(Translated by https://www.hiragana.jp/)
尊王論 - Wikipedia

尊王そんのうろん(そんのうろん)とは、王者おうじゃとうと思想しそうのこと。もとは中国ちゅうごく儒教じゅきょう由来ゆらいし、日本にっぽんにも一定いってい変容へんようげたうえでまれた。

戊辰戦争ぼしんせんそう官軍かんぐんもちいた錦旗きんき

概要がいよう

編集へんしゅう

儒教じゅきょうにおける理念りねんで、仁徳にんとくによる統治とうち意味いみする「王道おうどう」と、武力ぶりょく策略さくりゃくによる統治とうちである「覇道はどう」を対比たいひし(孟子もうし#おう参照さんしょう)、王道おうどうとうとぶことをくのが尊王そんのうろんである。(尊王そんのう斥覇(せきは))[よう出典しゅってん]

中国ちゅうごくにおいては「王者おうじゃ」のモデルは古代こだいしゅう王朝おうちょうおうであったことからもともと「尊王そんのう」といた[よう出典しゅってん]

日本にっぽんでは当初とうしょ鎌倉かまくら時代じだいから南北なんぼくあさ時代じだいにかけて尊王そんのうろん受容じゅようされ、天皇てんのうを「王者おうじゃ」、武家ぶけ政権せいけん幕府ばくふ)を「覇者はしゃ」とみなし後者こうしゃ否定ひていする文脈ぶんみゃくもちいられ、鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうたてたけし新政しんせいへの原動力げんどうりょくとなった[よう出典しゅってん]

まくはん体制たいせいにおいては、朝廷ちょうてい幕府ばくふ制約せいやくけていたが、権威けんいてき秩序ちつじょ宗教しゅうきょうてき頂点ちょうてん存在そんざいとして位置いちづけられた。幕政ばくせい改革かいかく混乱こんらんや、異国いこくせん来航らいこうによる対外たいがいてき緊張きんちょうとう政治せいじてき混乱こんらんこると、幕府ばくふ秩序ちつじょ維持いじため大政たいせい委任いにんろん依存いぞんして朝廷ちょうてい権威けんい政治せいじ利用りようし、朝廷ちょうてい権威けんい復興ふっこうする[よう出典しゅってん]

江戸えど時代じだい中期ちゅうき国学こくがくがさかんになり、記紀きき国史こくし神道しんとうひとし研究けんきゅうおこなわれ、武士ぶし豪農ごうのうとう知識ちしきそうへもひろまる。また、天皇陵てんのうりょう修復しゅうふくや、はん皇族こうぞくむすびつける風潮ふうちょうこる[よう出典しゅってん]

幕末ばくまつには、平田ひらた国学こくがく水戸みとまなぶひとしナショナリズムとして絶対ぜったいされ、仏教ぶっきょう排斥はいせきする廃仏毀釈はいぶつきしゃくとしてもあらわれる[よう出典しゅってん]幕府ばくふしょ外国がいこく条約じょうやくむすび、鎖国さこく体制たいせいいて開国かいこくおこなうと、攘夷じょういろん結合けつごうして尊王そんのう攘夷じょうい尊攘そんじょう)となり、幕政ばくせい批判ひはん討幕とうばく運動うんどうとうへと展開てんかいしていく素地そじのひとつとなり、明治めいじ以降いこう国体こくたいろん国家こっか神道しんとうへも影響えいきょうする[よう出典しゅってん]

