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神護寺 - Wikipedia

神護かんごてら

京都きょうと右京うきょう高雄たかおにある高野山こうのやま真言宗しんごんしゅうのこ本山ほんざん寺院じいん

神護かんごてら(じんごじ)は、京都きょうと右京うきょううめはたけ高雄たかおまちにある高野山こうのやま真言宗しんごんしゅうのこ迹(ゆいせき)本山もとやま寺院じいん山号さんごう高雄山たかおやま本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい開基かいき和気清麻呂わけのきよまろである。

神護かんごてら
金堂こんどうへの石段いしだん
所在地しょざいち 京都きょうと京都きょうと右京うきょううめはたけ高雄たかおまち5
位置いち 北緯ほくい353ふん18.06びょう 東経とうけい13540ふん15.12びょう / 北緯ほくい35.0550167 東経とうけい135.6708667 / 35.0550167; 135.6708667座標ざひょう: 北緯ほくい353ふん18.06びょう 東経とうけい13540ふん15.12びょう / 北緯ほくい35.0550167 東経とうけい135.6708667 / 35.0550167; 135.6708667
山号さんごう こう雄山ゆうざん
宗派しゅうは 高野山こうのやま真言宗しんごんしゅう
寺格じかく のこ本山もとやま
本尊ほんぞん 薬師やくし如来にょらい国宝こくほう
創建そうけんねん てんちょう元年がんねん824ねん
開基かいき 和気清麻呂わけのきよまろ
正式せいしきめい こう雄山ゆうざん 神護かんごこく真言しんごんてら
別称べっしょう 高雄たかお神護かんごてら
札所ふだしょとう 西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょうだい44ばん
仏塔ぶっとう古寺ふるでらじゅうはちみことだい7ばん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみちだい90ばん京都きょうとだい10ばん
文化財ぶんかざい 木造もくぞうだい虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ坐像ざぞう絹本けんぽん着色ちゃくしょく釈迦如来しゃかにょらいぞうむらさきあや金銀きんぎんどろりょうさかい曼荼羅まんだらほか(国宝こくほう
大師堂だいしどう絹本けんぽんちょしょく真言しんごんはちぞう8ぶく木造もくぞう日光にっこう菩薩ぼさつ月光げっこう菩薩ぼさつ立像りつぞうほか(重要じゅうよう文化財ぶんかざい
公式こうしきサイト 弘法大師こうぼうだいし霊場れいじょう 遺跡いせき本山ほんざん だか雄山おやま神護かんごてらホームページ
法人ほうじん番号ばんごう 1130005002242 ウィキデータを編集
神護寺の位置(京都市内)
神護寺
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概要がいよう 編集へんしゅう

京都きょうと市街しがい北西ほくせい愛宕山あたごやま(924メートル)山系さんけい高雄山たかおやま中腹ちゅうふく位置いちする山岳さんがく寺院じいんで、紅葉こうよう名所めいしょとしてられる。清滝川きよたきがわかる高雄たかおきょうからなが参道さんどうあるいたさき山中さんちゅう金堂こんどう多宝塔たほうとう大師堂だいしどうなどの堂宇どううつ。神護かんごてら空海くうかい東寺とうじ高野山こうのやま経営けいえいたるまえ一時いちじじゅうしたてらであり、最澄さいちょうもここで法華経ほけきょう講義こうぎをしたことがあるなど、日本にっぽん仏教ぶっきょう史上しじょう重要じゅうよう寺院じいんである。

寺号じごうくわしくは「神護かんごこく真言しんごんてら(じんごこくそしんごんじ)」としょうする。てら根本こんぽん史料しりょうである「神護かんごてら略記りゃっき」や国宝こくほうの「文覚もんがく上人しょうにんよんじゅう箇条かじょう起請文きしょうもん」などにももっぱら「神護かんごてら」とあり、てら入口いりくち楼門ろうもんかるいたさつにも「神護かんごてら」とあることなどから、ほんこうでも「神護かんごてら」の表記ひょうきもちいる。

歴史れきし 編集へんしゅう

かみねがいてら和気わけ 編集へんしゅう

 
和気わけこう霊廟れいびょう

神護かんごてらは、いずれも和気わけわたしてらであったとおもわれる「かみねがいてら」と「高雄たかお山寺やまでら」という2つの寺院じいんてんちょう元年がんねん824ねん)に事実じじつじょう合併がっぺいしてできたてらである。2つの前身ぜんしん寺院じいんのうち、かみねがいてらは、和気清麻呂わけのきよまろ733ねん - 799ねん)によりてんおう元年がんねん781ねん)にてられたとされるてらであるが、その所在地しょざいちについては河内かわうちこく二上山にじょうざんせつやまこく男山おとこやませつなど諸説しょせつあり、いずれもいている。また、やまこくせつなかにはかみねがいてら石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう源流げんりゅうとして位置いちづけるせつもあるが、これも現時点げんじてんでは可能かのうせい範囲はんいまる[1]

