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寶來山神社 - Wikipedia

たから來山らいざん神社じんじゃ

和歌山わかやまけん伊都いとぐんかつらぎまちにある神社じんじゃ

たから來山らいざん神社じんじゃ(ほうらいさんじんじゃ)は、和歌山わかやまけん伊都いとぐんかつらぎまちにある神社じんじゃしん字体じたい表記ひょうきたから来山らいざん神社じんじゃ一般いっぱんてきもちいられる。

たから來山らいざん神社じんじゃ

拝殿はいでん
所在地しょざいち 和歌山わかやまけん伊都いとぐんかつらぎまち大字だいじ萩原はぎはら56
位置いち 北緯ほくい3417ふん30びょう 東経とうけい13528ふん7.7びょう / 北緯ほくい34.29167 東経とうけい135.468806 / 34.29167; 135.468806座標ざひょう: 北緯ほくい3417ふん30びょう 東経とうけい13528ふん7.7びょう / 北緯ほくい34.29167 東経とうけい135.468806 / 34.29167; 135.468806
主祭しゅさいしん 八幡はちまん大神おおがみ
菅原すがわら大神おおがみ
大山おおやま祗大しん
さる田彦たびこ大神だいじん
本殿ほんでん様式ようしき 一間いっけんしゃ春日しゅんじつづくりひのきがわ
例祭れいさい 10がつだい2日曜日にちようび
地図ちず
寶來山神社の位置(和歌山県内)
寶來山神社
たから來山らいざん神社じんじゃ
地図
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祭神さいじん

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ひかりじん天皇てんのうたからひさし4ねん773ねん)、和気清麻呂わけのきよまろ八幡宮はちまんぐう勧請かんじょうしたことにはじまるとされる[1]

寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)、とう神社じんじゃがある桛田そう(かせだのしょう)(げん和歌山わかやまけん伊都いとぐんかつらぎまち笠田中かせだなか一帯いったい)が和気清麻呂わけのきよまろゆかりの寺院じいんである神護かんごてら荘園しょうえんとなるが[1]、そのころ景観けいかんえがいたとされる2まいの桛田そう絵図えず(いずれも重要じゅうよう文化財ぶんかざい)が、神護かんごてらとう神社じんじゃとにのこされている[2]

とう神社じんじゃ神宮寺じんぐうじであるかみねがいてら源満仲みなもとのみつなか創建そうけんし、その三男さんなんみなもとけん住職じゅうしょくをしていた寺院じいんであるが、鎌倉かまくら時代ときよには荒廃こうはいしていた。そこに、神護かんごてら復興ふっこう尽力じんりょくした文覚もんがく熊野くまのからのかえりにこのおとずれ、再興さいこうしている[1][2]

戦国せんごく時代じだいになると社殿しゃでん荒廃こうはいしていたが、だいひさし年間ねんかん1521ねん - 1528ねん)に当地とうち土豪どごうよし(『伊都いとぐん』には「仙人せんにんおうただしきち」とあり、また紀伊きいぞく風土記ふどき』には、「勢田せたきち」とある)という人物じんぶつがいた。よしこう柏原かしわばら天皇てんのう三宮さんのみやあおいん高野山こうのやま福蔵ふくぞういんげんともえりょういん)に寓居ぐうきょしていたとき福蔵ふくぞういん後見こうけんとなって三宮さんのみやでんいくたっていたが、とく当社とうしゃ崇敬すうけいし、荒廃こうはいした社殿しゃでん再興さいこうしている。また、三宮さんのみやとのゆかりからだいなが5ねん1525ねん)8がつ27にちこう柏原かしわばら天皇てんのう宸筆しんぴつ神位しんいくん勅額ちょくがくせい一位勲八等日本第一大福田寶來山大明神)にかんする論旨ろんしたまわり、社領しゃりょうとして田地でんち10町歩ちょうぶ寄進きしんけている[1]。このころには、すでに神護かんごてらによる桛田そう統治とうち困難こんなんとなり、付近ふきん一帯いったい高野山こうのやま金剛峯寺こんごうぶじ荘園しょうえんであったこともあり、また高野山こうのやま福蔵ふくぞういん関係かんけいふかかったよし影響えいきょうもあり、桛田そう高野たかのさんとのかかわりをふかめていった[2]

創建そうけん当初とうしょ八幡宮はちまんぐうばれていたとう神社じんじゃが、いつごろからたから来山らいざん神社じんじゃばれるようになったかはかっていないが、だいなが5ねん(1525ねん)の年紀としのりのあるとう神社じんじゃ所蔵しょぞう古文書こもんじょ福蔵ふくぞういんきゅうぞう)には、「きち大明神だいみょうじん」とともに「たから来山らいざん大明神だいみょうじん」としるされており、たから来山らいざん大明神だいみょうじんしゃばれるようになっていた[2]

天正てんしょう10ねん1582ねん)に織田おだ信長のぶながこう野山のやまめようとしたさい、その兵火へいかって社殿しゃでん焼失しょうしつした[1]

その荒廃こうはいしていた当社とうしゃであるが江戸えど時代じだいはいって慶長けいちょう19ねん1614ねん)によし吉右衛門きちえもんなどによって復興ふっこうされた[1]

明治めいじ時代じだいになると、神仏しんぶつ分離ぶんりによって神宮寺じんぐうじかみねがいてら当社とうしゃ分離ぶんりして独立どくりつしている。

境内けいだい

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  • 本殿ほんでん
    • だいいち殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう19ねん1614ねん)に東村あずまむら大字だいじ笠田東かせだひがし)の土豪どごうよし吉右衛門きちえもんによって建立こんりゅう
    • だい殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう19ねん(1614ねん)に高野山こうのやま吉徳よしとくいん行人こうじんかた)によって建立こんりゅう
    • だいさん殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう19ねん(1614ねん)に東村あずまむら大字だいじ笠田東かせだひがし)の土豪どごうよし吉右衛門きちえもんによって建立こんりゅう
    • だいよん殿どの重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 慶長けいちょう19ねん(1614ねん)に東村あずまむら大字だいじ笠田東かせだひがし)の土豪どごうよし吉右衛門きちえもんによって建立こんりゅう
  • ぬさ殿どの
  • 拝殿はいでん
  • 弁天べんてん
  • 文覚もんがく和歌山わかやまけん指定してい史跡しせき) - 文覚もんがく上人しょうにんひらいた用水路ようすいろ
  • 社務しゃむしょ

末社まっしゃ

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文化財ぶんかざい

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重要じゅうよう文化財ぶんかざい

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  • 本殿ほんでん 4むねむねさつ4まい[3]
  • 紀伊きいこく桛田そう絵図えず[4]
    • 延徳えんとく三年三月日桛田庄牓示書出(いちつう
    • 慶安けいあんさん年賀ねんが勢田せたそう絵図えず

和歌山わかやまけん指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい

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  • 東殿ひがしとの
  • 西にし殿どの

和歌山わかやまけん指定してい史跡しせき

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  • 文覚もんがく

所在地しょざいち

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  • 和歌山わかやまけん伊都いとぐんかつらぎまち大字だいじ萩原はぎはら56

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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