朱子学しゅしがくとの関係かんけい

編集へんしゅう

徳川とくがわ幕府ばくふ朱子学しゅしがく支配しはい原理げんりとして採用さいようし、官学かんがくとして、儒教じゅきょう思想しそう定着ていちゃくさせた。しかし、もともと武士ぶし争乱そうらんすえ政権せいけん奪取だっしゅした徳川とくがわ幕府ばくふは「王道おうどう」にはんする「覇道はどう」にあたるから、朱子学しゅしがくによる幕府ばくふ正統せいとう論理ろんりは、最初さいしょから矛盾むじゅんをはらんでいた[よう出典しゅってん]山鹿やまが素行そこうは、儒学じゅがくのモデルであり、当時とうじあこがれの対象たいしょうであった中国ちゅうごくあきらほろび、きよし支配しはいされて、もはや規範きはんではなくなったため、日本にっぽんこそが儒学じゅがく正統せいとうだとして、「日本にっぽんこそ中国ちゅうごくである」とろんじた。また、儒教じゅきょう思想しそう日本にっぽんへの定着ていちゃくはすなわち、中華ちゅうか思想しそうはなえびす思想しそう)の日本にっぽんへの定着ていちゃく意味いみし、近代きんだい皇国こうこく史観しかんなどに影響えいきょうあたえ、日本にっぽんばん中華ちゅうか思想しそうともいうべきものの下地したじとなった。儒教じゅきょうでは、たけ放伐ほうばつみとめるかどうかが難題なんだいとされてきたが、徳川とくがわ幕府ばくふ朱子学しゅしがくについて孟子もうしてき理解りかいち、たけ放伐ほうばつ易姓革命えきせいかくめいろんみとめており、そうすると天皇てんのう将軍しょうぐん放伐ほうばつしてよいことになるため、山崎やまざき闇斎あんさい始祖しそとするさきもん学派がくはたけ放伐ほうばつ否定ひていして、体制たいせい思想しそうとしての朱子学しゅしがくはん体制たいせい思想しそうへと転化てんかさせた。そして、従来じゅうらいおなじく中国ちゅうごく思想しそうであったものが日本にっぽんした攘夷じょういろんとむすびつき、幕府ばくふまくはん体制たいせい批判ひはんする先鋭せんえいてき政治せいじ思想しそうへと展開てんかいしていき、この思想しそう明治維新めいじいしん原動力げんどうりょくとなった。また、「昭和しょうわ維新いしん」を標榜ひょうぼうする昭和しょうわ右翼うよく二・二六事件ににろくじけん反乱はんらんぐんなどにより「尊皇そんのう討奸」というスローガンがかかげられている。

なお幕末ばくまつにおける「尊王そんのう」の対義語たいぎごとして「佐幕さばく」という言葉ことば使つかわれることがあるが[よう出典しゅってん]、「佐幕さばく」は「尊王そんのう」と矛盾むじゅんするものではなく、佐幕さばく」の対義語たいぎごはあくまで「倒幕とうばく」である[よう出典しゅってん]。なにより孝明天皇こうめいてんのう自身じしん討幕とうばくつよ反対はんたいしていたこともあり、尊王そんのうけいまく」というスタンスをしたはんもあった[よう出典しゅってん]

自由党じゆうとう尊王そんのうろん

編集へんしゅう

板垣いたがき退助たいすけは、明治めいじ15ねん(1882ねん)3がつ、『自由党じゆうとう尊王そんのうろん』をあらわし、自由じゆう主義しゅぎ尊皇そんのう主義しゅぎ同一どういつであることを力説りきせつ自由じゆう民権みんけん意義いぎいた。