和気清麻呂わけのきよまろ奈良なら時代じだい末期まっきから平安へいあん時代じだい初期しょき高級こうきゅう官僚かんりょうで、歴代れきだい天皇てんのう側近そっきんとして平安京へいあんきょう遷都せんとなどにちから発揮はっきした。また、そう道鏡どうきょう皇位こうい継承けいしょう問題もんだいにからんで流罪るざいになったことでもられている。しょうとく天皇てんのう信任しんにんあつかったそう道鏡どうきょうは「八幡やはただい菩薩ぼさつのおげ」により皇位こういものとされていたが、しょうとく天皇てんのう神意しんいさい確認かくにんすべく、和気清麻呂わけのきよまろ八幡はちまんだい菩薩ぼさつ鎮座ちんざする九州きゅうしゅう宇佐うさ八幡宮はちまんぐう派遣はけんした。宇佐うさからもどったきよし麻呂まろは「宇佐うさ八幡やはたは、臣下しんかもの皇位こういくことをのぞんでいない」と奏上そうじょうした。これが道鏡どうきょういかりにふれ、きよし麻呂まろあね和気広虫わけのひろむしほうひとしあま)は神護かんごけいくも3ねん769ねん)それぞれ大隅おおすみこく備後びんごこく流罪るざいとなった。道鏡どうきょう実際じっさい皇位こういのぞんでいたのかどうか事件じけん真相しんそうには不明ふめい部分ぶぶんもあるが、よくたからひさし元年がんねん770ねん)には、しょうとく天皇てんのう崩御ほうぎょし、天皇てんのう信望しんぼうあつかった道鏡どうきょう左遷させんされ、わるようにきよし麻呂まろこうむしゆるされてもどってきた[2]きよし麻呂まろ和気わけわたしてらであるかみねがいてら建立こんりゅうねがたのはそれから10ねんたからひさし11ねん780ねん)ともいい、すこのべれき年間ねんかん782ねん - 806ねん)ともいわれる。かみねがいてらという寺号じごう宇佐うさ八幡やはた神意しんいもとづいててたてらという意味いみである。のべれき12ねん793ねん)には「かみねがいてら能登のとこく墾田こんでんじゅうまち寄進きしんされた」むね記録きろく(「類聚るいじゅう国史こくし所収しょしゅう)があり、このとしかみねがいてら建立こんりゅう時期じき下限かげんとされている。

高雄たかお山寺やまでら 編集へんしゅう

もう1つの前身ぜんしん寺院じいんである高雄たかお山寺やまでら(または高雄たかおてら)は、現在げんざい神護かんごてらふるくから存在そんざいした寺院じいんである。和気清麻呂わけのきよまろ墓所はかしょいま神護かんごてら境内けいだいにあるところから、ここも和気わけゆかりの寺院じいんであることはたしかだが、創立そうりつ時期じき事情じじょうについては明確めいかくでない。きよし麻呂まろかみねがいてら建立こんりゅうしたのとほぼおな時期じき建立こんりゅうされたとされる。伝承でんしょうでは、らくきたたかみね京都きょうときたたかみね)に鎮座ちんざしていた愛宕あたご権現ごんげん愛宕山あたごやまうつりしたさいに、のいくつかの山岳さんがく寺院じいんとともに建立こんりゅうされたという。高雄たかお山寺やまでら歴史れきしじょうはつのべれき21ねん802ねん)である。このとし和気わけ当主とうしゅであった和気わけ弘世ひろよきよし麻呂まろ長男ちょうなん)は伯母おばたる和気広虫わけのひろむしほうひとしあま)のさん周忌しゅうきいとなむため、最澄さいちょう高雄たかお山寺やまでら招請しょうせいし、最澄さいちょうはここで法華ほっけかい(ほっけえ、法華経ほけきょう講説こうせつ)をおこなった[2]ひろしひとし3ねん812ねん)には空海くうかい高雄たかお山寺やまでらじゅうし、ここで灌頂(密教みっきょう重要じゅうよう儀式ぎしき)をおこなった。このとき、灌頂をけたもの氏名しめいけたそら海自かいじひつ名簿めいぼ(灌頂れきめい)が現存げんそん国宝こくほう指定していされているが[2]、そこにも「高雄たかお山寺やまでら」の寺号じごうえる。

空海くうかい以後いご 編集へんしゅう

てんちょう元年がんねん824ねん)の太政官だじょうかん(「類聚るいじゅう国史こくし」「類聚るいじゅうさんだいかく」など所載しょさい)によれば、このとしかみねがいてら高雄たかお山寺やまでら寺地てらちを「交換こうかん」し、寺号じごうを「神護かんごこく真言しんごんてら(じんごこくそしんごんじ)」とし、てら定額ていがくてらかん保護ほごあたえるいち定数ていすうわたしてらのこと)にれっせられた[2]寺地てらち交換こうかんおこなわれたのは、かみねがいてら所在しょざいする土地とちに「汚穢おあい」(けがれ)があり、仏法ぶっぽう道場どうじょうとしてふさわしくなかったからとのことである。ただし、最澄さいちょう空海くうかい高名こうみょうになるにつれて、和気わけなかでもりょう滞在たいざいした高雄たかお山寺やまでらあらためててらとして位置いちづけようとしたさいに、すでてら位置いちづけられていたかみねがいてら存在そんざい障害しょうがいになったために、「汚穢おあい」を口実こうじつとした寺地てらち交換こうかんというかたちてらえをおこなったとする見方みかたもある[1]。「神護かんごこく真言しんごんてら」とは、「八幡やはたしん加護かごにより国家こっか鎮護ちんご祈念きねんする真言しんごんてら」という意味いみで、このてら密教みっきょう寺院じいんであることを明確めいかくしめしている。

神護かんごてら空海くうかいのち弟子でしじつとし真済しんぜい別当べっとう住職じゅうしょく)となって護持ごじされたが、せいこよみ5ねん994ねん)と久安ひさやす5ねん1149ねん)に火災かさい焼失しょうしつするなどしたため、平安へいあん時代じだい末期まっきには衰退すいたいしていた。

文覚もんがくによる再興さいこう 編集へんしゅう

そこにあらわれたのが『平家ひらか物語ものがたり』などでられる武士ぶし出身しゅっしんそう文覚もんがくであった。かれじんやす3ねん1168ねん)、神護かんごてら参詣さんけいするが、八幡はちまんだい菩薩ぼさつ神意しんいによって創建そうけんされ、弘法大師こうぼうだいし空海くうかいゆかりのでもあるこのてらてていることをなげ再興さいこう勧進かんじんはじめると、薬師堂やくしどう空海くうかいじゅうぼうあとであるおさめ凉殿、不動堂ふどうどうなどを再建さいけんした[2]

しかし、文覚もんがく復興ふっこうをよりすすめようとしてうけたまわやす3ねん1173ねん)にこう白河しらかわ法皇ほうおう荘園しょうえん寄進きしん強要きょうようし、かえって法皇ほうおう激怒げきどさせてしまい、伊豆いずこくながされることとなった。その伊豆いずこく文覚もんがく流人るにんであったみなもと頼朝よりともたいらへの挙兵きょへいせまったという。文覚もんがくは、高倉天皇たかくらてんのう中宮なかみや徳子とくこ皇子おうじ安徳天皇あんとくてんのう出産しゅっさんにともなう恩赦おんしゃによってうけたまわ2ねん1178ねん)にゆるされるが、配流はいる期間きかんちゅう再建さいけん事業じぎょう事実じじつじょう中断ちゅうだんされる[2]

寿ことぶきひさし元年がんねん1182ねん)11月21にち文覚もんがく蓮華れんげおういん滞在たいざいちゅうのち白河しらかわ法皇ほうおうふたた直訴じきそこころみる。今回こんかい法皇ほうおううったえをききいれて荘園しょうえん寄進きしんおこない、さらみなもと頼朝よりとも援助えんじょけて再建さいけん事業じぎょう再開さいかいされる[2]文覚もんがく神護かんごてら再建さいけん事業じぎょうかたわら、頼朝よりとも法皇ほうおう連絡れんらくやくつとめるなどの政治せいじてき活動かつどうせている。文治ぶんじ6ねん1190ねん)2がつには法皇ほうおう神護かんごてら行幸ぎょうこう実現じつげんされた。ところが、あまりにも政治せいじ関与かんよしすぎた文覚もんがくみなもと頼朝よりとも直後ちょくご発生はっせいしたさん左衛門さえもん事件じけん関与かんよしたとして後鳥羽上皇ごとばじょうこうみなもととおるおやによって佐渡さどこくながされた[2]つうおや死後しごたてひとし2ねん1202ねん)にはゆるされてきょうもどるが、よくけんじん3ねん1203ねん[3]もしくは元久もとひさ2ねん1205ねん[2]には今度こんど対馬つしまこく隠岐おきこくとするせつもある)にながされ、配流はいるさき生涯しょうがいえることになる。後鳥羽上皇ごとばじょうこう神護かんごてらのべあたえ、神護かんごてら所領しょりょう没収ぼっしゅうして女房にょうぼう近臣きんしんたちすべあたえてしまったとされている[4]

うけたまわひさし3ねん1221ねん)、承久じょうきゅうらんによって後鳥羽上皇ごとばじょうこう配流はいるされ、あにまもりさだ親王しんのう在位ざいいのままてんきみとなってこう高倉たかくらいんとして院政いんせい開始かいしする。こう高倉たかくらいん文覚もんがくつながりがふかかったらしく、らん直後ちょくご弟子でし上覚じょうかく上覚じょうかくぼうぎょう慈)に没収ぼっしゅうされた神護かんご寺領じりょうあたえると、神護かんごてら再興さいこうめいじられる。

よしみろく元年がんねん1225ねん)に明恵あきえ導師どうしとして伝法でんぼうかいおさむされた[2]よくよしみろく2ねん1226ねん)に再興さいこう事業じぎょう完遂かんすいされ、3月にはくなっていたのち高倉たかくらいんつまであったきた白河しらかわいんまねいて「高雄たかおそう供養くよう」とばれるだい法要ほうようおこなわれた。そのとしの10がつ上覚じょうかくくなっている。ただし、このあいだかならずしも円滑えんかつだったわけではなく、きた白河しらかわいんおいである宗全そうぜん持明院じみょういんもとむね)を神護かんごてら別当べっとうえて上覚じょうかくから実権じっけん剥奪はくだつし、宗教しゅうきょうてき基盤きばんとぼしいのち高倉たかくらいん皇統こうとうのための御願ごがんてらにしようとはかった。さら宗全そうぜん藤原ふじわらたかしただしひじりはじめをその後継こうけいしゃ指名しめいしようとした。上覚じょうかくはこのうごきにはげしく反発はんぱつしたが、こう高倉たかくらいんあときた白河しらかわいん最大さいだい支援しえんしゃであったことやそして上覚じょうかく自身じしん寿命じゅみょうによって、宗全そうぜん実権じっけんうばわれることになった。しかし、御願ごがんてら構想こうそうきた白河しらかわいん実子じっし上覚じょうかく理解りかいしゃであった道深どうしん法親王ほうしんのう反対はんたいこう高倉たかくらいん皇統こうとうそのものの断絶だんぜつによって失敗しっぱいわっている[4]。なお、鎌倉かまくら時代ときよ華厳宗けごんしゅう復興ふっこうし、高山寺こうさんじ中興ちゅうこうしたそう明恵あきえ上覚じょうかくおいで、やはり神護かんごてらじゅうしたことがあった。

中世ちゅうせい後期こうき以降いこう 編集へんしゅう

神護かんごてら鎌倉かまくら時代じだい末期まっきこう宇多天皇うだてんのう空海くうかいゆかりの寺院じいんであることを理由りゆう保護ほごあたえ、そのである後醍醐天皇ごだいごてんのうからもおもんじられた[4]

その天文てんもん年間ねんかん1532ねん - 1555ねん)に兵火へいかかって全焼ぜんしょうしたが[2]元和がんわ元年がんねん1615ねん)に讃岐さぬきこく屋島寺やしまじからりゅういわおにゅうてらすると、りゅういわお帰依きえする京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら勝重かつしげ奉行ぶぎょうとなって[2]元和がんわ9ねん1623ねん)に金堂こんどうげん毘沙門堂びしゃもんどう)をはじめとして再興さいこうおこなわれた。江戸えど時代じだい中期ちゅうきには堂宇どうう7、ささえいん9、僧坊そうぼう15をかぞえるまでに再興さいこうされている[2]

しかし、明治めいじ時代じだいになると廃仏毀釈はいぶつきしゃくによって9つのささえいんと15のぼう破壊はかいされ、別院べついん2ヶてら末寺まつじすべてがてらうつされ、衰微すいびした[2]

1874ねん明治めいじ7ねん)には和気清麻呂わけのきよまろまつっていた護法ごほうぜん神社じんじゃまもるおう神社じんじゃ改称かいしょうされ別格べっかくかんぬさしゃれっせられ、1886ねん明治めいじ19ねん)に現在地げんざいちである上京かみぎょう桜鶴円おうかくえんまちうつされている[5]

1935ねん昭和しょうわ10ねん)に実業じつぎょう山口やまぐちげんほらによりあらたな金堂こんどう[6]や、多宝塔たほうとうりゅう王堂おうどう和気わけこう霊廟れいびょう茶室ちゃしつ寄進きしんされている。

1952ねん昭和しょうわ27ねん)には寺領じりょう一部いちぶ境内けいだいとして政府せいふより返還へんかんされている[2]

境内けいだい 編集へんしゅう

 
金堂こんどう
 
毘沙門堂びしゃもんどうおく)と五大堂ごだいどう手前てまえ
 
大師堂だいしどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい

周山しゅうざん街道かいどうの「山城やましろ高雄たかおバス停ばすていから清滝川きよたきがわわたり、徒歩とほやく20ふんなが石段いしだんのぼったさき神護かんごてら楼門ろうもん西にし正面しょうめんとしてつ。楼門ろうもんはいるとやま中腹ちゅうふくたいらに整地せいちした境内けいだいひろがり、右手みぎて書院しょいん和気わけこう霊廟れいびょう鐘楼しゅろう明王みょうおうどうち、そのさきには五大堂ごだいどう毘沙門堂びしゃもんどうみなみきにつ。毘沙門堂びしゃもんどう後方こうほうには大師堂だいしどうがある。五大堂ごだいどう北側きたがわ石段いしだんのぼった正面しょうめん金堂こんどう、その裏手うらて一段いちだんたかいところに多宝塔たほうとうつ。境内けいだい西端せいたんには地蔵じぞういんがある。

  • 金堂こんどう - 1935ねん昭和しょうわ10ねん)に山口やまぐちげんほら寄進きしんにより再建さいけん[7]楼門ろうもんはいってさかい内奥ないおうすすみ、右手みぎて石段いしだんのぼったさきつ。入母屋いりもやづくりほん瓦葺かわらぶきの本格ほんかくてき密教みっきょう仏堂ぶつどうである。須弥壇しゅみだん中央ちゅうおう厨子ずし本尊ほんぞん薬師やくし如来にょらい立像りつぞう国宝こくほう)を安置あんちし、左右さゆう日光にっこう菩薩ぼさつ月光げっこう(がっこう)菩薩ぼさつ立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)とじゅう二神にかみすすむ立像りつぞう左右さゆうはし四天王してんのう立像りつぞう安置あんちする。
  • りゅう王堂おうどう - 1935ねん昭和しょうわ10ねん)に山口やまぐちげんほら寄進きしんにより再建さいけん
  • 多宝塔たほうとう - 1935ねん昭和しょうわ10ねん)に山口やまぐちげんほら寄進きしんにより再建さいけん[8]金堂こんどうからさらに石段いしだんのぼったたかみにつ。内部ないぶ国宝こくほう五大ごだい虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつぞう安置あんちする(毎年まいとし5がつと10がつかく3日間にちかんほど公開こうかい)。
    • 表門おもてもん
  • 五大ごだいどう - 元和がんわ9ねん1623ねん建立こんりゅう[9]金堂こんどうへとのぼ石段いしだんしたつ。入母屋いりもやづくりさんあいだどう現在げんざい毘沙門堂びしゃもんどうとうてら金堂こんどうであった時代じだい五大堂ごだいどう講堂こうどうであった。
  • 毘沙門堂びしゃもんどう - 元和げんな9ねん(1623ねん建立こんりゅう五大堂ごだいどうみなみつ。入母屋いりもやづくり五間堂ごけんどう。1935ねん昭和しょうわ10ねん)に現在げんざい金堂こんどうてられるまえはこのどう金堂こんどうであり、本尊ほんぞん薬師如来像やくしにょらいぞうもここに安置あんちされていた。内部ないぶ厨子ずし平安へいあん時代じだい毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする[10]
  • 大師堂だいしどう重要じゅうよう文化財ぶんかざい) - 近世きんせい初期しょき細川ほそかわ忠興ただおき寄進きしんによる再建さいけん[11]毘沙門堂びしゃもんどう西側にしがわ入母屋いりもやづくり、杮(こけら)きの住宅じゅうたくふう仏堂ぶつどう空海くうかいじゅうぼうであった「納涼のうりょうぼう」を復興ふっこうしたもの。内部ないぶ厨子ずし正安まさやす4ねん1302ねんさくいた弘法大師こうぼうだいしぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)を安置あんちする(大師だいしぞう秘仏ひぶつで、11月1にち - 15にちのみ開帳かいちょう)。
  • 地蔵じぞういん - 江戸えど時代じだい塔頭たっちゅうとして創建そうけんされたがのちすたれ、1900ねん明治めいじ33ねん)に再興さいこうされた[12]。ここから、渓谷けいこくにしきくもけい」にかって厄除やくよけのかわらけげをおこなうことができる[13]
  • 文覚もんがく上人しょうにんはか
  • せいじん法親王ほうしんのうはか
  • 明王みょうおうどう - てんけい2ねん939ねん)に平将門たいらのまさかどらん勃発ぼっぱつしたときに、朱雀すざく天皇てんのう嵯峨天皇さがてんのう勅命ちょくめいにより弘法大師こうぼうだいし空海くうかいこくして神護かんごてら護摩堂ごまどう明王みょうおうどう)に奉安ほうあんされていた不動明王ふどうみょうおうぞうを、遍照寺へんしょうじひろしあさ大僧正だいそうじょうめいじて下総しもうさこくおおやけばらげん千葉ちばけん成田なりた並木なみきまち)の堂宇どうう捧持ほうじさせ、さんななにち(21日間にちかん朝敵ちょうてき調伏ちょうぶく護摩ごましゅうせしめた。よくてんけい3ねん940ねん)、らん平定へいてい朱雀すざく天皇てんのうひろしちょう帰京ききょうしようとしたが不動明王ふどうみょうおうぞううごこうとしないとのしらせをき、おおやけばら東国とうごく鎮護ちんご霊場れいじょうひらくべきとのかんがえのもと、神護かんご新勝寺しんしょうじてらめい下賜かし勅願ちょくがんてらとして創建そうけんさせた。扁額へんがく明王みょうおうどう」は代目だいめ市川いちかわ海老蔵えびぞうなな代目だいめ市川いちかわだん十郎じゅうろう)によるふで
  • 鐘楼しゅろう - 元和げんな年間ねんかん1615ねん - 1624ねん)に京都きょうと所司代しょしだい板倉いたくら勝重かつしげ寄進きしんにより再建さいけん[14]ろうづくり鐘楼しゅろうで、ろうじょうにはさだかん17ねん875ねん)のさくである国宝こくほう梵鐘ぼんしょうさんぜっかね」がかる[15]
  • 和気わけこう霊廟れいびょう - 和気清麻呂わけのきよまろまつる。1935ねん昭和しょうわ10ねん)に山口やまぐちげんほら寄進きしんにより再建さいけん以前いぜんはここに護法ごほうぜん神社じんじゃがあり、和気清麻呂わけのきよまろ護法ごほうぜんしんとしてまつ1874ねん明治めいじ7ねん)にまもるおう神社じんじゃ改称かいしょうされて別格べっかくかんぬさしゃれっせられた。しかし、1886ねん明治めいじ19ねん)に現在地げんざいちである上京かみぎょう桜鶴円おうかくえんまちうつされてしまっていたため[5]和気わけこう霊廟れいびょうとして再興さいこうされた。
  • 和気清麻呂わけのきよまろはか - 1898ねん明治めいじ31ねん建立こんりゅうきざまれている文字もじ公爵こうしゃく鷹司たかつかさひろしどおりふで[16]
  • 宝蔵ほうぞう
  • ほんぼう
    • 庫裏くり
    • 書院しょいん
    • 庭園ていえん「灌頂のにわ
    • 茶室ちゃしつりょうのき」 - 1935ねん昭和しょうわ10ねん)に山口やまぐちげんほら寄進きしんによりちく
    • からもん - 昭和しょうわ初期しょき田中たなか亀太郎かめたろう寄進きしんにより建立こんりゅう[17]
    • 表門おもてもん
  • 楼門ろうもん - 寛永かんえい6ねん1629ねん再建さいけん[18]清滝川きよたきがわほとりから石段いしだん参道さんどうのぼりつめたさき正門せいもんりょうわき二天にてんぞう安置あんちする。

文化財ぶんかざい 編集へんしゅう

国宝こくほう 編集へんしゅう

 
木造もくぞう薬師如来やくしにょらい立像りつぞう
 
でん源頼朝みなもとのよりともぞう
 
絹本けんぽんちょしょく釈迦如来しゃかにょらいぞう
  • 木造もくぞう薬師如来やくしにょらい立像りつぞう
金堂こんどう本尊ほんぞんぞうだか170.6センチ、カヤざいいち木造もくぞうくちびるしゅを、まゆひとみなどにすみるほかは彩色さいしきなどをほどこさない素木しらき仕上しあげのぞうである。ほそめた森厳しんげんちんうつな表情ひょうじょう体躯たいくのボリュームかんは、したしみよりも威圧いあつかんものあたえる。図式ずしきてき観念かんねんてきととのえられたころもぶんなどに平安へいあん時代じだい初期しょき特有とくゆう様式ようしきられる。下半身かはんしんでは両脚りょうきゃくあいだに「U」字形じけいころもぶんたて連続れんぞくさせ、その左右さゆう平滑へいかつめんをつくって大腿だいたいのボリュームを強調きょうちょうしているが、こうしたころもぶん形式けいしき平安へいあん時代じだい初期しょき如来にょらいぞうおおられるものである。図像ずぞうてきには、くすりつぼ左手ひだりて垂下すいかさせずむねあたりまでげるてんと(ただしりょう手先てさきこう)、右肩みぎかたから右腕うわんにかけて「よこ」とぬのをかけるてんなどが特色とくしょくである。『神護かんごてら略記りゃっき』に引用いんようするひろしひとし年間ねんかん810ねん - 824ねん)の資財しざいちょうに「まゆみぞう薬師くすし仏像ぶつぞういち」とあるのがほんぞうたり、神護かんごてら前身ぜんしん寺院じいんであるかみねがいてらまたは高雄たかお山寺やまでらのいずれかにあったぞうおもわれるが、どちらのてらぞくしていたぞうであるかについては定説ていせつがない。なお、りょうわきさむらい日光にっこう月光げっこう(がっこう)菩薩ぼさつ立像りつぞう重要じゅうよう文化財ぶんかざい)はこう部分ぶぶんおおく、薬師くすしぞうとは作風さくふうことなっている。日光にっこうぞうこしからうえ月光げっこうぞうひざからうえこうである。また、ご本尊ほんぞん両側りょうがわには室町むろまち時代じだいつくられた十二神じゅうにしんしょうぞうならんでいる。
  • 木造もくぞうだい虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ坐像ざぞう
多宝塔たほうとう安置あんち五大ごだい虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ密教みっきょう五智ごち如来にょらい変化へんかとされる。曼荼羅まんだらなどの画像がぞうでは法界ほうかい虚空蔵こくぞうしろ)を中心ちゅうしんに、ひがしみなみ西にしきたにそれぞれ金剛こんごう虚空蔵こくぞう)、たからひかり虚空蔵こくぞうあお)、蓮華れんげ虚空蔵こくぞうあか)、ごうよう(ごうよう/ごうゆう)虚空蔵こくぞうくろ)をはいするが、神護かんごてら多宝塔たほうとうないでは現状げんじょうかってみぎからたからひかり虚空蔵こくぞう蓮華れんげ虚空蔵こくぞう法界ほうかい虚空蔵こくぞうごうよう虚空蔵こくぞうきむつよし虚空蔵こくぞうじゅんよこいちれつまします。かくぞう左手ひだりてさとりの障害しょうがいとなるさんどくちくさん鈷鉤(さんここう)をつ。右手みぎて法界ほうかい虚空蔵こくぞうだいいちゆびをつくるしるしむすび、の4ぞうたからひかり虚空蔵こくぞう火焔かえん宝珠ほうしゅ蓮華れんげ虚空蔵こくぞう蓮華れんげごうよう虚空蔵こくぞうが羯磨(かつま)、きむつよし虚空蔵こくぞう独鈷とっこきね(とっこしょ)をそれぞれつ。史料しりょうからうけたまわ和年かずとしあいだ(834 - 848ねん)のみやつこぞう推定すいていされている。本尊ほんぞん薬師如来やくしにょらい立像りつぞう同様どうよう平安へいあん時代じだい初期しょき作品さくひんだが、作風さくふうおだやかで、技法ぎほうことなっている。基本きほんてきにはいち木造もくぞうだが、表面ひょうめんにはあつ乾漆かんしつげ、彩色さいしきおこなっている。ほんぞう通常つうじょう非公開ひこうかいであるが、毎年まいとし5がつと10がつかく3日間にちかんほど公開こうかいされる。
  • むらさきあや金銀きんぎんどろりょうさかい曼荼羅まんだら高雄たかお曼荼羅まんだら) - 1954ねん3がつ指定してい
9世紀せいきりょうさかい曼荼羅まんだらで、通称つうしょう高雄たかお曼荼羅まんだら彩色さいしきほんではなく、紫色むらさきいろめた綾地あやじ金銀きんぎんどろえがいたものである。損傷そんしょう甚大じんだいながら、空海くうかい在世ざいせいさくで、空海くうかいとうから請来しょうらいした曼荼羅まんだら原本げんぽんから様式ようしきもっともよくしめすものとされ、美術びじゅつ史上しじょう仏教ぶっきょう史上しじょう貴重きちょう作品さくひんである。画面がめん寸法すんぽうは胎蔵曼荼羅まんだらたて448.0センチメートル、よこ408.0センチメートル、金剛こんごうかい曼荼羅まんだらたて409.0センチメートル、よこ368.0センチメートル。入唐にっとうそう空海くうかい長安ながやす恵果けいかから宮廷きゅうてい画家がかしんらの製作せいさくした曼荼羅まんだらすうてん根本こんぽん曼荼羅まんだらばれる彩色さいしきりょうさかい曼荼羅まんだら)をおくられ日本にっぽんかえり、密教みっきょう儀礼ぎれいもちいられていたという。根本こんぽん曼荼羅まんだらひろじん12ねん(821ねん)に転写てんしゃほん製作せいさくされ根本こんぽん曼荼羅まんだらとともに東寺とうじ所蔵しょぞうされていたが、とも現存げんそんしていない。高雄たかお曼荼羅まんだらてんちょう後半こうはんだい根本こんぽん曼荼羅まんだらもしくはだい一転いってん写本しゃほんもと製作せいさくされたもので、『神護かんごてら略記りゃっき』にれば淳和天皇じゅんなてんのう御願ごがんによるものという。平安へいあん時代じだい後期こうきには京都きょうと蓮華れんげおういんおさめられ、高野山こうのやま文覚もんがくにより神護かんごてら灌頂どうもどされたという。
  • 絹本けんぽんちょしょく釈迦如来しゃかにょらいぞう - 1952ねん3がつ指定してい
平安へいあん時代じだい末期まっき仏画ぶつが通称つうしょうは「あか釈迦しゃか」。画面がめん寸法すんぽうたて159.4センチメートル、よこ85.5センチメートル。平安へいあん時代じだいには密教みっきょう阿弥陀あみだ信仰しんこう興隆こうりゅうにより釈迦しゃか信仰しんこう低迷ていめいしていたが、一方いっぽう天台宗てんだいしゅう中心ちゅうしんとした法華経ほけきょうにおいては釈迦如来しゃかにょらい重要じゅうようされ、ほんぞう法華経ほけきょう仏事ぶつじにおいてもちいられたどく尊像そんぞうかんがえられている。あかころも釈迦しゃかぞうおおきくあらわし、着衣ちゃくい光背こうはい台座だいざなどは繊細せんさいきりきん文様もんよう彩色さいしきかざられた12世紀せいき特有とくゆう装飾そうしょくせいゆたかな表現ひょうげん特徴とくちょうとされる。「あか釈迦しゃか」の通称つうしょうがある。
  • 絹本けんぽんちょしょくでんみなもと頼朝よりともぞうでん平重盛たいらのしげもりぞうでん藤原ふじわらひかりのうぞう
これらの肖像しょうぞうのモデルについては、てら根本こんぽん史料しりょうである『神護かんごてら略記りゃっき』の記述きじゅつなどをもとにみなもと頼朝よりとも平重盛たいらのしげもり藤原ふじわらひかりのうとされてきたが、確証かくしょうがないため、国宝こくほう指定してい名称めいしょうにも「つて」のされている。従来じゅうらい、12世紀せいきごろ作品さくひんで、作者さくしゃ名手めいしゅ藤原ふじわら隆信たかのぶとされてきたが、制作せいさく年代ねんだい南北なんぼくあさ時代じだいまで下降かこうさせ、ぞうぬしについても足利尊氏あしかがたかうじ直義ただよし義詮よしあきらではないかとするせつもある。
  • 絹本けんぽんちょしょく山水さんすい屏風びょうぶ(せんずいびょうぶ)
平安へいあん時代じだいまつから鎌倉かまくら時代じだい初期しょきさく密教みっきょう修法しゅほうさい道場どうじょうてた屏風びょうぶである。
  • 梵鐘ぼんしょう
さだかん17ねん875ねん)のさくかね表面ひょうめんされた長文ちょうぶん銘文めいぶんは、文人ぶんじんたちばなひろしょうを、菅原すがわらただしぜん道真みちざねちち)がめいつくり、歌人かじん能書のうがきでもあった藤原ふじわら敏行としゆきいたもので、当代とうだい一流いちりゅう文化ぶんかじん3にんかかわっていることから、古来こらいさんぜっかね」としょうされている[ちゅう 1]。2かいての鐘楼しゅろうろうじょうかっており、一般いっぱんには公開こうかいされていない。
  • 灌頂れきめいこう宇多天皇うだてんのう宸翰しんかんほどこせいれじょう
ひろじん3ねん812ねん)、空海くうかい神護かんごてら前身ぜんしんである高雄たかお山寺やまでらで灌頂の儀式ぎしきおこなったさいの受者の名簿めいぼで、空海くうかい自筆じひつである。空海くうかい普段ふだん筆跡ひっせきつたえるものとして、書道しょどううえにも重要じゅうよう作品さくひん
  • 文覚もんがくよんじゅう箇条かじょう起請文きしょうもん - 1954ねん3がつ指定してい
平安へいあん時代じだい後期こうき起請文きしょうもんぜん1かん厚手あつで黄蘗きはだぜん19もとこよみ2ねん1185ねん)、内大臣ないだいじん藤原ふじわらただしおやふで中世ちゅうせい神護かんごてら再興さいこうたした真言しんごんそうである文覚もんがく起請文きしょうもんで、ぜん6起請きしょう前書ぜんしょでは神護かんごてら再興さいこういた経緯けいいしるされており、寺領じりょう経営けいえいかんする記述きじゅつ注目ちゅうもくされる。文覚もんがく松代まつだいまでの明鏡めいきょうとしてのち白河しらかわ法皇ほうおうしるし要請ようせいしており、末尾まつびには法皇ほうおう手形てがた右手みぎて)がされている。

重要じゅうよう文化財ぶんかざい 編集へんしゅう

  • 大師堂だいしどう
  • 絹本けんぽんちょしょくじゅうてんぞう ろくきょく屏風びょうぶ
  • 絹本けんぽんちょしょく真言しんごんはちぞう 8ぶく
  • 絹本けんぽんちょしょく真済しんぜい僧正そうじょうぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく足利あしかが義持よしもちぞうてらでん足利あしかが義満よしみつぞう
  • 絹本けんぽんちょしょく文覚もんがく上人しょうにんぞう
  • 木造もくぞう日光にっこう菩薩ぼさつ月光げっこう菩薩ぼさつ立像りつぞう金堂こんどう安置あんち
  • 乾漆かんしつ薬師如来やくしにょらい坐像ざぞう
  • 木造もくぞう毘沙門天びしゃもんてん立像りつぞう毘沙門堂びしゃもんどう安置あんち
  • いた弘法大師こうぼうだいしぞう大師堂だいしどう安置あんち
  • 木造もくぞう愛染明王あいぜんみょうおう坐像ざぞう やすしえんさく東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたく
  • こん金字こんじ一切経いっさいきょう神護かんごてらけい)2,317かんけいちつ(きょうちつ)202まい:くろうるしぬりけいばこ45ごう
  • 文覚もんがく上人しょうにん書状しょじょうあんろくがつじゅういちにち
  • こう宇多天皇うだてんのう宸翰しんかん寄進きしんじょうよしみもとよんねん十二月じゅうにがつじゅうにち
  • 神護かんごてら略記りゃっき
  • 二荒ふたあらさん碑文ひぶん
  • 寺領じりょう絵図えず 4ぶくしゅ殿しんがりりょう御領ごりょう小野山おのやまあずか神護かんごてらさかいしょうろん指南しなん紀伊きいこく桛田しょう紀伊きいこく神野かみのしんこくしょう足守あしもりしょう
  • 神護かんごてら絵図えず
  • 高山寺こうさんじ絵図えず
  • 神護かんごてら文書ぶんしょ 23かん、1ぶく

典拠てんきょ:2000ねん平成へいせい12ねん)までに指定してい国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい名称めいしょうは、『国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざい大全たいぜん 別巻べっかん』(所有しょゆうしゃべつ総合そうごう目録もくろく名称めいしょうそう索引さくいん統計とうけい資料しりょう)(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、2000)による。

国宝こくほう重要じゅうよう文化財ぶんかざいだい部分ぶぶん普段ふだん京都きょうと国立こくりつ博物館はくぶつかん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん寄託きたくされており、毎年まいとし5がつ(1にち - 5にちごろ)の「寺宝じほうむしばらい」行事ぎょうじさい書院しょいん公開こうかいされる。

習俗しゅうぞく 編集へんしゅう

かわらけは、このてら発祥はっしょうとされる。

境内けいだい西にし地蔵じぞういんまえ広場ひろばから清滝川きよたきがわたににしきくもけい)にけて「かわらけ」とばれる素焼すやきの円盤えんばん釉薬使つかわない土器どきせいさかずき)をげて厄除やくよとする。

三尾みお 編集へんしゅう

神護かんごてら高雄たかお西明寺さいみょうじ槙尾まきお高山寺こうざんじ栂尾つがおわせてさんび、紅葉こうよう名所めいしょとなっている。

前後ぜんご札所ふだしょ 編集へんしゅう

西国さいごく薬師くすしよんじゅうきゅう霊場れいじょう
43 神蔵かみくらてら - 44 神護かんごてら - 45 さんせんいん
仏塔ぶっとう古寺ふるでらじゅうはちみこと
6 慈尊院じそんいん - 7 神護かんごてら - 8 當麻寺たいまでら西南院さいなんいん
神仏しんぶつ霊場れいじょう巡拝じゅんぱいみち
89 大覚寺だいかくじ - 90 神護かんごてら - 91 くるまおり神社じんじゃ

所在地しょざいち 編集へんしゅう

  • 京都きょうと京都きょうと右京うきょううめはたけ高雄たかおまち5

アクセス 編集へんしゅう

京都きょうと市営しえいバス高雄たかおバス停ばすていJRバス高雄たかおバス停ばすてい下車げしゃ徒歩とほ20ふん

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ 」とはかねめい前段ぜんだん梵鐘ぼんしょう製作せいさく由来ゆらいなどを漢文かんぶんしるした部分ぶぶんし、「めい」とはそのつづ韻文いんぶん部分ぶぶんす。

出典しゅってん 編集へんしゅう

  1. ^ a b 吉江よしえたかし石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうてらそうまつ背景はいけい」『日本にっぽん歴史れきし』753ごう(2011ねん)(所収しょしゅう:吉江よしえ日本にっぽん古代こだい宮廷きゅうてい社会しゃかい儀礼ぎれい天皇てんのう』(はなわ書房しょぼう、2018ねんISBN 978-4-8273-1293-5
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 神護かんごてらホームページ 沿革えんかく
  3. ^ コトバンク 文覚もんがく
  4. ^ a b c 曽我部そがべあいよしみろくひろし年間ねんかん神護かんごてら復興ふっこう事業じぎょう高倉たかくら王家おうけ」『年報ねんぽう中世ちゅうせい研究けんきゅうだいよんごう、2015ねん所収しょしゅう:『中世ちゅうせい王家おうけ政治せいじ構造こうぞうどうなりしゃ、2021ねんISBN 978-4-88621-879-7 2021ねん、P99-135.
  5. ^ a b まもるおう神社じんじゃホームページ 由緒ゆいしょ御祭おまつりしん
  6. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p7
  7. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p7
  8. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p12
  9. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p14
  10. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p14
  11. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p16
  12. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p17
  13. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p17
  14. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p4
  15. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p4
  16. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p3
  17. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p2
  18. ^ 高雄山たかおやま神護かんごてら』p2

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

  • 井上いのうえやすし塚本つかもと善隆よしたか監修かんしゅう林屋はやしや辰三郎たつさぶろう谷内たにうちいぬいたけしちょ古寺ふるでら巡礼じゅんれい京都きょうと5 神護かんごてら』、あわ交社、1976
  • 竹村たけむら俊則としのり昭和しょうわ京都きょうと名所めいしょ図会ずえ らく西にし駸々しんしんどう、1983
  • 週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん国宝こくほう』11ごう神護かんごてら)、朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997
  • 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 京都きょうと地名ちめい』、平凡社へいぼんしゃ
  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん 京都きょうと』、角川書店かどかわしょてん
  • 国史こくしだい辞典じてん』、吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  • こう雄山ゆうざん神護かんごてら高雄山たかおやま神護かんごてら』、便利べんりどう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう