない、2がつ6にちまで103便びん126t、雪上せつじょうしゃによる輸送ゆそう28tふくめると総計そうけい154tの輸送ゆそう成功せいこうした[213]。1960ねん4がつ16にち沖縄おきなわからの要請ようせいだい4観測かんそく帰途きと入港にゅうこうだい歓迎かんげいけた[214]。17にち船内せんない一般いっぱん公開こうかい、18にち夕刻ゆうこく那覇なはこう出港しゅっこう。4月23にち東京とうきょう桟橋さんばし帰港きこうだい4南極なんきょく観測かんそく行動こうどう完了かんりょうした[215]

だい5観測かんそく(1960ねん11月12にち-1961ねん5がつ4にち)

宗谷そうや老朽ろうきゅう海上保安庁かいじょうほあんちょうでのパイロット不足ふそくにより通常つうじょう業務ぎょうむ支障ししょうをきたす事態じたいになり南極なんきょく観測かんそくだい6ることがきまった。5月3にち故障こしょうして飛行ひこうできなくなったS58がた202号機ごうき名古屋なごや修理しゅうり工場こうじょう輸送ゆそうすることになり東京とうきょう出港しゅっこう、4にち名古屋なごやこう回航かいこうして航空機こうくうき陸揚りくあげしたのち一般いっぱん公開こうかいおこなって7にち東京とうきょう帰投きとう。14にち東京とうきょうわんにて海上保安庁かいじょうほあんちょう観閲かんえつしき観閲かんえつせんとして参加さんかして、16にち浅野あさのドックに回航かいこう、ただちに調査ちょうさ工事こうじ開始かいしされた。宗谷そうや帰国きこくすることがまったタロよう冷房れいぼうきの小屋こや新設しんせつ、スペクタルフレームに亀裂きれつ発見はっけんされたのでしんえ、船橋ふなばし甲板かんぱんはり補強ほきょう、プロペラにこおりたったとき応力おうりょく測定そくていをするトルクメーターの設置せっち船体せんたいのリベット1400ほんなおとう整備せいび改装かいそうをおこない9がつ30にち完工かんこうした[216]

1960ねん9がつ16にちだい5観測かんそくそなしん三菱重工みつびしじゅうこうにて整備せいびちゅうのS58がた202号機ごうき試験しけんちゅう横転おうてん大破たいはした。この事故じこのため出港しゅっこうが1週間しゅうかんおくれ、海上かいじょう自衛隊じえいたいからHSS-1たいせんヘリを緊急きんきゅう借用しゃくようし203号機ごうきとして使用しようすることになった。そのさい海上かいじょう自衛隊じえいたいからたわらりょうどおり中尉ちゅういがパイロットとして海上保安庁かいじょうほあんちょう出向しゅっこうした。1960ねん11月12にち午前ごぜん1050ふん桟橋さんばし出港しゅっこう。24にち、シンガポール入港にゅうこう新鮮しんせん野菜やさい果物くだもの調達ちょうたつし、30にち出港しゅっこうインド洋いんどよう航海こうかいちゅう観測かんそく隊員たいいん一人ひとり虫垂炎ちゅうすいえんにかかり船内せんない手術しゅじゅつおこなわれた。12月8にちインド洋いんどようにてマグロ漁船ぎょせんだいはちだいあさまる」からインドマグロをもらった。宗谷そうやからもおれいしなおくわかれた。22にち、ケープタウン入港にゅうこう燃料ねんりょう食料しょくりょう補給ほきゅう、オブザーバーのウォルター.L.ボクセルが乗船じょうせん。28にち出港しゅっこう

1961ねん1がつ7にち流氷りゅうひょういき到着とうちゃく。9にち、ベル106号機ごうきによる氷上ひかみ偵察ていさつ結果けっかこれ以上いじょう進入しんにゅう困難こんなん判断はんだんちかくのこおりばん横付よこづけし、氷上ひかみヘリポートを設置せっち空輸くうゆ拠点きょてんとした。昭和しょうわ基地きちまで51マイルの地点ちてんであった。13にち天候てんこう悪化あっかによりヘリポートを撤収てっしゅうしてだい1空輸くうゆ終了しゅうりょう。16にち氷海ひょうかいをでて海洋かいよう観測かんそくおこなってたところ、天候てんこう安定あんていきざしがえたので、19にちふたた進入しんにゅう開始かいし20日はつかながさ70m、はば50m、あつさ8mのこおりばん横付よこづけし、ヘリポートを設置せっちして空輸くうゆ拠点きょてんとしだい2空輸くうゆ開始かいしした。同日どうじつ清水しみずタンクない浸水しんすい発生はっせいしていることが確認かくにんされたが宗谷そうやかくタンクあいだとうこまかく区画くかくされ、異常いじょうタンクない満水まんすい状態じょうたいになるとそれ以上いじょう浸水しんすいはなく行動こうどう問題もんだいはなかった[注釈ちゅうしゃく 55]。25にちこおりばん移動いどうによりだい2空輸くうゆ終了しゅうりょう。30にちだい3空輸くうゆ開始かいしして、2がつ4にち、タロが乗船じょうせんだい5越冬えっとうたい必要ひつよう資材しざいとうすべての空輸くうゆ終了しゅうりょう繋留けいりゅうしていたこおりばんはな外洋がいようかった。5にちだい4越冬えっとう隊員たいいん1人ひとり腹痛はらいたうった虫垂炎ちゅうすいえん診断しんだんされ、すぐに手術しゅじゅつとなった。7-10日とおか海洋かいよう観測かんそくとプリンスオラフ海岸かいがん調査ちょうさ飛行ひこう、15にち、アムンゼンわんでオビごうった。その3がつ2にちまで海洋かいよう観測かんそく地形ちけいこおりじょう調査ちょうさ大陸たいりく沿岸えんがん略図りゃくずをおこなった。3にち氷海ひょうかい氷海ひょうかい行動こうどう終了しゅうりょう同日どうじつ生物せいぶつ資源しげん調査ちょうさかんしモーリシャスとうに2はく3にち寄港きこう許可きょか外務省がいむしょうからおりた。7にち捕鯨ほげいせんだいさん極洋きょくようまる」の作業さぎょうていがやってきて、くじらにくとうをもらった。宗谷そうやからもおくものをし作業さぎょうていかえってった。14にち、ケープタウン入港にゅうこう20日はつか、ウォルター.L.ボクセルが下船げせんし、ケープタウン出港しゅっこう、モーリシャスにかった。31にちモーリシャスのポートルイスの岸壁がんぺき横付よこづけした。4月2にち、ポートルイス出港しゅっこう。16-21にちシンガポール寄港きこう、5月1にち九州きゅうしゅうおき巡視じゅんしせんさつまと会合かいごう南極なんきょくこおりはいったばこを2つおくった[218]。2にちしおみさきおきで巡視じゅんしせんくまのと会合かいごう[219]。4にち午前ごぜん1040ふん桟橋さんばし帰投きとうだい5南極なんきょく観測かんそく行動こうどう終了しゅうりょうした。そうこうほど24276海里かいり所要しょよう日数にっすう174にち[220]

だい6観測かんそく(1961ねん10がつ30にち-1962ねん4がつ17にち)

5月13にち海上保安庁かいじょうほあんちょう観閲かんえつしき観閲かんえつせんとして参加さんか南極なんきょく観測かんそく終了しゅうりょう北洋ほくよう警備けいび巡視じゅんしせんへの転身てんしんまった。26にち浅野あさのドックり。だい6観測かんそく目的もくてき昭和しょうわ基地きち閉鎖へいさだい5越冬えっとうたい収容しゅうようおよび、日本にっぽんたい担当たんとう区域くいきでまだ地図ちずのない東経とうけい35から45までの海岸かいがんせん航空こうくう写真しゃしん測量そくりょうおこなうことであり、航空こうくう測量そくりょうのためセスナ185を携行けいこうすることになった[注釈ちゅうしゃく 56][注釈ちゅうしゃく 57]本来ほんらいなら昭和しょうわごう航空こうくう測量そくりょう担当たんとうすることになっていたが昭和しょうわごうは1961ねん1がつ17にち北海道ほっかいどう千歳ちとせ飛行場ひこうじょうでの飛行ひこう訓練くんれん羽田はた航空こうくう基地きちへの帰還きかん最中さいちゅう釜石かまいしおき不時ふじ着水ちゃくすい沈没ちんぼつしていた。昨年さくねん大破たいはしたS58がた202号機ごうき復帰ふっき、203号機ごうき自衛隊じえいたい返還へんかんされた。

1961ねん10がつ30にち午前ごぜん1055ふん巡視じゅんしせんむろと、すみだとう見送みおくられ、桟橋さんばしから出港しゅっこう。11月2にち奄美あまみ大島おおしま通過つうか。4にちバシー海峡かいきょう、5にちバリタン海峡かいきょう、6にちルソン島るそんとうおき航行こうこう。11-16にち、シンガポール寄港きこう。12月8-16にち、ケープタウン寄港きこう。23にちこおりえん到着とうちゃく。ベル47G106号機ごうき組立くみたてから試験しけん飛行ひこう開始かいし。24-28にち氷上ひかみ調査ちょうさ実施じっし。29にち、202号機ごうき氷上ひかみ調査ちょうさおこないながら外洋がいようひがしこう。1962ねん1がつ5にち、「宗谷そうや周辺しゅうへん氷上ひかみ調査ちょうさ終了しゅうりょう氷海ひょうかい進入しんにゅう。6にち昭和しょうわ基地きちまで114マイルの地点ちてんから氷上ひかみヘリポートを作成さくせい空輸くうゆ開始かいし。7にち、201号機ごうきにより昭和しょうわ基地きちへのセスナ302号機ごうき胴体どうたいのスリング輸送ゆそう成功せいこう同日どうじつ202号機ごうきにより302号機ごうき主翼しゅよくがはいったコンテナのスリング輸送ゆそう成功せいこう。9にち、セスナ302号機ごうき組立くみたて完了かんりょう昭和しょうわ基地きち飛行場ひこうじょう整備せいび10日とおかだい1空輸くうゆ終了しゅうりょう航空機こうくうきの50あいだ整備せいび開始かいし。13にちだい2空輸くうゆ開始かいし昭和しょうわ基地きち派遣はけんちゅう隊員たいいん虫垂炎ちゅうすいえんうたがいで、202号機ごうき宗谷そうや緊急きんきゅう搬送はんそう。15にち、302号機ごうきによる航空こうくう写真しゃしん測量そくりょう開始かいし。18にちだい2空輸くうゆ終了しゅうりょう。24にち宗谷そうや付近ふきん天候てんこう悪化あっかによりこおりえんへの移動いどう開始かいし。26にち昭和しょうわ基地きち付近ふきん天候てんこう悪化あっかにより航空こうくう写真しゃしん測量そくりょう終了しゅうりょうし、302号機ごうき主翼しゅよくはずした。29にち昭和しょうわ基地きちにて201ごう、202号機ごうきの15あいだ整備せいび。2月1にちこおりえん到着とうちゃくしゅ機関きかん点検てんけんおこなったのちこおりえん沿ってひがしこう撤収てっしゅう開始かいし地点ちてんかった。2-5にち進入しんにゅう開始かいししたがこおりじょう悪化あっか。ヘリポート設営せつえい可能かのうこおりばんがなく漂泊ひょうはく。6にち宗谷そうや付近ふきん天候てんこう回復かいふくしたが、昭和しょうわ基地きち付近ふきん回復かいふくしないので、宗谷そうやながさ30m、はば25m、あつさ4mのこおりばんせっふなばた昭和しょうわ基地きちから70マイルの地点ちてんであった。その基地きち天候てんこう回復かいふく空輸くうゆ開始かいししたが、宗谷そうや付近ふきん断続だんぞくするゆきのため202号機ごうき着船ちゃくせんしたのみで中止ちゅうしとなった。7にち、302号機ごうき主翼しゅよくコンテナを離陸りりくしたところ、れがおおきくなり201号機ごうき機体きたい接触せっしょくしたので、基地きちから1マイルの氷上ひかみろし、同機どうき基地きちかえした。接触せっしょくした部分ぶぶん応急おうきゅう修理しゅうり飛行ひこう可能かのうとなった。

8にち船長せんちょう航空こうくうちょう協議きょうぎ結果けっか主翼しゅよく左右さゆうをそれぞれ切断せつだんし、201ごう、202号機ごうき機内きない収納しゅうのうして空輸くうゆすることになった。撤収てっしゅう8便びんで302号機ごうき切断せつだんしたかたつばさ整備せいびいん1めいが、最終さいしゅう便びんとなった9便びんで、かたつばさ村山むらやまだい5越冬えっとう隊長たいちょう吉川よしかわだい6隊長たいちょう宗谷そうや帰着きちゃくし、昭和しょうわ基地きち閉鎖へいさ大陸たいりく沿岸えんがん航空こうくう写真しゃしん測量そくりょう終了しゅうりょうした。9にち宗谷そうや外洋がいようにでてひがしこう、アムンゼンわんこおり調査ちょうさかった。16にち南極なんきょくようはなれ、ケープタウンに針路しんろをとった。26にち、ケープタウン、ビクトリアベーシンふとう停泊ていはく。3月6にち、ケープタウン出港しゅっこう。3月30にち-4がつ4にち、シンガポール寄港きこう。4月17にち桟橋さんばし帰投きとう。26にちぜん荷役にやく陸揚りくあげし、だい6南極なんきょく観測かんそく行動こうどう終了しゅうりょう南極なんきょく観測かんそくせんとしての役目やくめえた。そうこうほど23228海里かいり所要しょよう日数にっすう170にち[221]

宗谷そうや派遣はけん回数かいすうおな回数かいすう修理しゅうり改装かいそうかえし、通算つうさん6かい南極なんきょく観測かんそく任務にんむ遂行すいこうのような功績こうせきのこした。世界せかいはじめて電離層でんりそう船上せんじょう観測かんそく成功せいこう[222]南極なんきょく地域ちいきにおいて、着岸ちゃくがん不可能ふかのうといわれた前人未到ぜんじんみとうのプリンスオラフ海岸かいがんリュツォ・ホルムわんオングルとう着岸ちゃくがん昭和しょうわ基地きち建設けんせつ越冬えっとう観測かんそく実施じっし可能かのうにした[209]。プリンスオラフ海岸かいがん天測てんそくてん設置せっちして、シコルスキーS58により東経とうけい35から45までの航空こうくう写真しゃしん測量そくりょう実施じっし南極なんきょく地図ちず作成さくせい貢献こうけんした[209]東経とうけい33から51までの南極大陸なんきょくたいりく周辺しゅうへん海域かいいき海洋かいよう観測かんそく氷上ひかみ調査ちょうさ沿岸えんがん調査ちょうさ実施じっしし、1961ねん3がつ2にちには東経とうけい3041ふん南緯なんい6901ぶん地点ちてんたっし、南進なんしんしん記録きろく樹立じゅりつした[209]

ケープタウンに寄港きこうすること前後ぜんご12かい、あたかも定期ていきせんかんていし、船内せんない公開こうかいでは見学けんがくのため長蛇ちょうだれつがつくられ、宗谷そうやたいする親愛しんあいかんふかのこされた。宗谷そうやせんちゅう機械きかい装備そうびるいがことごとく国産こくさんひんであることから日本にっぽん工業こうぎょうりょくたかさをしめし、みなみアフリカ共和きょうわこくから宗谷そうやをモデルとした南極なんきょく観測かんそくせんR.S.Aごう建造けんぞう日本にっぽん藤永ふじなが造船ぞうせんしょ発注はっちゅうさせるにいたった[223]
このあいだ前後ぜんこう6かいにわたる南極なんきょく航海こうかいにおけるそうこうほどやく144,276海里かいりそう日数にっすう1,031にちであった[209]

巡視じゅんしせん宗谷そうや (PL107)

編集へんしゅう

1962ねん5月13-15にち随伴ずいはんせん巡視じゅんしせん「もがみ」(PS11)をしたが伊勢湾いせわん開催かいさいされる観閲かんえつしきべいえいふつソ連それん、タイの大使館たいしかんづけ海軍かいぐん武官ぶかん夫妻ふさい運輸うんゆ大臣だいじん海上保安庁かいじょうほあんちょう長官ちょうかんせた観閲かんえつせんとして参加さんかした。海上保安庁かいじょうほあんちょう最大さいだい宗谷そうや所属しょぞくせんてい旗艦きかん模範もはんせんとして退役たいえきするまでトップのにあった[224]

6月15にち日本にっぽん鋼管こうかん浅野あさのドックに入渠にゅうきょし、観測かんそく機器きき航空機こうくうき関係かんけいじゅう装備そうびろしたが船体せんたいいろ観測かんそくせんのままだった[225]。8月1にちだいさん管区かんく海上かいじょう保安ほあん本部ほんぶ所属しょぞくになる。3にち、サケ、マス漁業ぎょぎょう監視かんしのため北海道ほっかいどうだいいち管区かんく釧路くしろ海上かいじょう保安ほあん旅立たびだった。24にち監視かんし任務にんむ函館はこだて入港にゅうこう燈台とうだい補給ほきゅうせん時代じだい最後さいご船長せんちょうだった松原まつばら船長せんちょう函館はこだて海上かいじょう保安ほあん部長ぶちょうになっていた。松原まつばら部長ぶちょう指揮しきのもとだいいち管区かんく所属しょぞくぜん巡視じゅんしせん集合しゅうごうさせ宗谷そうやのための観艦式かんかんしきがおこなわれた。同日どうじつ午後ごご11三宅みやけとう雄山おやま噴火ふんかしらけた宗谷そうや急遽きゅうきょ東京とうきょうわん急行きゅうこうした。9月14にち館山たてやま疎開そかいした学童がくどうやく2せんめいしまおくとどけた。

9月28にちきむ華山かざんおき南東なんとう1500キロの海域かいいきでマグロ漁船ぎょせんだいろく海進丸かいしんまる」から医療いりょう救助きゅうじょ通報つうほう横浜よこはま海上かいじょう保安ほあんはい出動しゅつどう命令めいれいくだった。横浜よこはま日赤にっせき病院びょういん外科げか看護かんご2めいせた宗谷そうや漁場ぎょじょうへといそいだ[注釈ちゅうしゃく 58]よく29にちおな海域かいいき操業そうぎょうちゅうの「だいろくきむりょうまる」からも急患きゅうかん発生はっせいとの緊急きんきゅう連絡れんらくはいった。よく30にち午後ごご850ふん横浜よこはまおきやく1せんキロの地点ちてんで「だいろくきむりょうまる会合かいごう医師いし急性きゅうせい盲腸炎もうちょうえん診断しんだんしすぐさま手術しゅじゅつとなった。同日どうじつだいろく海進丸かいしんまる」の急患きゅうかん到着とうちゃく手術しゅじゅつわった直後ちょくご午後ごご1153ふんはこまれた患者かんじゃ意識いしき不明ふめいだった。かたまく血腫けっしゅ判断はんだんした医師いし上陸じょうりくしてからもうと判断はんだん横浜よこはまこうかった[注釈ちゅうしゃく 59]。10月3にち午前ごぜん1020ふん横浜よこはまこう入港にゅうこう患者かんじゃ手術しゅじゅつたすかった[227]。これが、宗谷そうや巡視じゅんしせんとなってはじめての医療いりょう救助きゅうじょ活動かつどうだった。

1963ねん昭和しょうわ38ねん)2がつ、オホーツクかい流氷りゅうひょう調査ちょうさのためだいいち管区かんく派遣はけん、このとき小樽おたるこうからきた杜夫もりお柴田しばた鉄治てつはる取材しゅざいんでいる。その、4がつ1にち北海道ほっかいどうだいいち管区かんく海上かいじょう保安ほあん本部ほんぶ移籍いせきだいいち管区かんく移籍いせきしたのち宗谷そうやいちねんのスケジュールは、12〜2がつ北洋ほくよう前進ぜんしん哨戒しょうかい、3がつ上旬じょうじゅんから、北海道大学ほっかいどうだいがく協力きょうりょくして流氷りゅうひょう観測かんそく調査ちょうさ。4月、観閲かんえつしきそなえて浅野あさのドック鶴見つるみ造船ぞうせんしょにて整備せいび。5月、観閲かんえつしき。6-7がつ釧路くしろにて医師いし医療いりょう器具きぐ北洋ほくようサケ・マス医療いりょう前進ぜんしん哨戒しょうかい、8がつ津軽海峡つがるかいきょう中心ちゅうしん巡視じゅんし、9月、20日間にちかんほどの整備せいび。10月函館はこだてドックり、11月、津軽海峡つがるかいきょう中心ちゅうしん巡視じゅんし。また、宗谷そうや保安庁ほあんちょう最大さいだい巡視じゅんしせんのため海洋かいよう少年しょうねんだん体験たいけん航海こうかい各地かくち慰霊いれい遺骨いこつ収集しゅうしゅうとう、しばしばピンチヒッターとして使用しようされた[228]

1963ねん10がつ2にち、コレラの海上かいじょう封鎖ふうさのため、さど(PM03)、ちふり(PM18)、すみだ(PS55)をひきいてラインにけて出港しゅっこう。11月まで、朝鮮ちょうせんからの密入国みつにゅうこくしゃまりをおこなった[229]

1964ねん昭和しょうわ39ねん)1がつ、ウルップとう座礁ざしょうしただいはち共進きょうしんまる乗組のりくみいん全員ぜんいん救出きゅうしゅつ[230]。2月、初代しょだいふじ艦長かんちょう内定ないていされた本多ほんだ敏治としはるいちせオホーツクかいでの氷海ひょうかい航海こうかい訓練くんれんおこなった[231]。1964ねん4がつ6にち巡視じゅんしせん「てんりゅう」(PS03)が紋別もんべつこうおき流氷りゅうひょうにはさまれて行動こうどう不能ふのうとなった漁船ぎょせん5せき救助きゅうじょ作業さぎょうちゅう流氷りゅうひょうにより行動こうどう不能ふのうになり、9にち宗谷そうや救出きゅうしゅつされた[232]

1965ねん昭和しょうわ40ねん)5がつ小笠原おがさわら墓参ぼさんだん芝浦しばうらとうから父島ちちじま母島ははじまおよ硫黄いおうとうにて慰霊いれいさいおこなった。このとしから小笠原諸島おがさわらしょとう返還へんかんされるまで毎年まいとしおこなわれた[228][233]。7月15にち代目だいめ南極なんきょく観測かんそくせんふじ就役しゅうえきにともない南極なんきょく観測かんそくせんとしての役割やくわり正式せいしきえる。1965ねん10がつ25にち宗谷そうやうみたかまる観測かんそくをもとにした、詳細しょうさい南極なんきょく海図かいず完成かんせい。この海図かいずはふじのれの壮途そうとうようにつくられた[234]

1966ねん昭和しょうわ41ねん)3がつ5にち南極なんきょく観測かんそくせん時代じだい搭載とうさいだったS58-かたヘリコプターMH202号機ごうき全日空ぜんにっくう羽田はたおき墜落ついらく事故じこ遺体いたい捜索そうさくちゅうにエンジントラブルによりうみ墜落ついらくうしなわれた。この事故じこくなった3にんなか1にん里野さとのこう五郎ごろう機長きちょうはタロとジロを発見はっけんしたときのパイロットであり、3観測かんそく以降いこうのエースパイロットでもあった[235]

1970ねん昭和しょうわ45ねん)3がつ16にち、カムチャッカ方面ほうめん哨戒しょうかいちゅう釧路くしろ保安ほあんから「単冠湾ひとかっぷわん急行きゅうこうせよ」と緊急きんきゅう指令しれいはいった。19せき漁船ぎょせん吹雪ふぶき流氷りゅうひょうのために遭難そうなんし、1せきりく大破たいはした。のこりの18せきちゅう11せき損傷そんしょうしながらも流氷りゅうひょうぐんから脱出だっしゅつしたが、の7せき転覆てんぷく行方ゆくえ不明ふめい2せき船体せんたい放棄ほうき沈没ちんぼつ3せき船体せんたい放棄ほうき救助きゅうじょされたもの2せき、これら8せき乗組のりくみいん114にんなか30にん死亡しぼう行方ゆくえ不明ふめいとなるだい惨事さんじとなった。生存せいぞんしゃ84にん流氷りゅうひょうわたり18にち択捉島えとろふとう上陸じょうりくソ連それん保護ほごされた。宗谷そうやは、だいおう、えりも、りしりと合流ごうりゅう救難きゅうなん探索たんさくおよ指揮しきたった。22にち午前ごぜん9宗谷そうや単冠湾ひとかっぷわんないソ連それん警備けいびていから84めいり、23にち釧路くしろこうのこ流氷りゅうひょう砕氷さいひょう入港にゅうこう生存せいぞんしゃ下船げせんさせたのちふたた流氷りゅうひょうぐんかえ行方ゆくえ不明ふめいの2せき探索たんさくしたが成果せいかもなく27にち探索たんさくり、汽笛きてきらし黙祷もくとうささげて現場げんばはなれた。この海難かいなん契機けいきだいいち管区かんく海上かいじょう保安ほあんない流氷りゅうひょう情報じょうほうセンターが設置せっちされ、流氷りゅうひょう観測かんそく通報つうほう体制たいせい強化きょうかされることになった[236]。このころから漁民ぎょみんあいだ福音ふくいん使者ししゃ」「北洋ほくようまもがみといわれるようになる[237]

1970ねん4がつ東京とうきょうにて整備せいびちゅう巡視じゅんしせん本来ほんらいいろえる[238]1972ねん昭和しょうわ47ねん)3がつ7にち稚内わっかない市長しちょう要請ようせい出動しゅつどう午前ごぜん9宗谷湾そうやわん流氷りゅうひょうぐん突入とつにゅうきた防波堤ぼうはていから700mまですすんだがあつさ2m以上いじょうこおりばんにはばまれ、いったん外海そとめ脱出だっしゅつ午後ごごさい突入とつにゅう煙突えんとつから火柱ひばしらをたてながら奮闘ふんとう午後ごご4湾内わんない突破とっぱそこ引漁せん貨物かもつせん16せき午後ごご7はんそこ引漁せん3せきよく8にちわんがいきた防波堤ぼうはてい付近ふきん貨物かもつせん2せき外海そとめ誘導ゆうどう成功せいこうした[239]

このとしから海上かいじょう保安ほあん学校がっこう半年はんとしせい普通ふつうから、いち年生ねんせい本科ほんか改正かいせいされた。教育きょういく訓練くんれん充実じゅうじつ大型おおがた練習れんしゅうせんによる長期ちょうき練習れんしゅう航海こうかい実施じっしすることで、日常にちじょう船内せんない生活せいかつ体得たいとくでき、それがシーマンシップの育成いくせいおおきく貢献こうけんするということは、海上保安庁かいじょうほあんちょう幹部かんぶ一致いっちした意見いけんだったが、現場げんば巡視じゅんしせんていさえ十分じゅうぶん勢力せいりょくでなく、専用せんよう練習れんしゅうせんなど予算よさんてき実現じつげん見込みこみがなかった。この解決かいけつさくとして乗組のりくみいん以外いがいにも(南極なんきょく観測かんそく隊員たいいんようとして)多数たすう部屋へやとベッドをそなえる宗谷そうや一時いちじてき練習れんしゅうせんとして使用しようする方法ほうほうられた[240]はじめての長期ちょうき練習れんしゅう航海こうかいは10がつから11がつにかけて、さんグループにかれて、舞鶴まいづる-函館はこだてあいだやくいち週間しゅうかんずつった[240]

1972ねん昭和しょうわ47ねん)から「宗谷そうや」は海上かいじょう保安ほあん学校がっこう京都きょうと舞鶴まいづる所在しょざい)の練習れんしゅう航海こうかいで、わか海上かいじょう保安ほあんかん候補こうほせいせて航海こうかい実際じっさいおしえる教育きょういくせんとしてのかおつようになる[240]

1974ねん昭和しょうわ49ねん)1がつ10日とおかオホーツクかい流氷りゅうひょう紋別もんべつりくがんから視認しにんできるところまで接近せっきんし、11にちから13にちかけて急速きゅうそく発達はったつした。紋別もんべつ海上かいじょう保安ほあん漁業ぎょぎょう協同きょうどう組合くみあい出港しゅっこう自重じちょうするように通達つうたつしたが13にち早朝そうちょう漁船ぎょせん1せき強行きょうこう出港しゅっこうしたため9せき相次あいついで出港しゅっこうした。これをった海上かいじょう保安ほあんは「てんりゅう」に護衛ごえいのため出動しゅつどうめいじた。これらの漁船ぎょせん紋別もんべつおき500m付近ふきん流氷りゅうひょうにて航行こうこう困難こんなんとなり6せき自力じりき脱出だっしゅつし、2せき反転はんてん紋別もんべつこうかえしたがのこり2せき反転はんてんできず、「てんりゅう」の水路すいろけいひらきによりかろうじて紋別もんべつこう帰港きこうした。「てんりゅう」も反転はんてん紋別もんべつこうかおうとしたが、こおりじょう悪化あっか航行こうこう不能ふのうになった。15にち宗谷そうや」はソ連それんから抑留よくりゅう漁船ぎょせんいんって釧路くしろ入港にゅうこう、「てんりゅう」救出きゅうしゅつ要請ようせい出動しゅつどう、このとき千歳ちとせ航空こうくう基地きち所属しょぞくのベル212がたヘリコプター「MH516ごう」を一時いちじてき搭載とうさい、16にち現場げんば到着とうちゃく、MH516ごう協力きょうりょくしてひらきごおりつくって誘導ゆうどう、17にち氷海ひょうかいからの救出きゅうしゅつ成功せいこうした[232][230]

1975ねん昭和しょうわ50ねん)8がつ対馬つしままる海上かいじょう慰霊いれいさい派遣はけんされ、22にち遺族いぞく乗船じょうせん、トカラ列島れっとう悪石島あくせきじまおきにて午後ごご1012ふんから慰霊いれいをおこなった[228]1976ねん昭和しょうわ51ねん)4がつ8にち最後さいご船長せんちょうとなる有安ありやす欣一きんいち船長せんちょう就任しゅうにん月下氷人げっかひょうじん愛称あいしょうをつける[241][242]

1977ねん昭和しょうわ52ねん)5がつ8にち観閲かんえつしきのち南極なんきょく観測かんそく20周年しゅうねん記念きねんOBかい宗谷そうや船上せんじょうにて開催かいさい。8月1にち灯台とうだい補給ほきゅうせん廃止はいしされ後継こうけいせん若草わかくさかいやくされ、9月9にち、LL01つしま後継こうけいせんとして就役しゅうえきしん海洋かいよう秩序ちつじょ時代じだい到来とうらいによりかいやくはなし出始ではじめる。1978ねん昭和しょうわ53ねん)3がつ12にち稚内わっかないこう流氷りゅうひょうぐん砕氷さいひょうし、とじこめられていた漁船ぎょせん41せき外洋がいようみちびいた。

かいやく

編集へんしゅう

1978ねん3がつ18にち、ふじの5ねん以内いない観測かんそくせん引退いんたいまり[243]調査ちょうさ研究けんきゅう目的もくてき村山むらやまもと越冬えっとう隊長たいちょうおとずれた。 3月22にち根室半島ねむろはんとうおきにてふじの後継こうけいかん建造けんぞう計画けいかくかんする砕氷さいひょう実験じっけんをおこない、たかm、直径ちょっけいじゅうmのこおりばん砕氷さいひょうした[244]。1978ねん5がつ14にち海上保安庁かいじょうほあんちょう創立そうりつさんじゅう周年しゅうねん観閲かんえつしき観閲かんえつせんとして参加さんか

竣工しゅんこうから40ねん以上いじょう経過けいかした1978ねん7がつ3にち、ついにかいやくまり[注釈ちゅうしゃく 60]最後さいご任務にんむとして舞鶴まいづる海上かいじょう保安ほあん学校がっこう学生がくせい実習じっしゅうをかねた全国ぜんこく14のみなとめぐ「サヨナラ航海こうかい実施じっしかくみなとで、「サヨナラ宗谷そうや船内せんない公開こうかい見学けんがくかい」をひらいた。1978ねん8がつ2にち-4にち西舞鶴にしまいづるみなとだい2ふとう、5にち-7にち門司もじこうだい2岸壁がんぺき、7にち-9にち広島ひろしま港外こうがい貿ふとう、9にち-12にち高松たかまつこう中央ちゅうおうとう、12にち-14にち神戸こうべちゅう突堤とってい、15にち-17にち名古屋なごや港西みなとにしとう、18にち-19にち横浜よこはまだいさんきょう、19にち-20日はつか東京とうきょう晴海はるみとう、21にち-22にち塩釜しおがまこう貞山ていざんとう、23にち-25にち函館はこだて中央ちゅうおうとう、26にち-27にち小樽おたるこうだい2ふとう、29にち-30にち新潟港にいがたこう中央ちゅうおうとう、9月2にち-3にち青森あおもりこう浜町はまちょうとうにて見学けんがくかい開催かいさいされた。

7がつ29にち函館はこだて出港しゅっこう、31にち当時とうじ引退いんたい宗谷そうや誘致ゆうちしていた福井ふくいけん福井ふくい新港しんこう開港かいこう記念きねん式典しきてん参加さんか[245]。8月2にち舞鶴まいづるこうでは海上かいじょう自衛隊じえいたい舞鶴まいづる音楽おんがくたいのファンファーレをそうむかえられた。9月2にち青森あおもりこうには17000にんせた。歓迎かんげい飛行ひこう海上かいじょう自衛隊じえいたい大湊おおみなと地方ちほうたいのヘリコプター2飛来ひらい宗谷そうや飛行ひこう甲板かんぱん大湊おおみなとそうかん江上えがみ純一じゅんいちうみしょうの「おな海上かいじょう勤務きんむするものとしてかがやかしい宗谷そうや栄光えいこう歴代れきだい乗組のりくみいん努力どりょく最大さいだい敬意けいいあらわします」というメッセージが投下とうかされた。いちにち船長せんちょう春日かすが八郎はちろう歌手かしゅ)が「さよなら宗谷そうや」をうたった。岸壁がんぺきでは陸上りくじょう自衛隊じえいたいだいきゅう音楽おんがくたい太平洋たいへいよう行進曲こうしんきょく演奏えんそうした[246]

9月4にち稚内わっかない最後さいごにもう一度いちどと、青年せいねん会議かいぎしょ海上保安庁かいじょうほあんちょう陳情ちんじょうしてサヨナラ航海こうかい番外ばんがいへん実現じつげんすることになった。9月5にち保存ほぞんさきふね科学かがくかんまった。9月23にちてんきたいちごう埠頭ふとう接岸せつがんした宗谷そうや陸上りくじょう自衛隊じえいたいだい師団しだんのブラスバンドの演奏えんそうむかえられた。よく24にち、11000にん見学けんがくしゃむかえた。同日どうじつよる稚内わっかないこう出港しゅっこう。9月28にち午前ごぜん9秋晴あきばれのそらに「UW1(ご幸福こうふくを)」の国際こくさい信号しんごうはたかかげた宗谷そうやは「ぼたるひかり」「いかりげて」の演奏えんそう見送みおくられ長年ながねん母港ぼこうだった函館はこだてこうをあとにした。

1978ねん昭和しょうわ53ねん10月2にちたけしば桟橋さんばしにてかいやくしきむか退役たいえきかいやくしきには歴代れきだい海上保安庁かいじょうほあんちょう長官ちょうかん宗谷そうや歴代れきだい船長せんちょうはじめ、南極なんきょく観測かんそく隊員たいいんとしてんだものなど宗谷そうやにゆかりあるひとたちが出席しゅっせきした。海上かいじょう自衛隊じえいたい音楽おんがくたい演奏えんそうする国歌こっかとともに、国旗こっき海上保安庁かいじょうほあんちょうちょうはた長官ちょうかんがおろされ、有安ありやす船長せんちょうから高橋たかはし壽夫としお長官ちょうかん返納へんのうされて式典しきてんわった。

巡視じゅんしせんかいやくしき海上保安庁かいじょうほあんちょう長官ちょうかんみずからが出席しゅっせきしたのは、2023ねん現在げんざいでも宗谷そうやのみである。

北海道ほっかいどうだいいち管区かんく海上かいじょう保安ほあん本部ほんぶ移籍いせきした1963ねんから1978ねんの15年間ねんかん航海こうかい日数にっすう3000にち以上いじょう海難かいなん救助きゅうじょ出動しゅつどうは350けん以上いじょう救助きゅうじょしたふね125せき、1000めい以上いじょう救助きゅうじょ実績じっせきうみまもがみという異名いみょうをもつことになった。

1978ねん11月22にち後継こうけいせんとしてヘリコプター搭載とうさいがた巡視じゅんしせんそうや」(ふね番号ばんごう就役しゅうえき当時とうじPL01、のちPLH01)が就役しゅうえきし、2023ねん現在げんざい本船ほんせん海保かいほさい古参こさん現役げんえき巡視じゅんしせんとして任務にんむたっている。

  • 1979ねん昭和しょうわ54ねん)5がつ1にちから、東京とうきょう台場だいばにあるふね科学かがくかんぜん甲板かんぱんおよ飛行ひこう甲板かんぱん一般いっぱん公開こうかい開始かいし
  • 1980ねん昭和しょうわ55ねん)7がつ20日はつか全面ぜんめん公開こうかい開始かいし
  • 1982ねん 1がつ18-3月15にちにかけて船体せんたい外部がいぶ全面ぜんめん塗装とそうふねめい文字もじ・ヘリコプターかん標識ひょうしきいかりぬりしょく観測かんそくせんへの復元ふくげん中心ちゅうしんとする修復しゅうふく工事こうじ実施じっし
  • 1990ねん平成へいせい2ねん船内せんない空調くうちょう設備せつび新設しんせつ[247]
  • 1996ねん平成へいせい8ねんだい規模きぼ整備せいび工事こうじ実施じっしそう工費こうひ1おく4,800まん[248]
  • 2006ねん平成へいせい18ねん)8がつ見学けんがくしゃ670まんにん突破とっぱ南極なんきょく観測かんそく50周年しゅうねん記念きねんして宗谷そうやとタロ、ジロがうつった切手きって記念きねん硬貨こうか発行はっこう、8がつ30にち-11月3にちにかけて整備せいび工事こうじ実施じっし、11月8にち宗谷そうや南極なんきょく観測かんそく出港しゅっこう再現さいげん宗谷そうやおこなわれた。
  • 2007ねん平成へいせい19ねん)12月26にちから2008ねん3月11にちまで整備せいび工事こうじ実施じっし、2がつ16にちには宗谷そうや戦友せんゆうかい軍艦ぐんかん宗谷そうやかい」が中心ちゅうしんとなり靖国神社やすくにじんじゃよりけん宮司ぐうじまね誕生たんじょう70ねんいわ古希こきさいおこなわれた。参加さんかした人々ひとびと宗谷そうや建造けんぞう改造かいぞうかかわったもの地領ちりょうまる特務とくむかん復員ふくいんせん灯台とうだい補給ほきゅうせん南極なんきょく観測かんそくせん巡視じゅんしせん様々さまざま時代じだい宗谷そうやかかわった人々ひとびとあつまった。11月6にちから2009ねん3がつ26にちまで整備せいび工事こうじ実施じっし
  • 2010ねん平成へいせい22ねんチリ地震じしん津波つなみにより、ふね科学かがくかん宗谷そうやへの乗船じょうせん一時いちじ停止ていしした。
  • 2015ねん平成へいせい27ねん)9がつ23にち宗谷そうや船尾せんび甲板かんぱんにてうみふねのコンサート「SOYA FES」が開催かいさいされた。

保存ほぞんせんとしての宗谷そうやは、現在げんざい海上保安庁かいじょうほあんちょう特殊とくしゅ救難きゅうなんたい特殊とくしゅ訓練くんれんしょとしても使つかわれている。ふね科学かがくかん保存ほぞんさきまったとき当時とうじ館長かんちょう笹川ささかわ良一りょういちは「不可能ふかのう可能かのうにしたつよしうん奇跡きせきふね」ととなえた[249]。なお、成田空港なりたくうこうへの航空こうくう燃料ねんりょうパイプライン敷設ふせつ見返みかえ要求ようきゅう千葉ちばくにもとめたさい宗谷そうやはらげもふくまれていた。成田空港なりたくうこう重要じゅうようせいから要求ようきゅうおおくをくにんで1978ねん8がつ合意ごういたっしたが、宗谷そうやはらげについては拒否きょひされた[250]

南極なんきょく観測かんそくせんとしてのだい改装かいそうのち設計せっけいじょう耐用たいよう年数ねんすうはるかにえてからも北洋ほくよう酷使こくしされ、さらに退役たいえき係留けいりゅう経年けいねん劣化れっかにより船体せんたいいたみがすすんでいる。維持いじ管理かんりには多額たがく資金しきん必要ひつようとされ、募金ぼきん活動かつどうおこなわれている。2003ねん3がつから宗谷そうや保存ほぞん募金ぼきん開始かいしし、2011ねん3がつまつまでに10,717,649えんあつ[251]2014ねん12月1にち-2015ねん1がつ3にちまで整備せいび工事こうじのため見学けんがく公開こうかい休止きゅうし。2015ねん1がつ4にち修理しゅうり完了かんりょうともなって見学けんがく再開さいかいされた[252]

2016ねん平成へいせい28ねん)7がつ21にち東京とうきょう近隣きんりん建設けんせつする「東京とうきょう国際こくさいクルーズターミナル」の工事こうじともな隣接りんせつ桟橋さんばしへの移設いせつのため、2016ねん9がつ1にちから2017ねん3がつ31にちまでのあいだ一般いっぱん公開こうかい休止きゅうしすることが発表はっぴょうされた[253]2016ねん平成へいせい28ねん)9がつ22にち上記じょうき工事こうじのため、宗谷そうやは37ねんぶりにやく100メートルさき対岸たいがんタグボート誘導ゆうどうによって移動いどうした[254]

南極なんきょく観測かんそくせん当時とうじ雰囲気ふんいき極力きょくりょく再現さいげんしつつ、3かげつあいだ修復しゅうふく工事こうじおこなわれ、船内せんない展示てんじしつ一新いっしんされ、2017ねん平成へいせい29ねん)4がつ1にち一般いっぱん公開こうかい再開さいかいされた[255]

2018ねん平成へいせい30ねん)2がつ16にち進水しんすいから80ねんむかえた宗谷そうやまんふねかざりおこなった[256]。 また、2018ねん11月17にちには「“宗谷そうや運営うんえい維持いじ協力きょうりょくきん」をはらった見学けんがくしゃ先着せんちゃく80にんに、宗谷そうや修繕しゅうぜん甲板かんぱん木材もくざい利用りようしたキーホルダーを配布はいふした[257]

要目ようもく

編集へんしゅう

1956 - 1962ねん(南極なんきょく観測かんそくせん)

編集へんしゅう
 
ふね科学かがくかん展示てんじされる宗谷そうや
  • じゅんトン数とんすう:1,142 t(だい6
  • 総トン数そうとんすう:2,736 t(だい6
  • 排水はいすいトン :(満載まんさい)4.614t(だい6
  • 信号しんごう : JDOX
  • 全長ぜんちょう:83.7 m
  • 全幅ぜんぷく:12.8m( バルジし)15.8 m(バルジふくむ)17m(ヘリ甲板かんぱんふくだい3以降いこう
  • 速度そくど:12.3 kt
  • 機関きかん:ディーゼル機関きかん2、2じく
  • 出力しゅつりょく:4,800馬力ばりき
  • 航続こうぞく距離きょり:11ktで16,400かいりだい3-6)(燃料ねんりょう:重油じゅうゆ658t)
  • 搭載とうさい
    • シコルスキーS-58かたヘリコプター 2だい3-6
    • ベル47Gがたヘリコプター 2だい1
    • ベル47G2かたヘリコプター 2だい2-6
    • セスナ180がた「さちかぜ」1だい1
    • デ・ハビランド・カナダ DHC-2昭和しょうわごう」1だい2-3
    • セスナ185がた1だい6)(いずれも露天ろてん繋留けいりゅう
  • 砕氷さいひょう能力のうりょく:1.2 m(だい1から0.2m強化きょうか
  • 清水しみず407t、燃料ねんりょう重油じゅうゆ)658tを満載まんさい、11ktで60日間にちかん連続れんぞく航行こうこう可能かのうだい2-6
  • 貨物かもつ積載せきさいりょう:500 t(だい2以降いこう観測かんそくよう物資ぶっし初期しょき400 tから増量ぞうりょう
  • 航海こうかい計器けいき:レーダー レイセオンしゃせい×2[4]・ソナー QCU-2がた×1[4]はか信義しんぎ ちゅう浅海せんかい×1 ごく深海しんかい×1[4]
  • その:デリックブーム、5t×2、3t×2、2t×2、電動でんどうウインチ、3t×30m×4、3t×2、11m大発だいはつがた救命きゅうめいけん作業さぎょうてい×1、9m救命きゅうめいてい×1、8m救命きゅうめいてい×1、7.5m救命きゅうめいてい×1、[258]搭載とうさいよう燃料ねんりょうタンク60000ℓ(だい3以降いこう[259]

当初とうしょ搭載とうさいヘリコプターは小型こがたベル47G観測かんそく2であったため、ヘリ甲板かんぱん前方ぜんぽう格納庫かくのうこゆうしていた。だい2南極なんきょく観測かんそく失敗しっぱいもと昭和しょうわ基地きちへの物資ぶっし輸送ゆそうをヘリコプターによる空輸くうゆ大型おおがたのシコルスキーS-58がた2追加ついか搭載とうさい格納庫かくのうこ容量ようりょう不足ふそくしたためだい3改装かいそうさい格納庫かくのうこ撤去てっきょしてヘリ甲板かんぱん拡大かくだい露天ろてん繋留けいりゅうによる暴露ばくろ積載せきさいとし、小型こがたヘリコプターのベル47G2分解ぶんかいして箱詰はこづめされた状態じょうたい飛行ひこう甲板かんぱんじょう搭載とうさいされた。

  • S-58がたヘリコプター1号機ごうきは1973ねん退役たいえき南極なんきょく観測かんそく当時とうじ塗装とそうもどし1974-1998ねんまで東京とうきょう上野うえの国立こくりつ科学かがく博物館はくぶつかんにジロととも保存ほぞんされていたが、1999ねんから筑波つくば保存ほぞんうつった。

1963 - 1978ねん(巡視じゅんしせん)

編集へんしゅう
 
日本にっぽん発行はっこうした国際こくさい地球ちきゅう観測かんそくねん記念きねん切手きって宗谷そうやのシルエットがえがかれている。
  • じゅんトン数とんすう:1,025 t
  • 総トン数そうとんすう:2,734 t
  • 排水はいすいトン :(満載まんさい)3.853t
  • 信号しんごう : JDOX
  • 全長ぜんちょう:83.7m
  • 全幅ぜんぷく:15.8 m(バルジふくむ)17m(ヘリ甲板かんぱんふくむ)
  • 速度そくど:13.5 kt
  • 機関きかん:ディーゼル機関きかん2、2じく
  • 出力しゅつりょく:4,800馬力ばりき
  • 航続こうぞく距離きょり:12.7 ktで18,578かいり燃料ねんりょう:重油じゅうゆ658t)
  • 搭載とうさい:なし
  • へいそう:なし
  • げんゆらタンク装備そうび(1965ねん5がつ
  • 母港ぼこう函館はこだてこう

任務にんむ訓練くんれんによってはベル212がたヘリコプターとう一時いちじてき搭載とうさいした。1976ねん9がつ左舷さげん後部こうぶおよ右舷うげん前部ぜんぶ救命きゅうめいていをダビットごと撤去てっきょ[3]

宗谷そうや題材だいざいとした作品さくひん

編集へんしゅう
  • NHK番組ばんぐみプロジェクトX」(『運命うんめいふね宗谷そうや発進はっしん2001ねん2がつ13にち)において宗谷そうや活躍かつやく放映ほうえいされた。
  • 本船ほんせん生涯しょうがい1984ねん昭和しょうわ59ねん)にテレビ東京てれびとうきょう放映ほうえいされた「宗谷そうや物語ものがたり」でアニメされた。
  • 文部省もんぶしょうげん文部もんぶ科学かがくしょう)の依頼いらいにより開発かいはつされたダッチワイフ弁天べんてんさん)も南極なんきょく地域ちいき観測かんそくたい乗船じょうせんしたといいつたえられている。ダッチワイフの別称べっしょう南極なんきょく1ごう」はこれが由来ゆらいである。
  • 1963ねん6がつきた杜夫もりおが「どくとるマンボウ氷海ひょうかいをゆく」とだいして宗谷そうや航海こうかい小説しょうせつ中央ちゅうおう公論こうろんにて掲載けいさい[260]。また、1963ねん3がつ柴田しばた鉄治てつはるが「しろいオホーツクをゆく『宗谷そうや同乗どうじょう」を朝日新聞あさひしんぶん北海道ほっかいどうにて連載れんさいしており、二人ふたり同時どうじおな航海こうかい参加さんかしていた[261]
  • 1983ねん8がつ宗谷そうや船長せんちょうとなって日本にっぽんから昭和しょうわ基地きち物資ぶっしはこぶシミュレーションゲーム『南極なんきょく物語ものがたり』(PC-8801、FM-7、X1、MSX)がポニカレーベルから発売はつばいされた。
  • 2011ねん10がつ~12がつ 木村きむら拓哉たくや主演しゅえん TBSけいドラマ「南極大陸なんきょくたいりく」に宗谷そうや大々的だいだいてき撮影さつえいされた。
  • 2012ねん6がつ4にち、アートファイブより海上保安庁かいじょうほあんちょうDVDシリーズVol.2南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや」と巡視じゅんしせん「そうや」が発売はつばいされた。
  • 2021ねん5がつ21にち艦船かんせん擬人ぎじんゲーム『艦隊かんたいこれくしょん -かんこれ-』に宗谷そうや擬人ぎじんしたキャラクターが実装じっそうされた。これにさいして宗谷そうや保存ほぞんさきふね科学かがくかんTwitterにて反応はんのうしている[262]

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ そうや進水しんすい退役たいえきするまでのあいだ初代しょだい宗谷そうや区分くぶんされていた[1]
  2. ^ 戦時せんじちゅうだけでもラバウルのたたかミッドウェー海戦かいせんだいいちソロモン海戦かいせんガダルカナルとうたたかトラックとう空襲くうしゅう復員ふくいん輸送ゆそうなど[11]
  3. ^ らいがた海防かいぼうかんおじかかた巡視じゅんしせん志賀しががあったが[12]、1998ねん解体かいたいされて現存げんそんしない。
  4. ^ 特殊とくしゅ船舶せんぱくまでふくめた場合ばあい潜水せんすいていしんかい揚陸ようりくされた状態じょうたい保存ほぞんされている。
  5. ^ 敷島しきしまがた戦艦せんかん三笠みかさは、ワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくによって軍艦ぐんかんせきからのぞかれたのち岸壁がんぺき固定こていされ「工作こうさくぶつ」のあつかいとなっている。
  6. ^ 宗谷そうや実施じっしした測量そくりょう調査ちょうさは、ビスマルク諸島しょとうニューアイルランドとうニューブリテンとう)、ソロモン諸島しょとうブカとうブーゲンビルとうショートランド諸島しょとう)、中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう諸島しょとうなど。
  7. ^ ロシアではアクセントのないоは、アにちかいのでヴァラチャーイェヴィェッツがちか発音はつおん赤井あかい謙一けんいち世界せかい砕氷さいひょうせん』50ぺーじ
  8. ^ 天領てんりょうまるみんりょうまる記録きろくはなし[24]
  9. ^ 前任ぜんにんけい巡洋艦じゅんようかん神通じんずう副長ふくちょう
  10. ^ 前任ぜんにんは「うらないもりがた海防かいぼうかん国後くなしり艦長かんちょう海軍かいぐん辞令じれい公報こうほうでは8がつ11にちづけ)。
  11. ^ 4がつ10にちづけだいはち特別とくべつ根拠地こんきょちたいだいはち根拠地こんきょちたい改編かいへんされ[63]宗谷そうやつづどう部隊ぶたい所属しょぞくする[64]
  12. ^ 船団せんだん本隊ほんたいは、5月28にちサイパンはつ予定よていであった[74]
  13. ^ 支援しえん部隊ぶたいだいなな戦隊せんたいだい1小隊しょうたい熊野くまの鈴谷すずや〉、だい2小隊しょうたいさんくま最上さいじょう〉)、だい8駆逐くちくたいあさしおあらうしお)、タンカー栄丸さかえまる[79]
  14. ^ だいはち艦隊かんたいは1942ねん昭和しょうわ17ねん)7がつ14にち新編しんぺんされた[91]南東なんとう方面ほうめんパプアニューギニアソロモン諸島しょとうなど)の作戦さくせん担当たんとうする“そと南洋なんよう部隊ぶたい”であり、従来じゅうらいこの方面ほうめん担当たんとうしていた“南洋なんよう部隊ぶたい”(だいよん艦隊かんたい)は“うち南洋なんよう部隊ぶたい”に改称かいしょうした。
  15. ^ あかりまる沈没ちんぼつにより、400めいじゃく戦死せんしした[95]
  16. ^ 宗谷そうやあかりまる救援きゅうえんかい、さらに不時着ふじちゃくした一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき搭乗とうじょういん救助きゅうじょしたという[96]
  17. ^ この初代しょだい特務とくむ艦長かんちょう山田やまだ雄二ゆうじ大佐たいさだい20駆逐くちくたいゆうきり朝霧あさぎりてんきり白雲しらくも司令しれいとしてガダルカナルとうかう途中とちゅう、ヘンダーソン飛行場ひこうじょうから飛来ひらいしたSBDドーントレス急降下きゅうこうか爆撃ばくげきにより戦死せんしした[99]
  18. ^ 宗谷そうや爆雷ばくらい投下とうかしたという証言しょうげんもあるが、宗谷そうや爆雷ばくらい搭載とうさいしたのは横須賀よこすかもどってからという証言しょうげんもある[108]
  19. ^ 天谷あまや大佐たいさ前任ぜんにんだい34駆逐くちくたい司令しれい久保田くぼた大佐たいさ横須賀よこすか鎮守ちんじゅづけとなって退すさかんした。後日ごじつけいじゅん名取なとり艦長かんちょうとして戦死せんしした。
  20. ^ 2がつ14にち姉妹しまいせんみんりょうまる」がアメリカ潜水せんすいかんフラッシャー (USS Flasher, SS-249) に撃沈げきちんされた。
  21. ^ 深夜しんやパラオへかう途中とちゅう、とのもと乗組のりくみいん証言しょうげんあり。座礁ざしょうしたのち爆雷ばくらい20はつ放棄ほうき[118]
  22. ^ 空母くうぼ機動きどう部隊ぶたい艦上かんじょうによる夜間やかん空襲くうしゅうは、照明しょうめいだん使用しようする(タラント空襲くうしゅうなど)。
  23. ^ エンタープライズはTBF 12夜間やかん攻撃こうげき投入とうにゅうし、1喪失そうしつした。
  24. ^ 天谷あまや大佐たいさ更迭こうてつ福島ふくしま一男かずお大尉たいい艦長かんちょう代理だいりしたともと乗組のりくみいん証言しょうげん[120]。なお、天谷あまや嘉重よししげ大佐たいさは1944ねん昭和しょうわ19ねん)12月16にち拳銃けんじゅう自殺じさつした[121]
  25. ^ 宗谷そうや護衛ごえいした駆逐くちくかんゆきふうだい16駆逐くちくたい)とのだいよん梯団ていだん輸送ゆそう指揮しきかんだった山本やまもと陸軍りくぐん大尉たいい証言しょうげんがある。ただし、実際じっさいゆきふうリンガ泊地はくちタウイタウイ泊地はくち行動こうどうしていた[127]
  26. ^ このとき天領てんりょうまる陸軍りくぐん輸送ゆそう船団せんだん護衛ごえいしていたのはだい7駆逐くちくたいあけぼのしお)と[128]駆逐くちくかんふう途中とちゅうまで)であった[129]
  27. ^ この時点じてんでのバラオきゅう潜水せんすいかんパーチ (USS Perch, SS-313) は真珠湾しんじゅわん修理しゅうりちゅう神津こうづまる撃沈げきちんしたのはパーゴ (USS Pargo, SS-264) だったとも。
  28. ^ 入港にゅうこう同時どうじ海軍かいぐん工廠こうしょうより修理しゅうり担当たんとうかんせんし、さい優先ゆうせん修理しゅうりがおこなわれた。宗谷そうや石炭せきたんうごける貴重きちょう存在そんざいになっていたためである。
  29. ^ イギリス海軍かいぐん太平洋艦隊たいへいようかんたい所属しょぞくする航空こうくう母艦ぼかんフォーミダブルヴィクトリアスインプラカブルインディファティガブル基幹きかんとする機動きどう部隊ぶたいで、アメリカ海軍かいぐん指揮しき行動こうどうする[139]
  30. ^ だい37任務にんむ部隊ぶたい女川おながわこう空襲くうしゅうみなとのこった大浜おおはま攻撃こうげきけて大破たいはそこした[141]
  31. ^ 終戦しゅうせんには運送うんそうかんとして部類ぶるいされていたが戦後せんご混乱こんらんのためか砕氷さいひょうかん表記ひょうきしている資料しりょう存在そんざいする。昭和しょうわ20ねん10がつ12にちづけ 海軍かいぐん広報こうほう だい5203ごう アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコードC12070530500で閲覧えつらん可能かのう
  32. ^ 土井どい艦長かんちょう宗子むねこ宗谷そうや退役たいえき再会さいかいすることになる。
  33. ^ 艦艇かんていからふねに。これ以降いこう青函せいかん連絡れんらくせん宗谷そうやまる誤解ごかいされるようになる。
  34. ^ もとロシアの客船きゃくせんアルグンごうにち戦争せんそう最中さいちゅう拿捕だほされしゅうまる改名かいめい、1904ねん5がつから1945ねん3がつ戦没せんぼつするまで灯台とうだい視察しさつせんとして従事じゅうじする。
  35. ^ 1955ねん12月26にち後継こうけいせんとして大阪おおさか商船しょうせん若草わかくさまる購入こうにゅうされはち代目だいめ灯台とうだい補給ほきゅうせん若草わかくさ」として灯台とうだい補給ほきゅうせん任務にんむごうかね継承けいしょうした[168]このごうかね現在げんざい広島ひろしま海上保安大学校かいじょうほあんだいがっこう史料しりょうかんにて保存ほぞんされている。
  36. ^ 宗谷そうや建造けんぞう当初とうしょからじゅう船底ふなそこであった。
  37. ^ 当時とうじ灯台とうだい部長ぶちょうだった土井どいさとし解任かいにんしき最後さいご灯台とうだいまわ馴染なじみしわがふね南極なんきょくこうさかえいわわんと和歌わかいちしゅんだ。
  38. ^ 現在げんざいはコットンハーバーに跡地あとちがある。
  39. ^ 改造かいぞう費用ひよう4おく6,730まんえん、そのうち7,000まん若草わかくさ購入こうにゅう[168]
  40. ^ 日本にっぽん鋼管こうかんはこの経験けいけんもとに、のち砕氷さいひょうかんふじしらせ(初代しょだいしらせ(2だい砕氷さいひょうがた巡視じゅんしせんPLH01そうやPM15てしお建造けんぞうすることになる。
  41. ^ かたふなばた110かたむいても転覆てんぷくすることなく、かなら復原ふくげんするように設計せっけいされた[173]
  42. ^ うみたかまるは10月28にち出港しゅっこう海洋かいよう調査ちょうさおこなったのち、ケープタウンで合流ごうりゅう
  43. ^ 宗谷そうやつようんどころとされていた「宗谷そうや神社じんじゃ」だがGHQに接収せっしゅうされたとき撤去てっきょされていた[177]
  44. ^ 宗谷そうや艦内かんない神社じんじゃには富士山ふじさん本宮ほんぐう浅間あさま大社たいしゃ浅間あさま大神おおがみまつられておりこれは、ふじ、新旧しんきゅうしらせにがれた。
  45. ^ 別名べつめい不夜城ふやじょう宗谷そうやばれていた『昭和しょうわ基地きち物語ものがたり』71ぺーじ
  46. ^ ソ連それん観測かんそくたい砕氷さいひょうせんオビごうとその姉妹しまいせんレナごう観測かんそくせんコオペラツィアごうの3せき構成こうせいされていた[180]
  47. ^ 現在げんざいは「大利根おおとね水道すいどう」としてしたしまれている[182]
  48. ^ 米国べいこくのグレイシャー、ウェスト・ウインド、ベルギーのポーラハブ、ポーラシルケル、オーストラリアのサラダン、ソ連それんオビ[194]
  49. ^ 当時とうじ放送ほうそうされていた月光げっこう仮面かめんだい3マンモスコングへん背景はいけい試運転しうんてんちゅう宗谷そうや偶然ぐうぜんうつんでいるシーンがある。
  50. ^ 106、107ごう名付なづけられた。
  51. ^ 201、202ごう名付なづけられた。
  52. ^ トチ、アク、ミヤと名付なづけられた[208]
  53. ^ 見送みおくせん若草わかくさあつみ、うみかぜ、うらかぜ、むつき
  54. ^ べい国務省こくむしょう係官かかりかん[205]
  55. ^ 宗谷そうやふね底部ていぶ建造けんぞう当初とうしょからじゅう構造こうぞう強固きょうこたいごおりさくられてこらえこうせい十分じゅうぶん判断はんだんされ経費けいひ節約せつやくじょうこの部分ぶぶん補強ほきょう工事こうじ対象たいしょうがいとされた[217]
  56. ^ 302ごう名付なづけられた。
  57. ^ 海洋かいよう生物せいぶつ資源しげん調査ちょうさうみたかまるべつ行動こうどう担当たんとうすることになった。
  58. ^ 当時とうじ日赤にっせきにもない最新さいしん医療いりょう設備せつび調ととのっていたと医師いし証言しょうげんした[226]
  59. ^ 衰弱すいじゃくした患者かんじゃ輸血ゆけつ必要ひつようだったが、あいにくと輸血ゆけつよう血液けつえきってきてなかった。だが乗組のりくみいんすうめい献血けんけつ名乗なの輸血ゆけつすることができた。
  60. ^ 同日どうじつ、そうやが日本にっぽん鋼管こうかん鶴見つるみ造船ぞうせんしょにて進水しんすい

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 海上保安庁かいじょうほあんちょうふねてい航空機こうくうき整備せいびあゆみ』
  2. ^ a b 海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』2006ねん11がつごう 153ぺーじ
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 資料しりょうガイド3宗谷そうや』46ぺーじ
  4. ^ a b c d e f g 文部省もんぶしょう 1963, p. 228.
  5. ^ a b MDLニュース サヨナラ宗谷そうや カメラレポート宗谷そうや遍歴へんれき
  6. ^ a b c わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや だいいちしょう-幸運こううんふね-22ぺーじ
  7. ^ ふね科学かがくかん資料しりょうガイド3宗谷そうや』21ぺーじ
  8. ^ 若井わかいのぼる小口こぐちだか 『14にんと5ひき越冬えっとうたい』5ぺーじ
  9. ^ 海上保安庁かいじょうほあんちょうさんじゅうねん 45ぺーじ
  10. ^ a b c d e f 日本にっぽん補助ほじょ艦艇かんてい物語ものがたり 232-233ぺーじ〔 (4)運送うんそうかん(雑用ざつよう)宗谷そうや(だい) 〕
  11. ^ a b c d e 補助ほじょ艦艇かんてい奮戦ふんせん 2016, p. 282b宗谷そうや
  12. ^ 補助ほじょ艦艇かんてい奮戦ふんせん 2016, p. 261志賀しが(しが)
  13. ^ 補助ほじょ艦艇かんてい奮戦ふんせん 2016, p. 282a宗谷そうや(そうや/測量そくりょうかん)
  14. ^ 昭和しょうわ16ねん12月14にち昭和しょうわ17ねん3がつ17にち 聖川ひじりかわまる戦闘せんとう詳報しょうほう ウとう作戦さくせんける作戦さくせん PR作戦さくせん 搭乗とうじょういんひょう(4) 」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C08030645600  p.1(4F機密きみつだい206ばんでん)(りゃく)〔 いちがつじゅうにち (13)宗谷そうや (14)だいよん測量そくりょうたい/(65)田子たつこうらまるそぎル 〕
  15. ^ #だい8艦隊かんたい日誌にっし(2) pp.23-25(昭和しょうわ17ねん10がつ1にち時点じてんだいはち艦隊かんたい編制へんせいひょう)
  16. ^ 明治めいじ38ねん8がつ10にちづけ 海軍かいぐん大臣だいじん官房かんぼう 官房かんぼうだい3040ごう
  17. ^ 灯台とうだい補給ほきゅうせんとしての後継こうけい若草わかくさ南極なんきょく観測かんそくせんとしての後継こうけいふじ
  18. ^ 大野おおの 2009, p. 18.
  19. ^ 大野おおの 2009, p. 8.
  20. ^ 大野おおの 2009, p. 42.
  21. ^ 大野おおの 2009, pp. 34–35.
  22. ^ 日本にっぽん補助ほじょ艦艇かんてい物語ものがたり 229-230ぺーじ〔 (1)砕氷さいひょうかん 大泊おおとまり
  23. ^ 大野おおの 2009, p. 38.
  24. ^ 大野おおの 2011, p. 56.
  25. ^ ふね科学かがくかん資料しりょうガイド3宗谷そうや』17ぺーじ
  26. ^ 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ別冊べっさついちおくにん昭和しょうわ昭和しょうわ船舶せんぱくだい23ごう 地領ちりょうまる宗谷そうや)できた千島ちしま松林まつばやしくすのきつよし手記しゅき 216-219ぺーじ
  27. ^ 大野おおの 2011, pp. 58–59.
  28. ^ 大野おおの 2011, pp. 63–64.
  29. ^ だい- 2011, p. 70.
  30. ^ ぐん極秘ごくひ昭和しょうわ13ねん5がつ4にちけ、「改装かいそうしん砕氷さいひょうかん」の設計せっけい図面ずめん存在そんざいし、現在げんざいくれ大和やまとミュージアムが所蔵しょぞう
  31. ^ 昭和しょうわ16ねん2がつ28にちづけ 陸軍りくぐん整備せいび局長きょくちょう りくささえみつだい556ごう特種とくしゅ作戦さくせん準備じゅんびともな特大とくだいはつだいはしけぶね工作こうさくせんとう整備せいびかんするけん」にたいする、昭和しょうわ16ねん6がつ9にちづけ 陸軍りくぐん運輸うんゆ部長ぶちょう うんみつだい921ごう特殊とくしゅ作戦さくせん準備じゅんびともな工作こうさくせん及特大発だいはつてい整備せいび完了かんりょう報告ほうこく」。
  32. ^ 昭和しょうわ15ねん2がつ20にちづけ 海軍かいぐん大臣だいじん たちだい28ごう
  33. ^ 昭和しょうわ15ねん2がつ20にちづけ 海軍かいぐんないれいだい120ごう
  34. ^ 木俣きまたしげるろう残存ざんそん帝国ていこく艦艇かんてい』251ぺーじ
  35. ^ 大野おおの 2011, p. 71.
  36. ^ 海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』1983ねん2がつごう 93ぺーじ
  37. ^ 昭和しょうわ15ねん6がつ4にちづけ 海軍かいぐんないれいだい383ごう
  38. ^ 補助ほじょ艦艇かんてい奮戦ふんせん 2016, p. 283だいはく(おおどまり/砕氷さいひょうかん)
  39. ^ 大野おおの 2009, p. 39.
  40. ^ 大野おおの 2009, pp. 46–48.
  41. ^ 大野おおの 2009, pp. 73–74.
  42. ^ 昭和しょうわ15ねん6がつ4にちづけ 海軍かいぐん公報こうほう部内ぶないげんだい3518ごう艦船かんせん所在しょざい 6がつ4にち午前ごぜん10調ちょう」、および昭和しょうわ15ねん6がつ5にちづけ 海軍かいぐん公報こうほう部内ぶないげんだい3519ごう艦船かんせん所在しょざい 6がつ5にち午前ごぜん10調ちょう」。
  43. ^ 大野おおの 2009, p. 56.
  44. ^ 大野おおの 2011, pp. 88–89.
  45. ^ 大野おおの 2011, p. 90.
  46. ^ 大野おおの 2011, p. 95.
  47. ^ 大野おおの 2011, p. 100.
  48. ^ 大野おおの 2011, p. 108.
  49. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, p. 51.
  50. ^ 大野おおの 2011, p. 112.
  51. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, pp. 52a-53士官しかんしついた開戦かいせんほう
  52. ^ #S1701よこ鎮日(4) p.1(昭和しょうわ17ねん1がつ7にち記事きじ)〔 特務とくむかん宗谷そうやぐん需品じゅひん輸送ゆそう任務にんむノタメ南洋なんようこう横須賀よこすかはつ
  53. ^ #だい4艦隊かんたい日誌にっし(1) pp.25-27(昭和しょうわ17ねん2がつ)〔 (ロ)麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう(其ノ) 〕
  54. ^ #だい4艦隊かんたい日誌にっし(1) pp.39-41(昭和しょうわ17ねん3がつ)〔 麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう(其ノ) 〕
  55. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, pp. 53–55"宗谷そうやおばさん"の上陸じょうりく作戦さくせん
  56. ^ a b わりダネ軍艦ぐんかん 2017, p. 55.
  57. ^ わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや だいいちしょう-幸運こううんふね-28ぺーじ
  58. ^ 大野おおの 2011, p. 126.
  59. ^ 大野おおの 2011, p. 128.
  60. ^ a b #だい4艦隊かんたい日誌にっし(2) pp.6-8(昭和しょうわ17ねん4がつ)〔 麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう(其ノ) 〕
  61. ^ #S1703はちとく日誌にっし p.11〔 (さん)作戦さくせん指導しどう (イ)(中略ちゅうりゃく)ほんがつまつニハ麾下きか兵力へいりょく大部たいぶヲ八特根司令官直率シ「ボーゲンビル」しましょ要地ようち攻略こうりゃくさらよんがつにゅうリテハだいはちじゅういち警備けいびたい一部いちぶヲシテ30dg司令しれいしもニ「ロレンガウ」ノ 宗谷そうや艦長かんちょうしもニ「タラシー」ノ攻略こうりゃくおっと從事じゅうじセシメ豫定よてい作戰さくせん遂行すいこうルコトヲとくタリ 〕
  62. ^ 大野おおの 2011, p. 131.
  63. ^ #S1704はちとく日誌にっし p.5(だいはち根拠地こんきょちたい改編かいへん経緯けいい)
  64. ^ #S1704はちとく日誌にっし pp.5-11(R方面ほうめん防備ぼうび部隊ぶたい兵力へいりょく部署ぶしょ軍隊ぐんたい区分くぶん)
  65. ^ #S1704はちとく日誌にっし pp.11-14〔 (ハ)MO作戰さくせんニ於テとう部隊ぶたい兵力へいりょく大部たいぶこれ参加さんかセシムルトども攻略こうりゃく部隊ぶたい出發しゅっぱつ準備じゅんび作業さぎょう全幅ぜんはば支援しえんス 〕
  66. ^ #S1704はちとく日誌にっし p.14〔 測量そくりょう部隊ぶたい| |宗谷そうや特務とくむ艦長かんちょう宗谷そうや だいよん測量そくりょうたいいちすんでれいニヨル急速きゅうそく設營せつえい 、「ニューギニヤ」東端ひがしばたくさむらとう方面ほうめん水路すいろ調査ちょうさ
  67. ^ a b #だい4艦隊かんたい日誌にっし(2) pp.15-17(昭和しょうわ17ねん5がつ)〔 麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう(其ノ) 〕
  68. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, pp. 56a-58陸戦りくせんたいせてツラギへ
  69. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 179–181支援しえんたいのグァム進出しんしゅつ
  70. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 184–185護衛ごえいたい作戦さくせん計画けいかくわせ
  71. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 122a-123作戦さくせん計画けいかく最終さいしゅう決定けってい
  72. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 122b-123.
  73. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 266a-268護衛ごえいたい占領せんりょうたい航空こうくうたい
  74. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 266b-268.
  75. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, p. 56b.
  76. ^ わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや だいいちしょう-幸運こううんふね-30ぺーじ
  77. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, p. 002a(付図ふずだい)〔 ミッドウェーおよびアリューシャン方面ほうめんにおけるかく部隊ぶたい進撃しんげき行動こうどう 〕(ミッドウェー部隊ぶたいろくがつよんにちまで、アリューシャン部隊ぶたいろくがつにちひるまで)
  78. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, p. 002b.
  79. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 270–271支援しえんたい
  80. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, p. 269船団せんだん発見はっけん攻撃こうげき
  81. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 478a-479船団せんだん部隊ぶたいの避退
  82. ^ a b c 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 478b-479.
  83. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 492–497船団せんだん部隊ぶたいの避退(ろくがつろくにちななにち)
  84. ^ 戦史せんし叢書そうしょ43 1971, pp. 538–539船団せんだん部隊ぶたいのグァム、トラック帰投きとう
  85. ^ a b #だい4艦隊かんたい日誌にっし(2) p.24(昭和しょうわ17ねん6がつ)〔 麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう
  86. ^ 大野おおの 2011, p. 144.
  87. ^ #だい4艦隊かんたい日誌にっし(2) pp.20-23〔 (a)だいなな兵力へいりょく部署ぶしょ(ろくがつじゅうよんにち迠)/(b)だいはち兵力へいりょく部署ぶしょ ろくがつじゅうにち 〕、#S1706はちとく日誌にっし p.8〔 (ロ)ろくがつじゅう一日附南洋部隊電令作第二二〇ごうヲ以テ宗谷そうや及第きゅうだいよん測量そくりょうたい南洋なんよう部隊ぶたいぬしたいヨリじょキR方面ほうめん防備ぼうび部隊ぶたいヘラル 〕
  88. ^ #S1706はちとく日誌にっし pp.10-11〔 (B)「カビンエン」航空こうくう基地きち設營せつえい関係かんけい兵力へいりょく部署ぶしょ(機密きみつR方面ほうめん防備ぼうび部隊ぶたい命令めいれいさくだいごう
  89. ^ #だい4艦隊かんたい日誌にっし(2) pp.30-33(昭和しょうわ17ねん7がつ)〔 麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう(其ノ)なながつ
  90. ^ a b わりダネ軍艦ぐんかん 2017, p. 57.
  91. ^ つかめなかった勝利しょうり 1994, pp. 97–101.
  92. ^ つかめなかった勝利しょうり 1994, p. 351942ねん6がつ~8がつあいだのソロモン諸島しょとう海域かいいきでの行動こうどう(オーストラリア戦争せんそう記念きねんかん提供ていきょう)
  93. ^ a b つかめなかった勝利しょうり 1994, pp. 98–99.
  94. ^ #だい8艦隊かんたい日誌にっし(1) p.47(昭和しょうわ17ねん8がつ8にち)〔 RAF方面ほうめん進出しんしゅつ設營せつえいたい進出しんしゅつ中止ちゅうし帰投きとういのち反轉はんてんス あきらまる「セントヂヨウジ」みさきなないちよんかいりニ於テあかりまる雷撃らいげきヲ受ケ沈没ちんぼつス 〕
  95. ^ a b つかめなかった勝利しょうり 1994, pp. 22–23.
  96. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, p. 58b.
  97. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, pp. 58a-61ラバウルこうにB-17来襲らいしゅう
  98. ^ #だい4艦隊かんたい日誌にっし(2) pp.37-39(昭和しょうわ17ねん8がつ)〔 麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう(其ノ)はちがつ
  99. ^ 桜林さくらばやし美佐みさ奇跡きせきふね宗谷そうや』49ぺーじ
  100. ^ #だい4艦隊かんたい日誌にっし(2) pp.42-44(昭和しょうわ17ねん9がつ)〔 (イ)麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう(其ノいち)きゅうがつ
  101. ^ 大野おおの 2011, pp. 149–150.
  102. ^ a b わりダネ軍艦ぐんかん 2017, p. 60.
  103. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, p. 61.
  104. ^ a b #だい8艦隊かんたい日誌にっし(4) p.40〔 いちがつじゅうはちにち宗谷そうや「クインカロラ」西方せいほうよんかいりニ於テてきせん雷撃らいげきヲ受ケいち命中めいちゅう不發ふはつch28爆雷ばくらい攻撃こうげき効果こうか確実かくじつ
  105. ^ 大野おおの 2009, p. 120.
  106. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, pp. 62–63またもおこった戦場せんじょう奇跡きせき
  107. ^ 昭和しょうわ16.12~18.12 だい東亜とうあ戦争せんそう経過けいか概要がいよう(護衛ごえいたいせん関係かんけい)の1(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)昭和しょうわ18ねん1がつ」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C16120657700 〔28| |ブーゲンビルとうNW海面かいめんニテ28chハてき(潜水せんすいかん)攻撃こうげき(32chg)| |(潜水せんすいかん)×1撃破げきは
  108. ^ 大野おおの 2009, p. 121.
  109. ^ #だい4艦隊かんたい日誌にっし(3) pp.49-51(昭和しょうわ18ねん8がつ)〔 麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう
  110. ^ 大野おおの 2011, p. 172.
  111. ^ #S1812二水にすいせん日誌にっし(2) pp.8-9〔 (2)24dg(海風かいふう)前月ぜんげつ引続ひきつづけひのと輸送ゆそう船団せんだんだいいちふんだん護衛ごえいよんにち「ブラウン」ちゃく/八日同但馬丸日美丸ヲ護衛ごえい「ブラウン」はつ/じゅういちにち「クエゼリン」ちゃく/じゅうにちどうはつ「ウオッジエ」着陸ちゃくりくへいあげ搭後即日そくじつはつ/じゅうさんにち「クエゼリン」ちゃく即日そくじつはつ/じゅうはちにち「トラツク」ちゃく(以下いかりゃく) 〕
  112. ^ 大野おおの 2011, pp. 174–175.
  113. ^ #S1812二水にすいせん日誌にっし(3) p.44〔 いちさんにちいちさん(司令しれい)24dg(あてりゃく)ちょう船団せんだんだいいちふんだん(海風かいふう護衛ごえい)「トラック」ニこうケ「ルオット」はつ 以下いか畧 〕、どう部隊ぶたい同月どうげつ戦時せんじ日誌にっし p.52〔 いちはちにちきゅう〇〇(司令しれい)24dg(あてりゃく)ちょう船団せんだんだいいちふんだん24dg(海風かいふう)護衛ごえいPT 〕、#S1809いちみずせん日誌にっし(4) p.41〔 じゅうはち(天候てんこうりゃく)〇きゅう〇〇しお「トラック」ちゃく(T船團せんだん護衛ごえい)(以下いかりゃく) 〕
  114. ^ #S1812二水にすいせん日誌にっし(3) pp.9-10〔 涼風すずかぜ ちょう輸送ゆそう船団せんだんだい二分にぶんだん護衛ごえいいちにち「ポナペ」ちゃく(中略ちゅうりゃく)じゅうはちにち「トラック」歸着きちゃく(以下いかりゃく) 〕
  115. ^ トラックだい空襲くうしゅう 1987, pp. 159a-161動力どうりょく勝利しょうり〈 ――測量そくりょうかん宗谷そうや」〉
  116. ^ トラックだい空襲くうしゅう 1987, p. 159b.
  117. ^ a b c d e f g トラックだい空襲くうしゅう 1987, p. 160.
  118. ^ 大野おおの 2009, pp. 142–143.
  119. ^ a b 大野おおの 2011, p. 184.
  120. ^ 大野おおの 2011, pp. 188–189.
  121. ^ 大野おおの 2009, p. 162.
  122. ^ #S18.12じゅう戦隊せんたい日誌にっし(4) p.7〔 (ム)じゅうよんにち 野分のわけあずま松二まつじごう船團せんだん護衛ごえい「サイパン」はつ横須賀よこすかニ囘航 さんじゅういちにち
  123. ^ #S18.12じゅういちみずせん日誌にっし(3) pp.17-18〔 よん(天候てんこうりゃく)〇〇〇船団せんだん「サイパン」出撃しゅつげき(以下いかりゃく) 〕
  124. ^ 戦史せんし叢書そうしょ46 1971, pp. 359–360ひがしまつごう船団せんだん
  125. ^ a b #S18.12じゅういちみずせん日誌にっし(3) p.18〔 ろく(天候てんこうりゃく)いちさん〇〇宗谷そうやかん故障こしょう續行ぞっこう不能ふのう きょずみ 那智なちまる(とく砲艦ほうかん)ヲたい父島ちちじま直行ちょっこうセシム(はちにちいちさんちゃく)(以下いかりゃく) 〕
  126. ^ 大野おおの 2009, pp. 194–195.
  127. ^ だいじゅう戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(昭和しょうわ19ねん5がつ) pp.10-11〔 (5)ゆきふう 大和やまと 摩耶まや警戒けいかいにんいちにち「リンガ」ちゃくじゅうにちまでどう方面ほうめんニ於テ訓練くんれん警戒けいかい待機たいき從事じゅうじ じゅういちにち「リンガ」はつ「タウイタウイ」ニこう出撃しゅつげき前衛ぜんえい警戒けいかいにんじゅうよんにち「タウイタウイ」泊地はくちりゃく掃ノため先行せんこう同日どうじつ同地どうち掃海そうかい實施じっしス(以下いかりゃく) 〕
  128. ^ a b #S1904いちみずせん日誌にっし(2) pp.8-9(昭和しょうわ19ねん5がつ)〔 麾下きか艦船かんせん部隊ぶたい行動こうどう
  129. ^ #S1904いちみずせん日誌にっし(2) pp.13-14〔 ななにちいち〇〇さん(長官ちょうかん)HPB(あてりゃく)なな司令しれいハ七駆及野風ヲりつきた千島ちしまゆき「レ」船團せんだん(天領てんりょうまる、サマランまる北洋ほくようまる信濃しなのまる)ノ護衛ごえいにんズベシ 〕
  130. ^ #S1904いちみずせん日誌にっし(2) p.49(昭和しょうわ19ねん5がつ15にち)〔 〇なな〇〇 じゅうはち(不知火しらぬい)白陽丸しらようがん護衛ごえいほろむしろはついちななさんなな「レ」船團せんだん護衛ごえいほろむしろいちはちよん 阿武隈川あぶくまがわないおきはつ大湊おおみなと回航かいこう
  131. ^ 大野おおの 2011, pp. 195–198.
  132. ^ 大野おおの 2011, p. 201.
  133. ^ 大野おおの 2011, pp. 208–210.
  134. ^ 大野おおの 2009, p. 166.
  135. ^ 大野おおの 2009, p. 171.
  136. ^ 大野おおの 2009, p. 174.
  137. ^ 大野おおの 2011, p. 222.
  138. ^ わりダネ軍艦ぐんかん 2017, pp. 41–43ものをいったてんプラ
  139. ^ 残存ざんそん帝国ていこく艦艇かんてい』92ぺーじ
  140. ^ 大野おおの 2011, pp. 222–223.
  141. ^ 補助ほじょ艦艇かんてい奮戦ふんせん 2016, p. 286大浜おおはま(おおはま/標的ひょうてきかん)
  142. ^ 大野おおの 2011, p. 236.
  143. ^ 大野おおの 2011, pp. 248–250.
  144. ^ 昭和しょうわ15ねん4がつ24にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい469ごうアジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072077900 で閲覧えつらん可能かのう
  145. ^ a b 昭和しょうわ15ねん6がつ4にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい488ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072078200 で閲覧えつらん可能かのう
  146. ^ a b 昭和しょうわ15ねん10がつ25にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい547ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072079200< で閲覧えつらん可能かのう
  147. ^ a b 昭和しょうわ16ねん8がつ11にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい688ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072081700 で閲覧えつらん可能かのう
  148. ^ a b 昭和しょうわ18ねん4がつ26にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1102ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072090700 で閲覧えつらん可能かのう
  149. ^ 昭和しょうわ19ねん2がつ28にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1348ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072096000 で閲覧えつらん可能かのう
  150. ^ 昭和しょうわ19ねん5がつ31にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい1491ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072098900 で閲覧えつらん可能かのう
  151. ^ 昭和しょうわ19ねん8がつ22にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう かぶと だい1571ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072100600 で閲覧えつらん可能かのう
  152. ^ 昭和しょうわ20ねん2がつ26にちづけ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう かぶと だい1731ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072103500 で閲覧えつらん可能かのう
  153. ^ 昭和しょうわ20ねん12月20にちづけ だい復員ふくいんしょう ないれいだい12ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C12070535400 で閲覧えつらん可能かのう
  154. ^ a b 昭和しょうわ21ねん3がつ9にちづけ だい復員ふくいんしょう辞令じれい公報こうほう かぶと だい79ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072158700 で閲覧えつらん可能かのう
  155. ^ a b 昭和しょうわ21ねん6がつ7にちづけ だい復員ふくいんしょう辞令じれい公報こうほう かぶと だい152ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C13072159300 で閲覧えつらん可能かのう
  156. ^ 昭和しょうわ21ねん7がつ1にちづけ 復員ふくいんちょう ふくだい67ごうさだめによる自動じどう解職かいしょく
  157. ^ 海人あましゃ[世界せかい艦船かんせん]1983ねん2がつごう 94ぺーじ
  158. ^ 正式せいしき命名めいめいは12月1にち
  159. ^ 昭和しょうわ20ねん12月1にちづけ だい復員ふくいんしょう ないれいだい6ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C12070535400 で閲覧えつらん可能かのう
  160. ^ 昭和しょうわ21ねん8がつ15にちづけ 復員ふくいんちょう ふくだい165ごう。アジア歴史れきし資料しりょうセンター レファレンスコード C12070541500 で閲覧えつらん可能かのう
  161. ^ 大野おおの 2009, p. 214.
  162. ^ 日本にっぽん燈台とうだい 214ぺーじ
  163. ^ 大野おおの 2011, pp. 278–280.
  164. ^ [世界せかい艦船かんせん]2003ねん7がつ増刊ぞうかん 194ぺーじ
  165. ^ 川嶋かわしま康夫やすお奇跡きせきふね宗谷そうや物語ものがたり』53-54ぺーじ
  166. ^ 大野おおの 2011, pp. 288–291.
  167. ^ 海上保安庁かいじょうほあんちょうふねてい航空機こうくうき整備せいびあゆみ』506ぺーじ
  168. ^ a b 大野おおの 2011, p. 353.
  169. ^ a b c d e 日本にっぽん燈台とうだい 552ぺーじ
  170. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 15.
  171. ^ 文部省もんぶしょう 1963, pp. 244–247.
  172. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 16.
  173. ^ 南極なんきょくOBかい, p. 184.
  174. ^ もとらいがた海防かいぼうかんしんみなみ
  175. ^ ふね科学かがくかん資料しりょうガイド3宗谷そうや』37ぺーじ
  176. ^ 南極なんきょく新聞しんぶん じょう 朝比奈あさひな菊雄きくおへん 32ぺーじ
  177. ^ 大野おおの 2011, pp. 409–412.
  178. ^ アサヒニュース『昭和しょうわ基地きち』33ぺーじ
  179. ^ 南極なんきょくOBかい, p. 190.
  180. ^ 南極なんきょく航海こうかい』100-102ぺーじ
  181. ^ くましこり武晴たけはる南極なんきょく航海こうかい』105ぺーじ
  182. ^ 小島こじま敏男としお南極なんきょく観測かんそくせんものがたり』81-82ぺーじ
  183. ^ [https://www.youtube.com/watch?v=wh2Wpxk_oms&t=12s 1957ねんニュースハイライト(1957ねん(昭和しょうわ32ねん)
  184. ^ 1956ねん昭和しょうわ31ねん)10がつ16にち郵政省ゆうせいしょう告示こくじだい1131ごう「プリンスハラルド宗谷そうや船内せんない郵便ゆうびんきょく設置せっちするけん
  185. ^ 大野おおの 2011, p. 421.
  186. ^ 南極なんきょく新聞しんぶん 朝比奈あさひな菊雄きくおへん 67ぺーじ
  187. ^ 南極なんきょくOBかい, p. 183.
  188. ^ もとらいがた海防かいぼうかんらい
  189. ^ ふね科学かがくかん資料しりょうガイド3宗谷そうや』40ぺーじ
  190. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 127.
  191. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 128.
  192. ^ ふねてい航空機こうくうき整備せいびあゆみ』257ぺーじ
  193. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1957ねん10がつ09にち
  194. ^ 海上保安庁かいじょうほあんちょう せんてい航空機こうくうき整備せいびあゆみ 519ぺーじ
  195. ^ 海上保安庁かいじょうほあんちょう せんてい航空機こうくうき整備せいびあゆみ 525ぺーじ
  196. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 130.
  197. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1958ねん4がつ28にち
  198. ^ 南極なんきょく物語ものがたり『タロジロはきていた』226ぺーじ
  199. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1958ねん5がつ9にち
  200. ^ 宗谷そうやおもいで 29-34ぺーじ
  201. ^ 宗谷そうやおもいで 31-35ぺーじ
  202. ^ 宗谷そうやおもいで 34ぺーじ
  203. ^ 南極なんきょく輸送ゆそう 169p
  204. ^ 産経新聞さんけいしんぶん 1958ねん10がつ27にち
  205. ^ a b 文部省もんぶしょう 1963, p. 53.
  206. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 宗谷そうやまも幸運こううんほし 1959ねん1がつ7にち
  207. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1958ねん10がつ27にち
  208. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 67.
  209. ^ a b c d e 南極なんきょく25ねん 295-299ぺーじ
  210. ^ ふね科学かがくかん資料しりょうガイド3宗谷そうや』42ぺーじ
  211. ^ 南極なんきょくじゅうねん 297ぺーじ
  212. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 132.
  213. ^ 小島こじま敏男としお南極なんきょく観測かんそくせんものがたり』104-105ぺーじ
  214. ^ ふね科学かがくかん資料しりょうガイド3宗谷そうや』43ぺーじ
  215. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 73.
  216. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 134.
  217. ^ 南極なんきょくOBかい, p. 93.
  218. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 夕刊ゆうかん 1961ねん5がつ1にち
  219. ^ 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん 夕刊ゆうかん 1961ねん5がつ2にち
  220. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 136.
  221. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 138.
  222. ^ アサヒニュース『昭和しょうわ基地きち』63ぺーじ
  223. ^ 文部省もんぶしょう 1963, p. 146.
  224. ^ 大野おおの 2011, pp. 456–458.
  225. ^ 大野おおの 2011, p. 458.
  226. ^ わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや だいしょう-東奔西走とうほんせいそう-162ぺーじ
  227. ^ 大野おおの 2011, pp. 458–461.
  228. ^ a b c わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや-有安ありやす- 171ぺーじ
  229. ^ 木俣きまたしげるろう残存ざんそん帝国ていこく艦艇かんてい』256ぺーじ
  230. ^ a b わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや -有安ありやす-178ぺーじ
  231. ^ 小島こじま敏男としお南極なんきょく観測かんそくせんものがたり』124ぺーじ
  232. ^ a b もりひとし 写真しゃしんしゅうきた巡視じゅんしせん 17ぺーじ
  233. ^ 沿革えんかく « 小笠原おがさわらむら公式こうしきサイト
  234. ^ 朝日新聞あさひしんぶん 1965ねん10がつ26にち
  235. ^ 読売新聞よみうりしんぶん 1966ねん3がつ11にち
  236. ^ 海上保安庁かいじょうほあんちょうさんじゅうねん 85ぺーじ
  237. ^ 奇跡きせきふね宗谷そうや物語ものがたり 158ぺーじ
  238. ^ 大野おおの 2011, p. 468.
  239. ^ 朝日新聞あさひしんぶん-1972ねん3がつ8にち
  240. ^ a b c わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや だいしょう-東奔西走とうほんせいそう-151-156ぺーじ
  241. ^ わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや 40ねん-有安ありやす
  242. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん-1978ねん9がつ1にち
  243. ^ 北海道新聞ほっかいどうしんぶん-1978ねん3がつ23にち
  244. ^ 大野おおの 2011, p. 473.
  245. ^ わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや 40ねん-有安ありやす-182ぺーじ
  246. ^ わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや 40ねん-有安ありやす-184ぺーじ
  247. ^ [1] 日本にっぽん財団ざいだん図書館としょかん 2016ねん1がつ20日はつか観覧かんらん
  248. ^ [2] 日本にっぽん財団ざいだん図書館としょかん 2016ねん1がつ20日はつか観覧かんらん
  249. ^ ふね科学かがくかん資料しりょうガイド3宗谷そうや』45ぺーじ
  250. ^ 原口はらぐち和久かずひさ (2002). 成田なりた あの1ねん. 崙書房しょぼう. pp. 98-99 
  251. ^ 「“宗谷そうや保存ほぞん募金ぼきん」の活用かつよう報告ほうこくについて ふね科学かがくかん 2015ねん3がつ21にち閲覧えつらん
  252. ^ 初代しょだい南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや”の整備せいび工事こうじともな見学けんがく休止きゅうしについて(平成へいせい26ねん12月1にち平成へいせい27ねん1がつ3にち ふね科学かがくかん 2015ねん3がつ21にち閲覧えつらん
  253. ^ 南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや一般いっぱん公開こうかい一時いちじ休止きゅうしについて(平成へいせい28ねん9がつ1にち平成へいせい29ねん3がつ31にちふね科学かがくかん 2016ねん7がつ21にち閲覧えつらん
  254. ^ 東京とうきょう南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや」、37ねんぶり移動いどう 朝日新聞あさひしんぶん 2016ねん9がつ23にち閲覧えつらん
  255. ^ ふね科学かがくかん 南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや」4がつから公開こうかい再開さいかい”. 毎日新聞まいにちしんぶん (2017ねん3がつ26にち). 2018ねん2がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  256. ^ ふね科学かがくかん南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや」にまんふねかざり 進水しんすい80ねん”. ニフティニュース(毎日新聞まいにちしんぶんより転載てんさい) (2018ねん2がつ16にち). 2018ねん2がつ16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2018ねん2がつ16にち閲覧えつらん
  257. ^ 宗谷そうや生誕せいたん80周年しゅうねん記念きねん「オリジナルキーホルダー」を個数こすう限定げんてい(80)で制作せいさくしました。”. ふね科学かがくかん (2018ねん11月3にち). 2020ねん7がつ2にち閲覧えつらん
  258. ^ ふねてい航空機こうくうき整備せいびあゆみ』256ぺーじ
  259. ^ ふねてい航空機こうくうき整備せいびあゆみ』259ぺーじ
  260. ^ 大野おおの 2009, p. 462.
  261. ^ ジャーナリストとしてあゆんだみち 柴田しばた鉄治てつはる だい6かい南極なんきょくがえりのタロと観測かんそくせん宗谷そうや 朝日新聞あさひしんぶん北海道ほっかいどう旧友きゅうゆうかい会報かいほう 2015ねん3がつ21にち閲覧えつらん
  262. ^ funenokagakukanのツイート(1395584155254202374)

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 朝比奈あさひな菊雄きくおへん 南極なんきょく新聞しんぶん 上中かみなか  1982ねん
  • 赤井あかい謙一けんいち世界せかい砕氷さいひょうせん』(成山なりやまどう、2010ねんISBN 978-4-425-77171-4
  • 飯沼いいぬま一雄かずお「「宗谷そうや誕生たんじょう秘話ひわ 封印ふういんされた松尾まつお造船ぞうせんしょ問題もんだい うえした海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』2006ねん11がつごう No.666 pp150–155・2006ねん12がつごう No.667 pp.150–155
  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー、妹尾せのお作太郎さくたろう ちょ訳者やくしゃつかめなかった勝機しょうき サボとう海戦かいせん50ねん雪辱せつじょく光人みつひとしゃ、1994ねん7がつISBN 4-7698-0687-6 
  • 大野おおのかおる特務とくむかん宗谷そうや」の昭和しょうわ新潮社しんちょうしゃ、2009ねんISBN 4103904070 
  • 大野おおのかおる特務とくむかん宗谷そうや」の昭和しょうわ新潮社しんちょうしゃ新潮しんちょう文庫ぶんこ〉、2011ねんISBN 9784101332222 
  • 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかい日本にっぽん海軍かいぐんだい7かんだい10かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1995ねん
  • 海上保安庁かいじょうほあんちょうふねてい航空機こうくうき整備せいびあゆみ』1990ねん
  • 川嶋かわしま康夫やすお奇跡きせきふね宗谷そうや物語ものがたり』 (あすなろ書房しょぼう、1994ねんISBN 4751512315
  • 木俣きまたしげるろう残存ざんそん帝国ていこく艦艇かんてい図書としょ出版しゅっぱん 1972ねん pp251–257
  • 小島こじま敏男としお南極なんきょく観測かんそくせんものがたり』(成山なりやまどう、2005ねんISBN 4425947118
  • 桜林さくらばやし美佐みさ奇跡きせきふね宗谷そうや昭和しょうわはしつづけたうみまもがみ』(並木なみき書房しょぼう、2006ねんISBN 4890632069
  • 塩山しおやまさくいちほか『わりダネ軍艦ぐんかん奮闘ふんとう 裏方うらかたてっ任務にんむめいじけた異形いぎょう軍艦ぐんかんたちの航跡こうせきしお書房しょぼう光人みつひとしゃ、2017ねん7がつISBN 978-4-7698-1647-8 
    • (37-49ぺーじ)当時とうじ大浜おおはま艦長かんちょう海軍かいぐん中佐ちゅうさ山川やまかわ良彦よしひこ悲運ひうん高速こうそくばくげき標的ひょうてきかん大浜おおはま」のいかりとなみだ さい新鋭しんえい駆逐くちくかんなみの性能せいのうをもつ標的ひょうてきかんながらあぶられにとげには沈没ちんぼつ
    • (50-55ぺーじ)当時とうじ宗谷そうや主計しゅけいちょう海軍かいぐん主計しゅけい大尉たいいしおまん康裕やすひろ特務とくむかん宗谷そうや主計しゅけいちょう南方なんぽう従軍じゅうぐん 戦後せんご南極なんきょく観測かんそくせんとしてせた測量そくりょうかんよんおよ戦場せんじょう奇跡きせき
  • アルバム「写真しゃしんる『宗谷そうや』の生涯しょうがい海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』1983ねん2がつごう No.318 pp.45–49
    **伊東いとう直一なおかず「「宗谷そうや一代記いちだいき海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』1983ねん2がつごう No.318 pp.92–97
  • アルバム「あれから50ねん 昭和しょうわ31ねん10がつ 南極なんきょく観測かんそくせん改造かいぞう直後ちょくごの「宗谷そうや海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』2006ねん11がつごう No.666 pp.48–51
  • PLHのルーツ南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや回顧かいこする 海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』2012ねん7がつごうNo.762 pp.109–115
  • わがうみ故里ふるさと-回想かいそう 宗谷そうや 40ねん-宗谷そうや記念きねんかい、1984ねん
  • 宗谷そうやしのかい宗谷そうやおもいで』1987ねん
  • 巻頭かんとう特集とくしゅう南極なんきょく物語ものがたり 観測かんそくせん宗谷そうや」が目指めざした極限きょくげん大地だいちだい日本にっぽん絵画かいがモデルグラフィックス』2007ねん3がつごう No.268
  • 寺崎てらさき隆治りゅうじほか『補助ほじょ艦艇かんてい奮戦ふんせん えんした力持ちからも支援しえん艦艇かんてい全貌ぜんぼう戦場せんじょう実情じつじょうしお書房しょぼう光人みつひとしゃ、2016ねん6がつISBN 978-4-7698-1620-1 
    • (164-287ぺーじ)戦史せんし研究けんきゅう伊達だてひさ日本にっぽん海軍かいぐん補助ほじょ艦艇かんてい戦歴せんれき一覧いちらん 水上すいじょう母艦ぼかん潜水せんすい母艦ぼかん敷設ふせつかん一等いっとう輸送ゆそうかんとう輸送ゆそうかん敷設ふせつてい電纜でんらん敷設ふせつてい哨戒しょうかいてい駆潜艇くせんてい水雷すいらいてい海防かいぼうかん砲艦ほうかん特務とくむかんぜんさんさんせき太平洋戦争たいへいようせんそう
  • 燈光とうこうかい日本にっぽん燈台とうだい』1969ねん
  • 永田ながたたけし南極なんきょく観測かんそく事始ことはじめ』1992ねん
  • 南極なんきょくOBかい編集へんしゅう委員いいんかい南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや航海こうかい 航海こうかい機関きかん輸送ゆそう実録じつろく成山なりやまどう、2014ねんISBN 9784425948314 
  • 日本にっぽん極地きょくち研究けんきゅう振興しんこうかい南極なんきょく裏方うらかた余話よわ』1983ねん
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ ミッドウェー海戦かいせんだい43かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1971ねん3がつ 
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ 海上かいじょう護衛ごえいせんだい46かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1971ねん5がつ 
  • 福井ふくい静夫しずお福井ふくい静夫しずお著作ちょさくしゅう-軍艦ぐんかんななじゅうねん回想かいそうだいじゅうかん 日本にっぽん補助ほじょ艦艇かんてい物語ものがたり光人みつひとしゃ、1993ねん12月。ISBN 4-7698-0658-2 
  • 福島ふくしまひろし昭和しょうわ基地きち物語ものがたり』(あかね書房しょぼう、1985ねん改訂かいてい
  • ふね科学かがくかん資料しりょうガイド3宗谷そうや』(日本海事科学振興財団にほんかいじかがくしんこうざいだん、2012ねん改訂かいてい
  • 毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ別冊べっさついちおくにん昭和しょうわ昭和しょうわ船舶せんぱくだい23ごう地領ちりょうまる宗谷そうや)できた千島ちしまへ」 1980ねん5がつ pp.214–219
  • 特別とくべつ記事きじ南極なんきょく観測かんそくせん宗谷そうや」」 モデルアートしゃ『モデルアート』2007ねん3がつごう No.721
  • もりひとし写真しゃしんしゅうきた巡視じゅんしせん』 1978ねん
  • 文部省もんぶしょう南極なんきょくろくねん』1963ねん 
  • 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん文部省もんぶしょう、1982ねん
  • (写真しゃしんぶん)吉村よしむらちょうこれ<水中すいちゅうカメラマン>『トラックだい空襲くうしゅう 海底かいてい写真しゃしん連合れんごう艦隊かんたい泊地はくち悲劇ひげき光人みつひとしゃ、1987ねん3がつISBN 4-7698-0337-0 
  • 若井わかいのぼる小口こぐちだか 『14にんと5ひき越冬えっとうたい』(南極なんきょく観測かんそくだい3越冬えっとうたい、2008ねん
  • MDLニュース サヨナラ宗谷そうや 1978ねん10がつ
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ
    • 昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち だい4艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(1)』。Ref.C08030018200。 
    • 昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち だい4艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(2)』。Ref.C08030018300。 
    • 昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち だい4艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(3)』。Ref.C08030018400。 
    • 昭和しょうわ16ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち だい4艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(4)』。Ref.C08030018500。 
    • 昭和しょうわ17ねん9がつ14にち昭和しょうわ18ねん8がつ15にち だい8艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(1)』。Ref.C08030022500。 
    • 昭和しょうわ17ねん9がつ14にち昭和しょうわ18ねん8がつ15にち だい8艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(2)』。Ref.C08030022600。 
    • 昭和しょうわ17ねん9がつ14にち昭和しょうわ18ねん8がつ15にち だい8艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(3)』。Ref.C08030022700。 
    • 昭和しょうわ17ねん9がつ14にち昭和しょうわ18ねん8がつ15にち だい8艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(4)』。Ref.C08030022800。 
    • 昭和しょうわ17ねん9がつ14にち昭和しょうわ18ねん8がつ15にち だい8艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(5)』。Ref.C08030022900。 
    • 昭和しょうわ17ねん9がつ14にち昭和しょうわ18ねん8がつ15にち だい8艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(6)』。Ref.C08030023000。 
    • 昭和しょうわ17ねん9がつ14にち昭和しょうわ18ねん8がつ15にち だい8艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(7)』。Ref.C08030023100。 
    • 昭和しょうわ17ねん9がつ14にち昭和しょうわ18ねん8がつ15にち だい8艦隊かんたい戦時せんじ日誌にっし(8)』。Ref.C08030023200。 
    • 昭和しょうわ17ねん2がつ1にち昭和しょうわ17ねん2がつ28にち だい8特別とくべつ根拠地こんきょちたい戦時せんじ日誌にっし』。Ref.C08030253100。 
    • 昭和しょうわ17ねん3がつ1にち昭和しょうわ17ねん4がつ9にち だい8特別とくべつ根拠地こんきょちたい戦時せんじ日誌にっし』。Ref.C08030253200。 
    • 昭和しょうわ17ねん4がつ10日とおか昭和しょうわ17ねん4がつ30にち だい8特別とくべつ根拠地こんきょちたい戦時せんじ日誌にっし』。Ref.C08030253300。 
    • 昭和しょうわ17ねん5がつ1にち昭和しょうわ17ねん5がつ31にち だい8特別とくべつ根拠地こんきょちたい戦時せんじ日誌にっし』。Ref.C08030253400。 
    • 昭和しょうわ17ねん6がつ1にち昭和しょうわ17ねん6がつ30にち だい8特別とくべつ根拠地こんきょちたい戦時せんじ日誌にっし』。Ref.C08030253500。 
    • 昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん5がつ31にち だい10戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(4)』。Ref.C08030050300。 
    • 昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん5がつ31にち だい10戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(6)』。Ref.C08030050500。 
    • 昭和しょうわ18ねん9がつ1にち昭和しょうわ19ねん3がつ31にち だい1水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(4)』。Ref.C08030085900。 
    • 昭和しょうわ19ねん4がつ1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち だい1水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(1)』。Ref.C08030086400。 
    • 昭和しょうわ19ねん4がつ1にち昭和しょうわ19ねん8がつ31にち だい1水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし(2)』。Ref.C08030086500。 
    • 昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん2がつ29にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(1)』。Ref.C08030101800。 
    • 昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん2がつ29にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(2)』。Ref.C08030101900。 
    • 昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん2がつ29にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(3)』。Ref.C08030102000。 
    • 昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん2がつ29にち だい2水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(4)』。Ref.C08030102100。 
    • 昭和しょうわ17ねん1がつ1にち昭和しょうわ17ねん1がつ31にち 横須賀よこすか鎮守ちんじゅ戦時せんじ日誌にっし(4)』。Ref.C08030314600。 
    • 昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん5がつ31にち だい11水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(3)』。Ref.C08030127000。 
    • 昭和しょうわ18ねん12月1にち昭和しょうわ19ねん5がつ31にち だい11水雷すいらい戦隊せんたい戦時せんじ日誌にっし戦闘せんとう詳報しょうほう(4)』。Ref.C08030127100。 


関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう

座標ざひょう: 北緯ほくい3537ふん11びょう 東経とうけい13946ふん24びょう / 北緯ほくい35.619726 東経とうけい139.773246 / 35.619726; 139.773246 (宗谷そうや)