尊王そんのういえおおしと雖(いえど)もわれ(わが)自由党じゆうとうごとき(尊王そんのうは)あらざるべし。忠臣ちゅうしんすくなからずと雖も、われ自由党じゆうとうごとき(忠臣ちゅうしん)はあらざるべし。(中略ちゅうりゃく)われとうわが 皇帝こうてい陛下へいかをしてえいみかどみことさかえたもたしめんとほっするもの也。(中略ちゅうりゃく)われとうふかわが 皇帝こうてい陛下へいかしんたてまつもの也。またかた我国わがくに千歳ちとせたれるるをしんずるもの也。われとうもっとわが 皇帝こうてい陛下へいか明治めいじ元年がんねんさんがつじゅうよんにち誓文せいもん(箇条かじょう誓文せいもん)、どうはちねんよんがつじゅうよんにち立憲りっけん詔勅しょうちょく、及客ねんじゅうがつじゅうにちみことのりさとししんたてまつもの也。すでわが 皇帝こうてい陛下へいかには「ひろ会議かいぎおこまん公論こうろんけっすべし」とせん(のたま)ひ、また旧来きゅうらいの陋習をやぶ天地てんち公道こうどうもとづくべし」とせん(のたま)ひたり。われとうかた(もと)よりわが 皇帝こうてい陛下へいかこれ(これ)を履行りこうし、これ(これ)を拡充かくじゅうきゅうふをしんずる也。また立憲りっけん政体せいたいなんじしゅ庶と俱(とも)に其慶こうよりゆき(たよ)らんとほっす。(中略ちゅうりゃく)すで立憲政体りっけんせいたいてさせきゅうひ、其慶こうたよらんとせん以上いじょうは、またわれとう自由じゆうあずかわれとうをして自由じゆうみんたらしめんとほっするの叡慮えいりょなることをしんずる也。(中略ちゅうりゃく)きょう客年かくねんじゅうがつひじりさとしごときあり。断然だんぜんじゅうさんねんもっ代議士だいぎし国会こっかい開設かいせつせんとあきらだんあるにおいておや。(中略ちゅうりゃく)ゆえわれとう平生へいぜい自由じゆうとな権利けんり主張しゅちょうするものことごと仁慈じんじ 皇帝こうてい陛下へいか詔勅しょうちょくしんまつり、いちてん(の)私心ししんを(も)其間にはさまざるもの也。(中略ちゅうりゃく)斯(かく)のごとくにしてわれとうは 皇帝こうてい陛下へいかしんじ、わが 皇帝こうてい陛下へいかところしたがえふて、此立憲政体りっけんせいたいけいこうたよらんとほっするもの也。(中略ちゅうりゃく)方今ほうこんささえ、魯西(ロシア)、みみいにしえ(トルコ)しょくに形状けいじょうさっすれば、其帝おう驕傲きょうごう無礼ぶれいにして人民じんみん軽侮けいぶあくたこれ人民じんみんは其帝おうかしこ懼し、あるいは怨望し雷霆らいていごとく、讎敵のごとくし、ゆえ君民くんみん上下じょうげあいだおいて曾(かつ)て其親睦しんぼく愛情あいじょうくだりはるることなし。(中略ちゅうりゃく)いまわれとうわが日本にっぽん 皇帝こうてい陛下へいか尊崇そんすうする所以ゆえん(ゆえん)は、かた(もと)よりささえみみいにしえ(トルコ)のごときをほっせざる也。まただい(おおい)に魯西(ロシア)のごときをこのまざる也。われとうわが人民じんみんをして自由じゆうみんたらしめ、わがくにをして文明ぶんめいくにくらいし、(皇帝こうてい陛下へいかを)自由じゆう貴重きちょうみんじょう君臨くんりんせしめ、無上むじょう光栄こうえいたもち、無比むひ尊崇そんすうけしめんと企図きとするもの也。(中略ちゅうりゃく)われとう平生へいぜいかた聖旨せいしほうじ、自由じゆう主義しゅぎり、政党せいとう組織そしきし、国事こくじ奔走ほんそうする所以ゆえん(ゆえん)也。乃(すなわ)ち皇国こうこく千載せんざいつたへ、皇統こうとう無窮むきゅうしだれんとほっする所以ゆえん(ゆえん)なり。真理しんりほぐせず、ときじょうさとらず、固陋ころうみずかかえりみず、妄(みだ)りに尊王そんのう愛国あいこくを唱へ、却(かえっ)て聖旨せいしたがえ(たが)ひ、立憲政体りっけんせいたい準備じゅんび計画けいかく防遏ぼうあつ(ぼうあつ)し、すめらぎりつゐて危難きなん深淵しんえんのぞまんとほっするもの同一どういつすべからざる也。われとう古今ここん尊王そんのういえおおしと雖(いえど)もわが自由党じゆうとうごとくはし、古今ここん忠臣ちゅうしん義士ぎし尠(すくな)からずと雖もわが自由党じゆうとう諸氏しょしちゅうあい真実しんじつなるに如(し)かずとため(な)す所以ゆえん(ゆえん)なり。
自由党じゆうとう尊王そんのうろん板垣いたがき退助たいすけしる

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう