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杉井ギサブロー - Wikipedia

杉井すぎいギサブロー

日本にっぽんのアニメ監督かんとく (1940-)

杉井すぎい ギサブロー(すぎい ギサブロー、本名ほんみょう杉井すぎい儀三郎ぎさぶろう(すぎい ぎさぶろう)、1940ねん8がつ20日はつか - )は、日本にっぽんアニメ監督かんとく日本にっぽん画家がか日本にっぽん映画えいが監督かんとく協会きょうかい会員かいいん日本にっぽんアニメーター・演出えんしゅつ協会きょうかい(JAniCA)会員かいいん代表だいひょうさくに『タッチ』、『銀河ぎんが鉄道てつどうよる』、『ストリートファイターII MOVIE』、『あらしのよるに』など。タツノコプロ出身しゅっしんのアニメーターの杉井すぎいきょう実弟じってい

すぎい ギサブロー
杉井すぎい ギサブロー
本名ほんみょう 杉井すぎい 儀三郎ぎさぶろう
すぎい ぎさぶろう
べつ名義めいぎ 漉田杉田すぎたみのる
生年月日せいねんがっぴ (1940-08-20) 1940ねん8がつ20日はつか(83さい
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 静岡しずおかけん沼津ぬまづ
職業しょくぎょう アニメ監督かんとく
京都精華大学きょうとせいかだいがく教員きょういん
ジャンル テレビアニメ
アニメーション映画えいが
活動かつどう期間きかん 1958ねん -
 
受賞じゅしょう
日本にっぽんアカデミーしょう
優秀ゆうしゅうアニメーション作品さくひんしょう
2006ねんあらしのよるに
そのしょう
日本にっぽんアニメ大賞たいしょうアトムしょう
1985ねんタッチ
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経歴けいれき 編集へんしゅう

静岡しずおかけん沼津ぬまづ出身しゅっしん沼津ぬまづ小学校しょうがっこう5年生ねんせい途中とちゅうまで在住ざいじゅう。1945ねん7がつ沼津ぬまづだい空襲くうしゅうにも遭遇そうぐうしている[1]小学校しょうがっこう時代じだい漫画まんがあいする「マンガ少年しょうねん」であった[2]沼津ぬまづ時代じだい末期まっきディズニーの『バンビ』につよ印象いんしょうけ、アニメーションを「一生いっしょう仕事しごとにしよう」と決意けついする[3]同年どうねん東京とうきょう転居てんきょし、原宿はらじゅく[4]当時とうじ日本にっぽんではアニメーション業界ぎょうかい就職しゅうしょくする具体ぐたいてき方法ほうほうがわからなかったため、漫画まんが目指めざそうと、中学ちゅうがく3年生ねんせいときうしおそうじもとおもむき、しかけのようなかたち弟子でしりした[5]。うしおに弟子でしりしようとした理由りゆうは、うしおの漫画まんがでは建築けんちくぶつ非常ひじょう正確せいかくえがかれていることがきだったからとしるしている。中学ちゅうがく卒業そつぎょう高等こうとう学校がっこうへは進学しんがくせず、アルバイトをしながらじゅくやうしおの自宅じたくかよっていた[5]

1958ねん新聞しんぶん掲載けいさいされていた東映動画とうえいどうがげん東映とうえいアニメーション)の求人きゅうじん広告こうこく親類しんるいおしえられたことをきっかけに、入社にゅうしゃ試験しけん応募おうぼ[6]書類しょるい選考せんこう面接めんせつ実技じつぎ試験しけん杉井すぎいによると、実技じつぎ試験しけん受験じゅけんしゃやく50 - 60にんちゅう合格ごうかくしゃは10すうにん)をて17さい東映動画とうえいどうが入社にゅうしゃ[6]養成ようせい期間きかんのち東映動画とうえいどうが長編ちょうへんだい1さくである『白蛇しろへびでん』の動画どうがスタッフとして、大塚おおつか康生やすおはん配属はいぞくされる[7]大塚おおつか康生やすおによると、『白蛇しろへびでん』の制作せいさく体制たいせいは、もり康二こうじ大工だいくはらあきらの2めい原画げんがで、そのした動画どうが原画げんが中間ちゅうかんの「セカンド」として大塚おおつから6にんが、動画どうが担当たんとうしたがえた「はん」を構成こうせいしていた[8]杉井すぎい大塚おおつかからうごかす意味いみたたまれたが、その仕事しごとぶりにせっして大塚おおつかのような原画げんがにはなれないと痛感つうかんしたという[9]杉井すぎいは「まぎれもなくひとつの挫折ざせつだった」としるしている。一方いっぽう大塚おおつかがわ著書ちょしょ当時とうじ杉井すぎいについて「たいへんなしょう」とひょうし、なん納得なっとくがいくまでえがなお仕事しごとぶりが(目標もくひょう枚数まいすう会社かいしゃから指示しじされていた状況じょうきょうでは)「理想りそう主義しゅぎとしかいいようがありませんでした」としるしつつ、のち演出えんしゅつとなって「アニメーターとして名演技めいえんぎえが機会きかいうしなってしまったのは残念ざんねんです」とむすんでいる[10]

その杉井すぎい東映動画とうえいどうが長編ちょうへん作品さくひん(『少年しょうねん猿飛佐助さるとびさすけ』『西遊せいゆう』『あん寿ひさし厨子ずし王丸おうまる』『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険ぼうけん』)にアニメーターとして参加さんかしたが、これらの作品さくひんのいずれにも興味きょうみいだくことができなかった[11]くわえて、当時とうじ東映動画とうえいどうがさかんになった労働ろうどう組合くみあい運動うんどう馴染なじむことができず、1961ねん東映動画とうえいどうが退社たいしゃする[11]当時とうじ東映動画とうえいどうが在籍ざいせきしていたりんたろうは、2009ねんのインタビューで、東映動画とうえいどうがスタッフの白川しらかわ大作だいさくから「大学だいがくそつ東映とうえい本社ほんしゃ採用さいようでなければ演出えんしゅつれない」とわれ、自分じぶん杉井すぎい東映動画とうえいどうがによる「臨時りんじ採用さいよう」だったと証言しょうげんしている[12]

東映動画とうえいどうが退社たいしゃは3ヶ月かげつほど仕事しごともしなかったが、東映動画とうえいどうが時代じだい知人ちじんである月岡つきおか貞夫さだおから、手塚てづか治虫おさむ動画どうがスタジオをつくることを紹介しょうかいされてむしプロダクション入社にゅうしゃする[13]。りんたろうは前出ぜんしゅつのインタビューで、東映動画とうえいどうが労働ろうどう組合くみあい団体だんたい交渉こうしょう条件じょうけんとして会社かいしゃがわから「ブラックリスト」とされた社員しゃいんへの懐柔かいじゅうもとめられ、そのなか杉井すぎいが「最初さいしょむしプロにったのかな」とべている[14]むしプロのだいいちさくとなった短編たんぺん『ある街角まちかど物語ものがたり』に参加さんかし、つづけて日本にっぽん最初さいしょ本格ほんかくてきテレビアニメとなった『鉄腕てつわんアトム』にもスタッフとしてくわわる。この作品さくひん手塚てづか導入どうにゅうしたリミテッドアニメ(コマすうらしたり、使用しようする)のスタイルにおおきなショックをけたと後年こうねんべている[15]むしプロでは演出えんしゅつがけるようになり、『鉄腕てつわんアトム』の演出えんしゅつ中心ちゅうしんメンバーとなった。

1964ねん出崎でさきみつる奥田おくだ誠治せいじ吉川よしかわそうらとむしプロから独立どくりつして、アートフレッシュ設立せつりつ。『悟空ごくうだい冒険ぼうけん』『どろろ』などむしプロ作品さくひんそう監督かんとく中心ちゅうしんとして活動かつどうした。

1969ねんむしプロの音響おんきょうスタッフだった田代たしろあつしあきら田川たがわすすむらとともグループ・タック設立せつりつ。このころ、『ルパンさんせい』の最初さいしょのアニメ企画きかく東京とうきょうムービーみ、パイロットフィルム原画げんが担当たんとうしている[16]詳細しょうさい後述こうじゅつ)。

1974ねん劇場げきじょうアニメ『ジャックとまめ』を監督かんとくし、テレビアニメ『まんが日本にっぽんむかしばなし』のげにたずさわったのを最後さいご放浪ほうろうたびる。平家ひらか物語ものがたりをアニメするためのプレゼンテーションをしたことが放浪ほうろうのきっかけになったという[17]。これについて杉井すぎいは、おおきなきっかけがあったわけではなく、「きまかせにアニメを生業せいぎょうとしていいのか」というおもいがきあがったためと後年こうねんしるしている[18]日本にっぽん各地かくち転々てんてんとし、「おに」をモチーフとしたを1まい500えんって生計せいけいてていた[19][20]放浪ほうろうちゅう基本きほんてきにアニメからははなれていたが、ごくたまにグループ・タックの前田まえだいさおせい連絡れんらくり、東京とうきょうのこしてきた家族かぞく生活せいかつのため、アルバイトてきに『まんが日本にっぽんむかしばなし』のコンテをっていた[21]。そのときには、旅先たびさきからコンテを送付そうふした(「杉井すぎいギサブロー」名義めいぎほか、「漉田」「杉田すぎたみのる」といった名義めいぎ使用しよう[22]

1982ねんの『まご悟空ごくうシルクロードをとぶ!!』を[23]、1983ねんあだちたかし原作げんさくのスペシャルアニメ『ナイン』で本格ほんかくてき復帰ふっきたす。『ナイン』については、放浪ほうろうちゅう旅先たびさきでたまたまあだちの漫画まんがせっして関心かんしんっていたところに、広告こうこく代理だいりてん知人ちじんから『ナイン』のアニメについて意見いけんもとめられ、「それならぼく監督かんとくをやらせてほしい」ともうたという[24]完成かんせいにはいったんたびもどったが、『ナイン』の続編ぞくへんまったため、復帰ふっきすることとなった[24]

つづけて1985ねんからそう監督かんとく担当たんとうしたあだちたかし原作げんさくのテレビシリーズ『タッチ』はだいヒットとなり、日本にっぽんアニメ大賞たいしょうアトムしょう受賞じゅしょう

2006ねんから京都精華大学きょうとせいかだいがくマンガ学部がくぶアニメーション学科がっか専任せんにん教員きょういん就任しゅうにんした。

2012ねん7がつ28にち杉井すぎいげたドキュメンタリー映画えいが『アニメ杉井すぎいギサブロー』(石岡いしおか正人まさと監督かんとく)が公開こうかいされた。

『ルパンさんせい』と杉井すぎいギサブロー 編集へんしゅう

モンキー・パンチ漫画まんがルパンさんせい』は1971ねんにテレビアニメされて以来いらい現在げんざい新作しんさくアニメが制作せいさくされる人気にんきシリーズになっているが、このアニメのきっかけをつくったのが杉井すぎいであった。杉井すぎい1969ねんの『どろろ』の放送ほうそう開始かいしまえおなじくむしプロ出身しゅっしん勝井かつい千賀雄ちかおともに、『ルパンさんせい』のアニメ企画きかく東京とうきょうムービーんだ。東京とうきょうムービーは、『ルパンさんせい』を劇場げきじょうよう長編ちょうへんアニメとして東宝とうほうむことになり、1969ねんごろに『ルパンさんせい パイロットフィルム』が制作せいさくされ、杉井すぎい将棋しょうぎのシーンとみね不二子ふじこのダンスシーンの作画さくが担当たんとうした。『ルパンさんせい』は1971ねんにテレビアニメとしてアニメ実現じつげんし、以後いごなんさくつくられたが、杉井すぎいながくスタッフとして参加さんかすることはなかった。しかし、四半世紀しはんせいき以上いじょうった1996ねんになって、『金曜きんようロードショー』のわくでテレビスペシャル『ルパンさんせい トワイライト☆ジェミニの秘密ひみつ』を監督かんとく放送ほうそうさいには『金曜きんようロードショー』で映画えいが解説かいせつ担当たんとうする映画えいが評論ひょうろん水野みずのはるろうによって企画きかくしゃだった事実じじつ紹介しょうかいされていた。

作風さくふう 編集へんしゅう

30さいさかい映画えいがつくかたわったと明言めいげんしており、それまでは、演出えんしゅつのイメージがえがかれたコンテを、制作せいさく現場げんばがどこまで再現さいげんできるかが重要じゅうようであるとかんがえていたが、かかわるスタッフや制作せいさく状況じょうきょうによって映画えいがづくりは変化へんかしていくものであり、変化へんかすることはわるいことではないとかんがなおし、『銀河ぎんが鉄道てつどうよる』を制作せいさくして実感じっかんした経験けいけんから、脚本きゃくほんコンテは決定けっていばんではなくいちおうの(かり)にぎず、企画きかくにプロデューサーと監督かんとくさだめたコンセプトから逸脱いつだつしないかぎり、制作せいさくする現場げんばのスタッフたちによってイメージを流動的りゅうどうてきえてが、結果けっかとして熱気ねっきびたきた映画えいがつながるとかたっている。また杉井すぎいは、このつくかた実写じっしゃ映画えいがこりがちで、アニメの制作せいさく現場げんばではやりにくいとしながらも、完成かんせいした場面ばめんにはかかわった人間にんげんおもいがめられるため、あるしゅ魅力みりょく形作かたちづくられるとして、完成かんせいされた破綻はたんすくない映画えいがよりも、多少たしょう破綻はたんびた映画えいがほうが、熱気ねっきびてひと感動かんどうさせられるのではないか、という気持きもちをつよっているとべている[25]

発言はつげん 編集へんしゅう

娯楽ごらく映画えいがかんして 編集へんしゅう

娯楽ごらく映画えいがについて、「つくほう真剣しんけんつくらないと駄目だめだよね。この真剣しんけんさが熱気ねっきかもしてくると、面白おもしろ娯楽ごらく映画えいがができるんですよ」とかたり、日本にっぽん娯楽ごらく映画えいが衰退すいたいした原因げんいんとして、つくしゅがわおおくが、所詮しょせん見世物みせもの勘違かんちがいをして、あそびの姿勢しせいつくった結果けっかだと指摘してきしている。また、メッセージせいつよ文芸ぶんげいぶつはテーマがわかりやすく、娯楽ごらく映画えいがよりつくるのが容易ようい評価ひょうかされやすいとして、「娯楽ごらくぶつというのは、どんなにメッセージがおおくても、つまんないとわれたらわりですよ。だからむずかしいとおもうな。面白おもしろいとおもわせてなんぼだから」と娯楽ごらく映画えいがつくむずかしさをべている[26]。また、日本にっぽんのこさない娯楽ごらく映画えいが不得意ふとくいであり、米国べいこくのハリウッド映画えいがすべてをられていると断言だんげんしたうえで、「アニメなら日本にっぽん映画えいがだってそれができるとおもう」と発言はつげんしている[27]

ゲームの映画えいがかんして 編集へんしゅう

ゲームが原作げんさく映画えいがについて、リアルな情感じょうかん映画えいがなか存在そんざいかんつことが重要じゅうようだといたうえで、「ているあいだ一生懸命いっしょうけんめいる。えればなにのこさなくてい」「映画えいがかんたらわすれていい。ゲームをえたような後味あとあじ爽快そうかいかんしいんです」とかたって、ゲームをプレイする感覚かんかくおな気分きぶんひたれる作品さくひんづくりを心掛こころがけることが、ゲームの映画えいがいて必要ひつようだとしている[28]

自作じさくかんして 編集へんしゅう

自身じしん監督かんとくした映画えいがについて、「わったのちのこ映画えいがのこさない映画えいががあるとおもうんです」と指摘してきして、『銀河ぎんが鉄道てつどうよる』については、「のちなんまでも、あれなにだったんだろうとのこるものがある。解決かいけつしていないことに意味いみがある」とかた一方いっぽうで、『ストリートファイターII MOVIE』については、その対極たいきょくにあるとして、「後味あとあじがさらっと、わったらなにのこさない、カラッとした娯楽ごらく」とかたっている[29]

アニメの質感しつかんかんして 編集へんしゅう

「アニメーションはですから、質感しつかんがないですよね」と指摘してきしたうえで、アニメ監督かんとく仕事しごとは、そのアニメに如何いかにして質感しつかん肉付にくづけするかにあるとして、「表現ひょうげん方法ほうほうは、せんえがかたうごかしかた様々さまざまですが、ぼくおと質感しつかんもとめるタイプなんですよね」と発言はつげんしている[30]

映画えいがのソフトかんして 編集へんしゅう

映像えいぞう作品さくひんくまで、発表はっぴょうした媒体ばいたいったかたちであるべきという趣旨しゅし発言はつげんをしており、劇場げきじょう作品さくひんのソフトについては、「映画えいがのミニチュアというかたちひととどけられるのが一番いちばんいい」「映画えいがてるんだなという感覚かんかくのこほういですね」とべている[31]

評価ひょうか 編集へんしゅう

富野とみのゆかりゆう 編集へんしゅう

アニメーション監督かんとく富野とみのゆかりゆうは、「映像えいぞうたいする感性かんせいはばひろい。日本にっぽんのアニメかい一番いちばん才能さいのうのあるひと本能ほんのうてきにアニメの語源ごげんてき意味いみところちかづいているシャーマンみたいなひとです」としながら、これらの部分ぶぶんおおくは宮崎駿みやざきはやおってかれ、不当ふとう評価ひょうかているとして、「杉井すぎいアニメは宮崎みやざきアニメより頭抜ずぬけている」と断言だんげんしたうえで、『タッチ (漫画まんが)』のテレビアニメによる復活ふっかつげきや、アニメ劇場げきじょうばん銀河ぎんが鉄道てつどうよる』の批評ひひょうてき成功せいこう自分じぶんごとのようによろこんで、「銀河ぎんが鉄道てつどうよるていなかったら、アニメのことをしゃべっちゃいけません」と明言めいげんしている[32]

おも作品さくひん 編集へんしゅう

ドキュメンタリー映画えいが 編集へんしゅう

2012ねん7がつ28にち公開こうかい杉井すぎいギサブローについてのドキュメンタリー映画えいが監督かんとく石岡いしおか正人まさと

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

  • 杉井すぎいギサブロー『アニメと生命せいめい放浪ほうろうと 「アトム」「タッチ」「銀河ぎんが鉄道てつどうよる」をながれる表現ひょうげん系譜けいふ
ワニブックス〈PLUS新書しんしょ〉、2012ねん企画きかく構成こうせい藤津ふじつ亮太りょうた
  • 大塚おおつか康生やすお作画さくがあせまみれ 改訂かいてい最新さいしんばん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅんジブリ文庫ぶんこ〉、2013ねん

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

  1. ^ 杉井すぎい、2012ねん、p15
  2. ^ 杉井すぎい、2012ねん、p49
  3. ^ 杉井すぎい、2012ねん、pp.50 - 53
  4. ^ 杉井すぎい、2012ねん、p55
  5. ^ a b 杉井すぎい、2012ねん、pp.56 - 59
  6. ^ a b 杉井すぎい、2012ねん、pp.59 - 65
  7. ^ 杉井すぎい、2012ねん、p69
  8. ^ 大塚おおつか、p.66 - 67
  9. ^ 杉井すぎい、2012ねん、pp.86 - 90。
  10. ^ 大塚おおつか、p.73。このページには大塚おおつか杉井すぎいらとともにうつった写真しゃしん掲載けいさいされている。
  11. ^ a b 杉井すぎい、2012ねん、pp.70 - 72
  12. ^ スタジオゆう編著へんちょ)『PLUS MADHOUSE 4 りんたろう』キネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、2009ねん、p.29
  13. ^ 杉井すぎい、2012ねん、pp.72 - 73
  14. ^ 『PLUS MADHOUSE 4 りんたろう』p.31
  15. ^ 杉井すぎい、2012ねん、pp.92 - 95
  16. ^ 杉井すぎい、2012ねん、p235
  17. ^ 文化庁ぶんかちょう (2009ねん8がつ1にち). “Animation Meister - Vol.6 杉井すぎいギサブロー”. 文化庁ぶんかちょう. 2009ねん8がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2017ねん2がつ5にち閲覧えつらん
  18. ^ 杉井すぎい、2012ねん、p114
  19. ^ 杉井すぎいギサブローインタビュー | VIPO - 映像えいぞう産業さんぎょう振興しんこう機構きこう
  20. ^ 杉井すぎい、p116
  21. ^ 杉井すぎい、2012ねん、p151
  22. ^ 漉田」「杉田すぎたみのる」は、監督かんとく前田まえだいさおせいとプロデューサーの中田なかた実紀みきゆうとの共同きょうどうペンネーム。で、明日あしたの「まんが日本にっぽんむかしばなし」ミニ情報じょうほう。 - 『まんまさどう便たよ左記さきのリンクには記載きさいされていないが、「漉田表記ひょうきかい存在そんざいし、これも同様どうようさんにん共同きょうどうペンネームであるとおもわれる。
  23. ^ ただし、『アニメと生命せいめい放浪ほうろうと』ではこの作品さくひんへの参加さんかについて、巻末かんまつりゃく年譜ねんぷふくめて一切いっさいれられていない。
  24. ^ a b 杉井すぎい、2012ねん、pp.150 - 155
  25. ^ 『ロマンアルバム 映画えいが「ストリートファイターⅡ」 華麗かれいなるはるうらら世界せかい』、1994ねん11月15にち発行はっこう、アニメージュ編集へんしゅうへん徳間書店とくましょてん、P40~41
  26. ^ 『コミックボンボン95 完全かんぜん保存ほぞんばん STREET FIGHTERⅡ THE MOVIE Perfect Album』、1994ねん11月30にち発行はっこう講談社こうだんしゃ、P90
  27. ^ 『ロマンアルバム 映画えいが「ストリートファイターⅡ」 華麗かれいなるはるうらら世界せかい』、1994ねん11月15にち発行はっこう、アニメージュ編集へんしゅうへん徳間書店とくましょてん、P42
  28. ^ 『ロマンアルバム 映画えいが「ストリートファイターⅡ」 華麗かれいなるはるうらら世界せかい』、1994ねん11月15にち発行はっこう、アニメージュ編集へんしゅうへん徳間書店とくましょてん、P42
  29. ^ 『ロマンアルバム 映画えいが「ストリートファイターⅡ」 華麗かれいなるはるうらら世界せかい』、1994ねん11月15にち発行はっこう、アニメージュ編集へんしゅうへん徳間書店とくましょてん、P42
  30. ^ 『コミックボンボン95 完全かんぜん保存ほぞんばん STREET FIGHTERⅡ THE MOVIE Perfect Album』、1994ねん11月30にち発行はっこう講談社こうだんしゃ、P91
  31. ^ 『コミックボンボン95 完全かんぜん保存ほぞんばん STREET FIGHTERⅡ THE MOVIE Perfect Album』、1994ねん11月30にち発行はっこう講談社こうだんしゃ、P91
  32. ^ 『キネしゅんムック 富野とみのゆかりゆう ぜん仕事しごと』、1999ねん6がつ9にち発行はっこう株式会社かぶしきがいしゃキネマ旬報社きねまじゅんぽうしゃ、P59。
  33. ^ “どろろ”. 手塚てづか治虫おさむ公式こうしきサイト. https://tezukaosamu.net/jp/anime/37.html 2016ねん5がつ6にち閲覧えつらん 
  34. ^ ガラスの仮面かめん”. エイケン オフィシャルサイト. 2016ねん6がつ11にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう